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32.01 USSD 2006 報告書の記録によれば、

「法は1951年の米国合衆国難民の地位に関する条約またはその1967年議 定書に従って、難民収容所または難民の地位の許可を規定しないため、政府は 難民に保護を提供する制度を確立したことはなかった。実際のところ、政府は 迫害を恐れる国に民を帰還させるルフールマン(強制送還)を防ぐ保護措置を いくつか規定した。政府はUNHCRと協力の上、UNHCRが取材を行い、ケー スバイケースで難民と認めた個々の避難民に対し、暫定保護措置を提供した。

[2a] (2d項)

32.02   国連難民委員会『世界難民調査2004』が述べたところによれば、:

「2003年末時点で、バングラデシュはおよそ11万9,900人の難民と避難民 を受け入れた。これには、バングラデシュおよび国連難民高等弁務官(UNHCR) が多くを難民と認めたビルマのロヒンギャ難民およそ1万9,800人、1993年 を境にバングラデシュに逃亡し、バングラデシュから違法移住者とみなされ

UNHCRの支援を受けなかったロヒンギャ族1万人、UNHCRから難民と認定

された他国籍者49人、さらにUNHCRの前に主張が保留中のビルマ人8人が 含まれた。」 [37b] (p1)

米国難民・移民委員会(USCRI, 元USCR) 『世界難民調査 2006』が述べた ところによれば、2005 年を通じて、ルフールマンの事例は報告されなかった が、伝えられるところによれば、バングラデシュ当局はビルマから逃亡したロ ヒンギャ族難民が自発的に帰還するように「圧力をかけた」。[37f]

ロヒンギャ難民

32.03   米国難民委員会(USCR) 2000年国別報告が述べたところによれば、

「1991年後半から1992年初めにかけて、およそ25万人のロヒンギャ人が バングラデシュに逃亡した。ロヒンギャ民族はイスラム教徒で、ビルマでの宗 教その他の迫害行為を申し立てている。その難民は当初、ロヒンギャ族と民族 的および文化的結びつきを共有するバングラデシュ人に歓迎されたが、難民と 地方住民間の関係は程なく険悪になった。1992年半ばから1999年にかけて、

23万人を超えるロヒンギャ族がビルマに送還された。自主的に帰還した者も いたが、大多数はバングラデシュ政府に帰国を余儀なくされた。」[37c]

USCR 『世界難民調査 2004』の推定によれば、2003 年末時点で、バング

ラデシュは多くがバングラデシュおよび国連難民高等弁務官(UNHCR)に難民 と認められたビルマのロヒンギャ難民およそ1万 9,800人に加え、1993年を 境にバングラデシュに逃亡し、バングラデシュから違法移住者とみなされ

UNHCR の支援を受けなかった他のロヒンギャ族 1 万人を受け入れていた。

[37b]

32.04   USCRI 『世界難民調査2005』によれば、

「バングラデシュは、過去に不正な刑事告発を伴う逮捕、身体的虐待、食料 配給および医療の差し控え、およびキャンプでの恣意的移転が組み込まれた強 制送還慣行を開始すると脅迫する方法で、ミャンマーから逃亡したロヒンギャ 族難民への圧力を強化し、帰還希望申請書に署名させた。当局はまた、国境警 備も強化し、新たな到来者の流入を鈍化させた。[2004年]10月、ミャンマー において政府指導者がKhin Nyunt 将軍を追放し、状況が改善すると、難民の 流入は止まったが、この状況はミャンマー軍が権威を回復した2005年2月に 覆された。[37e]

USCRI『世界難民調査 2006』の記録によれば、 2005 年には、UNHCR が

インセンティブの一環として収容許可に225米ドルを供与する提案を2005年 1月に発表したにもかかわらず、2004年の210人を下回る92人のロヒンギャ 難民がビルマに帰還した。この報告によれば、「一部の[難民] はキャンプ職員 から帰還を強制され、土壇場で拒否した者もいればミャンマーへの国境を越え た直後にバングラデシュに立ち戻った者もいるという。ミャンマーでは、政府 当局はバングラデシュへの違法出国を理由に283人を起訴した。」[37f]

