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徐兢と『高麗図経』

ドキュメント内 untitled (ページ 156-159)

『高麗図経』の末尾にある行状によると、徐兢は字を明叔、元祐6年(1091) 5月8日 に生まれ、紹興23(1153)年 5月20日に亡くなった。位は朝散大夫文散新官にまで上り、

三品服を下賜されたという。

10歳の頃から比類なき才能の持ち主といわれ、18歳にして太学に入り、才芸を競い、

12) 林相先渤海の支配勢力研究』、新書苑1999

よく上位を占めた。だが科挙(大比)においては数度挫折した。1114年に父任によって将 仕郎に陰補され、通州司の刑曹事に任命された。

徐兢は宣和5年(1123) 5月28日、明州を離れ給仕中の路允迪と共に国信所の提轄 人船礼物官として高麗訪問の途に就いたが、その目的は、高麗の先王である睿宗の弔 問と、新王に即位した仁宗の祝賀にあった。

『高麗図経』は、中国人が編纂した高麗社会を伝える現存書としては唯一のものであ る。『高麗図経』は、12世紀の高麗の様子を伝える資料集であり、また中国人の高麗観 を知り得る資料としての意味が大きい13)。主な内容は、第1冊と2冊が高麗以前の王朝の 歴史と高麗の王系、第3冊~7冊は開京の城郭と宮殿、官服、第8冊は高麗の主要人 物、第9冊~15冊は儀礼用品と議儀仗・護衛、武器、旗、車など、第16冊~19冊は 宗教・寺院、第20冊~23冊は社会階層と風俗、第24冊~32冊は使節団への待遇や 儀礼、宿舎の備品、第33冊~39冊は高麗の各種船舶と海図、そして最後の第40冊 は、中国と同じ高麗の文物が、それぞれ紹介されている。

2)『高麗図経』に見える韓国史認識

『高麗図経』の建国と始封の条には、箕子朝鮮から高麗が建国されるまでの歴史が 略述され、高麗太祖から仁宗までの歴代王名と中国との封爵関係が記されている。

まず徐兢の高麗認識は、次の建国条から知ることができる。

夷狄の君長らは、そのほとんどがごまかしや暴力によって自らを高い地位に置き、そ の呼称も「単于」や「可汗」などといい、奇怪で良いものがない。高麗は箕子が封 じられた時から徳をもって侯となったが、後に衰弱し、他姓もまた漢の官爵を借用し、身 分は上には一定の高さがあり、下には差がある。従って国を受け継いで代を伝えていく にあたり、記すべき内容が多い14)

徐兢は、夷狄の君長は自らの地位を高めるにあたって奇怪な呼称を用いるなど取るに足 らないが、高麗は上には一定の高さがあり、下には差があるとしている。また国を受け継

13) キムスヨン高麗図経研究の動向と活用可能性」、『韓国文化研究162009

14)宣和奉使高麗圖經 第1卷建國臣聞夷狄君長類以詐力自尊殊名詭號單于可 汗無足稱者獨高麗自箕子之封以德取侯後世稍衰他姓亦用漢爵代居其位 上有常尊下有等衰故襲國傳世頗可紀錄

ぎ、代を伝えていくにあたり、記すべき内容が多いとし、高麗を夷狄と明確に分けて叙述し ている。

『高麗図経』に見える高麗認識は、中国人の自己中心的立場から、高麗が中国の 諸侯国であったという大前提から出発しているが、これは徐兢が『高麗図経』を徽宗に奉 るために書いたものであり、事大封爵の名分を強調したことと関係がある15)

続いて『高麗図経』の始封条には、箕子から高麗に至るまでの歴史を略述している。

①高麗の祖は、おおよそ周武王が朝鮮に封じた箕子の胥余であり、姓は子である。

周・秦に次いで漢の高祖12年(B.C.195)になると、燕人の衛満が亡命し、衆を 集めて髷を整え、蛮夷を服属させ、次第に朝鮮の地を手中に収め、君主となっ た。子姓が国を治めるようになって800年余り後、衛氏の国となり、魏氏が国を治 めて80年余りであった16)

