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文書に見る井戸の記録

ドキュメント内 加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察 (ページ 195-200)

第二節 記録に見る井戸埋め

2 文書に見る井戸の記録

井戸水の使用にあたって、水の浄化装置の活用は上記の津幡町北中条遺跡SE340 の記 録でも明らかである。

水の汚染は生命にかかわる重大事であると共に、疫病の発生にも関係する。

『續日本紀』(註 1)に書かれた文と、現代語『続日本紀』(註 2)を記載した。引用の頁 数は末尾に記載した。

『續日本紀』巻七 8 元正天皇 養老元年十一月

〇癸丑

十七

。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃国不破行宮留連數日。因覧當耆 郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處無不除愈。在朕之躬。甚有驗。又就而 飲浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢 光武時。醴泉出。飲之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。

寔惟。美泉即合大瑞朕雖庸虛。何違飯天貺。可大赦天下。改靈亀三年。爲養老元年。

天下老人年八十已上。授位一階。・・・後略(p.70)

『続日本紀』(上)

〇十一月十七日 天皇は宮殿の端近くまで出られて、次のように詔した。朕は今年九 月、美濃国不破の行宮に赴き、数日間逗留した。その時、当耆郡の多度山の美泉を見、

手や顔を洗ったところ、肌が滑らかになるようであった。また痛いところを洗うと、

痛みが全く除かれてしまった。私の体にとって大きな効き目があった。また聞くとこ ろによると、これを飲んだり浴びたりする者は、白髪が黒くなったり、禿げ髪に」あ らたに生えたり、あるいは見えない眼が見えるようになったという。その他永らくの 病気もすべて治ったという。

昔、後漢の光武帝の時に醴れいせんが湧いて、これを飲んだ者は永年の病気もすっかり治 ったという。符瑞書にも「醴泉は美泉である。これで老いを養うことができる。これ は水の精霊であろう」とある。まことに考えてみると、美泉は大瑞(最大のめでたい しるし)である。朕は凡庸で劣っている。天の賜物を無視してはならぬ。天下に大赦 を行おう。霊亀三年を改めて養老元年とす、天下の老人で年八十以上の官人に位を一 階加えよう。・・・後略(pp.187-188)

元正天皇が美濃国不破の行宮へ行幸した時、多度山の美泉で手を洗ったところ皮膚が滑 らかになり、痛みも治ったという。この清水を飲んだり浴したりすれば白髪は黒くなり、

髪は生え、眼病その他疾病に効果があると記している。疫病を鎮めて不老の効果もある清 水の効用は天皇に霊亀 3 年(717)を養老元年と改元させる程の感激を与えたのである。

水の汚染による疫病の発生に関して、天平 9 年(737)藤原鎌足の次子・藤原不比等の 息子 4 人が疫病で次々と命を失った。この年の『続日本紀』には 4 月から疫病の流行とそ の対策に苦慮する天皇の様子が記載されている。

〇辛酉

四月十七日

。 参議民部卿正三位藤原朝臣房前薨。送以大臣葬儀。其家固辞不受。

房前贈太政大臣正一位不比等之第二子也。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p145)

〇四月十七日 参議・民部卿で正三位の藤原朝臣房前ふささきが薨じた。大臣待遇の葬送をす ることにしたが、その家では固辞して受けなかった。房前は贈太政大臣で正一位の不 比等の第二子である。(続日本紀(上)p.367)

〇癸亥十九日。 太宰管内諸国。疫瘡時行。百姓多死。詔奉幣於部内諸社以祈禱焉。

亦賑恤貧疫之家。幷給湯薬療之。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.145)

〇四月十九日 大宰府管内の諸国では瘡のできる疫病がよくはやって、人民が多く死 んだ。天皇は詔して、管内の諸社に幣帛みてぐらを捧げ祈願させられた。また貧しく疾病にか かっている人の家に、物を恵み与えるとともに、煎じ薬を支給して治療させた。(続

日本紀(上)巻十二 p.367)

〇壬辰

五月十九日

。 詔曰。四月以来。疫旱並行。田苗嫶萎。由是祈禱山川。奠祭神祇 未得効驗。至今猶苦。朕以不徳實致玆思布寛仁以救民患。冝霊國郡審録冤獄。掩骼理 胔禁酒断屠。高年之徒。鰥寡惸獨。及京内僧尼男女。臥疾不能自存者。量加賑給。又 普賜文武軄事以上物。大赦天下。自天平九年五月十九日昧爽以前死罪以下。咸從原免 其八虐劫賊。官人受財枉法。監守主自盗。盗所監臨。強盗竊盗。故殺・人。私鑄錢。

