第2章 身体障害者の障害受容の諸課題
第1節 「障害受容」という心理的問題
重い病気にかかったりひどい事故にあった人が、その現実を乗り越え社会復帰出来るか どうかの「鍵」になる概念が「障害受容」であると言われる。上田敏t’)はそれを「障害 の心理的克服という積極的なもの」であり、「人間全体の立ち直り、生きる力の再獲得」
であるとまで強調したが、 r障害受容」の心理的過程を理解する事は、病院で患者に関わ る医療スタッフの誰もが心得ていなければならない鉄則であろう。
実際、筆者が勤務している病院でも、常日頃接している患者の中には障害が重く、ADt、
が殆ど全介助なのにもかかわらず、明るく前向きに生きていこうとしている患者がいる一 方で、他の重い患者に比べれば障害は軽いけれども、いっも気落ちしていて意欲もなく、
OTやPTの訓練にも乗らない患者がいるのも事実である。そして医療者側はそれらの患者を 見て、 「障害受容」出来た患者は「明るく、積極的に人生に立ち向かっていき、生き生き として『幸せ』である」(2’と見なし、反対に、OTやPTの訓練が順調にいかなかったり、
訓練に乗らない場合は「患者は『障害受容』が出来ていない」と判断を下しやすい。そし て後者σ)場合は、その原因を患者側に擦り付け、 「医療者側に全く落ち度がない」と自分 自身を納得させたり、場合によっては責任を回避する事すらある。その際、医療者側は患 者の内面の苦悩や落胆の深刻さ、あるいは時としてそのために陥ろうとしている患者の危 機的状況を見落としてしまう危険性も多い。
このように、患者や障害者が「障害受容」出来たかどうかが、本人にとっても医療者側 にとってもリハビリテーションの重要な心理的問題であると言っても過言ではないであろ う。しかし、 「障害受容」の様相はその患者の諸々の状況によって、あるいは自分の障害 に対する見方、感じ方、悩みの深さによっても違っており、それはまた疾患や病気の病期 によっても、患者の病前の性格や個性によっても、千差万別である。さらにその境地に至 るまで患者は相当苦難な道筋を歩む事になり、途中で挫折したり頓座する事すら有り得る。
それ故、この「障害受容」の内容ないし意味合いはただ単に「自分の障害を仕方がない と(事実として)受け入れる」という単純な、あるいはsp・坦な心理的過程ないし道筋では ない。っまり、この問題は医療者側が患者の側に立って患者と一緒に歩みつつ、個々の患 者がどう悩み、悶え、足踏みしているかを、患者の立場で共に考える事以外に、真に理解 ないし解決する事が困難な命題と言えるであろう。
しかし、上田の「障害の受容とはあきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観
(感)の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるもの ではないことの認識と体得をつうじて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に 転ずることである」という包括的な定義 (3’はあるものの、医療の世界での実際の使われ方 は漠然としており、内容を明確に分析し概念規定されてはいないのが現状である。
そこで、この第1節では、 「障害受容」について、日本のリハビリテーション医療の世 界で主導的な役割を果たしてきた上田敏の考え方と、彼の「障害受容」論に大きな影響を 与えたと思われるWrightの「価値の転換論」を中心に取り上げ、ある障害者自らが書いた 手記の内容も参考にして、その概念と本質を根本から研究する事にする。
1、障害受容の基礎概念
(1) 「喪失」と「喪失体験」について
Wrightt’4}は「喪失」に関して次のように述べている。すなわち、 「喪失(感)とは、
その人個人の不幸な出来事として体験されるような、ある価値のあるものの不在を意味し ている」 (By loss is meant the absence of somethingvaluable, experienced as a personal misfortune)。 「価値あるもの」とは個々人にとって貴重で、何ものにも 換えがたい有形、無形のものであろう。そして、自分は何も過失がなかったのに「喪失」
してしまったという、稀有で取り返しのつかない体験を、人はどう受けとめるのであろう か。古牧(5)はそういった「喪失体験」について、 (1)喪失から回復まで長い苦悩の過 程があり、期待・絶望・あきらめ・希望等、さまざまな強い情緒的体験を経て回復する、
(2)回復した時点では新しい人間に生まれ変わったという自覚を持つ、 (3)客観的に みた事件の重大さと喪失体験の深刻さとは必ずしも一致しない、という3つの共通点を指 摘する。上田〔6)はこの「喪失体験」に関して、 「障害受容とは、その他ひじょうに広い 範囲にわたる喪失体験または挫折体験からの立ち直りの一一つの特殊な場合と考えるべきで
ある」とし、障害を負うという事は広義の「喪失体験または挫折体験」であり、 「障害受 容」はその「喪失体験または挫折体験」からの立ち直りであると位置づけている。
ここで、偶然その人の身に降り懸かり、 「個人の不幸な出来事として体験されるような、
ある価値あるもの」の「喪失」を4っに分けて考えてみたい。
まず第1に、その人にのみ関係する思い出深い「物の喪失である。自分が長年慣れ親
