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身体性向としての社会的距離に関する一考察─

ドキュメント内 Socially (ページ 93-99)

はじめに

 「ウィズ・コロナ時代あるいはアフター・コロ ナ時代の空間的諸形態」に関する研究が重要に なっている。この研究において重要なのは、研究 対象としての「空間」が「物理的空間」であると同 時に「社会的空間」でもあるという認識である。

こうした研究対象は、既存の社会学的研究の領域 で言えば、「アーバニズム(生活様式としての都 市)の研究」「親密性の変容に関する研究」「社会的 相互行為やコミュニケーション行為の社会的な構 築に関する研究」などにふくまれていたものであ る。

1) 物理的密度と社会的密度

 問題になっているのは、「身体」の「物理的密度」

と「社会的密度」(E・デュルケームの言葉を借り れば「道徳的密度」)の関係である。「人間本性の 志向」である「社会的密度の強化」(intensification ofsocialdensity)と、「 物 理 的 密 度 の 距 離 化 」

(physicaldistanciation)が、同時に課題になって いる。コロナ・ウィルスをめぐって「回避すべき 3密空間」とは、厚生労働省の定義では「換気の悪 い密閉空間」「多数が集まる密集場所」「間近で会 話や発声をする密接場面」のことであり、英語の 定 義 は 1)Closedspaces、2)Crowdedplaces、

3)Close-contactsettingsとなっている(1)。ひと づかみに言えば、「密な空間に身を置かない」こと が日常的な課題になっているのである。

 他方、コロナ禍でZoomなどICT技術が日常生

活におけるオンライン・コミュニケーションを 拡大している現状は、A.ギデンズが指摘するよ うなコミュニケーションの「場所」からの/への

「脱埋め込み」(disembedding)と「再埋め込み」

(reembedding)の過程において、「物理的な距離 の拡大」が「コミュニケーションの密度すなわち 親密性の増大」を生み出している局面があると も言えるであろう。新型コロナ感染症拡大の現 場 で、「 脱-領 域 化 」(de-territorialization)と「 再 -領域化」(re-territorialization)の過程が「存在」

(presence)と「非-在」(non-presence)を混交させ ながらアイデンティティの場所(=係留の場)を 流動化させているのである。

 いずれにせよ、「身体」(σῶμα,body)の「物理 的密度」と「社会的密度」の関係は、社会学におい て伝統的な主題であるとともに、コロナ禍の現下 きわめてホットな主題になっている。

2) 行動性向と現実の行動の区別

 ところで、「3密をつくらない」という「状態

=行動性向」(ヘクシス)と、その「状態=行動性 向」の「現実態=現実の行動」(エネルゲイア)は、

同じではない。それは、たとえば市民権の理念

(citizenship)と、その理念を背景とする(その理 念に担保された)市民の多様な現実の行動や活動

(citizen’sactivities)が同じではないのと、同様で ある。また、人がいま一般に「健康」であると考え ることと、じっさいに健康である行動や活動の多 様性は、必ずしも一致していない。しかし、分析 上大切なことは、両者、すなわち「行動性向」と「現 実の行動」は、相互に影響しあっているというこ

* 社会学部教授(社会学科)

「フィルター X」とは何か

82 とを見落とさないことである。

 ここで「行動性向」(へクシス、古典ギリシア語 で‘ἕξις προαιρετική,’英語で‘asettleddisposition orstateofthemindwithregardtochoiceand decision,’ ド イ ツ 語 で‘eineVerhaltensweise oderVerhaltensdispositionbeiderWahl,’ フ ラ ン ス 語 で‘unedispositioncomportementaledu choix’, スペイン語で‘unadisposiciónconductual deelección,’ イ タ リ ア 語 で‘unadisposizione comportamentalediscelta,’ウ ク ラ イ ー ナ 語 で

‘поведінкова диспозиція вибору,’ ロ シ ア 語 で

‘поведенческая склонность выбора’ な ど と 表 現できるもの。トマス・アクィナスは、この古 典ギリシア語の言葉ヘクシスを、ラテン語で

