難病と向き合う患者の生き方の研究―進行性筋ジス トロフィー成人患者を中心に―
著者 梅崎 利通
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 教育学
報告番号 甲第128号
学位授与年月日 2005‑03‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003978/
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博士後期課程 学位請求論文
難病と向き合う患者の生き方の研究
~進行性筋ジストロフィー成人患者を中心に~
東洋大学大学院文学研究科教育学専攻 博士後期課程3年4170010001番
梅崎利通
目次
序 章 病む苦しみを生きる意味
第1章 研究]三題設定の理由と目的 ………・… ・…・
問題の所在と研究の目的 ………・…… ・… …・ …・
第1節
1.筋ジストロフィー成人患者の問題の所在 ・… …・ ・…
2.研究の目的と意義 ………・・…・……・ ___
第2節 先行研究と課題の設定 ・…・……
1.先行研究 ……… _.
2.課題の設定 ……・………・…・……… .._ .._
第3節 事例研究の方法 ………t・……・………t・・ 一… ._
1.患者選定の基準 ………・………・・………
2.研究内容とデザイン …・・………・…・ t’…… ・◆…
第2章 身体障害者の障害受容の諸課題 ……一 第1節 「障害受容」という心理的問題
1.障害受容の基礎概念 ・…・ ・…
2、障害受容における価値転換 第2節 障害者の課題と生きがい
第3節
1
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52
53
54
・… 62
3.重度障害者の障害受容の道程 ……一 …・・ 67
4.「障害受容」の結論 ……… …・ ・… 71
・…・ 72
▲:ξ謝1;欝嘉もの’’”◆’’’”:_’◆” .:::::’°∴2 3.障害による生きがいの喪失と再生 78
4.障害者の生きがいとQOL・…一… ……・・ …・81
5.死に直面する障害者の生きがい ・… 84
6.「障害者の課題と生きがい」の結論 ・… …・ 89
親の苦悩とその克服 ………・・………・…・………… ……・・ 一・・… …・ 91 1.心理的適応過程の段階モデル ・… ………・・ 92
2.母親の変化の本質 ………・… …一…………・ … g2 3.家族の障害受容の問題 …………・・…… …… 一一94 4.筋ジス児の母親の向き合い方 95
5.「親の苦悩とその克服」の:結論 一 …・ 105
・ ◆ . . . ・ ● ●
・ . ◆ ・ ◆ 》 ・ ● . ◆ ● . ■ ⑳ ● ●
第3章 筋ジス成人患者を取り巻く諸問題 ………一・’………・…・・…………・…・
第1節 筋ジス成人患者の身体的・心理的・環境的・社会的諸問題 ………・
1.筋ジスのタイプと進行 ………・・…・……・・…………・………・ … 2、筋ジスの進行に伴う心理的問題 ………
3.筋ジス患者の環境的障壁と社会的不利益 ………・・…・…・
4.「筋ジス成人患者の身体的・心理的・環境的・社会的諸問題」の結論 ……
第2節 厚生労働行政面での諸問題 ………・・…・………・・…・…………一・・…
1.草創期における親の運動の歴史とその意義 ………・…・・………・’…
2.国の政策面から見た国立療養所の役割と位置づけ ……・……・……・・………・・
3.「厚生労働行政面での諸問題」の結論 ………・・…・……・………・・……
第4章 事例研究 ………・・………・………・・…・………一・………■一・・……・・……
第1節 事例1~家族の支えと創作的活動を通して「生きる意味」に覚醒した患者の事例・・
第2節 事例2~難病を割り切り、人の為に奔走する事に使命を燃やす患者の事例 ・……・
終 章 結論と今後の展望 ………・…・……・………’・…・…………”……’……’…’…… ” 第1節 結論 ………・…・…・…………・・…・………・……・…・………・………・
1.第1章・第2章・第3章の総括…………・……・・………・…… …
2.課題に対する解答 ………・・’………・・…・…………・…・・…・
3.創作的活動ないし作業療法の意味合い ………
4.生きる意味 …・……・………’………’”……’……’……’………
5.筋ジスという難病 ………・・………・………・・……・・
第2節 今後の展望………・・…・………・…・…・…………・…
1.重度臥床筋ジス患者の「より良い生き方の有りよう」(QOL)の可能性 2.入院から在宅生活への流れ ………・・…・…………・・……・………
終わりに ’……’
ll2 113 114 122 133 136 138 139 145 150 156 157 189 219 220 220 222 225 226 227 229 229 232 238
病む苦しみを生きる意味
章
序
人生は常に、そして誰もが順風満帆にいくという保証はない。どんなに時代が進み、
如何に文明が進歩したとしても、天変地異、戦争や貧困、事故や病気など、避けられない 不運、予期しない不幸が人々に襲いかかり、その境遇と人生を変えてしまわないとも限ら ない。特に回復不可能な重病に罹ったり、重度の障害が残るほどの怪我をした場合の生き 方は深刻である。作家の水上勉は70代に入って心臓病で死線をさまよい、何とか生還し たと思ったら82歳の時に脳梗塞に倒れた。立て続けに重い障害が身に降り懸かってきた 彼は、人生に対して「生きるっていうのは、修羅ですよ」と語る。
しかし、そうした「修羅」場の逆境の中でさえ、意味を見出し、前向きに生きる人々が いる。例えば肺結核と脊椎カリエスで13年間ベッドで臥床していた作家の三浦綾子は「病 気をしてね、失ったものもあるけれど得たものも多い」と書き、頸の骨を折って四肢麻痩 になった星野富弘も同様に「数を数えれば、比べものにならないくらい、得たもののほう が多い」と述べている。また、肺結核と子宮癌という二つの病気を経験した神谷美恵子は それらの大病を契機にして決意を強固にハンセン病療養所で働き始める事になった。さら には幼少時に両手両足を突発性脱疽で切断した中村久子は神、仏、親を恨んでいたが、後 に「生まれて、生きて、生かされている」事に感謝し、最終的には「不幸で不運な運命こ そ、神のお恵みである」と悟るようになった。そして26歳で睾丸腫瘍の告知を受けた新 聞記者・上野創は、癌の体験から多くの事を学び、「鈍感な『強者』になっていた自分に 気付いたのも、世の中にあふれる幾多の苦しみや悲しみに思いをはせるようになったのも すべてがんがきっかけだった」と、本のあとがきで素直に心境を吐露している。
