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第2章 新教育大学の歴史

第1節 大学院設置基勤制定

第2章新教育大学の歴史

第1節大学院設置基勤制定

 戦後の学制改革により新制度の大学と大学院が発足することになっ た。国公立大学での大学院の発足は私立大学より後れ昭和28年(注5)

からであるが、現在では国立大学のおよそ5分の4が大学院を置い

ている(注6)。

 先のとおり、この新制大学大学院は主としてアメリカの大学・大 学院に範をとったものであった。大学院設置基準(昭和49年6月目が 制定されるまでは、大学院設置審査基準要項(昭和27年10.月11日)が 実際上の規定になっていた。大学院設置基準(文部省令)と大学院設 置審査基準要項(大学設置審議会の基準)は、たんに法令上の違いだ けでなく、内容において(特に修士課程が)違っていたのである。そ の違いとは、大学院設置基準の修士課程目的に「・・…  高度の 専門性を要する職業等に必要な高度の能力を養うこと」が付け加え

られたことであった。 そこで、大学院設置基準と中央教育審議会 第19回答申「大学教育の改善についての(答申)」(昭和38年)を中心 にして、新教育大学・大学院への布石をみる。

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1 大学院は何をするところか

 (1) 旧制大学院

 旧制大学時代の大学には必ず学部と大学院があった。私立大学も 例外ではなかった。大学院問題の経緯を語る際に、まずこの事実を 忘れてはならないとする考え方がある。それは「事実は実際上の運 営がどうであれ、大学が教育と研究の場であるという理念のひとつ の制度化であったと考えることができる」(注7)とし、さらに、「大 学院は極thて特殊な場であり、研究者志願のごく少数の人を時折収 容する制度だったのである」としている。つまり、旧制大学院に進 学するといっても、修了や卒業というものはなく、形式的な資格と 一切無縁であり、当然そのたあの講義や演習はなく、ただ研究室で 研究に従事しているだけということだった。この意味では、旧制大 学院は教育制度でもなければ、教育機関でもなかったといえよう。

そのことでは、旧制大学院在学者は「学生」というよりもむしろ「研 究者」であったといえよう。戦前における高等教育の主流は大学院 ではなく、あくまでも大学=学部にあったとみることができる。

 さらに旧制大学院を語る面忘れてはならないことの一つに、戦中 から戦後の約10年間つついた特別研究生制度があるといえる。戦前 の末期、昭和18年9月に発足したこの制度は、大学院制度を基盤に

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して実施された制度であって、戦後の新制大学院制度にある種の先 駆的制度になった点も無視できない。

 太平洋戦争の激化していった昭和17年8月、中学校・高等学校・

専門学校・大学等の年限短縮が決定されたが、この時の修業年限短 縮に伴う学力低下と研究者不足を補うため、大学院を活用し特別の 研究生制度を発足させる方針がほぼ固まった。昭和18年9月29日、

文部省令第74号をもって「大学院又ハ研究科ノ特別研究生二関スル 件」を公布し、この制度実施にふみ切ったのである。文部省は9月 29日発表の趣旨説明で「殊二科学戦、思想戦タル様相が益々激化シ タ現下ノ情勢二於テハ学術ノ研究上洵二焦眉ノ急トナリ又研究者二 其ノ人ヲ得ルコトハ極メテ肝要ナルコトトナツタノデアル」とも述 べていることこそが、この制度の本当の目的であった。趣旨説明と 共に発表された要綱には、初年度の選考に際しては「特に決戦下戦 力増強二直接関係アルモノ帰命」って選ばれる、といった条項があ

ることからも、本制度の性格を推察することができよう。

 特別研究生に採用される年限は2年間あるいは5年間であった。

またこの制度は大学院や研究科を置く総ての大学院に摘要されたわ けではなかった。初年度は、官立大学として東京・京都・東北・九 州・北海道・名古屋・大阪の各帝大と東京商科大学・東京工業大学

・東京文理大学、私立大学では慶応義塾大学・早稲田大学の計12校

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が選ばれたのである。特別研究生には、月額90円以上の学費が支給 され、研究費用は免除された。その上採用決定後は入営延期措置が

あった。

 この特別研究生制度の意味について、この時の1期2年、2期3

年という年限の切り方が、戦後の新制大学院制度の実質的な先駆で

あったとする説がある。新制大学院をアメリカ型大学院の導入だと みる見解は浅見だというのである(注?)。しかし、新制大学院の特 質(博士にかわる修士の新設、講義・演習の全面的導入など)は、「特 別研究生制度を含めた戦前の日本の大学院制度の延長や継承ではな い」(注8)のであって、制度的でなかった旧制大学院に一定の定型性 を与えた効果として認められなければならない(注9)と考えること ができる。

