20〜40人
8 日本社会における通訳職の位置づけ
日本の通訳産業の特徴と思われる点を検証する。
8.1 国家資格がないこと
日本で通訳者と語るために国家資格は必要ない。すなわち完全に自由な市場で、自由主 義原理の下、通訳者は仕事をしていくということである。だれでも自由に市場に参入でき るが、そこで生き残っていけるかどうかは市場が判断する。市場がサービスの価値(価格)
を決め、仕事が来る人と来ない人と、選別が行われる。規制法や管轄官庁はなく、個人事 業者に対して基本的に政府関与は一切ない。市場原理というフォーマルルールだけではな く、内部の規律等、若干のインフォーマルルールは存在すると考えられるが、基本的な部 分はすべて市場原理に則って進められている。参入も脱落も容易である。効率のよい市場 である。
一方、資格化しないことによって、業界としてのまとまりがないことが一つの結果であ る。専門職であるにもかかわらず、通訳者の仕事の仕方を規定する通訳者の職業従事者協 会は存在しない。特定業界従事者が、同業者団体を結成する際には、市場や価格に影響を 及ぼす目的がある。自分たちの社会的地位向上や、就業環境の改善を求めるのが通常の業 界団体の機能である。多くの場合は、新規参入の門を狭くし、既得権益を守ろうとする動 機が存在する。他業種の専門職では税理士会、弁護士会、医師会、等が結成されているの に通訳者の業界団体(ギルド)はない。通訳者の労働組合もないので、集団交渉などは行 えず、合同で労働条件改善のために取り組むこともできない。労災認定も受けにくい。職 業従事者の保護が十分とはいえない。
会議通訳者の業界団体や協会が存在しない一番の理由として、通訳職が、日本の国家資 格に規定される仕事ではないことがあげられる。通訳者になるための公式な垣根が全くな いため、業界団体があっても明確な入会資格が設けられず、技術レベルが玉石混交の業界 団体となると、効果的な行動は取れない。どのレベルの通訳者にも当てはまり、皆が納得 する就業条件や行動基準は存在しないからである。様々な技術水準や職業意識の人々が集 まっていれば、過半数の合意すら難しい。技能レベルについて共通の資格制度がないため に、効果的な職業従事者の組織が作れなかったといえる。
よって、以下、資格制度が導入されてこなかった理由を四つ検討する。
8.1.1 能力・適正判定の難しさ
資格導入されなかった歴史的背景としては、資格を付与するかどうかの技術レベル判断 の難しさと煩雑さが挙げられる。初代の通訳者小松達也氏に資格化が進まなかった理由を 尋ねたところ、資格化が進まなかった理由は、通訳技能の判断が難しいからだそうである。
この理由は現在まで続いていると考えられる。
通訳スキルを資格化しようとしても、そのレベルを機械的に判断することはできない。
通訳スキルはコミュニケーション、言語、言葉の選び方、表現法、プレゼンテーションス
タイル、またクライアントの満足感を誘発する能力等の人間的要素を包括するものである から、機械的に単一評価をすることは不可能である。
また、よい通訳だったかどうかの判断には、個人の主観的判断の要素が大きい。はっき りと話す明朗さを好むか、しっとりと穏やかな語り口を望むかは、TPOに加えて、個人の 好みも大きい。そのような主観的な判断を排除した試験を実施すると、単なる語学試験に 終始してしまい、プロのコミュニケーターとしての状況判断能力や人間的な要素が考慮・判 断されないこととなる。すると、通訳業務にとっては大きな部分を果たすコミュニケーシ ョン能力が測られないことになり、適切な資格試験となりえない。
語学力だけをとっても、同時通訳レベルとなると、きわめて専門的なスキルとなるため、
その専門領域を見極め・判断できるだけの語学力と技量を持っている人がほとんどいない。
機械的な一律試験はましてや不可能である。
通訳というのは様々な場面で発生し、それぞれの場面で要求される通訳サービスの構成 要素が少しずつ異なるため、どの場面にも通用する適正を測る試験を実施するのは難しい。
例えば、製薬業界の会議で通訳者に望まれる能力と、文学の朗読会で望まれる能力は違う。
弁護士のクライアントに気に入られても、保母さん(幼稚園)のクライアントには気に入 られないかもしれない。求められる要素がクライアントや場面(TPO)に応じて大変多様 に異なるため、一律試験で適性を図ることは難しい。通訳適正や能力についての判定の難 しさが、資格導入を阻んできた大きな要因といえる。
8.1.2 資格制定に取り組むことに関する私的利益の欠如