常赦所不免者不在赦例。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.145)

〇五月十九日 次のように詔した。四月以来、疫病と旱魃が並び起って、田の苗は枯 れしぼんでしまった。このため山川の神々に祈禱し、天神地祇に供物を捧げてお祀り をしたが、まだご利益がなく、現在に至るまで尚人民は苦しんでいる。朕が不徳のた めにこのような災難を招いてしまった。これを反省して寛大で情け深い心を施して、

人民の患いを救おうと思う。

そこで国司・郡司に命じて無実の罪で獄につながれている者がないか良く調べ、死 屍の骨や肉を土に埋め、飲酒を禁じ、屠殺を止めさせるべきである。高齢者、鰥かん・寡・ 惸

けい

・独および京内の僧尼や、一般の男女で病臥して自活のできない者には、状況に応 じて物を恵み与えよ。また広く文武官の有位の者に物を授けよ。さらに天下に大赦を 行う。

天平九年五月十九日の夜明けより以前の死罪以下、すべて赦免せよ。ただし 八 虐はちぎゃくや、

人を脅して盗みをした賊、収賄して法を曲げた役人、管理責任者でありながら自ら盗 みを犯した者、管理下の官物を盗んだもの、強盗・窃盗、故意の殺人、贋金づくりな ど 、 通 常 の 恩 赦 で 許 さ れ な い も の は 、 赦 免 の な か に 入 れ な い 。( 続 日 本 紀 (上)pp.367-368)

〇六月甲辰朔。 廢朝。以百官官人患疫也。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.145)

〇六月一日 朝廷での執務を取りやめた。諸官司の官人が疫病にかかっているからで ある。(続日本紀(上)p.368)

〇秋七月丁丑

癸酉朔 五

。 賑給大倭。伊豆。若狭三國飢疫百姓。(續日本紀 巻十二 聖 武天皇 p.145)

〇秋七月五日 大倭や ま と・伊豆・若狭の三国の飢饉と疫病に苦しむ人民に物を恵み与えた。

(続日本紀(上)p.369)

〇壬午

。 賑給伊賀。駿河。長門三國疫飢之民。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.145)

〇七月十日 伊賀・駿河・長門の三国の飢饉と疫病で苦しむ人民に物を恵み与えた。

(続日本紀(上) p.369)

〇乙酉十三。 参議兵部卿從三位藤原朝臣麻呂薨。贈太政大臣不比等之第四子也。 (續 日本紀 巻十二 聖武天皇 p.145)

〇七月十三日 参議・兵部卿で從三位の藤原朝臣麻呂が卒した。贈太政大臣不比等の 第四子である。(続日本紀(上) p.369)

時の権力者・藤原不比等はこの年の四月十七日、二男の房前を流行病で無くし、7 月 13 日、四男朝臣麻呂を無くした。大宰府・大和・伊豆・若狭・伊賀・駿河・長門と国中に疫 病は広がっていく。天皇は大赦を行ったが効は無い。

〇乙未

廿三

。 大赦天下。詔曰。日來。縁有疫氣多發。祈祭神祇。猶未得可。而今右 大臣

(武智麿)

身體有勞。寝膳不穏。朕以惻隠。可大赦天下救此病苦。天平九年七月廿 二日昧爽以前大辟罪己下咸赦除之。其犯八虐。私鑄銭。及強竊二盗。常赦所不免物。

並不在赦限。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 pp.145-146)

〇七月二十三日 天下に大赦を行い、天皇は次のように詔した。このごろ、疫病の気 が多発するので、神祇に祈祭するけれどもまだ許される様子がない。しかも右大臣(藤 原朝臣武智痲 )は身体に患いがあり、寝食も普通でない。朕は憐みいたましく思う。

天下に大赦を行って、此の病苦を救いたい。天平九年七月二十二日の夜明けより以前 の、死罪以下の物を悉く赦免する。ただし八虐を犯した者、贋金づくり、および強盗・

窃盗、通常の恩赦で許されない者はならびに赦の範囲に入れない。(続日本紀(上)

p.369)

〇丁酉廿五。 勑遣左大弁從三位橘宿祢諸兄。右大弁正四位下紀朝臣男人就右大臣第。

授正一位拜左大臣。即日薨。遣從四位下朝臣名代等監護喪事。所湏官給武智痲呂贈太 政大臣不日等之第一子也。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p146)

