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第七章 『古今和歌集』菊の歌群攷

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(1)第七章 ー宇多朝文壇の漢詩と和歌ー. ﹃古今和歌集﹄菊の歌群攷 一︑ 序. ﹃ 古今和歌集﹄ 巻第五・秋 歌 下︑二六八番 〜二八0番 ︵国歌大観番号︶の十三首 の和歌 は︑ ﹁ 菊﹂を 主題 とした 一連の 歌群として 配列さ れ て い る︒こ の菊 の歌群 に見られる和 歌 の詠作者 を見 てみると ︑ 友則 ︵三 首 ︶・貫 之︵ 二首 ︶・躬 恒︵ 一首 ︶ら 古 今 集 撰 者をはじ めとして︑敏 行・千里・道 真・素性・ 貞文︵各一首 ︶ら当代歌人 たちであり︑ わずかな例 外として︑ 二六八番歌が 在原業平︑二七八番歌が よ み人知らずとなっている ︒また︑和歌 が制作 さ れ た場を 詞書か ら見て み る と ︑ ﹁寛 平 内 裏 菊 合 ﹂ ︵四首 ︶・﹁是 貞 親 王 家 歌 合 ﹂ ︵二 首︶ ・﹁寛平御時后宮歌合 ﹂ ︵一 首︶と 宇 多 帝 代に催 された 歌合における 歌が半 数を占 め︑ ︵1 ︶. を含 めて︑. さらに︑ 二六九番歌と 二七九番歌 も宇多帝︵法 皇︶関連の歌 であることがわかる︒す な わ ち︑ 作者と 制作 された 場を考 え合わ せ れ ば︑二七八番 のよみ 人知らずの 歌 菊の歌群十三首の多 くが︑道真に 代表されるように︑宇多帝知遇歌人たちの詠歌であると 言 えるのである ︒ こ れ は ︑﹃ 古 今 和 歌 集﹄ 編纂時 の撰 歌 基 準と ︑ ﹁ 菊﹂ と い う歌 材の 性格 との 関連から注目 すべきことであろう︒ 元来 ︑菊は外来 の花であり︑ 歌材として﹃ 万葉集﹄には 一首も詠み込 まれていないのは 周 知のことである ︒﹁ 菊﹂の 和歌史上の 初出は ︑延暦十六︵ 七 九 七︶年 ︵十月十一日 ︶の ︶ 桓武天皇御製﹁此 頃の時雨の雨 に菊の花散 りぞしぬべきあたらその香 を﹂ ︵2で あり ︑ ﹁菊 ﹂ が字音 であるゆえに 歌語 として 馴染まなかったことから 脱した 作で︑ な お か つ ︑ ﹁うつろ. ふ菊﹂の香り を詠むなど ︑当代の歌としては卓越したものであったと思わ れ る︒しかしな がら︑歌材 として定着してくるには︑ いわゆる文学史上の国風暗黒時代を経 過し︑和歌復 興に至るまでの時間を 要したようである︒したがって︑和歌史 の流れの空白 を埋め る た め ︵ 3︶. されている. には ︑桓武朝以後 の本 朝 漢 詩 文における ︑ ﹁菊 ﹂の詩 材としての展 開を 考慮すべきである と思 われる ︒宇多帝 には ︑﹁和 歌 を遊戯視 する 傾向 ﹂が あ っ た こ と が 指摘. が︑そのような傾向 の中で︑詩材 としての﹁菊 ﹂をいかに 歌材に転換していったかを 跡付 ける必 要があろう︒ 本 稿では ︑以上 の よ う な観 点から ︑﹃ 古今和歌集﹄ 菊の歌 群における 和歌を ︑いくつか の類 型に分け て そ の特徴を位置 づけ︑漢 詩 文の影響を検 討することによって︑主として宇 多帝知遇歌人が ︑ ﹁ 菊﹂という歌 材を 詠むにあたり ︑当 代 漢 詩 文の典 故・措 辞を選択的に 転 換・応用さ せ て詠歌していることを明 らかにしてみたいと思う︒. 二︑ 菊の見立て表現の手法と発想 や︑渡辺秀夫氏 ︵4︶. ︵5︶. によって詳 細に検討されているところである︒. 古今集歌の譬 喩や見立てといった表現形成において ︑漢詩文の影 響が非常に 大きいこと は︑既に小島憲之氏. ︵二六九 ︶. ここではまず︑菊の歌 群の中から見 立て表現の見 られる二首について︑漢詩文の手法と 発 としゆきの 朝臣. 想の源泉 をたどり︑和歌制作の意図 を考え合わせて考察する ︒ 寛平御時 ︑菊の花をよませ給うける. 久方の 雲のうへにて 見る菊は天つ 星とぞあやまたれける. - 64-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(2) この歌は︑まだ殿上ゆるされざりける時に︑召しあげられてつかうまつれるとなむ. ︵ 6︶. により指 摘されている ︒. この 藤原敏行の 歌に見 える﹁ 菊= 星﹂とする見 立て表 現は 本朝漢詩文において ︑﹁平 安 朝 をほぼ 貫通す る手法 と見 なすことができる﹂ と本 間 洋 一 氏 嵯 峨 朝において 重陽宴賦詩が ︑積 極 的に押し進 められた時期 に成立したとされる﹃経 国 集 ﹄ の 詩に︑この見 立ての本朝における早い例 を見ることができる︒それは︑嵯 峨 天 皇の﹁九 日翫菊花篇﹂ に﹁緑 葉 雲 布 朔 風 滸︒紫蒼星羅南雁翔 ︒ ﹂ と あ る も の や︑それに応 製した ︑ 滋野善永の同 題の詩に﹁葉如雲花似星 ﹂とあるものである ︒これらの詩の 典拠として ︑ ﹃藝 ︵7︶. に よ っ て指摘 さ. 