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『パスカルの「パンセ」』

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(1)

〈翻 訳〉

『パスカルの「パンセ」 』

弁証論のテーマ(3)

**

M. ルゲルン、M.=R. ルゲルン著 森 川 甫

***

古 家 曜 子

****

共訳

キリスト教の証拠

綴りを分類するに当たって、パスカルがいわゆる キリスト教の証拠を持ち出すのは、人間条件の検 証を行ったあと、さらに3番目の綴りにおいてで ある。この特異なやり方は、それまでに身につけ た価値基準を変更し、これまで無関心だった問題 に必要な全注意を向けるよう読者に準備させるた めである。パスカルの証拠のほとんどは、はっき り言って、伝統的な弁証論と同じである。これら はパスカルの先行者の著作においては通常、説得 過程のかなり先の段階になってやっと現れる。神 の存在・摂理や魂の不死の証明のための議論の方 が前に来るからである。その限りにおいては、特 にトマス主義者やキリスト教ユマニスムの伝統で は、真理は哲学から引き出され、人間理性の領域 内に留まる。一方、キリスト教に固有の証拠は、

権威の根拠を基礎づけるのが目的であるから、パ スカルの著作においても、伝統とのある種の連続 性は認められる。パスカルも実験と推理が行使さ れる理性的真理から出発し、神学の特徴である権 威の援用の正当性を主張するのは、議論の最後に なってからである。しかし、この連続性も、両者 の理性の行使が果たす役割の根本的な違いを捨去 するものではない。形而上学を論じるかわりに、

パスカルは人間の具体的な状況を持ち出す。もっ とも苦痛に満ちた分裂にまで行き着く相矛盾する もの、もっとも深いがゆえにもっとも見えにくい

悲惨さ、何よりも、人間が内心に感じる偉大感と 絶対感。こうして彼は人生に密着した経験やだれ しもその存在を否定できない現実を持ち出す。パ スカルが形而上学をなおざりにするのは、それで は不十分だと考えるからである。形而上学が与え てくれる確信は、同じ事柄に対する「啓示」の知 識と比べると、一時的で、しかも一貫性がない。

それゆえ形而上学の真髄は、哲学や、完全には傲 慢を払拭しきれない理性の行使を通り越して、わ れわれが啓示と呼ぶものの内に真の居場所が、し かもきわめて居心地の良い居場所が見つかるので ある。哲学の威勢のいい態度を、パスカルは信じ る者の謙遜な服従に置き換える。こうしてかれの 弁証論ははるかに具体的に、実存的になった。し かもこの徹頭徹尾具体性へのこだわりこそがキリ スト教の証拠の説明を特色あるものにした。歴 史、聖書、イエス・キリストの人格こそが、パス カルの検証するテーマの本体に他ならない。これ らこそまさしく具体的な現実なのである。確か に、これらのテーマに持ち込まれた変更は、準備 段階での理性の役割の変質に比べれば取るに足り ないものであるが、この変更も同じ方向を目指し ている。

他宗教の誤り

16番目の綴りの表題『他宗教の誤り』は、そこに 含まれる断章の内容を完全に表してはいない。な ぜ他の宗教が誤りかをパスカルが述べるのは、他

キーワード:キリスト教弁証論、証拠、宗教

**これは、M. et M.=R. Le Guern,Les Pensées de Pasual de l’anthropologie à la théologie, Larousseの4. Les thèmes de l’apologieの翻訳である。

***関西学院大学名誉教授、神戸海星女子学院大学教授

****関西学院大学社会学部兼任講師

March

(2)

宗教と比較して真の宗教から何を期待するべきか を導き出すために他ならない。

パスカルが考察したキリスト教以外の宗教の中 で、イスラームが特筆に価する。イスラームにつ いては、彼はシャロンの『3つの真理』第2部、

特に、第6冊が『イスラームの反論』と題された グロティウス『キリスト教の真理について』1)か ら知識を得た。イエス・キリストとムハンマド

(マホメット)とを比較するというアイディアは この箇所から取られたのである。

イエス・キリストとムハンマドの違い。

ムハンマドは予言されなかったが、イエス

・キリストは予言された。

ムハンマドは殺す。イエス・キリストは彼 に従う者を殺させる(殉教させる)。

ムハンマドは読むのを禁じ、使徒たちは読 むよう命じる。

結局、かくも正反対であるから、ムハンマ ドが人間的に成功する道を選んだのであれ ば、イエス・キリストは人間的には滅びる道 を選ばれたのである。ムハンマドが成功した のだから、イエス・キリストも成功できたの だと結論づけるのではなく、ムハンマドが成 功したのだから、イエス・キリストは滅びる はずだったと言うべきである。(L.209)

明快な対句によって、グロティウスの読書ノート は原著にはなかった力強さを獲得した。イスラー ムにおける「クルアーン(コーラン)」の地位を 知るひとは、「ムハンマドは読むのを禁じ」と書 かれているのに少なからず驚かされる。しかしこ こでのパスカルはグロティウスを信用し、彼の述 べるところを要約するにとどまる。

一般的に言って、この宗教には2つの特徴が ある。ひとつは、残酷さを掻き立て、その信 者に血を流すようにしむけること、もうひと つは、盲目的な服従を強い、その教義の検証 と、当然、信者には神聖だと思わせている聖 典を読むことを禁じていることである。1)

しかし、パスカルの意図はおそらくグロティウス とは違うであろう。パスカルはムスリム(イスラ ム教徒)向けに書いているわけではないから、イ スラームと戦いを交える特別な理由はない。なに

よりも彼はキリスト教の特質を浮き彫りにせんが ために、対照的なイスラームを利用したにすぎな い。パスカルが特にイスラームを選んだのは、そ のほうが対立を証明しやすいからにすぎないので はないかと考えられる。このいきさつを理解する には、次の2つの短い断章を比較すれば足りる。

他宗教の誤り。

ムハンマドには権威がない。

自分に力がないから、理屈をこねざるを得な いのだ。

彼は何と言っているか? 自分を信じよ、

と。(L.203)

他宗教の誤り。

彼らには証人がいない。こちらにはいる。

神は他宗教にはこうしたしるしが生み出せ ないと言っておられる。イザヤ書43.9−44.8

(L.204)

明らかに、はじめの断章はまさしくふたつ目に述 べられた対照を強調する役目を果たしている。

誤った宗教を考察すれば真理を見分ける指標を明 確にすることができる。その指標をこれからキリ スト教に適用しようというのである。こうしてム ハンマドの暗さと明るさの考察は、聖書にも適用 しうる考察方法の基礎づくりに役立つのである。

わたしとしては、ムハンマドを判断すると き、彼にあるなにかしら暗い部分や神秘的な 意味に取れるところではなく、むしろ明るい 部分、彼の言う天国やその他のものを拠り所 にしてほしい。彼の馬鹿さ加減はそこにこそ 現れているからだ。だから、彼の明るさゆえ に、その暗さを神秘と取り違えてはならな い。しかし聖書については違う。確かに聖書 にもムハンマド同様奇妙な暗さがある。が、

一方眼をみはる明るさと、目に見える成就さ れた預言があるのだから。(L.218)

こんな風にパスカルは、まず読者を明るさ−暗さ の弁証法に馴染ませ、それから預言の考察へと進 む。「それが神よりのものであるなら、暗さもま た尊ばれなければならないのは明るさがあるから こそなのである。」(L.217)しかしパスカルは他 宗教に対して論理レベルの批判しかおこなってい ないわけではない。彼はまたその道徳をもあげつ

1)グロティウス『キリスト教の真理について』Grotius,Traité de la vérité de la religion chrétienne, VI, 2.