USCRI 世界難民調査2007が述べたところによれば、

「正式な送還執行は2005年に停止されたが、バングラデシュ当局は2006 年3月1日に、75人のミャンマー人をミャンマー当局に引き渡した。強制送 還者の中には、何らかの手段で密かにバングラデシュ戻り、難民キャンプで親 戚と食事や寝場所を分け合う者もいた。政府もミャンマーのロヒンギャ族難民 を可能な限り多く国境の段階で帰還させた。…政府は場合に応じて、都市部の UNHCR公認難民に加え、当局がCox’s Bazar 地域のKutupalongおよび Nayapara 難民キャンプに拘束したミャンマーのロヒンギャ族2万6,200人に も難民収容所を許可した。非登録者の推定人数は10万人から30万人の範囲と され、その多くは強制送還後ミャンマーから帰国し、Cox’s BazarやBandarban 県での合法的地位なしに、キャンプ外で暮らしていた。Naf [Teknaf] 川とハイ

ウェイに挟まれた仮設キャンプにはおよそ1万人が暮らしており、2005年か ら2006年にかけて約25人の難民が車に轢かれて死亡した。」 [37g](p31)

32.05   USSD 2006 報告書の記録によれば、

「 [2006年]を通じて、政府はビルマのロヒンギャ族の難民収容所を拒否し た。政府はこの難民を違法経済移住者に組み入れ、可能な限り多くを国境の段 階で帰還させた。UNHCRによれば、政府に送還された一部の難民は、難民の 地位を与えられた。UNHCRの難民キャンプの非登録難民は、ビルマに公式に 送還された後、違法な手段で帰国した。難民キャンプ職員は何度にもわたって、

一部の非登録者を警察に引き渡し、その非登録者はその後外国人法の下に投獄 された。その年の末時点で、Cox's Bazar 地域の現地刑務所には71人のロヒ ンギャ難民が収監されていた。うち5人は判決を受け、残る66人は拘禁され たままであった。また、その年の末時点で、Comillaの刑務所に2人、Chittagong に2人のロヒンギャ人がいることがわかった。UNHCRに登録されない別のビ ルマ人2人は現在服役中で、さらに261人が裁判待ちの状態で拘禁されていた。

政府によれば、UNHCRの協力を得て政府に登録された2つの正式な難民キャ ンプには、2万1,322人のロヒンギャ難民が残っていた。しかし、UNHCRの 事前推定ではその数は2万8,000人に見積もられた。その地域で活動する国際 救援組織によれば、正式に難民登録されていないロヒンギャ族およそ20万人 がTeknafおよびCox's Bazaarの周辺地域で生活している。」 [2a] (2d項)

32.06   2005年9月、UNHCRは政府が運営するCox’s Bazar 管区のNayaparaお

よびKutupalong難民キャンプ の生活条件について報告書を公表した。それに

よれば、「キャンプの難民は Mahjees と呼ばれる難民指導者およびその部下 から受けた殴打、食糧配給の権利を与える家族簿の没収、金銭の恐喝を訴えて いる。」バングラデシュの UNHCR 代表が確認したところによれば、かかる 主張の多くは真実であり、UNHCRはその問題に何度も当局の目をむけさせた。

2005年7月にNyaparaで発生したMahjeeの殺害およびKutupalongにおける 権力闘争の末の難民3人の殺人、多くの逮捕者と他数百名の難民のキャンプ脱 出に至った Kutupalong での殺人事件等、昨年発生した一部の暴力事件に難民 が恐怖を感じ精神的外傷を負っているのは明らかだった。2つのキャンプの生 活条件は標準外と表現され、住居が過密状態で、修理または改装が極めて必要 とされた。児童はキャンプ人口の 65%を構成する児童は偏った教育を受けて おり、しかもこれはミャンマー語で行われていた。しかし、児童の大多数は

Chittagong の方言を使い、ベンガル語を話す児童も多かった。一部の難民は

Mahjee およびキャンプ職員から帰還を脅迫されたと主張した。伝えられると

ころによると、それを強制された者は1 人もいなかった。2005年 1月から 8 月にかけて、およそ 90 人の難民がビルマに帰還した。バングラデシュ現地当 局は、キャンプ居住者の一部は武器の不正取引や麻薬の密輸、さらにテロリズ ム等の犯罪行為に関与していることを確信しているが、これまでのところ上記 の犯罪に関する有罪判決はなかったと伝えられた。正式に許可されていないが、

