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ル ・ コ レ ク シ ョ ン よ り

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Academic year: 2021

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図書館員の文献紹介と      資料の活用

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ことになりました。この時、右近は利家にキリ

スト教寺院の建立を申し入れて認められたこと から、引き続き布教活動を続けることも容認さ れたのです。

(3)

■秀吉との和解後、家康によって国外追放へ  こうして、右近は前田家の家臣として秀吉の 小田原征伐で功をあげ、その知らせは秀吉の耳 に届きます。文禄元(1592)年に文禄の役が始 まると、ついに秀吉は肥前の名護屋に右近へ出 仕を促し、茶会に招いて二人の間で会話がなさ れたそうです。また、後日、前田利家が秀吉を 伏見屋敷に招いた茶会にも右近が出席したこと から、同席した人たちは秀吉の勘気が解けたこ とを知ったのです。

 右近は文禄五(1596)年のサン・フェリーペ 号の土佐漂着に端を発した秀吉によるフランシ スコ会系キリスト教徒二十六人の処刑(後に言 う「二十六聖人の殉教」)事件では、共に殉教 を望みましたがこれは叶いませんでした。

 このような中、慶長三(1598)年に秀吉が没 すると翌年、右近を庇護した利家も亡くなり、

前田家は息子利長が家督を継承します。そして、

慶長五(1600)年の関ヶ原の合戦では、右近は 東軍として大聖寺城や小松城を攻略する前田勢 の一翼を担います。

 江戸幕府の成立当初は、海外貿易を是として キリスト教に対しても寛大に振る舞っていた徳 川家康の政策が変化し、慶長十八(1613)年に 切支丹禁教令が発布されました。これによって 右近も海外追放が決まり、潔く前田家に別れを 告げてマニラに送られました。そして、翌慶長 二十(1615)年の2月に病によって昇天したの です。この時、六十三歳であったと言われ、キ リスト教徒を守り通した生涯でした。

 ちなみに、国内では右近らのキリスト教徒の 海外追放の直後に大坂冬の陣が起こり、翌慶長

二十(1615)年の夏の陣で秀頼が自決して豊臣 家は滅亡しました。家康が大坂攻めの不安要素 を事前に除去しようとしていたものとも言われ ています。

■本学図書館の史料から、右近の人となりを  このように、戦国の世をキリスト教と共に歩 んだ高山右近の生き様は、研究者の努力で生々 しく現在の人々に伝わっています。特に秀吉に よる領地没収の様子については、この「フロイ ス宛、プレネスティーノの報告書」が活用され、

それまでの研究では現れていなかった二人の会 話など詳細な部分が臨場感をもって示されるこ とになりました。

 また、本学図書館はこれまでに全国の博物館 や美術館、資料館の求めに応じた出展協力をし て、多くの方々に原文書をご覧いただいてきま した。この史料からは、キリスト教カトリック 系の人々が福者として評価する右近の振る舞い や人柄が窺えるのです。

主な参考文献と脚注

( 1 ) 村瀬博春「高山右近とその時代-茶の湯とキリスト教の観点 から」(石川県立博物館『没後400年記念 高山右近とその時 代』)2015年。109頁。

( 2 )松田・川崎・めいちん[訳]『日本関係イエズス会原文書』京 都外国語大学付属図書館 1987年。172-175頁。

( 3 )海老沢有道(著)『高山右近』吉川弘文館(人物叢書)1989年。

153-156頁。

おく まさよし(司書・副館長兼事務長)

学校法人創立四十周年記念

『日本関係イエズス会原文書』

(本学図書館刊、1987年)

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