このように、普通に考えれば、健康で健全な身体こそ得るものが多く、病者や障害者は 不自由で絶望的であり、さらに人生は「修羅」場と化してしまい、健常人に比べると得る ものがないと断定しがちであるが、上記の人々の語る内容は逆であった。その意味合いは いったい何なのだろうか。
日野原重明(1)は「病むことの意味」を「人間が、単なる生き物としてではなく、人間 らしい自己認識を抱かせる契機をもたらすもの」であり、「病むことにより、心の感性が 高められる」と説く。そして「病むことにより、精神的感受性が高くなるということは、
心をもつことを特性とする人間が、成長すること」であり、「今までよく知らなかった自 己がわかり、他人の悩む問題が理解でき、思いやりの心が養われる」と断定し、畢尭「病 いもまた益である」と肯定的に語っている。従って、結論として日野原は「苦難を受ける ことは全部マイナスというわけじゃない。感性を錬磨することができたら、私たちはどん
なっらいことにも耐えることができる」と説く。
筋ジス患者の小林三郎ωは文集『いばら』第10号で「生命に感謝し祈る」と題した文 章を寄稿し、「進行性の疾患の者は病気の進行に伴い、起居動作などが、だんだんと出来 なくなると、生きること自体が大変である。しかし、大変なればなるほど、生きることの 大事さというか、尊さがいやというほどに感じられる。人はひとたび死に直面すると、悩 んで、命の尊さに目覚め、感謝し、そして祈るのである」と結ぶ。
このように、「病むこと」ないし「病む苦しみ」自体は確かに深刻な事態であり、それ 故、そのマイナス面のみに意識と関心が注がれやすいが、日野原や小林が強く訴えたかっ た事実は、大病や重度の障害の苦しみの中で、生きること自体が大変になればなるほど、
人間の感性が磨かれ、生きることの尊さに目覚め、感謝し、かつ、他人の苦しみに対して も思いやりの心を持つようになる、という点である。つまり、「病むこと」をしっかりと 白己認識の契機とする事が出来た場合、その人は「病む苦しみ」を通して人間的に成長す る事が可能であり、結局、人間にとって病いは有益かつ有意義であるという側面である。
しかし、当然の事ではあるが、病むことを通してすべての人々の感性が磨かれる、とい うわけではない。むしろ、病気になっても、重い障害を背負っても、何の教訓も得ず、「成 長」もしないでただ単に身の不運と不幸を嘆き、他人に八つ当たりする人もいる。日野原 は感性が高いかどうかはその人の生まれつきの資質であるとしても、「家庭の中や、社会 の中での人との交わりの中」で磨かれるとしているが、おそらくその人の感性を高めるた めには、「資質」が如何なる「人との交わり」の機会を得たかにより決定されるだろうと 筆者には思われる。
「病む苦しみ」の深刻さは死と隣り合わせの癌が最たるものであろう。しかし、それは 癌だけに留まらない。所謂難病と言われている多くの病気も「病む苦しみ」を長期間にわ たり当事者に背負わせている。その難病の中でも特に重度の病気に位置づけられている進 行性筋ジストロフィー(以下、筋ジスと略す)は、遺伝が原因でない事例も多く、つまり 親・兄弟・親戚に同病の患者がいない場合であっても、確率的に出生人口10万人対して 数人の割合で遺伝子に突然変異が生じて生まれてくるので、人類の生誕に必然化する疾患
と言える。従って、偶然の確率で筋ジスが身に降り懸かった人にとっては「何故?どうし て?自分が筋ジスになったのか?」と絶えずさいなまれ、その進行に伴い身の不運を嘆き、
かつ、「負け戦1を戦わざるを得ない人生の不幸を呪うに違いない。
しかし、「負け戦」のように思われる状況や人生が苦しく困難な時においてさえ、「人
生は無条件に意味で満たされている」とViktor E Frankll3}は言う。彼は「苦しみの中や 死につつある時においてさえ、意味を賦与する可能性はある」とも断言しているが、そう
した状況に陥ってもなお、生きる事に人生の意味と意義を見出し、「どんな条件のもとで あれ、人生は意味を持ち続ける」という確信を持つ事が出来るとするならば、難病の筋ジ ス者にとって、その「病む苦しみ」も「無条件に意味で満たされている」と言えるのであ ろうか。そして、筋ジスという「苦しみjは、はたして人間的な成長をもたらすばかりで なく、「意味を賦与」され、「筋ジスを生きる」事は本当に「益である」と断言出来るの であろうか。その問いに対する解答をこの研究を通して探っていきたい。
引用文献
(1)日野原重明:病むこと みとること、日本基督教団出版局、1991、ll~15ページ。
(2)lg87年2月発行の国立療養所箱根病院の筋ジス患者の文集『いばら』第10号に掲 載された患者の小林三郎さんの文章。
(3)Frankl,V.E.:The Unheard Cry for Meanlng,Pocked books(New York),Washington Square Press,1978,P44
参考文献
(1)2004年6月5日付け朝日新聞土曜版beの記事。
(2)三浦綾.f’ ’星野富弘:対談銀色のあしあと、いのちのことば社、1988。
(3)三浦綾子:道ありき 青春編、新潮文庫、1980。
(4)神谷美恵子:生きがいについて、みすず書房、1980。
(5)2000年2月18日付け日本経済新聞朝刊5面“ミドルからの出発”の記事。
(6)黒瀬舜次郎:四肢切断 中村久子先生の一生、致知出版社、1993。
(7)上野創:がんと向き合って、晶文社、2002。
(8)千葉敦子:乳ガンなんかに敗けられない、文春文庫、1987。
(9)朝日新聞2004年7.月17日付け夕刊12面紙面「『フロンティアエイジ』フォーラム 高齢者の前向き人生を提案」の記事。
(10)千秋実:生きるなり 脳卒中からの奇跡の生還、文藝春秋、1979。
第1章 研究主題設定の理由と目的
第1節 問題の所在と研究の目的
L筋ジストロフィー成人患者の問題の所在
筋ジス成人患者の問題を分析する上で、筋ジス者全体の6割を占めているデュシェンヌ 型の筋ジス者、特に筋ジス児童の置かれた問題を検討する事が必要であると考えられるの で、まず筋ジス児童を取り巻く問題を取り上げ、それから本論である筋ジス成人患者の問 題の所在を明確にしていきたい。
①筋ジス児童を取り巻く問題点
筋肉が次第に萎縮し、病気が徐々に進行して多くの動作が不可能になっていく筋ジス者 のうち、「難病中の難病」と呼ばれるデュシェンヌ型(Duchenne type)は最も予後が悪い 重症型であり、ほぼ以下のような経過を辿る。つまり、「処女歩行の遅れをみるが一般に は3~4歳に初発症状として動揺性歩行、登はん性起立、階段昇降の異常などが現れ気付 かれることが多い。10歳前後で歩行は不能となる。そのころから関節拘縮、脊柱変形が 目立っようになる。また、肺機能の低下が起こる。心臓も10歳をすぎるころから心電図 に変化がでてくる。運動機能障害は進行しADLの低下もつよくなっていく。末期に近づ くと呼吸不全、心不全の症状が現れる。頻脈、不整脈、チアノーゼ、尿量減少、動悸、胸 内苦悶などの自・他覚症状をみられる。時にはイレウス様症状、急性胃拡張などの胸部症 状をみる。死因は一般に呼吸不全、心不全である」q)。
