第二節 工程に伴う儀礼
12 屋根葺き
現在の住宅の屋根は、カラー鉄板・銅板・建材瓦・窯業瓦など耐用年数の長い材料で仕 上げるが、以前は板葺石置き屋根や藁、ススキ、茅・葦、笹の葉などの自然素材が主であ った。新築や葺き替え、それらの工事は短期間で、大勢の人々の協力がなくては出来なか った。結い(イー・エー)で行う場合、日当を払う場合等、近隣、親戚、ヨボシゴ等との 関係をみる。また材料の茅の貸借なども近隣、親戚との間で存在した。それを加賀・能登 ではクズヤと呼んだ。その頃の屋根葺きには専門職ばかりではなく、多大な近隣、近親者
の協力があった。
能登・・・田鶴浜町史・志賀町史・鹿西町史
加賀・・・尾口村史・蛭川町史・小松市史・加賀市史に記載あり。
富山県・・・石川県に接する旧西砺波郡(特に五箇山地方)の町村史には詳細な記述があ る。
『17 日本の民俗 石川』 pp.55‐57
屋根葺き クズヤ葺きの材料は藁わら・茅かやが一般であるガ、ハネソ(すすき)・笹・葦よし等 もあり、外観ももちもよい。ハネソは五〇年位、藁・笹は一五年くらいもつという。
羽咋市で屋根葺きには、職人五人、ヘラ・カヤアゲに親類や近所の人一〇人ほどを たのむ。技術を要する個所は妻つま(屋根の三角を形成する部分・反対の軒の部分を平ひらと 言う。筆者註)とカドの部分で、職人五人のうち、オヌイシという専門職二人をやと うことになる。屋根葺きがすむと、オヒラ・豆腐汁・御飯・酒などで祝う。また親類 からは酒・もちごめ・豆腐一膳、あるいは縄などを祝いとして贈るという。
前掲書 pp.119-121
村内小区画(要約)相当の戸数を数えるほとんどの村では地縁的に区分けられた小区 画が見られる。村の発展や立地条件、家並みに状況によって相違があるものの、川筋・
エガワ(谷間から流れ出る細い川)、あるいは道筋で区分されている例が多い。上下・
北南・東西などに二分したものはよく見られる。小区画の呼称は羽咋郡志雄町所司原 ではカキナイ(垣内)。羽咋郡富来町鵜野屋ではガクナイ。鹿島郡中島町別所ではゴ ウ。輪島市町野町東大野ではショウジ。鹿島郡能登島町曲ではマワリ。羽咋郡志賀町 ではデと呼ぶ。輪島市大野では「カクチ酒三升」といわれカクチへ婚姻承認の酒肴を 届ける作法がある。
テッタイ 多数の労力を必要とする場合に合力がなされ、かつ同等の労力を返される ことを期待しないものがあった。これがテッタイ(手伝い)と呼ばれる慣行である。
例えば、鳳至郡柳田村天坂てんさかでは、家普請(新改築)が行われるとゴチョウと称して 親類・カクチからテッタイに赴く。葺き草用に茅一荷と縄二ツブリ(一ツブリは約一 貫目、三.七五キログラム)を持参し、日中は現場で立ち働き、一日の労働が終わる と晩には酒肴の供応があったのである。この点は白山麓でも同様であって、近親者や 近隣者が鉈・針(縄通し用)などの道具を持参してテッタイに赴いたという。
また、石川郡尾口村鴇とケが谷やでは、「ノ(野)にだしたシビト(死人)は村のカマイ
(世話)」といわれて、村人が葬具の製作や調達、穴掘りの作業を分担して処理した という。村を挙げてのテッタイのなされている様子がうかがわれる。
このような、イイやテッタイには労働面での互助が認められることは確かである。
しかし、特にテッタイでは、小作が地主に、ヨボシゴがヨボシオヤに、分家が本家に
手伝いに赴く傾向が顕著である。小作者・ヨボシゴ・ジナゴが自分の仕事を犠牲にし てでも、地主・ヨボシオヤへテッタイに赴いたり、普請の際のヤシキビキ・ジツキ・
タチマイ・壁塗り等の作業では率先して手伝ったという。その背後には、何らかの強 制があったのであろう。
田鶴浜町史(現・七尾市)
屋根ふき 建前に匹敵するほど重視されたから、ふき終わると屋根ふきを上座にすえ、
大工も招いて大サカヅキで祝った。(田鶴浜町史 p.626) 志賀町史
屋根葺き 瓦葺きの家が少なかった昔は二十年か三十年に一度屋根の葺き替えをし なければならなかったし、棟だけは年に一度は縄をかけ替えた。屋根葺きの材料は地 域によって多少の差異はあるものの、藁、麦藁、熊笹、萱、葦、すすき、それに杉の 皮、竹など、長年かかって伐採し、貯えて置く必要があった。薪小屋かアマに貯えて 置き、秋上がりか、日の長いサツキアガリの晴天の日を見はからって行われる。一日 の中に棟まで包んでしまわなくてはならないため、作業量に見合った人夫を集める事 も一家の主人としての器量であった。
