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考察

ドキュメント内 老障介護家庭 (ページ 131-148)

第5章 第1調査: 「老障介護家庭における知的障害 のある子どもの自立」をめぐる母親の経験

第3節 考察

本調査で可視化された「老障介護家庭における子どもの自立をめぐる母親の経 験」は次のとおりである。

子どもに知的障害があるとわかった母親は、周囲の心ない言動や孤独感に押し つぶされそうになりながらも必死に耐え、子どもに向き合っていた。子どもが高 等部を卒業と、将来に不安を感じつつも、子どもとの平穏ともいえる生活を送る ようになっていった。しかし、実際には小康状態が続いていただけで、母親は年 齢を重ねながら、着実に子どもを自立させなければならない状況が迫っていた。

家庭の状況を一転させる出来事が突然訪れた母親は、自らの心身や財産を顧み ることなく、子どものためにグループホームを確保していた。子どもとの生活か ら解放され、適度な距離を保ち安堵感を抱く母親がいた一方、グループホームに 出向き、先行きが不透明な子どもの生活に関わり続ける母親がいた。

本調査で得られた結果をもとに、母親の子どもの自立をめぐる時期区分ごとの 段階的な変容プロセスについて考察していく。

第1項 「障害のある子どもの母親」としての人生を歩み始める【違和感に気付 く】

老障介護家庭における子どもの自立をめぐる母親の経験は、【違和感に気付く】

という必須通過点から始まり、早いと子どもの出産直後から数日後、遅いと子ど もが小学校低学年の頃に【障害告知を受け】ていた。母親によって第Ⅰ期から第

Ⅱ期までの期間が異なっていたのは、まず、医学的な診断を受けることへの気持 ちの迷いや戸惑いによって、受診するまでの時間に開きができたためだと考えら れる。また、妊娠中に行われる羊水検査は、1968 年に導入された出生前診断のひ とつであるが、検査の導入時期は都道府県ごとに開きがあり(土屋 2007)、妊婦 自身が羊水検査を受けるまでの意思決定にも「身体的」(高齢出産や障害児の出産 既往歴、検査所見)、「心理的」(不安や障害に対する不幸感)、「社会的」(夫や家 族、医療者)な影響を受けるといわれている(大村 2001)。つまり、母親が子ど

もを妊娠、出産した時期や地域、あるいは、母親の状況や周囲の環境によっても、

障害のある子どもの母親としての人生を歩み始める時期に差を生じさせた可能性 があるといえよう。加えて、母親が子どもを出産した当時は医療機関でも知的障 害やダウン症候群、自閉症といった障害に関する医学的な知見は乏しく、医師が 正確な診断を確定するまでに時間がかかったことも影響していたと考えられる。

特に外見からでは障害の有無が判りにくい自閉症児の場合には、外見から障害の 有無のわかりやすいダウン症児よりも診断の確定には時間を要したといえる。

この頃の母親には、子どもの自立を目指そうとする実質的な行動は伴っていな かった。にもかかわらず、母親が子どもの自立をめぐる経験を【違和感に気付く】

ところから語り始めていたのは、「普通の母親」でありたいと望みつつも、「障害 のある子どもの母親」というアイデンティティの組み換えに迫られるという、母 親の人生に危機をもたらした局面であったためだと考えられる。したがって、母 親にとっての【違和感に気付く】とは、「子どもの自立をめぐる母親の経験の始ま り」という意味合いに加え、≪知的障害かもしれないわが子に出会≫い、「『障害 のある子どもの母親』としての人生の始まり」という、より広くて深い意味合い が含まれていたといえるだろう。

第2項 【障害告知を受け】、障害のある子どもの母親になる

第Ⅱ期で、≪奔走しながら子どもに向き合≫っていた母親は、【障害告知を受け る】という分岐点を経た後、知的障害のある子どもとの向き合い方や周囲との関 わり方の違いによって、3つに大別された径路のいずれかをたどっていた。

まず、{ショック・悩みは大してな}く、自然な形で子どもを迎え入れた母親が いた。この径路をたどった母親は、子どもの知的障害に対する多少のショックや 悩みを抱えながらも、たとえ知的な障害があったとしても、まずは一人の子ども として受け止めようとする、障害への理解の度合いがもともと高かったのか、あ るいは、これまでに障害児者に接する機会があるなどして、子どもの障害に対す る抵抗がそれほど大きくなかったのではないだろうか。

