第 2 章 台湾における民間非営利組織の歴史と制度
第 1 節 台湾における民間非営利組織の歴史
1-1. 清末の台湾における民間非営利組織
台湾では、1834年に東勢義渡会という台湾で初めての基金会形式の民間非営利組織が、
現在の台中市東勢区で設立された。ここには大甲渓という急流河川があり、東勢義渡会は 人々を安全に渡河させるために設立された団体であった。義渡とは、無償で人々の渡河を 助ける慈善行為であり、台湾のみならず中国本土にも同様の慈善組織があった(田, 2011:
74-77)。田妹榛によると「経費は郷紳官吏が捻出し、田畑を購入し、その田畑から得られ
る収入で義渡に係る費用を支払った」(田, 2011: 77)という。
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日本統治期以降、義渡行為は行われなくなったが、当地における橋梁の掛け替えの際な どに多額の寄付を行っている(田, 2011: 88-89)。東勢義渡会はその後、1953年に台中県私 立東勢義渡慈善会、86年に財団法人台中県私立東勢義渡社会福利基金会、90年に財団法人 台中県東勢義渡社会福利基金会と改称し(田, 2011: 89-90)、現在では社会福祉団体として、
高齢者や障害者、児童福祉、低所得者層支援などの事業を行っている(田, 2011: 109)。 このように、現在の台湾の「市民社会」の源流は、漢族による伝統的な慈善組織に求め ることができる。しかし、既存の研究では、台湾の民間非営利組織の歴史が考察される場 合、以上のような伝統的な漢族の慈善組織という視点から考察されることは少なく、一般 的には国民党が共産党との内戦に敗れ、台湾に撤退してきた1949年が台湾における民間非 営利組織の歴史的起点とされることが多い。以下、49 年以降の台湾民間非営利組織の歴史 を考察する。考察に当たっては、王茹による分類(王, 2004: 28-29)を参考とする。
1-2. 1949年以降の台湾民間非営利組織の歴史
(1)権威統治期(1949年-70年代末)
蕭は権威統治期について、政治権力は国民党によって完全に掌握され、経済・社会両面 ともに党の方針に従い、民間社会に自主性や発言権はなかったと述べている(蕭, 2011: 37)。
1947年の228事件を契機として48年には「動員戡乱時期臨時条項」が施行され、台湾 社会は戒厳体制となった。翌年にはさらに「懲治叛乱条例」が施行され、50 年に修正公布 された。この条例の第2条1項では、内乱罪に対する死刑が規定されており(周, 2007: 186)、 多くの知識人らが共産党のスパイや反乱罪に問われ、白色テロの被害を受けた。このよう な社会状況下では、市民の自発性に基づく組織を設立することは難しく、一部、漁会や農 会、商会、工会などの職業団体や、信用合作社、労働者団体、婦女団体、ライオンズクラ ブ、ロータリークラブなどの非営利性という性質を有している団体も存在していたが、そ れらは国民党の統治システムの中に組み込まれており、自発性を持った独立した団体とい えるような組織ではなかった(李, 2011: 323)。柯少愚はこの時期を民間非営利組織の多く は、外国から入ってきた政治色のない宗教団体か社会のエリートによるクラブ形式の組織 であり、富裕層が貧困層に対して、食糧や粉ミルク、布団などを支給するといった単純な ものであったと指摘している(柯, 2012: 54)。
李丁讃はこの時期について、「国家は政治権力を民間社会にまで伸ばし、民間団体を国家 57
官僚システムの末端に編成し、国家行政の一環とした」と指摘している(李丁讃, 2010: 10)。
(2)社会運動誕生期(1980年-90年代中期)
1971年、台湾は国連における中国を代表する権限を失い脱退するなど、国家の正当性と いう側面において極めて困難な状況にあったが、経済面においては50年代に始まったアメ リカによる工業化支援などによって急速に社会の工業化が進展し、特に73年以降は、空港 や鉄道、高速道路、原子力発電所などの社会インフラ建設および造船や鉄鋼、石油化学な どの重化学工業への産業構造の転換を図る十大建設と呼ばれる国家計画によって、アジア NIEsの一角を占めるまでに経済成長を遂げた。しかし、急速な経済成長は社会のあらゆる 側面で歪みを生み出した。特に環境汚染問題は著しく、台湾における社会運動誕生および 民主化の重要な契機となった。著名な社会運動に、1979年に発生したポリ塩化ビフェニー ルによる中毒事件がある。この事件は、彰化県の食用油製造工場における米ぬか油の製造 過程で、ポリ塩化ビフェニールという化学物質が混入し、その油で調理した料理を食べた 2000名を超える人々が被害を受けた食品公害事件である(肖, 2009: 23)。この事件を契機 に、大学教員などの知識人や財界関係者らの寄付によって、翌80年財団法人中華民国消費 者文教基金会(以下、消基会)が設立された。消基会は、この事件の被害者の集団訴訟を 支援し、さらに政府に対して食品衛生処や環境保護署の設置を働きかけた(肖, 2009: 23-24)。 消基会について、「台湾における初めての自主的な人民団体であり、資本と国家に挑戦を試 み、台湾市民社会の幕を開いた」(李, 2010: 330-331)と述べている。