先ずフルカヤ(古萱)をまくる事から始まる。棟に上がった人足が、藁のチガイを、
腰に一杯ぶら下げて、まくった萱を縛り、下に投げ降ろす。待ち受けていた下の人は 早速片付けるが、もうもうたる煤が立ち上って顔も鼻の穴もすぐに真黒になる汚い作 業である。裸にされた屋根は、タルキの上の横竹を縄で締め直し、今度は下の方から 順次葺いて上がる。庇と角の部分は最も技術を要するところであり、カヤツキで丹念 に叩いて仕上げる。萱や藁を横に並べ、カヤブキ竹と下のタルキを縄でしっかりと締 め上げていく。大きな家ではハリダケ(針竹)を使うヌイシ二人、それを受ける二人、
萱を並べるヘラ葺きに六人、カヤアゲ人足四人と合計十四~十五人が必要であった。
そのため技術を要しない人足は親戚や近所と、エー(結い)をしたが、これは何時返 されるか分からない気の長い結いで労力奉仕に近い。最後の棟吹きは大抵薄暗くなっ てから杉の皮を並べてマダケを何本も縛って抑え、化粧縄をかけて葺き上げる。葺き 終ると、とにかく風呂に入って煤を落とし、マルヤマのおひら、大根、人参の酢の物、
豆腐のオツユ、そして酒の簡単な祝宴に招かれる。親戚の者は酒一升、餅米二升、ま たは、小豆一升等を祝いのしるしに持参し、人足はツカイナワ一杷宛持ってくるのが しきたりであった。周囲四面とも一度に葺いてしまうことはとても出来ない相談で、
カタヒラ宛順に葺き、全部一廻りするのに八十年から百年も罹ったといわれる。(志 賀町史 pp.887‐891)
羽咋市史
屋根のふき替え クズヤがほとんど残り少なくなって、「ムラ」としての共同の機能 を失った。瓦屋根の出現が、瓦職人にまかせる結果になったからである。これは瓦の 出現ばかりでなく、葦ぶきの材料のカヤがなくなったこともその一因であるが、最近 では「ムラ」のどこの山のカヤでも刈ってかまわないという部落もあり、どうせカヤ は下草だから、刈ってくれたほうがありがたいというありさまである。以前には、各 戸割り当てのカヤを持ち寄って屋根ふきをし、振舞酒を飲んだことも、カヤを集める 手段としてのカヤダノモシ(葦頼母子)も忘れつつある。(羽咋市史 現代編 pp.440
‐441)
クズヤぶきの材料 宇土野町では五〇軒のうち二軒しかクズヤが残っていない。
昔は圧倒的にクズヤが多かったという。ワラブキ、カヤブキの家をクズヤといってい る。
クズヤをふく材料は地域によって多少の違いがある。麻木といって麻の木の皮をむ いたもの(バリハジキ)の上に小麦藁か藁をふいた簡単なものが、羽咋・千里浜・一 ノ宮・粟ノ保築で一般に流行した。海浜地区なので材料の入手が困難であったためで あり、それでも藁の中へヤゼを入れて少しでも長持ちさせるくふうをした。
ハネソ(すすき)・ササ・ヨシ・ヤゼ等を使った屋根は見た目もきれいであるし風雪 によく耐えた(邑知山麓、潟周辺)。
ハネソは、神子原、散田・白瀬・新宮・所司原等から購入したり、個人で刈った。
ヨシは邑知潟周辺に生えているので千田・尾長へ行って購入したり、お金を出して刈 らせてもらった。この材料は非常に高価で一軒の屋根をふくためには、年次計画を立 て準備しなければならなかった。ふつうは夏に刈りとり、家の周囲に乾燥し、冬はア マへ上げて乾燥し保存した。
ワラブキの家も、おさえやが外観を飾るため、部分的にハネソやヨシを使ったが、
貧乏な家にとっては高嶺た か ねの花で、「福野の雄谷さんの家はハネソや」と今でも語り草 になっている。
ハネソでふいたクズヤは五〇年位持つといわれ、ワラぶきはタイ風や雪のためいた みも早く、毎年のように手入れをしなければならなかった。(羽咋市史 現代編 pp.497-498)
屋根ふき 秋のとり入れも終わった頃の天気のよい日を見はからって、屋根ふきがは じめられる。「お講も屋根ふきも」という言葉があるが、ふだん着とよそゆきの着物 を区別なく使っているということで、屋根ふきはアマのすすをかむりきたない仕事で あったという。
屋根ふきで最も技術を要する箇所は、入母屋い り も やの部分と角であり、そのため特別にオ ヌイシといわれる職人をやとった。大きな家では、オヌイシ二人、中へ入る職人三人、
ヘラに六人、かやあげ人足四人、合計一五人位の人数が必要であったという。ヘラや カヤアゲは親戚や近所とエイ(結)をした。最近は全部といってよいくらい瓦ぶきに