試験実施が困難な中、特に積極的に資格化を進めようとした人がいなかったことも、歴 史的に資格化が進展しなかった実態的な理由と思われる。困難な任務に取り組んでも個人 的な経済的メリットが特にない場合、職業従事者としての強い使命感や社会貢献の思いが なければ、資格を整備するという面倒な作業を進めたいという人は少ないと考えられる。
通訳者には一匹狼のような独立志向の人が多いため、一般的に、他人のことを評価・判断 するより、自分のレベルを高めることに熱心であったというのも要因のひとつと考えられ る。特に、初期の通訳者は、その多くが、自らのエージェンシーを設立する道をたどった ため、通訳産業のために公共の立場で何かをするという動機よりは、自分の会社の利益を 高めるために、私的に行動する動機の方が強く働いたと推測できる。
8.1.3 公的資格の必要性欠如
さらに、資格化が進まなかった理由として、国家資格がなくても特段市場で混乱が起き てこなかった、もしくは混乱が意識されてこなかったことがあげられる。エージェンシー が技能レベルの分類をするようになり、それが事実上の市場の標準評価となっていき、市 場は、それで十分と認めてきたのだといえる。上述のように技能試験の実施が困難な中、
技能レベル判定することによるメリットがあったのはエージェンシーだけである。エージ ェンシーがレベル分類をするようになったのは、通訳者をクライアントに紹介する際に、
どのレベルの通訳者かを分類する必要があったためである。エージェンシーの利便性向上
のための分類なのであれば、それは国家資格ではなく、エージェンシー内の技能レベル分 類で十分であった。国やその他機関に対し、責任を負うことなく自由にレベル分類するこ とができる自由評価のほうが楽であった。そもそも全く公の分類がなかったところに、エ ージェンシーによるレベル分けが行われるようになったため、最初に行われた私的なレベ ル判断が、デファクトスタンダードとなっていった。やがてエージェンシー内の技能レベ ル分類が、通訳者市場の中での事実上共通なレベル分類につながっていった。1
8.1.4 資格導入が職業の汎用化とレベルダウンにつながるという既存の通訳者の懸念 資格導入が職業の汎用化につながると考えることができる。職業の汎用化に対する通訳 者の抵抗が、今まで資格導入を阻んできた真の理由と見ることができる。
会議通訳者には職人技としての高水準の技能が市場から要求されている。クライアント は、自分なりの判断基準を持って通訳者を評価しており、需要サイドがサービスに満足す れば、通訳者(供給サイド)にはさらに仕事がいくことになる。一方、技術の先端的な部 分は、一律テストで図ることは難しく、人間的なコミュニケーション能力の判定にはペー パー試験は適していない。クライアントが評価するのは語学力以上の人間性やコミュニケ ーション能力というプラスアルファの部分である。この部分の評価には手がつけられない まま、簡単な一律語学試験を資格試験としてしまうと、通訳としての能力が高くなくても、
一定以上の語学力があれば誰でも通訳者になれる、ということになってしまう。クライア ントが求める能力について、その要求水準以下でも英語さえできれば合格できる試験にな ってしまう。するとそこから供給される通訳サービスの品質は下がらざるをえない。
一律資格試験がない現在は、市場が設ける要求水準が事実上の参入障壁となっている。
クライアントからの仕事が来なければ、通訳者は市場に参加できないからである。この市 場の判断という効率的なメカニズムに政府が公的に介入し、資格制度を導入してこれを置 き換えるのは、かえって市場の効率性を阻害し、通訳サービスの品質を下げる、という既 存通訳者の意見がある。
ただし、市場の評価は完全ではない。実力があっても市場に参加できない通訳者がいる かもしれない。同業者同士で足の引っ張り合いがあるかもしれないし、タイミングを逸し てしまい、市場の波に乗り切れなかった通訳者もいるかもしれない。そのような市場の不 完全さを補うためにも資格試験は有効とする意見もある。
8.1.5 今後の見通し
今後も近い将来は、資格が導入される見通しはあまりないと考える。現状で大きな問題 が発生しているという認識が職業従事者においてもサービスの消費サイド(クライアント)
においても存在しないからである。資格を整備しようとする動機が存在するとは考えにく い。近い将来にそのような動機が発生するとすれば、それは政府が日本経済社会のグロー
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エージェンシーによる技能レベル判定のプロセス等については、第6章「アクター分析:
エージェンシー」を参照。