第 4 章 仏光山による「官民連動」の慈善活動
第1節 仏光山の歴史にみる政治勢力との関連性
仏光山は、星雲によって、1967年に台湾高雄県大樹郷に開かれた臨済宗の仏教団体であ る。「人間仏教」の教えをもとに、高雄の仏光山宗務会を頂点として、「以教育培養人材、
以文化弘揚仏法、以慈善福利社会、以共修浄化人心」(教育による人材の育成、文化による 仏法の弘揚、慈善による社会への奉仕、修行による人心の浄化)という宗旨に合わせる形 で、各種仏教教育や文化、慈善、弘法事業を展開している(東京仏光山寺, 2009: 1)。
世界に200余りの支部を有するほかに、仏光大学、南華大学(ともに台湾)、西来大学(ア メリカ)、その他小中学校や、仏光山テレビや人間福報などのメディア、仏光山仏陀記念館 や仏光縁美術館などの博物館・美術館、仏光山慈悲社会福利基金会や仏光山文教基金会、
仏光浄土文教基金会、人間文教基金会などの慈善団体、国際仏光会などの非政府組織を有 する台湾を代表する仏教教団といえる。なお、星雲は1985年まで仏光山の住持を務めた(仏 光山宗務委員会, 1997: 58)後、住持の座を退き、現在は釈心保(写真9)が住持を務めて いる。
以下、仏光山の歴史、展開する各種慈善事業と政治勢力との関連性を、「仏光山設立前」
(1939年-1967 年)、「仏光山の開山と国内事業拡大期」(1967 年-1990 年)、「国際仏光会 の誕生と海外展開期」(1990年-現在)の3つの期間に分けて整理する。
112
(写真9. 釈心保住持。2013年8月著者撮影)
1-1. 仏光山設立前(1939年-1964年)
(1)星雲の誕生から宜蘭念仏会の展開
星雲は、1927年、江蘇省揚州市江都県に生まれた。39年に母親と南京の栖霞山に父親を 捜しに行ったところ偶然出会った栖霞山寺の志開の下で剃髪・出家し、悟徹という法名と、
今覚という号が与えられた。その後、栖霞律学院で仏法を学び、41年に受戒した。45 年、
鎮江の焦山仏学院に入学し、翌年、星雲の法号を取得した。47 年に焦山仏学院を卒業した 星雲は、江蘇省無錫の宜興大覚寺に監院として赴き、同時に白塔小学校の校長を務めた。
そこでは、智勇と『怒涛』という月刊誌を発行し、太虚の「人生仏教」継承し、その重要 性を主張し、仏教の革新と現代化を主張した。
113
1949年、国共内戦での国民党の敗北が決定的になる中で、星雲は僧侶救護隊として、台 湾に渡った。台湾に渡った星雲は、台中、台北、基隆を経て中壢の円光寺の妙果の下で、3 年ほど過ごし、その後、苗栗の太湖法雲寺や新竹の霊隠寺、台湾仏教講習会などを巡った
(闞, 2004: 279)。その間、『覚群週報』や『人生』などの雑誌の主編などを歴任している
(毛, 2013: 393-394)。
1952年、台北で中国仏教会の理事の改選が行われた際、宜蘭雷音寺の信者で中国との商 売で財を成していた李決和は、僧侶を雷音寺に派遣してもらうために台北に来て要請をし た。しかし、当時の宜蘭は、交通の便が悪い僻地であり、なかなか要請に応じて宜蘭に行 く僧侶がいなかった 84。それを知った星雲は、自ら申し出て雷音寺に行くこととした 85。 雷音寺では、週末に行われていた「週六念仏会」(土曜念仏会)の指導をし、翌年には会長 に就任した。そして56年に雷音寺の近くに講堂を建築した。ここで、ようやく星雲は、自 らの拠点を持つことに成功する。この点について台湾仏教研究者の江燦騰は、次のように 述べている。
星雲の台湾における事業展開には、まず、宜蘭で李決和とその家族による全面的な 協力があった。このことは、彼の一生のなかで非常に重要な転換点であり、このつな がりを経て、星雲は容易に宜蘭のジェントル層から認められた。また、現地には大和 尚がおらず、台北総会から来た星雲はすぐに指導的地位に立つことができた。
(江, 2000: 84)
