元 森 絵里子
*学校とは何するところであったか
60 際し、大きな変更を行う必要はなかった。原則と して例年相当のパワーポイントに音声を吹き込 んだ動画とレジュメをオンデマンド配信し、コメ ント課題を例年通り集め、興味深いコメントに色 を付け、手短なコメントを書き込んだファイルを フィードバックした。教室での教師/生徒の関係 について、実際の教室で実演・実感しながら学ぶ ということはできなかったものの、筆者としては
「いつもどおり」にかなり近いコンテンツを提供 しているつもりだった。しかし、学生の反応はい つもとは大きく異なっていた。
(2) 期待以上の課題応答
初回講義をアップロードしたそばから、一気に 閲覧数が跳ね上がった。短くてもいいと公言す ると、レジュメをサラッと見ただけで適当に1文 書いて逃げる学生がいるので、字数は「任意」と しているのだが、たまたま本年度から導入された LMS(manaba)の仕様を把握しきれていないとい う理由でコメント欄を大きくしたのもよくなかっ たのか、1000字級のコメントが続々と返ってき た。どの授業も同様のようで、教員間では、授業 に飢えていたのだろうか、熱心なコメントが多く てよいという話も出ていた。
ただ、すぐにそうではないことが見えてきた。
筆者の講義では次回に反映させる第1次期限のほ かに、最終課題(期末試験の代わり)受験条件の ための最終提出期限を学期末近くに設けていたの に、途中から履修登録した学生が今から課題を出 せるか問い合わせてくる。小テスト機能を使って いる先生は、復習を兼ねて受験したかどうかだけ チェックすると述べているにもかかわらず、漢字 か平仮名かで自動採点で×になった学生から、〇 にならないか問い合わせが相次いだそうだ。
教員側から見えるのは、提出物の流れと稀に個 別の問い合わせをくれる学生の様子だけではあ る。その向こうに想像できたのは、オンデマンド 講義という前代未聞の状況に不安になり、学習の 内容そっちのけで、指示もろくに読まずに、先生 への提出物は細かくチェックされてすべて採点さ れていると身構えている学生が相当数いるらしい
気配だった。通常でも、インストラクションを聞 かず、授業のレジュメも読まず、適当な質問をす る学生や、課題の期日後提出を打診する学生はい るが、それとは雰囲気が異なっている印象があっ た。
5月にはすでに、各講義の総和としての課題量 の調整がうまくいっておらず、学生が課題に追わ れているという問題が、SNS等では話題になって いた。実際に、教員のほうも、さしたるインスト ラクションしてもらえないまま始まったオンデマ ンド講義の要領がわかっておらず、毎回数千字の レポートを書かせるような講義もあっただろう し、これまで座っているだけでよかった大半の授 業にまで、何らかのレスポンスが要請されたこと 自体が学生には負担であったかもしれない。しか し、対面状況でもないのに、集団ヒステリーかの ように学生が「課題」に過剰に反応しているムー ドはあった。
(3) パノプティコンへの共感
折しも、5月の教育社会学では、学校は、教室 の構造のみならず課題等を通して、教師/生徒=
見る/見られるという関係がつくられることで成 り立っているという話をしているところであっ た。ミシェル・フーコーの『監獄の誕生』(1977)
を参考に、近代監獄として構想された「パノプ ティコン(一望監視装置)」の原理が学校にもあて はまるという説を紹介し、意見を集めていた。
毎年、一定の反響があるところだが、通常の学 校のみならず、今の状況はまさにこれだという反 応が相次いだ。パノプティコンとは、大まかにま とめれば、監視塔に看守がいるかどうかはわから ないが、いるかもしれないと思わせる建物の構造 をつくることで、囚人に自発的に規律に沿った行 動をさせるという仕組みである。一人ひとりの学 習状況や課題が事細かに記録されているであろう LMSで、学生側からは教員が何をしているか見え ていないため、課題を通してやる気を見せておく という形でふるまっている自分たちの状況は、ま さにいるかいないかわからない看守に規律に従っ ていることをアピールしている状態だというので