文 類 聚 ﹄﹃初学記 ﹄所 収の 晉 ・盧 蝶﹁菊花賦 ﹂に ﹁翠 葉 雲 布 ︑黄 蘂 星 羅 ﹂ ︵翠 の葉 は雲 の ごとく 布き︑ 黄な る蘂は 星のごとく羅 る︶ とあるものが ︑小 島 憲 之 氏 れている︒ その後︑この 見立ては︑ 宇多朝の詩人 ︑島田忠臣・ 菅原道真・紀長谷雄ら に よ って継承 され︑それ以 降に展開していくことになる︒この忠 臣・道真・長谷雄の用例を 挙 げれば︑ 次のようである︒ 同 巻 上︵三 六 ︶ ﹁九日侍宴賦菊暖花未開應製 ﹂偏似扇花蔵妓笄 祭水 洒沈欲奠流. □分黄蕊見星躔. 渾天星隕應敷地. 莫迸玄珠逢象内. ◇ 同 巻 下︵一 六0 ︶﹁ 後九日到菊花 ﹂ 閣倚天 少 壊水 侵. ◇﹃ 田 氏 家 集﹄ 巻上︵ 九 ︶ ﹁九 日 上 山 行﹂ ◇ 簾君 星 苑 陶 籬 接. 亦疑雲葉掩星芒. ◇ 忠臣﹃ 雑 言 奉 和 ﹄ ﹁ 惜秋翫残菊応製一首 ﹂ 庭似雪封袁. 星點暁風報早衙. 巻四 ︵二六九 ︶ ﹁ 寄白菊四十韻 ﹂地疑星隕宋. 霜鬚秋暮驚初老. 同 巻四 ︵三 三 二︶ ﹁ 霜菊詩﹂ 巻五 ︵三五六 ︶ ﹁惜 残 菊﹂. ◇ ﹃菅家文草﹄ 巻二 ︵一 二 五 ︶ ﹁ 題 白 菊 花﹂ ◇ 同 同. 似星籠薄霧 同粉映残粧 籬脚參差吹火立 暁頭再拝戴星趨. ◇ ◇. 左傳 ︒隕石于宋五 ︒隕星也︒杜預注曰︑但言星則嫌星使石隕︒故重言隕星︒. ※﹃初学記﹄ 巻第五・石第九 宋隕 如曉星之轉河漢. 引十分蕩其彩. 疑秋雪之廻洛川. こ の中でも忠臣 の︵一六0・ 渾天星隕應敷地︶や︑道 真の︵二六九 ・地疑星隕宋 ︶. 先三遲而吹其花. ◇長谷雄﹃ 本朝文粋﹄ 巻第十一・詩序四・草﹁九日侍宴観賜群臣菊花応製 ﹂. *. においては︑※に示 した﹃初 学 記﹄巻五・石 の項に見える ﹃左傳﹄の記 述をもふまえ ており ︑﹁ 天から 星が堕 ち地にあるようだ ﹂と表 現が重層化す る趣 向が見 られる ︒ま. これらの 用例の検討は ︑北山円正氏﹁菊花の詩 と和歌ー経 国 集から古今集 へー﹂. た︑ 紀長谷雄の詩 序の例は︑ 後に﹃和漢朗詠集﹄にも採 られたものである︒ **. ︵ 龍谷大学国文学論叢・三十号・一九八六年八月︶に 詳しい︒ このように ﹁菊=星﹂とする見立ては ︑本朝漢詩文 において︑ 趣向が施されながら定着 した表現となる︒これを 敏行歌では ︑漢詩文の趣 向である﹁天 から星が墜ち 地にある﹂な どとするのではなく ︑ ﹁雲のうへにて見 る﹂と し︑そ の﹁ 雲の う へ﹂を ﹁宮中 ﹂に譬 える ことで︑ その場にふさわしい歌としている︒単 に叙景的に漢詩文の見立て を利用す る の で はなく︑ 当座に即応 させ﹁天つ星 とぞあやまたれける﹂と詠 む趣向が︑ 宇多帝に評価 され たのであろう︒ この敏行歌の詠作年代は︑詞書 ・左注を信じるならば︑仁和三︑四年の 菊の花の頃 と村. - 65-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(3) 瀬敏夫氏. に よ っ て推 測さ れ て い る︒ また ︑村瀬氏 は ︑﹁ 殿 上 人で も な い者 を昇 殿せ し. ︵ 8︶. め る の は異例であるが﹂としながらも︑当時 の宇多帝が内 裏でなく東 宮に居住していたこ と に よ っ て可能 であったとされ︑ さらに ︑ ﹁ それにしてもこの不 時の 昇殿は ︑それ 以前の 知遇 をうかがわせるが︑当時 は例の阿衡の 事件が起きた 頃だから︑天 皇は敏行を 召すこと によって︑ままならぬ現実からの心や り と し︑敏行もまた破格の恩 命に感奮して ︑歌を献. 凡河内躬恒. ︵二七七︶. じたことだろう︒ ﹂ と さ れ て い る︒こ の よ う な詠作事情 か ら し て︑敏 行は公 的な当代漢詩 の措辞を和歌 に応用することで︑宇多帝 の好尚にもとづく遊戯的 な場において ︑意に叶っ た歌を詠むことに成功したのである︒ 白菊の花をよめる. 心あてに 折らばや折ら む初霜の置きまどはせる白 菊の花 ︵ 9︶. が﹁﹁如し ﹂の手 法の 応用か ︑それとも唐 詩の例 に よ る か断定 で き な い ︒﹂と し. 次に二 七 七の歌の﹁菊 =霜﹂の見 立てについて 検討をする︒ これに関し て は︑既に小 島 憲之氏 ︑霜 ︑︶ や白 居 易の ﹁重陽席上賦白菊﹂ 梁園獨如 ︵10 ︶. ︑霜 ︑︶などの 用例を指摘されている︒ また︑古 今 集 歌の見 中有孤叢色似. ながらも ︑劉 兎 錫の﹁ 白菊 ﹂ ︵家 々菊 盡 黄 ︵満園花菊鬱金黄 ︵11 ︶. をも 考慮す. 立て が︑漢詩文の ﹁疑・誤・驚 ・訝﹂な ど の影響下に成 立したとする 渡辺秀夫氏の 論 や︑ 道真の詩に ﹁疑・誤・似 ﹂や﹁疑是﹂ などの表現例 が多い こ と の指摘. れ ば︑前述した 劉兎錫や白 居 易の用例と 同時に︑道真 などの漢詩文 の中で譬喩として一般. 