ア レ ク サ ン デ ル 三 世 期 に お け る 婚 姻 法
⎜
⎜
一 一七 七 年六 月三
〇日 付 ファ ウン テン 修道 院 長お よび マギ ス テル
・ヴ ァカ リ ウス 宛教 令を て がか りと して
⎜
⎜
直 江 眞 一
は じめ に 一 研 究 史概 観 二 一 一 七七 年 六 月三
〇 日付 教 令
︵一
︶ 刊本
︵二
︶ 事実 関 係
︵三
︶ 婚姻 成 立 要件 と して の 合意 と 同衾
︵四
︶ 教令 集 に おけ る 位置
︵五
︶ ヴァ カ リ ウス の
﹃婚 姻 論﹄ と の関 係 お わり に
(81‑3‑ ) 283 129
は じ め に
ロー マ教 皇グ レ ゴリ ウス 九世
︵ 在位 一二 二七
⎜ 四一 年︶ によ っ て一 二三 四年 に 公布 さ れた 教皇 庁公 認 の教 令集
﹃グ レ ゴ リウ ス九 世教 皇 令集
﹄Liber Decretalium extra Decretum vagantium
;
Liber Extra;
X︶の 第四 篇︵
L ib er Q u a rt u s
︶ に は︑ 婚 姻 法 関 係 の 教 令 全 二 一 章︵
T it u lu s
︶一 六 六 条︵
C a p it u lu m
︶が 収 録 さ れ て い る1
︒︶
こ こ に は 婚 姻 障 碍
︵
im p ed im en tu m
︶︑ 婚姻 準正
︵
le g it im a tio p er s u b se q u en s m a tr im o n iu m
︶︑ 離婚
︵
d iv o rt iu m
︶︑ 嫁資
︵
d o s
︶等 の重 要 事 項に 関す る教 令 も含 まれ てい る が︑ 最も 重視 さ れる のは 婚姻 成 立要 件に 関す る それ で あろ う︒ 教父 時代 以来
︑ 婚姻 成立 要件 と して 議論 され てき た 主た る要 素は 合意
︵
co n se n su s
︶と 同 衾︵
co p u la
︶ であ っ た︒ 一 二 紀中 葉以 降︑ 一 方で 神学 者ペ ト ルス
・ロ ンバ ル ドゥ スに 代表 さ れる パリ 学派 が 当事 者 の合 意を 強調 し
︑他 方で 教会 法 学 者グ ラー ティ ア ーヌ スに 代表 さ れる ボロ ーニ ャ 学派 が合 意に 加 えて 同衾 も重 視 する 中
︑ロ ーマ 教会 は 最終 的に パリ 学 派 の説 を採 用し
︑ しか し同 時に
︑ ボロ ーニ ャ学 派 の説 も考 慮に 入 れた 法理 論を 形 成す る に至 る︒ その 結 果︑ 現在 形を 用 い ての 婚約
︵
sp o n sa lia p er v er b a d e p ra es en ti
︶と 未 来形 を 用い ての 婚約
︵
sp o n sa lia p er v er b a d e fu tu ro
︶ を区 別 し︑ 両 者に 別々 の法 的 効果 を与 える と いう 高度 に技 巧 的な 法理 論が 生 み出 され るこ と にな っ た︒ すな わち
︑ 現在 形に よる 婚 約 はそ れだ けで 解 消不 能な 絆を 形 成す るの に対 し て︑ 未 来形 の場 合 には 同衾 を伴 う必 要が あ ると いう わけ であ る︒
﹃グ レ ゴリ ウス 九世 教 皇令 集﹄ 第四 篇 第一 章﹁ 婚約 お よび 婚姻 につ い て﹂
D e sp o n sa lib u s et m a tr im o n iis
︶に 収録 され た 関 連条 文 の標 題に おい て︑ こ の こと を確 認し てみ るな ら ば︑ 以 下の 通り であ る︒ 教令 の差 出人 はア レ クサ ン デ ル三 世
︵在 位 一一 五九
⎜八 一 年︶
︑ イン ノ ケン チウ ス三 世
︵在 位一 一九 八
⎜一 二一 六年
︶ とグ レ ゴリ ウス 九世 で ある
︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 婚約 者双 方 が解 消す ると き は︑ 誓約 され て いた とし ても 解 消さ れる
﹂ アレ ク サン デル 三世 よ り エク セタ ー司 教 宛2
︶︶
︒
(法政研究 81‑3‑130 284)
未 来形 で婚 約し た 男性 が同 衾の 前 に遠 方の 地に 移 るの であ れ ば︑ 婚 約し た女 性は 自 由に 他の 男性 と契 約 する
︵ 以下 略
︶﹂ アレ クサ ン デル 三世 より パ レル モ大 司教 宛3
︶︶
︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 同衾 を伴 っ たと きは
︑現 在 形に よ る 婚約 によ り解 消さ れな い︒ その 他の 場合 には 現 在形 によ る 婚約 が拘 束力 を もつ
︵以 下略
︶﹂ アレ ク サン デ ル三 世よ りノ リ ッジ 司教 宛4
︶︶
︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 誓約 され て いた と して も︑ そ れよ り 後の 現在 形に よる 婚 約に よっ て 解消 され る︒ しか し︑ そ れ より 後の 婚約 が 未来 形で あっ た ので あれ ば︑ そ うで はな い﹂
イン ノケ ンチ ウス 三 世よ りフ ェレ ン チノ 司教 宛5
︶︶
︒ 未 来形 によ る 婚約 は︑ そ れに 続く 同 衾に よっ て 婚姻 に移 行 する
︵ 以下 略︶
﹂︵ グ レゴ リ ウス 九 世 より ク レ モ ナ司 教 宛6
︶︶
︒ 現 在形 によ る婚 約 は︑ これ より 後 の婚 姻 によ って 解 消さ れ ない
︒ 後者 が同 衾に よっ て完 成さ れて いた と して も︒ し か し︑ 未来 形に よ る婚 約は
︑た と え誓 約さ れて いた とし ても
︑こ れ に 続く 現在 形に よる 婚 約に よっ て 解消 され る﹂
グ レ ゴリ ウス 九世7
︶︶
︒ 最後 の教 令に お いて は︑ 現在 形 と未 来形 の具 体 的な 表現 が例 示 され てい る︑ す なわ ち
︑現 在形 とは
﹁ 私は あな たを 迎 え て私 の妻 とす る
﹂
eg o te in m ea m a cc ip io
︶︑ ある いは
﹁ 私は あな たを 迎 えて 私の 夫と す る﹂
eg o te a cc ip io in m eu m
︶で あ り︑ 未来 形と は
﹁私 は あな たを 妻と し て受 け入 れよ う
﹂
eg o te r ec ip ia m in m ea m
︶︑ あ るい は﹁ 私は あ な たを 夫と して 受 け入 れよ う﹂
eg o te
︹
re ci p ia m
︺
in m eu m
︶で ある
︒ とこ ろで
︑こ の よう な時 制の 区 別に 基づ く婚 姻 成立 要件 論に 対 して
︑か つて メ イト ラ ンド は次 のよ う に述 べて
︑こ れ を 痛烈 に揶 揄し た
︒ これ は人 智の 傑 作な ど とい うわ けに は 決し てい かな かっ た
︒世 界の あら ゆる 人々 の 中 で︑ 恋 人達 が 現在 形と 未来 形 を正 確に 区別 す るこ とな ど最 も あり そう にな い こと だか らで あ る﹂
︑と8
︒︶
本稿 は︑ この よ うな メイ トラ ン ドの 素朴 な疑 問 を出 発点 とし て
︑婚 姻成 立要 件 とし て の合 意と 同衾 の 関係 につ いて
︑
(81‑3‑ ) 285 131
一 二世 紀後 半︑ ア レク サン デル 三 世期 にお ける 法 実務 に目 を向 け て再 検討 を試 み るも の であ る︒ 具体 的 には
︑シ トー 派 フ ァウ ンテ ン修 道 院長 と 註釈 学者 ヴァ カ リウ ス︵
M a g is te r V a ca ri u s
︶ に宛 てら れ た一 一七 七年 六月 三〇 日 付の 教令
