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ア レ ク サ ン デ ル 三 世 期 に お け る 婚 姻 法

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(1)

ア レ ク サ ン デ ル 三 世 期 に お け る 婚 姻 法

直 江 眞 一

(81‑3‑ ) 283 129

(2)

は じ め に

ロー マ教 皇グ レ ゴリ ウス 九世

︵ 在位 一二 二七

⎜ 四一 年︶ によ っ て一 二三 四年 に 公布 さ れた 教皇 庁公 認 の教 令集

﹃グ レ ゴ リウ ス九 世教 皇 令集

﹄Liber Decretalium extra Decretum vagantium

;

Liber Extra

;

X

︶の 第四 篇︵

L ib er  Q u a rt u s

︶ に は︑ 婚 姻 法 関 係 の 教 令 全 二 一 章︵

T it u lu s

︶一 六 六 条︵

C a p it u lu m

︶が 収 録 さ れ て い る

こ こ に は 婚 姻 障 碍

im p ed im en tu m

︶︑ 婚姻 準正

le g it im a tio  p er  s u b se q u en s  m a tr im o n iu m

︶︑ 離婚

d iv o rt iu m

︶︑ 嫁資

d o s

︶等 の重 要 事 項に 関す る教 令 も含 まれ てい る が︑ 最も 重視 さ れる のは 婚姻 成 立要 件に 関す る それ で あろ う︒ 教父 時代 以来

︑ 婚姻 成立 要件 と して 議論 され てき た 主た る要 素は 合意

co n se n su s

︶と 同 衾︵

co p u la

︶ であ っ た︒ 一 二 紀中 葉以 降︑ 一 方で 神学 者ペ ト ルス

・ロ ンバ ル ドゥ スに 代表 さ れる パリ 学派 が 当事 者 の合 意を 強調 し

︑他 方で 教会 法 学 者グ ラー ティ ア ーヌ スに 代表 さ れる ボロ ーニ ャ 学派 が合 意に 加 えて 同衾 も重 視 する 中

︑ロ ーマ 教会 は 最終 的に パリ 学 派 の説 を採 用し

︑ しか し同 時に

︑ ボロ ーニ ャ学 派 の説 も考 慮に 入 れた 法理 論を 形 成す る に至 る︒ その 結 果︑ 現在 形を 用 い ての 婚約

sp o n sa lia  p er  v er b a  d e  p ra es en ti

︶と 未 来形 を 用い ての 婚約

sp o n sa lia  p er  v er b a  d e  fu tu ro

︶ を区 別 し︑ 両 者に 別々 の法 的 効果 を与 える と いう 高度 に技 巧 的な 法理 論が 生 み出 され るこ と にな っ た︒ すな わち

︑ 現在 形に よる 婚 約 はそ れだ けで 解 消不 能な 絆を 形 成す るの に対 し て︑ 未 来形 の場 合 には 同衾 を伴 う必 要が あ ると いう わけ であ る︒

﹃グ レ ゴリ ウス 九世 教 皇令 集﹄ 第四 篇 第一 章﹁ 婚約 お よび 婚姻 につ い て﹂

D e  sp o n sa lib u s  et  m a tr im o n iis

︶に 収録 され た 関 連条 文 の標 題に おい て︑ こ の こと を確 認し てみ るな ら ば︑ 以 下の 通り であ る︒ 教令 の差 出人 はア レ クサ ン デ ル三 世

︵在 位 一一 五九

⎜八 一 年︶

︑ イン ノ ケン チウ ス三 世

︵在 位一 一九 八

⎜一 二一 六年

︶ とグ レ ゴリ ウス 九世 で ある

︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 婚約 者双 方 が解 消す ると き は︑ 誓約 され て いた とし ても 解 消さ れる

﹂ アレ ク サン デル 三世 よ り エク セタ ー司 教 宛

(法政研究 81‑3‑130 284)

(3)

