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佛教学研究 第71号 007高岡, 善彦「三論宗における仏法の真実義について」

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三論宗における仏法の真実義について

益 口

三論家における仏法の真実義について 仏法の真実義は経・論においてさまざまに説かれるが、﹃中論﹄や三論宗において真理は、不生不滅等の﹁八 不﹂と深く結びついている。なかでも三論宗の吉蔵(五四九 i 六二三年)によると、大乗仏教の主要な経典に説 かれる甚深の仏法は、すべて不生不滅等の八不が展開したものにすぎない、という。

第一章

﹃中論﹄の八不と三論宗の八不

﹃中諭﹄において八不は第一章(観因縁品)の目頭に掲げられるだけでなく、その内容は﹃中論﹄の全篇にわ たって広く論じられている。﹃中論﹄において八不は﹁空性 L と緊密に結びついていて、八不は﹁空性 L の論理 的説明線拠になっている。 三論宗は﹃中諭﹄の思想を継承しているから、 八不は空性を説明する根拠とされている。しかし、三論宗は梁 の三大法仰の﹁定性の空﹂を否定し、﹁不二中道﹂や﹁非有非無の不二﹂を仏法の真理をあらわす用語として用 いている。その教義の中で、八一小は﹁不二中道﹂や﹁非有非無の不一一﹂を論証する根拠とされる。一ニ諭宗におい て八不は﹁不二中道﹂や﹁非有非無の不二﹂とより緊密に結びついている。 このような観点から、第一章においては、﹃中論﹄と三論宗における、八不・空性・不二の教義内容や相互関

(2)

係を考察する。 八不を論じる意義 鳩摩羅什訳の﹃中論﹄第一章において、 八不備は次のように漢訳されている。 不生亦不滅 不常亦不断 三論宗における仏法の真実義について 我レ能タ不 稽 説 キ 一 首ν主 亦 テAιノτZご

種ス恩長

悌,

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( 大 正 三

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・ 一 中 お よ び 下 ) ( ﹃ 中 論 ﹄ 巻 二 諸普:タ不 税 減 ス 来 中 主 亦 第

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ノ不

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党文でみるとこの二備は互いに独立しているわけではなく、﹁不生不滅・不常不断・不一不異・不来不出﹂と いう八不は、第二偽の﹁善滅諸戯論﹂という第二句と共に、﹁因縁﹂にかかる修飾辞になっている。 この八不について﹃中論﹄の註釈者である青目は次のような説明を付している。修行が進んで、仏教の深法を 受ける能力を持つ者に対して、,仏は﹁一切法は不生・不滅・不一・不異等(八不)である﹂という悶縁の相を説 かれた。これは一切法が﹁畢寛空 L であり寸無所有 L であることをあらわしている、と。 ニ シ リ テ エ ル タ ル ニ ヲ ノ テ ヲ ケ リ J 矯 下 己 習 行 有 = 大 心 -堪 ν受ニ深法唱者日以二大乗法-説ニ因縁相。所謂一切法不生・不滅・不一・不異等。畢寛 ナ ル ヲ 空 ・ 無 所 有 ﹂ ( 大 正 三

0

・ 一 中 ) ( ﹃ 中 論 ﹄ 巻 一 ) ﹃中論﹄において八不によって示される﹁畢寛空﹂は、諸法の真実の姿ををあらわしており、﹁無所有・無所 得 L は仏教者の目指すべき境地を示している。 一方、三論宗の吉蔵は﹃中観論疏﹄巻二・本において﹁八不の意義﹂を次のように論じている。 シ レ ユ シ テ ナ ザ メ ヲ ス ヲ ヘ バ ニ チ ノ タ シ テ シ -デ グ レ パ 八不者蓋是正観之旨蹄。方等之心 M ( 日 。 { 足 エ 悌 法 之 偏 正 一 示 -得 失 之 根 原 寸 迷 v之即八商法城冥。若ニ夜遊一悟 ν

(3)

ヲ チ ハ シ ス ル d H d -之即十二部経知 v ニ 白 日 一 ﹁正観の旨帰﹂は無上・無想の知口慧がおもむく所を意味しており、仏法の真理はすべて﹁八不﹂に含まれてい ( 大 正 四 二 ・ 二