翡翠衾寒誰與共. 月冷霜華凝. 鴛鴦瓦冷霜華重. 九月西風興. 化 しているかを検討すべきであろう︒そこで︑道真の 詩に見られる ﹁霜華﹂の 語に注目す ると︑次のようなことがわかる︒ ◇﹃白氏文集 ﹄巻十二﹁ 長相思﹂ 巻十二 ﹁ 長恨歌﹂. 悲傷晩節昏. 同 想像霜華發. 曉氣砌霜華. ◇ ◇﹃菅 家 文 草﹄巻四﹁ 寄白菊四十韻 ﹂︵二六九︶. 寒聲階落葉. 同. 巻五 ﹁ 假中書懷詩﹂ ︵三六0︶. ◇. ︑﹂ ここに挙 げた白居易 の用例に お い て︑﹁霜華﹂ の語は﹁華のような霜 ︑あ る い は﹁華﹂ は美称程度の語で あ り︑いずれにしても実体は ﹁霜﹂に他 ならない︒しかし︑道真の 用例 ︑﹂であり ︑実体 は﹁華 ﹂で あ る︒ このような詩 において ︑ ﹁霜 華﹂ の語は ﹁霜のような 華 語 の転換 を見る と︑和 歌における ﹁︵白 ︶菊= 霜﹂という譬 喩への 応用 が︑抵 抗なく 行わ れていったと考えられよう︒ 劉兎錫の﹁白 菊﹂や白居易 の﹁重陽席上賦白菊﹂は︑ 黄菊の 中 の稀少 な白 菊を詠 んだものであるが︑ 二七七番歌 は ︑ ﹁ 心あ て に﹂と ﹁初 霜の置 きまど はせる ﹂が作 用し ︑﹁ 白菊の 花﹂ を有効 に引き 立てており ︑単な る見立 てに終 始し な い和 ︶ 歌独自の世界 を構築し て い る︒躬恒の歌 ︵ 1 2に は﹁君が た め心もしるく 初霜の置きて 残せ る菊に ざ り け る ﹂ ︵躬 恒 集・十 七︶や ﹁菊 の花濃 きも薄 きも今 ま で に霜の 置か ず は色を 見. ましや ﹂ ︵躬恒集・一 三0︶といった同種の発 想の歌も見られる︒ ここでは︑ まず二種類の 見立てについて述べたが ︑いずれも中国詩文を原拠 としながら も ︑それを学 んだ宇多朝の 道真の詩文などによって ︑その発想 に趣向が凝らされ ︑さらに ︑ 和歌に応 用されていく 過程を見てきたわけである︒. 三︑延寿思想 の和歌 - 66-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(4) 是貞の親王の家の歌合の歌. 紀. 友則. つらゆき. ︵二 七 六︶. 露な が ら折りてかざさむ菊の花 老いせぬ秋のひさしかるべく ︵二七 0︶ 世の中のはかなきことを思ひけるをりに︑菊の花を見てよみける. 秋の 菊にほふ限 りはかざしてむ花よりさきと知らぬ我が 身を 二 七0・二七六 の二首は︑菊 や菊の露に延 年の霊験があるとする ︑いわゆる﹁延寿思想 ﹂. ︵13 ︶. ︑壽 ︑動心看﹂ の句 は︑類 書﹃初学記﹄ にある ﹃西京雑記﹄ な によれば︑ ﹁對之延. と 結びついている和 歌で あ る︒ 菊の﹁ 延 寿 思 想﹂が 日本漢詩文 に表れてくるのは ︑﹃ 凌雲 集﹄ における 嵯峨御製 ︵﹁九月九日於神泉苑 ︑宴 群 臣︑ 各 賦 一 物 得 秋 菊 ﹂ ︶であり ︑小 島 憲之氏 ︑盈 ︑玉 ︑手 ︑流香遠 ﹂の句 には︑ やはり どの記 事を典 拠とするものであるとされる ︒また ︑﹁把 ︶ 類書﹃ 藝文類聚﹄ や﹃初学記﹄ に﹃ 続 晋 陽 集﹄の 記事として 見える﹁ 陶潜の 故事 ﹂︵ 1 4 が. 典拠としてふまえられているともされる ︒次いで ︑重陽菊花節に関連する ︑もう一つ の﹁延 ︑ 寿 思 想 ﹂の 故事 と し て典 型 的な も の は ︑ ﹃経 国 集﹄ の滋 野 善 永﹁ 九 日 翫 菊 花 ﹂ ︵飲水延 壊 ︑郷 ︑︶ に見 ら れ る ︑ ︶ 北 ﹁ 壊県菊水 の故 事 ﹂ ︵ 1 5 で ある ︒これは ︑さらに 宇 多 朝の 忠臣 ・道 真 ◇ 忠臣﹃ 雑 言 奉 和 ﹄ ﹁ 惜秋翫残菊応製一首 ﹂ 已謝陶家酒. 簾君 星 苑 陶 籬 接 将 隨壊 水流. 閣倚天 少 壊水侵. ・長 谷 雄らの漢詩文 などに継承 されてゆく︒ ◇﹃ 菅家文草﹄巻 一︵三 ︶ ﹁殘菊詩﹂ 風伝 壊 水 芳. 如 何 壊水岸頭花. 時報豊山警. ◇ ﹃菅家文草﹄ 巻四 ︵二 八 八 ︶ ﹁ 官舎前播菊苗 ﹂珍重秋風無缺損 ◇ ﹃菅家文草﹄ 巻四︵三三二 ︶ ﹁ 霜菊詩﹂. 