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らう。道徳が完全に納得がいくとはいえない宗教 は真理たり得ないからである。パスカルは、こう した道徳が人間の本性と真っ向から対立する点を 非難しているのではなく、不完全・不十分・断片 的であると言うのである。社会道徳を立てるため に情欲を利用するのは間違っている。たとえこう して立てられた原理がどんなに有用であっても。

情欲を根絶すべく、真正面から情欲に対峙する以 外に真の解決はない。でなければ、解決は見かけ だけに終わる。

人間は情欲から政治や道徳や正義のすばらし い規範を引き出し、作り上げた。

しかし人間のこの悪しき根、この「悪しき さま」figmentum malumは た だ 深 く 被 わ れ ているにすぎない。(L.211)

パスカルがここで全く世俗的な規範、社交界に広 く行き渡っていたオーネトゥムの道徳を指してい ると考えることもできる。2)彼にとってそれは単 なる仮面、偽りのイメージにすぎない。「そんな ことはただの見せかけであり、偽りの愛のイメー ジにすぎない。その根底は憎しみにすぎないから である。」(L.210)3)人間の条件を完全に分析する ことは、キリスト教以外にはますます不可能であ る。Rem viderunt, causam non viderunt.「彼らも たしかに事態は見たが、原因は見なかった。(ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス『ユ リ ア ヌ ス 反 駁』4.12.60)」

(L.206)こんな風にパスカルは、『共和国につい て』第3巻において人間の悲惨を描写しながら、

その原因に言及しなかったキケロに対するアウグ スティヌスの考察を、複数形にして引用した。し かも『パンセ』にはこれと非常に似通った直接ミ トンに宛てた、また彼の背後にいる、パスカルが 弁証論を書くさい、読者として想定したリベルタ ンに宛てた考察がある。

ミトンには、本性は堕落しており、人間は オーネトゥテとは正反対であることがよくわ かっている。しかし彼には人間がなぜもっと 高く飛べないのかはわからない。(L.642)

事実、真理を認識することと徳を実践することの 間には極めて密接な関係がある。このことはパス カルが『ド・サシ師との対話』ですでに取りあげ たいくつかのテーマをより詳述し、幅広く念入り に書き込んだある断章が示している。

こうした神からの知識がなければ、人間は何 をなし得たであろうか?過去の偉大さの名残 を内心に感じて思い上がるが、現在の弱さを 目の当たりにしてガックリと膝をつくかのい ずれかであろう。というのは、真理の全部が 見えないために、人間は完全な徳には到達し えないからである。ある者は本性は堕落して いないと考え、他の者は修復不能と見なす。

人間は全ての悪徳の二つの源泉たる傲慢か怠 惰を免れ得なかった。人間は結局、無気力に なって悪徳へ身を委ねるか、傲慢になって悪 徳から抜け出すかしかできないのであるか ら。(L.208)

ここにはエピクテートスとモンテーニュの主張が 認められる。しかし、ストア派に対するパスカル の態度が少し変化したことに注目しよう。『対話』

においてパスカルは、エピクテートスは「人間の 義務を世界でもっともよく知る哲学者のひとりで ある」と言っている。確かにエピクテートスには

「悪魔的な尊大さゆえの言辞」があることはパス カルも認めていたが、その肯定的な面に重点がお かれていた。逆に、ここでははっきり批判してお り、彼がエピクロス派よりはストア派に対してよ り好意的であるようには見えない。哲学者たちの 誤った教説がキリスト教の真理と対立するのであ る。

キリスト教だけがこれら2つの悪徳を癒すこ とができた。それも、この世の知恵によって どちらか一方を追い出すのではなく、福音の 単純さによって両方を追放したのである。

(L.208)

この相矛盾するものの一致は、実際、単なる人間 理性の可能性を超えている。これは啓示の助けを

2)L.597参照。「自我は憎むべきである。ミトン君、君はそれを覆うことはできても、取り除くことは絶対にでき ない....君はその不快さを取り去ることはできても、その不正を払拭することはできない。」

3)おそらくスノーの『罪人』から取ったテーマであろう。(Senault, l’Homme criminel III, 4)「不実な者の徳は正し いことはあり得ない。徳というものはかくもうるわしいので、その影さえも快い。悪徳も徳の衣装を纏うとき には幾らか美しく見える。だから、罪が徳の様に見せかけた外見を伴ってわれわれの前に現れると、われわれ はどうしても罪を崇めてしまうのである...」

March

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借りてはじめて得られる。ここからパスカルは、

人間には解決できない問題に解決の光をもたらす ことで自ずから認められるこの権威に対して読者 が服従することを強く求めるのである。

とすれば、この天からの光を信じ、崇めるこ とを拒否するひとなどいるだろうか?われわ れが自分の内に消し去ることのできない優れ た性質があるのを感じているのは、日の光よ りも明らかではないか?また、われわれが自 分たちの哀れな条件の現実をつねに実感して いることも事実ではないか?(L.208)

首尾よく読者をこの服従に導くために、パスカル はためらうことなく、彼が心に揺さぶりをかける ときの説得のための道具、叙情的な調子を用い る。

この混沌、このはなはだしい混乱が、抗えな いほど厳しい声でわれわれに告げ知らせてい るのは、まさしくこの2つの状態ではないの か?(L.208)

それゆえ、真の宗教とは、満足のいくやり方で人 間の真の本性を説明し、その矛盾を解決しうるも のということになる。したがって人間学的第1部 全体と緊密に関係していることがはっきりする。

弁証論の第1部の存在理由が明らかになるのであ る。

人間の本性を理解したのち、ある宗教が真実 であるためには、その宗教がわれわれの本性 を知っている必要がある。それは(人間の)

偉大さと卑小さおよびその理由をも知ってい なければならない。キリスト教以外にそれを 知っている宗教があるだろうか。(L.215)

真の宗教は、認識の矛盾とともに道徳の矛盾をも 解決せねばならないであろう。すなわち傲慢と絶 望を同時に遠ざけることができなければならな い。

イエス・キリストはわれわれが傲慢にならず に近づくことができ、絶望に陥らずにひれ伏 すことのできる神である。(L.212)

いまひとつ解決すべきは、外見に惹かれる民衆と もっと知的なことに関心を持つ知識人の双方に受 け入れられるような宗教でなければならないこと である。

異教などはずっと人気がある。外面的だから

だ。しかしそれでは知識人向きではない。純 粋に知的な宗教なら、(先ほどの宗教よりは)

知識人にふさわしいであろうが、まったく民 衆向きではないであろう。この外面と内面を 兼ね備えたキリスト教だけがどちらにも適 う。(L.219)