︵Significavit nobis O
︶を てが か りと して
︑合 意 と同 衾の 関係 に つい ての アレ ク サン デ ル三 世の 考え 方 の一 端を 明ら か に する こと を目 的 とす る︒ 本件 に注 目す る 理由 の 一つ は︑ ヴァ カリ ウス が 教皇 受任 裁判 官︵
d el eg a tu s
︶と し て 関与 して いる こと に ある
︒ 別稿 に おい て明 らか に した よう に︑ ヴ ァカ リウ スは ボ ロー ニャ でロ ー マ法 を学 んだ 後
︑一 一 四〇 年代 にイ ン グラ ンド に渡 っ た 註釈 学者 であ る
︒註 釈書
﹃貧 し き法 学徒 の書
﹄Liber Pauperum
︶を 著 した 後
︑一 一 六〇 年代 以降 は ヨー ク大 司教 管 区
⎜⎜ ファ ウン テ ン修 道院 もこ こ に含 まれ る⎜
⎜ にお いて 教会 の 実務 活動 に携 わ って い た9
︒︶
教皇 受任 裁 判官 とし ての そ の 活動 も明 らか に され てき てい る10
︒︶
さら に
︑こ れ も別 稿で 詳し く 検討 した とこ ろ であ る が︑ ヴァ カリ ウ スは 一一 五六 年 頃 に﹃ 婚姻 論﹄
Summa de Matrimonio
︶を 執 筆し て おり
︑そ こで は 婚姻 成立 要件 を 男女 の相 互の 引 渡︵
tr a d it io
︶に 求 める とい う︑ ボ ロー ニャ 学派 と もパ リ学 派と も 異な る第 三の 説 が展 開さ れて い る11
︒︶
こ のこ とと 教皇 受 任裁 判官 への 任 命 との 間に 関係 が ある のか どう か とい う点 も興 味 を引 く︒ 次に 本稿 にお け る検 討方 法に つ いて 述べ てお く
︒史 料分 析に あ たっ ては
﹃グ レ ゴリ ウ ス九 世教 皇令 集
﹄お よび それ 以 前 に作 成 され た﹃ 旧 五法 令集
﹄Compilationes
12︶
antiquae
︶よ り も さら に遡 る時 期に イ ング ラン ドで 収集 さ れた 初期 の 教 令集 成に 注目 す る︒ 教令 集の 作 成過 程に おい て は︑ 具体 的事 例 から 法命 題を 取 り出 す にあ たっ て抽 象 化が おこ なわ れ
︑ 歴 史的 コン テク ス トが 失わ れる 可 能性 が否 定で き ない13
︒︶
こ れに 対 して
︑こ れら 初 期の 教 令集 成は
﹃グ レ ゴリ ウス 九世 教 皇 令集
﹄に 向け て 教会 法学 者達 に よっ て婚 姻法 が 学問 的に 精緻 化 され てい く前 段 階に お いて
︑ア レク サ ンデ ル三 世時 代 の 法を 直接 反映 す るも のと 考え ら れる から であ る
︒ 以上 のよ うな 問 題意 識と 方法 の 下に 一一 七七 年 六月 三〇 日付 ア レク サン デル 三 世の 教 令の 検討 を行 う が︑ その 前に
︑
(法政研究 81‑3‑132 286)
婚 姻法 の発 展に 占 める アレ クサ ン デル 三世 期の 位 置を めぐ る研 究 史を 概観 して お く必 要 があ ろう
︒ 1
︶Friedberg,A.,Corpus Iuris Canonici,Pars Secunda,1881,cols.661732.
2
︶X 4,1,2:Sponsalia de futuro dissolvuntur,si sponsi se dissolvunt,etiamsi fuerint iurata.
この 教 令は
︑ 以下 の 教 令集 に 収 録 され て い る︒Regesta Pontificum Romanorum,ed.by P.Jaffeand S.Loewenfeld et al.,188588
︵ 以 下︑JL と 略 13903;Holtzmann,W.,Regesta Decretalium Saeculi XII 記︶,no.
