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平野部の地名

ドキュメント内 日本語のリズム (ページ 43-71)

第三章『言葉と地名』、第四章『地名考古学』では地名の基本特性を調べるため、山間の

「峠名」と海岸部の「島、岬」名を中心に記述をすすめた。すでに大字・小字の「嶋、埼、

花、阪、腰」地名と神社名で示したように、自然地名の命名法則は一般の小地名にも拡大 できそうなので、範囲を広げて『郡、市町村、駅』名をテーマとして考えたい。

現在は行政区画としての機能を失い、単なる地理的区分としてのみ存在する「郡」も、

律令時代を考える上には大切な研究対象であり、古代史を復元するうえにも、重要な意義 をもっている。まず律令時代に存在した 591の郡名を、前節とおなじ手法で漢字を分類し、

そこからどんな現象をよみとれるかを検討しよう。

(1) 郡名、国名の命名法

第七章『日本国の誕生』でとりあげる都合もあって、「郡名、国名は小地名の昇格」とい う定理を証明しないまま使っている。この辺りはいささか気になるところで、簡単な解説 を加えておきたい。幸いなことに、これを立証する記録は豊富に残されていて、『和名抄: 源順(みなもと・したがふ)編。931~938年成立』にのる591郡と、国郡ごとに記された4,000 余りの郷を対照すると、233 郡(39.4%)に郡と同じ名の郷(Sato→ガフ→ゴウ)が併存し た様子がわかる。たとえば『和名抄』国郡の最初にのる、今の京都府南部にあった「山城 国」は八郡から成り立ち、各郡には次の郷名が記録されている。

乙訓郡 Otokuni. 葛野郡葛野郷 Katono. 愛宕郡愛宕郷 Otaki.

紀伊郡紀伊郷 Kii. 宇治郡宇治郷 Uti. 久世郡久世郷 Kuse.

綴喜郡綴喜郷 Tutsuki. 相楽郡相楽郷 Sakaraka.

いまは「葛野、愛宕、紀伊」郡は京都市、「宇治」郡の全域が宇治市と京都市に所属をか えて姿を消したが、「乙訓、久世、綴喜、相楽」郡は1,300年以上の歴史を留めてその一部 が現存する。さらに郷名、郡名の起源になった小地名は、行政区画が変化した現代に継承 されているものがあるので、これをあげよう。

葛野郡葛野郷 京都市右京区西京極葛野町

宇治郡宇治郷 宇治市宇治、菟道 式内宇治神社所在地

久世郡久世郷 城陽市久世 久世神社 相楽郡相楽郷 相楽郡木津町相楽 式内相楽神社

宇治川の両岸にまたがる宇治市宇治は、右岸が宇治郡宇治郷、左岸は久世郡宇治郷に比 定されるややこしい姿を残している。いまは、宇治が「うち→うじ」、菟道は「うち:『日 本書紀』→トド」、相楽郡は「ソウラク」、大字の相楽は「さがなか」によみを替えている。

第一節でふれたように、式内社の大多数が小地名を採用した事実は定説になっているの で、現存地名と神社所在地をもとに、「小地名→郷名・神社名→郡名」という命名経緯を復 元できる。

郡とおなじ名の郷がなかった乙訓郡では、『延喜式』神名帳の方に記録が残されていて、

格式が高い名神大社「乙訓坐大雷神社Otokuni ni masu Ofo Ikatuti」が長岡京市井内 に鎮座する。『延喜式』神名を所在地名と対比して分析すると、「~坐」という表記の「~」

の部分は小地名と考えて間違いないようで、井内に隣接した長岡京市今里に乙訓寺があ るので、付近の古地名が、郡名に採用された「乙訓」であった様子を暗示している。

『延喜式』神名帳の葛野郡の欄には、やはり名神大社の「葛野坐月讀神社:京都市西京区 松室山添町」が記載されている。この地は、先にあげた「右京区京極葛野町」と桂川を挟ん で 3 ㎞離れているのは頭を悩ませるところで、どちらが本物の「葛野」郷であったかを判 定しなければならない。葛野は「Kato(角)⇔Toka(研ぐ、尖る)+tono(殿:一段高い段 丘状地形)」と解けるので、京都盆地の平坦部にある京極葛野町には合わないようで、段丘 端の松室山添町付近を葛野郷に比定したい。京極葛野町の近くに「郡町」の名が残されて いるのは興味ぶかく、「古保利、氷、郡、郡家、郡山」地名には、律令時代の郡家(Kofori no