未 来形 で婚 約し た 男性 が同 衾の 前 に遠 方の 地に 移 るの であ れ ば︑ 婚 約し た女 性は 自 由に 他の 男性 と契 約 する

︵ 以下 略

︶﹂ アレ クサ ン デル 三世 より パ レル モ大 司教 宛

︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 同衾 を伴 っ たと きは

︑現 在 形に よ る 婚約 によ り解 消さ れな い︒ その 他の 場合 には 現 在形 によ る 婚約 が拘 束力 を もつ

︵以 下略

︶﹂ アレ ク サン デ ル三 世よ りノ リ ッジ 司教 宛

︒ 未 来形 によ る婚 約 は︑ 誓約 され て いた と して も︑ そ れよ り 後の 現在 形に よる 婚 約に よっ て 解消 され る︒ しか し︑ そ れ より 後の 婚約 が 未来 形で あっ た ので あれ ば︑ そ うで はな い﹂

イン ノケ ンチ ウス 三 世よ りフ ェレ ン チノ 司教 宛

︒ 未 来形 によ る 婚約 は︑ そ れに 続く 同 衾に よっ て 婚姻 に移 行 する

︵ 以下 略︶

﹂︵ グ レゴ リ ウス 九 世 より ク レ モ ナ司 教 宛

︒ 現 在形 によ る婚 約 は︑ これ より 後 の婚 姻 によ って 解 消さ れ ない

︒ 後者 が同 衾に よっ て完 成さ れて いた と して も︒ し か し︑ 未来 形に よ る婚 約は

︑た と え誓 約さ れて いた とし ても

︑こ れ に 続く 現在 形に よる 婚 約に よっ て 解消 され る﹂

グ レ ゴリ ウス 九世

︒ 最後 の教 令に お いて は︑ 現在 形 と未 来形 の具 体 的な 表現 が例 示 され てい る︑ す なわ ち

︑現 在形 とは

﹁ 私は あな たを 迎 え て私 の妻 とす る

eg o   te   in   m ea m   a cc ip io

︶︑ ある いは

﹁ 私は あな たを 迎 えて 私の 夫と す る﹂

eg o   te   a cc ip io   in   m eu m

︶で あ り︑ 未来 形と は

﹁私 は あな たを 妻と し て受 け入 れよ う

eg o  te  r ec ip ia m   in   m ea m

︶︑ あ るい は﹁ 私は あ な たを 夫と して 受 け入 れよ う﹂

eg o  te

re ci p ia m

in  m eu m

︶で ある

︒ とこ ろで

︑こ の よう な時 制の 区 別に 基づ く婚 姻 成立 要件 論に 対 して

︑か つて メ イト ラ ンド は次 のよ う に述 べて

︑こ れ を 痛烈 に揶 揄し た

︒ これ は人 智の 傑 作な ど とい うわ けに は 決し てい かな かっ た

︒世 界の あら ゆる 人々 の 中 で︑ 恋 人達 が 現在 形と 未来 形 を正 確に 区別 す るこ とな ど最 も あり そう にな い こと だか らで あ る﹂

︑と

本稿 は︑ この よ うな メイ トラ ン ドの 素朴 な疑 問 を出 発点 とし て

︑婚 姻成 立要 件 とし て の合 意と 同衾 の 関係 につ いて

(81‑3‑ ) 285 131

(4)

一 二世 紀後 半︑ ア レク サン デル 三 世期 にお ける 法 実務 に目 を向 け て再 検討 を試 み るも の であ る︒ 具体 的 には

︑シ トー 派 フ ァウ ンテ ン修 道 院長 と 註釈 学者 ヴァ カ リウ ス︵

M a g is te r   V a ca ri u s

︶ に宛 てら れ た一 一七 七年 六月 三〇 日 付の 教令

︵Significavit nobis O

︶を てが か りと して

︑合 意 と同 衾の 関係 に つい ての アレ ク サン デ ル三 世の 考え 方 の一 端を 明ら か に する こと を目 的 とす る︒ 本件 に注 目す る 理由 の 一つ は︑ ヴァ カリ ウス が 教皇 受任 裁判 官︵

