磯 博康(大阪大学大学院医学研究科社会環境医学講座公衆衛生学)
わが国では1960年代以降の高血圧管理や生活環境の改善により、壮年層の脳卒中、とり わけ脳出血が減少し、日本人の平均寿命の延伸に大きく寄与した。これは、わが国におけ る社会経済の発展とともに、健診を主体とした保健医療システムの、世界的にもまれにみ る成果である。
しかし一方で、欧米諸国を凌駕する超高齢社会を迎え、高齢者での脳梗塞、心疾患の増 加といった新たな健康問題が出現している。現在、脳卒中、心疾患、高血圧の主要循環器 病は、死因の4割を占め、国民医療費の2割(5兆円)を占めている。さらに死亡統計上 現れ難いが、脳卒中・動脈硬化症との合併症としての、高齢者の痴呆、寝たきりは、患者 並びに家族のADL・QOL低下に加えて経済的負担に拍車をかけている。したがって、主要循 環器病の数%予防できれば、大きな医療費削減、社会負担の軽減につながる。
これらの社会問題に対処するためには、急速に変化する日本人の生活習慣、病態・疾病 を世代ごとにとらえるといった研究にとどまらず、小児期から老人期の生涯にわたる一次 予防(病態・疾病の発現予防)並びに高齢者の病態・疾病の進行遅延と介護予防を進め、
これらの予防プログラムの効果分析・医療経済評価とともに、有効なプログラムを統合し て推進する技術の開発、普及を進める必要がある。
海外における循環器疾患予防プログラムとして、フィンランドのノースカレリアプロジェ クト(国立公衆衛生研究所)、米国のミネソタ・ハートヘルスプログラム(ミネソタ大学)が 世界的に有名であるが、いずれもわが国で多発する脳卒中ではなく、いまだ発症率の低い心 筋梗塞の予防に焦点を当てたものである。
日本人の循環器疾患の特徴としては、1)欧米に多発している虚血性心疾患は 1/4 から 1
/10 と少なく、逆に脳卒中が数倍多いこと、2)脳卒中のなかでも脳出血の占める割合が多 いこと、そして、その背景には、高血圧の有病率が高く、血清総コレステロール値が低い状 態と関連する生活習慣(食塩の過剰摂取、動物性脂肪・蛋白質の摂取不足)が関与している ことが挙げられる(1-3)。
そして、地域での長期的な脳卒中予防プログラム(高血圧の予防・管理、減塩と栄養のバ ランスの改善)が、脳卒中の発症抑制に有効であることが、対照地域との比較により世界で 初めて示されている(4)。
これらの成果は、国の保健行政政策として、労働安全衛生法、老人保健法に基づく、健診 やその後の保健指導システムとして結実した。
しかし、そのシステムをより効果的・効率的に運用するには、いまだ多くの課題が存在す る。たとえば、中小企業の勤務者や一般住民の健診の受診率は全国的には 40%以下であり、
法によって国民の健康増進、疾病予防のための個人の努力と行政的支援を謳う一方、高齢社 会への保健・福祉対応として介護保険を開始した。しかしながら、これらの行政施策を効果 的に進めるための具体的方法論は十分ではなく、今後の施策の修正と充実のため、予防介入 プログラムとその効果的運用のための社会技術の開発が強く望まれている。特に地方自治体 においては、限られた予算と人員でのより効果的な予防が求められている。
全国レベルで予防対策をさらに浸透させるためには、1)一般国民、2)保健に関する住 民組織、並びに3)保健医療福祉関係者(医師、保健師、看護師、栄養士、作業・職業療法 士、ソーシャルワーカ-等)のそれぞれの集団に対して、循環器予防に関する的確な健康教育 キャンペーンを進め、お互いの交流を深めることにより、健診の受診率を高め、その後の生 活改善・医療へのコンプライアンスを向上させることが肝要である。これによって、より徹 底した循環器疾患の予防と効率的な福祉運用が可能となる。この目的の達成のため、以下の 予防対策の評価研究が必要となる。
1)循環器疾患、動脈硬化性痴呆、介護の予防介入
予防介入地域とコントロールとしての対照地域(近隣の同一医療圏地域)を設定し、循 環器疾患、動脈硬化性痴呆、介護状態の発生率を比較分析する。予防介入プログラムは、
心理行動医学・生涯教育学的アプローチを取り入れ、小児期(嗜好・生活習慣の形成期)、 青年期(ヘルスリスク行動期)、成人期(生活習慣の固定期)、老人期(生活習慣・行動の制限 期)の各世代における、喫煙予防、運動、休養・睡眠、食生活に関する教育プログラムの実 施とその効果判定を行う。
2)予防介入の医療経済学的評価
各種予防介入プログラムにおいて、直接経費のみでなく間接経費を含めたコストと効果 (effectiveness)、便益(benefit)を算出し、医療経済的評価を行う。また、それらのプログ ラムを総合した地域全体の医療費の削減効果を分析する。
3)予防対策の普及のための情報センターの設置
予防介入プログラムのプロセスと成果をデータベース化し、全国の保健医療福祉関係者へ の予防対策の具体的方法の伝達、一般国民への健康情報の公開、さらに県、国への政策提言 を提供する情報センターを Web 上に創設する。特に予防対策の具体的方法論に関しては、1)
地域全体を対象とした健康教育キャンペーンの実施方法、2)地域住民参加の促進方法、3)
保健・医療・福祉の連携、4)個人別アプローチと集団アプローチの組み合わせ法、5)予 防対策の目標設定と評価方法、6)予防対策の包括的な運営方法、に重点を置いた情報提供 を行う。そして、全国の地方自治体への健康日本 21 の目標設定、修正、評価の助言・支援 につなげる。
これらの研究成果は、わが国のみならず諸外国、特に今後高齢化が急速に進むとされる中 国等のアジア諸国における予防政策のエビデンス形成に貢献するものと期待される。
文献
1. Shimamoto T, Komachi Y, Inada H, Doi M, Iso H, Sato S, et al. Trends for coronary heart disease and stroke and their risk factors in Japan. Circulation 79:503-515,
1989.
2. Iso H, Jacobs DR Jr, Wentworth D, Neaton JD, Cohen JD. Serum cholesterol levels and six-year mortality from stroke in 350,977 men screened for the Multiple Risk Factor Intervention Trial. N Engl J Med 320:904-910, 1989.
3. Iso H, Sato S, Kitamura A, Naito Y, Shimamoto T, Komachi Y. Fat and protein intakes and risk of intraparenchymal hemorrhage among middle-aged Japanese. Am J Epidemiol 157:32-39, 2003.
4. Iso H, Shimamoto T, Naito Y, Sato S, Kitamura A, Iida M, et al. Effects of a long-term hypertension control program on stroke incidence and prevalence in a rural community in northeastern Japan. Stroke 29:1510-1518, 1998.