その進行の残酷さは小学校低学年から子どもの身体を加速度的に蝕んでいく事である。
例えば山田富也(2)の『こころの勲章』には次のように記されている。「日を追うごとに 体の自由がきかなくなっていく私に、放課後の掃除当番が免除になり、体育の時間はいつ
も見学ばかりになっていった。……(途中略)……六年生になってからは、学校へは母の 背中におぶさって通った。足がすっかり萎えてほとんど歩けなくなってしまったからだ」。
かくして、小学校高学年では歩行が不可能となり車椅子生活を余儀なくされ、やがて脊柱 の側轡や関節の拘縮が極度に進行し、末期には心不全や呼吸不全が原因となって二十歳前 後で大半が死亡してしまう。子ども4人がすべて筋ジスに罹った西岡和栄く3〕は、その悲 惨さを「最も希望に満ちているべき青春期に、生命のすべてを燃やしつくして死んでゆく 病気」と表現している。
このように、病気の急速な進行に伴い、最近では頑張って家から地域の学校に通う子ど
もも多くなってきたが、嘗ては大多数の筋ジス児童たちは親元を遠く離れた、それも辺鄙 な上地にある国立療養所に人院する事になった。その矛盾点ないし問題点は、小さい頃か
ら親元を離れて施設としての病院で過ごさざるをえなかった若い患者ほど深刻に意識して いた。例えば8歳で群馬県の実家から離れて千葉県の国立療養所下志津病院に入院した福 嶋あき江は次のように指摘する。「施設生活が長くなると、自らの家庭までが自分達(障 害者)のいないことを当然とした生活を築きあげ、居場所をなくしてしまうというのが多 くの実例だ。……(途中略)……誰が、私達の居住の場を決め、一・生の生活を決めてしま うのか。幼い時に病院(施設)に入った私には気がっいた時、自分の生きる道を選択する 余地などまったくなかった。病院で一生を送ることが、当然のこととして、生活や教育す
べての前提にあった」{4}。
っまり、子どもの時期から国立療養所に入院せざるを得なかった場合、福嶋が述べてい るように、生活や教育環境や人間関係などすべてが家族から分断されてしまい、自分の居 場所も病棟の病室にしか存在しなくなってしまう事により、多くは就職も進学も結婚も家 庭生活も実現不可能なまま病院という空間に拘束される一生を過ごさざるを得ないのであ
った。入院生活が長くなればなるほど病気は進行し、療養所の医療という庇護がないと生 存できなくなり、ますます療養所なくしては成り立たない人生になってしまう。その点こ そが小児期から入院する筋ジス児の最大の問題である。勿論、デュシェンヌ型などの小児 筋ジス者にとっては、国立療養所が建前上は生活と教育の場であり、勉学・生活・青春・
職業・人生などに向けての、いわば「社会に飛び立つための成長の場1であって、子ども たちは出来れば病院から社会に飛び出して生活する事を希望している(しかし、現実には その実現可能性は極めて少ない)ものの、実際には病気の進行が身体機能を蝕んでいき「療 養所から脱出を模索しっっ果たせない人生」になってしまう可能性が高い。
②筋ジス成人患者の問題の所在
a.療養所が「終の棲家」になってしまうという事
一“L一方、この小児期に発病するデュシェンヌ型に対して、肢帯型や顔面肩甲上腕型や筋強 直型のように、青年期から成人期に発症する筋ジス者は、デュシェンヌ型に比べれば「進 行は緩徐」とされており、比較的晩年まで生きている場合が多い。とは言っても、成人で 発症する筋ジス者も、進行性の病気であるという事実から逃れる事は出来ず、この間まで 立てたり歩いていた人が、何かのきっかけで、例えば肺炎などの病気や事故や転倒による 怪我などで、数週間という短期間でもベッドに臥床しただけで起立や歩行が困難になり、
それ以後、顕著に、かつ加速度的に筋肉の萎縮が進行していき、車椅子の生活に拘束され てしまう経過をとるようになる事がよくある。
そして、病気の進行に伴い、会社で勤務する事も困難になって退職し、かつ家庭で生活 や治療を継続する事も出来ないため、また、国が難病の療育・療養と看護に責任を持って 取り組むという「政策医療」の方針もあって、成人の筋ジス者の多くもデュシェンヌ型の 子どもと同様、全国に点在する26の筋ジス専門の国立療養所と1つの国立センター(国 立精神・神経センター武蔵病院)(合計2500床)のいずれかの筋ジス成人病棟に入院する
事が多い、
それ故、成人の筋ジス者の問題は、デュシェンヌ型などの小児の筋ジスとは異なり、多 くの人は進学・就職・労働・結婚・家庭生活・社会生活など、一般の人が経験する人生を 過ごしてきた後に、培ってきた人生の蓄積をすべて、あるいはかなり中断ないし放棄して 国立療養所に入院し、そこで裸一貫になって出直し、新たに人生の目標を見つけ、療養所 という枠内でその実現に尽力せざるを得ない点である。勿論、病気の進行と闘いながら社 会の中で働いている筋ジス者もいるが、その数は極めて少数であり、大多数の人は嘗ての 役割を捨てて、病院での生活に依存せざるを得なくなる。しかし、すぐに回復する短期の 入院とは異なり、また根本的な治療薬が開発されていない現状では、「リハビリ」という 名の機能訓練をいくら実施しても病気の進行を阻止出来ず、更にはその回復も見込めない ので、早期に退院する事は稀である。このように、患者と家族の側の事情と国の政策・病 院の経営といった思惑から、結果的には国立療養所で長い入院生活を余儀なくされてしま う。つまりこれは治療して治し、早く社会や家庭に送り出すという病院本来の機能とは全 く異なり、デュシェンヌ型の子どもと同様、実質的には施設入所と変わらないのである。
従つて、何年も入院して、家族の面会も少なくなり、家族との絆が次第に薄れていけば、
家族とは疎遠になっていく。入院生活は20年、30年に及ぶ人もいて、やがては親兄弟が 年老いて世代も代わり、実家における自分の居場所と慣れ親しんだ人間関係を喪失してし まい、病院にしか自分の生活する空間が残っていず、それ故、病院の病棟の、しかも病室 の一部が紛れもなく「終の棲家」となり、そこで一生を過ごさざるを得ない。患者にとっ て病院が生活と人生のすべてになってしまうのである。これはつまり「療養所を人生の最 後まで過ごさなければならない終焉の場と観念している人生」とも言えよう。成人の筋ジ ス者にとって国立療養所は、社会の中で色々な人生経験をしてきた後に、培ってきた人生 の蓄積をすべて放棄して入院し、そこで「人生の最後まで過ごさなければならない終焉の