その他、1982年には高雄県林園郷の住民がアミノ酸工場から排出される悪臭に対して抗 議運動を展開し、最終的に工場は閉鎖となった(酒井, 2011: 144)。また同年、新竹市水源 里でも地域住民によって李長栄化学工業による悪臭と農業用水の汚染に対する抗議運動が 起こった。この運動では3 度、工場を取り囲んで抗議が行われ、1 度目は 3 日、2度目は 12日、3度目は425日に及んだ。結果、李長栄化学工業が工場を閉鎖することで住民運動 は一定の成果を得た。
さらに李丁讃はこの時期に行われた社会運動の中で最も影響力が大きかったのは、彰化県 鹿港鎮の住民が起こしたデュポン社の工場建設反対運動であると述べている。1986年6月 24日には住民だけでなく、漁会(漁協に相当)や農会(農協に相当)、青年商会、学校、廟 宇管理委員会なども加わり、台湾史上初の環境保護に関する大規模なデモが行われ、結果、
デュポン社は鹿港から撤退した(李, 2010: 331)。以上のような法制度に基づかない、住民 58
による実力行使によって社会的課題の解決を試みる運動を自力救済運動と呼び、82 年の高 雄県林園郷のアミノ酸工場に係る社会運動は自力救済運動の初めての事例といわれている
(酒井, 2011: 143)。
また、自力救済運動以外にも、政府への陳情という形での社会運動も展開された。例え ば、台中県大里郷の三晃企業の農薬製造工場から有害物質が排出された際、地域住民は政 府に対して陳情を行い、1986年4月には台湾初の合法的な反公害運動組織台中県公害防治 協会が設立された。その後、先述の彰化県の運動では同年 10 月に彰化県公害防治協会が、
新竹市の運動では87年に新竹市公害防治協会が設立された(酒井, 2011: 145-155)。さら に同年台湾環境保護連盟が設立された。李丁讃によるとこの連盟は、単なる知識人と草の 根の人々を結ぶネットワークというだけでなく、環境保護と民主化運動が合流したもので あり、地方支部では民主進歩党(民進党)が草の根の社会運動に介入したと指摘している
(李, 2010: 333)。1987年に戒厳令が解除されて以降、自力救済運動はさらに活発化、過激
化し、社会運動は本格化していった(酒井, 2011: 148)。
蕭は「80 年代初めから政治の自由化が現れてきた背後には、複数のNGOによる早期の 抗議活動、社会運動と政策提言の影響が大きかった。80 年代後期には、社会運動と NGO が公に認知されるようになり、それが80年代末の民主主義の制度化をもたらしたといえる」
(蕭, 2007: 36)と、台湾の民主化に対して民間非営利組織が主体的な役割を果たしたと評
価している。また、現在ある3万以上の会員団体(社団法人)と 5千以上の基金会(財団 法人)の内、少なくとも3分の2は80年代に設立されたと述べ、さらに80年代を台湾の 非営利セクター発展の黄金時代であったと総括している(蕭, 2011: 37-38)。また、肖楊も 87年以降、すなわち戒厳令解除以降に、全体の7割近い基金会が設立されたと指摘してお
り(肖, 2009: 24)、このことから80年代でも特に、1987年の戒厳令解除以降、民間非営
利組織による活動が飛躍的に多様化したことが伺える。
(3)公共ガバナンスへの参画期(1990年代中期-現在)
1990年代中ごろになると、社会運動の性質に変化が現れる。王茹はこの時期の社会運動 型の民間非営利組織の特徴について、激しい抗議活動は社会秩序を破壊するという理由か ら一般社会の支持が得られにくくなり、抗議運動の主体から社会サービス提供の主体に機 能転換を図り、一般的な民間非営利組織となったと指摘している(王, 2004: 29)。何明修も 近年の社会運動について「平和的で常態化し、騒乱的性格はすでに大きく低下した」(何,
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