‘habitussuntsecundumquosadpassionesnos habemusbenevelmale’と説明している。Summa Theologiae,I-Ⅱ,49,2c)とは、人間の行動とその 行動の対象物との間にできる「物理的または文化 的・社会的に構造化された習慣」のことであり、

また「行動によって習慣化する社会構造」のこと である。そこにはフランスの社会学者ピエール・

ブルデューが分析する「場」(champs)が形成され ている(2)。これは「物理的空間」であると同時に

「社会的空間」でもあり、ここに「強化された密度」

あるいは「強化されない密度」というものが発生 するのである。そしてここに、日本におけるコロ ナ感染の拡大が欧米に比べて緩やかな理由、すな わち「フィルター X」の正体がある。

3) 「分析する行為」とその対象

 「分析する」ということの基本は、「物事を分け る」ということである。「分ける」ことは、分けら れたものを「結びつける」ことであり、最終的に、

分けられたものが再度結びつけられた「全体」に ついて「分析=考察する」ことである。「分ける」

ことは「結びつける」ことであり、われわれの日 常生活における「分類」や「整理」といった日常的 行動も同様の特質を持っている。ここで「持って いる」というのは、「相互行為的に習慣化された 社会構造」を意味しており、まずわれわれはここ で現代的な所有概念から解放される必要がある。

「持っている」というのは、「ひとつの相互行為的 な運動」なのである。

 また、「分類するという行為」は、マルセル・モー スも指摘するように「身体的技術」(techniques ducorps)のひとつであり、「分類する行為」と「分 類される対象」の間にある「往復運動的なひとつ の構造」であり、それが「社会規範」を生成し再生 産し続けている。たとえば、フェミニズムにおけ るジェンダー研究では、「社会規範」としての「女 らしさ」や「男らしさ」が「女性」や「男性」の「分 類」を生み出していると説明され、批判されるこ とが多いが、「社会規範」は実際には身体技術とそ の対象物の間にあるものであり、身体技術とその 対象物との間の往復運動の中でそれは生成され維 持されているのである。擬似ジェンダー分析が提 供するような「社会規範」と「分類された現実」の 間の単純で一方向的な因果関係は存在しない。む しろそこにあるのは、「循環的な因果構造」ともい うべきものであり、一定の往復運動の中で原因が 結果になり、結果が原因になるような「所有構造」

なのである。

 そして、この論文で言う「行動性向」の分析も、

こうした「因果循環的な所有構造」の分析のこと である。

 以下、コロナ禍で問題になっている「社会的距 離を保つ」(socialdistancing)という人間的事象 を、「へクシスの社会学」の観点から5つの次元に

〈分けて〉みよう。

4) 「社会的距離」はどのような次元で発現するか  a.言語的な距離

 第一に、「言語的な距離を保つ」(へクシス・メ タ・ログー、ἕξις μετά λόγου)という次元であ る。これはコミュニケーションの距離を保つとい う意味である。英語やフランス語やイタリア語で は近づいて口をはっきり開けて発音するのに対し て、日本(語)ではその丁寧さにおいて口を閉じ 気味に話し、時に手を口にあて発話表現や周辺に 対して口元の顔表情を隠すことも多い。話しの合 間にあくびやくしゃみが出そうになると、周囲に 醜い表情をみせず、唾液の飛沫がとんで迷惑をか

けないように開いた掌で軽く口元を隠す。こうし た言語-身体的行為は、ヨーロッパだけでなく東 アジアや東南アジアの列車や地下鉄に乗ってい ても、洗練された発話行為間の「振る舞い」(sich verhaltengegenüber=自らに向かって、他者あ るいは対象物に向かって振る舞う、という意味)