場」なのである。それが第一の問題点である。
当然、特別の事情、例えば開設したばかりの施設に幸運にも入所出来るとか、最悪の場 合は死亡するとかの事態がない限り退院は有り得ない。しかし、進行性の病気という事も あって、殆どの施設から「医療に常時かからざるを得ない」と、引き受けを敬遠される現
実にある。
b.療養所での生き方の質が問われるという事
このように、「終焉の場1で、確実に、かつ明確に近い将来にやってくるであろう「遠 からざる死」ないし「柔らかに迫りくる死」を宿命的に決定されていて、しかも加速度的 に病気の進行と加齢に伴う老化の影響で、たえずその死を意識しながら療養している筋ジ ス成人患者は、いったい自分の衰えつつある肉体を有する人生をどう考えて今という「生」
を生きているのであろうか。
入院患者の中には発症までまがりなりにも社会の中で生活していた者も多く、次第に仕 事が遂行出来なくなったり、歩行や立ち居振る舞いに不便を感じて方々の医療機関を回り、
最終的にどこかの病院で「不治の病である」、ないし「進行性の難病で、今のところ治療 法がない」と診断を下され、驚き、葛藤苦悩し、更には悲嘆し、人生に絶望する。そこか ら生きる事に目を向けて前向きに進み出すのを一括りに「障害受容」と片づけるのはたや すい。しかし、上田敏が概説してまとめた「障害の受容」には脳卒中や事故といった、病 気や障害が進行しないで、一旦なったら症状が固定し安定する場合が殆どであり、その場 合の受容の内容や過程は、進行性の疾患の場合と本質的に同じ道程や経過を辿るものとは 思えない。またElisabeth K Ubler-Ross {5)は、癌に冒された患者の気持ちに接近し、「死に ゆく人々」の「死の受容」は如何に死を受け入れ、価値ある、そして安らかな死を迎える かを追究し、その結果、「死の受容」の過程を第一段階 否認と隔離、第二段階 怒り、
第三段階 取り引き、第四段階 抑欝、第五段階 受容、に分けて分析した。しかし、癌 の場合は、残された時間を如何に有意義に過ごし、その「生」を終えるかに力点があり、
難病を宿命づけられ、かっ衰退しながらも何十年かを生き続けていく場合とは、「障害の 受容」も生き方も根本から異なるように筆者には思われる。
それ故、生活の場を病院内に移して後、筋ジス者たちが 「柔らかに迫りくる死」とど のように向き合い、生きていくのかが、その患者の「人生の意味」を決定づけるであろう。
進行し身体的にも精神的にも苦しければ苦しいほど、「病む苦しみ」を生きる事に意味を 見い出せるかどうかが大切になってくるものと思われる。
患者が入院している国立療養所では、様々な医療専門職種の援助や関与により、患者の 入院生活をより良いもの、または潤いのあるものになるよう努力しており、その多様な取 り組みに対して、提供する側がQOL(Quality of Life)という視点から患者にアンケート をとって調べたり、自分たちの思い入れや視点から患者の満足度を推し量ったりする事は あっても、根本は、当事者である患者自身が自分の人生を真摯に考え、自分がどうしたい のかを明確にして、自らが主体的に自分の人生を切り開いていかねばならないと言えるだ
ろう。
以i’iを踏まえて、年々肉体が確実に衰微していく筋ジス患者にとって、少しずつ色々な 動作が出来なくなっていくのを悟ったうえで、入浴や着替え、果ては排尿や排便なども含 め、日常生活活動(以下、ADLと略す)の殆どが介助の病棟生活においてさえ、人とし ての尊厳と生きがいのある暮らしや人生を、Frankl ‘6’が主張するように、「文字通り最後 の瞬間まで、最後の一息まで意味で満たされている」ように生きる事が可能かどうかとい
う点が、第11の問題点である。
2.研究の目的と意義
a.研究の目的筋ジス者たちは圧倒的大多数が国立療養所に収容され、一般の人々の目にふれる:事が少 なく、国民にとってこの病気が如何に悲惨で苛酷であるかの理解と認識を妨げているとい ってよいであろう。
さらに、筋ジス者に関する研究は、対象が全体の六割を占めるデュシェンヌ型が中心で あり、その研究の中身は、病気の進行を遅らせ、身体機能を出来るだけ維持するためのリ ハビリ訓練の技術論や、気管切開した後の延命処置とその技術方法が主流であり、デュシ ェンヌ型の人たちが自分の病気や運命にっいてどう感じているかなど、彼らの真実の気持 ちや心の深層に関する研究は殆どないのが実状である。
ましてや、デュシェンヌ型以外の筋ジス者に関する研究は少なく、その身体面以外の研 究となると皆無に近いと言えるだろう。
本論文は、こうした経緯を踏まえ、筆者が勤務する国立療養所で長期にわたり入院し、
療養所内でのリハビリ訓練や各種サークル、ないし療養所主催の行事ばかりでなく、療養 所の外への外出や交流など院内外での多彩な活動をしている患者の事例を通して、成人の
進行性筋難病患者、所謂筋ジス成人患者にとって、偶然の運命として青年期や中年期に降 り懸かってきた進行性の難病に、どのように困惑・悲嘆・苦悩・絶望し、そのどん底でど のように向き合い、その不治の病気と共に生きる事の意味と価値をどこに置いて受け入れ、
そしてどのように精神的に克服していったのか、更にはそれらの患者が日指す「より良い 生き方」やr生きがいのある人生」、ないし「深い意味のある生き方」とは如何なるもの であるか、を分析・解明し、人間の心の真髄に迫る事を目的とする。
従って、研究の対象はあくまで国立療養所に入院している筋ジス成人患者であり、在宅 で精.一杯頑張って生活している成人の筋ジス者を対象とはしていない。また、近年デュシ ェンヌ型の筋ジス者も二十歳を大幅に超して生存しており、この「成人化」の問題も深刻 であるが、デュシェンヌ型の子どもが成人後も三十代・四十代と長生きしている場合の筋 ジス者も対象から外す。対象はあくまで青年期・成人期で発病し、国立療養所に入院して いる筋ジス成人患者である。
b.研究の意義
筋ジス成人患者の「生きる意味」に関する研究は、小児期に発病し、二十歳前後で大半 が死亡してしまうデュシェンヌ型に比べて殆どなく、患者自身によって著された書物や記 録もわずかしかないのが現状である。成人患者自身の内面の苦悩とその克服の心理面につ いての総合的、人間心理学的研究は、本研究が初めてである。従って、患者の置かれた医 学的、環境的、社会的、精神的状況を深く探究し、筋ジスという難病に向き合う生き方の 有りようを明らかにしようという本研究は、筋ジス成人患者のリハビリテーションに資す
るばかりでなく、人間の魂やこころを理解するためにも本源的な意義を有するものである
と考える。
第2節 先行研究と課題の設定
