内山 巌雄(京都大学工学研究科都市環境工学専攻)
1. 環境中有害物質に関するリスクコミニュケーションに研究は何故必要か
リスクコミュニケーションは、リスクアセスメントと対をなすリスクマネジメントを行う上で、
なくてはならない手段のひとつであると言える。化学物質による健康リスクは世界保健機関(W HO)によって「ある化学物質の曝露により起こり得る望ましくない影響の発生の予測値」(1979) と定義されている。
わが国で、環境中の有害化学物質の環境基準の策定にあたって、このリスクの概念が取り入れ られたのは、1992 年の水道水の水質基準の改定(厚生省)、1996 年のベンゼンの大気環境基準の 制定(環境庁)が最初である。これまでのわが国の環境行政が、個別の事象に対して健康被害な どが起こって初めて因果関係を特定し、規制を行ってきたのに比べて、多種多様・広域・低濃度 長期影響・複合影響といった特徴をもつ化学物質汚染に対して、未然防止、包括的措置を念頭に 置いた環境行政への大きな転換点であったといえる。
一方 1980 年代の米国では、科学的リスクアセスメントが未発達であり、小さなリスクに対して 大きな投資を行い、かえって大きなリスクを見逃してしまったという反省から、Hazard based, Fear based な対応から Risk based への対応が求められた。また対策を取る際には行政、企業、
住民がそれぞれ合意したうえで最も効率的なリスクを削減する方策を見いだすべきであるという 考え方が生まれてきた。そこで重要視されたものがリスクコミュニケーションである。その後欧 米では、このリスクコミュニケーション研究が盛んとなり、様々な場面で使用されてきたが、必 ずしも成功しているとは言い難い面もあり、それぞれの場面に適したリスクコミュニケーション の研究が必要となっている。
2.わが国のリスクコミュニケーション研究の現状と問題点
リスクコミュニケーションの定義は、様々に定義されているが、1989 年に米国国家研究諮問機 関(National Research Council, NRC)が公表した“Improving Risk Communication”では「個 人とグループそして組織の間でリスクに関する情報や意見を交換する相互作用的プロセスである。
(リスクに関する情報および意見には)リスクの特性についての多種多様のメッセージと、厳密 にリスクについてでなくても、関連事や意見またはリスクメッセージに対する反応とかリスク管 理のための法的、制度的対処への反応についての他のメッセージを必然的に伴う」と述べられて いる1)。すなわち、リスクコミュニケーションの対象は厳密なリスクそのものだけではなく、そ の管理体制や法的対処も含めたリスクに関するあらゆる周辺情報を含んでいる。一方またこの報 告書では、リスクについての情報を公表することが、必ずしも正しい決定やよりよい決定につな がることを保証していないことも指摘していることに注意する必要がある。
わが国のリスクコミュニケーションに関する関心は、発がん性物質を含む有害大気汚染物質対
策が本格化した 1998 年頃から徐々に本格化した。前述の NRC の報告書の翻訳には筆者も参加した が、当時はリスクコミュニケーションは従来のリスクメッセージが一方通行になりがちであった のに対して、コミュニケートすなわち双方向に行うものであるという程度の理解しかなかった。
その後化学物質排出管理促進法(PRTR制度)の施行によって、リスクコミュニケーションに関 する関心が一気に高まり、化学物質のリスクコミュニケーション手法ガイド2)等が公表された。
このガイドでは、これからのリスクコミュニケーションは「関係者が相互に情報を要求、提供、
説明しあい、意見交換を行って関係者全体が問題や行為に対して理解と信頼のレベルを上げて、リ スク低減に役立てること」を目的にすべきであると述べている。このガイドは環境庁、通産省の 委託を受けた検討会の報告書をもとに(社)日本化学会がまとめたものであるが、その後 2002 年 に公表された環境省3)のマニュアルでは、「リスクコミュニケーションとは、化学物質による環 境リスクに関する正確な情報を市民、産業、行政等のすべての者が共有しつつ、相互に意思疎通 を図ること」と定義されている。このように、リスクコミュニケーションの定義の中には、関係 者が相互に意志疎通を図ることに焦点があてられたものが多く、リスク低減に貢献することが明 言されているものは少ないが、本来の目的はリスクコミュニケーションによるリスク削減であろ う。リスクコミュニケーションに関する研究は「リスク学」の中の一分野として位置づけられる と思われるが、リスクアセスメントに関する研究者がわが国ではまだ少数であると同様に、リス クコミュニケーションに関する研究は、一部の研究者を除いてほとんど専門的には行われていな い。また、これまでのマニュアル等では、健康リスクに関する記述が少ないこと、社会心理学的 な面の検討がほとんどないのが現状である。一般の消費者が知りたいことは、その化学物質によ って健康への影響はどの程度なのか、もしあるとすればそのリスクを避けるにはどうしたらいい のかという事であり、その点が情報として不足していることが多い。また、現在の環境基準は生 涯過剰発がんリスクレベルとして、当面 10―5が採用されているが、このレベルを国民がどのよう に認知しているか、またゼロリスクを求める者にはどのような特徴があるのかなど、リスクコミ ュニケーションを行う上で解決しておくべき問題点は多い。
3.リスクコミュニケーション研究の将来展望
これからの化学物質のリスク管理を行っていく上で、リスクコミュニケーション研究は欠かせ ない。この分野は化学、医学、薬学、毒性学などの基礎分野に加え、社会医学、社会心理学、教 育学、経済学、法学など学際的な人材が必要とされる分野であるが、まだまだ研究者の数は少な い。幸い最近は日本リスク研究学会を中心にリスクコミュニケーションの研究が活発化しつつあ るが、欧米で発展してきた学問は往々にして日本人の国民性に必ずしも会わないことも多い。特 に一つの正解がない環境問題に関するリスクコミュニケーションに関しては、社会医学、社会心 理学の面を重視した研究の発展が望まれる。
1. National Research Council 編、林裕造、関沢純監訳:リスクコミュニケーション前進への提 言、化学工業日報社、東京、1997.
2. (社)日本化学会リスクコミュニケーション手法検討委員会、浦野紘平[編著]:化学物質のリス クコミュニケーション手法ガイド、ぎょうせい、東京、2001
3. 環境省:自治体のための化学物質に関するリスクコミュニケーションマニュアル、2002