〇七月二十五日 勅して、左大弁・従三位の橘宿禰諸兄も ろ えと右大弁・正四位下の紀朝臣

男人お ひ とを遣わし、右大臣 (武智痲呂)の邸に赴かせ、武智痲呂に正一位の位階を授け、

左大臣に任命した。その日のうちに武智痲呂は薨じた。従四位下の中臣朝臣名代な し ろらを 遣わして、葬儀を監督・敬語させた。葬儀に用いる品々は官より支給した。武智痲呂 は贈太政大臣不日等の第一子である。(続日本紀(上) pp.369・370)

7 月 25 日、遂に長男の武智痲呂も逝った。

〇癸夘

八月二

。 命四畿内二監及七道諸國僧尼淸淨沐浴。一月之内二三度令讀最勝大経。

又六齋日禁斷殺生。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.146)

〇八月二日 畿内四カ国・(芳野・和泉)の二監げん、および七道の諸国に命じて、僧尼 は沐浴して身を浄め、一カ月の内に二、三回、 最 勝さいしょうおうきょう経を読誦させた。また毎月六 斉日には殺生を禁断させた。(続日本紀(上) p.370)

〇丙午

。 参議式部卿愃兼太宰帥正三位藤原朝臣宇合薨。贈太政大臣不比等之第三 子也。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.146)

〇八月五日 参議・式部卿兼太宰だざいのそちで正三位の藤原朝臣宇合うまかいが薨じた。宇合は贈太政 大臣不比等の第三子である。(続日本紀(上)p.370)

とうとう不之比等の三男の宇合も同じ病で逝ってしまった。

〇甲寅

十三

。 詔曰朕君臨宇内稍多年。而風化尚擁。黎庶未安。通旦忘寐。憂勞在茲。

亦自春巳來灾氣遽發。天下百姓死亡實多。百官人等闕卒不少。良由朕之不徳致此災殃。

仰天慚惶。不敢寧所。故可優復百姓使得存濟。免天下令今年租賦及百姓宿負公私稻。

公稻限八年以前。私稻七年以前。其在諸国能起風雨爲國家有驗神未預幣帛者。悉入供 幣之例。給大宮主御巫。坐摩御巫。生嶋御巫及諸神祝部等爵。(續日本紀 巻十二 聖 武天皇 p.146)

〇八月十三日 次のように詔した。朕は天下に君主として臨んでようやく多くの年を 経た。しかし徳によって人民を導くことはまだ障りがあって、人民はいまだ安らかに 暮していない。終夜眠ることも忘れて、憂いなやんでいるのはこのことである。また この春以来災厄の気がしきりに発生し、天下の人民で死亡するものが実に多く、百官 の人たちも死亡で欠けてしまったものが少なくない。まことに朕の不徳によってこの 災厄を生じたのである。天を仰いで恥じ恐れ、あえて安んじるところもない。

そこで人民に免税の優遇措置をとり、生活の安定を得させたい。天下の今年の田租、

および人民が多年にわたり背負っている公私の出挙す い この稲を免除せよ。公出挙の稲は八 年以前のもの、私出挙の稲は七年以前を限度として破棄せよ。

諸国にあって風雨を起こすことができ、国家のために効験ある神々で、まだ幣帛みてぐらの 頒布に預かっていないものを、すべて奉幣の例に入れよ。神祇官の大宮おおみや・御 巫みかんなぎ(神 に奉仕する童女)、坐摩いかすり(坐摩は皇居の地を守護する神)・生島いくしま(国土を守護する神)

の御巫、および諸神社の祝部はふりべらに位階を授けよ。(続日本紀(上)pp.370-371)

〇丙辰十五。 爲天下太平國土安寧。於宮中一十五處。請僧七百人。令轉大般若經。

最勝王經。度四百人四畿内七道諸國五百七十八人。(續日本紀 巻十二 聖武天皇 p.146)

〇八月十五日 天下泰平・国土安寧のため、宮中の十五カ所において、僧七百人を招 き、大般若経・最勝王経を転読させ、四百人を出家させた。畿内四カ国・七道の諸国 でも五百七十八人を出家させた。(続日本紀(上) p.371)

〇十一月癸酉

辛未朔 三

。 遣于畿内及七道。令造諸神社。(續二本紀巻十二 聖武天皇 p.148)

ドキュメント内 加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察 (ページ 195-200)