• 検索結果がありません。

中国語 L1 学習者による日本語漢字の同定

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 32-38)

3.1 はじめに

中国語 L1 学習者が日本語における漢字語を認知・処理するときに、中国語の音韻情報 が活性化されることがこれまでの研究14によって指摘されてきたが、これらの研究は全 て一つの前提に触れていなかった。それは、中国語 L1 学習者が日本語漢字を見て対応 する中国語の漢字を思い出せる、すなわち日本語の漢字と中国語の漢字との同定ができ るということである。しかし、中国語の漢字と日本語の漢字はそれぞれの社会で時間と ともに字形の変化があり、外見(形)の異なるもの(例えば、日本語の「専門」と中国 語の「专门」)も少なくないため、中国語 L1 学習者がすべての漢字をすぐに同定でき るとは限らない。同定ができないと、中国語の音韻情報などを思い出す可能性がないた め、中国語の音韻情報が漢字音の習得に与える影響などに関する検討も成立しないであ ろう。同じ理由で、本研究も中国語(漢字)知識の利用をめぐって展開する以上、この 前提のもとで検討しなければならない。

したがって、本章では、中国語 L1 学習者は漢字の同定が果たしてどこまでできるの かという課題をめぐり、学習者の日本語レベル、漢字形態差異の程度、漢字提示形式(単 字か熟語か)という三つの要因から、中国語 L1 学習者による漢字の同定状況を考察す る。

3.2 調査方法

中国語 L1 学習者による漢字の同定状況を明らかにするため、日本語レベルの異なる 中国語 L1 学習者を対象に、漢字同定調査を行った。

3.2.1 調査対象者

今回の調査は主に中国・南京某大学の 81 名の日本語専攻学部生 (内訳は三年生 30 名、

二年生 27 名と一年生 25 名)の協力を得て調査を行った。また、対照のため、日本語学 習経験がない非日本語専攻学部生 22 名にも参加してもらった。合計四グループ、102 名である。調査対象者は全員 20 代前半の成人である。そして、全員中国語 L1 話者であ る。

14 諸研究の中で、中国語の音韻情報が漢字音の習得に寄与することができると主張する研究(茅本 1996,2002)もあれば、必ずしもそうではないと主張する研究も(邱 2001,2003a、邱 2007 など)ある。

表 3−1 調査対象者の内訳15

日本語レベル ゼロ級 初級 中級 上級 合計

人数 21 25 26 30 102

3.2.2 調査材料

「常用漢字表(2010)」における国字ではない漢字について、それに対応する中国語漢 字との形態の差異度(異形度)によって分類を行った。分類の基準である異形度は、茅 本(2002)に倣って 0 から 4 まで設定した16。異形度が 0 の漢字はすなわち中国語では そのまま使用されているため、考察する必要がないと思われる。

調査材料とし、まず、異形度が 1 から 4 までの漢字それぞれ 8 字、計 32 字を選定し、

単字提示テスト(調査票)17を作成した。次に、『日本語能力試験出題基準 改訂版』(国 際交流基金 2006)から以上の各漢字を含み、中国語としても意味が通じる漢字熟語それ ぞれ一つ、計 32 語を選定し、熟語提示テスト(調査票)18を作成した。

3.2.3 調査計画及び統計分析

調査は三つの要因を取り入れて行った。第1要因は、学習者の日本語レベルで、上級、

中級、初級とゼロ級の 4 つである。第 2 要因は日本語漢字と中国語漢字の異形度で、1 から 4 までの 4 つである。そして、第 3 要因は提示形式で、単字と熟語の 2 種類がある。

すなわち、4*4*2 の 3 要因配置となる。各要因による正答率への影響については、

SPSS17.0 を使って ANOVA と T-test で考察を行った。統計有意基準は 0.05 に設定した。

3.2.4 手続き及び判定基準

調査は筆者が 2012 年 4 月に該当の大学にて実施した。調査する際に、テスト用紙(調 査票)を配り、漢字または漢字熟語の後にある空欄にその漢字またはその漢字熟語を見 て思い浮かぶ中国語の発音をピンインで記入してもらった。調査の所要時間は 10 分程 度で、調査票の回収率は 100%、回収された調査票は全て有効であった。

15 日本語専攻学部生は全員大学に入ってから日本語の勉強を始めたため、本研究では、一年生、二年 生と三年生をそれぞれ初級学習者、中級学習者、上級学習者とする。また、日本語学習経験がない者 をゼロ級学習者とする。