眈日精而駐年顔者五百箇歳. ◇ 長 谷 雄﹃本朝文粋 ﹄巻 十 一・ 詩序四 ・草︵ 三二六 ︶﹁ 九日侍宴観賜群臣菊花応製﹂ 眈落英者養其生 飲滋液者却其老 故谷水洗花 汲下流而得上壽者三十餘家 地脈和味. こうした︑ 宇多朝文壇で 制作された漢詩文の観念 が︑二七0の ﹁是貞親王家歌合﹂の歌 や︑ また ︑ ﹁寛 平 内 裏 菊 合 ﹂の 歌に ︑﹁菊 の水 齢 を延 べ ず あ ら ま せ ば さ と も あ ら さ で 今日 あはましや﹂などと詠 まれ︑さ ら に は︑貫之集 ︵一九六︶に 見える﹁宇多法皇六十賀屏風 歌﹂にも ﹁いかでなほ君が千歳を 菊の花折り つ つ露に濡れんとぞ思ふ﹂などと公の和 歌の 場で詠 み込まれていくことになる ︒ 菊が﹁ 老い﹂との関 連で﹁壊県菊水 の故事﹂などにより延寿思想を観念として持ち︑二 ︶ 七 0・二七六の 歌にあるように﹁ かざす ﹂よ う に な る︒こ の花を ﹁か ざ す ﹂︵ 1 6こ とは古. ︑ざ ︑さ ︑む ︑老いかくるやと・ 春上・ 今集 のなかでも三 六︵鶯の笠 にぬふといふ 梅の花折りてか ︑ざ ︑し ︑とぞ 見る・賀 東三条左大臣︶ や三五二︵春 くれば屋戸にまづ咲く梅の 花君が千年 のか ・ 紀貫之 ︶の よ う に ︑﹁ 梅の 花 ﹂をかざして ﹁長 寿 ﹂を 願う 歌が 見られる ︒﹁ 梅の 花﹂ を かざすのは万葉集にも先蹤 があり︑天平二年﹁梅花宴 ﹂の歌では 晴れの宴席を 演出する道 具として歌に 詠まれるが︑ 家持の四一三六︵あしひきの山の木末 のほよ取りてかざしつら や. 柳. などの 生命力 の強い 草木 を身につけ﹁ 不 老 長 寿﹂を. くは千年寿 くとそ︶や四二八九︵青柳 のほつ枝 双ぢ取りかづらくは君がやどにし千年寿 く とそ︶ の歌 の如く ︑ ほよ. 願う呪的観念にもとづく歌も見られるようだ︒こうした草木を ﹁かざす﹂ ことが︑二七 〇 ︑な ︑が ︑ら ︑折 りてかざさむ ﹂と︑こ こ で検討した故 事をふまえて ﹁菊﹂を か ざ す 番歌では ﹁露 ことに変 化したと考 えられる︒さらに︑二七六番歌では露を 詠むことなく菊をかざすよう ︑ざ ︑さ ︑れ ︑る ︑植物一般に ﹁菊﹂が定着 したことがわかる︒ になり ︑和歌の世界 でか このように︑ ﹁延 寿 思 想﹂という面 においても ︑嵯 峨 朝における漢詩文 で類書 を参考に. - 67-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(5) 学んだ 故事の観念が ︑その後︑道 真を中心とする宇多朝における漢詩文 に継承され︑ 歌合 の場などを介して ︑和歌に応用 されたわけである︒. 四︑寛平内裏菊合 の和歌 すがはらの 朝臣. ︵二七五︶. ︵二 七 四︶. ︵二七三 ︶. ︵二七二︶. 同じ御時せられける菊合に︑州浜をつくりて ︑菊の花植ゑたりけるにくはへたりける歌 吹上の浜の形に菊植ゑたりけるによめる. 素性法師. 秋風の吹きあげにたてる白 菊は花かあらぬか波の寄 するか 仙宮に菊をわけて人のいたれる形をよめる. とものり. 濡れてほす 山路の菊の露 のまにいつか 千年を我は経 にけむ 菊の花のもとにて 人の人待てる形をよめる. 花見つつ 人まつときは 白妙の袖かとのみぞあやまたれける 大沢の池の形に菊植ゑたるをよめる. ひともとと思ひし菊 を大沢の池の 底にも誰か植 ゑけむ ︵ 17 ︶. されてい. 二 七 二〜 二七五 までの 四首は ︑二 七 二 番 歌の詞 書きに 示さ れ る如 く ︑ ﹁寛平内裏菊合﹂ の和 歌である︒こ の歌合の成立 は︑仁和四年 〜寛平三年の 間の某年秋 と推測 ︵18 ︶. も あ る︒内容的 には︑左右別. る︒ さらに︑菅原道真が実際に 参加していたと想定し︑ 基経没後に政治的自由を得 た宇多 帝による主催であることから ︑寛平三年に 限定する見方. 個 に十首ずつ︑ 菊合の州浜の 造形に新 作 歌を詠み合わせたもので︑ 歌の優劣を問 題とした 文芸的意図はなく︑純然た る物合であり ︑宇多帝知遇 の人々に よ っ て構成さ れ た遊戯的な ものであったようである︒ このような︑ 歌合の特徴 を考慮して︑ それぞれの歌 のあり方を 考察する︒ 二七二 の歌 は︑道 真の歌 で ︑ ﹁白菊 ﹂を﹁ 浪﹂ に見立 てた和 歌で あ る︒ これは 前に述 べ ︵1 9︶. ︵20 ︶. はこれを 否定し て い る︒そこで︑ 道. .翻 .白 .浪 .花 .千 .片 . 雁點青天字一行 ﹂ によれば白居易の ﹁風 ︵白氏文集巻二十︶ を. た見立て表 現とは異な り︑中国詩文 や日本漢詩文 に先蹤が見出 し難いものである︒金 子 彦 二郎氏 典拠とすることが指 摘されているが︑小島憲之氏. 山花遙向浪花開. 露葉映芙渠. 定啼南海浪花春. 集談浪花匂. 真自身 の漢詩文に目 を向けると︑ 次に示す如く ︑ ﹁浪花 ﹂の語が四 例 見られる︒ 巻 三 ︵一八四︶. 飛疑秋雪落. 同. 巻 三 ︵一九三 ︶ ﹁新月二十韻﹂浪花晴嶋嶼. ◇﹃菅家文草﹄巻二 ︵一七一 ︶ ﹁水入 ﹂ ◇ 同. 巻六 ︵四六七 ︶ ﹁ 海上春意﹂. 若出皇城思此事. ◇ 同. 染筆支頤閑計會. ◇. 