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 本 ) て、八不から仏法のあらゆる教義が生まれてくることを示している。﹁方等の心骨﹂とは、﹁八不﹂が大乗仏教の 中核概念であることをあらわしており、﹁仏法の偏正を定める﹂とは、さまざまな仏教者逮によって説かれる仏 法の偏・正が、﹁八不﹂によって判別されることを主張している。また﹁得失の根原﹂は、八不という﹁仮説 L を正しく理解するかどうかが、迷悟の分かれ目になると説いている。 三諭宗における仏訟の 1~実維について ここで吉蔵は八不を衆生済度の側面から従えている。﹁正観の旨帰﹂といい、﹁方等の心骨﹂といい、また﹁仏 法の偏正を定める﹂とは、仏・如米が教えを説く﹁教の体 L となるもので、古臓は八不を﹁教法﹂の観点から把 捉しようとしている。 三論宗は陪・初府の仏教であり、南北朝時代の旧仏教を、有所得の仏教とみなして破斥することを目標として いる。そのために﹁八不﹂という概念を活問しようとした。三論家は思想の改革を目論んでいて、対論の相手は ﹁成実論師﹂に代表される中国の川い仏教であった。梁の三大法師といわれる荘厳寺僧受(四六七

1

五 二 七 ) ・ 光宅寺法雲(四六七 i 五二九)・開善寺智蔵(四五八 i 五二二)等は﹁成実論師﹂とも呼ばれ、﹃成実論﹄をより どころとした有所得の思想を抱いていたとされる。 ﹃中論﹄において八不が冒頭に掲げられる理由のひとつとして、古蔵は﹁有所得﹂の思想を洗浄することであ ると述べている。諸法を対立的な﹁二﹂とみる考え方を﹁有所得﹂といい、諸法が相互依存していて﹁不一一﹂で あるとみる思想を﹁無所得﹂という。この考え方は﹃大品般若経﹄巻二十一にもとづいている。 シ テ ニ ザ ク ン ガ ケ ト ン グ ク ヤ ト 須菩提臼 ν悌言。世尊。云何名ニ有所得﹂云何名=無所得﹂ グ ニ ノ ル ハ レ ナ リ キ ル コ ト ハ レ 十 リ 悌告ニ須菩提一諸有 ν二者是有所得。無 v ν 二 者 日 疋 無 所 得 。

(4)

( 大 正 八 ・ 三 七 三 下 1 三 七 四 上 ) ( ﹃ 大 品 般 若 経 ﹄ 巻 一 一 一 ) 三論家における仏法の真実畿について 吉蔵によると、三論宗が興る以前の中国仏教は、毘曇宗も、成実宗も、大乗の一部も諸法をコ一﹂とみる有所 得の思想であって、﹁中道の正観﹂という無所得の境地に達することはなかった。 ハ ル ニ シ タ ハ ノ ぜ キ ノ ノ ハ ナ レ 所ニ以然一者。為ニ三論未出之前。若毘曇・成賓・有所得大乗。及縛師・律師・行道・苦節。知 v此之入管是 ノ ナ ル グ 7 ヲ 有 所 得 生 滅 断 常 ( 八 迷 ) 寸 陣 = 中 道 正 観 寸 ( 大 正 四 二 ・ 三 一 上 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) ここにいう﹁有所得﹂の人には、禅師・律師・行道・苦節などが含まれている。禅師とは﹁心の乱を息め静を 求める﹂ものをいう。この禅師がなぜ有所得の人かといえば、ひたすら﹁禅﹂の境地を求めるために﹁禅﹂に執 着するからである。﹁行道﹂の人とは、ひたすら﹁非道を棄てて正道を求めんと欲する人﹂であって、﹁道﹂に縛 られ﹁道﹂に執着するから﹁有所得人﹂である。同様に律師は﹁威儀を欠かず浄戒を守護する L た め に 、 ﹁ 律 ﹂ に縛られ﹁律﹂に執着する。これらのひとびとはすべて﹁有所得人﹂であって、三諭未出の前の﹁有所得﹂の仏 法であると主張する。ところが、彼らも三論教義を学ぴ修し、自らの﹁有所得﹂を破し、﹁無所得﹂を得ること ができれば、諸法実相の体を悟ることができる。 このように﹁無得正観・中道正観 L とは、有所得を破して無所得を得るための正しい観法のことであり、空性 という実相を悟ることと、﹁有と無の相即﹂という仏法の﹁大用 L を悟ることを具体的な内容としている。 また、吉蔵は﹃中観論疏﹄巻二・本において、﹃維摩詰所説経﹄を引用しながら、八不の意義を別の角度から 論じる。仏法を極めた仏・知来は、般若と方便の三一慧﹂に基づいて生ずる。また、二慧は世俗諦・勝義諦とい うコ一諦 L によって発生する。さらに二諦は﹁八不﹂によって有所得の二諦から、無所得の二諦に転換する。換 言すると、﹁八不←ニ諦←二慧←衆聖﹂の関係が成立し、﹁八不﹂は諸仏・法身を生みだす根源になっている。 ト ト ヲ バ ス ト テ ナ リ ハ シ テ ニ ズ ル ヲ ハ テ ニ リ ハ テ 波若(般若)方便筋三十方三世諸働法身之父母-也。以下衆聖託ニ二慈-而生日二慈由ニ二諦-而穫。二諦因=