筋ジス成人患者に関する体系的な研究は皆無に近い.筋ジス者全体の六割がデュシェン ヌ型という事もあって、デュシェンヌ型の筋ジス者の記録や書物は図書館などで目にする 事はあるものの、成人の筋ジス者自身の記録は僅かである。従って、この節では広くデュ シェンヌ型の筋ジス者が書いた書籍の記録を主にしながら、過去の筋ジス患者自身の生き 方を文献研究として研究するとともに、筆者が勤務する国立療養所も1976年に筋ジス病 棟が開設され、多くの筋ジス患者が入院して、患者自身の文集も嘗て発行されていたので、
これも筋ジス成人患者の貴重な文献として分析する。
また、厚生省時代から取り組まれている筋ジスに関する総合的な研究成果報告書(所謂
『筋ジス第4班』の研究成果報告書)が、日本における唯一の筋ジスに関する総合的、体 系的、かつ歴史的な研究成果であるので、これを先行研究として概説する事にする。
1.先行研究
①文献研究~筋ジス者自身(とその親)の記録の研究
国の政策として国立療養所に筋ジスの子どもたちが入院するようになった1964年以降、
多くはその療養i所に隣接して設立されていた養護学校に通うようになった。親たちの悲願 であった入院と治療への期待とは裏腹に、入院させられた子どもたちは、自分たちが自分 の家を離れて、しかも地元の普通の小学校ではなく病院近接の養護学校に通わざるを得な い現実に向き合うようになった。その中でも特に入院している筋ジス者たちの活動として 活発だったのが仙台の国立療養所西多賀病院での活動と、千葉県四街道市の国立療養所下 志津病院での活動で、前者は筋ジス者自らが自治会を作って社会運動にまで広げていった 活動であり、後者は養護学校の先生の指導の基に、子どもたちが始めた詩作活動であった。
前者の活動は、60年代後半に相次いで入院した山田寛之・秀人・富也の三兄弟が中心 になって発展した。特に三男の富也氏は入院中の70年に詩集『直線』を自費出版したば かりでなく、志半ばで死んでいった友が書き残した多くの詩と残された同士ともいうべき 他の患者たちがしたためた詩を集めて71年、詩集『車椅子の青春』〈’)を編集・出版して いる。彼はこの本の「はしがき(わたしたちはなぜこの本を出版したのか)」で次のよう に書いている。
「ここに収められた六1一四編の詩と文章は、宮城県にある国立療養所西多賀病院の進行 性筋ジストロフィー患者の作品です。……(途中略)……家で病気と闘っている患者の場 合は、寝返り一つできないという状態の下で、家族はそれこそ寝る暇もなくめんどうをみ なくてはなりません。患者の世話に疲れ果て、ついには家族までが悲惨な状態に追い込ま れている現状にもかかわらず、今でも、病気を治すことはおろか、原因すらわかっていな いありさまです。国では十数年前から患者を国立病院に収容するようにしていますが、し かし患者が.一番に願っていることは、自宅で家族と生活ができ、充分医療を受けられる体 制ができることなのです。……(途中略)……病院にはこの悲惨な病にとりっかれた仲間 たちが大勢ベッドに横たわっていました。彼らは骨と皮だけの肉体となって、身動き.’っ できず、見える物といえば病棟の白い壁と、小さな窓から見える限られた風景だけという 悲惨な生活を強いられているのです。そんな中で私は、車椅子を使えば何とか生活してい
ける比較的元気な仲間と助け合いながら、いろいろな形で社会に対し病気の現状を訴え続
けてきました」。
彼は、国が国の責任として「充分な予算と医学の総力」をあげて病気を治し、家族と患 者の悲惨な生活を救い、家族と一緒に社会の中で生活が出来るよう、既に死んだ仲間と現 に病気と闘っている患者の詩集を発行する事を通して、病院内外の人々、特に病院外の社 会の人々に切に訴えたのであった。彼は自分の言葉の通り実践すべく、74年、21歳の時 に国立療養所西多賀病院を退院し、以後は社会の中で病気と闘いながら、障害者が健常者 と共に助け合って生活する事を目指して活動しており、著作も多い。
あきら
後者の活動は隣接していた千葉県立四街道養護学校での活動であり、石田鮫教諭の指 導のもと、詩作が開始され、「詩は、僕の生命だ」と言って、一一心に詩作に励む青年も現 れた。例えば、甲1⊥」政弘詩集『長い道』(新書館、1975)、北原敏1直詩集『星への手紙』(新
書館、1974)などがそれである。
甲山君の詩集は、1957年生まれの彼が小学校1年生の2学期に埼玉県から千葉県の国 立療養所下志津病院に入院し、以来、病気が進行しベッド上の生活の中で、中学1年生か ら3年生の2年間に作った三百篇を越す作品の中から百二十篇を選んで1973年ll月に自 費出版の形で発行されたものである。この詩集は読売新聞の家庭欄に翌74年1月25日に 紹介されて全国的な反響があり、新書館から改めて体裁と内容を整え、1975年に出版さ れた。しかし、彼は新聞で取り上げられた半年後の7月ll日に、17歳3ヶ月の短い生涯
を閉じてしまった。彼は死ぬまで真摯に自分に向き合いながら、決して希望を失わず、人
間を信じ、愛して、精・杯生きる事にIE直なまま頑張った。詩を指導した石田教諭は彼の 詩を「感謝と祈り」の詩と讃えた。
北原君の詩集は1960年3月生まれの彼が、甲山君と同じ国立療養所F志津病院に1971 年入院し、同じ養護学校に通いながら、同じく石田咬教諭の指導を受けて、四百篇以Lの 詩の中から特に百十四篇の作品を選んで、甲山君の詩集を追うように、甲山君の詩集から
llヶ月後に新書館から74年12月発行したものである。彼は当時14歳の少年であったが、
既にその心は世界の平和を希求しつつ、自然や夢や人間や愛について、一一心に詩で表現し ようとした。
北原君の1年後輩にあたる石川高広君は1960年6月生まれ。67年、小学校1年生の9 月に地元の小田原を離れ、同じく国立療養所下志津病院に入院し、同じ養護学校に通いな がら、同様に石田咬教諭の指導を受け、77年9月、『石川高広詩集 青空 母と子の心の 記録』(8}を出版した。前文で母親の石川豊江さんは長男である高広君ばかりか、次男の 寛君まで筋ジスとして生まれ、共に母親である自分のもとから幼くして離れて病院で暮ら
さねばならない辛さと悲しさの心情を日記の形式で綴っている。「今日何をしてやるかが、
i供たちのためになること。今日一・日に全力をだすことに目をむける」べく、母親は懸命 に、かっ明るく振る舞う。本人の高広君は青春の憧れと夢を73編の詩に表現したが、彼 の詩は、前記の西多賀病院の入院患者のような張りつめた感情や病気の悲惨さ・病気への 怒りなどの思想性や社会性はなく、病気に罹っても家族の愛を感じながら、かつ病気の治 療法が発見され、病気が治るのを信じながら、自分の青春の憧憬をひたすら真摯に歌い上 げている。石田教諭は、高広君の本の解説文の中で、彼がおっとりとし、おとなしすぎる ほどでも、「与えられた逆境に負けずに歩んできた高広君の内面は、驚くほど豊かに健や かに育ってきて」おり、それ故、「本当の優しさこそが本当の強さであり、厳しい現実を 生き抜く最大の原動力になっている」事を理解し、この詩集が「明日からの人生への…層 力強い旅立ちの里程標になる」と賞賛する。