キャンプの難民が地元コミュニティで働く事例があった。 [67c] 『バングラデ シュにおけるロヒンギャ族の10 年』と題する2002年4 月の国境なき医師団

(MSF) Reportが述べたところによれば、「ここ10年を通じて、ロヒンギャ難

民の大多数が栄養失調状態にあった。閉鎖的なキャンプ環境の中で、難民は依 然として十分な食糧を与えられていない。現在、難民児童の 58%および成人 の53%が慢性的栄養失調である。」。[29a] (p12) USCRI 2006 報告書によれば、

「難民キャンプの児童 65%が慢性的栄養失調に苦しんでおり、13%は急性栄 養失調を抱える。政府はUNHCRがキャンプ収容所を改築することを許可しな かったが、その多くは修理を極めて必要とするものだった。」[37f]

32.07 USSD 2006 報告書の指摘によれば、

「難民キャンプの状況は[2006年]9月までは依然として悪化する一方であっ た。その年の末に、Cox's Bazar近隣のロヒンギャ難民キャンプに対する政府 の態度について多少の進歩が見られた。政府職員の交代後、UNHCRと政府は 改善措置の実施について合意に達することができた。例を挙げると、地盤が落 下しつつある収容所の代用施設を建設する試験プロジェクトが開始された。m た、トイレの増設プロジェクトが着手された他、政府は教育水準の向上に同意 し、NGOがキャンプで活動を再開するのを了解した。政府はこれに加えて、

UNUCRその他の国際組織およびNGOと協力してキャンプの水準改善を図る

新たな意向を示した。」 [2a] (2d項)

32.08   2007年3月22日のUNHCRの新聞発表が述べたところによれば、 政府は 最近、ロヒンギャ難民キャンプ 2 箇所の改善措置の一環として、Kutupalong キャンプに20の保護施設を新設した。UNHCRは最終的に2箇所のキャンプ の保護施設をすべて建て替え、2007年中に2200人が新しい施設に移動する予 定の計画を確認した。このプロジェクトは欧州委員会からの資金供給で

UNHCRが出資することになった。国境なき医師団(MSF) は両キャンプに診療

所を開設する計画に着手したと報じられた。同国のUNHCR代表は、「バング ラデシュの難民キャンプは依然として国際基準に達していない …しかし、バ ングラデシュ政府が重要な改善措置に協力することになったのは本当に素晴 らしい知らせである。」と述べたとされた。 [67f]

32.09   2005年7月19日のUNHCRの短報は、難民キャンプに入れず−ビルマとの 国境を成すTeknaf(Naaf)川の感潮域の浅瀬で生活する6000人ないし1万人の ロヒンギャ族の苦境のあらましを述べた。同報はその状況を「極めて危険で悲 惨さの極致」と表現した。河川域の浅瀬はモンスーン季の季節的な高潮や洪水 またサイクロンの影響を極めて受けやすい。その短報によれば、現地には給水 設備も衛生設備もない。UNHCR の報告書の意見によれば、

「UNHCRが懸念する集団は登録されていない人々である。政府運営の2つ のキャンプで暮らすロヒンギャ難民と唯一違う点は、1991-92の流入期にキャ ンプに存在しなかったか、1994年の難民の地位の証明期限以降に入国した点 である。その集団のロヒンギャ族が登録されずにキャンプ外で暮らしていたと しても、バングラデシュに来た理由はキャンプ難民と同じである。」[67a]

UNHCR の述べたところによれば、政府はその集団の移動を求める国際社会の

要求に応じなかった。バングラデシュ当局はその集団を合法的難民ではなくビ ルマに帰るべき密入国者とみなした。[67a]

32.10   UNHCRが2007年3月7日の新聞発表で述べたところによれば「Naaf川近 隣に定住した6000人を超える難民の仮設収容所を取り壊すとするバングラデ シュ政府の『脅迫』は、UNHCRが政府、資金援助機関およびパートナーの協 力の下に関係者の恒久住宅を開拓しようと提案したことにより、かろうじて回