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-十 リ ニ リ 買 ハ リ ニ シ テ 八不-而正。即知。八不協ニ衆教之宗締群型之原本斗 ( 大 正 凶 ニ ・ 二

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 本 ) 二諦は仏・如来が法を説く﹁教法﹂の体であると同時に、﹁境(所照)﹂とも名づけられる。二諦は二惑によっ 一方、二慧は実相を照らし出す﹁能閉じである。こ て照らされる﹁境﹂であり、境は﹁実相﹂を意味している。 のように、二諦は﹁教法﹂という役割のほかに﹁実相﹂という意義をも担っている。 ニ テ ニ タ ヲ -宇 ヤ ト タ ズ ル ヲ ニ ヲ タ ト 如 来 常 依 ニ 二 諭 -説 ν法。故二諭名 ν 。 能 生 二 二 知 H -故二諦名 v 域 。 ( 大 正 四 五 ・ 五 五 中 ) ( ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ 巻 四 ) 成実論師連の有所得の二諦は﹁八不﹂によって無所得の二諦に転換する。二辺にしばられていたこ締が、 八 不 三日l昔宗における仏i去の真実義いついて によって中道の二諦に転向する、というのが吉蔵の教えである。 ル グ ニ ニ ノ ズ レ バ ヲ チ ノ ハ ナ リ ル d H ニ ニ ノ ズ レ パ ヲ 由-八不-故世諦成ニ中道一即位諦義正。由ニ八不-故虞諦成二中道一 チ ノ ハ ナ リ 即 填 諦 義 正 。 { 大 正 四 二 ・ 二 二 中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 本 ) 三論宗において﹁八不﹂は格別な位置を占めている。

八不・空性・中道の関係

八不と塑性と中道の怠味内容は、﹃中諭﹄と三諭宗との間でいくぶん異なったニュアンスを持っている。この 問題について﹃中諭﹄の主張は明快であるが、三論宗の主張は複線的・重層的である。まず﹃中論﹄の考え方を 考察してみたい。 ﹃中諭﹄の帰敬備において、﹁不生不滅等の八不﹂はあらゆる二辺を離れていること意味し、これは﹁因縁﹂ に対する修飾辞であった。凶縁とは諸法が仮に和合して相続することをいい、仮に和合して相続する諸法に白性 というものは存在しない。諸法に自性のないことを﹁無自性﹂とも﹁空性﹂ともいう。また、あらゆる二辺を離

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れていることは﹁中道﹂と表現される。このように、﹃中論﹄において八不・因縁・無自性・空性・中道はほと んど同義語として用いられ、諸法といわれる現象世界の真実の様相を言葉で表現した仮説である。 三論宗において﹁八不﹂は真理なのか教法なのかを考察してみたい。この問題に対する三論宗の考え方は複線 的 で あ る 。 三指宗における仏i去の奥実終について 仏・加来の教えはすべて理性を言葉で表現した真理であって、目指すべき方向を指し示す﹁教法﹂であり、衆 生を理性に向かわせるはたらきを持つ。三論宗において、八不・空性・不二・非有非無などの金言は、真理であ ると同時に仏の教法であると考える。この点で三論宗の教義は複線的である。 八不が﹁教の体﹂である側面を﹃中観論疏﹄巻一・中は次のように説いている。 テ ス ル ユ ' チ テ ス ノ ト ユ シ タ シ テ , ス ノ ノ ヲ 就 v牒:八不司分‘為二三別一第一正牒二八不-明二所申教憧斗(大正四二・九中)(﹃中観論疏﹄巻一・本) さらに、第二備の前半﹁能く是の因縁をとき、普く諸の戯論を減す﹂は、八不について﹁教法の用﹂を説いて おり、衆生を悟りに導くという。また、﹁我れ稽首して礼す仏を諸説中第一なりと﹂は、仏陀とその教えを讃歎 するものである。 J ハ ズ ノ ' ノ ハ ヒ ヲ ム ヲ 第二半偽歎=八不之用 A 第三半偽敬 v人美 v 。 ( 大 正 四 二 ・ 九 中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 一 ・ 本 ) このように、空性や八不などと表現された金一言は、理性の一分を示す真理であり、衆生を理性に導く﹁教の 体 L と さ れ る 。 次に、諸仏・如来は、凡夫の﹁有﹂と聖人の﹁空﹂を依りどころとして、﹁有は不有﹂であり﹁空は不空﹂で あるという﹁非有非無の不二﹂を説く。このような﹁因縁の空有﹂は﹁空有に非ざる空有﹂、すなわち﹁不二中 道 依テで も あ