この綴りに集められた断章は一見すると寄せ集め のように見えるが、パスカルのやり方は明快であ る。さまざまな宗教を批判的に検証すれば、その 欠点を明らかにして、その宗教から期待しうるも のを対照的に引き出し、それが真の宗教かどうか を評価することができる。キリスト教は、こうし た異なる指標に基づく批評的検証によって完全に 満足できる結果の得られる唯一の宗教なのであ る。

宗教を愛すべきものに

次の綴りにはかなり短い断章が二つしか収められ ていない。しかしこの箇所は、おそらくパスカル が相当に重視した彼の方法の一段階に当たる。そ れは丁度このテーマに関連のある人たちにテーマ の筋道を明示する『順序』の綴りがそうであった ように。

順序。

人々は宗教を軽蔑している。宗教を憎み、宗 教が真実であることを恐れている....尊ぶに 値することを示し、尊敬させねばならない。

それから宗教を愛すべきものにし、善良な 人たちに宗教が真実であってほしいと願わ せ、そのあと宗教が真実であることを示すこ と。

尊ぶべきだというのは、宗教が人間をよく 知っているからである。

愛すべきだというのは、宗教が真の幸福を 約束するからである。(L.12)

つまり、パスカルにとっては、誰もが求める最高 善(真の幸福)の問題に事実上、重点の置かれた 議論に読者に付いて来てもらうことが大切なので ある。パスカルは一見矛盾するように見えて、そ の実この綴りの題名が示すテーマを互いに補い合 う関係にある2つの側面のみを考察する。キリス ト教は普遍的という点でユダヤ教とは正反対であ

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る。誰ひとり漏れる者はない。「イエス・キリス トはすべての人のために。モーセは1つの民のた めに。」断章の最後で、教会の態度とキリストの 態度のあいだにはっきりした食い違いが現れる。

「教会さえ信じる者たちのためにだけ犠牲を捧げ る。イエス・キリストは万人のために十字架の犠 牲を捧げた」(L.221)これはもう1つの断章の 次の文章と新たに矛盾するように思える。「キリ ス ト 教 徒 の た め に だ け 贖 い 主 が お ら れ る」(L.

222)これら2つのテクストを比較すると、弁証 論執筆当時の恩寵と救済についてのパスカルの問 題意識は、ジャンセニストとジェズイットの論争 当時とはもう同じではないような印象を受ける。

どうもパスカルは相矛盾するものの調停の弁証法 というかたちで問題を提起しようとしたようだ。

しかし実際は、テクストがほとんど展開されてお らず、また内容も明快とは言えない状態のため、

これは単なる仮定の域を出ない。

人間の条件は悲惨なのであるから、それだけ宗 教の真理は、その悲惨を脱出するためのさらに確 実な手段を与えるものであることが一層望まれ る。この問題を考察しつつ、パスカルは汎神論・

ユダヤ教・キリスト教間の格付けを始める。これ は『パンセ』の中で彼が何度も繰り返すテーマの ひとつである。

異教徒には贖い主は存在しない。単に彼らが それを望まないからである。ユダヤ人にも贖 い主は存在しない。彼らは空しくそれを待ち 望んでいる。キリスト教徒にとってのみ贖い 主は存在するのである。(L.222)

宗教の基礎と反論に対する応答

この同じ図式が、『宗教の基礎と反論に対する応 答』と題された次の綴りの断章中にも見出され る。パスカルの弁証論で「基礎」という語の表す 意味が理解できるのはこの断章においてである。

異教には基礎はない。

イスラームはクルアーンとムハンマドを基 礎にもつ...

ユ ダ ヤ 教 は 違 っ た ふ う に 見 る べ き で あ る...その基礎はすばらしい。この世でもっ

とも古く、もっとも正しいからだ。ムハンマ ドがクルアーンを存続させるためにそれを読 むのを禁じたのに対し、モーセは同じ目的で 全員に読むように命じた...

われわれの宗教は神よりのものである。も うひとつ別の神よりの宗教が基礎となってい るぐらいだからである。(L.243)

「基礎」とは結局その宗教が依拠する文書のこと である。それは人間理性の力のみでは到達し得な い知識を人間に与えてくれる啓示資料なのであ る。聖書はユダヤ教とキリスト教の共通の基礎で ある。それゆえパスカルが選んだ視点は決して抽 象的ではない。彼にとって宗教の基礎とは、多少 とも哲学的な観念でも抽象でもなく、どんな些細 なことでも詮索するに価する1冊の本という具体 的な現実なのである。

しかし聖書はわかりやすい書物ではない。明快 で、読者のわずかな努力も要求しないようなわか りやすさは持ち合わせない。聖書には光と闇の弁 証法が見出される。

選ばれた者を照らすには十分な光が、またへ りくだらせるに足る十分な暗さがある。見捨 てられた者を盲目にするのに十分な暗さが、

彼らに罪を宣告し、言い逃れできなくするに 足る十分な明るさがある。

旧約聖書のイエス・キリストの系図は他の どうでもいいものと一緒くたにされて、見分 けがつかなくなっている。もしモーセがイエ ス・キリストの先祖だけを記録に残していた なら、あまりに明らかすぎたであろう。しか し彼がイエス・キリストの系図を記しておか なかったなら、明るさは十分ではなかったで あろう。だがこのことをもっと仔細に見るひ とには、タマルやルツという名で区別される イエス・キリストの系図が見わけられるであ ろう。(L.236)

パスカルの弁証法はある解釈学に基づいている。

それについてアンリ・グイエ4)は、それが彼の世 界観と歴史観の核心であることを証明した。神は 自らを隠す。神が自分を隠す意志は自分を顕わす 意志と裏腹の関係にある。照らすのも神、盲目に するのも神である。神の憐れみはその義(正義)

4)『ブレーズ・パスカル注釈』Blaise Pascal, commentaires,pp.187−243.

March

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同様限りがないからである。アダムの罪によって 人間は神を知ることができなくなった。神が自ら を隠すのはひとえに義ゆえである。しかし神は全 人類が堕落したままに捨て置くことを望まれな い。神が自らを顕わされるのは限りない憐れみか らである。これこそ予定説5)の奥義である。この 明るさと暗さの共存こそが選ばれた者と見捨てら れる者とを生み出す。しかも神の最終決断は人間 の自由と両立しない。「ひたすら見ることを望む 者には十分な光があり、これと反対の傾向の者に は十分な暗さがある。」(L.149)光か闇かを選択 するのは人間の意志であること、照らす者と盲目 にする者を決めるのは神お1人であることのどち らも正しい。ここでまたパスカルが『恩寵文書』

において分析した弁証法的状況に出会う。神は求 める者には決して恩寵を拒まれない。しかし神ご 自身が人間に祈りの賜物をくださらなければ、誰 も神に恩寵を求めたりはしないのである。恩寵と 光は、人間の態度と神の意志とに同時にまた全面 的に依拠している。それゆえ、神が揺り動かそう となさるのは人間の精神というよりはむしろ人間 の意志のほうである。

神が備えをさせるのは精神よりは意志のほう である。完全な明るさは精神の役には立って も、意志には害になる。

思い上がりを貶めること。(L.234)

原罪以来通常となった精神の勝利を伴う傲慢に汚 されていない知識を、神は人間に与えたいと思 う。暗さはへりくだらせるが故に、選ばれた人た ちにも役立つ。こうして神の光は、人間が自力で 手に入れることができない賜物であることを人間 にもっと強く感じさせる。

人間は神に相応しくない。が、神に相応しく されることは不可能ではない。(L.239)

この明るさと暗さの弁証法は聖書にのみ当てはま るわけではなく、神の業には例外なく当てはま る。

神がある人たちを盲目にし、他の人たちを照 らしたいと願われたことを出発点として受け

入れなければ、われわれは神の御業をなにひ とつ理解することはできない。(L.232)

これは被造物すべてに当てはまる。「空も鳥たち も」神を証明することはできない。ただ「神がこ の光を与えた数少ない魂にとって以外には。」(L.