d el eg a tu s

︶と し て 関与 して いる こと に ある

︒ 別稿 に おい て明 らか に した よう に︑ ヴ ァカ リウ スは ボ ロー ニャ でロ ー マ法 を学 んだ 後

︑一 一 四〇 年代 にイ ン グラ ンド に渡 っ た 註釈 学者 であ る

︒註 釈書

﹃貧 し き法 学徒 の書

﹄Liber Pauperum

︶を 著 した 後

︑一 一 六〇 年代 以降 は ヨー ク大 司教 管 区

⎜⎜ ファ ウン テ ン修 道院 もこ こ に含 まれ る⎜

⎜ にお いて 教会 の 実務 活動 に携 わ って い た

教皇 受任 裁 判官 とし ての そ の 活動 も明 らか に され てき てい る10

さら に

︑こ れ も別 稿で 詳し く 検討 した とこ ろ であ る が︑ ヴァ カリ ウ スは 一一 五六 年 頃 に﹃ 婚姻 論﹄

Summa de Matrimonio

︶を 執 筆し て おり

︑そ こで は 婚姻 成立 要件 を 男女 の相 互の 引 渡︵

tr a d it io

︶に 求 める とい う︑ ボ ロー ニャ 学派 と もパ リ学 派と も 異な る第 三の 説 が展 開さ れて い る11

こ のこ とと 教皇 受 任裁 判官 への 任 命 との 間に 関係 が ある のか どう か とい う点 も興 味 を引 く︒ 次に 本稿 にお け る検 討方 法に つ いて 述べ てお く

︒史 料分 析に あ たっ ては

﹃グ レ ゴリ ウ ス九 世教 皇令 集

﹄お よび それ 以 前 に作 成 され た﹃ 旧 五法 令集

﹄Compilationes

12

antiquae

︶よ り も さら に遡 る時 期に イ ング ラン ドで 収集 さ れた 初期 の 教 令集 成に 注目 す る︒ 教令 集の 作 成過 程に おい て は︑ 具体 的事 例 から 法命 題を 取 り出 す にあ たっ て抽 象 化が おこ なわ れ

︑ 歴 史的 コン テク ス トが 失わ れる 可 能性 が否 定で き ない13

こ れに 対 して

︑こ れら 初 期の 教 令集 成は

﹃グ レ ゴリ ウス 九世 教 皇 令集

﹄に 向け て 教会 法学 者達 に よっ て婚 姻法 が 学問 的に 精緻 化 され てい く前 段 階に お いて

︑ア レク サ ンデ ル三 世時 代 の 法を 直接 反映 す るも のと 考え ら れる から であ る

︒ 以上 のよ うな 問 題意 識と 方法 の 下に 一一 七七 年 六月 三〇 日付 ア レク サン デル 三 世の 教 令の 検討 を行 う が︑ その 前に

(法政研究 81‑3‑132 286)

(5)

婚 姻法 の発 展に 占 める アレ クサ ン デル 三世 期の 位 置を めぐ る研 究 史を 概観 して お く必 要 があ ろう

1

Friedberg,A.,Corpus Iuris Canonici,Pars Secunda,1881,cols.661732.

X 4,1,2:Sponsalia de futuro dissolvuntur,si sponsi se dissolvunt,etiamsi fuerint iurata.

Regesta Pontificum Romanorum,ed.by P.Jaffeand S.Loewenfeld et al.,188588

JL 13903;Holtzmann,W.,Regesta Decretalium Saeculi XII ,no.