説ヶ 有ト 依 = 聖 無 -説 ν 無 。 無 表 ニ 不 無 。 此 則 有 無 二 。 表 サ -有不 ν v 有 。 無不 v ν 無 。 有 表 = 不 有 斗

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非 有 非 無 不 二 ベ / ハ チ ザ ル 二 十 リ ニ レ パ ザ ル ニ ト チ ル ナ リ ハ ズ ト ニ 因 縁 空 有 。 即 非 ニ 空 有 -空 有 。 既 識 下 非 ニ 空 有 -空 有 V 即 陪 三 空 有 非 ニ 空 有 -也 。 ( 大 正 四 五 ・ 七 八 下 ) ( ﹃ 二 諦 義 ﹄ 巻 上 ) ( 大 正 四 五 ・ 八 七 上 ) ( ﹃ 二 諦 義 ﹄ 巻 上 ) このように三論宗は﹁非有非無の不二﹂や﹁不二巾・道﹂を﹃中諭﹄の﹁畢克空﹂とは若干ニュアンスの異なっ た教義としており、これらが言語を越えた境地を。ことば。で表現する中核思想とされる。 三日命京における仏j去の兵'JO盤いついて

第二章

八不の十条と甚深の仏法

、 シ レ ニ シ テ 十 リ 士 H 蔵の﹃中観論疏﹄巻二・本は﹁八不者叢是正槻之旨蹄。ト刀等之心骨﹂(大正問二・ニ

O

中)と﹁八不﹂を荘厳 していた。さらに吉蔵は﹁八不の十条﹂を論じて、﹃浬繋経﹄﹃維摩経﹄﹃法華経﹄﹃華厳経﹄等の大乗経典に説か れる十項目の真実義は、すべて﹁不生不滅等の八不﹂に集約されると述べている。 仏教の究極的な真理は共通していて、吉蔵の﹁八不の十条﹂は、三論宗の立場から主要な大乗経典の教えを、 ﹁八不﹂というひとつの思想の中に集約しようとする努力のあらわれである。士 n 蔵は十項日のすべてにわたって 詳しい考察を加えているが、ここでは紙幅の制約もあり、﹁浬般市経の本有今無﹂と﹃妙法蓮華経﹄と﹁維摩経が いう入不二の法門﹂の三項目について簡略に考えてみたい。 ﹁ 浬 般 需 経 ﹄ の 本 有 今 無 の 備 に つ い て ﹃浬般市経﹄(北本)巻十の第四章(如来性品)の中に、世尊が仏性常住に関して文殊削利に説法される備があ る。吉蔵はこの一偽を取りあげて、三論宗における甚深の仏法を述べようとする。

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F

シ本 有ル無 ト今 是ノ有 慮 本有今無 ニ リ テ 三世有 v この偏の一般的な意味は次の通りである。前半の二句は次のようにいう。仏性は先天的には存在したが現在の 自分には存在しない、あるいは、もともとはなかったが今の自分には存在する。後半のニ句は前半の二句を否定 ( 大 正 二 了 四 二 二 下 ) ( ﹃ 浬 繋 経 ﹄ 北 本 ・ 巻 一

O

)

