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第二節 工程に伴う儀礼

9 タチマイ

(2010・6・15(木)朝日新聞朝刊より要約)

奈良市興福寺の南大門跡で創建時の奈良時代初め(8 世紀前半)に埋納された須恵器 のつぼから、建物が永遠に続くよう地の神に祈った鎮壇具と見られるカサゴの一種の 魚の骨などが見つかった、と同寺と奈良文化財研究所が発表した。藤原京や、平城京 時代に創建された同寺や東大寺などから鎮壇具(7~8 世紀)は 16 例出土しているが、

魚は見つかっておらず、仏教儀礼を記した教典「陀羅尼集だ ら に じ っきょう経」などにも魚を鎮壇具 とする記述は無い。森郁夫・帝塚山大名誉教授(歴史考古学)は「仏教のやり方とは異 なり、海の幸を供える陰陽道と関係があるのではないか」と話す。

筆者の経験

筆者の生家では、2 か所あった囲炉裏にはどちらにも神棚は無かったが、 竈かまど(へっつい さんと呼んでいた)の上には神棚があった。便所と同じ形で、年末に松の小枝一本を飾り、

半紙の上に紅白の小さな鏡餅を飾り新年を迎えた。柱には年末に神社から配られる「鎮火 神符」が貼られていた。親からは三宝荒神・秋葉様・カグツチなどの具体的な神の名は聞 いた記憶はない。

囲炉裏は昭和 40 年代初期に、ダイニングキッチンとなり姿を消したが、それ以前はや はり、家長・主婦など座る場所が決まっていた。テレビの無い時代はそこで祖父母・父母 たちの話を聞くのが常だった。炭火の燃えている灰の中へ、栗やサトイモ、サツマイモ、

等を入れて焼いたものである。 框かまち(囲炉裏の枠)は足で踏むのは禁ぜられ、焼けたイモ 等は框の上に皿を置き、食べた。皮などは火の中へは入れなかった。

行儀が悪いと火箸で叩かれた記憶がある。子供は火箸も灰均しも触らせてもらえなかっ た。囲炉裏の角には、消壷が埋めてあり、就寝前には燃え残りを入れて蓋をした。

冬季の早朝、古い灰はどの家も、自宅前の北国街道(昭和 30 年頃まで今の国道 8 号線 はなかった)の雪道に、転倒防止のため播いたものである。囲炉裏へはその都度、新しい 藁灰を補充した。

以前は、家は現在のように消耗品ではなく、子々孫々百年以上使うものであった。

家を建てる時は何代も前から用意し、親戚・近所の助力で建てるものでもあった。当然、

男、一世一代の大きな事業であり、タチマイの祝いは張り込んだ。

レッカーなどの重機が無い時代、大きな家は、柱を立て構造材を組み上げるシタダチま でに二、三日を要した。「建て前」である。屋根組をし、棟木を上げる「棟上げ」は別の 日に行われた。レッカーなどの重機を使用する今日ではタチマイと棟上げは一日で終了す ることが多い。

タチマイにかんする禁忌は 河北郡誌 第七章 迷信

・三輪亡の日に上棟式を挙ぐれば其家潰るるか又は建築に従事する大工死す。p.182 石川郡誌 第十二章 迷信

・三りんぼの日に建前すれば必ず破壊す。p.367 上 など、三隣亡の日を避けた。

17『日本の民俗 石川』p.56 の記述は

タチマイ 上棟式はタチマイという。羽咋地方では、大黒柱は棟梁がのみで餅を切っ てその根もとのまわりに穴をあけて埋めるのでモチクイバシラという。タチマイには 柱にワク(糸枠)・おさ・かもじをあげ、餅・御酒を供え、祝詞の り とをあげる。ワクにオ サまる意とも、それらが女子の象徴だから天狗て ん ぐが巣をかけに来るのをはらうためとも いう。

能美郡川北村では、柱にワクを結びつけて、このワクに藁三杷と鯖さばを置く。これは 魔除けで、天狗が入らぬという。

奥能登では、タチマエイワイに親類や知人が米・酒・餅・赤飯などを贈ってくれる。

これをゴチョウという。

金沢市西部では、タチマイの日、村や親類の手伝いの人が酒を贈ってくれる。嫁の 里からは赤飯がとどけられる。まんじゅうを贈るひともあり、作業のさ中、ただ下に 立って酒を飲んでキバリミをする人もある。イップク(一服)には赤飯のむすびを手 伝人や子どもたちにも配り、酒も出す。仕事が終われば、棟梁を上座にすえ、一同に 酒をすすめる。タチマイの後、住み移るまでバンドリと笠を大黒柱に掛けておく。

珠洲郡誌 第十七章 上戸村

〇上棟。 上棟の日を建舞と稱し、其の部落より繩酒等を持ちて手傳に來る美風有り。

此時親類よりは餅饅頭等を贈る。(珠洲郡誌 p.552)

珠洲市史

タチマイ(建前) 規模の大きい、九、六間の家になれば、柱を立て、横物を渡し、

枠組みを拵えるシタダチ(下建ち)に二、三日かかる。これを「タチマイ(建前)」

と呼び、屋根組みをし、棟木をあげる「ムネアゲ(棟あげ)」は別の日に行う。四、

六間の標準的な家では、建前と棟上げが一緒になる。建前・棟上げは、三隣亡さんりんぼうの日を 避けて挙行する。「この日に家を建てると、建築主の家ばかりか、文字通り両隣りも 含め、三隣(三軒)の家が絶える」として忌み嫌うのである。石場ガチ、建前の日に、

