大前 和幸(慶應義塾大学医学部衛生学公衆衛生学)
ILOによると、世界で年間 110 万人にのぼる労働災害死者中およそ四分の一が有害物質へのばく露 に起因し、交通事故や戦争の犠牲者数を上まわると推定されている。わが国では、長年の職業中 毒研究により、労働環境の改善や職業中毒の予防等に大きな成果を挙げ、化学物質による業務上 疾病の発生は横這いで推移しているが、「塵肺肺がん」が認定されるようになった塵肺や石綿肺 等の長期曝露による慢性影響の発生については、近未来に増加するという予測もあり予断を許さ ない。
一方で、半導体産業やナノテクノロジーに代表される産業構造の変化に伴い導入された新規化 学物質や既存化学物質の新規使用による新たな職業中毒が発生している。1995 年に発表された CFC-113 代替洗浄剤 2-ブロモプロパン(2-BP)による生殖毒性(不可逆性、女性では卵胞障害、男性 では精祖細胞障害)・造血毒性、1998〜2000 年に発表された CFC-12 代替冷却剤 2,2-ジクロロ -1,1,1-トリフルオロエタン(HCFC-123)による急性中毒性肝炎、2003 年に発表された液晶パネル 透明導電膜材料インジウムのセラミクス(ITO)による間質性肺炎は記憶に新しい。2-BP は健康影 響情報がなかった既存化学物質、HCFC-123 はラットを用いてほとんどすべての毒性実験を網羅し 結果陰性で上市された新規化学物質、ITO は過去に粉体としての使用経験がなかった金属であっ た。また、最近学会発表されたナノテクノロジーの主要部分を支えるカーボンナノチューブ気管 内投与動物実験では、肉芽腫性病変が観察されている。
職業中毒研究の課題と将来展望
上述した職業中毒の現状から示唆される研究課題、及び、複合曝露、遺伝的多様性による影響 の個体差等が職業性中毒研究の主要課題と考えられる。
1) 毒性情報の充実
平凡ではあるが遠い未来まで継続する研究課題である。労働環境における曝露許容限界値を作 成しようとするとき、質的・量的に十分な毒性情報がある化学物質は果たして何物質あるだろう か。日本産業衛生学会は約230化学物質の曝露限界値を勧告しているが、十分な量と質の科学 的情報に基づいている勧告値は、同学会許容濃度委員会委員長である筆者の目からみても半分に も満たないであろう。ましてや未勧告のマイナーな物質については絶望的な状況である。2-BP は その例であった。ITO についても、粉体としての吸入曝露によるインジウムの毒性情報は皆無で あった。新規化学物質については、化学物質の審査及び製造等に関わる法律(化審法)で難分解 性・蓄積性にのみ基礎的な毒性情報の提出が義務づけられるが、28 日間の毒性試験までであり不 十分である。既存・新規にかかわらず、製造・消費の動向を早期に捉え、中毒発生前に毒性情報
を創出し、リスクコミュニケーションにより中毒発生を未然防止するような研究の進展が望まれ る。例えばナノチューブやフラーレンはその先駆けになるポテンシャルがある。
2) ”mode of action”のスクリーニング法の開発
化学物質による毒性情報がヒトから得られることは稀であり、動物や細胞実験による毒性評価 試験に頼らざるを得ない。しかしこの種の試験は、その成果がヒトに外挿できなければ何ら意味 を持たない。HCFC-123 は典型的な例であり、その他ジクロロメタン、トリクロロエチレン、テト ラクロロエチレン、アクリロニトリル等の重要産業化学物質も、動物実験結果がヒトに外挿でき なかった例であった。化学物質の”mode of action”を明らかにできる生化学分析手法や分子生 物学的手法が発展してきているが、物質毎に”mode of action”を検討している余裕はない。総 合的に”mode of action”をスクリーニングできる手法が開発されれば、新たな毒性実験を実施 する場合の種の選択、既存の毒性情報利用時の種の選択が可能になり、無駄のない実験や情報の 収集に寄与することは勿論のこと、曝露限界値等の規制値の精度の格段の向上が期待できる。
3) 複合曝露による健康影響評価法の開発
労働環境における複合曝露・複合影響に関する問題意識は常に存在しているが、その研究はは ほとんどない。その最大の理由は、複合曝露による健康影響評価手法が確立していないためであ る。日本産業衛生学会は混合化学物質の許容濃度について、毒性の相加が成り立たないという証 拠が無い場合は相加すると仮定した許容濃度指標を提供しているが、この判断方法の普遍性も明 らかではない。複合曝露時の毒性・健康障害発現に関する一般法則、毒性・健康障害発現に対す る各有害因子の寄与度の定量評価法の開発、複合曝露労働者を対象とした大規模疫学研究、発が んや発生毒性に焦点を絞った複合曝露の動物実験、遺伝子欠損マウス等の高感受性動物を用いた 低濃度複合曝露の毒性検出法の開発と実用化、in vitro での複合曝露毒性検出法の開発と実用化、
免疫機能低下と発がん物質曝露の影響評価、等が主要な研究課題である。この成果は、一般環境 における複合曝露にも直ちに適用可能である。
4) 遺伝的多様性に基づく健康影響の個体差の評価
職業中毒に関する感受性の相違に遺伝的多様性が寄与すると考えることは常識となってきてお り、感受性個人差の把握に基づく健康リスク管理は、倫理的な問題に関して労使・国民の合意形 成ができれば、将来の労働衛生管理にとって不可欠になる可能性がある。疫学手法による遺伝情 報の収集、遺伝情報のリスク管理・リスクコミュニケーション法が確立されれば、遺伝的個人差 に起因するリスクを予知し回避することが可能になる。「曝露を軽減することにより職業中毒を 回避する」という産業医学の王道にはそぐわないが、例えば「感作性」のように個体差が非常に
以上重要と考えられる4つの研究課題について述べてきたが、もっとも深刻で重要な課題は、職 業中毒研究者人口の減少である。人材育成を担っている大学を中心とした機関の一層の努力が必 要である。