三越宗における仏法の奥爽義について して、仏性は三世を通じていかなる衆生にも存在し、無仏性という主張は成立し得ない、と述べる。 吉蔵はこの偽文もまた、﹁不生不滅等の八不﹂に集約されると主張する。まず偽文の前半を、否定(無三世) に裏付けられた肯定(三世)であるとみる。これは無生滅に裏付けられた生滅と同義である。 ノ ハ チ ノ ノ + リ ノ ナ レ バ チ レ ノ ノ ナ リ チ ノ ナ リ 上半即無三世三世義。(中略)無三世三世即是無生滅生滅義。即一重八不。 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 説 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 偽文の後半は、肯定(三世)に裏付けられた否定釜山三世)をあらわしていて、﹁有﹂と﹁空﹂とを超えた ﹁非有非空﹂の八不に相当するという。 J ハ ス ノ ヲ チ ノ ナ リ チ ノ ナ リ 下半明ニ三世無三世寸即生滅無生滅。即第二重八不。 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 偏文全体としては、﹁無三世の三世﹂といい、﹁三世の無三世﹂というのであるから、本来の意図は、三世でも なく無三世でもない﹁中道﹂を説いている。これは﹁非二非不二﹂の八不と同義であり、無所得の正観を説いて い る 。 ノ ナ レ バ ニ レ ナ ラ ン ヤ ノ 十 レ 智 -レ ナ ラ ン ヤ エ ズ ニ ズ ニ 無三世三世宣是三世。三世無三世宣是無三世。故非ニ三世-非ニ無三世 4 ス ト チ ・ ノ ナ リ 鵠 = 正 観 4 即第三重八不。 ニ ケ テ ス ト 故名矯ニ中道ベ シ レ パ ノ ヲ ケ テ 若 得 エ 此 悟 -名 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 吉蔵は﹃浬繋経﹄の﹁本有今無﹂の偶を借りて、﹁非二非不二﹂という甚深の仏法、すなわち三論宗における ﹁無所得の正観﹂を説いている。

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﹃ 妙 法 蓮 華 経 L について 次に﹃巾観論疏﹄巻二・末は、不生不滅等の八不と﹃妙法蓮華経﹄が共に﹁空性﹂という真瑚を明かすことを 論証する。まず﹃法華経﹄ の教義の中心は﹁諸法・空﹂にあるとして、﹃法華経﹄巻三の第五章(薬草川川) から次 の二つの文章が引用される。 ニ ノ ニ シ テ ニ ス ニ 究寛浬繋常寂滅相。終鯖二於空一 ( 大 正 九 ・ 一 九 下 ) ( ﹃ 法 華 経 ﹄ 巻 一 二 ) 三論宗における仏i去の奥実義について 放チ聞ィ復デ

無 詰

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蚊ノ jよ・/住シ 光ヲ

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V テ ー ーヲ肩車ニ 度 ス 心 得 出ノ大

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ヲ 土 ( 大 正 九 ・ 二

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中 ) ( 司 法 帯 経 ﹄ 巻 一 ニ ) ﹃ 法 事 経 ﹄ の空性は、横に﹁八事﹂を趨える﹁八不﹂であり、墜に附句を超える真理を指している。このよう な﹁空性﹂は﹁不生不滅等の八不﹂に他ならず、共に仏法の真理をあらわしている。 7 ノ ハ ン ダ レ ナ リ ヤ 7 ニ チ ハ エ ヲ ニ チ 十 ス ラ ン グ 守 ン ヲ イ テ シ テ ス ノ ミ ト ニ ル 問。此空一五何是八不。答。横論則理超ニ八事﹂竪則四句皆絶。不 v 。 何 以 目 ν 。 強 稀 為 ν 空 耳 。 故 知 。 ノ h u チ レ ナ リ 此 空 即 是 八 不 。 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

下 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 経典や論書は衆生を真理に導くためにさまざまな教義を立てている。しかし甚深の仏法は﹃法華経﹄の空性と ﹃ h r A m t 昌宏 H ﹄ の八不に帰着する。 ﹃ 維 摩 経 ﹄ が い う 入 不 ニ 法 門 に つ い て 不生不滅等の八不は、﹃維摩経﹄の﹁入不二法門﹂と同じ思想であり、共に仏法の真理を明かしている。﹃維摩

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経﹄において、﹁二﹂は生・滅等の対立概念であり、 る 。 そ し て 、 ﹁不一一﹂とは生・滅の対立概念を超越した﹁無生法忍﹂であ この不二の境地に入ることを﹁人不二﹂と称する。﹃維摩経﹄巻中の第九章(入不二法門品)に次 の よ う に 説 か れ る 。 ヲ ス ト ハ ヨ リ ナ リ 毛 チ ナ リ レ バ J

生滅為 ν二。法本不生。今則無滅。得=此無生法忍斗 レ ヲ ス ト 円 疋 為 二 人 不 二 法 門 4 ( 大 正 一 四 ・ 五 五

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下 ) ( ﹃ 維 摩 経 ﹄ 巻 中 ) コ一﹂と﹁不一一﹂とを超越した思想を説くのであるから、不生不滅等の八不と﹁入不二法門﹂とは、共通した 三論家における仏法の真実義について 同 即チの l

