1930年になると特に満洲の領事たちが排日教育の激化を報告するようになった21)。 1931年9月18日に満洲事変が起きると、遼陽領事館からの報告にあるように、10月末 には既に「在奉天関東軍憲兵隊長ヨリノ命ニ依リ遼陽県下ニ於ケル小学校以上ノ教科書 中排日的章句削除ノ方針ノ下ニ先般来各種教科書ヲ蒐集シ検閲」していた22)。また、
「一斉ニ学校、図書館、書店ニ対シ書籍ノ検閲ヲ行ヒ排日記事アルモノハ悉ク之ヲ押収 又ハ焼却セシメタルヲ以テ現在ニ於テハ排日的教科書及書籍ハ全ク其ノ影ヲ絶ツニ 至」ったとする報告もある23)。満洲国の学校では、時に国民政府教育部審定の教科書を 墨塗りで使用し、次第に満洲国版の教科書へと変えていった。
満洲事変は、中国側にも大きな衝撃を与え、日本に関する教育を重視するとともに、こ の問題を国際連盟に提起した。1932年1月21日国際連盟調査委員会が開催され、満 洲事変に関連する問題が提起されると、日本側は排日教育調査をおこないつつ、それが 日本の満洲での已むを得ざる行動の根拠となっていると主張しようとした。そして、1932年 1月28日に上海事変が発生すると、排日基地であるとされた「上海商務印書館が」が攻 撃されるなど、「教科書」が日中関係の焦点のひとつであることが一層明確になっ た24)。日本側は満洲事変の正当性を主張する一つの根拠として排日運動を挙げようと し、内外に宣伝しようとしていた25)。そして、外務省亜細亜局長に対して証拠集めを求
21)「各国ニ於ケル教育制度及状況関係雑件 中国ノ部、第二巻、13「排外教育関係」、日本 外務省保存記録、I.4.0 2‐2)の一連の報告を参照。
22) 昭和6年10月30日、在遼陽領事代理山崎恒四郎ヨリ外務大臣幣原喜重郎宛「排日教科書検 閲ノ件」(「満洲事件 排日排貨関係 排日教育調査関係」、第一巻、日本外務省保存 記録、A.1.1 0 21‐5‐1)。
23) 昭和7年2月9日、在吉林石射猪太郎ヨリ外務大臣芳澤謙吉宛「排日教育調査ニ関スル件」
(「排日、排貨関係/排日教育調査関係」、第一巻、日本外務省保存記録、A.1.1.0 21‐ 5‐1 )。
24) 被害の状況については、『日本帝国主義中国侵略資料集』(中華書局、1988年、641 頁)
25) 昭和6年11月14日、「支那ノ排日教育ニ関スル件」、昭和6年12月15日、「支那ノ排日教 育ト満洲事変」(「支那ニ於ケル排日調査関係雑件」第二冊、日本外務省保存記録、
め、1932年1月29日、再び排日教育調査を中国の各在外公館に依頼した26)。これへ の各在外公館からの返答の多くは、東北部を除き、中華書局や世界書局の教科書等を列 挙し、1920年代に見られていたような、排日性は特に見られないと言った抑制的な領事報 告は殆ど見られなくなっていた。国際連盟の日本代表には最終的に100点を超える「排日 教科書」が送付された。
他方、中国側も対策を講じていた。教育部が作成した1932年3月21日初稿の「対日 交渉関於教育之事項」は、その対策のあり方を物語る27)。1910年代の案件以来、中国 側は日本側の出版物にも排外的、あるいは中国を批判するものがあると指摘したが、
1930年代に至り、日本側が「排外教育」を国際連盟の場で取り上げることを踏まえ、対 応したものと思われる。そこでは、まず甲「日方如要求『停止排日教育』我方応付之擬 議」において、第一に教育主権が述べられ、第二に中国の教育が排外主義に基づかな いと指摘する。第三に日本側の主張する所謂「排日教育」には確実な根拠がないことを 弁証し、第四に国際社会、中国の教科書の方が日本の教科書よりも妥当で慎重であると 主張し、第五に日本の教科書において中国への侮辱し、中国への侵略の鼓励が多く含ま れていることを指摘し、その削除を求めることが述べられていた。
乙「我方対日応提出要求之擬議」は、中国側から日本側への要請であり、内容的 には三点ある。第一は、日本の教科書の対中侮辱的、侵略的内容の削除。第二は満洲 事変以後の満洲における日本の教育政策への批判と撤収。第三は、満洲における教育 上、文化上の損害の賠償。この文書の付録には、「日本文部省所編審中小学校教科 書之鼓励侵略中国教材」があり、中国側が収集した教科書名および中国侵略に関わる 部分が書き出されていた。
日中両国はこのような双方の排外教育(あるいは排日教育、排“華”教育)に関する 調査をした上で、国際連盟での議論をおこなうことになった。リットン調査団の調査は1932 年3月から6月にかけてなされたが、1932年6月25日には国際連盟調査委員会で、中華 民国の顧維鈞代表が排日教育について照会を発した。その内容は、日本側の指摘に対 して、(1)教科書にこうした内容を盛り込むのは、国権回収のときの一般的方法と考えられ ること、(2)過激な内容はあるので、友好親善的な観点にたって修正をくわえる必要がある
H.7.1.0 8)。
26) 昭和7年1月29日、芳澤大臣ヨリ在支各公館「排日教育調査二関スル件」(同上史料)。
27)「関於所謂排外教育問題」(中央研究院近代史研究所档案館所蔵、国民政府外交部檔 案、档案番号なし)
こと、(3)だが同時に日本におけるそれについても修正を求めること、であった。また顧 は、日本が排日教科書だとしたものについて、審定を経ていないなどとして反論し、同時 に日本の教科書の中で中国に対して侮蔑的な内容を含むものを列挙した。1932年10 月、国際連盟での議論において顧維鈞は以下のように訴えた28)。「支那の国民主義は 急速に進展を見せつつあるがその根底に排外思想はない」29)。松岡はこれに対して、