②これに先立ち、夫余の王が河神の娘を得、陽光に照らされて身ごもり、卵を産ん だ。その子は成長して弓の名手となった。俗に弓の名手を「朱蒙」と呼ぶが、こ れにちなんで「朱蒙」と名づけられた。夫余の人々が、朱蒙の出生を奇怪で縁 起が悪いとし、彼を始末するよう要求した。朱蒙はこれを恐れて逃亡し、大きな川 にやってきた。橋がなく渡れないので、弓で水面を打ちながら呪文を唱えると、魚 とスッポンが列をなして浮かんできた。朱蒙はその上を渡り、紇升骨城に着いた。

その地で暮らしながらそこを「高句驪」と呼び、「高」を姓、国を高麗とした17)

③高宗は李勣に対し、平定を命じた。高句麗の王である高蔵を捕らえてその地に郡 県を置き、安東都護府を平壌城に設けて軍士に守備させた。その後、武后が将 帥を派遣してその王であった乞昆羽を殺し、乞仲象を王に就けたが、彼が病で 死ぬと、仲象の息子である祚栄が即位した。そして民40万を引き連れて挹婁に 雄拠し、唐の臣下となった。中宗代には忽汗州を設け、大祚栄を都督・渤海郡

15) 韓永愚、「高麗圖經にあらわれた徐兢の韓國史體系」、『奎章閣71983

16)宣和奉使高麗圖經卷第一始封高麗之先蓋周武王封箕子胥餘於朝鮮寔子姓 也歷周至漢高祖十二年燕人衛滿亡命聚黨椎結服役蠻夷浸有朝鮮之地 而王之自子姓有國八百餘年而爲衛氏

17)宣和奉使高麗圖經卷第一始封 :衛氏有國八十餘年先是夫餘王得河神之女爲 日所照感孕而卵生旣長善射俗稱善射爲朱蒙因以名之夫餘人以其生異謂之 不祥請除之朱蒙懼逃焉遇大水無梁勢不能渡因持弓擊水而呪之魚鱉竝浮 因乘以濟至紇升骨城而居自號曰高句驪因以高爲氏而以高麗爲國

王とし、これ以降、国名を渤海とした18)

④長興2年(931)、王建が国政を掌握すると、使節を派遣して貢を奉り、爵位を与え られて国を治めた19)

始封条に記された高麗以前の国は、箕子朝鮮‐衛満朝鮮‐四郡‐夫余 ‐高句麗‐渤海‐高 麗である。韓国史が檀君朝鮮ではなく箕子朝鮮から始まり、三国のうち新羅・百済につい ては触れられていない。

『高麗図経』は、高麗の先祖である箕子朝鮮が800年余り続き、燕の衛満が髷を整 えて朝鮮の領土に君主として君臨したという。次いで夫余から逃げた「朱蒙」が紇升骨城 にやってきて「高句驪」を建国し、「高」を姓として国号を高麗に定めたという建国神話 を紹介し、その歴代王を略述している。高句麗に対する内容がかなりの量を占めているの は、現在の高麗が高句麗を継承したという認識と関係しているのであろう。

高麗は唐の高宗代に滅亡し、その地を分割して郡県を置き、安東都護府を平壌城に 設けて軍に守備させ、その後則天武后が乞四比羽と乞乞仲象を冊封したが、乞乞仲象 が病で死んだため、息子の祚栄が即位したというが、これは渤海の建国を述べたもので ある。長興2年(931)には王建が使節を送って貢物を奉り、ここにおいて爵位を与えられて 国を治めたとしている。

『高麗図経』において韓国史を上記のように系統立てて認識したのは、歴史上最初の ことであり、『三国史記』とは異なる高句麗と渤海を強調し、高麗に結びつけているものと 言えよう。徐兢の韓国史の理解は、徹底して中国側文献に依拠しているが、これは徐兢 個人というよりも、当時の宋における高麗認識だと考えるべきであろう20)

ドキュメント内 untitled (ページ 156-159)