ある。
看守ポジションであるはずの教員(筆者)から すれば、学生の学習状況は、manabaの閲覧記録と 課題の提出記録という形でしか見られない。そし て、小中学校とは異なり、そもそも百人単位のク ラスで一人ひとりを監視して規律訓練しようとい う気もない。全講義が課題を回収するようになっ たのは、単にそれがオンデマンド型講義の成立の 制度上の用件だからである(1)。だが、学生側には、
LMSを通じたオンデマンド講義と課題の回収と いう仕組みが、そのような一望監視装置に見えて いることが察せられた。
(4) 二極化する取り組み状況
そうこうしているうちに、緊急事態宣言が解除 され、小中高で対面授業が再開されていった。大 学だけが再開せず、学生が孤独に課題に追われて いることが、SNSで話題となり、マスメディアで も取り上げられるようになった。一部対面授業を 再開する大学も出てきていたものの、本学は春学 期はオンライン講義継続と決定され、入校制限が 解除されたのも7月であった。
教育社会学では、6月以降、課題提出数が急下 降していった。筆者は春学期、学生の通信環境や 万が一の感染可能性を考慮して課題の期限には配 慮をせよという但し書きをかなり真に受け、先述 のように毎週の課題の最終期限は学期末としてい た。そのため、全講義に手が回らなくなったり、
オンライン講義継続の気力がなくなったりした学 生は、教育社会学を後回しにしたと思われる。他 方で、出し続けている学生は、相変わらず強迫的 に何行も書き続けている。第1次期限までに回収 されたコメントは開示しているので、提出数が急 減していることは、少し注意して見ればわかるの だが。
(5) 学生・教員間の観察のおぼろげな共有 このような状況に筆者自身も息苦しさを覚え、
現状に関する振り返りを授業冒頭に余談的に吹 き込んでみたりするようになった。6月末には、
遅ればせながら、この授業の課題はこういう意
図で、何百字も書くことは期待していないという メッセージに加え、授業とは別に「オンライン講 義をやっていて思ったこと①②」という文章を掲 載しておいた。看守に擬されている教員から見え る光景として、こちらの期待以上にがんばりすぎ ている学生が目立つ一方、毎週の学習という自己 管理を放棄した学生も、例年より多いという事実 を示した。そして、学生諸氏が高校までで学校的 なふるまいを身につけ、課題=評価されると「過 剰社会化」されすぎているように見えるが、友人 同士のインフォーマルなコミュニケーションが 欠落していることや、教員の様子が見えないこと が、これを助長しているのではないか、つまり、
知識伝達以外の要素や授業のインフォーマルなコ ミュニケーションといった、学校が実は持ってい たパノプティコンらしからぬ部分がそぎ落とされ ているのが今の状況ではないか、という仮説を書 いておいた。ついでに、教員も学生の様子が見え なくて不安なのだというぼやきとともに。
これにより、教員側の雰囲気がわかって肩の力 が抜けたと書いてくる学生に加え、コメント課題 の予備欄に自分なりの分析を重ねてくる学生が現 れ、一部の学生と筆者の間で、コメントとコメン トへの応答というメタ講義的なコミュニケーショ ンが展開されることとなった。春学期終了時点ま でに、現状認識のゆるやかな共有が教員と履修者 の間で成立していったという印象を持っている。
その間、授業を理解するという面では、動画を 巻き戻したり、止めてインターネットで調べもの をしたりする形や、コメント課題を真剣に考える 過程でより深く勉強することになったという意見 があった一方、時間割が曖昧で友人との流れで行 動できない分、通常以上に自己管理が必要とされ ているという意見や、オンデマンド講義では教員 の様子も友達との情報共有も限定的にしかできな いことが、一方的に管理され課題だけをやらされ ている気分につながっているという考察が出てき た。
そのころにはすでに、授業は対面かオンライン かという問題設定が誤っているのではないか、授 業はオンラインでいいが、友達とは会いたいので