道 真が漢詩文制作にあたり︑ 見立ての語 法を多用することは前にも 述べたとおりだが︑ 漢詩文では海 上の﹁浪 ﹂を﹁花 ﹂に 見立てる﹁浪 花﹂の 語を︑反 対に﹁白 菊の花﹂を﹁浪 ﹂ に見立てて和 歌を詠み︑遊戯的な歌合 の場にふさわしい作と し た と考えられる ︒ 二七五の歌 は友則の歌で ︑他の歌と同 様に︑造形された州浜の 景に合わせて ︑その中に 自分がいる 立場になって 詠んだ歌である︒大沢の 池の人工的な 自然に対して ︑池に映った 菊を 実際のものと 捉え ︑ ﹁誰か 植ゑけむ﹂ と問いかけるといった想像力を 働か せ る と こ ろ に︑この 場にふさわしい遊戯性があろう︒ ︵2 1︶. が︑歌 の内容から推 測される︒二七三番の素 性. さて ︑﹁内裏菊合 ﹂で右 方に 配置された州 浜の実 態ははっきりしないが︑ 中 国 詩 文によ る神仙説話をもとに 造形していること. - 68-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(6) の歌で ︑州浜の 造形を語る詞 書である﹁仙宮に 菊をわけて人 のいたれるかた﹂は ︑晋の﹁王 ︶ 質の 故事 ﹂ ︵ 猛尨の故 事 ︶ ︵ 2 2を ふまえたものである︒ これは ︑﹁王 質が︑ 木を切 りつつ 仙. 郷に 至り︑仙人の 碁を見ているうちに︑持 っていた斧の 柄が朽ち て お り︑驚いて故 郷に帰 る と時世 が変わっていた ︒﹂ という 内容であり ︑友則 の歌︵ 古今集 ・九 九 一︶ や︑道 真の 樵夫定 猛尨. 漢詩文にも次のように詠み込 まれ︑当時知 られていた 中国故事であることがわかる︒ ◇ ﹃菅家文草﹄ 巻五︵四 一 四︶ ﹁ 圍碁﹂ 若得逢仙客 ◇ 同 巻七 ︵五 二 七 ︶ ﹁左相撲司標所記﹂ 寢前松下︑道士老 遅︑相對圍碁︒ 樵客耽見︑ 斧尨已猛︒ また︑ 歌には ﹁菊 の露﹂ とあり ︑こ れ は前 に﹁延寿思想 の歌﹂ の項 で述べ た ︑ ﹁ 壊県菊 水の故 事﹂ がふまえられていると考 え ら れ る︒こ の よ う な中国的な 故事の 世界を ︑﹁いつ か千年を 我は経にける ﹂と一人称的 な立場で詠み ︑和歌的な 世界に転換している︒ 二七四番歌は︑詞書に ﹁菊の花のもとにて人の 人待てる形﹂ とあるが︑これも﹁延 寿 思 想の 歌﹂の 項で 前述し た ︑﹃藝文類聚 ﹄の中 に﹁ 続 晋 陽 集﹂として見 える ﹁陶潜 の故事 ﹂ がふまえられている︒ 内容は ︑ ﹁陶 潜が九 月 九 日に酒 が無く ︑家のあたりの菊 の草むらで 菊 を採っ て い る と︑王 弘の 使いが 白衣を 着て酒 を持っ て き た ︒﹂ というものである︒ この 故 事を理 解し て い な い と ︑﹁ 人の︑ 人待て る﹂や 菊を ﹁白妙 の袖﹂ に見立 てる必然性が 理 解できない︒やはりこの歌も ︑故事の世界 を﹁あやまたれける﹂と 一人称的に詠 むところ に 和歌的な世界 がうかがわれる︒. ︵23 ︶. が看取できる ︒さらに︑ 歌に詠み込まれた見立てや 故事︑また︑. 以 上︑﹁ 内裏菊合﹂ から﹃ 古今集 ﹄に 採録された四 首は︑ 名所や 中国故事をもとに ︑人 工的な自然として制作さ れ た州浜の中に 自分がいる 立場で詠まれたもので︑詠 法の上では 屏風歌にも通 ずる点. その故事を 複数組み合わせたりする方 法は︑宇 多 朝の当代漢詩文の傾向と類 似している︒ 主 催 者で あ る宇多天皇と 道真を 中心 とした 宇多朝文壇の 動向 は ︑ ﹁内裏菊合 ﹂によって︑ 中国詩文 を積極的に摂 取・受容しながら︑公的 な漢詩文の世 界を︑いかに 和歌の世界に 転 換し表現 するかといった点を焦点 とする︑より 遊戯的な和歌制作の場を提 供したといって よい︒. 五︑﹁うつろふ菊﹂の賞美 二 七 一および二 七 八・二七九 ・二八0の四 首の和歌は︑ 内容の上で時間的な変化の 度合. 大江千里. 貞文. ︵二 七 八︶. ︵二七一 ︶. い は違うものの ︑いずれも﹁ うつろふ菊﹂ を賞美することを念頭に 置いて詠ま れ た和歌で あ る︒ 寛平御時后の宮の歌合の歌. 読人 しらず. 植ゑしとき花 まちどほにありし菊うつろふ秋にあはむとや見し 是貞の親王の家の歌合の歌. 色かはる秋 の菊をば一年 にふたたびにほふ花と こ そ見れ. 平. ︵ 二八0︶. ︵二七九︶. 仁和寺 に菊の花召しける時に ︑ ﹁歌そへて奉れ﹂とおほせられければ︑よみて奉りける. つらゆき. 秋を お き て時こそありけれ菊の花移 ろふからに 色のまされば 人の家なりける菊の花を移し植ゑたりけるをよめる. 