として、「わたし日本人のそういうところが好き です」と突然言われ、評価されて、びっくりする ことがある。2020年7月24日金曜日のお昼前に目 黒川沿いの舗道を歩いているとき、後ろから自転 車が来たので身体を寄せて4 4 4 4 4 4道を譲った。乗ってい たのは外国の若い女性で、「ありがとうございま す」を示すために、頭を下げ言葉を発せず、軽く お辞儀をして通り過ぎた。彼女はマスクをしてい たが、この「日本人らしい行為」は、マスクをして いなくても多くの飛沫をとばすことはなかったで あろう。

 日本語の発話行為における他人との「距離 の取り方」は、「社会的な距離の取り方」(social distancing)であると同時に、「物理的な距離の取 り方」(physicaldistancing)にもなっている。も ちろん、その個人的な文化資本の蓄積の差(=国 民文化の中での振る舞いにおける卓ア レ テ ー越性の差)も あるし、その「クラスター(集団、群れ)」として の世代による差も存在するであろう。「日本人」の 振る舞い方も変わってきているからである。

 b.倫理的あるいは道徳的な距離

 第二に、「倫理的あるいは道徳的な距離を保つ」

(エーティケー・へクシス、ηθική ἕξις)という次 元である。これは感情や思いやりの距離を保つと いう意味である。出会いや再会の歓びに両頰にキ スをしたり抱擁したりする(イタリア、スペイン、

フランス、ロシアなど)、出会いの挨拶として頻 繁に握手したり再会の歓びの表現として抱擁した りする(米国、ドイツ)のに対して、距離をとって お辞儀で挨拶する、肌の触れ合いに敏感な感覚を 持っている(「袖振り合うも多生の縁」という微妙 な距離感覚が「社会的に距離をとる/区別する感 覚」にもなっている)日本との違いである。

 ウクライーナ正教会やロシア正教会など東方正

教系の教会にはキリストやマリアのイコンがた くさん置かれており、お祈りに訪れた敬虔な信者 は、木彫り装飾がある枠とガラスの板の内側に納 められたその似姿に優しくそして次々に、時に同 じ場所に代わる代わるキスをしてゆく。一方、神 社に行きお参りをするときには、お礼をして拍手 を打ち、鈴を鳴らして神殿の奥を距離を維持して 見つめ、祈りごとをした後で礼をして立ち去る。

これは、人に会って「こんにちは」とまず頭を下 げ、別れる時も「今日は、ありがとうございまし た。また、よろしくお願いします」と言って再度 頭を下げて立ち去る、日本人の行為の原型になっ ている。お寺でも、お御堂に入ると仏像を遠くか ら眺め、掌を合わせてお祈りをしお経を唱え、再 度遠くの仏の似姿に恭しく頭を下げてその場を去 る。ここでも、関係している対象との間に「一定 の距離を取る」ことが自然な行為になっている。

 また、日本でいう「おもてなし」は、「物理的な 距離を保ちながら社会的な距離を調整しそして 尊重する文字通り社会的な技術(socialtechnique.

古典ギリシア語の意味ではpoliticaltechnique)」

である。これは別の局面で、他者へのいたわりに おける「距離の取り方」にもなってくる。「マスク をする」という、自分と他者に対する「距離の取 り方」(=皮膚感覚τὸ αἰσθητικόν)も、この次元 にかかわっている。

 こうした日本人に特有の「空間の取り扱い 方」における「社会的な距離の取り方」(social techniquesofdistanciation)は、最 近 グ ロ ー バ ルに哲学、心理学、社会学、開発経済学、教育 学、法学の領域で関心の的になっている、社会 目標としての倫理的課題「適度な富の取り扱い」

(moderationinwealth)にも関連している(3)

 c.知性的な距離

 第三に、「知性的な距離を保つ」(ディアノエー ティケー・へクシス、διανοητική ἕξις)という次 元である。これは適度で適切な4 4 4 4 4 4理解の距離を保つ という意味である。「互いに意見を言い合って議 論をするヨーロッパや米国の伝統」に対して、近 年アクティヴ・ラーニングの推奨などでいくらか

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