︵ 以 下︑ 引 用に あ たっ て は︑ 二
〇 一二 年 五月 に ウェ ブ 上で 公 開 され て い るWalter Holtzmann Card File,Stephan Kuttner Institute of Medieval Canon Law
に より
︑WH
と 略記
︶,no.1013.
A
・ ダ ガ ンに よ れ ば︑ こ の教 令 はフ リ ード ベ ル ク版 に おい て はイ ン ノケ ン チ ウス 三 世に 帰 せら れ てい る が
︑ア レ クサ ン デル 三 世 が 一 一 六 四 年一 一 月 にサ ン スで 出 した も ので あ る in Angevin England,Anglo-Norman Studies,XXXIII,2011,p.9 and n.45 ︵Duggan,A.J.,The Effect of Alexander IIIʼsʻRules on the Formation of Marriageʼ
︶︒ なお
︑﹃ グ レ ゴ リウ ス 九世 教 皇令 集
﹄第 四 篇 第一 章 の 多 くの 条 文 につ い ては
︑ 久保 正 幡先 生 還 暦記 念 出 版 準 備 会 編﹃ 西 洋 法 制 史 料 選
Ⅱ 中 世﹄
︑ 一 九 七 八 年︑ 三 二
〇 頁 以 下 に 翻 訳 が あ り︑ 参 考 にし た
︒ 3
︶X 4,1,5:Si sponsus de futuro ante copulam ad remota se transfert,sponsa libere cum alio contrahit. 4 praesenti. ︶X 4,1,15:Sponsalia de fururo,si secuta est copula,non solvuntur per sponsalia de praesenti,alias tenent sponsalia de
Ch・ ド ナヒ ュ ーに よ れ ば︑ こ のよ く 知ら れ た教 令 は アレ ク サン デ ル治 世 後期 の 一 一七 六 年か ら 八一 年 の間 に 出 され て お り
︵Donahue,Ch.Jr.,The Dating of Alexander the Thirdʼs Marriage Decretals:Dauvillier Revisited after Fifty Years,
Zeitschrift der SavignyStiftung fur Rechtsgeschichte,Kanonistische Abteilung,68,1982,p.100
︶︑ パ ヴィ ア 司教 宛 とさ れ る
︵do.,
The Policy of Alexander the Thirdʼs Consent Theory of Marriage,Monumenta Iuris Canonici,series C:Subsidia,vol.5,1976,
p.251
︶︒ しか し
︑W
・ホ ルツ マ ンに よ れば
︑ 名宛 人 は ノリ ッ ジ司 教 であ る
︵WH 1071
︶︒ この 時 期の ノ リッ ジ 司教 は ジ ョン
・オ ヴ・ オ ック ス フ ォー ド であ る
︵Handbook of British Chronology,ed.by E.B.Fryde et al.,3ed.,1986,p.261
︶︒ な お︑ 省 略 した 部 分 の 解釈 に つ いて は
︑本 稿
﹁お わ りに
﹂ 註 3
︶を 参照
︒ 5 futuro. ︶X 4,1,22:Sponsalia de futuro,etiam iurata solvuntur per secunda sponsalia de praesenti,non autem per secunda de 6
︶X 4,1,30:Sponsalia de futuro transeunt in matrimonium per carnalem copulam subsecutam. 7
︶X 4,1,31:Sponsalia de praesenti non solvuntur per sequens matrimonium,etiam carnali copula consummatum,sed
(81‑3‑ ) 287 133
sponsalia de futuro etiam iurata solvuntur per sequentia de praesenti.
8
︶Pollock,F&F.W.Maitland,The History of English Law before the Time of Edward I,2ed.,1898,vo
l.Ⅱ,pp.368369.