3)神の御業に常につきまとう、この「隠す−顕 わす」の二重の意志こそが万物に見られる矛盾を 説明できる。「こうした相反することを知ってい ることが力の印であるなら、この点については聖 書 を 敬 う べ き で あ る。」(L.466)人 間 の 本 性 は

「相 反 す る も の」で 造 ら れ て い る。宗 教 も し か り。したがって、イエス・キリストについて福音 書がわれわれに示す方向も同じである。

イエス・キリストは、はっきり見える者を盲 目にし、盲目の者に視力を与え、病人をいや し、健康な人を死なせ、罪人を改悛に導いて 義しい者とし、義人を罪にとどめ、貧しい人 たちを満ち足らせ、富める者たちを空腹のま ま に 放 っ て お く た め に 来 ら れ た の だ。(L.

235)

従って、キリスト教の本質は「相反するもの」か ら成る。それは見かけ上は折り合わないように見 える要素を折り合わせることである。いたるとこ ろに現れる両立しがたい現実を共存させる秘訣は ここにある。

相反するものの源泉。辱められた神、それも 十字架の死に至るまでも。イエス・キリスト の2つの本性。2度の来臨。人間の本性の二 つの状態。ご自分の死によって死にうち勝っ た救い主。(L.241)

これが原罪の奥義と密接に結びついた受肉と贖罪 の奥義なのである。矛盾はこうして解決される。

「信仰のすべてはイエス・キリストとアダムより 成り、道徳のすべては情欲と恩寵より成る。」(L.

226)この照応関係は、「相反するもの」の論理、

決まりきったものとは違う考え方をせざるを得な くさせる論理が現に存在することの証拠である。

これこそパスカルの弁証法の基礎である。

キリスト教の特徴であるこの光と闇との混合は、

5)かくして断章461を説明せねばならない。「この世は憐れみと裁きを実行するためにある。人間は神の御手から 出た状態にあるのではなく、神の敵としてこの世に存在する。この敵に対し、もし人間がご自身を求め、従い たいと思えば、神は恩寵によってご自分の元に戻れるに足る十分な光を、人間がこれを拒めば、罰するに足る 十分な光を与えておられる。」

第 91 号

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無神論者側の反論を引き出す。「だが、われわれ には何の光もない。」(L.244)と。実際は、無神 論者のいる闇もまた、キリスト教の真理を補足的 に証明するものなのである。キリスト教は完全に 隠れています神を告知するのであるから、彼らが 非難する光の無さも同時に表明済みだからであ る。この点に関してイエス・キリストは預言者が 告知するところと完全に一致する。

イエス・キリストについて預言者はどう言っ ているか?はっきり神だと言っているか?い や、だが彼はまさしく隠れたる神であって、

ひとに知られず、彼がそれだとは誰も思わ ず、躓きの石となって、多くのひとが彼に躓 く....と。(L.228)

自然においてと同様に旧約聖書にも、現に神より の曖昧さがあるとすれば、同じ曖昧さをパスカル はイエス・キリストにも見出す。

イエス・キリストは、悪人たちを盲目のまま に留め置くために、自分はナザレの出身では ないとも、ヨセフの息子ではないとも言われ ない。(L.233)

この件に関して、パスカルには新約・旧約聖書間 には根本的な違いはない。大多数の神学者は福音 書の明るさとモーセ律法の暗さを対立的に捉えて いるのだが。旧約の神と全く同様に、イエス・キ リストもある者たちを照らし、他の者たちを盲目 にしたいのである。

もしイエス・キリストが清めるためだけに来 られたとすれば、聖書全編も万物もそのこと を目指したであろうし、不信仰者を説き伏せ ることも容易であったろう。もしイエス・キ リストが盲目にするためだけに来られたので あれば、その行動は全くの混乱であり、われ われには不信仰者を説き伏せる手段が全くな いことになるであろう。しかし彼が来られた のは、イザヤも言っているように、「聖所と なり、躓きの石となるため」in sanctificaio- nem et in scandalumなのであるから、われ われには不信仰者を説き伏せることはできな いし、彼らもまたわれわれを説き伏せること はできないのである。しかしこの同じ理由か ら、われわれは不信仰者を説き伏せることが できる。イエス・キリストの行いにはどちら

の側にも確信を与えるものはないとわれわれ は言っているからである。(L.237)

これは恐ろしいテクストである。そのペシミスム は狭い意味でのジャンセニスム、カルヴィニスム と紙一重である。自分の誤りを認めさせることも できないまま、選ばれた者たちに受け入れられ、

説き伏せることのできない不信仰者には拒絶され るキリスト教のこうしたお定まりの表現は福音書 にも教会の伝道活動の正統的な見解にも反する。

しかもこれはおそらくパスカル思想の本意ではな いであろう。もし本当に不信仰者を説き伏せるこ とができないのなら、なぜパスカルは弁証論を書 くのであろうか?「説き伏せる」という語を知性 に対する理性活動という意味に限定して、このテ クストを極めて特殊な意味に理解するのでなけれ ば、われわれは彼らを説き伏せられないというこ とにはならないであろう。確かにパスカルは弁証 論において、説き伏せようと想うだけでは満足せ ず、説き伏せるための道具をすべて駆使してもい る。しかも宗教は理性を超えているのであるか ら、理性活動から洩れることはみな存在しないと はいえない。「理解できないことといえどもやは り存在するのだ。」(L.230)

隠れたる神のテーマは弁証論の争点になる。暗さ はキリスト教教義によって認められ、説明される 限り、キリスト教が真理であることの証拠となる からである。

神が自らを隠したいと思われたこと。

ひとつしか宗教がなかったならば、神は十 分明らかであったろう。

われわれの宗教にしか殉教者がいなかった としても同様であろう。

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな い。さらに、その理由を説明しない宗教は益 にならない。われわれの宗教はこれらをすべ て満たす。「まことにあなたは隠れています 神である。」(L.242)

宗教の暗さに対してリベルタンからの型どおりの 反論に答えたあと、パスカルはいくつかの古典的 な反論に対する答えを記している。奇跡にキリス ト教の証拠を認めず、別のところに奇跡を求める 者たちにパスカルはこう答える。「不信仰なのに

March

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もっとも信じやすい者たち、彼らはモーセの奇跡 は信じないが、ヴェスパシアヌスの奇跡は信じる のだ。」(L.224)神が宇宙を創造したことは認め ながら、復活や処女生誕の可能性を否定する者た ちには、彼はこう訊ねる。「人間や動物を最初に 創ることはそれらを再生するより難しいのだろう か?」(L.227)