 (2) 新制大学院

 戦後の学制改革により、新制大学制度に付随して新制大学院が生 まれた。新制大学院をみるには、まず新制大学の性格を概観する必 要があろう。戦前の大学が国家枢要の人材を養成することを目的に したのは周知のことであるが、「新制大学はアメリカ型の市民教育を 指向し、狭い範囲の専門知識よりも幅広い市民的教養の修得に教育 の重点をおこうとした」(注10)。 しかし、世間や大学人が新制大学

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に要求したものは、結局、旧制大学的な専門教育だったのである(注

11j。このため、「新制大学の理念」は実質的に定着しないまま、旧 制高校後半と旧制大学の教育内容を4年間に圧縮する形で、専門教 育機関としての新制大学ができ上がってしまった。アメリカ式なら ば、専門教育は修士課程に移行させておくべきだったのであろうが、

そこまで追随できなかったというわけである。したがって、新制大 学大学院はやはり研究者を志す特殊な人達だけが進学する場所と受

け取られており、決して高等教育の主流ではなかったのである。

 とはいらても、先にみたように新制大学院と旧制大学院とは明ら かに違うのである。新制大学院においては、講義・演習の単位の義 務化、定員、修業年限規定、修士課程の新設があった。換言すれば、

大学院が「学校化」したのである。旧制大学院の在学者が「研究生」で あったのに対して、新制大学院の在学者は「学生」となったといえよ

う。制度上のこの変化はやがて、オーバー・ドクター…一問題の遠因の ひとつとなるのである。

 新制大学院が高等教育の主流ではなかったとはいえ、その後の高 度経済成長との関連でその位置付けが徐々に変化していくのである。

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2 大学院をどうするか

 中央教育審議会第19回「大学の改善についての答申」が昭和38年1 月28日に行なわれた。この答申は新制大学について言及したもので

ある。

 内容に入る前に少し中央教育審議会の性格、本論文での扱い方に ついて確認しておかなければならない点があろう。

 中央教育審議会は昭和27年6月6日の文部省設置法の一部改正に より、 「中央教育審議会は、文部大臣の諮問に応じて教育、学術又 は文化に関する基本的な重要施策について調査審議し、及びこれら の事項に関して文部大臣に建議する。」(文部省設置法第7条2項)

機関として設置された。翌28年1月に発足し、今日まで答申・審議 経過報告等をおこなってきたことは周知の事実である。中央教育審 議会の成立過程の事実等から(注12)「中教審は成立の当初から、時 の文部大臣が、つまり政策策定主体が任意に任命できる委員による、

文部大臣の諮問に応じる機関であって、第三者機関などといえるも のではない」(注13)、また「文教政策が策定されるに至る過程に、反 対意見を合理的に吸収するその仕組みはなく、事実、学界代表や教 組代表は一度もメンバーとなっていない。会議は運営規則によって 非公開である」(注14)とし、したがって「教育における資本の論理の

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貫徹、資本の立場よりする合理化の要求は、まずもって占領期教育 政策の是正、その再編と合理化の要求としてあらわれた」(注14)と する指摘もある。中央教育審議会にこのような背景があることを否 定はできない。しかし、本論文では、このような背景を云々すると

いうのではなく、上記の指摘があることを確認しながらも、中央教 育審議会が大学・大学院に関してどのような事を答申したのか、に 重点を置いて述べるものである。

 中央教育審議会第19回「大学教育の改善についての答申」の中で、

「新制大学の制度は、戦後における教育改革の一環として、学術研究、

職業教育とともに、市民的教養と人間形成を行うという理念に基づ いて発足した。しかるに、実施後上数年の実績をみると、所期の目 的が必ずしも十分に達成されていない」とした上で、「歴史と伝統を 持つ各種の高等教育機関を急速かっ一律に、同じ目的・性格を付与 された新制大学に切り換えたことのために、多様な高等教育機関の 使命と目的に対応しえない」ということが重要な原因の一つである

とした。そこで、高等教育機関の水準として三つ考えている。

ア) 高度の学問研究と研究者の養成を主とするもの イ) 上級の職業人の養成を主とするもの

ウ) 職業人の養成及び実際生活に必要な高等教育を主とするもの  であり、現時点ではそれぞれ大学院、大学学部、短期大学がほぼ

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