9
︶ 直 江 眞 一﹁ 一 二世 紀 イン グ ラン ド の 学識 層 につ い て⎜
⎜ コモ ン
・ ロー の 形成 と 学識 法 覚書
⎜
⎜
﹂︑
﹃ 法 学﹄ 四 八
⎜五
︑ 一 九 八 四 年
︑五 三 頁 以下
︒ 10 and Compilers in the Earlier Middle Ages,ed.by M.Brett&K.G.Cushing,2009,pp.174f. Origins of Legal Science in England in the Twelfth Century:Lincoln,Oxford and the Career of Vacarius,in Readers,Texts Literature:Essays presented to Richard William Hunt,ed.by J.J.G.Alexander&M.T.Gibson,1976,p.285;Landau,P.,The ︶Southern,R.W.,Master Vacarius and the Beginning of an English Academic Tradition,in Medieval Learning and
11
︶ 直 江
﹁ ヴァ カ リウ ス の婚 姻 論﹂
︑﹃ 法 学﹄ 六 三⎜ 六
︑二
〇
〇〇 年
︑ 一一 一 頁以 下
︒ 12
︶
﹃旧 五 法令 集
﹄と は
︑ 一一 九
〇/ 九 一年 か ら一 二 二 六年 の 間 に 教 会 法 学 者 達 に よっ て 相 次 い で 収 集 さ れ た五 つ の 教 皇 令 集
︑ す な わち ベ ル ナル ド ゥス
︵Bernardus Papiensis
︶ 編 の﹃ 第 一法 令 集
﹄Compilatio prima
︶︑ ヨハ ン ネス
︵Johannes Galensis
︶ 編 の
﹃ 第 二法 令 集﹄
Compilatio secunda
︶︑ ペ ト ル ス︵
Petrus Beneventanus
︶ に よる
﹃ 第三 法 令集
﹄Compilatio tertia
︶︑ ヨ ハン ネ ス
︵Johannes Teutonicus
︶ に よ る﹃ 第 四 法 令 集
﹄Compilatio quarta
︶︑ タ ン ク レ ドゥ ス
︵Tancredus
︶ に よ る
﹃ 第 五 法 令 集
﹄
Compilatio quinta
︶ の 総称 で ある
︒ 刊本 と し ては
︑ フリ ー ドベ ル ク版
︵Friedberg,Quinque Compilationes Antiquae,1882
︶ が あ るが
︑ こ れ は 一 種 の﹁ 登 録 簿 版
﹂registered edition
︶ で あっ て
︑﹃ グ レ ゴ リ ウ ス 九 世 教 皇 令 集﹄ に 含 ま れ て い な い 教 皇 令 に つ い ては 本 文 も収 録 され て いる が
︑同 書 に 含ま れ てい る 教皇 令 につ い て はそ の 対応 関 係だ け が示 さ れ てい る
︒ 13
︶ Ch・ ダ ガン の 次 の指 摘 を参 照
︒ 集 成 者達 が 法的 技 術を 上 げ てい く につ れ
︑彼 等 は素 材 を 徹底 的 に切 り 詰め
︑ 教皇 書 翰 を解 剖 し 編 集し て い った
︒ そし て
︑単 に 法的 原 理 や手 続 の定 義 を保 管 する こ と だけ を 目指 し て︑ し ばし ば 歴 史的 詳 細を 部 分的 あ る い は 全 体 的 に省 略 し た︒
︹ 中略
︺ テ キス ト が伝 来 する 過 程に お い て︑ 抜 粋 さ れ た法 命 題 は
︑ 時 と し て 人 的な 文 脈 の 痕 跡 な し に 残 さ れ る か
︑ あ るい は 元 々の 書 翰の 意 図全 体 が失 わ れ るこ と もあ っ た﹂
Duggan,Ch.,Equity and Compassion in Papal Marriage Decretals to England,in Decretals and the Creation ofʻNew Lawʼin the Twelfth Century,1998,no.IX,p.61