Walter Holtzmann Card File,Stephan Kuttner Institute of Medieval Canon Law

WH

,no.1013.

in Angevin England,Anglo-Norman Studies,XXXIII,2011,p.9 and n.45 Duggan,A.J.,The Effect of Alexander IIIʼsʻRules on the Formation of Marriageʼ

西

X 4,1,5:Si sponsus de futuro ante copulam ad remota se transfert,sponsa libere cum alio contrahit. praesenti.   X 4,1,15:Sponsalia de fururo,si secuta est copula,non solvuntur per sponsalia de praesenti,alias tenent sponsalia de

Ch

Donahue,Ch.Jr.,The Dating of Alexander the Thirdʼs Marriage Decretals:Dauvillier Revisited after Fifty Years,

Zeitschrift der SavignyStiftung fur Rechtsgeschichte,Kanonistische Abteilung,68,1982,p.100

do.,

The Policy of Alexander the Thirdʼs Consent Theory of Marriage,Monumenta Iuris Canonici,series C:Subsidia,vol.5,1976,

p.251

WH 1071

Handbook of British Chronology,ed.by E.B.Fryde et al.,3ed.,1986,p.261

稿

futuro.   X 4,1,22:Sponsalia de futuro,etiam iurata solvuntur per secunda sponsalia de praesenti,non autem per secunda de

X 4,1,30:Sponsalia de futuro transeunt in matrimonium per carnalem copulam subsecutam.

X 4,1,31:Sponsalia de praesenti non solvuntur per sequens matrimonium,etiam carnali copula consummatum,sed

(81‑3‑ ) 287 133

(6)

sponsalia de futuro etiam iurata solvuntur per sequentia de praesenti.

Pollock,F&F.W.Maitland,The History of English Law before the Time of Edward I,2ed.,1898,vo

l.Ⅱ,pp.368369.

10 and Compilers in the Earlier Middle Ages,ed.by M.Brett&K.G.Cushing,2009,pp.174f.   Origins of Legal Science in England in the Twelfth Century:Lincoln,Oxford and the Career of Vacarius,in Readers,Texts   Literature:Essays presented to Richard William Hunt,ed.by J.J.G.Alexander&M.T.Gibson,1976,p.285;Landau,P.,The   Southern,R.W.,Master Vacarius and the Beginning of an English Academic Tradition,in Medieval Learning and

11

12

Bernardus Papiensis

Compilatio prima

Johannes Galensis

Compilatio secunda

Petrus Beneventanus

Compilatio tertia

Johannes Teutonicus

Compilatio quarta

Tancredus

Compilatio quinta

Friedberg,Quinque Compilationes Antiquae,1882

簿

registered edition

13

Ch

Duggan,Ch.,Equity and Compassion in Papal Marriage Decretals to England,in Decretals and the Creation ofʻNew Lawʼin the Twelfth Century,1998,no.IX,p.61

(法政研究 81‑3‑134 288)

(7)

一 研 究 史 概 観

﹃グ レゴ リウ ス九 世 教皇 令集

﹄第 四 編全 一六 六条 の うち 三 分 の一 以上 はア レク サン デ ル三 世の 教令 であ る

この 数字 は

︑教 会婚 姻法 の 発展 にと って ア レク サン デル 三 世の 治世 がい か に重 要な 位置 を 占め て いる かを 端的 に 示し てい る

他 方

︑個 々の 教令 の 日付 は多 くの 場 合特 定で きな い ため

︑ア レク サ ンデ ル三 世の 思 考を 再 構成 する こと に は困 難が 伴う

︒ J・ ドゥ ヴィ リ エは 一九 三三 年 に公 刊し た﹃ 教 会古 典法 にお け る婚 姻⎜

⎜グ ラ ーテ ィ アー ヌス 教令 集

︵一 一四

〇年

︶ か らク レメ ンス 五 世の 死︵ 一三 一 四年

︶ま で⎜

﹄に おい て︑ ア レク サン デル 三 世の 思 考の 変遷 を次 の よう に五 段階 に 跡 付け た

第一 段 階は

︑ ボ ロー ニャ 期﹂ であ り︑ グ ラー テ ィア ー ヌス の影 響下 に︑ 婚姻 は婚 約と 同衾 で完 成 する との 見 解が 採 用さ れて いた

