3 多音節訓仮名
3.6 おわりに
本章では,『萬葉集』訓字主体表記歌巻における多音節訓仮名表記の実態を押さえること を目的として,多音節訓仮名はどのような語の表記を何回担うのか,ある語の表記において 多音節訓仮名表記がどの程度の割合を占めるのかについて整理し,その結果に対して考察 を加えてきた。
従来,付属語表記の多音節訓仮名は「語的まとまりをもって視覚を刺戟する効果を持って いた。その上に文節のまとまりを示す効果が加わる」(橋本1966)と指摘されてきた。し かし,「まし」の終止形と連体形とは同じ形を取るにもかかわらず,類型的な表現で使用さ れる連体形「まし」のほうが多音節訓仮名表記の比率がはるかに高いこと(3.3.2項),「ら しも」「けらしも」や「きます」のような類型的表現で多音節訓仮名表記の比率が高いこと
(3.3.3項,3.4節)などをふまえると,付属語表記の多音節訓仮名それ自体に,従来いわれ ているような「語的なまとまりをもって視覚を刺戟する効果」があるのではないと考えられ る。このような多音節訓仮名表記の実態と,多音節訓仮名が使用される際には訓仮名同士で 連続しやすいこと(3.4節,3.5節)とを考えあわせると,多音節訓仮名は,語的なまとまり や文節を明示することを狙って選択されたというよりも,類型的な表現の表記として繰り 返し使用されたことで,結果的にそのような効果あるいは機能がもたらされているとみた ほうが穏当であると思われる。また,付属語の類型的表現で多音節訓仮名が繰り返し使用さ れることと,固定的な訓字表記を持つ自立語において,実質的な意味が薄いばあいに多音節 訓仮名が使用されていること(3.5節)とは,おそらく連続的であろう。
多音節訓仮名は,従来,訓字主体表記歌巻で使用される特殊な仮名の問題として議論され,
その機能や効果についても,多音節訓仮名それ自体が本来的に持っているものであるかの ように捉えられてきた。しかし,本節で繰り返し述べてきたように,多音節訓仮名の使用は 語あるいはそれに準ずるものの表記と密接に関連しており,その際,訓仮名と連続しやすい という傾向もある。こうした使用実態を整理すると,多音節訓仮名の分布や使用傾向は,そ れ単独の問題としてではなく,前後の〈漢字〉を含む文字列という観点からも検証される必 要がある。そして,この観点は,橋本四郎(1959)が指摘した,訓字主体表記歌巻ではひと つの〈漢字〉は訓仮名と訓字との両用を辞さないという傾向を考慮したとき,同巻において なにが訓仮名であることを担保し,またそれがどのような仕組みによって許容されている のかを考えるうえで重要になってくるであろう。
【注】
①『萬葉集CD-ROM版』の本文は,「西本願寺本萬葉集」を底本とする佐竹昭広ほか(編)(1998)
『萬葉集 本文篇』補訂版に基づき,適宜,改訂を加えたものである。
② 歌に挿入された割注とは,たとえば下記の【 】で括った部分のようなものを指す。
可流羽須波 田廬乃毛等尓 吾兄子者 二布夫尓咲而 立麻為所見【田廬者多夫世反】
(16・3817)
③ 「かも(中)」「かも(末)」は,それらを1語とするかあるいは「か」(助)+「も」(助)か ら成る2語とするか,その明確な基準を設け難いため,本章では一括して1語の助詞とみた。
なお,本研究では助詞の認定に『時代別国語大辞典 上代編』と『萬葉集索引』を使用した。
これらでは助詞として立項されていないが,助詞に準ずるものとして,「がてり」の「てり」
が〈光〉で書かれる「君待香光(きみまちがてり)」(3・370),「片待香光(かたまちがてり)」
(7・1200),「月待香光(つキまちがてり)」(12・3169)がある。
④ 類する形としては「相益物歟(あはましもノか)」(4・620)の「ましもノか」がある。
⑤ 用例が少ないので本論では言及していないが,次に示すように接辞それ自体が多音節訓仮名 で書かれることがある。
「戀為便名鴈(こヒすべながり)」(12・3034),「垣廬鳴(かきほなす)」(11・2405)
また,助動詞の連続の縮約形も多音節訓仮名で書かれることがある。
「聞跡平(きかむトならし)」(11・2811)