闞正宗は、「ここでの初期の成果は大きく、星雲の未来の仏光山の仏教事業体成就の良好 な基礎を固めた」(闞, 2004: 286-287)と指摘している。宜蘭での布教活動で、後の仏光山 の活動につながる基礎が形成されていく。
例えば、1954年4月の仏教歌詠隊の設立がある。これは、合唱団の形式で仏法を弘める 活動である。闞は、この歌詠隊について、キリスト教の聖歌隊と類似していると指摘し、
その根拠として宜蘭念仏会 86の講堂の外観や内部がカトリック教会に類似していることを
84日本仏光山・東京仏光山寺ウェブサイト、
http://www.tokyofgs.com/seiun/archives/book/book3/book3.2-5.htm、2014年12月12日 検索。
85同上。
861954年3月に週六念仏会を宜蘭念仏会に改称(闞, 2004: 290)。 114
挙げている。また、この歌詠隊以外にも、助念隊、弘法組が青年を中心として組織されて いる(闞, 2004: 291-292)。
五十嵐は、星雲が以上のような革新的な布教活動を行った背景として、仏光山信者への インタビューから「当時の台湾では仏教への関心や出家者への尊敬を示すものは少なく、
特に年長者にその傾向が強かった。そこで布教の対象を、次世代を担う児童・学生といっ た若年層にしぼり、そうした年齢層が興味をもちそうな内容の読書会や料理教室、講習会 などを通して集め、これらと合わせて仏教知識を広めることを始めた」(五十嵐, 2006b: 190)
と指摘している。そしてそれらは、子供を対象とした「星期学校」(日曜教室)や大学生を 対象とした夏期研修会等において展開されたという(五十嵐, 2006b: 190)。
以上のことから星雲は、仏教の信者を集めることが難しかった当時の台湾において、聖 歌隊の組織などの方法を用いてすでに信者の獲得に成功していたキリスト教の布教方法を 模倣し、仏教の布教に取り入れることで、信者の獲得に成功していったといえよう。
その後、教勢の拡大に伴って、1959年6月には台北平光寺に「台北念仏会」を、同年8 月には台北県三重埔に「仏教文化服務処」(仏教文化サービス所)を設立し、台北での布教 の拠点を獲得した(闞, 2004: 300-301)。
また、1959年5月には、宜蘭仏教支会第4回第1次代表大会理事長に選出され、61年 の大会で再任され、2期渡って宜蘭仏教界の指導的地位についた。この時期、星雲は宜蘭仏 教界における指導者として確固たる地位を築いたのである。
(2)政治勢力との関連性
1949 年、台湾に渡った星雲は、慈航らとともに共産党のスパイとして当局から 23 日間 拘束された。
この時期の仏光山と政治勢力との関連性については、闞正宗の研究が特に詳しい。闞に よると、この時期の法会では、「まず蒋介石総統(当時)を支持し、三民主義に万歳し、そ の後、途中で再び反共抗ソを唱え、政府を支持する必要があった」(闞, 2004: 8)という。
また、行動を以て協力する必要もあり、1955年には、中国青年反共救国団宜蘭支隊社会第 一大隊の成立、陸軍通信兵学校予備軍官訓練班第三期卒業式の際に、仏教歌詠隊が歌って いる。その他、59年にチベットのラサで発生した騒乱、その後のダライ・ラマ14世のイン ド亡命を支持するデモを行っている(闞, 2004: 300-310)。
闞は、当時の星雲と政府、すなわち国民党政権との関わりを見て、「長期にわたって監視 115
の対象であった星雲が、反共に対して以上のような行動を採ったことは理解できる」(闞,
2004: 310)と結論づけている。
仏光山ウェブサイトの「大事年表」を見ると、この時期の政府要人との接触には表 8 の ようなものがあった。特徴的なのは、そのほとんどが招待によるもので、星雲側が主催者 で来賓として参加したのは、1956 年 4 月に開催した雷音寺の念仏会講堂落成式における、