︒そ の 前 提と なっ て いた のは

︑後 に教 皇ア レク サン デ ル三 世 と な るロ ラ ン ド・ バ ン ディ ネッ リ

R o la n d o   B a n d in el li

︶は グ ラー ティ アー ヌ スの 弟 子で ある 法学 者 ロラ ンド ゥ ス︵

M a g is te r  R o la n d u s

︶と 同 一人 物で あ った とい う認 識 であ る︒ 第二 段 階は

︑教 皇登 位 後し ばら くの 間 であ り︑ エウ ゲ ニウ ス 三世

︵在 位一 一 四五

⎜五 三年

︶ 等 の前 任教 皇と 同 様︑ 婚姻 は合 意 のみ によ って 成 立す ると いう ロ ーマ 理論 を採 用 した

︒ 第三 段階 は一 一 六三 年に 始ま る フ ラン ス滞 在期 で あり

︑パ リ学 派

︵ペ トル ス・ ロ ンバ ルド ゥス 等

︶の 影響 を受 け

︑こ こ で現 在形 の言 葉 と未 来形 の言 葉 の 区別 が強 調さ れ た︒ 第四 段階 は 一一 七〇 年 代半 ば︑

秘密 婚﹂

cl a n d es tin a   m a tr im o n ia

︶を 抑え るた め に︑ お そら く 東方 教会 の影 響 の下 に儀 式の 要 件︑ すな わち

﹁ 教会 婚﹂

in  f a ci e  ec cl es ie

︶を 導入 し た時 期で ある

︒ そし て一 一七

〇 年 代後 半が 最後 の 第五 段階 をな し

︑儀 式理 論は 放 棄さ れ︑ パリ 学 派の 理論 が最 終 的に 勝 利を 収め るこ と にな る︒ すな わ ち

︑婚 姻は 現在 形 の言 葉あ るい は 同衾 を伴 う未 来 形の 言葉 によ っ て成 立す ると い うわ け であ る︒ しか し︑ そ の後

︑一 九七

〇年 代 の 研究 は

︑こ のよ う な﹁ ドゥ ヴ ィリ エ・ テ ーゼ

﹂の う ち 第 一段 階 と さ れ た﹁ ボ ロー ニ ャ期

﹂を 完全 に 否定 した

とり わけ

︑ロ ラン ド

・バ ンデ ィネ ッ リと ロラ ンド ゥ スは 別 人で あっ たこ と が現 在で は確 実

(81‑3‑ ) 289 135

(8)

視 され てい る

ま た︑ Ch・

ドナ ヒ ュー は一 九七 六 年の 論文 にお い て︑ アレ クサ ン デル 三 世の 法理 論の 新 しさ は当 事者 の 合 意の 強調 にあ っ たこ とを 指摘 し た︒ これ は︑ 言 い換 えれ ば︑ 儀 式あ るい は当 事 者以 外 の者

︵主 君あ る いは 血族

︶の 意 思 の排 除を 意味 す る︒ それ 故︑ ド ナヒ ュー によ れ ば︑

婚姻 の 形成 につ いて のア レク サ ンデ ル三 世の 準則 は︑ 教会 法を 社 会の 発展 過程 に 影響 を与 える よ うに 用い ると い う意 識的 な⎜

⎜ そし て少 なく と も部 分 的に は成 功し た

⎜⎜ 試み であ っ た

﹂と いう こと に なる

さ らに

︑ ドナ ヒュ ーは

︑ 一九 八二 年に

︑ ドゥ ヴィ リエ の 議論 を 基礎 に︑ そこ で 対象 とさ れた 四 九 の教 令を 年代 順 に再 整理 し︑ そ れぞ れの 時期 の 特徴 を把 握し よ うと 試み た

そ の際

︑ 日付 が特 定で き ない 教令 は︑ 日 付 が特 定 され た類 似の 内容 をも つ 教令 と同 じ時 期に 属 させ ると いう ドゥ ヴ ィリ エの 方法 が維 持 さ れ た

他 方 で︑ ド ナ ヒ ュー は︑ 全時 期 を通 して

︑理 論 全体 の一 貫性 と いう もの はア レ クサ ンデ ル三 世 の教 令 にお ける 目標 の 一つ にす ぎず

︑ む しろ 個々 の事 件 にお ける 諸々 の 事実 とそ れに 基 づい て正 しい 結 果に 到達 する こ とこ そ が主 要な 関心 事 であ った と論 じ た