なお,グループ化することが難しいこともあり本論では言及していないが,次に示すように,
用言の活用語尾とそれに続く付属語とを覆うように多音節訓仮名が使用されることも少なく
「家之小篠生(いへししのはゆ)」(6・940),「見乍偲食(みつつしのはむ)」(7・1106)
「山名付染(やまなつかしみ)」(7・1332),「見佐府下(みればさぶしも)」(9・1798),
「鸎名雲(うぐひすなくも)」(10・1825),「久雲在(ひさしくもあらむ)」(10・1901),
「得干蚊将去(うかれかゆかむ)」(11・2646),「無恙行核(さきくいまさね)」(12・3204),
「中波余騰益(なかはヨドませ)」(11・2712),「吾社湯龜(われコソゆかメ)」(12・2931)
さらに,自立語とそれに続く付属語の全体を多音節訓仮名が覆うこともある。
「妹乎奈何責(いもをいかにせむ)」(4・632),「名積米八方(なづみコメやも)」(10・1813)
このように,多音節訓仮名と語との対応関係が非常に多様かつ柔軟である点に鑑みても,多音 節訓仮名が語的まとまりや文節を示す機能を持つという点は再検討されるべきであろう。
⑥ 補助動詞「ます」の訓字表記67例のうち64例は「御食而肥座(めしてこエませ)」(8・1460),
「見座吾背子(みませわがせこ)」(12・2978)のように〈座〉である。
⑦ 前接動詞の認定は『万葉集巻別対照分類語彙表』による。以下,自立語の認定は基本的に同書 に基づく。
⑧ 「く[来]+ます」が類型的な表現であることは,春日和男(1960)が平安時代以降の「ます」
には熟合用法が多くなると指摘し,その例として「きます」が挙げられていることからも肯定 されるであろう。
⑨ 「平安時代になると,(中略)明らかに名詞から派生したと思われる形容詞がかなり出て来 るが,上代には,他に例が見当らない。形容詞形成のタイプとしては,比較的新しいもので あろう」(p.254)
⑩ 蜂矢(2014)第2章第8節。
⑪ このようなものとしては,ほかに,「荒振公乎(あらぶるきみを)」(4・556),「思足椅(おも ひたらはし)」(13・3258),「念足橋(おもひたらはし)」(13・3276)などがある。また,注
➄でも言及した,自立語と助動詞とを覆うように多音節訓仮名が対応する「妹乎奈何責(いも をいかにせむ)」(4・632),「名積米八方(なづみコメやも)」(10・1813)のようなものも外 している。
⑫ 多音節訓仮名表記される語句のなかには「玉坂(たまさかに)」(11・2396)のように,1語の なかで多音節訓仮名との対応が複数個所にわたるものがある。【表 7】ではこれらを別々に挙 げている。
⑬ 一部,『萬葉集索引』の「漢字表記」を記したものもある。
⑭ 多音節訓仮名の対応箇所が複数みられる語句で,対応箇所によって多音節訓仮名表記の比率 が異なるものは,もっとも高い比率を採用した。たとえば,「なつかし」は「なつ」に〈夏〉
が対応する比率が0.300,「つか」に〈束〉〈著〉〈付〉が対応する比率が0.400,「かし」に〈炊〉
が対応する比率が0.200である。これらのなかでは「つか」に多音節訓仮名〈束〉〈著〉〈付〉
が対応する比率0.400がもっとも高いので,これを「なつかし」の多音節訓仮名表記の比率と している。
⑮ 3.4 節で補助動詞の認定に使用した『萬葉集索引』が「かぬ」を補助動詞とみていないので,
本研究では動詞の後項としたが,『時代別国語大辞典 上代編』は「かぬ」について「補助動詞 として用いられる」と断言している。また,使用される際の形について「カネ・カネツ・カネ テキ・カネテのように連用形と,カネメヤの形で未然形が用いられているにすぎない」と述べ,
その類型性を指摘している。
⑯ 「かぬ」の訓字表記30例の内訳は,「嬬待不得而(つままちかねて)」(3・268)のような「不 得」18例,「荒競不勝而(あらそひかねて)」(9・1804)のような「不勝」11例であり,残る 1例は「不忍都毛(しノビかねつも)」(3・472)である。なお,「かぬ」には仮名表記もある が,「忘可祢津藻(わすれかねつも)」(1・72),「忘可祢津藻(わすれかねつも)」(16・3857)
の2例のみである。