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まとめと考察

ドキュメント内 加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察 (ページ 127-188)

である。

・残った儀礼は、古くからの慣習の消極的な継承の吉日占い・便所への儀礼・大黒柱の縛 り物・天狗の忌避と、地鎮祭・タチマイ・ウチアゲ・オワタマシ・ヤウツリイワイなど の、一生に一度の節目の祝いの積極的儀礼とに分かれる。

以下、建築工程毎に考察する。

1 吉日占い

インドの建築儀礼が福島県会津只見地方の職人巻物に含まれる断片的な儀礼の記述に 現れている。建築予定地に四季ごとで異なる位置を龍が占め、その龍の体を損なうとさま ざまな災厄が興るという儀礼の枠組みは、龍伏の儀式とヴァーストゥナーガに共通して見 られる。「龍伏」は大神おおみわ神社の史料に「春 南一 北二 東三 西四」等、四季に応じた柱立 ての方角が示されている。

内浦町の『止書帳』に「家普請吉日ノ事」として、六月十日 北の方から柱を立て初め 南を立て、西を立て東で立納めとなっている。その順の根拠を示す文書として『大神神社 史料 第五巻 三輪流神道篇 乾』p42 上段と p385 下段にも同文が記載されている。

イ无∴龍伏之大事

・春南一北二東三西四 ・夏北一南二西三東四

・秋東一西二北三南四 ・冬西一東二南三北四

此ノ如ク柱ヲ立ツ可シ。違逆セバ祟リニ成ラントス、云々。

とあり、『匠家故実録』立柱の式禮 p.25 には

立柱の式は其造作建物を 營いとなみ立るの初なれば諸事忽ゆるかせにすべからず且四季に應おうじ て柱を立初る次第の順あり春季中は南方より初て北方東方西方と立るなり夏季中は 北方南方西方東方と立たてる秋季中は東方西方北方南方と立る冬季中は西方東方南方北 方と立るなり(後略)

と書かれており立柱の順は全く同じである。

『只見町文化財調査報告書 第8集 会津只見の職人巻物』p96 には、

龍伏リウブセ次第シ ダ イ

大事 大聖文殊菩薩

ダイシヨウモンジユボサツ

ノ玉ハク

大地ダ イ ヂノ底ソコニ大龍王有アリコウジン(註 1)ニナリト 先

マツ

辰巳(南東)

ヨリ

戌亥(北西)

オサムルナリ納 也 堂塔

ドウトウ

ヲハ

戌亥

ヨリ

辰巳

立テ 納 也ヲサムルナリ 柱 立

ハシラタテ

龍伏之リ ウ ブ セ ノ次第シ ダ イトハ 腹 背 足 頭はらせなかあしかしら

辰巳

正月

はら 戌亥

二月

せなか背 丑寅(北東)

あし 未申(南西)

かしら頭 夏

戌亥腹ハラ 辰巳背中せ な か 未申足あし 丑寅 頭かしら

丑寅腹はら 未申 背せなか 戌亥足あし 辰巳 頭かしら

未申腹はら 丑寅 背せなか 辰巳足あし 戌亥 頭かしら 四季 はしらだて柱 立之第能々ダイヨクヨクカンガエアルベシ考 可 タタリアル祟 有故也ユヘナリ

かしら

レハ

父母 師匠シ ヤ ウ

あし

レハ

眷属死ケ ン ゾ ク シ

せなか

レハ

妻子死サ イ シ シ

はら

レハ

満福繁盛也マンフクハンジヨウナリ

柱立

向方

正五九

戌亥巳

ムカフ向時

ツ二六十

未申巳

向立

シ三七十一

戌亥巳ニ向時

シ四八十二

丑寅巳向

東方 南方 西方 北方 此

土公神

合掌メ歌ニ曰ク 霧キリ

雲クモ

ノ晴ハレユク空ソラノ時トキニコソ 心ノ月ハアラワレニケリ(後略)

とある。(原文を読み下し文にし、(方角)を加えた)

会津職人絵巻に記載の「龍伏次第ニ立ル大事」は、真東・真南・真西・真北の方角を示 さず、その中間の方位を表している。

春の辰巳(南東)は大神神社史料・匠家故実録の柱立て順では南である。戌亥は北。丑 寅は東。未申は西である。45 度右回り隣りの方位を指す。夏秋冬も同様に見れば、三つの 資料の方位は一致する。

つまり春は龍の腹が辰巳(南東)で龍の頭が未申(南西)にあり、柱立はその間の南が 最初である。二番目は背と足に挟まれた北、三番目が足と腹の間の東、最後に頭と背の間 の西に立てるということである。夏も同様で最初の柱は頭と腹の間の北に立てる。秋は東 が、冬は西が最初となる。。季節により満福繁盛の方位(腹)に最初の柱を立て、背、足、

頭の順に立てるということである。

龍伏せに関する記述は『簠簋傳・陰陽雑書抜書』p.250 に季節毎の龍の腹・背・足・頭 の位置と柱立の順が記載されている。只見の記述と一致する。

大神神社は真言神道に属する。当然、三輪系の家相学は高野山にも伝わっている。

一方、江戸期には斑鳩の家相家松浦久信が著した『匠家故実録』や、平安時代に安倍晴 明が編纂したと伝承される『三国相伝陰陽輨轄内伝金鳥玉兎集』通称『簠簋内傳ほ き な い で ん

』や『雑 書』も広く流布されていた。

雑書は平安時代から作られ、幕末頃には、100 種以上の雑書が刊行され、暦占書以外の 分野の記述が付加され、百科事典の様に使用された。

能登に多かった真言系の八卦見はそれらを基に、前田孫太郎家の『家普請地相家相改止 書帳』を書いたと推察する。現在は能登でも、柱立の順を季節によって変えることはして いない。