咲きそめし屋戸しかはれば菊の花 色さへにこそ移ろひにけれ. - 69-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(7) 二 七 一の 歌は ︑ ﹁うへし時 花まちどをにありしきく ﹂と 菊の花 を植え た時点 を回想 し︑ ﹁うつろふ秋にあはむ﹂と盛り の状態から時 間の経過とともに衰える 状態に移ることを予 想している︒今や 盛りなる菊を 暗に歌の中 心に置き な が ら︑植えた時 点と移ろ い ゆ く時点 をともに賞美し た歌となっている︒時間的 な変化の中に 菊の﹁う つ ろ ふ美﹂を賞 賛した歌 といってよい︒ 二七八の歌は ︑菊 は花盛りと ︑しおれかけて色 変わりしたのと二度賞美 することを直 接︑ 歌にしたものである ︒し た が っ て ︑ ﹁よみ 人知ら ず﹂の 歌となっているが ︑詞書 の﹁是 貞 親王家歌合の 歌﹂を信用 するならば︑ この歌合の場 において﹁うつろふ菊﹂を 賞美する傾 向があったことになる︒ 二七九 の歌 は ︑ ﹁秋を お き て時こそありけれ﹂ と し て﹁花 の盛り の秋を お い て も さ ら に 盛りの時 があったのだ ﹂と﹁う つ ろ ふ菊﹂を全 面 的に賞美す る︒それと同 時に︑詞書に あ るように ︑宇多法皇に 献上する菊 に託して︑法 皇を寿いだ賀 の気持ちを添 えている︒ 秋の 盛りを 過ぎた﹁うつろふ菊﹂を宇多法皇も賞美 し︑その上 で﹁人事﹂に も及んで譬えられ る例を 示す歌として ︑当代の﹁ 菊﹂に対する 賞美の仕方を 具体的に物語 る︒ 二八 0の歌も︑他 人の家から自 分の家に菊を 移植したときの歌で︑移 し植えた後に ︑盛 り を過ぎていて ︑色までもがうつろったとする ︒ ﹁ う つ ろ ふ菊﹂ を賞美 する 故に︑ 移植を したのであろう ︒ これらの歌に見 るような︑菊 の賞美の発 想は︑ど こ か ら来ているのであろうか︒ 嵯峨朝 以 来︑重 陽 節 宴が復活し儀 礼として重要 なものとして 位置づけられ ︑その中で ﹁菊﹂は賞 美され︑中国詩文の典拠に 基づき賦詩が 盛んに行われてきた︒しかし︑嵯峨朝 の重陽宴賦 ︵24 ︶. もあり︑よ り中国詩文に 類似した発想 で詩文. 詩においては ︑ ﹁うつろふ菊 ﹂が賞 美されることはなかった ︒むしろ︑ 中国の 典型的 な秋 の季節観である﹁悲秋﹂ と結びつくこと. が制 作さ れ た︒し た が っ て ︑ ﹁うつろふ 菊﹂を 賞美す る発想 の源 泉は︑ 前に述 べ て き た項 目と同様 に︑宇多朝文壇の漢詩文のあり方に求 めるべきであると思われる ︒そこで︑宇 多 ︵25 ︶. を賦している︒また ︑とりわけ道. ︑菊 ︑﹂の 題で宇 多 朝の 賦詩に 目を向 け れ ば︑寛平元年九月に 催された公 宴では ︑﹁惜 秋 翫 残 帝 以 下 多くの文 人 官 僚たちが﹁残 菊﹂を賞美す る作. ︵27 ︶. されてい. 真の 詩に は︑公 私にわたる場 において︑ 早い段 階から ︑ ﹁残 菊﹂ の詩語 を有す る も の が見 ︶ られ ︑多くの︑いわゆる﹁残 菊 詩 ﹂︵ 2 6が 制 作されている ︒. ﹁ 残菊﹂ の漢語 としての意 味は ︑ ﹁ 凋残ー 痛ましくもいたんで 残る菊 ﹂と ︵2 8︶. に よ れ ば ︑﹁ 残. る が︑ 道 真の 詩序 の一 節に は ﹁黄 華 之 過 重 陽︑ 世 俗 謂 之 残 菊 ﹂︵﹃菅 家 文 草﹄ 巻五 ・三 五 ︑陽 ︑以 ︑後 ︑の ︑菊 ︑をいう ﹂と 解せ る︒ 菅 野 禮 行 氏 六 ︶ と あ り ︑﹁ 世俗 では 重. り 咲いている 菊﹂と﹁しおれそこなわれている菊﹂の 二様の解釈 が想定されるとし︑道真 によって詠まれた残菊にもさまざまな 姿があったとしている ︒歌語としての﹁うつろふ菊 ﹂ ︑色 ︑菊 ︑花 ︑周︑﹂︵﹃菅 家 文 草﹄巻 一 殘 は︑漢 語としての 多様な 意味の な か か ら ︑ ﹁暮陰芳草歇. 三﹁ 残 菊 詩 ﹂ ︶と あ る よ う に ︑﹁残 色を 持つ 菊 の花 ﹂を 選択 し賞 美の 対象 としたのであ ︑面 ︑が︑ 歌 語として ︑ ろう ︒す な わ ち ︑﹁残 菊﹂ の 詩語 としての 一 ﹁う つ ろ ふ菊 ﹂に 対応 す ると考えられる︒ こうした点 で︑ 二七八 ・二 七 九・二 八0の 三首 の和歌 は ︑ ﹁残 菊﹂という漢 語を よ り和 歌的 な世界 に転 換し ︑ ﹁変 色し て も一 年に二度美し く栄え る菊 ﹂を賞 美し︑ 霜などにより 染め 上げられ変 色した 菊を﹁ 盛り ﹂としてたたえる姿 勢がうかがえる ︒ ﹃古 今 和 歌 集﹄菊. - 70-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(8) の歌群 における﹁うつろふ菊﹂を 賞美する歌 は︑宇多朝文壇の漢詩文で 重視された︑ 秋の 菊の 賞美 のあり 方を ︑ ﹁無条件 に残︵ 色︶菊 ︵花︶ を賞 美する ﹂といった限 定の中 で︑詠 歌の 素材としているといってよい︒. 五︑結語. ︵二七〇 ︶ ︿菊の盛り ﹀. ︵二六九 ︶ ︿菊の盛り ﹀. ︵二六八 ︶ ︿菊の移植﹀. ︱. ︱. ︱. ︱. ︻﹁残菊﹂を 予想︼. ︻ 延寿思想﹁ 壊縣菊水の故 事 ﹂ ・かざし︼. ︻ 見立て・菊= 星︼. ︻白居易詩文の 影響︼. 