︶︒
(法政研究 81‑3‑134 288)
一 研 究 史 概 観
﹃グ レゴ リウ ス九 世 教皇 令集
﹄第 四 編全 一六 六条 の うち 三 分 の一 以上 はア レク サン デ ル三 世の 教令 であ る1
︒︶
この 数字 は
︑教 会婚 姻法 の 発展 にと って ア レク サン デル 三 世の 治世 がい か に重 要な 位置 を 占め て いる かを 端的 に 示し てい る2
︒︶
他 方
︑個 々の 教令 の 日付 は多 くの 場 合特 定で きな い ため
︑ア レク サ ンデ ル三 世の 思 考を 再 構成 する こと に は困 難が 伴う
︒ J・ ドゥ ヴィ リ エは 一九 三三 年 に公 刊し た﹃ 教 会古 典法 にお け る婚 姻⎜
⎜グ ラ ーテ ィ アー ヌス 教令 集
︵一 一四
〇年
︶ か らク レメ ンス 五 世の 死︵ 一三 一 四年
︶ま で⎜
⎜
﹄に おい て︑ ア レク サン デル 三 世の 思 考の 変遷 を次 の よう に五 段階 に 跡 付け た3
︒︶
第一 段 階は
︑ ボ ロー ニャ 期﹂ であ り︑ グ ラー テ ィア ー ヌス の影 響下 に︑ 婚姻 は婚 約と 同衾 で完 成 する との 見 解が 採 用さ れて いた
︒そ の 前 提と なっ て いた のは
︑後 に教 皇ア レク サン デ ル三 世 と な るロ ラ ン ド・ バ ン ディ ネッ リ
︵
R o la n d o B a n d in el li
︶は グ ラー ティ アー ヌ スの 弟 子で ある 法学 者 ロラ ンド ゥ ス︵
M a g is te r R o la n d u s
︶と 同 一人 物で あ った とい う認 識 であ る︒ 第二 段 階は
︑教 皇登 位 後し ばら くの 間 であ り︑ エウ ゲ ニウ ス 三世
︵在 位一 一 四五
⎜五 三年
︶ 等 の前 任教 皇と 同 様︑ 婚姻 は合 意 のみ によ って 成 立す ると いう ロ ーマ 理論 を採 用 した
︒ 第三 段階 は一 一 六三 年に 始ま る フ ラン ス滞 在期 で あり
︑パ リ学 派
︵ペ トル ス・ ロ ンバ ルド ゥス 等
︶の 影響 を受 け
︑こ こ で現 在形 の言 葉 と未 来形 の言 葉 の 区別 が強 調さ れ た︒ 第四 段階 は 一一 七〇 年 代半 ば︑
秘密 婚﹂
︵
cl a n d es tin a m a tr im o n ia
︶を 抑え るた め に︑ お そら く 東方 教会 の影 響 の下 に儀 式の 要 件︑ すな わち
﹁ 教会 婚﹂
in f a ci e ec cl es ie
︶を 導入 し た時 期で ある
︒ そし て一 一七
〇 年 代後 半が 最後 の 第五 段階 をな し
︑儀 式理 論は 放 棄さ れ︑ パリ 学 派の 理論 が最 終 的に 勝 利を 収め るこ と にな る︒ すな わ ち
︑婚 姻は 現在 形 の言 葉あ るい は 同衾 を伴 う未 来 形の 言葉 によ っ て成 立す ると い うわ け であ る︒ しか し︑ そ の後
︑一 九七
〇年 代 の 研究 は
︑こ のよ う な﹁ ドゥ ヴ ィリ エ・ テ ーゼ
﹂の う ち 第 一段 階 と さ れ た﹁ ボ ロー ニ ャ期
﹂を 完全 に 否定 した4
︒︶
とり わけ
︑ロ ラン ド
・バ ンデ ィネ ッ リと ロラ ンド ゥ スは 別 人で あっ たこ と が現 在で は確 実
(81‑3‑ ) 289 135
視 され てい る5
︒︶
ま た︑ Ch・
ドナ ヒ ュー は一 九七 六 年の 論文 にお い て︑ アレ クサ ン デル 三 世の 法理 論の 新 しさ は当 事者 の 合 意の 強調 にあ っ たこ とを 指摘 し た︒ これ は︑ 言 い換 えれ ば︑ 儀 式あ るい は当 事 者以 外 の者
︵主 君あ る いは 血族
︶の 意 思 の排 除を 意味 す る︒ それ 故︑ ド ナヒ ュー によ れ ば︑