Miyake→こおげ、ぐんけ:郡役所)が置かれた史実が近年の発掘調査などから明らかになっ

ているので、京極に葛野の名が残されたのは、葛野郡の郡家が所在したためと考えたい。

前にふれたように、東京の区名(葛飾、足立、豊島)、市名(多摩)、町名(品川区荏原)

は律令時代の郡と同一名だが、昭和時代につけたこれらの地域名は、郡名発祥地と郡役所 の位置を考証しないで転用したため、かつての郡の中心地と離れた場所に所在する。本家 の地名が消され、分家が残って地名が移動した例は枚挙に暇がないほどあり、順次、具体 例をあげてゆきたい。

また、本家の地名が失われた山城国「愛宕郡愛宕郷、紀伊郡紀伊郷、綴喜郡綴喜郷」は、

古文書の分析などから、次の地が起源に想定されている。

愛宕郡愛宕郷 京都市左京区下鴨 紀伊郡紀伊郷 京都市伏見区中島

綴喜郡綴喜郷 綴喜郡田辺町多々羅、普賢寺 →京田辺市

綴喜郡綴喜郷は、継体天皇が筒城宮Tutsuki no miyaを造営した地として知られる。

『日本書紀』は、継体5(511)年から12年までの8年ほどの間、この地に都宮がおかれた と記し、この後、都は弟国宮Otokuni no miya長岡京市井ノ内)へ移され、さらにその8 年後に磐余玉穂宮Ifare no Tamafo no miya奈良県桜井市池之内)に移設したと記録する。

越前から登場した継体帝の都宮が、後の時代に成立する山城国「綴喜、乙訓」郡の起源地 名に重なるところは興味ぶかい。

現在、都宮の発掘調査がどの程度おこなわれているかが判らないのは筆者の怠慢だが、

この史実が確認されると、「Tutsuki,Otokuni」の地名は少なくとも6世紀初頭まで溯れる ことになる。さらに継体天皇以前の『記・紀』の記録が信頼できるなら、「葛野松尾(神代 記:大国主命の条)。山代内臣・山代大筒木(開化記)。弟国(垂仁記・紀)。相楽(垂仁記)」 の時代まで辿ることが可能になり、郡名として「山背国葛野郡(顕宗紀)。山背国紀郡深草・

山城国相楽郡(欽明紀)」が記されたことにも注目する必要もある。だが、この種の記録が あっても、一般に7世紀中葉以後の成立が考えられている律令制度の国、評(こほり→郡。

あて字の変更は701年に制定した『大宝律令』)が、6世紀中葉(欽明天皇の時代)にあったと は考えにくい。もしこの記録が正しければ、当時のヤマト王権の領域は日本全国でなく、

畿内とその周辺部だけであったとも捉えられる。

『和名抄』にのる591の郡と同一名の郷が、郡全数の40%にあたる233郷も記録された ことは貴重なもので、一つひとつの地名をあたると、郡名は間違いなく小地名を採用した 史実がわかる。平安時代中期に編纂された『和名抄』と奈良時代初頭の記録を対比すると、

ここにも郡名が小地名を採用した史実が浮上する。

たとえば、『出雲国風土記』は9郡を記すが、『和名抄、延喜式』の時代には 1郡を追加 して 10 郡になっていた。この新設郡が「能義郡」で、『和名抄』は能義郡野城郷を記し、

この名は『出雲国風土記』では意宇 郡に属した野城驛、式内野城神社…いずれも島根県安来 市能義(意宇郡飯梨郷)…として記録されている。

さらに「国名」が郡名、郷名の昇格と推理できるのは、次の記録が傍証にあがる。

駿河国駿河郡駿河郷 和泉国和泉郡上・下泉郷:式内和泉神社、泉井上神社所在地 丹後国丹波郡丹波郷 出雲国出雲郡出雲郷 :式内出雲神社

安藝国安藝郡安藝郷 土佐国土佐郡土佐郷 :式内都佐坐神社

大隅国大隅郡大隅郷 丹後国は、和銅6(713)年に丹波国から立国。

上記の「出雲神社」は比定地がはっきりせず、諏訪神社(島根県平田市別所:出雲国出雲 郡宇賀郷→出雲市)が候補にあがっているが、神名は小地名を採った例が多いので、やはり 当初は、出雲国出雲郡出雲郷(島根県簸川郡斐川町求院 )にあった神名と想像したい。

