廣田 良夫(大阪市立大学大学院医学研究科公衆衛生学)
1.歴史と現状
1970 年代初頭には、従来世界を席巻した感染症の発生が急減したため、「感染症の時代は 終わった」と認識されるようになり、事実、世界保健機関(WHO)は 1980 年に天然痘根絶を 宣言するに至った。一方これと相前後して、WHO は 1977 年に「多くの新興再興感染症が、し かもなかには不治の感染症が、世界中に広がりつつある」と警告した。そして 1996 年に「我々 は今や、地球的な規模で感染症による危機に瀕している。最早どの国も安全ではない」と世 界保健報告で述べるに及んだ。
近年の SARS や鳥インフルエンザなどの新興感染症、および結核やマラリアなどの再興感染 症をめぐる国外・国内における動向は、人類が感染症の危機に直面していることを明示してい る。
2.疫学の関与
わが国には疫学者が少ないこともあり、主として微生物学や臨床医学を中心に感染症対策 を組み立て、それを維持してきた歴史がある。しかし感染症の予防には疫学専門知識の応用 が必須であり、近年その重要性の理解が深まっている。
1)SARS(重症急性呼吸器症候群)の封じ込め
SARS は 2002〜03 年に流行し、9 ヶ月の間に 8,000 人を超える患者と 700 人を超える死亡者 が 29 カ国で報告された。原因はもちろん疾病概念さえ確立していない初期の段階において、
また病因である SARS コロナウイルスが確認された後においても、実際の予防対策のためには
「疫学的疾病定義」が用いられた。これは「①2002 年 11 月 1 日以降の発熱(38℃以上)、② 咳または呼吸困難、および③発症前 10 日間に以下の暴露歴が1つ以上(SARS 疑い例と接触
/SARS 流行地への旅行/SARS 流行地での居住)」というものであった。
一般に特異的な実験室診断の確立が科学的優越性を与えられる傾向にある。しかし初期患 者の疫学調査をもとに確立された疫学的疾病定義によって、初めて多人数の接触者の追跡調 査や疑い例の隔離などが可能となり、封じ込めに成功したことに注目せねばならない。
2)インフルエンザワクチンの有効性
インフルエンザワクチンの発病防止効果は 70%と考えられている。これは非接種群の発病 率を 1 とすると、接種群の発病率が 0.3 に低下する(例えば、20%対 6%、10%対 3%、など)
という意味である。疫学において、この“0.3”という数値は「相対危険」、“70%”という数 値は「prevented fraction」のことである。ところが医療専門家でさえも、これを「100 人 接種したら 70 人が罹らない」と誤解している。そして冬季には 80%位がカゼ症状を経験す ることから、インフルエンザとカゼの混同とも相まって、「インフルエンザの予防接種を受け
たけれどカゼをひいた」という誤解につながり、ワクチン無効論が日本社会に深く根付いて しまった。
ワクチン無効論が台頭した間、インフルエンザの専門家と称してきた臨床家や微生物学者 は全く無力であり、1994 年には予防接種法が定める対象疾病からインフルエンザが除外され るに及んだ。疫学者が有効性を指摘し始めて、ようやく誤解が払拭されるところとなり、2001 年に予防接種法が再改正されて高齢者を中心にインフルエンザの予防接種が始まった。これ は欧米諸国から 10 年以上遅れての対策樹立であった。
3)ツベルクリン反応検査と BCG 接種
わが国では乳幼児期、小学・中学時にツベルクリン反応検査(以下「ツ反」)を行い、陰性 者に BCG を接種するという方策をとってきた。しかし 1970 年代には、ツ反を省略した BCG 直接接種の合理性(安全かつ容易)が既に確立されていた。
わが国が「ツ反」にこだわった背景には、「ツ反検診」、即ちツ反強陽性者からの結核患者 発見がある。1940〜45 年頃には 3 歳までの結核既感染率は 15%と高かったため、ツ反陽性者 は 15.5%に及び、そのうち 97.5%は真の感染者であった。しかし 2000 年頃には 3 歳までの 既感染率は 0.3%程度に低下したため、ツ反陽性者は僅か 0.8%、そのうち真の感染者は約 35%という状況になった。
乳幼児結核の 70%は患者の家族検診で発見しうるにもかかわらず、ツ反検診への過度の期 待から毎年 120 万人の乳幼児に莫大な費用をかけてツ反を行ってきた。その結果、家族検診 などの徹底が手薄になるばかりか、ツ反の判定漏れなどにより毎年 43,000 人の BCG 未接種者 を生み出してきた。
2003 年 4 月からツ反検診の中止、2005 年 4 月から乳児期にツ反を省略した BCG 直接接種が 行われることとなった。検診の科学的精度判定は疫学の専門分野であるが、「10 万人のツ反 検診で 1 人の患者を発見しうる」といった情緒的判断が優先されたため、わが国の結核対策 に 20 年以上の停滞をもたらした。
4)マラリアワクチンの開発
世界中で 22 億人がマラリア浸淫地域に居住しており、毎年 200 万〜300 万人がマラリアに よって死亡している。このような健康被害の大きさから、一刻も早いマラリアワクチンの開 発が待たれている。1990 年代中期よりマラリアワクチンの臨床試験結果が報告されるように なったが、有効性の評価が一定せず、当該ワクチンが効くのか効かないのか判らない、とい った状態が続いている。これは、①1〜3 年の臨床試験の期間に複数回の感染・発病が生じる、
②発症時の検査や 2〜4 週間隔の定期検査により血中のマラリア原虫を調べる場合、倫理上、
原虫保有者に対しては抗マラリア薬による駆除を行わねばならず、その間の1ヶ月程度は感 染の可能性が無い期間となり、そのような non-risk time が複数回生じる、などの特殊事情
病の全発生頻度を考慮して発生率(incidence rate)を算出するという手法が提議され、臨 床試験で用いられようとしている。
3.感染症の予防を達成するための疫学の役割
疫学は感染症研究から始まった学問分野である。しかし他の医学分野と同様、感染症の減 少に伴って循環器疾患や癌などの慢性疾患が研究の主たる対象となった。また環境衛生の向 上に伴い、高度の臨床医学と微生物学によって感染症対策は達成し得ると理解されるように なった。しかし近年、疫学者も感染症に対する関心を増大させつつあり、感染症予防を取り 巻く医学に新たな展開が生じたと言えよう。21 世紀における感染症との闘いに勝利するため には、ようやく芽が出てきた疫学者の参画を一層堅固なものとしていかなければならない。