婚姻 の 形成 につ いて のア レク サ ンデ ル三 世の 準則 は︑ 教会 法を 社 会の 発展 過程 に 影響 を与 える よ うに 用い ると い う意 識的 な⎜
⎜ そし て少 なく と も部 分 的に は成 功し た
⎜⎜ 試み であ っ た
﹂と いう こと に なる6
︒︶
さ らに
︑ ドナ ヒュ ーは
︑ 一九 八二 年に
︑ ドゥ ヴィ リエ の 議論 を 基礎 に︑ そこ で 対象 とさ れた 四 九 の教 令を 年代 順 に再 整理 し︑ そ れぞ れの 時期 の 特徴 を把 握し よ うと 試み た7
︒︶
そ の際
︑ 日付 が特 定で き ない 教令 は︑ 日 付 が特 定 され た類 似の 内容 をも つ 教令 と同 じ時 期に 属 させ ると いう ドゥ ヴ ィリ エの 方法 が維 持 さ れ た8
︒︶
他 方 で︑ ド ナ ヒ ュー は︑ 全時 期 を通 して
︑理 論 全体 の一 貫性 と いう もの はア レ クサ ンデ ル三 世 の教 令 にお ける 目標 の 一つ にす ぎず
︑ む しろ 個々 の事 件 にお ける 諸々 の 事実 とそ れに 基 づい て正 しい 結 果に 到達 する こ とこ そ が主 要な 関心 事 であ った と論 じ た
︒そ れ故
︑ド ナ ヒュ ーに よれ ば
︑ア レク サン デ ル三 世期 にお け る婚 姻法 の変 化 は︑ 彼 が意 識的 に生 じ させ たも のと い う より は︑ 事件 そ れ自 体に 起因 し てい たと 見る べ きだ とい うこ と にな る9
︒︶
その 後︑ C・ N
・L
・ブ ルッ ク は︑ 史料 批判 お よび 年代 特定 の 方法 論も 含め て
︑い く つか の具 体的 な 論点 につ いて ド ナ ヒュ ーの 見解 を 批判 した
︒ブ ル ック によ れば
︑ ドゥ ヴィ リエ と
⎜⎜ 部分 的に そ れを 引 き継 いだ
⎜⎜ ド ナヒ ュー が提 示 し たよ うな 一貫 し たク ロノ ロジ ー を再 構成 する こ とは そも そも 不 可能 だと 言う10
︒︶
これ に 対し ては
︑ド ナ ヒュ ーに よる 再 反 論が あり11
︑︶
さら に︑ 二〇 一二 年 には A・ ダガ ン によ るド ナヒ ュ ー批 判も 出さ れ てい る12
︒︶
しか し
︑そ こ での 主た る論 点 は
︑一 一四
〇年 前 後に イン ノケ ン チウ ス二 世︵ 在 位一 一三
〇年
⎜ 四三 年︶ から ウ ィン チ ェス ター 司教 ヘ ンリ
・オ ヴ・ ブ ロ アに 宛て て出 さ れた 教令
︵JL
82 74 ,
WH10 16
︶の 解 釈で あ る︒ この 教令 は
︑一 一五 八年 か ら六 三年 にか け て争 わ れた 有 名な
﹁ア ン ステ ィ ー事 件﹂
A n st ey C a se
︶に おい て︑ 原 告ア ンス ティ ーが 自 らの 主 張の 根拠 とし て引 用 し︑ か つア ン ステ ィー 勝訴 の 決定 的要 因と な った もの で︑ こ れに よれ ば︑ す でに イン ノケ ン チウ ス 二世 期に 現在 形 と未 来形 の区 別
(法政研究 81‑3‑136 290)
が 認め られ てい た こと にな る︒ こ の教 令に つい て
︑ド ナヒ ュー は 偽書 であ る可 能 性を 指 摘す るが
︑A
・ ダガ ンは 教皇 庁 内 部で はイ ンノ ケ ンチ ウス 二世 時 代に すで にそ の よう なフ ラン ス 学派 の理 論が 流 布し て いた ので はな い かと 見て いる13
︒︶
当 該教 令に つい て は︑ 先に 筆者 も
︑間 接的 に伝 来 して いる ため
﹁ 真正 性の 確認 は 困難 で ある
﹂と 論じ た こと があ る14
︒︶
そ の 解釈 につ いて は
︑こ こで は結 論 を保 留し てお き たい
︒ 以上
︑ア レク サ ンデ ル三 世の 婚 姻に 対す る考 え 方を めぐ る研 究 史を 簡単 に跡 付 けて き たが15
︑︶