インドから仏教と共に伝わった建築儀礼が、中国を経て日本に伝わり、陰陽道と結びつ き、雑書や簠簋傳として巷間に流布していった。

福島県只見地方では、樹木を伐採し加工をする職人を古くから元山と呼んだ。元山は、

建築材の造材をする。施主の依頼を受け、大工頭とう(棟) 梁りょうの木割表にもとづき、山中から 適材を選び伐採し、これをヨキ(斧)で削ったり鋸で挽いたりして建築用材に仕上げる。

只見地方でいう「元山」は、一般に云う「木挽き」のことで、只見においてはタチマイ では番匠(大工)より上位を占め、建築儀礼を取り仕切る。

只見地方では旧暦二月十二日は「山の神の日」で、各家では早朝に洗せんまいをクボウス(臼) で搗いて粉にし、オカクラ( 粢しとぎ)(註 2)を造って山の神の歩頃に供えて山中安全を祈る。

その日は山仕事を休まないと不慮の事故に遭うとされている。(只見町史第3巻 民俗編 p.57)

用材の「見立て」が終わると忌み日を避け、吉日を占って伐採を始める。忌み日は寅と 申の日である。その他、三隣亡と毎月の朔ついたちは避ける。(前掲書 pp.250-251)

山神については、同様の習俗は津幡町倉見地区(註 3)にも残っている。冬季に入る 12 月 9 日、集落の裏手の山裾に安置された福井県産笏谷石製で唐破風屋根の祠に旗を立ち並べ、

供え物をし参拝する。春季は同様に 3 月 9 日山祭をし、祭日以後から山仕事にかかる。こ の日は昔から山に関係する職業の人達は仕事を休んで祭りをしたが、この日は「山へ行か ぬ」、もし、「行けば怪我をする」「刃物を持たない」や「ユキ(細身の斧)や鋸には手を掛 けぬ」などといわれ守られてきた。

石祠(註 4)(高さ 86cm・幅 43cm・奥行 45cm)の中には高さ 30cm×15cm角の石 二個があり、「山神 明和七年(1770)二月九日出村□次郎」「祇園(註 5)明和七年□□□□

□」と刻してある。

下の写真は

河北郡津幡町倉見・宮谷の山神石祠 中に『山神』『祇園』の石柱

2010 年 12 月筆者も参加したが、現在ではその祭事を行うのは、同じ集落の、山を所有 しない人が依頼され一人で行っており、前日旗を立て、当日は菓子などのお供えを並べ参 拝し、片付けるだけである。早晩、この風習も無くなるであろう。

山祭に関する風習は各郡誌や市町村史にも残っており、その日の禁忌は第三章第三節に 記したが、禁忌を破ると祟るのは、天狗・山神の二通りある。

同じ日に鍛冶関係の『 鞴ふいご祭り』があり、関係者は仕事をしない日である。

筆者は『鞴祭り』には縁がなかったが、『山祭』には参加した。現在でも当地では、12 月 の『山祭』には木材商、製材会社が取引する建築会社の関係者や大工を招き、市内の料亭 や、加賀・能登の温泉へ招待する慣習がある。

現在、一般の施主は日柄や親鸞の命日である 28 日の精進日などに拘る人は少なくなっ た。地鎮祭やタチマイの日は、なるべく大安または友引を選びたいという程度である。

タチマイの日は三隣亡・友引・精進日を避けるという記述は、珠洲市史・内浦町史・大 徳(現・金沢市)郷史・金沢市史・富奥(現・野々市市)郷土史・小松市史にあるが、富 山県、福井県の市町村史にはそれらの記載はない。筆者は、それらに拘る顧客に会った経 験はない。

しかし、能登島の東部には浄土真宗門徒でも七尾市の山寺地区にある真言宗寺院へ、日 取りを占ってもらいに行く人達が多数いる。

(註 1) 土公神は陰陽道の神。土を司る。季節により移行し、春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭にい る。その季節に、土公神のいる場所の土を動かすと、崇りがある。

(註 2) 只見地方でオカクラと呼ぶ粢(しとぎ)は、水に浸した生米を搗き砕いて、種々の形に固めた食 物。神饌に用いる古代の米食法の一種。タチマイの際に出す地方(内浦町史 p827 内浦町不動寺地区 や福井県大野市史 民俗編 p.105)もある。火を通さないことで、火災逃れの意味があるがあまり美味し くはない。後世は、もち米を蒸して少し搗き、卵形に丸めて食した。

(註 3) 倉見には 4 つの小字があり、西から出村・伴ばん・大谷内お お や ちが並び、南に離れて 宮 谷みやんたんがある。石祠 は宮谷にある。

(註 4) 石祠は明治四年に出村から現在地へ、移されたもの。 津幡町史 pp.700・701 (註 5) 「祇園」は京都祇園八坂神社の祭神である植林の神スサノオを意味する。

2 山出し

現在は自家の新築・改築工事に、持ち山の木を伐る人は見られないし、その為の共同作 業による山出し作業は見られない。

近年、植林、枝打ち作業、下草刈り、間伐などの作業に携わる人も高齢化し、その数も 減少してきた。また、木出しのための林道整備や、林から川を挟んだ対岸の林道へ渡す索 道(ケーブル)工事などの経費がかさみ、国産材はコスト高とならざるを得ない。

能登では山が深く、自動車の入れる林道の整備も進まないので、近年まで木出し馬がい

ドキュメント内 加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察 (ページ 127-188)