16 全く同じなら異形度 0、点や線が 1 画違っていれば、異形度 1(例えば、「歩」と「步」)、構成部 分の小さい方(たいていの場合はへん)が違っているなら異形度 2(例えば、「話」と「话」)、構成 部分の大きい方(たいていの場合はつくり)か、構成部分の両方が違っているか、構成部分が欠落し ているなら異形度 3(例えば、「練」と「练」)、全く違う字体になっているなら異形度 4(例えば、

「専」と「专」)という分類方法である(茅本 2002)。

17 詳しくは付録 A を参照されたい。

18 詳しくは付録 A を参照されたい。

判定基準とし、各漢字・熟語項目の後ろにある空欄に記入されたピンインが正しい場 合、当該漢字の同定ができたと認定する。逆に、記入されたピンインが正しくない場合、

当該漢字の同定ができていないとする。

3.3 調査結果

前述の調査で収集した調査票に基づき、日本語レベル、提示形式および漢字異形度に よる正答率(同定率)を以下のようにまとめた。

3.3.1 日本語レベルおよび提示形式による正答率(同定率)

単字提示と熟語提示の二種類提示形式における各レベルの学習者による正答率を統 計してまとめると、次の表 3−2 のようになる。

表 3−2 日本語レベル別の正答率(単字/熟語) 日本語

レベル N 単字提示正答率 熟語提示正答率

T-test 平均値 標準偏差 平均値 標準偏差

ゼロ級 21 .769 .139 .824 .078 **

初級 25 .780 .103 .858 .067 * 中級 26 .980 .025 .984 .020 n.s.

上級 30 .972 .044 .985 .028 n.s.

合計 102 .885 .131 .921 .089

ANOVA ** **

n.s.: not significant(非有意), **: p<0.01, *: p<0.05 平均値を見て分かるように、単字提示においても熟語提示においても日本語レベルが 高いほど正答率が高いことがわかり、特に中級以上の学習者の正答率が非常に高いこと が明らかになった。各レベルの調査対象者のグループ間に有意差も見られた(単字提示 正答率(F=46.63、p=0.00<0.01);熟語提示正答率(F=64.39、p=0.000<0.01))。各レベ ルの正答率を詳しく見ると、その差が主に初級と中級の間に生じたことがわかる。すな わち、初級から中級に上がると、正答率も急上昇するのである。それに応じ、四つのレ ベルのグループが単字提示の場合でも熟語提示の場合でも、初級と中級を境に二種類に 分かれる。種類一はゼロ級と初級のグループで、種類二は中級と上級のグループである。

また、提示形式からすると、単字提示より熟語提示のほうの正答率が有意に高いこと が分かった(t=-5.313、p=0.000<0.01)。それぞれの日本語レベルにおいて、ゼロ級と 初級レベルについては単字提示より熟語提示のほうの正答率が有意に高いのに対し(ゼ ロ級レベル(t=-2.787、p=0.011<0.05)、初級レベル(t=-6.192、p=0.000<0.01))、

中級と上級レベルは熟語提示の正答率がより高いが、単字提示との間の有意差が認めら

れ な か っ た ( 中 級 レ ベ ル ( t=-0.700 、 p=0.490>0.05 ) 、 上 級 レ ベ ル ( t=-1.400 、 p=0.172>0.05))。

3.3.2 異形度ごとの正答率

中日漢字の異形度による正答率への影響が次の表 3−3 から見られる。表の中の数値に ついては、上の数値はパーセンテージを表し、下の括弧の中の数値は標準偏差を表す。

表 3−3 異形度ごとの成績

単字提示 熟語提示

T-test ゼロ級 初級 中級 上級 合計 ゼロ級 初級 中級 上級 合計

1 .886 (.144)

.980 (.048)

1.00 (.000)

1.00 (.000)

.971 (.040)

.903 (.120)

.990 (.019)

1.00 (.000)

1.00 (.000)

.977 (.030) n.s.