こ れに つ いて は︑ 一一 七 七 年六 月三
〇日 付 教令 を検 討し た 上で
︑本 稿の 最 後で 再び 言及 す るこ とに した い
︒ 1
︶ J
・ A
・ブ ラ ンデ ッ ジは
﹃ グレ ゴ リ ウス 九 世教 皇 令集
﹄ に占 め る アレ ク サン デ ル三 世 の婚 姻 関 係教 令 の数 値 を表 に し て い る が︑ そ こに は い くつ か の誤 り があ る
︒フ リ ー ドベ ル ク版 に よる 限 り︑ 第 一 章は 全 二二 条 とさ れ てい る が
︑正 し くは 全 三二 条 で あ り
︑ 第 四 篇は 全 体 とし て 全一 五 六条 で はな く
︑ 全一 六 六条 か らな る
︒ま た
︑ アレ ク サン デ ル三 世 の教 令 数 が第 一 九章 に おい て 三 五 と さ れ て いる が
︑ 正し く は四 で ある
︵ しか し
︑ この 誤 りは 第 四篇 全 体に 占 め るア レ クサ ン デル 三 世の 教 令 の総 数 には そ のま ま 反 映 さ れ て は い な い
︶︒ そ の 結 果
︑ブ ラ ン デ ッ ジ に よ れ ば︑ 全 一 五 六 条 中 ア レ ク サ ン デ ル 三 世 の 教 令 は 六
〇 で あ り
︑ 全 体 に 占 め る 割 合 は 三 八
・五
% と され て いる が
︵Brundage,J.A.,Law,Sex,and Christian Society in Medieval Europe,1987,Appendix 1,Table 8.1
︶︑ 正 しく は 全 一六 六 条の う ち六 一 であ っ て
︑三 六・ 七
%で あ る︒ 他 方
︑A
・ダ ガ ンに よ れば
︑ 婚 姻成 立 要件 に 直接 関 わる 第 一 章か ら 第 四 章に つ い て見 る と︑ 全 五四 条 のう ち ア レク サ ンデ ル 三世 の 教令 は 全 部で 計 二二 条 であ り
︵第 一 章 では 全 三二 条 のう ち 計 一 四 条
︑ 第 二章 で は 全一 四 条の う ち計 六 条︑ 第 三 章で は 全三 条 のう ち 一 条
︑ 第 四 条 では 全 五 条 の う ち 一 条
︶︑ 三 七
% と な る︵Duggan,A.,
Alexander IIIʼsʻRules on Marriageʼ,p.21 n.125
︶︒ この よ う な相 違 は教 令 の差 出 人の 特 定 が困 難 であ る こと に 起因 す る が︵ 例 え ば
︑ は じ めに
﹂ の註
2
︶を 参 照
︶︑ い ず れに し ても ア レク サ ンデ ル 三 世の 教 令が 三 分の 一 強を 占 め てい る こと に は変 わ りな い
︒ また
︑ 婚 姻法 に 限定 す るこ と なく ア レ クサ ン デル 三 世の 全 教令 に つ いて 見 ると
︑ 約七
〇
〇の 教 令 が伝 来 して お り︑ こ れ は 一 二 世 紀 に発 せ ら れた 全 教令
︵ 一〇 五 五︶ の 七 割近 く を占 め る︒ こ のう ち 四
〇〇 以 上が
﹃ グレ ゴ リウ ス 九 世教 皇 令集
﹄ に収 録 さ れ て い る (115981):The Art of Survival,ed.by P.D.Clark and A.J.Duggan,2012,p.365 ︵Duggan,A.,Master of the Decretals:A Reassessment of Alexander IIIʼs Contribution to Canon Law,in Pope Alexander III
︶︒
﹃ 第 一法 令 集﹄ に おい て も同 様 の 傾向 が 見 ら れる
︒ 全 八九 九 条の う ち二 三 一条 は ア レク サ ンデ ル 以前 の 公会 議
︑ 神学 上 の諸 作 品か ら の引 用 等 から な り︑ 残 り六 六 八 条 中 ア レ
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