第 3 章 日本語の「前(まえ)」 ・ 「先(さき)」と中国語の「前(qian)」との比較
3. 空間的な意味の対照
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軌道>というスキーマとの関与の有無という相違で、上記のような状況では、仮想的な移動 の方向を言語化できるのが「先(さき)」のみということになる。
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また、観察者が前方に 3 つ縦に並んでいるボールに向かって動き始めるような場合は、両 言語とも同方向的方略に依拠し、黒いボールの前方にある対象物がボール B のほうになる。
ここで興味深いのは、この同方向的方略によって決められる前方という概念を、中国語では
「前(qian)」で言語化することができるのに対して、日本語では「前(まえ)」で言語化する ことが難しいということである。
(23) 図 3-10 のように、観察者が3つ縦に並んでいるボールに向かって移動する場合 a. 球 B 在黑色球的前面。
b. ?ボール B は黒いボールの前にある。
c. ボール B は黒いボールの先にある。
すなわち、中国語の(23a)では、前方という概念を「前(qian)」(厳密に言えば、「前面(qián miàn)」)で表すことができるが、日本語の(23b)では「前(まえ)」で表すと不自然になり、
(23c)のように「先(さき)」で言語化するのが自然である。この言語事実から、観察者が移 動しているという要因が加わると、「前(qian)」と「前(まえ)」の間には使用範囲に相違が 見られる。
(24) 花子:能把車停在那兒嗎?
そこに止めてくれませんか。
太郎:那兒不太好停車,再往前一點吧。
ちょっと止めにくいので、少し先にします。
(24)のような車の運転に関する日常会話の例でも同様のことが言える。中国語の場合で は、「前(qian)」は、太郎が同方向的方略によって、車を止めるところが花子の降りたい地点 の前方にあるという空間関係を言語化することができる。これに対して、日本語の場合では、
助手席に座っている花子が車を運転している太郎に「そこに止めてくれませんか」と言うと、
太郎は「ちょっと止めにくいので、少し先にします。」と答えている。この場面では、太郎 は移動している観察者として「そこ」という地点を参照点とし、同方向的方略に依拠して、
車を止める位置が「そこ」の前方にあると認識し、この前方を「先(さき)」で言語化してい る。すなわち、「少し前にします」というような文が文法的には可能であるにもかかわらず、
この(24)のような場面では「前(まえ)」の使用が制限されているということである。
3.2 「前(qian)」とは対応しない「前(まえ)」: 移動の傾向がある場合
観察者は実際の移動が行われなくても、参照物と対象物に向かって移動していく傾向が ある場合、「前(qian)」と「前(まえ)」とが対応しない(25)のような事例も見られる。中国語
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では、花子の「郵局在哪兒?」という問いに対して、太郎は「就在這前面。」と「前(qian)」
を用いて答えることができる。しかし、日本語では、郵便局を探している花子に「郵便局は どこですか」と呼び止められた場合、太郎は、これから郵便局の向かって歩いていく花子に、
「すぐこの先です。」というように「先(さき)」を使って答えるのであって、「すぐこの前で す」というように「前(まえ)」を使って答えると不自然になる。
(25) 花子:郵局在哪兒?
郵便局はどこですか。
太郎:就在這前面面。
すぐこの先です。
また、(25)は、観察者が工事現場に阻まれ動けなくなっているが、前方の目的地に向かっ て移動しようとする意向がある状況を示した文である。
(26) a. 前面正在修路,過不去。
b. この先は道路工事で通り抜けできない。
(『中日・日中辞典』)
この状況では、観察者は同方向的方略で、工事現場を参照点にして、目的地がその前方に あると捉え、「先(さき)」で前方を表現している。
さらに、観察者だけでなく、参照物が移動する傾向にある状況でも、同方向的方略で決め られる前方は「前(qian)」で表現できるが、「前(まえ)」で表現できない事例もある。図 3-11 は、観察者が静止したボールを打ち、ボールをカップ(穴)に入れようとしたが、ボールが途 中で止まってしまう場面を反映した事例である。
図 3-11 参照物に移動の傾向がある状況 (筆者作成)
(27) ゴルフボールがホール(穴)に入らず、途中で止まった状況 a. 球洞在球的前面。
b. ホールがボールの先にある。
c. *ホールがボールの前にある。
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図 3-11 の状況では、ボールが動いていないにも関わらず、両言語とも観察者はまだ動い ているように捉え、元の経路の延長線にホール(穴)があるように認識している。観察者は止 まったボールを参照物にして、対象物であるカップとの位置関係を把握する際に、同方向的 方略に依拠し、ボールの前方にカップがあるように把握しているということである。こうし た場面でも、「前(qian)」と「前(まえ)」が対応しにくくなっている。
