第 4 章 日本語の「後(あと)」と中国語の「後(hou)」との比較
2.1 日本語の「後(あと)」の空間的な意味
本節では、「跡(あと)」とのつながりを重視する視座から、「後(あと)」の空間的な意味を 考察する。人や動物などが歩いて行った結果、残された足の形という「あと」の語源に照ら して、国広 (1997)と碓井 (2003)は、モノの痕跡を意味する「跡(あと)」のほうが、「後(あと)」
より「あと」の本来の意味に近く、「後(あと)」が「跡(あと)」の延長線上にあるものである と主張している。つまり、「後(あと)」は「跡(あと)」の意味に基づき、さらに拡張した結果 から生じた用法だ、ということである。本論文では、先行研究における「跡(あと)」から「後 (あと)」へという拡張の方向性について基本的に国広 (1997)と碓井 (2003)に同調するが、
「後(あと)」が「跡(あと)」から具体的にどのような性質を継承しているのかに関して、さ らに詳しく掘り下げる余地があると考えている。
まず、「跡(あと)」に含意している残存と移動という 2 つの特徴を提起し、「後(あと)」の 空間的な意味を調べることから始める。
2.1.1 「跡(あと)」の特徴:残存と移動
「船の通った跡」のような表現における「跡(あと)」は、痕跡を意味している。ここで注 意しておきたいのは、「跡(あと)」によって言語化されている痕跡が、残存 (あるいは余剰と 言ってもよい) と移動という 2 つの概念にも関与している、ということである。つまり、「跡 (あと)」は、残存と移動という 2 つの概念によって共同に構成された表現である。この説明 は当たり前のように思われるかもしれないが、「跡(あと)」という語が他の言語ではどのよ うに訳されているのかを見れば、「跡(あと)」の特徴が明確になる。
例えば、「跡(あと)」という表現は英語の場合では、様々な訳に対応しており、ただ 1 つの 英語表現での対応は困難である。移動するモノが残した痕跡と、モノが取り残した状態の痕
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跡は、それぞれ異なる言葉で表現されている。前者の痕跡はtrack、trailなどによって後者の
痕跡はremains、ruinsなどによって言語化されている。例えば、「牛が通った跡」はtracks of
a cowと翻訳されるが、「城の跡を保存する」はpreserve the remains of a castleと翻訳される。
すなわち、cow が移動を通して残した「跡(あと)」が tracks であり、また、castle が残した
「跡(あと)」がremainsである。要するに、track(s) of a castleやpreserve the tracks of a castle のような表現が通常容認しがたいということから分かるように、日本語の「跡(あと)」とい う 1 つの表現で言語化できる痕跡は、英語では複数の表現に分けて言語化しなければなら ない、ということである。
ここで特に注意しておきたいのは、痕跡を言語化する際に、残存と移動という「跡(あと)」
を含意している特徴が、「後(あと)」の空間的な意味にも反映されている、ということであ
る。次の2.1.2節では、「後(あと)」の「後方」という用法を論じる。要するに、「跡(あと)」
という語が残存と移動の概念その両方に関係があることは、「後(あと)」の空間的な意味に おいても関係がある、という点である。
2.1.2 「後(あと)」:移動する主体の「後方」
「後(あと)」という空間辞の意味について、『三省堂国語辞典』をはじめとする辞書におい ては、おおむね人間やモノの背中が向いている方向というように説明している。本論文では、
参照物の移動、すなわち、ランドマークの移動という視点を加味して、「後(あと)」によって 言語化されている後方の意味を考察する。「後(あと)」の後方の意味について分析するにあ
たって、Tyler & Evans (2003) でのbehindとafterという 2 つの後方を示す前置詞の相違点に
関する分析を概観する。
(4) a. みんなの後にくっついて先生の家に入って行きました。
<BCCWJ> (松山善三著 『ああ人間山脈』)
b. 僕は無言のままトボトボと親父の後を歩き、家に帰りました。
<BCCWJ> (片岡鶴太郎著 『夢画夢中』)
c. 味方が現れ、私たちはその案内のゲリラの後を追う。