最 後に︑今回の 考察を反映 させた上で︑ この﹁菊の歌 群﹂十三首の 主題を確認 すること で︑まとめとしておきたい ︒. ︵二七一 ︶ ︿菊の盛り ﹀ ︵二七二 ︶ ︿内 裏 菊 合・左方﹀︱ ︻見立て・菊 =浪︼ ︵二 七 三 ︶ ︿内 裏 菊 合・右方﹀ ︱︻延寿思想 ・﹁仙宮〜 王質の故事 ﹂ ︼ ︵二 七 四 ︶ ︿内裏菊合・右方﹀ ︱︻見立て・ 白菊=白妙 の袖・﹁陶潛の 故事 ﹂ ︼ ︵二七五 ︶ ︿内裏菊合・左方 ﹀︱︻州浜の 中の形の立場 ︼ ︵二七七 ︶ ︿霜菊歌﹀ ︱. ︱ ︻法 皇への寿ぎ︼ ︻残 菊の色の変化 ︼. ︻菊を 二度賞美する ︼. ︻見立 て・菊=霜︼. ︱︻延 寿 思 想・かざし・﹁嘆老 ﹂ ︼. ︵ 二七八 ︶ ︿ 残菊歌﹀ ︱ ︱. ︵二七六 ︶ ︿残 菊への傾斜﹀. ︵ 二七九 ︶ ︿ 残菊歌﹀ ︵二八〇 ︶ ︿菊の移植﹀ ︵2 9 ︶. によれば ︑ ﹃伊勢物語 ﹄. まず︑ 最初と 最後 には ︑﹁菊の 移植﹂ を述べ た歌 を︑しかも業 平と貫 之を 対照させて配 置している ︒この業平の 菊の移植に際 しての贈歌は ︑上野理氏. 第五十一段 にもあるこの 業平歌 に対 して﹁ 薔薇や 牡丹の 移植 する際 に詩を 詠じた ︵﹁戯題 新栽薔薇 ﹂ ﹁戯 題 盧 秘 書 新 移 薔 薇 ﹂﹁別 種 東 坡 花 樹 両 絶 ﹂ ﹁移牡丹栽培 ﹂︶白楽天 をならっ たようだ ︒ ﹂とされている︒ ここには︑ 業 平 独 自な白居易詩文の 和歌へ の享受 のあり 方が 見い出 せ︑首肯で き る説である︒ 歌材として新 しい﹁菊﹂ の永遠性を詠 んだ模範的な 先例 として ︑歌群の冒頭 に置いたのであろう︒ 二 六 九・二七0の 二首の歌は︑ 嵯峨朝の重陽節賦詩以来 ︑宇多朝の賦 詩に継承さ れ た典 故・ 措辞を詠み込 み︑菊花の 盛りなることを詠むが︑中国詩文の典 型 的な秋の季 節 観であ る﹁悲 秋﹂を 詠み込むことはしない ︒そして︑二七一では ︑花 の盛りでありながらも ︑ ﹁う つろふ菊の賞美 ﹂を予想さ せ る歌を配置 している︒これは︑撰者たちが︑いかに ﹁うつろ ふ 菊﹂を重視 するかという 観念を持ち得 たことを︑物 語るものであろう︒ 二七二 〜二 七 五ま で の四 首は ︑﹁寛 平 内 裏 菊 合﹂の 歌で ︑日 本 的な名 所の州 浜と︑ 中国 の神仙説話 をもとにしたものを組み合 わせて︑二首 ずつ配置し 歌合ながら物合的な傾向の 強かったこの行事に お い て︑州浜の 中の形の立場 になって詠歌 するという︑ 屏風歌の詠法 にも通じ る歌を置き︑ 菊の盛りを︑ より客体的な 世界の中で描 こうとしている︒ そして︑ 二七六の貫 之 歌から﹁嘆老 ﹂をふまえて﹁うつろふ 菊﹂へと傾斜 し始め︑二七 七で は﹁菊 =霜 ﹂の見 立てで ︑ ﹁霜 華﹂の 詩語を 連想 させ︑ 二七八 〜二八 0の三 首で︑ 変 色した ﹁残菊﹂を賞 美する歌を置 き︑この歌 群を終えることになる︒ - 71-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(9) 以上のように ︑ ﹁寛平内裏菊合 ﹂を中心 とする宇多朝文壇における 菊花の賞美 の方法が ︑ ﹃古今和歌集﹄菊 の歌群に反映 し撰歌の対象 となっていると考え ら れ る︒したがって︑そ れぞれの和歌の詠作段階においても︑主に 宇多帝知遇の 歌人が︑道真 の漢詩文を中 心とし た宇多朝賦詩の 表現・発想を 和歌表現に転 換・応用することを知的遊戯視し︑詠 歌された ものといってよいだろう︒ ﹃ 古今和歌集﹄ 菊の歌群は ︑歌材として 新しい﹁菊﹂ を︑秋歌の一主題として 配列する ︑戯 ︑的 ︑な ︑漢詩文と和 歌との交流によって詠ま れ た歌が採択 にあたり︑宇多朝文壇における遊 され︑秋下巻 の中心となった︒勅撰漢詩文集に匹敵 する勅撰和歌集を目指した 撰者たちに とって ︑こうした宇多朝の営為による歌を採択 することが ︑むしろ ︑公の場における﹁菊 ﹂ の和歌と し て︑意に叶ったものだったのである︒ 注︵1︶ 二七八番歌は ﹁読人し ら ず﹂の歌となってはいるが ︑詞書に︑そ の開催に当 たっ て宇 多 帝の意向が大 きく働いたと 考えられる﹁ 是貞の親王 の家の歌合の 歌﹂とあ るので ︑これを信じるならば︑ 当代歌人の詠 歌と見る こ と も可能である ︒しかし 朴氏 ﹃平安朝歌合大成. 一 ﹄によると ︑撰歌合とされている説があることな. な が ら︑この歌は ︑伝存歌合本文には収められておらず︑ また︑この 歌合も︑萩 谷 ど か ら︑作者を 当代歌人と確 定することには︑慎重であるべきであろう︒ ︵ 2︶ ﹃ 類聚國史﹄七 五・歳時六・ 曲宴. 桜楓社. 一九七一年 塙書房. 一九七六年. 延暦十六年十月癸亥︑ 曲 宴 酒酣皇帝歌曰 己乃己呂乃︑ 志具礼乃阿米尓︑菊乃波奈 ︑知利曾之奴倍岐︑阿多羅蘇乃香乎 ︵3︶村瀬敏夫氏﹃古 今 集の基盤と周 辺﹄六八頁 ︵4︶ 小島憲之氏 ﹃古今集以前 ﹄第三章︑ 三 ︑ ︵二︶ 比喩的表現 勉誠社. 