律法は象徴的であること

弁証論に解釈学を適用する手法は、『律法は象徴 的であること』と題された綴りにおいて最も重要 な働きをなす。聖書の神は自らを隠すと同時に顕 わしもするのであるから、聖書においては暗さが 意味明瞭な章句と混じっていることになる。曖昧 な章句も、それらを真理の象徴と見なせば、その 意味がはっきりする。象徴をこのように用いるこ とは預言書には頻繁に見 ら れ る。『預 言 者 は 象 徴、帯、髭や焼けた毛髪等によって預言してい た。』(L.248)

聖書の見かけ上の矛盾はこんな具合に解決するこ とができる。矛盾する章句を一致させるひとつの 意味が見出せなければ聖書の意味を知ることはで きない。

われわれについても、相矛盾するところをす べて一致させてはじめて容貌をきちんと描き 出すことができる。矛盾するところは放って おいて、一致している特徴だけ取りあげれば 済むというわけにはいかない。作者のいわん とするところを理解するには、矛盾する章句 を全部一致させねばならない。

同様に、聖書を理解しようと思えば、矛盾 する章句がすべて一致する意味を知らねばな らない。いくつかの矛盾しない章句に当ては まる意味ではいけない。矛盾する章句全部を 一 致 さ せ る も の で な け れ ば な ら な い。(L.

257)

聖書の矛盾を解決するには、聖書をひとつのコー ド化されたメッセージと考える必要がある。「旧 約聖書は暗号である。」(L.276)テクストを検証 すれば、それを本当に文字通りに取っていいの か、それとも別の意味なのかが分かる。それで、

明らかに些細な文字上の均質性が欠けていること

から、聖書は本当はコード化されたメッセ−ジで あって、その名宛人のみがその本当の意味を知る ことができることがわかる。パスカルはこの均質 性の指標を直接聖書にも適用する。

馬鹿話をしている2人のうち、一方の話には 仲間うちでならわかる2つの意味が込められ ており、もうひとりの話にはそれだけの意味 しかない。さてここでこんな隠された事情を 知らない誰かが2人がこうして会話している のを聞くとすれば、どちらも同じだと思うか もしれない。だが、話の続きを聞いている と、ひとりは天使のようにすばらしいことを 言うのに、もうひとりはずっと平板で月並み なことしか言わないとすると、そのひとは、

ひとりは奥行きのある話ができるが、もうひ とりにはできない、ひとりはこんな馬鹿話に は向いてはいず、奥行きのある話ができるこ とをはっきり示したのに、もうひとりは奥行 きのある話などできず、馬鹿話専門のひとだ と判断するだろう。(L.276)

またしても別のやり方で、旧約聖書は暗号化され たメッセージとしての姿を露わにする。旧約は、

見たところは意味明瞭だが意味が隠されていると いわれるような明瞭さを持つテクストから成って いる。こうした矛盾は矛盾自身にだけメッセージ には暗号的性格があるということがわかればいい のである。聖書においては、明るさと暗さとが混 じり合っていいるのであるから、問題はどれが文 字通り解釈されるべきテクストか、どれが象徴と 見るべきテクストかということになる。当然各人 は自分の考え方に合う章句を文字通りに解釈する 傾向がある。それで、物質的幸福に惹かれる人た ちは現世的幸福あるいは物質的幸福の約束を文字 通りに解釈するのである。

ユダヤ人は象徴的なものを愛し、期待しすぎ たため、現実が預言された時と方法でやって 来たときそれとわからなかった。

ラビたちは花嫁の乳房を象徴ととらえた。

現世的幸福というただ1つの目的を言い表さ ないものをすべて象徴と取ったのである。

(L.270)

パスカルは、象徴にすぎないものを文字通り解釈 しないための暗号解読法を制定する。

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愛にまで達しないものはすべて象徴である。

聖書のただ1つの目標は愛である。

ただ1つの幸いに達しないものはすべてそ の象徴である。目標はただ1つなのだから、

適切な言葉でそこへ至らないものはすべて象 徴なのである。(L.270)

綴りの分類よりはるかあとに書かれたと見られる 断章において、パスカルは『なぜ象徴かの理由』

(L.502)を詳しく述べる。旧約聖書の曖昧な性 格は、イエス・キリストは紛れもなくメシアであ り救い主であることとともにこうしたテクストを 伝承してきた証人たちの確かさの証拠ともなる。

ユダヤ人は信用できる証人である。彼らはイエス

・キリストをメシアとは認めないにも関わらず、

注意深く預言を伝えてきたからである。預言は文 字通り「メシアを救済者、この国民が愛する肉的 幸福の分配者として告知している。」預言者の書 が全世界に広まったあと、ユダヤ人たちは『不名 誉でみじめなメシアの到来』に失望した。結局、

イエス・キリストを見捨て十字架に架けたのも、

預言のかたちでイエスこそ真のメシアであるとの 証言を残したのもこの同じ国民なのである。預言 が「彼は捨てられ、躓きとなるであろうと言って いる」のであるからそれだけ一層確かな証拠とい える。このユダヤ人の理屈に合わない態度は、預 言が2つの意味に取れるのでなかったならば、あ り得なかったであろう。

こうした理由で預言には、この国民が忌み 嫌った霊的な意味が、彼らが愛した肉的な意 味の下に隠されているのである。もしこの霊 的な意味が顕わであったなら、彼らはそれを 愛することはできなかったであろうし、そん なものには耐えられず、教典や儀式を守ろう との熱意も持てなかったであろう。しかし、

もし彼らがこの霊的な約束を愛し、メシアの 時までしっかり保っていたならば、彼らの証 言にはなんの力もなかったであろう。彼らは その約束を好ましく思っていただけなのだか ら。(L.502)

これは預言の意味がまったく曖昧だったからでは ない。確かに、いくつかの章句においては霊的な 意味は「現世的な意味の下に隠されてきた」が、

ある箇所では霊的な意味が疑いようもなくはっき

りと述べられているのである。

霊的な意味がこんなにもはっきり述べられて いるのであるから、このことがわからないの はその人が盲目だからにちがいない。肉が霊 を操り、霊が肉の奴隷となってしまっている からである。(L.502)

支離滅裂に見えるとしてもそれは見かけだけで、

象徴的な部分を字義通りに取り、明らかに霊的な 部分を具体的な意味に取ることによるものであ る。しかし前者の象徴の下に隠された霊的な意味 は後者と両立しうる。

霊的な意味は、ほとんどの箇所ではもうひと つの意味によって隠されてはいるが、稀にい くつかの箇所においては顕わになっている。

しかも、それが隠されている箇所が多義的で どちらにも取れる状態なのに対し、顕わに なっている箇所では一義的で、霊的な意味に しか取れないのである。(L.502)

ユダヤ人が預言に物質的な幸福の約束しか見な かったのは、彼らが肉的な国民だったからであ る。「彼らの強欲のために、それを地上の幸福の 意味に限定したのである。」「幸福は神にのみある と考えた」ユダヤ人たちにとっては「幸福とは神 以外よりのものではありえなかった。」肉的ユダ ヤ人と霊的ユダヤ人(こちらが、そうした呼び名 ができる前から、パスカルにとっては真のキリス ト教徒である)とを分かつものは、双方の意志が 相対立する2つの原理に依っていることである。

つまり人間の意志を分ける2つの原理がある のだ。強欲と愛がそれである。強欲が神への 信仰と、愛が地上の幸福と両立しないからで はなく、強欲が神を利用し、現世を楽しむの に 対 し、愛 は そ の 反 対 だ か ら で あ る。(L.

