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芸協の苦闘について

ドキュメント内 -戦後歌舞伎・落語興行の計量分析から- (ページ 123-126)

第2章 落語の興行分析

4. 芸協の苦闘について

2011 年末の芸協の納めの会で、末広亭社長が、芸協興行の客入りの悪さについて 言及した、という報道があった(2012 年 1 月 26 日・朝日新聞)。1984 年の鈴本と の絶縁時に続き、再度芸協興行の不入りが公然と批判されたことになるが、芸協は さらに前の時代から苦闘続きだったらしい。このような「望ましくない事実」は公 的に記録されることはほとんどないが、今回のテキストデータ化の過程で、カケブ レの余白部分に興味深い記述を発見した。

カケブレには不定期に、番組表の下部余白に事務局からの伝達事項が掲載される ことがある。落語協会のものは一貫してごく事務的な伝達に限られているが、芸協 の 1952 年頃から 1967 年頃までのカケブレには、かなり主観的な「御達し」が記載 されている(全体を通じてこの期間に限られるので、当時の事務局長の趣意かも知 れない)。この文言から、当時芸協が置かれていた状況を推察することができる。

初期の伝達は「休席届は早めに出すように」「二日以上休む場合は休席するよう に」という告知が多いのだが、53 年 3 月下席のカケブレに、以下の告知が載る。(以 下、旧字は新字に直したが、仮名遣いは原文のままである)

「三月下席 八名休席があつて上記御覧のやうに番組一杯です。 当分 新加入 を中止致します。」

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ただ、新加入中止はなし崩しになっていったらしく、後年にも度々「新加入一切 中止」が宣告されている。

最初にこの告知を読んだときには、「これ以上増へると共倒れとなります」とい う表現も時折見られることや、先述の落語協会データ集計からの知見もあり、あま り会員が多くなると「せっかく会員になったのに寄席に出られない」という人が増 えてしまい可哀相だ、という憐憫の情から「新加入中止」が決定されたのだと理解 し、さすが「和の芸協」の真骨頂だと感じ入ったのだが、落語界の戦後の歴史を通 覧した後でこれを読み返してみると、別の疑念が浮かぶ。以下、1950~60 年前後の 興味深い告知を列挙する。

53 年 8 月上席「大挙休みでも御らんのやうに好番組が出来上りました。この番組 も、不正の欠席者があると、折角の番組がバラバラとなります。大挙の休席を 各員の熱演にて、あれだけ休んでも芸術協会は大丈夫と云はれませう。」

54 年 4 月中席「無断欠席や出番を狂はせ色どりを悪るくすると・・・寄席側が不 安に思って『ノセ物』をするやうな事になります。そんな事のなきやう頑張り ませう。」

54 年 7 月上席「今回はめづらしく休みが少く、為めに従来二軒であった人が一軒 となつております。三軒歩いた人が二軒となり、これは会員が多くなった関係、

盛んに寄席に加入したがる芸能人が此頃ありますから、皆さんで断るやう協力 して下さい。」

57 年 12 月上席「高座の踊り、その他囃子は賑やかに協力しませう 席側から芸 術が地味といふのはこんなところにもありませう」

60 年 7 月下席「年中同じ芸を繰り返してゐると他から侵入者が入ります。芸術協 会は芸術協会だけで頑張りませう」

62 年 3 月上席 「八組の休席があって新宿昼夜二十人も高座に上がれない方が出 来ます。如何に新加入を中止する原因です。席側が新らしい変つた色物を欲望 してゐます。会員が怠けてゐると他から這入って来ます。奮起して下さい。」

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察するにこの時期、非会員の芸能人が、芸協興行に出演するために一時的に芸協 に入会したことにする、という手続きが罷り通っていたのではないだろうか。そし て、それを排除したい芸協事務局が、「新加入禁止」というルールを打ち出して対 抗したのではないだろうか。

ここで「侵入者」と責められているのが具体的に誰を指しているのかは判断しに くいが、このような挑戦的な文言の入ったカケブレを当の「侵入者」に送付するは ずがないので、この時期の「穏便な伝達事項しか書かれていない興行」の出演者を 見ると、複数の活弁士や音曲の柳家三亀松など、明らかに芸協の正規会員ではない 出演者が名を連ねている。しかも、往々にして深い出番を与えられるなど、待遇が 良い。

1950 年代後半の日本といえば、映画が全盛期を迎えているのに加えてテレビのカ ラー放送も開始され、実演芸人全体にとって、最大の受難の時代であった。このた め、寄席に新たな活動の場を求めた外部芸人は多数あったと思われる。さらに、そ ういった出演者が自己主張の激しい高座をして番組の流れが壊され、主催者側が不 快感を覚えるというような事態もあったのかも知れない。しかし、芸協でこれだけ の危機感が持たれていた時期の落語協会側のカケブレには、「ノセ物」と思われる ような芸人はほとんど登場していない。そもそも、この時期の落語協会興行には、

後に歌舞伎界でいう「團菊爺」同様の「志ん文爺」を生み出すほど支持の厚かった 志ん生・8 代文楽や、圓生・8 代正蔵などの大御所、さらに若手では 5 代小さん・10 代馬生など数多くの実力者がひしめいていて、とても無名の余所者が入り込む隙は ない。やはり、ここで「付け入られてしまった」芸協には、相応の弱みがあったと いうことなのだろう。

また、これらは、あくまでも内部連絡文書への非公式な書き込みではあるが、興 行の中枢部に近い人が書いたことが明白で信頼性が高く、残存記録の少ない大衆芸 能の興行史を調べるに当たり、こういった記録が貴重な資料となりうることも分か る。

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