一九九一年. ︵5 ︶渡辺秀夫氏 ﹃平安朝文学 と漢文世界 ﹄第 一 篇︑第一章 ︑ ︵Ⅱ︶ 古今集歌の 表現と 漢詩 ﹃ 中央大学国文﹄. 第二十七号. 一九八四年三月 塙書房. 一九七一年. 有精堂. ︶ 注︵5︶ 渡辺氏所掲書 ︒. 作. 一九六五年. ︵6︶本間洋一氏﹁ 菊の賦詩歌の 成立覚書ー本 朝における古今集前夜ま で の菊の小 文 学 史ー﹂. ︵7 ︶小 島 憲 之 氏﹃上代日本文学 と中国文学︵ 下 ︶ ﹄一 八 二 七 頁 早大平安朝文学研究会編. ︵8 ︶村瀬敏夫氏 ﹁藤原敏行伝 の考察﹂岡一男博士頌寿記念論集﹃平安朝文学研究 家と 作品﹄ ︵. ︶ 木越 隆氏 ﹁新撰万葉集上巻の漢 詩の作者について﹂ 一九五六年九月. ︵ 9︶注︵7︶ 小島氏所掲書 ︒一八二九頁 ︒ ︵. ︶和歌本文は 特に記さない 限り ︑ ﹃新編国歌大観 ﹄をもとにし ︑私に漢字をあてた ︒ 以下も同じ ︒ ︶注 ︵7︶小島氏所掲書︒一五四七頁 ﹃初学記 ﹄巻第四・九月九日. ︶ 注︵7︶小島氏所掲書︒ 一五四七頁. ﹁太清諸草木方曰︑ 九月九日採菊花與茯苓松脂︑久服之︑ 令人不老 ︒ ﹂. ﹁西京雜記曰︑漢武帝宮人賈佩蘭 ︒九月九日佩茱萸 ︑食餌 ︑飲菊花酒 ︒云令人長壽︒﹂. ﹃ 国語﹄第四巻第四号. ︵ ︵. ︵. - 72-. 11 10. 12. 13. 14. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

(10) ︵. ﹁陶潛 の故事 ﹂ ︵﹃藝 文 類 聚﹄及び﹃初学記﹄九 月 九 日︶ ﹁續晉陽集曰︑陶潛嘗九月九日無酒︒宅邊菊叢中︑摘 菊 盈 把︒坐 其 側 久︑望見白衣 至︒ 乃王弘送酒也 ︒即便就酌酔而後歸 ︒﹂︵﹃藝文類聚﹄本文による︶ ︶ 注︵7︶ 小島氏所掲書 ︒一五四九頁 ︒. 一九九七年八月. 上﹄ ︵講 談 社. 一九九八年︶. 句題和歌 ・千載佳句研究篇﹄一 二 三 頁. 兵兵氏 ﹁和歌の﹁かざし﹂と中国古典詩の﹁ 挿花 ﹂﹂ ﹃和漢比較文学﹄. 名之大夭︑菊華身輕益氣故也 ︒﹂︵﹃藝文類聚﹄本文による︶ ︶参照 :高 第十九号 ︶萩 谷. 一﹄. ︵ ︶注 ︵3︶村瀬氏所掲書︒四三頁︒. 朴氏﹃平安朝歌合大成. ︵ ︶ 金子彦二郎氏 ﹃平安時代文学と白氏文集 ︶ 注︵7︶小島氏所掲書︒ 一八二九頁︒. 一九五五年︵増補版 ︶. ︵ ︶このような見解は ︑片桐洋一氏﹃古今和歌集全評釈 における︑二七二番の歌の︻ 鑑賞と評論︼ に示されている︒ ︶ この歌に ﹁王質の故事 ﹂がふまえられているとするのは︑古注以来多くの 指摘が あ る︒ 晉﹁王質の故 事 ﹂ ︵ 猛尨の故事︶︱﹃ 述異記﹄上 ︵叢書集成初編 ︶ 信安郡石室山 ︑晉時 ︑王質伐木至 ︑見童子數人 懊而歌 ︒質因聴之 ︑童子以一物與質 ︑ 如棗核︒質含之不覺饑餓 ︒童子謂曰︑ 何不去︒質起視斧尨盡 猛︒既歸︑無復時人︒ ︶州浜 ・屏風絵・ 庭園の制作と 和歌との関連 を考察されたものとして ︑片桐洋一氏 ﹁松鶴図淵源考 ﹂︵﹃国語国文﹄ 二九巻六号︑ 一 九 六〇年六月︶があり ︑ ﹁神 僊 思 想﹂との 関連にも言 及されている ︒ ︶ 例え ば ︑ ﹁神泉苑九日落葉篇 ﹂ ︵﹃文華秀麗集 ﹄嵯峨天皇︶ や﹁重 陽 節 神 泉 苑 賦 秋. ︵ ︶ 参照:注︵ 6︶本間氏所掲論文︒. ︶ ﹃雑言奉和 ﹄ ︵﹃群 書 類 従﹄巻一三四所収︶. 可哀 ﹂︵﹃経国集 ﹄嵯峨天皇︶ などがある ︒ ︵. 第三節. 三. 一九七七年五月. ︶ 小島憲之氏﹁漢語享受 の一面﹂. ﹃ 龍谷大学論集 ﹄第四一〇 号. ︵. ︶ 菅野禮行氏﹃平安初期 における日本漢詩の比較文学的考察﹄ 第二章 大修館書店 一九八八年 ︶上野 理氏 ﹁伊 勢 物 語と海彼の 文学 ﹂ ﹃国文学﹄一九七九年一月. 本朝 菅家後集 ﹄︵岩波書店 ︶︑﹃白氏文集歌詩索引 ﹄ ︵同. 古今和歌集 ﹄ ︵小 学 館 ︶︑ ﹃新日本古典文学大系 菅家文草. ︹付記︺ 本稿は︑平成十一年六月五日の平安朝文学研究会における︑口頭発表に基づ く︒. 朋社︶による︒. 文粋 ﹄︑ ﹃日本古典文学大系. ※本文 は﹃新 編 日 本 古 典 文 学 全 集. ︵. ︵. ︵. ︵. ︵. ︵. 培風館. ︵. ︵. ﹁ 風俗通曰︑南 陽壊縣 ︑有甘谷︑谷水甘美︑云其山上大有菊 ︒水從山上流下︒得其滋 液︑谷中有三十餘家︑不復穿井︒悉 飲 此 水︑上壽百二三十︒中 百 餘︑下七八十者︒. ﹃ 藝文類聚﹄巻八十一・菊 及び ﹃初学記 ﹄巻二十七 ・寶器部・菊. 15. 16. 19 18 17. 21 20. 22. 23. 24. 28 27 26 25. 29. 席上等 ︑様々な面で 御教示いただいた先生方 に厚く御礼申 し上げます︒ - 73-. 『古今和歌集』菊の歌群攷 第七章.

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