502)

ユダヤ人に見られる神への信仰と物質的幸福への 執着の矛盾はこんな風に説明される。旧約聖書は

「ある者たちを盲目にし、他の者たちを照らすよ うに」書かれているのであるから、ユダヤ人の教 義は真理でもあり、誤謬でもある。ユダヤ人が神 から受け取った目に見える幸福そのものが、そう 理解したひとの精神状態によって多義的な意味を 持ちうる。肉的なひとは幸福は自分自身の内にあ ると見なしたが、霊的なひとは逆に、「神より受

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け取った目に見える幸福があまりに大きく神々し いものであったので、神にはまた目に見えない幸 福や救い主をも与えてくださる力があるように思 えたのである。」具体的な解釈がすでに旧約聖書 にほのめかされている。

イザヤ51章は言う。贖罪は紅海を渡るような ものとなろう、と。

神はエジプトからの、紅海からの脱出のと き、王たちの敗北のとき、マナにおいて、ア ブラハムの系図において、救うことも天から パンを降らせることもできることを示され た。それで、この敵なる民も、自分たちの知 らない救い主ご自身の象徴とも似姿ともなる のである....

結局神は、こうしたものはすべて象徴にす ぎないこと、何が真の自由であるか、真のユ ダヤ人であるか、真の割礼、真の天よりのパ ン、....であるかをわれわれに教えてくだ さったのである。(L.503)

神が預言者を介して真の犠牲や真の割礼について 語るところは、古い律法に記された犠牲や割礼は キリスト教の先触れとなる象徴にほかならないと いうことである。すると旧約聖書の本当の意味 は、ユダヤ人が理解していた意味ではないという ことになる。彼らは矛盾をなくすことができな かったのであるから。

だから本当の意味はユダヤ人の考えた意味で はない。イエス・キリストにおいてすべての 矛盾が一致するのである。(L.257)

特に、パスカルは律法とそれが命じる犠牲につい ての聖書の矛盾にこだわる。

律法や犠牲が真理であれば、神の御旨にかな い、御旨にそむかぬものでなければならな い。それらが象徴ならば、御旨にかなうこと もあれば、そむくこともあるはずだ。

ところで、聖書全体を見ると、それらは御旨 にかなうこともあれば、そむくこともある。

律法は変わるであろう、犠牲は変わるであろ う、彼らには王もなく、君侯もなく、犠牲も なくなるであろう、新しい契約が結ばれるで あろう、律法は更新されるであろう、彼らが 受けた教えは良くない、犠牲は忌まわしい、

神はこのようなものは求められなかった、と

書かれている。(L.259)

もしこうした二種類の断言間の矛盾を解決しよう とすれば、律法や契約や犠牲を二重の意味に解さ ねばならない。これら自体はそのあるがままの状 態では、神の眼から見て真理としての価値はな い。これらの犠牲は神が望まれたものではないか らであり、律法は神の真の御旨にかなう永続的な 律法ではなく、契約も最終的な契約ではない。し かし、これらを単にあるがままに検証するだけで はなく、そこに真の犠牲、真の律法、真に永遠的 な契約の象徴を看て取る必要がある。あるがまま では、これらは神の御旨にそむき、消滅すべき運 命にある。しかしそれらが象徴する現実は神の御 旨にかなう、永遠の現実である。つまり、モーセ の律法はそれ自体価値はなく、象徴として、キリ スト教の前触れ・証拠としての価値しかないので ある。

聖書がユダヤ人の敵について語るとき、そこに 象徴をも看て取らねばならない。最高善を物質 的、肉的現実に求める人たちにとって、敵という 語は敵対する民族以外の意味をもたない。ユダヤ 人は彼らと領土を争い、彼らを奴隷化するのであ る。しかしこれらの敵は本当の敵の象徴にすぎな いのである。

人間を敵からではなく神から遠ざける欲望の ほかに人間の敵はなく、幸いは肥えた土地な どではなく神を措いてはないことがよくわ かっている人たちがいる。人間の幸福は肉に あり、人間をこの感覚的快楽から遠ざけるも のが悪だと思っている人たちは、それに満ち 足り、そこでくたばるがいい。しかし心から 神を求める人たち、神の姿が見えなくなるこ とを悲しみ、神をしっかり掴むことのみに喜 びを覚え、自分を神から遠ざけようとする者 を敵と見なし、こうした敵に囲まれ、支配さ れていることを嘆く人たちは慰められんこと を。わたしは彼らに喜ばしいおとずれを告げ よう。この人たちのために救い主がいますの である、と。(L.269)

しかも、肉的な先入観から解放された精神で聖書 を検証するひとにとっては、実際には両義性はな い。というのは、多義的な章句の解釈も完全に明 瞭な他の章句から自然と引き出されるからである。

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確かに敵という語は二つの意味に取れる。し かしダビデが現に別のところで、救い主はご 自分の民をその罪から解き放つとイザヤや他 の人たち同様に言っているとしたら、敵とい う語に2つの意味はなくなり、不義というた だ1つの意味しかないことになる。なぜな ら、彼が心に罪を抱いていれば、それを敵と 表現することもできたが、実際に敵を想定し ていたのであれば、不義という語で敵を指す ことはできなかったであろうから。(L.269)

初期キリスト教以来、聖書のさまざまな意味を確 定、探求する長い伝統が神学や解釈学にはある。

パスカルの独創性はこのややこしい意味体系を簡 略化したことである。彼は字義通りの意味と本当 の意味しか残さなかったし、比喩や寓意的解釈に 属するものを別扱いしなかった。まるで人間であ るかのように神の行動を述べる表現法も、パスカ ルにとっては基本的には比喩を用いるケースに該 当する。

真正な神の言葉は、字義的には間違っていて も、霊 的 に は 正 し い。Sede a dextris meis.

「わたしの右に座していなさい。」これは字義 的には間違っている、だから霊的には正 しい。

こうした表現においては、神は人間のよう に語られる。これは、人間が自分の右に誰か を座らせるときに抱く気持ちを神もお持ちに なるであろうということにほかならない。だ からこれは神の気持ちを示すしるしであっ て、その実行法ではない。

同様に、神が「わたしはお前たちの捧げる 香りを嗅ぎ、報酬として肥えた土地をお前た ちに与えるであろう。」と言われるのは、香 りを受け入れ、その報酬として肥えた土地を あなたがたに与える人間が持つのと同じ気持 ちを神もあなたがたに対して持たれるであろ うということにほかならない。というのは、

人間が香りを捧げてくれるひとに対して持つ のとおなじ気持ちを神に対してもあなたがた は持ったからである。(L.272)

したがって、神は自らを隠す、それも神を心から 求める努力をする人たちにはご自分を発見できる ようなやり方で。

最初の来臨はあからさまに予言されていた。

2度目の来臨は全く予言されなかった。とい うのは、最初は隠されていなければならな かったが、2度目は誰の目にも明らかで、敵 さえもそれと見分けられねばならなかったか らである。しかし彼は人知れず来られ、聖書 を探る人たちにのみ認められねばならなかっ た。(L.261)