大工は、建築主より、チュウハン(昼飯)と、ユウハン(夕飯)には酒付きで、接待 をうけた。

ムネアゲ(棟上げ) 建前・棟上げの仕事、儀礼一切は、大工の棟梁が司る。棟上げ の日は、施工主の家の仕事を手懸けてきた、木挽、石屋、左官、大工等の職人全部が 手伝いに集まる。近親者は祝儀の品―ゴチョウに長目の餅を持参し、村の近隣者は、

酒か、使い縄―エイナワを持参して、手伝いに集まる。休憩時―タバコには餅を手伝 人や職人に出し、酒も出す。棟木があがると、中央部の合掌(茅葺屋根の場合)や、

中央の束柱(瓦屋根の場合)に、棟梁製作の御幣と、榊の枝を結びつける。この際、

真言宗の家では、棟札をつける。御幣と榊は、神様が宿り、家を護って戴くので、永 久に取り外さない。御幣と榊の真下の位置に、御神酒と餅を供え、棟梁が神主代わり となり棟上げまでの仕事の無事終了を感謝し、家の繁盛を願い、祝詞をあげる。つい で、御神酒を四隅の柱に注ぎ、「四方固メ」をし、大戸口の柱・鬼門・裏鬼門と順に 注ぐ。

建築主は、棟上げを祝い、財相応の力一杯の料理で大酒宴を催し、感謝と慰労の意 を尽くす。御幣と榊の真下の位置をショウザ(正座)とし、棟梁が着席し、上座に職 人や村の親っ様、下座に村人、親戚がコの字型に座る席―ネマリ座を設けて酒宴の席 とする。この宴に先だち、建築主は、棟梁以下手伝いに集まった職人総てに、日稼ぎ

(日給賃金)の二倍の金額を祝儀とし、あわせて熨のし付きの箸か、扇の何れかを贈る慣 行であった。箸は「端に通じ職人の仕事は最初の段取りが大切である事」を意味し、

扇は「末広で、職人の技能の高揚発展と、 要かなめの効いた仕事」を意味し、職人にとっ て、縁起の良い品物なのである。酒盛りの席で、棟梁は「マワルサカズキ(廻る盃)」

を司る。棟梁は、参加者の協力による棟上げの無事完了について挨拶した後、朱塗り の輪島塗の七枚重ねの盃を示し、「廻る盃をしますが、盃は七枚の中のどれにしまし ょう」と呼びかけ、総意で盃を選び、棟梁を最初に、祝唄を肴にして、上座より順次 下座の方へ盃を回す。席を一巡した盃を、棟梁は建築主の処へ持参し「盃の中に、今 日の出席者全員の御苦労と、祝いの気持ちが入れてありますので、受けてもらいます」

旨を伝え、祝唄を添える中で、建築主は盃を口にする。さらに、盃は家族の人々や、

台所の女衆にも廻って行く。この際、大鯛の焼魚―ムシリ魚が、廻る盃と共に出され、

参集者に少しあて、配られる。帰りには、建築主は、ゴチョウとして貰った長目の餅

を、奇数の数で、参集者に贈った。(珠洲市史 第五巻=資料編 近・現代 民俗編 pp.749-751)

珠洲市史 タチマイ の一行目に出て来る「規模の大きい、九、六間の家」とは 9×6 間つまり一階部分が 54 坪の家と云う意味である。石川県の市町村史を見ていると、藩政 時代は身分による家の広さの制限があったようで、四、六間の家と言う表現が数多く見ら れる。

一階部分が 24 坪に規制されていたのであろう。ただ、逃げ道は有ったようでクズヤ(茅 葺の家)に瓦葺きの下屋(

ゲヤ・ギヤ・

一階の建て出し部分)を後から付け、面積を増やしたと いう記述もある。縁起かつぎ・語呂合わせでは「箸」や「扇」に見られる。

近隣からタチマイに持参するものとして、珠洲郡誌には縄、珠洲市史には「エイ縄」と あるが「結い縄」であろう。藁縄は屋根葺きに大量に必要とするからである。

木挽き、石屋、左官、大工が手伝いに集まるのは、材料の調達(木挽き)、石塲搗ちの 指揮(石屋)、三和土 などの土間や内壁、外壁の漆喰仕上げ(左官)と工事に深く関係す る職種の人達である。

上戸村史(現・珠洲市)

タテマエ(建舞の意という)所謂上棟式で一番めでたい、そして又盛大に行われる 行事である。同部落(同一垣内)の家からは酒一升とエー縄(結縄の事)二把と労働 力一人、周囲の親類は酒とフチ(把手のある楕円形の櫃で、餅を一杯つめてくる)或 いは饅頭、エー縄を持って集まる。この時およその柱組がなされ、棟梁が上に上がっ て胴づきにつけてあった榊をたて、お祈りをして、一升瓶の酒を少し振りかける。

テッタイの人々には昼食が簡単にすまされるが、晩になると、棟梁を主賓に脇棟梁、

在所のオヤッサマ等が床柱に座り、ついでにその他の大工、左官、石屋、特に関係の ある材木屋などが正客となり一緒に招待される。

大家ではこの為にその他の家等の座敷を借りて行うが、普通はその場で、集めてある 板や材木を御膳のようにして行われる。

メデタメデタの若松様や 枝も栄える 葉も茂る

というような歌を肴に盛大な宴が催されるわけであるが、棟梁以下大工・左官・石屋 等に祝儀が出される。

このような在り方では、一日のテッタイをヒョウ(給料)に見積もっても、今日の 状態では飲食代がより高くつくのでだんだん行われなくなった。又現今は請合いが多 くなったということにも原因があるのだが、要するにふるまいの高くつく事と機械力 を利用するようになった事が最大原因であった。(上戸村史 p.434)

上戸村でも近隣や親類から「エー縄」を持って来る。

ドキュメント内 加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察 (ページ 67-88)