2 .835 (.320)

.855 (.240)

1.00 (.000)

.996 (.012)

.928 (.125)

.864 (.331)

.885 (.262)

1.00 (.000)

.996 (.012)

.942 (.134) * 3 .744

(.212) .745 (.179)

.962 (.074)

.958 (.046)

.862 (.088)

.847 (.230)

.900 (.115)

.966 (.063)

.975 (.024)

.927 (.077) * 4 .653

(.280) .540 (.370)

.957 (.048)

.933 (.087)

.784 (.088)

.716 (.210)

.655 (.346)

.981 (.029)

.963 (.058)

.840 (.121) * n.s.: not significant(非有意), **:p<0.01,*:p<0.05 異形度 1〜4 による正答率を見て分かるように、すべての日本語レベルにおいて、提 示形式を問わず異形度が高ければ高いほど正答率が低くなる。また、同じ異形度の漢字 については、単字提示より熟語提示のほうが高いことも明らかになっている。具体的に 言うと、異形度 1 以外の漢字について、単字提示と熟語提示の間に全部有意差が見られ た(異形度 2(t=-2.98、p=0.017<0.05);異形度 3(t=-2.84、p=0.025<0.05);異形度 4(t=-2.74、p=0.029<0.05))。

3.4 考察および推論

日本語レベルによる正答率から見ると、初級以下の学習者による日本語漢字の同定率 は、単字提示(<0.78)でも熟語提示(<0.86)でも、望ましいとは言えない。そのため、こ れらの学習者にとって、漢字によってはその漢字(字体や意味)の認知にはまだ負担が かかると予想できる。それに対し、中級以上の学習者による同定率は全部高い水準 (>0.97)に達しているため、ほとんど問題がないと言える。すなわち、これらの学習者 は日本語漢字(字体や意味)についての認知的負担が生じないと考えられる。

また、表 3-2 で示したように、日本語レベルが高ければ正答率が高くなるのみならず、

初級以下の学習者による正答率が、明らかに中級以上の学習者の正答率から離れている。

その原因としては、学習時間の違いのほかに、学習内容の違いも挙げられるであろう。

具体的には、学習 1 年以内の学習者は基本文法や使用頻度の高い和語を中心に勉強を進 め、漢字語にあまり目を向けないため、日本語学習未経験者と同じぐらいの水準に留ま っていると推測できる。それに対し、学習時間が 2 年以上の学習者はテキストにおいて も日本語能力試験受験勉強においても漢字語が急増し、日本語漢字に遭遇するチャンス が多くなるため、だんだん慣れてきたと考えられる。

さらに、単字提示の正答率より熟語提示の正答率のほうが有意に高いのは、単字では 異形度が高ければ、認知する手がかりが少ないのに対し、熟語の場合では、一つの漢字 が認知できなくても、もう一つの漢字がから推測できる、すなわち推測の手掛かりが多 いためだと考えられる。そういう意味では、熟語より文の形で提示すると、正答率がも っと高くなるかもしれない。最後に、中日漢字の異形度については、当然のごとく、一 つの漢字は異形度が高ければ高いほど、中国語 L1 学習者にとってその同定が難しい。

以上の考察に基づき、次のような推論が言えよう。

①中国語 L1 学習者が日本語における漢字語を認知・処理するときに、必ずしも中国語 の音韻情報が活性化するというわけではない。すくなくとも、初級以下の学習者の場合、

活性化しない状況が考えられる。したがって、中国語の音韻情報が漢字音の習得に与え る影響を検討する前に、調査用漢字を調査対象者により同定できるものに限定しなけれ ばならない。

②日本語レベルの低い(学習時間 1 年以下) 中国語 L1 学習者は、日本語漢字を認知す る際に、中国語の音韻情報(意味情報も)も必ずしも活性化するとは限らない。そのた め、この段階の学習者を対象に中国語(漢字)知識などを利用して日本語漢字音の指導・

教育を行うと、逆に認知的負担がかかる恐れがある。けれども、中級レベル以上の学習 者の場合は漢字の同定が殆どできているため、そういう心配はないと考えられる。すな わち、中級以上の学習者を対象にすると、本研究の研究前提が成立するのである。

③中日の漢字音の対応関係や、中国語(漢字)知識などを利用して日本語の漢字音の 指導を行う際には、異形度の高い漢字より異形度の低い漢字から着手し、単漢字の形よ り熟語の形で提示する方が、学習者による認知時の心理抵抗や負担が少ないと考えられ る。

3.5 おわりに

本章では、日本語レベル(学習時間)、提示形式と異形度の 3 要因から中国語 L1 学 習者による漢字同定について考察してきた。その結果、学習時間が 1 年以下(初級以下)

の学習者は漢字同定状況がまだ望ましいとは言えないが、学習時間 2 年以上(中級もし

ドキュメント内 九州大学学術情報リポジトリ (ページ 32-38)