ラビの教え

『ラビの教え』と題された次の綴りには2つしか 断章が入っていない。しかし、パスカルの弁証論 的推論のこの段階の地位を決定するにはこれで十 分である。聖書の説明法を述べたあと、彼は自分 の解釈に合う議論を『タルムード』のなかに探し 始める。彼がキリスト教に当てはまる要素をユダ ヤの伝統に求めるのは、ラビたちがわれ知らずに キリスト教の真理の証人となっていると彼は考え るからである。ラビたちの善意については疑いの 余地はない。彼らはキリスト教の利益になること を語るつもりは全くないからである。パスカル は、キリスト教に当てはまる原罪とその結果を述 べた『タルムード』のテクストをいくつか書き出 している。ラビたちの象徴的解釈は、引用された 章句においてはパスカルの方法に非常に近い。

この綴りの材料はすべて、ドミニコ会士レイモ ン・マルタンの『ユダヤ人とモール人に対する信 仰 の 剣(プ ギ オ・フ ィ デ イ)』Pugio fidei adver- sus Judaeos et Maurosとジョゼフ・ド・ヴォワザ ンがタルムードとは何かを説明した長い前書きか ら、パスカル自身が抜き出したものである。『信 仰の剣』は1278年に書かれ、アントワーヌ・アル ノーの友人のジョゼフ・ド・ヴォワザンによって 1651年に出版された。出版の年に注目すると、弁 証論の最新の補強装具の1つということになる。

ヘブル語のテクストが付けられた『信仰の剣』の 極めて専門的な性格にも関わらず、そのラテン訳 からパスカルは自分の論証に役立つどんな議論も 逃すまいと思っていたことは確かだ。この綴りに 収められた2つの断章にはそれ自体ごく限られた 関心しか認められないとしても、自分の計画に役

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立ちうるものはなにひとつ落とすまいとのパスカ ルの意図の証明となるという意味がある。言うな れば、これは弁証家としての職業的良心の証と言 えよう。

永 続 性

キリスト教は聖書というテクストに基づく宗教で ある。それはまた人類の歴史に記述された宗教で あり、人類の歴史の本質とさえ言えるものであ る。パスカルは『永続性』と題された綴りでこう した見方を取り上げる。よく考えてみると、これ は逆説的な題である。キリスト教はその始まりが 歴史の一時点に記されている宗教である。これに 対し、永続性について語ることは、この宗教には 始まりがない、あるいは少なくとも歴史とともに 始まったということを断定することにはならない であろうか?幸いにもパスカルは『永続性』にど んな意味を込めたのかを明らかにしている。「救 い主はずっと信じられてきた。」(l.282)パスカ ルがキリスト教の本質とみなすことを信じる人た ちが歴史を通して常にいたということである。

この宗教は、人間が栄光の状態、神との交わ りのできる状態から悲哀、悔悛、神との離反 の状態に堕落したこと、しかし一生が終われ ば、われわれは来るべき救い主によって始め の状態に戻されることを信じるところに成り 立つ。このような宗教がずっと地上に存在し 続けてきたのである。(L.281)

ここにもまた、パスカルが宗教の真理のうちで原 罪のドグマを最重要視していることが見て取れ る。彼はその説明を人間の条件に求めた。これを 弁証論の要とし、その周りに人間学から神学への 移行過程を配置する。神学部分そのものは、全編 がこのドグマに浸されている。至るところでパス カルは原罪とその結果たる情欲に言及する。した がって、『ラビの教え』の綴りにおいてと同様、

『永続性』の綴りにおいても原罪の伝統に筆が及 ぶのに驚く必要はない。

永続性という概念自体からもユダヤ教とキリス ト教の連続性が予想される。こうしてわれわれは 2つの相反する事柄を前にしている。ユダヤ教と キリスト教の対立と2つの宗教がほとんど同じも

のになってしまうほどの連続性の問題である。パ スカルはユダヤ人を肉的な者と霊的な者に分ける ことによってこの困難を解決する。まず彼はこの 区別があらゆる宗教に当てはまることを確認す る。

どの宗教にもいる2種類の人間。

異教においては、獣を崇める者たちと自然 宗教における唯一神を崇める者たちがいる。

ユダヤ人には、肉的なユダヤ人と古い律法 におけるキリスト教徒たる霊的なユダヤ人た ち。

キリスト教徒においては、新しい律法にお けるユダヤ人たる卑しい人たち。

肉のユダヤ人は肉の救い主を待ち望み、卑 しいキリスト教徒は救い主によって神を愛さ ずに済むと考えた。真のユダヤ人と真のキリ スト教徒は神を愛せずにはいられなくする救 い主を崇める。(L.286)

神を正しく崇める異教徒のなかに、パスカルはお そらくプラトンを含めるであろう。「キリスト教 への準備としてのプラトン」(L.612)この点で は、彼はただ教父たちの伝統に従うだけである。

『真 の 宗 教 に つ い て』De vera religioneの 冒 頭 で、聖アウグスチヌスはプラトンを異教の哲学者 とは別扱いしている。肉的なユダヤ人と霊的なユ ダヤ人とを対立させることはすでに、『律法は象 徴的であること』の綴りにおいても重要な役割を 果たしている。卑しいキリスト教徒と真のキリス ト教徒を対立させることについては、『プロヴァ ンシャル』論争のこだまが感じられる。卑しいキ リスト教徒とは、良心問題判例学者が緩めたモラ ルの教えに従って行動する者たちのことである。

『プロヴァンシャル第9の手紙』において、パス カルは良心問題判例学者たちが厳しく神への愛を 求めず、救いを保証するだけの安易な信心にすり 替えたことを非難した。「どの宗教にもいる2種 類の人間」を区別することは、弁証論の結末の利 害に大いに関係するある原理が関係している。卑 しいキリスト教徒と真のキリスト教徒という2種 類のキリスト教徒を分けるとしても、前者の行動 から導き出される議論には何らの価値もない。

「われわれの宗教は福音書や使徒たちや伝統にお いては神よりのものであるが、間違って解釈する

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者たちにおいては滑稽なものとなる。」(L.287)

肉的なユダヤ人と肉的なキリスト教徒の間にはあ る種の類似性があるが、霊的なユダヤ人と真のキ リスト教徒の間には全く違いはない。

肉のユダヤ人にとっては、救い主はこの世の 王族でなければならない。肉のキリスト教徒 にとってイエス・キリストは、われわれが神 を愛さなくても済むように、当のわれわれに は関係なく万事を好都合に運ぶ秘跡を授けに やって来たのである。この2つはキリスト教 でもなければユダヤ教でもない。

真のユダヤ人と真のキリスト教徒は、神を愛 さずにはいられなくし、この愛ゆえに敵に勝 利させてくださる救い主をずっと待ち望んで きた。(L.287)

こう分けることによって、パスカルは異教徒・ユ ダヤ人・キリスト教徒という伝統的3分法を、彼 の気質にはるかに合う2項対立に置き換えること ができた。異教徒がいて、キリスト教徒がいる。