二つ目の{ものすごいショック}から{一人前を目指す}へと向かう径路は、

主にダウン症児の母親がたどっていた。ダウン症児は、自閉症児やてんかんのあ

る子どもと比較して、外見から障害の見分けが付きやすい。そのため、母親は複 雑な感情を抱きながらも、早い段階から「ダウン症児の母親」として福祉事務所 や療育相談室、親の会に出向いて支援スタッフや先輩母親に悩みや不安を打ち明 けられたのであろう。多くのサポートや情報をタイムリーに得られたことで、障 害受容の促進に繋がっていったと考えられる。その後、障害があっても元気に遊 び成長している子どもたちの姿を見て、先輩母親の経験談を聞くことで、子ども の数年先の{見通しがちょっと立つ}ようになっていた。ここでも、母親に障害 児グループの活動への参加を勧めた療育相談室や親の会の影響が大きかったので はないだろうか。

また、この径路では、{ほかの子よりまし}だと思い、{自分を慰め励ます}母 親がいた。これは、ほかの子どもたちと関わる機会を通して、自分の子どもの障 害がほかの子どもたちよりも比較的軽度であることを知り、そこに望みを見出し、

自己肯定的な感情が持てるようになったと推察できる。より重度の障害を持つ子 どもの母親と比べれば、軽度の障害を持つ子どもを産んだ自分のほうが苦労は少 ないと、子どもの障害を前向きに受け止められるようになったのだろうか。それ でも、子どもの障害が軽度であろうとなかろうと、できない部分は多くあること がわかり、次第に母親は{子どもの身の丈を知る}ようになっていったのであろ う。

対照的に、三つ目の{望みが絶え}てから{スパルタ教育の鬼になる}までの 径路をたどっていたのは、主に自閉症児やてんかんのある子どもを持つ母親であっ た。このときの母親は子どもの障害を受け止めきれずにいた。その要因は、外見 からは{普通の子にしか見え}ず、子どもの障害を受け入れにくい状況にいたた めであろう。

また、母親が医療関係者や親戚の心ない言動に抵抗していた理由は、子どもを 守るとともに、悪いことをしたわけではない母親自身のことを自分で守ろうと、

自己防衛的な反応を伴った行動であったのではないだろうか。しかし、自分だけ が苦しい思いから逃れ、楽になるわけにはいかず、母親は子どもも一緒に連れて いこうと、{親子心中が頭をよぎ}ったのであろう。しばらくすると、母親は周り の人たちと自ら距離を置くようになり、今までの感情が吹っ切れたかのように{そ れでも子どもはかわいい}と子どもに目を向けるようになっていた。これは、医

療関係者や親戚は相談相手にはならないことを悟り、常にそばにいてくれる子ど もや父親、きょうだいを頼りに人生を歩んでいこうと思う母親の決意の表れであっ たのだろうか。だからこそ、{スパルタ教育の鬼にな}ってでも最善の教育を子ど もに施し、{普通の子にしか見えない}わが子を「普通の子」にしようと、すべて の労力を子どもに注ぐようになったのではないだろうか。そして、ふとした瞬間 に母親は我に返り、子どもの{ありのままを受け入れる}ようになっていく。

第Ⅱ期の終盤に差し掛かると母親は、{子どもの身の丈を知る}と{ありのまま を受け入れる}のいずれかの径路をたどるようになっていた。このときの母親は、

子どもの障害をスッと受容したかのようにも思えた。しかし、母親の語りを改め て精読してみると、{子どもの身の丈を知る}は、子どもの成長を認めながらも過 大評価することなく、親がいてこそ子どもの生活は成り立っていると考えるよう になった母親であった。他方、{ありのままを受け入れる}は、子どものできない 部分を伸ばそうと{スパルタ教育の鬼にな}ったものの、「できないものはできな い」と割り切り、子どものできる部分にだけ目を向けていこうと、子どもへの見 方や教育に対する考え方を改めた母親という違いがあった。

【障害告知を受け】たときに医師から「ダウン症児は短命」だと知らされたダ ウン症児を持つ母親は、自閉症児やてんかんのある子どもを持つ母親ほどには、

子どもの将来、特に親なき後を案じる必要は少なかったと考えられる。これは、

子どもに残された時間、つまり、子どもの余命の長さに対する認識の違いが、障 害のある子どもに対する母親の受容の仕方の違いとなって表れたのかもしれない。

そのため、ダウン症候群の子どもが、これほどまで元気に長生きできるとは想像 していなかった母親もいたことであろう。限りある時間を楽しんでもらい、一つ でも多くの自分でできる事の喜びを得てもらえればそれでいい、と考えていたの かもしれない。こうした母親は、親なき後を想定していなかった分、自立の実現 に向けて動き出すタイミングが出遅れてしまった可能性もあるのではないだろう か。

第3項 施策転換の過渡期に【将来の思いをめぐらす】

第Ⅲ期は、15 年から 30 余年と長期に及ぶ時期ではあったが、ほかの時期と比

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