孫立人元中華民国陸軍総司令の妻孫張清揚、宜蘭県長、議長などの参加の 1 件のみであっ た。少ないながらも星雲はこの時期から、政治との関連性を有していたことが読み取れよ う。
(表8)1939年-1964年の政治勢力・政府要人との交流に関する年表
年月 内容
1956年4月 雷音寺「念仏会講堂」落成。章嘉大師主催の下、落成式が催される。孫張 清揚女士が開幕し、宜蘭の県長、議長などが参加した。
1958年3月 慈愛幼稚園、陸軍通信学校の招きで、慰問に赴き上演する。
1958年12月 内政部の招待で善導寺にて、内政部主催の社会の安定、宗教の力の発揮、
人心を救う社会風紀の改良拡大のための座談会に参加する。内政部長の田 烔錦の主宰。
1959年8月 中国青年救国団の夏期戦闘訓練高山野営隊の招きで、…(中略)約100名 の隊員に精神の講話を行う。
1960年1月 宜蘭念仏会は宜蘭救国団の招きで、宜蘭県政府の大講堂で元旦を祝う上演 会を実施した。
1961年2月 鉄道局宜蘭運務段段長張文炳居士の子女張光正、政工幹校の李奇茂が宜蘭 念仏会の主宰で仏式の結婚式を挙げる。
(出典:仏光山ウェブサイト「大事年表」
http://www.masterhsingyun.org/history/history.jsp、2014年9月19日検索に基づき、著 者が作成)
116
1-2. 仏光山の開山と国内事業拡大期(1964年-1990年)
(1)仏光山の開山と各事業の展開
1962年、高雄の仏教徒であった洪地利、陳族、朱殿元、蔡萬旺らが、仏教の新道場を建 設するために寿山の土地を購入し、寿山寺を創建し、星雲を住持として招いた。
洪らと星雲は、ともに高雄仏教堂附属幼稚園の理事という間柄であり、星雲は1953年に 高雄仏教堂の建設に協力し、1955年、1957年にこの仏教堂で講義を行い、57年に附属幼 稚園の常務理事に就任していた。ちなみに、高雄仏教堂は陳啓川元高雄市長の家族によっ て創建されたものであった(闞, 2004: 314)。
このことは、星雲が高雄に拠点を移す1962年以前に、すでに高雄の政財界とのつながり を持っていたことを示す。この点について闞は「高雄仏教堂の時期に星雲法師は、現地の 政治・経済関係者との関係構築の機会を得て、その後の寿山寺、仏光山の創建までに至っ
た」(闞, 2004: 314)と述べている。なお、寿山寺は1964年に完成し、翌年には寿山仏学
院が設立された。
1967年5月、星雲は高雄県大樹郷麻竹園の土地を購入し、そこを仏光山と名づけ、寺院 を中心とする各種施設の建設を開始した 87。また同時に、今日につながる仏光山の宗旨で ある「以教育培養人材、以文化弘揚仏法、以慈善福利社会、以共修浄化人心」が設定され、
各種事業の本格的な展開が開始されることとなる。
以下、この時期の仏光山の事業について簡単に触れておく。
1964 年から 1990年までの仏光山における代表的な事業として、東方仏学院の創設運営 があげられる。東方仏学院は、1964年設立の寿山仏学院を、67年に、仏光山に移して新た に開学した僧侶養成教育のための教育機関である。1989年に僧侶養成教育のあり方を見直 し、「高度な仏学研究を行う研究人材を育成する『中国仏教研究院』、大学レベルの教育で、
仏教文化、教育、慈善、弘法等の専門人材を育成する『仏光山叢林学院』(写真 10)、中学 高校レベルの教育で、仏を学ぶ青少年、高尚な品格、端正な心身を育成する『東方仏教学
院』」(星雲, 2012: 151)に再編した。その他、1977年には普門中学が、1984年には社会人
に仏教を学ぶ機会を提供する都市仏学院が設立している。なお、仏光山の学校教育として は、新営小天星幼児園、善化慧慈幼児園、台南慈航幼児園で幼児教育が、均一国民小中学 校、均頭国民小中学校、普門高級中学校で初等、中等教育が、宜蘭仏光大学、嘉義南華大
87仏光山では、1967年を仏光元年と呼んでいる。
117