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第 3 章 日本語の「前(まえ)」 ・ 「先(さき)」と中国語の「前(qian)」との比較

2. 日本語の「前(まえ)」 ・ 「先(さき)」と中国語「前(qian)」の空間的な意味

2.2 日本語の「前(まえ)」と中国語の「前(qian)」の空間的な意味

2.2.2 物の機能に依存する場合

2.2.1 節では、空間の観察者の位置を明記しなくても、人間の身体、生物の形態上の構造

に依存し、認識される「前(まえ)」と「前(qian)」について説明した。この2.2.2節では、物 の機能に依存する場合の「前(まえ)」の用法を考察する。このような「前(まえ)」の意味つ いて、『日本国語大辞典』をはじめとする辞書においては、「物体の正面」というように記述 されている。「正面」という概念をさらに改めて調べてみると、各辞書では概ね、「物の前の 面」というように記述されている。そもそも、物体の前の面、あるいは正面が両言語の話者 にどのように認識されているのかが疑問として生じる。

認知言語学の視点から見れば、人間の外部の物体に対する知覚には、通常の状態では外部 の物体が人間との関わり方も含まれている(Talyor and Evans 2003: 132-135, Talmy 2000a: 175-254)。つまり、人間は、外部の物体を見るとき、その物体が単なる「高さ」や「広さ」や「長 さ」といった物理的な属性に注目するのではなく、その物体が普段人間にどのような機能を 提供するか、どのように使用されているかにも目を向けている、ということである。

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ここで注意しておきたいのは、物体が人間によってどこでどのように道具として使用さ れているか、という認知言語学の分析の視点から、日本語の「前(まえ)」と中国語の「前(qian)」

の意味をより明確に把握できるということである。物の機能に依存する「前(まえ)」の用法 は、対峙的方略による場合もあり、同方向的方略による場合もある。

第一に、ノートパソコンの使用を実例として、日本語と中国語において、物体の機能に基 づく対峙的方略により、いかにその物体の前方を決めるかについて分析する。

普段人間がパソコンを使用するときの様態は図 3-3 の a に描かれており、破線が身体の 前後軸を示すものであり、黒い矢の先と白い矢の先がそれぞれ身体の前方と後方を表して いる。ノートパソコンを使用する際の身体の姿勢に基づき、身体の前後軸が反転されてパソ コンに投影している。つまり、図 3-3 の b で実線の矢印で表示されているように、モニター が付けられている部位の方向がノートパソコンの「前(まえ)」・「前(qian)」と規定されるとい うことである。

(8) a. 1日12時間以上もノートパソコンの前に座り続けた男性が、この症状に陥った という報告もあります。

(長野茂著 『忙しいあなたの運動不足を解消!』)

b. 李誠銘坐在筆記本電腦前,神情嚴峻地看著計算機屏幕。

(李誠銘がノートパソコンの前に座り、厳しい表情でモニターを見つめている。) (張軼驍著 《保送生活》、日本語訳は筆者による)

(9) a. これから鏡の前で笑顔の練習でもしようか。

<BCCWJ>(平賀元気著 『キリスト屋』)

b. 在鏡子前梳頭,一梳就是一兩個鐘頭。

(鏡の前で髪を梳かすのに、1、2 時間もかかった。)

(茅捷著 《七月冰八月雪》、日本語訳は筆者による)

(10) a. 利用者が大勢いるならぱ ATM の前に行列ができることになる。

(鈴木衛著 『コンピュータシステムの基礎』)

3-3 ノートパソコンの前後軸の形成 (筆者作成)

102 b. 走到 ATM 前要提款。

(ATM の前に行き、預金を引き出す。)

(蔡駿著 《人間》、日本語訳は筆者による)

ノートパソコンのみならず、鏡台や ATM といった物体に関しても、(9)と(10)から分かる ように、日中両言語ではそれぞれの内在的な「前(まえ)」と「前(qian)」が対峙的方略の仕組 みを通して、決められている。これらの物体に共通しているのは、人間とインタラクション を行う際に、人間の視線を阻んで、文字や画像を提供する部分があるということである。ノ ートパソコンやATMは、モニターという部分によって、また、鏡台は鏡面の部分によって、

人間の視線を集中させ、文字や像を画面に映し出すことができる。つまり、ノートパソコン や鏡のような物体の正面は、その物体が人間に使用されるとき、人に情報を直接的にアウト プットできるところになるということである。

第二に、物体の機能に基づき、同方向的方略を通して物体の内在的な方向性または物体の 正面が決められる事例は、日本語でも中国語でも多く見られる。まず、衣服を例として取り 上げて分析する。図 3-4の a においては、人が服を着ている様子が描かれている。そして、

破線の矢印が身体の前後軸を示すものであり、黒い矢の先と白い矢の先がそれぞれ人間の 前方と後方を指している。人間は同方向的参照の捉え方により自分の身体をベースとした 前後軸の指向を変えることなく服に付着させることができる。結果として、図 3-4 の b の 部分における実線の矢印で示されるように、服の内在的な「前(まえ)」と「前(qian)」が決め られる。両言語の具体的として(11)が挙げられる。

(11) a. 口内に溜まっていた血が一度に流れ出て服の前を真っ赤に染めた。

<BCCWJ> (別所誼二著 『昭和物語』)

b. 衣服前的紐扣。

(服の前のボタン。)

(莫斯著《宙斯的女兒》、日本語訳は筆者による)

同方向的方略で物体に内在する方向軸を決める事例については、椅子が代表的な例であ る。「椅子」というものは、人間にとって腰をかける道具であり、すなわち「座る」という 機能を提供している。人間が椅子を使用する状況に基づいて、身体の前後軸を椅子に合わせ、

3-4 服の前後軸の形成 (筆者作成)

103 人間の前方向が椅子の前方向と見なされる。

(12) a. デイヴは長椅子の前を通りすぎ、壁に耳を当てた。

<BCCWJ> (大久保寛著 『ブルー・ムービー』) b. 走到椅子前站立。

(椅子の前に行き、立ち留まる。)

(郭英麗著《MBA 面試指導》、日本語訳は筆者による)

(13) a. ソファの前には小さなテーブルがある。

<BCCWJ> (ねじめ正一著 『昼間のパパと夜明けの息子』) b. 沙發前有個玻璃茶几。

(ソファの前にはガラス製の机がある)

(顔俊傑著 《不死器官》、日本語訳は筆者による)

「前(まえ)」と「前(qian)」の語義を解釈するときに、辞書を含め、従来では「物の正面」

という言い方は、物体の方向性とその機能との関連性を重視するという観点から言えば、よ り明確に解釈することができるということである。「物の正面」における「面」は、その物 体が道具として人間に使用され、機能を果たすときに、または、直接的に人間と関わる時に 重要となる部位である。すなわち、「物の正面」における「正」という方向性は、普段人間 がどのようにその物体を使用しているかによって決められるものである。そして、その決め 方としては、ノートパソコンのように、対峙的方略を通して、人間の身体の前後軸を反転し、

道具としての物体に付着させる類と、衣服のように、同方向的方略に依拠し、身体の前後軸 を反転することなく、直接的に道具としての物体に付着させる類がある。