70年代では石川正一一の『車椅子の上の17才の青春 たとえぼくに明日はなくとも』が73 年に上梓された(彼は79年に23歳で死去し、遺稿集が『明日なき生命の詩 めぐり逢う べき誰かのために』として出版されている)。デュシェンヌ型の筋ジス児の予後がまだ二 十歳前後で死亡と言われていた時代に、必死になって二十歳までの限られた時間を生き抜 く日常が家族との絆の中で克明に描かれている。
しかし、何と言っても70年代は圧倒的に山田富也の著作と活動が多い。75年詩集『続
・車椅f一の青春』、同年自叙伝『隣り合わせの悲しみ』(エール出版)、77年詩集『車椅子 残酷な青春』、78年小説『さようならの日日』(エール出版)などと立て続けに出版し、
筋ジス者であっても一一人の人間として社会の中で意味のある生き方を必死になって追求 し、その足跡を著述を通して書き記している。
80年代になると、在宅生活をしている筋ジス者の中にも、あるいは国立療養所に入院 している筋ジス者の中にも、山田富也と同様、社会の中で生きる方策を模索する人たちが 現れ始めた。例えば、橋本一俊・橋本日那子『オスカーをたのむよ 筋ジストロフィーで 逝った19才の青春』(9)、福嶋あき江『二十歳 もっと生きたい』などがある。前者は長 男一俊君の誕生から19歳で亡くなるまでを母親が記録した本である。その著書の中で・
俊君の「絶望の果てに」と題した、神奈川県定時制通信制生活体験作品発表会で最優秀賞 を獲得した文章が掲載されており、その中で彼は自分の筋ジスという進行性の病気の現実 に対して、次のように考えている。つまり、「自分の将来への不安と、やがてやってくる だろう死への恐怖におそわれ、これからの人生に深く絶望し」ていた自分の前に、「ある 日突然、新しい自分が現れ」たのであった。「新しい自分とは、自分はどう生きるべきか を考える自分」であり、「人生の目的を失い、ただ時間に流され、死がくるのを待ってい る」生き方はいやであり、結局「人間の一生は短いが、短いからこそ、自分を完全燃焼さ せなければ」ならないし、「人間はそうすることができるからこそ、そこに人間の尊厳が あり、自由がある」と悟るのであった。かくして人生に対しては、「人生は一.一日、一日を
しっかり生きることの積み重ね」であり、「私の経験した絶望は、私の生き方に方向を与 えた」のであった。筋ジスという進行性の難病の苦しみからは所詮逃れる事は出来ないの であり、苦しみを避けて通ろうとするのは「まちがった方向」であった。「苦しみは真正 面からじっと見据えなければ」ならず、「どんなにっらくとも、そうしなければその苦し みをのり越える力は生まれて」こないと力説している。そして最終的には「この地球Lに 人間の尊厳を主張するつもり」であると結論づけている。
後者は国立療養i所下志津病院に入院せざるを得なかった筋ジスの女性が、プライバシー もなく日常が過ぎ、未来も展望出来ない日々の生活から何とかして脱し、一一念発起してア メリカに旅立ち、そこで自分の生き方を模索する記録である。彼女も自分の短い人生をど のように見据えるかを介して自分固有の人生を切り開こうとしている。この2文献の筋ジ ス者は在宅か施設暮らしかは別としても幼い頃から病気に罹り、教育の不平等と社会の差 別の中でも、必死になって自らの生き方を追求しようとした。
.・方、デュシェンヌ型以外の筋ジス者の文献はようやく1988年になって、安達哲男『心 は生きている』〔’e)に始まる。彼は働いていた24歳の時、末梢性進行性筋ジスと診断され、
絶望と失望の極みの中で、「そうだ、自分はこんなにのんびりなんかしていられない。筋 ジスだかなんだか知らないけれどそんなものに負けてなるものか。幾ら難しい病気でも、
千分のや万分の一一は良くなる可能性があるだろうし、私がその千分の一一や万分の一にな ればよいのであって、自分は絶対になおるんだ」と考えるようになった。しかし、現実は 困難の連続であり、リハビリの訓練しても結果は生活の問題が大きくのしかかってきた。
そんな折り、将来妻となる女性と巡り会い、結婚し、二人の子どもも授かり、考え方も少 しずっ変わっていった。彼はそれを次のように言う。「無我無欲の心になったのを機会に、
私の人生は大きく転換を始めた」のであった。体の事を考えなくなると、不思議な事に筋 ジスの進行が止まっており、「体が良くなりどんどん働いて収入が増えなければ幸せにな れない、と考えていたのに、そういう幸せになるための条件が何.一一つ解決しないまま幸せ だけがやってきた」のであった。つまり「無我無欲の幸せ」であった。「真剣に自分自身 がその気になれば幸せは何処にでもあるということを感じた」のであった。それを「素直 な生き方、自然な生き方」と彼は言う。
親たちの運動を通じて国会に陳情し、国立療養所に入院して治療を受けられるよう活動 し、「日本筋ジストロフィー協会」を設立したその歴史を記録した西岡和栄の『日暮れて 道遠し』の小冊子も貴重な記録となっている。1963年から1971年までの全国的な活動と、
同時期の関西での活動の内容を、筋ジス児の親の立場からまとめてある。自費出版の形で 発行されているが、貴重な記録である。西岡さんご自身の4人の子どもも全員筋ジスであ
った。
勿論、全国的に概観した場合では、山田富也の活動は80年代でも際だっていた。彼が 国立療養所西多賀病院入院から結婚、退院、そして地域での「ありのまま舎」の設立など を通して、筋ジスという病気、それを取り巻く社会の問題に立ち向かっていった十年以上 の活動の総括として著したのが『筋ジストロフィー症への挑戦』である。ただ単なる自分 史ではなく、筋ジス問題の本質を自らの生い立ちから平明かつ詳細に記述してある。
1991年に『春を待っこころ』(mを出版した今井隆裕は、10歳の時に地元の小学校から 岐阜県の国立療養所長良病院に入院し、音楽や文芸に親しみながら、高校生の時バンド「サ
ンライズ」を結成し、音楽活動に専念したが、病気が進行し気管切開し、人工呼吸器を装 着する身になっても、作詞・作曲・短歌作り等精力的に取り組み、かつバンド仲間とのコ
ンサー一一トも再び実現させた。呼吸器を付けてから、一一時的には落ち込んだが、そこから自 分を見つめ直し、前向きに目標を持って真摯に生きるようになった心境を次のように語る。
「幼い頃から現在までの自分を振り返ってみて思うのは、呼吸器をつける以前は何事にも 消極的だったのに、呼吸器をつけて以来、少しでも前に進んでいこうとする積極性が出て きたということだ。……(中略)……私にとって良かったのは、コンサートへの参加とい
