第2章 知的障害者と自立
第2節 知的障害者本人を対象にした研究の可能性
近年、知的障害者を調査対象にした研究が増えてきたとはいえ、全体数からみ ればごくわずかである。Felce ら(=2002)は、知的障害者の言語領域にみられる 特有の課題として、「首尾一貫しない表現、正確さを欠く表現、黙認、提示された 設問の最後のものを選択してしまう傾向」(Felce ら=2002:73)を挙げ、それら は主観的な評価を行うときの信頼性と妥当性の課題に繋がる点を指摘している。
本研究の第6章では、知的障害者を対象にした第2調査を行う。それに先立っ て、これまでに行われてきた国内外の先行研究を概観しながら、知的障害者を調 査対象にした研究を行うための調査方法上の工夫や留意事項、調査の課題をみて いく。
第1項 事例報告
知的障害者の語りをまとめた事例報告は、過去に生活していた入所施設での生 活経験や、現在生活している寮やグループホームなどでの生活経験を取り上げた 報告が主である。これらは研究論文とはいえず、あくまでも知的障害者の声を掲 載した事例報告の形態である。
そのひとつに、グループホームや通勤寮などで地域生活を送っている知的障害 者5人の語りをまとめた事例報告(厚生省児童家庭局障害福祉課 1991)がある。
そのうちの1事例では男性の知的障害者を取り上げ、通勤寮に入寮した頃は「お 金をたくさん儲けること」「珠算の級に合格すること」「マラソンに参加すること」
といった夢を持っていたこと、新たな寮では「自由になったこと」「早く自立して 社会に出て働くこと」「生活が長く続くようにしたい」「結婚したい」といった夢 を抱くようになったことが本人の言葉で語られている(厚生省児童家庭局障害福 祉課 1991:154-155)。
また、入所施設からの地域移行を経験した知的障害者の語りをまとめた代表的 な事例報告には、「10 万人のためのグループホームを!」実行委員会(2002)によ る『もう施設には帰らない:知的障害のある 21 人の声』がある。これは知的障害
者 21 人の入所施設での経験や、寮やグループホームなどに憧れた思い、また、地 域で生活している当事者の生活実態がリアルに描かれている。
ほかに、岩橋(2008:88-96)が取り上げた思春期を境に他害行為が目立つよう になった中度知的障害者で自閉症を伴うNさんの事例がある。この事例では、親 元から離れて自立生活を始めることを歓迎する支援者たちとは違い、自立生活は 母親に噛みついた罰だと受け止めたNさんの心境が徐々に変化し、Nさんが自ら の自立生活を受け入れていくまでの過程と、そこで繰り広げられる支援が紹介さ れている。このほかにも岩橋は、4人の知的障害者の事例も取り上げている(岩 橋 2008:72-144)。
事例報告とはいえないが、厚生省(1989)が公刊した『厚生白書(平成元年版)』 には、「一生懸命働きます。できることは自分でします。できないところだけ援助 してください」という知的障害者の声が掲載され、グループホームという場が世 話人の食事提供や健康管理などで知的障害者の地域生活が支えられている生活の 場であると紹介する記述もみられる。ほかにも全国障害者問題研究会が公刊する
『みんなのねがい』や、全国手をつなぐ育成会連合会が公刊する『手をつなぐ』
にも、知的障害者の声が手記の形で掲載されている。
第2項 量的研究
(1)国内の量的研究
鈴木(2008)は、言語によるコミュニケーションが可能な知的障害者を対象に、
自己管理や自己決定能力の実態を測定する尺度を用いた研究を行っている。この 研究では、調査対象者の言語能力に応じて絵カードを使用しながら、オープンな 質問を行い、それに対する調査対象者の回答に見合った回答選択肢を調査者が記 入する方法で調査が進められている。
この鈴木の研究を除けば、知的障害者から直接得られた回答データを用いて分 析が行われた量的調査は数少ない。知的障害者が回答に加わった量的調査のひと つに、東京都内の福祉施策の充実を目指し、都内で生活している障害者を対象に した「平成 25 年度東京都福祉保健基礎調査『障害者の生活実態』」(東京都 2014)
を挙げることができる。しかし、「本人が回答」は 19.9%、「付き添いがいたが本
人が自分の意見を回答」は 26.0%と、本人からの直接回答は全体の 45.9%に留まっ ている。
このほかにも、特定非営利法人大阪障害者センターが立ち上げた障害者生活支 援システム研究会による「暮らしの豊かさと家計の実態を明らかにした調査」(障 害者生活支援システム研究会「暮らしの場研究チーム」2010)のように、本人用 の調査票への回答は原則本人とし、本人の回答が困難な場合に限って支援者、家 族というように回答者の順位を提示した調査も行われている。この調査の回答率 は 81.8%であったが、本人が直接回答した割合や、支援者や家族が本人に代わっ て回答した割合は示されていない。ただし、調査対象になった知的障害者の83.6%