3.3 「前(qian)」とは対応しない「先(さき)」:位置を示す役割
日本語の「先(さき)」には、「勤め先」や「行先」といった表現から分かるように、前方と いう空間的な概念を示すほかに、位置を表す機能がある。一方、中国語の「前(qian)」は、
空間的な用法として基本的には前方を言語化する機能のみであり、位置を示す機能をもつ のが困難である。
本節では、本論文が提案した「先(さき)」の多義構造に基づき、「先(さき)」の位置的な意 味の動機付けを分析したうえで、「前(qian)」と「先(さき)」との相違点を考察する。
「先(さき)」との位置を示す機能を分析するのに先立って、スキーマの背景化というプロ セスを概観する。スキーマの背景化という現象は、人間の言語においてはよく存在しており、
山梨 (2000: 142)では、<容器>のスキーマの背景化という事例を取り上げ、この現象を次 のように説明している。
スキーマの背景化とは、それがスキーマの実在性が薄れていくプロセスのことである。例 えば、(28a)における「穴から」という表現が示しているとおり、蛇の出所である穴という 容器が前景化されている。しかし、(28b)は、(28a)と類似して「出てきた」を含む構文であ るが、(28b)における出所が相対的に背景化されているため色がどこから出てくるのかとい うふうに、容器の想起はそれほど簡単ではない。さらに、(28b)から(28c)にいくと、月や霧 の出所を意識するのがさらに難しくなり、出所がさらに背景化されている。このような現象 を、山梨(2000)ではスキーマのブリーチングとも呼び、図 3-12 のように示すことができる。
(28) a. 穴から蛇が出てきた。
b. (Xから)いい色が出てきた。
c.{月が/霧が}出てきた。
(山梨 2000:142)
「先(さき)」がどのように位置を示す機能を持つようになったかについては、上記に取り
図 3-12 スキーマの背景化/ブリーチング
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上げられているスキーマの背景化によって説明できる。つまり、「先(さき)」の本来のスキー マでは、方向性と移動の軌道という 2 つの要素が含まれているが、この 2 つの要素が次第 にブリーチングされて、すなわち、背景化というプロセスを通して、「先(さき)」が位置を示 す機能を持つようになった、ということである。
図 3-13の位置を示す「先(さき)」において、a.の「行先」という表現では、到達点に向か う移動の経路を細長いものと見なし、「軌道」と「到達点」の部分がプロファイル化されて いる。一方、b.の「勤め先」の場合では、「到達点」の部分のみがプロファイル化され、「移 動の経路」の部分が背景化されている。それは、移動動詞の「行く」と比べ、「勤める」と いう動詞が動作を表すものとして、移動の意味合いが低く、移動の「軌道」を連想させる能 力が比較的限られているからである。また、図 3-13におけるc.の「得意先」や「取り引き 先」は移動の目的地や動作を行う場所を表すものではなく、抽象的な位置、または人間や団 体を意味する。この理由は、「移動の経路」のみならず「到達点」もさらに背景化されてい るからである。ただし、ここで強調したいのは、スキーマの背景化という過程は、決してス キーマの存在が完全に消えてしまったのではなく、相対的に薄れていくプロセスだという ことである (趙 2015: 220-231)。
(29) a. 行先をうたがうわけにゆかない。
b. 從來不打聽他所去的地方。
<CJBC>(井上靖著 『雁の寺』)
(30) a. こんど勤め先が変わった。
b. 這回工作地點改了。
(『中日・日中辞典』) 図 3-13 位置を示す「先(さき)」
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(31) a. 喜助が福井の得意先から帰ってきたのは、夕刻になってからである。
b. 喜助由福井的主顧那兒回到家中、已經過了黃昏時刻。
<CJBC>(水上勉著 『越前竹人形』)
上記における分析から分かるように、「先(さき)」は、スキーマの背景化を通して、位置を 言語化できる。しかし、中国語の「前(qian)」は、位置を言語化するのが困難である。例え ば、(29)における「行先」という表現は、行く所というように翻訳されている。この「去的 地方」という訳語は、日本語の「行くところ」にあたる。また、(30)における「勤め先」は、
「工作地點」に対応し、「地點」は日本語の「地点」と訳せ、「ところ」に相当する。(31)に おける「先(さき)」は、「那兒」と直訳でき、日本語の「そのところ」に当たる表現として 訳されている。
(29)~(31)における「先(さき)」は、それぞれ、「地方」、「地點」、「那兒」と訳され、い ずれも位置、場所に関連する概念である。これらの中国語の表現は、中国語の「前(qian)」
との置き換えが基本的には困難である。