興味をひく史実は、大隅国が日向国から独立した記録が『續日本紀』に記されたことで、

「和銅6(713)年4月3日、日向ひ む か國の肝坏きもつき、贈於 、大隅おほすみ、姶あひの四郡を割き、始めて大隅 國を置く」という記述から、大隅の国名は、日向国大隅郡(←大隅郷)から採られたことが わかる。同種の記録は他にも残されているので、これをあげよう。

和銅5(712)年 越後国出羽郡・田川郡・飽海郡→出羽国設置 養老2(718)年 上總国安房郡・平群郡・朝夷郡・長狹郡→安房国

越前国能登郡・羽咋郡・鳳至郡・珠洲郡→能登国

天平宝字元(757)年 河内国和泉郡・大鳥郡・日根郡→和泉国 弘仁14(823)年 越前国加賀郡・江沼郡→加賀国

このほかに、養老2年に石城国(←陸奥国磐城郡。724年頃?廃止)、石背国(←陸奥国磐 瀬郡。724年頃?廃止)、養老5(721)年に諏訪国(←信濃国諏方郡。731年廃止)設立の記 録が残されている。奈良~平安時代に誕生した新設国のなかで、郡名を採らなかったのは、

和銅6年に備前国から独立した美作みまさか国と、丹波国を分割して生まれた丹後国Tanipa no miti no Siri→タンゴ)だけである。

正式な記録が残されていない「薩摩国:大宝元(701)年ころ日向国から独立」も、日向 国薩摩郡(後の薩摩国薩摩郡)を採用した国名と推定され、河内国河内郡、伊賀国伊賀郡、

阿波国阿波郡、伊豫国伊豫郡、壹岐嶋壹岐郡なども郡名の昇格、または国造名、縣主名な どを引きついだ国名と推理できる。

これに対して、国名に地名を採用しなかった例は、東山道の陸奥国(Miti no Oku→みち のく)と畿内の攝津国があがる。陸奥(道奥)への紀行文になぜ、松尾芭蕉が『奥の細道』

をあてたかは、国名の起源を考えれば容易に理解できる。こうした例外を除いて、郷名が 小地名をなのり、郡の名が郷名、国の名も郡名・郷名を採用したと仮定すると、「国名は小 地名の昇格」という三段論法が成り立ち、次の記録もこれを補強する材料になる。

しもつふさ下總

国相馬郡布佐郷 : 千葉県我孫子市布佐

美濃国本巣郡美濃郷 : 岐阜県本巣郡糸貫町見延→本巣市 因幡国法美郡稲羽郷 : 鳥取県鳥取市卯垣

石見国那賀郡石見郷 : 島根県浜田市黒川町 周防国熊毛郡周防郷 : 山口県光市小周防

肥後国八代郡肥伊郷 : 熊本県八代郡宮原町今 →氷川町 尾張国山田郡 式内尾張神社 : 愛知県小牧市小針

筑前国御笠郡 式内筑紫神社 : 福岡県筑紫野市原田(隣接町名は、筑紫野市筑紫)

肥国(→肥前・肥後国)の起源地に比定される肥伊郷は第三章「桧峠」の項で検討したが、

他の郷名・神名も単に国と同じ名という理由だけではなく、いずれの地も立国当時(弥生~

古墳時代)、国名に採用されるだけの地勢条件を備えていたところが大切である。

この記録はもうひとつ、内に秘めた貴重な歴史を私達に提起している。国名に採択された ほどの地名が郡名に使われなかった史実は、郡の成立時にこれらの地が、すでに郡の中心地 としての機能を果たしていなかった様子を暗示するのである。

持統天皇 4(690)年秋に「筑前、筑後」国へ二分された「筑紫国」の起源を記す『筑後 国風土記逸文』の筑後国号の解説にも、筑紫が過去の地名になっていた様子をうかがえる。

筑紫つ く し国の起源地名に比定される筑紫野ち く し の市筑紫ち く し・原田は る たが所属した郷は「筑前国御笠郡長崗郷:

筑紫野市永岡」であり、御笠郡の起源地も「福岡県大野城市御笠川」に想定されるので、『記・

紀』国生み神話で、九州全体を表わす総称(筑紫嶋、筑紫洲)に使われた「筑紫」が、奈良 時代初頭に、忘却のかなたへ消え去っていた様子を伝えている。

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