J教 八 え 不,、で 是νあ j手 る 名J 入 不 法 門ナ ( 大 正 四 二 ・ 三

O

中 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 次に吉蔵は、﹃維摩経﹄巻中の第九章に説かれる﹁不二の三階﹂がそのまま﹁八不の三階﹂に当てはまると考 える。﹃中観論疏﹄巻二・末が述べる﹁不二の三階﹂の要点は次の通りである。第一に、ひとぴとは言葉によっ て不二を明かすが、まだ不二は無言であるとは論じない。 ノ ニ リ テ ス ヲ ニ ハ ノ ハ リ テ 宇 ス ヲ ズ ぜ パ ナ リ ト 彼 品 有 -三 階 -明 = 不 二 4 一者衆人仮 ν言明=不二一未 v ニ 不 二 無 言 一 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

下 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 第二に、文殊師利は不二が﹁無言﹂であると言葉によって表現する。 -A A F 号 ス ト ノ ヲ 毛 シ ヲ ク ニ 二 者 文 殊 雌 ν 明 ニ 不 二 無 言 -而 猶 雷 同 於 ニ 不 二 4 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

下 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) 第三に、維摩詰は不二が無言のことであると弁ずるが、言葉によって弁ずるのではなく、﹁無一言﹂によって弁 ず る 。 ユ ハ ハ タ テ ノ ヲ モ ヲ タ ニ 三 者 浮 名 韓 併 ニ 不 二 鉱 山 言 一 而 無 言 於 = 不 二 ﹂ ﹃中観論疏﹄巻二・末は﹃維摩経﹄の﹁ . 7 小二の三階﹂に準じて﹁八不の三階﹂を次のように論じる。 ( 大 正 四 二 ・ 三

O

下 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 )

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ニ ニ リ モ タ 十 リ ニ パ リ テ ヲ ス ヲ 不二既有ニ三階斗八不亦爾。初恨 ν 明 二 八 不 イ カ シ ハ + リ ト モ ヲ タ ニ 明 ニ 八 不 無 岳 民 而 無 言 於 ニ 八 不 -也 。 JA ぜ ハ 十 リ ト 品 ハ セ ド モ 山 ナ リ ト モ シ ヲ タ ユ ニ ハ 未 ν排二八不無言一二者明二八不無一言一而猶言於-八不イ三 ( 大 正 四 二 ・ 三

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)

( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 二 ・ 末 ) この点においても ﹃維摩経﹄の﹁入不二法門﹂ は不生不滅等の八不と同じ思想であり、 共に言語表現を超えた ﹁ 無 言 ﹂ という甚深の仏法を説き明かしている、 と古蔵は論じる。

第三章

般若と絶観の般若

三諭~i~ における仏法の兵実 Jをについて 絶観の般若とは 古蔵は般若の本質的な意義を﹁絶観の般若﹂にあるとみている。絶観とは観知日を断ち切ることをいい、絶観の 般若は修行者が画期的な境地に到達した時に感じる特別の感動を含んでいる。 レ ト ノ ナ リ ニ ク ハ ン ヤ ノ ニ 知 H 是 知 照 之 名 。 宣 能 稀 ニ 絶 腕 般 若 斗 ( 大 正 凹 五 ・ 五

O

上 ) ( ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ 巻 問 ) この絶観の般者は、﹁波若(般若)の体﹂と軌を一にしている。般荘の体は縁・観を絶するという。﹁縁﹂とは 所縁のことで智惑が照らし出す境を意味しており、諸法実相を指している。一方、﹁観﹂とは観智ともいい、事 象や理性を明瞭に観る智慧のことである。すなわち、般若の体は、諸法実相という所縁を絶すると共に、所縁を 見極める観知 H をも超越している。また、般若の体は言語表現を超越しているが、知目慧はなお言語表現のなかにあ る 。 士 H 蔵は﹁智慧﹂が修行の領域に憎まつでいるのに対して、﹁般若の体﹂は﹁覚﹂や﹁証﹂の境地を示すもの と 捉 波 え 若/て 髄ハい 絶スる 紋ト 観亨 ケ ニ ニ 智 慧 名 ニ 主 於 腕 一 波 若 髄 絶 -知 H 愚 ﹂ ハ ケ ニ ト ニ 知 目 慧 名 ニ 主 知 照 ベ ノ ハ ス ヲ 波 若 僅 絶 -名 字 一 ハ チ ヲ ル ニ 知 H 慧 則 猶 渉 = 名 昔 日 4