う目標があったからだろう。そうした心の支えがなかったら、ここまで頑張れたかどうか わからない。また、ひとつの目標を持っことによって、心に張りができ、それが体調にも 良い影響を与えるということを何度も体験した。もし、最初から無理だとあきらめていた ら、今の私はなかっただろう。そんな意味で、これからも何かに挑戦する姿勢を忘れずに 歩んでゆきたいと思う」。目標を持って精一杯生きる意味と価値をこの本は訴える。
90年代では、パソコンなどの機械の進歩に伴い、デュシェンヌ型の筋ジス者でも子ど もの頃から自分の生活を記録出来るようになり、子ども自身やそれを取り巻く親の記録も 多くなってくる。例えば、栗原征史『神さまに質問 筋ジストロフィーを生きたぼくの19 年』(12’は、センサー付きのワープロで『栗原新聞』を発行する事を生きがいにしていた。
彼は国立療養所に入院しないで、自宅から地域の小学校、そして更には養護学校(中学部
・高等部)に通った。彼は学校の子どもたちの偏見やいじめにあい、それに必死に耐えて いた。そんな折り、母親が「新聞をつくったら」と言うと彼は素直に従った。他人と上手 に意思の疎通が出来ない彼に、コミュニケーションの仕方を教えてくれた。以来、彼は新 聞作りに熱中する。「死はいつもぼくの隣にいる。死と向き合うことは、生と向き合うこ
とだ。生きることの素晴らしさをぼくは日々噛みしめている。僕の『栗原新聞』は、不充 分だし、表現もまずいが、生きることの尊厳を、幼かった時は無意識に、今でははっきり 意識して訴えてきたつもり」。こうして彼は賢明に、かつ明るくひたむきで純真な気持ち で生きた。本の「はじめに」の末尾には次のように書かれている。「この本から、障害者 の実際の姿、命の尊さをほんの少しでもくみ取っていただければ、ぼくがこの世に生を受 けたことにも意味があった、一九年のぼくの生きざまも単にみんなに迷惑をかけただけで なかった一ぼくはそう思いたいのです」。
『栗原新聞』第40号(1991年ll月1日発行)には“神さまに質問”という詩が掲載 されているが、二十歳にも満たない栗原君が筋ジスを生きる意味を若くして悟った事がそ の表現からよくわかる。長くなるが引用しよう。
神さまに質問 神さまがこの世に存在するのなら
一7iifだけ 会って聞きたいことがある
それは 父と母の親戚の中で 今までひとりもを 障害をもって 生まれた人がいないのに
なぜ ぼくひとりに 筋ジスという試練を与えて下さったのか 聞きたい 夢の中でもいいから 答えてほしい
でも それは不可能なことだから 自分なりに きっと 神さまが このお母さんだったら その子を 育てられるという自信があったから
考えてみた
お母さんが選ばれたと思う
選ばれたぼくは 生きるという命のたいせつさを
社会の人たちに 教えることを 神さまが与えて下さった使命だと思いたい
障害者は 社会が忘れていることを 思い出させるために 神さまが派遣されたのだと思う
彼にとっては「筋ジスを生きる」という事は、生きるという命の大切さを社会の人にわ かってもらうために神さまから与えられた使命であり、だからこそ精一杯生きようとした のであった。
90年代から21世紀にかけて、ビジネスとマスコミの世界で活躍して世に名前を知らし めているのが、筋ジス者、いやビジネスマン・春山満氏であろう。彼自身も『僕にできな いこと。僕にしかできないこと。』、『それぞれが幸福な死を迎えるために』などの中で、
障害後の自分の生き方を通して、「春山ビジネス」の成功の秘訣を語っている。実は、ビ ジネスの話をしながら彼の著作の本質は筋ジスという自らに降り懸かってきた難病とどの ように向き合い、対峙し自分の人生を生きていくのかという生き方の彼流の本質を吐露し ている。1954年生まれの彼は、24歳の頃に筋ジスを発病し、現在は首から下は「寝たき
りの中年」でありながらも、首から上は「バリバリの商売人」として「ハンディネットワ
一ク インターナショナル」(1991~)の経営に携わりながら、自分の病気からさまざま なヒントを得て、それを商品化している。そして彼は『僕にできないこと。僕にしかでき ないこと。』Cl ‘s)の中で次のように語っている。「僕は悲観したり、後ろ向きに考えたりは しませんでした。常に自分がおかれた状況を素直に受け入れ、それでも精.一杯生きるため にはどうすればいいか、と考えてきたのです」。「この世に生をうけたからには必ず何ら かの大きな役割を与えられていると思います。その役割を自分で発見し、自分がその役割 を果たしているという実感を少しでも持てれば、それはとても幸せなことなのです」。そ
して、筋ジスという難病に対しても「人生には宿命という、自分の力ではどうにもならな いことがあります。しかし、その一方で、自分で自分の命を立てることができます。これ が立命ということで、僕はそれがとても大事なことだと考えています」。「僕が今日こう
していられるのは、みんなに生かされているからです。人間は決して独りでは生きること ができません。大きな連鎖の中で、それぞれ何かの役割を持って生きているのです」と結 論づける。つまり、彼は宿命は避ける事は出来ないが、それを立命する事は十分可能であ り、その立命の道程の中に自らの「生きる意味」を理解し進んでいかなければならないと 力説していると言えるだろう。
21世紀に入って出版された貴重な文献として、筋ジス成人患者自身が自らの発病の経 緯とその時々の思い、病院での闘病生活などを真摯に記録した浅沼峯夫の『神様がくれた 休暇』と、筋ジス者の母親・中嶋智恵子が自分の息子との生き方と息子への思いを綴った
『「ありがとう」と「ごめんね」 ミオパチー闘病記』がある。ともに山田の著述のよう な社会性と思想性はなく、小冊子に近い自費出版ではあるが、前者は難病と向き合い、家 族の支えによって精神的に病気を克服し、現在は日々創造的活動に生きがいを見い出して いる生き方が、後者は母親が必死になって筋ジスの息子のために奮闘した生き方がよく描 かれている。
21世紀は「地域の時代」と呼ばれているが、そのキー・ワードにふさわしい内容の本が 2000年1月に出版された。それが小西弘一・一の『いのち煙めくとき 施設介護から地域へ
自立する三兄弟物語』である。男性ばかりの三兄弟のうち、長兄以外の二人の弟はデュシ エンヌ型の筋ジスであり、次兄と末弟は国立療養所に入院したが、何とか療養所から社会 に出て生活したいとの望みを実現しようとし、長兄は自身の手術を契機に公務員を退職し 自分の道を模索し始め、こうして三者三様の生き方が絡みながら、地域で自立する生活の ため苦悶し格闘する姿が描かれている。
現代はインターネットに代表されるように、世界が瞬時にして結びつく時代となった。