「排外思想は支那に厳存する。…リットン報告にもある通り長年に亘って排外教育がおこな われているが、その結果は如何なるものとなるだろうか」30)。これに対する顧維鈞の反論 は、「国民主義運動について松岡氏は排外教育の結果の恐る可き所以を弁弁と述べられ たが、かかかるものなきことは既述の通りである」といったものであった31)。議論は水掛け 論的になっていたが、「排外」であるか否かという点、国権回収に際しての一般的な方 向性であるか否かという点、日本における有無の問題といった争点があった。
リットン委員会の報告に「近代支那の国民主義は支那が今や通過しつつあるような政 治的過渡期に伴う通常の現象である。これと同様な国民的感情及び要望は同じ状態に置 かれてある凡ての国について見られる処である」と述べているのは正しい。誠に不思議な ことは、日本はその同じ経験に鑑み支那に対して同情するかわりに、支那国民の正当の要 望を誤解し、その実現に反対している第一の国であるということである32)。リットン報告書は 1932年10月に公表され、以後国際連盟で報告書をめぐる議論がなされていた。この報 告書の第七章では日本の経済的利益に関連付けられて、中国側のボイコットが記されて いた。だが、排日教育、あるいは排日教科書については、ボイコットとの関連性が必ずし も明確にされていなかった。『国際聯盟支那調査委員会報告書に対する帝国政府意見 書』(国際聯盟協会、1932年11月)などもその点を指摘していた。
1932年12月6日、顧維鈞が日本の松岡洋右の主張に対するコメントを国際連盟に提 出した。顧は、「日本ハ従来支那ノ統一ヲ妨害スル政策ニ出テ居ル処極東ノ平和ノ真ノ 脅威ハ日本ノ伝統的大陸政策ナリ田中上奏文ハ之ヲ最良ク表示ス、松岡代表ハ之カ偽 作ナルコトヲ力説セルモ日本ノ支那ニ対スル行動ヲ観レハ右カ仮リニ上奏文ニ非ストスル モ重大意義ヲ有スル文書ナルコトハ確カナリ」などと日本を批判した上で、「支那カ排外
28) 国際連盟事務局東京支局編纂『国際連盟に於ける日支問題議事録 後編』(国際連盟記 録刊行会、1933年)参照。
29) 同上書、34頁。 30) 同上書、40頁。 31) 同上書、44頁。
32) 国際連盟事務局東京支局編纂前掲書、68頁。
ナリト云フハ全ク根拠無ク排日ハ日本ノ侵略ニ対スル反動」だと述べ、「日本ニモ排外 教科書ハ決シテ稀ナラス」と反論を加えたのであった33)。
周知の通り、日本の国際連盟脱退などもあり、相互の教育批判は国際連盟の場では 解決を見ることはなかった。だが、その後、日中戦争に向けて排日教育が激化して行った のかと言えば、事態はそれほど単純ではない。在外公館からの報告では、特に1936年8 月24日の成都事件の後、蒋介石が対日和平交渉をおこなわんとした時期には、8月29日 に睦隣(再)令が出されてから、排日禁止が唱えられると共に、排日教科書の排日部分 除去を教育部がおこなうと伝えられていた34)。しかし、西安事変の影響もあり、日中間の 和平交渉が難航する中で、この内容が実行に移されたわけではなかろう。
日中戦争勃発後、日本は満洲国のみならず、占領地での教科書の「排日」部分を 削除しようとし、維新政府や臨時政府が国定教科書を編纂するに際には、排日精神の一 掃、欧米依存の除去などが基本方針とされたようである35)。1940年に国民政府(汪兆 銘政権)が南京に樹立されると、維新・臨時両政府と同様に初等・中等教科書は当初 審定制度が模索されたが、国定とされ、「維新政府時代ノ教科書ハ不完全ナルヲ以 テ」再編纂されたが、結局、維新政府の教科書の部分的修正に止まったと日本側は認 識していた36)。日中戦争が進行する中で、日本の勢力下では日本側の編纂した中国語 の教科書が、そして国民党の統治下したでは日本が排日教科書と見做す教科書が使用 された。
33) 昭和7年12月6日、「我意見書ニ対スル顧維鈞ノ「コムメント」」(国際連盟ニ於ケル折衝 関係/日支事件ニ関スル交渉経過(連盟及対米関係) 第十一巻上 (1)、日本外務省 保存記録、A.1.1.0 21‐12‐1‐5)。“3160.Apeal of Chinese Government: Report of the Commission of Enquiry set up in virtue of the Resolution adopted by the Council on December 10th 1931(continuation)”,League of Nations Official Journal, December 1932. Pp.1877‐1890.
34) 昭和11年11月25日、南京須磨総領事ヨリ有田外務大臣宛(「昭和十一年南京ニ於ケル日 支交渉関係」、日本外務省保存記録・松本記録、A.1.1.0 9‐10)
35) 昭和13年7月30日、畑部長特務部長原田熊雄ヨリ陸軍省宛「維新政府教科書編纂ニ関スル 件」(『陸支普大日記』昭和13年1~13.8.26、防衛省防衛研究所所蔵)
36) 昭和15年7月30日、在南京花輪義敬総領事ヨリ松岡洋右外務大臣宛「国民政府教育部ノ現 状ニ関スル件」(同上史料)。