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( 大 正 四 五 ・ 五

O

中 ) ( ﹃ 大 乗 玄 論 ﹄ 巻 四 ) 菩薩は修行のある段階で般若の体を得て、 煩悩と菩提とは相即しており、 ﹁食欲は本来寂滅にして自性清浄で あ る ﹂ と覚知する。 このとき、実相の﹁境﹂と般若の﹁観﹂は不二であると正しく理解する。 ニ ク ハ チ レ ナ リ モ タ ナ リ キ ノ ノ ニ ノ ノ ア リ ハ チ レ ト ハ 経(﹃諸法無行経﹄巻上)云。食欲則是道。患・療亦復然。如 ν日疋三法中。無量諸悌道。食欲則自疋道者。然 ニ シ テ + リ チ レ ナ リ タ J ス ル ヲ チ ク ト ニ 予 ン ヤ ノ ノ ル ヨ ト Je-ニ ト ハ ナ q 食欲本来寂滅白性清浮。即日疋賞相。如 v斯了情便名ニ波若斗宣有三賓相之境異ニ波若観-耶。故境知回不二。 (大正四五・五六上)(﹃大乗玄論﹄巻四) 三論家における仏法の真実義について ﹁絶観﹂は心の転回を伴い、 その結果として、﹁雑染﹂と﹁清浄﹂の境目が消滅すると吉蔵は教えているので あ る 一 。 ﹁絶観﹂という思想の系譜 絶観の般若は仏・如来の境地に近づいたときに感じる感動を合んでいる。 絶 観 (能繰の観智を断つこと) と は あまり用いられない用語であるが、 と組み合わされて、 吉蔵の著作には数ヶ所 ﹁ 絶 縁 ﹂ (所縁の実相を断つこと) に用いられている。たとえば れ る 。 ガ ノ ル ハ ニ シ テ ナ リ タ タ ノ ハ ヲ ス 我 所 ν 知 日 慧 微 妙 最 第 一 。 又 云 是 法 不 ν ν 一 . 小 。 ・ ナ リ ノ ノ ナ ル グ ル ワ デ コ ト ユ タ ト 絶観絶縁。一切名言所 v 不 ν v及故名=絶言寸 ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ をたたえる中に 寸 絶 観 ・ 絶 縁 ﹂ という用語が見ら 巻三の ﹁ 加 来 の 知 日 L ノ ハ ナ リ ニ ノ ハ ズ ニ ズ ニ ズ ニ ズ ニ レ ヲ ν 亨 雷同僻相寂滅。故如来之智非 ν 非 v無不乙ニ不 ν 一 一 離 ν人雌 ν (大正三四・四八八下) ( ﹃ 法 華 義 疏 ﹄ 巻 一 ニ ) ま 不 た

不 摩 二ノ J経 法二義 一。疏 以テ』

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巻 お お キ ー ー 無名相を説く一節で﹁絶観絶縁﹂を説いている。 ニ レ チ J A -ズ ニ ズ ニ ズ -・ ・ ・ ・ ナ リ ゾ ナ ラ ン ヤ ・二一故。斯即非 ν 非 ν 。 不 ν 不 ν真。絶観絶縁。何二・不二。 (大正三八・九一一中)(﹃維摩経義疏﹄巻一)

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そこで絶観という思想の系譜をたどるために、経典の中に﹁絶観・絶縁﹂と類似の用語を求めると、﹃維摩経﹄ 巻上に﹁無縁観菩薩﹂という菩薩名が記されている。これは釈尊の説法の座に集まった三万二千の菩薩のうち、 主な菩薩名を列記する二十五番目の菩薩の名前としてあらわれる。 : ・ 明 網 菩 磁 。 無 縁 観 菩 薩 。 慈 積 菩 薩 。 ・ ( 大 正 一 四 ・ 五 三 七 中 ) ( ﹃ 維 摩 経 ﹄ 巻 上 ) 吉蔵は﹃維摩経義疏﹄巻一において、これらの菩薩名のすべてについて短い註釈をほどこしている。﹁無縁観 三諭すjにおける仏訟の真実縫いついて 並口薩﹂については次のように釈されている。 ト ハ ル ヲ 品 ピ ニ シ ユ ス 無縁槻帯薩者。観ニ寅相-時。内外並区ハ。縁・観倶寂也。 ﹁無縁観﹂の﹁縁﹂とは所織の実相であり、﹁観﹂とは能縁の観知日であって、﹁無縁観﹂とは実相と観智とを滅 却した極めて深い境地を示している。この菩薩名が吉蔵の﹁絶観・絶縁 L という思想形成に影響を与えたことが F n ( 大 正 三 八 ・ 九 二 二 下 ) ( ﹃ 維 摩 経 義 疏 ﹄ 巻 こ う か が え る 。 また、﹃仁王経﹄巻上の讃仏備の中に﹁空態紋然無縁観﹂という一旬がみられる。 テ ル パ ヲ ト ノ ナ リ 空 慧 寂 然 無 縁 観 還 観 二 心 空 司 無 量 報 。 ( 大 正 八 ・ 八 二 七 下 ) ( ﹃ 仁 王 経 ﹄ 巻