しんだ物は、それが他人から見てどんなに些細でくだらなく見える物であろうとも、その 人にとっては何物にも代えがたい物である。この第1の「喪失」はもともと個人の所有物 の「物としての機能」よりも「その個人の思い出」と深く関わっており、思い出がその人 の人生での貴重な体験であればあるほどこの上もなく大切であるので、喪失感は大きくな る。とは言え、そういう物を喪失する心理的ショックは当初は大きいが、その悲しみは時 間が解決してくれる場合もあるし、代替物で当座を凌ぐ事も可能である。そして、失った のは残念だが、それと同等の物が出てきたり、なくてもさほど不便を感じなくなって、そ の人の人生ではそんなに問題になる事はないだろう。
第2の「喪失」は自分の人生の中で生きる支えになってきた「人」の喪失である。これ は例えば肉親・友人・愛する人などとの死別であり、特に悲しみは深い。また立ち直るの にはかなりの時間とそのためのきっかけを必要としている。この「喪失」の場合、そのな くなった故人の所有していた「物」が、残された人々にとって「喪失」の深さを助長する 事が多い。この点に関して、石内都mは「いるべき人がそこにいない、場をしめていた 肉体がない、かたちが丸ごときれいに消えていないのに、その肉体に所有されていた品物 が、日常の生活にあふれている。それがすべて、娘のものであるとしたら、その辛くむな しい悲しみは想像もつかない」と、友人の母親が語った「喪失という取り返しのつかない 感覚」を新聞のコラムで表現している。愛する人を喪失した「悲しみは計り知しれない深 淵にはまって、立ち直るのがとても大変なこと」である。
第3の「喪失」は人生の中で築き上げてきた社会的な「地位」の喪失である。これは財 産・職位・名誉・仕事などの喪失である。社会の中での役割の「喪失」とも言えるので、
そのショックも大きい場合もあり、人によっては破産したり莫大な借財を抱えて悩みぬい たあげく自殺の道を選択する悲劇に至る例も多数見られる。しかし、この「喪失」は再起 と再獲得のチャンスはf分ある。再び失ったそれらを目指すかどうかは、人生に対する価 値観によるであろう。つまり社会的な「地位」をまた求めるのか、あるいは人生はそうい
った「地位」ではないと「悟る」 (考える)のかによる。
第4の「喪失」は病気や事故による身体への修復不可能な損傷としての自分の「身体」
の「喪失」である。健康であればあるほど、健常であれはあるほど、病気を患ったり事故 で障害を負ったりして取り返しがつかない障害が残った場合、その喪失した身体機能とそ れに伴うADLの介助の増大、そして不能な人間になったという無念さや残念さは深刻で
ある。だから、そう簡単に「回復した時点では新しい人間に生まれ変わったという自覚を
持つ」というほど、回復も生まれ変わりも出来るわけではない。
身体機能の喪失は物と違って代替が全く利かない。日分の身体機能が損傷され、AI)L の障害が顕箸となって、人に頼らなければ食事や入浴や排泄といったADLを何…つとし て遂行出来なくなってしまう事すらあり、しかもそれが死ぬまで継続してしまうのである。
以ヒから、上田が既述したように、 9障害受容」は、この第4番目の「喪失体験」から の立ち直りの例と考える事が出来る。但し、上田は「喪失体験または挫折体験からの立ち 直り」と、2つの「体験」を上げているが、 「喪失体験」と「挫折体験」とは本質的に異 なる体験であると思われるので、両者を同一に論じ、 「障害受容」に結び付ける事は問題 であろう。何故なら、 「挫折体験1とは「目標を達成する前に、途中で失敗し、前途を悲
しむという体験」18}、つまり人生に何らかの目標を持って精一杯努力したのにもかかわ らず、失敗し再起出来ないと感じるほどうちのめされる体験を意味しており、 「個人的な 不幸として経験される何か価値あるもの」を失う体験、つまり「愛情や愛着の対象を失う 体験」(9)としての「喪失体験」とは全く違う概念であるからである。では、 「喪失体験 からの立ち直り」としての「障害受容」に関してこれから論じる事にする。
(2) 「障害受容」における「障害」とは何か
「障害受容」とは元々英語のAcceptance of Disabilityを直訳したr]本語である。つま り、Acceptanceを「受容」、Disabilityを「障害」という日本語に当てはめた言葉である。
Acceptance of Disabilityという表現は1950年代頃から欧米の文献で見られるようにな ってきたが、日本で1963年にOT・PTの教育が開始され、66年に初めて卒業生が世の中に出 て10年近くたった70年代半ばになってようやく日本のOT・PTの文献にもそれを直訳した形 で「障害(の)受容」という表現がなされ、その問題をOTやPTが真剣に検討するようにな ってきた。しかし、当時、英語のDisabilityをどういうわけか「障害」と訳して用い、
Acceptance of Disabilityをただ単に「障害(の)受容」という表現で使用したために、
あまり厳密に用語の概念や意味あいを規定されなかったようだ。
1980年になり、WHOが検討を重ねて出版した「国際障害分類試案」(lnternational Classification of Impairments,Disabilities and Handicap:ICIDH)における障害の階 層分類に基づき、 「障害」の階層的概念と内容が明確に規定され、それ以後0]年に改訂版 の「生活機能・障害・健康の国際分類」(lnternational Classification of Functioning,
Disability and Health:ICF)まで20年以上にわたって広く世界的に使用されてきた。
ICIDHによれば「障害」の階層はImpairment、 Disability、 Handicapに大別され、各々