正反対のこれら2極を関数として、われわれはユ ダヤ人を位置づけることが出来るのである。

肉のユダヤ人はキリスト教徒と異教徒との中 間を占める。異教徒は神を知らず、この世し か愛さない。ユダヤ人は真の神を知ってい て、この世しか愛さない。キリスト教徒は真 の神を知っており、この世を全然愛さない。

ユダヤ人と異教徒とは同じ幸福を愛し、ユダ ヤ人とキリスト教徒とは同じ神を知ってい る。

ユダヤ人に2種類あった。一方は異教的な 感情しか持っておらず、他方はキリスト教的 な感情を持っていた。(L.289)

もし霊的ユダヤ人をキリスト教徒と見なすなら、

初期の人類を動転させたあらゆる無秩序にもかか わらず、この世の原初期からずっとキリスト教徒 が実在したことになる。

しかしながら、エノク、レメクやそのほかの 者たちのような聖人が、この世の始めから約 束されていたキリストを忍耐強く待ち望んで いたのである。(L.281)

パスカルはまたノアも引きあいに出し、彼の中に 救い主やアブラハム、イサク、ヤコブの姿を認め

る。エジプト人の偶像崇拝がユダヤ民族に広く蔓 延していたが、「モーセやそのほかの人たち」は

「多くのユダヤ人には見えない方を見、崇め、そ の方が備えられる永遠の賜物に注目していた。」

(L.281)ギリシャ人とローマ人の偽神、異教徒 の詩人たちの種々雑多な神学、無数の哲学学派 も、「ユダヤの地のただ中に、自分たちしか知ら ない救い主の到来を予言する選ばれた人々」が絶 えることなく存在するのを阻むことはできなかっ た。分裂、異端、政治的転覆、教会に加えられた あらゆる迫害もキリスト教教義に対する信仰を滅 ぼすことはできなかった。教会の存続もキリスト 教の永続性の一部である。確かにこれも伝統的な 弁証論に馴染みのテーマであるが、パスカルは世 界歴史という全体的な視野に組み込むことで、こ れに意義ある重要性を与えた。彼は教会がその法 を変えることなく、歴史を通じて保たれてきた事 実に逆説を見る。

なぜなら驚くべきことは、教会が圧制者の意 向に揺れたり、膝を屈めたりせずに存続して きたことである。必要に応じて、時には法を 手直ししたりすれば、ある状態が存続するこ と は 珍 し い こ と で は な い か ら で あ る。(L.

281)

こうして、政治の規範を基準にすれば、キリスト 教会の永続性はまことに逆説である。人間が絶え ず求めてきたものと教会が教えてきた真理の間の 対立を考慮すれば、教会はなお一層逆説的であろ う。

自然や常識やわれわれの欲望に反する宗教だ けがずっと続いてきたただ1つの宗教なので ある。(L.284)

モーセの証拠

こうした歴史的な視点は、『モーセの証拠』と題 された綴りにおいても支配的である。パスカルは この綴りで、創世記に収められた世界歴史の始ま りの物語の信憑性を証明しようとした。モーセを 信頼に価する語り手とするもの、それは世界が出 来てから彼までの少数の世代である。「というの は、ものごとが曖昧になるのは長時間が経過した からというよりも、その間の世代数の多さによる

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のであるから。」(L.292)「族長たちの寿命の長 さこそ」物語の信憑性の最良の保証である。長く 生きていれば、人類の起源について族長たちが知 るところをほぼ完全に子孫に伝えることができる からである。

先祖の話をあまりよく知らないことがあるの は、先祖と同時代にわれわれが暮らすことは ほとんどないこと、先祖はわれわれが分別の つく年齢に達する前に死んでいることが多い からである。ところで、ひとが長生きだった 時代には、子供たちも自分の親と長く暮らす ことができた。子供は親と長い時間語り合う ことができたのである ところで、彼らはど んなことを語り合ったのであろうか。先祖の 話以外考えられない。どんな話も結局はその 話に行き着くものだから...(L.290)

モーセが語る物語の真実性の論証をパスカルはこ の議論からはじめる。

セムはレメクを見たことがあり、レメクはア ダムを見たことがある。セムはまたヤコブも 見たことがあり、ヤコブはモーセを見たこと がある人たちを見たことがある。したがっ て、洪水物語も創造物語も真理である。(L.

296)

パスカルの弁証論の立論の中で、われわれがもっ とも弱いと感じるのはこの部分である。しかし、

彼はリシャール・シモンぐらいしか先行者のいな い、発達というにはまことにお粗末な注釈書しか 利用できなかったことを考慮すべきであろう。し かも彼がこのテーマに賭けた思いとは裏腹に、こ の部分の立論にパスカルは満足してはいないよう な印象を受ける。この綴りにはモーセには関係の ない断章が1つ含まれている。しかしこれはパス カルがキリスト教について抱く観念をさらによく 教えてくれる断章なのである。

この宗教は神聖にして、純粋、非のうちどこ ろのない奇跡において、博識にして偉大な証 人や殉教者....においてもかくも偉大であっ た。しかしこの宗教はこれらをみな捨て去 り、知恵もしるしもなく、ただ十字架と狂気 しかないと言う。

なぜなら、こうしたしるしや知恵によって あなたがたの信頼を得た人たち、それらがど

んなものかをあなたがたに証明した人たち が、こんなものでわれわれは変わったり、神 を知ったり、愛したりはできない、ただ、知 恵もなくしるしもない十字架の狂気の力だけ がそれをなし得る、この力を持たないしるし には何事もなし得ない、とあなたがたに宣告 する。

こうしてわれわれの宗教は、有効な出発点 においては愚かであるが、そこへ導く知恵に おいては賢明である。(L.291)

すると、弁証論の道筋に導かれるこうした知的な 作業全体が、ある意味で、無駄に見える。しか し、ことの本質はほかにある。キリスト教とその 有効性は知性を満足させることではなく、人間が 神となり、十字架上で死ぬという、人間知性に とっては理解しがたいパラドクッスにあるのだ。

ここに弁証論の限界がある。弁証論は回心のため の準備、心からの回心があとに続かなければ、無 駄になってしまう準備にほかならないのである。

イエス・キリストの証拠

『モーセの証拠』の綴りで展開された議論がなお 萌芽的なものに留まるのに対し、次の『イエス・

キリストの証拠』の綴りにおいては、それらの テーマが豊かに繰り広げられている。論証には世 界観とともに聖書の綿密な考証ならびに世界を段 階的にとらえる見方が一緒くたに入れられてい る。イエス・キリストの神性と福音書の真実性と は、まずユダヤ人の歴史によって証明される。

シナゴーグは教会に先立ち、ユダヤ人はキリ スト教徒に先立つ。預言者はキリスト教徒を 予言した。聖ヨハネはイエス・キリストを予 言した。(L.319)

キリスト教の到来と教会が人間の歴史を変革した そのやり方はもう1つの証拠となる。

全国民は不実と情欲に浸されていた。そのと き全地に愛が燃え上がった。王侯たちは恵ま れたその境遇を捨て、娘たちは殉教へと赴 く。この力はどこから来るのか。救い主が来 られたからだ。これこそ救い主が来られたこ との結果であり、しるしなのだ。(L.301)

教会の歴史それ自体がまた別の証拠となる。「異

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