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)

吉蔵は﹃仁王般若経疏﹄巻中・三において、讃仏備の一句一句に註釈を加えているが、﹁空慧寂然無縁観﹂に ついて、﹁空慧﹂の境地は所縁も観智もなくなった寂然とした心の状態をあらわすと示している(大正三三・三三 四上九この一旬も﹁絶観・絶縁﹂という思想につながっていったであろう。 さらに、育蔵は﹃中観論疏﹄巻三・末に﹁境と智とを絶す﹂の教証を五つあげているが、ここではそのうちの 二つを考察してみたい。その一つは﹃六十華厳経﹄の﹁如来性起品﹂にみられる偽であって、如来の境地が清 浄・寂滅であり、言説を絶していることを説いている。吉蔵は﹁絶観 L の内容をこのようなものとして理解して いたことがうかがえる。

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一一・正・ 切ノ切;法; 諸趣・性ス 如 ・ 遠 -来ノ非・日 趣ス門院シ 境 皆 手 ー ・ 界モ悉

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切; 亦タ寂・語-如シ滅;言; 主主性

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道; メιノ ' } -(大正九・六一五上)(﹃六十華厳経﹄巻三四) 二つめは﹃大智度論﹄巻四十三からの引用である。 ニ ハ ノ ニ タ ハ レ 毛 レ ナ リ レ ル ヲ ノ ヲ ケ テ ス ト 二知日度論鰐集散品云。縁是一一港。観是一遁。離二日疋二遁-名為ユ中道-也。 ( 大 正 四 二 ・ 五

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下 ) ( ﹃ 中 観 論 疏 ﹄ 巻 三 ・ 末 ) 三論宗における仏訟の真実義について 引用文は﹃大智度論﹄﹁釈集散品﹂からの取意である。﹃大智度論﹄のこの章は空性や般若波羅蜜についてさま ざまに説き、たとえば次のように述べている。 ハ レ ハ レ レ テ ノ ヲ ズ ヲ ヲ ス ト 悌是一一港。菩提是一一港。離=是二遁-行=中道寸是為=般若波羅蛍斗(大正二五・三七

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中 ) ( ﹃ 大 智 度 論 ﹄ 巻 四 三 ) 吉蔵は﹁縁日疋一一港。観是一一遁。離是二遁名為中道﹂を﹁絶観﹂の内容と考えていたことが知られる。 吉蔵が論じる﹁絶観の般若﹂と山う思想の系譜をたどってみた。その淵源は﹃維摩経﹄﹃仁王経﹄﹃六十華厳 経﹄にあることを、吉蔵自身が明かしている。また、﹃大智度論﹄の﹁縁是一一漫。観是一一遁。離日疋二漫名為中道﹂ が、より直接的な教証であることも吉蔵によって明かされている。この思想が少しずつ表現を変えながらやがて ﹁絶観の般若﹂という表現として成熟することになったのである。

﹃中論﹄において八不によって示される﹁畢党空﹂は、諸法の真実の姿をあらわし、﹁無所有﹂は修行者が目 一方、三論宗では仏法の真理はすべて﹁八不﹂に合まれていて、八不から仏法のあ 指すべき境地を示している。

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らゆる教義が生まれと説き、﹁八不は衆教の宗帰にして、群盟の阪本なり﹂と説いている。 さらに吉蔵は﹁絶鋭の般若﹂を説くが、これは実相と観智を超越した境地を指しており、甚深の境涯に到達し た歓喜を合んでいる。それは仏法の真理と直結しており、仏陀の智慧と深く繋がっている。 キーワード 非二非不二の正観、入不二法門、絶観の般若 三諸宗における仏法の真実義について

参照

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