︒そ れ故

︑ド ナ ヒュ ーに よれ ば

︑ア レク サン デ ル三 世期 にお け る婚 姻法 の変 化 は︑ 彼 が意 識的 に生 じ させ たも のと い う より は︑ 事件 そ れ自 体に 起因 し てい たと 見る べ きだ とい うこ と にな る

その 後︑ C・ N

・L

・ブ ルッ ク は︑ 史料 批判 お よび 年代 特定 の 方法 論も 含め て

︑い く つか の具 体的 な 論点 につ いて ド ナ ヒュ ーの 見解 を 批判 した

︒ブ ル ック によ れば

︑ ドゥ ヴィ リエ と

⎜⎜ 部分 的に そ れを 引 き継 いだ

⎜⎜ ド ナヒ ュー が提 示 し たよ うな 一貫 し たク ロノ ロジ ー を再 構成 する こ とは そも そも 不 可能 だと 言う10

これ に 対し ては

︑ド ナ ヒュ ーに よる 再 反 論が あり11

さら に︑ 二〇 一二 年 には A・ ダガ ン によ るド ナヒ ュ ー批 判も 出さ れ てい る12

しか し

︑そ こ での 主た る論 点 は

︑一 一四

〇年 前 後に イン ノケ ン チウ ス二 世︵ 在 位一 一三

〇年

⎜ 四三 年︶ から ウ ィン チ ェス ター 司教 ヘ ンリ

・オ ヴ・ ブ ロ アに 宛て て出 さ れた 教令

︵JL

82 74 ,

WH 

10 16

︶の 解 釈で あ る︒ この 教令 は

︑一 一五 八年 か ら六 三年 にか け て争 わ れた 有 名な

﹁ア ン ステ ィ ー事 件﹂

A n st ey   C a se

︶に おい て︑ 原 告ア ンス ティ ーが 自 らの 主 張の 根拠 とし て引 用 し︑ か つア ン ステ ィー 勝訴 の 決定 的要 因と な った もの で︑ こ れに よれ ば︑ す でに イン ノケ ン チウ ス 二世 期に 現在 形 と未 来形 の区 別

(法政研究 81‑3‑136 290)

(9)

が 認め られ てい た こと にな る︒ こ の教 令に つい て

︑ド ナヒ ュー は 偽書 であ る可 能 性を 指 摘す るが

︑A

・ ダガ ンは 教皇 庁 内 部で はイ ンノ ケ ンチ ウス 二世 時 代に すで にそ の よう なフ ラン ス 学派 の理 論が 流 布し て いた ので はな い かと 見て いる13

当 該教 令に つい て は︑ 先に 筆者 も

︑間 接的 に伝 来 して いる ため

﹁ 真正 性の 確認 は 困難 で ある

﹂と 論じ た こと があ る14

そ の 解釈 につ いて は

︑こ こで は結 論 を保 留し てお き たい

︒ 以上

︑ア レク サ ンデ ル三 世の 婚 姻に 対す る考 え 方を めぐ る研 究 史を 簡単 に跡 付 けて き たが15

こ れに つ いて は︑ 一一 七 七 年六 月三

〇日 付 教令 を検 討し た 上で

︑本 稿の 最 後で 再び 言及 す るこ とに した い

Brundage,J.A.,Law,Sex,and Christian Society in Medieval Europe,1987,Appendix 1,Table 8.1

Duggan,A.,

Alexander IIIʼsʻRules on Marriageʼ,p.21 n.125

(115981):The Art of Survival,ed.by P.D.Clark and A.J.Duggan,2012,p.365 Duggan,A.,Master of the Decretals:A Reassessment of Alexander IIIʼs Contribution to Canon Law,in Pope Alexander III

(81‑3‑ ) 291 137

参照

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(2018) Effect of different font sizes and of spaces between words on eye movement performance: An eye tracker study in dyslexic and non- dyslexic children.. (2018)