は療育手帳の障害判定が「重度」であったことから、本人以外の支援者や家族に よる回答票が一定数は含まれていると推測される。
與那嶺ら(2009a)の研究では、知的障害者の自己決定の構造や本人の基本属性 との関連について、本人ではなく福祉施設の支援職員が回答したデータを用いて 分析している。この研究では、自己決定という主観的側面の測定を第三者が回答 することについて検討するところから始めている。結果的に、本来であれば「自 己決定に関する情報を直接収集することが望ましい」と、第一順位の回答者は本 人であると前置きしながら、言語能力に課題のある重度知的障害者が除外されな いという利点を考慮し、知的障害者に代わって第三者から回答を得る方法で研究 が進められている。
こうした、本人をよく知る福祉施設の職員が回答する調査方法を採用した研究 には、ほかに知的障害者の地域生活における主観的な生活の質をホームヘルパー の視点から評価した田中(2006)の研究や、支援環境と知的障害者の自己決定と の関連について明らかにした與那嶺ら(2009b)の研究などがある。田中も知的障 害者を調査対象にした主観的側面の評価測定では、質問の言い回しや形式、構造 によっては回答に偏りが生じる点を指摘している。これらの研究では、本人の主 観的な思いや意図を正確に聞き出すことの困難性を研究上の課題に挙げ、こうし た課題を乗り越えるための方法論が必要であると述べている。
(2)国外の量的研究
Emerson ら(2005)による研究は、2001 年に英国で公刊された白書『Valuing
People: A New Strategy for Learning Disability for the 21st Century』(Department of Health 2001)に盛り込まれた保健省の取り組みとして行われた実証的調査で、
知的障害者やその家族への理解を深めていくことを目的にしている。調査対象者 は 16 歳から 91 歳までの知的障害者 2,898 人で、英国でこれほどの数の知的障害 者を対象にした大規模調査が行われたのは初めてのことであった。
調査票の作成に際し、調査に参加する知的障害者へのわかりやすさが追求され、
質問文には絵や質問そのものの意味を簡単に説明した文章を併記し、「はい」「い いえ」で回答できる質問や選択肢を用いた質問に加え、複雑な質問も含んだ構成 になっている。調査への参加にあたっては、調査者が調査の説明をしたうえで、
本人に参加の意思を確認したが、調査の趣旨を十分に理解していない場合には支 援者の承諾を得て調査を行っている。
データの収集には面接調査法が採用され、調査対象者の 24%は単独で調査に応 じ、残りは家族や支援者の付き添いがあった。また、調査対象者の 46%は本人が ほとんどの質問に回答し、残りの 31%は支援者がほとんどの質問に回答、23%は 支援者とともに回答したと記述されている。面接を行う調査者に対しては、調査 対象者が質問に回答するために必要な時間を十分に確保し、調査対象者のペース で調査を進めていくこと、休憩時間も十分に確保することなどを配慮するよう求 めている。調査上の課題に関する記述はみられない。
また、Cummins(=2002)の研究では、知的障害者の主観的な生活の質を評価 する尺度として、「はい」「いいえ」の二者択一で評価可能な「生活様式満足度尺 度(The Lifestyle Satisfaction Scale:LSS)」(Heal ら 1985)や「生活の質尺度
(Quality of life Questionnaire:QOL-Q)」(Schalock ら 1993)などが紹介されて いる。Lucas-Carrasco ら(2012)の研究では、実際に知的障害者 99 人を調査対 象に、ウェルビーングを主観的に評価する「人生に対する満足尺度(Satisfaction with Life Scale:SWLS)」と個人の生活の質を評価する「短縮版 WHO-QOL(World Health Organization Quality of Life(WHOQOL)-BREF)」を用いた量的調査を 行っている。Lucas-Carrasco らは、研究上の課題に重度知的障害者は調査対象か ら除外した点を挙げつつも、知的障害者本人を対象にした主観的評価の測定は可 能であると述べている。
Lucas-Carrasco ら(2012)とは対照的な主張をするのは、Felce ら(=2002)