<BCCWJ> (惠谷治著 『アフガン山岳戦従軍記』)
Tyler & Evans (2003: 173-176) は、afterとbehindの空間的な意味は共通する場合が少なく
ないが、次のpursuitという跡追いあるいは追跡の場面では、afterの使用のみが許される、
と指摘している。追跡の場面というのは、トラジェクターがランドマークの背後にあるのみ ならず、両者のいずれも移動しており、トラジェクターがランドマークを追いかけている場 面である。例えば、The police chased/came after the robbers.という文におけるafterは、ランド
マークのrobbersの背後にトラジェクターのpoliceが追いかけている、という後方の関係を
言語化している。このような場合におけるafterは、behindに置き換えられると違和感が生
153 じてくる (Tyler & Evans 2003: 157)。
Tyler & Evansの分析を踏まえて、本書では日本語の「後(あと)」という空間辞によって言
語化されている空間的な位置関係は、after で示されている追跡の場面の後方に非常に類似 している、と指摘する。
具体例を使って言えば、(4) の「みんなの後」「親父の後」「案内のゲリラの後」という 3 つの表現における「後(あと)」は、移動しているランドマークとなる人の背中や後部を言語 化している。すなわち、(4) における「みんな」「親父」「案内のゲリラ」という 3 つのラン ドマークは、それぞれの文の全体の意味から分かるように、決して静止しているのではなく、
一定の方向に移動しているという状態にある。
2.1.1節では、「跡(あと)」という表現に含意されている移動性について説明する際に、「船
の通った跡」という例を取り上げた。注意すべきことは、(4) における空間辞の「後(あと)」
が、「跡(あと)」の移動性を継承している、ということである。
具体的に言えば、「船の通った跡」という表現における「跡(あと)」は、ランドマークの船 が前方へ移動していき、船の後方に引かれた波の痕跡を示している。同様に、(4) における
「後(あと)」も、前方へ移動していくランドマーク、すなわち、「みんな」「親父」「案内のゲ リラ」の後方における空間領域を意味している。「船の通った跡」における「跡(あと)」が痕 跡を、「案内のゲリラの後を追う」における「後(あと)」が空間領域を、それぞれ示しており 異なっているが、ランドマークの移動と緊密に関連している点では、一貫性が見られる。
要するに、「後(あと)」で示されている後方は移動と、さらに厳密に言えば、ランドマーク の移動と緊密に関わっているということである。
2.1.3 「後(あと)」:余地・残留の用法
2.1.2節では、「跡(あと)」の移動性を加味しながら、移動しているランドマークの後方と
いう「後(あと)」の空間的な用法を分析した。この2.1.3節では、先行研究ではあまり取り上 げられていない「後(あと)」の余地・残存という用法を分析する。
(5) a. 後3人が座れる。
b. 作るべき書類が後3つある。
(『大辞林』)
上記の(5)における「後(あと)」には、(5a)のような余地を示すものがあり、(5b)のよう な残留を示す場合もある。「3 人が座れる」という容積についての表現と比べ、「後 3 人が座 れる」という表現は、収容できる能力を示すものではなく、残された容量を意味している。
同様に、「作るべき書類が後 3 つある」という表現は、「作るべき書類が 3 つある」とは異な り、書くべき書類が 3 つより多いという前提がある。
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ここで指摘したいのは、例えば「城の跡を保存する」や「古寺の跡」における「跡(あと)」
が示す残留という意味合いが、(5a) と(5b) における「後(あと)」にも反映されている、と いう点である。「古寺の跡」という表現では、トラジェクターの「跡」は、「古寺」の各部分 が次から次へと消えてしまい、最後に取り残された部分である。(5)では、ランドマークと なるものが作らなければらない全書類の件数であり、「後 3 つ(の書類)」というトラジェク ターがその取り残された部分である。つまり、トラジェクターの「後 3 つ(の書類)」は、全 部の書類のうち、1 つずつ完成することによって最後に残された部分を示している。