また、パソコンなどの機械の操作も指先の僅かな力を利用するだけでスイッチを操作する 事が可能になるほど、機械の革新も著しい。当然、筋ジス者たちもこの現代文明の機器を 生活の中で活用する。パソコンやメールを活用し、愛を育んでめでたく結婚し一児を授か ったデュシェンヌ型の筋ジス者の記録として、士屋竜.’『神様からの贈り物』は、気管切 開し人1呼吸器を装着しながらも妻と前向きに今という生ないし時間を大切に生きている 人生が明るく描かれている。
どんなに重度であろうと、親にも頼らず、地域のケア付き住宅で24時間ボランティア にすべての面倒をみてもらいながら必死に生きた筋ジス者もいた。我が儘と言われようと も、進行して人工呼吸器に拘束されながらも、北海道在住の鹿野靖明は「神様は僕に与え た試練は時々残こくに思う。時々早く死んだ方がもう言いと思う。けれど、人間は不思議 なものでそういう時になると、必ずまだ死んでたまるものかと思う。神様が僕に与えた仕 事は何かと思う」と考え、全介助でも生きる事に強い執着を持って42歳の短い人生を生 き抜いた。その生き方をフリーの書き手が取材し、彼の死後、2003年に『こんな夜更け にバナナかよ』“4)が出版される。
〈まとめ〉
①筋ジス者たちは、筋ジスという難病に対峙し、自分の生き方を真摯に考え、生きる意味 と具体的生き方を試行錯誤しながら追求していった。
②一つの方向は、社会の中で普通の人と同様に生活する事を目指す方向であり、世間一般 の人に筋ジスという病気を理解してもらい、支援を求める生き方であり、もう一一一つの方 向は深く自分自身を見っめて自分の生の意味を考え、存在の価値を探究する生き方であ
った。
③両者の場合でも、共通する事は、親・兄弟・伴侶との関係がどうあったのか、ないし誰 が介助するのかという事が筋ジス者の人生の有りようを決定づけていた。
②文献研究~国立療養所箱根病院・筋ジス病棟患者の文集『いばら』に関する研究 難病である筋ジス患者の多くは全国にある筋ジス専門の国立療養所に入院し、長期にわ たって療養を続けている。それらの中には入院患者の自治会があったり、病棟によっては 患者の有志による文集や句誌・歌誌・機関誌など定期的に発行している施設も稀ではない
であろう。
筆者が勤務している国立療養所箱根病院でも嘗て患者自身の努力と協力のもと、文集『い ばら』が11年間にわたって発行されてきた。途中で途絶したとはいえ、その取り組みと 内容の価値は現在読み返しても色槌せていない。筋ジスの治療薬を切望しながら、自分の 身に降り懸かってきた「業病」に悩み、苦しみ、死んでいった彼らの境遇は悲惨であって
も、その運命をどのように生きていったかという記録は、今なお多くの示唆に富み、同病 者のみならず、その関係者に数え切れない「生きる意味」への教訓を与えてくれるように
思われる。
そこで、この『いばら』創刊号から最終号までを振り返りながら、筋ジス患者たちが何 を思い、訴え、願っていたかを『いばら』の盛衰とともに、文献研究として報告したい(な お、『いばら』からの引用は原文のままであり、筆者による修正・変更等はしていない事 を付記しておく)。
◇『いばら』創刊
国立療養所箱根病院に成人筋ジス患者の病棟が1976年3月に完成し、その後徐々に入 院患者が増えていき、その中の有志、特に小林三郎さんが中心となり、筋ジス患者の文集
『いばら』が1977(昭和52)年9Al5日、創〒1]号として発行する事が出来た。表紙絵も 患者たちの文章も手書きで、小冊子のような文集であった。
巻頭言にあたる「創刊に際して」で“箱根病院茨会編集部”は次のように創刊の辞を述
べている。
「予てより当病院第六病棟に於いて吾々患者の悲哀、苦悩、不安、焦燥、虚無、絶望、
憤癒、その他etc…などもろもろの感情や心の葛藤を何等かの形で表現する方策を思惟し ていた矢先、丁度タイミングよく国立岩木療養所より文集『しのぶ』が送られて来ました ので回覧した処、予想以一ヒに病友の反応があり、吾々も負けずに此の機会に文集を発行し ようとの意欲が病棟内に瀕り、各自の持てる力を発揮し此処の御粗末で未完成ながらも文 集『いばら』(茨)を創刊する運びとなりました」。
創刊号は全部で10ページ、合計24人の患者が、筋ジスという、身に降り懸かってきた
自分の病気について、苦しかった過去の思い出、現在や将来への不安な気持ち、あるいは 未来への意志、など各人各様の様々な思いを表現している。しかも、後の号に比べてペー ジ数こそ少ないが、全体的に文章よりも詩や俳句や短歌などによる表現形式が殆どであり、
入院患者の素養の高さと文学性が際だっていた(投稿数延べ31人中、詩が14人、短歌5 人、俳句8人、文章4人)。
例えば筋ジスというその苦難の道筋は文字通り「茨」の道であり、金谷重夫さんは『受 難』という詩に自分の苦しかった過去を次のように記している。詩の・部を引用しよう。
受難
本当は今日一日生きていることにも虚しさを感じてならない 何も好き好んで自分からやってきた世界ではなかったのだ ・・…(中略)…
苦悩、悲しみのほかに何があったと言うのか 今は何のために生まれ生きそして去るのやら 知ることもなく時の流れに溺れてしまう ……(中略)……
今が苦しければ明日には必ずや幸せがあると 人は言うけれどもう耐えられなくなってしまった 二十年の年月は長く苦難の一人旅だった
生きることの淋しさと悲しみの昨日までてした
また、小林三郎さんは長い闘病生活から達観した考え方を持ちつつ、前向きに生きて いこうとしており、次のような『闘病人生』という詩を書いている。
闘病人生 筋ジスと云う癒ゆる当てなき 業病に取り愚かれてより 三十有余年の歳月を経た 今日までの僕の人生の大半は 闘病生活と心の葛藤の明け暮れ
発病後の悶々として吾が身の 不安感、焦燥感、絶望感、虚無感に 襲われ、さいなまれ、陥ち入り、浸りし 忌わしき思い出の数々は
走馬燈の如く吾が頭を駆け巡る
此の貴重なる体験から得た教訓は まず精神的に安定を保ちっっ 何事にも屈せぬ強い意志を持っ事が 何にもまして肝要であり、それ以外に 此の病に打ち勝つ術はないと云うこと
以来、その小林さんを中心として号を重ねていく。
②黎明期の『いばら』
1978年10月発行の第2号は、作業療法(以下、OTと略す)室の電動タイプライター を使って活字で製作され、入院患者の入れ替えもあり、創刊号に引き続き投稿したll名 に、第2号から新たにll名が参加して総勢22名の患者と、病棟医師・看護師各1名の、
合計24名が寄稿した。内容も病気の事から自然を詠った俳句も織り交ぜ、ページ数も20 ページに拡大した。この号の巻頭言で小林さんは次のように力説する。
「私達が難病に取り付かれたのは、誰が悪いのでもなければ無論自分のせいではないの です。それは運命のいたずらと言うほかに表現の方法がないのです」。「難病当事者が『茨』
の中に、その苦難の過程を表現し、私達をケアーして下さる看護婦・医師・訓練土・その