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ル ・ コ レ ク シ ョ ン よ り

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図書館員の文献紹介と

      資料の活

ル ・ コ レ ク シ ョ ン よ り

57

年に一時的な賜暇帰国を果たし、そのまま、シャ ム(タイ)の総領事(後に公使)を命ぜられ、

この地に赴任しました。さらに引き続いて、モ ンテヴィデオ(ウルグアイ)やモロッコの公使 を務めることになります。

■イギリスの日本駐日全権公使として

 同じ頃、東アジアでは日清戦争が終結し、イ ギリス外務省は国益上、この地域の行方を重視 していました。特に講和会議で日本への割譲が 決まった遼東半島を清へ還付させようとするロ シアとフランス、ドイツの動きである所謂、三 国干渉のなり行きを注視しなければなりません でした。その意味で、東北アジアを熟知したサ トウが必要だったのです。このようなことから、

サトウは1895(明治二十八)年7月にかつての 任地日本へ第6代目の英国全権公使として着任 します。

 サトウにとって、公使としての日本駐箚は これまでの通訳官や書記官としての滞在とは違 い、全権としてイギリスを代表する立場にあり ます。また、彼は前任者までとは異なり、自分 の経歴からして既に知日派の域にあるとの自覚 もあったのではないでしょうか。このため、日 英両国が歴史的に交流を始めた発端を明らかに すべきであると感じていたと考えられます。そ のためにも、1613(慶長十八)年にイギリス国 王の特使として来日していたジョン・セーリス の来日記録を紐解く必要性があったのです。

 同時に、サトウは1600(慶長五)年にウィリ アム・アダムス(三浦按針)が、オランダ船で 豊後に漂着していた記憶を人々から呼び起こす 必要がありました。アダムスは徳川家康から外 交顧問的な職務を与えられて日本に滞在し、イ ギリスとの通商関係の必要性を助言していたこ とも、セーリスにからめて明確にしておくべき

であると考えたとしても不思議ではありませ ん。

■『セーリスの日本渡航記』の編集

 これを実現するため、ジョン・セーリスの来 日記録の写本をロンドンにあるイギリス政府イ ンド事務省(連邦省)で入手し、それを底本に して編集することに決めたようです。

 このセーリスとは、イギリス東インド会社 の対日貿易の計画に基づいて東洋へ派遣された 船隊司令官でした。1611(慶長十六)年にイギ リスのダウンズを出港して、ジャワ島のバンタ ムに到着し、前述のアダムスの情報に基づいて 1613(慶長十八)年6月に長崎から平戸へ入港 しました。その後、アダムスの案内により駿府 で徳川家康に、また江戸で徳川秀忠に拝謁して ジェイムズ1世の国書を呈しています。これに よってイギリスとの通商貿易が始まり、平戸に 商館が作られ、セーリスは商館長のリチャード・

コックスと約10名の商館員を残して日本を離れ ました。

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 セーリスはこの航海と渡航の記録を日記形式 の記録に纏めていましたが、サトウはこの内、

“The voyage of Captain John Saris to Japan 1613 ” London, 1900.(本学図書館所蔵)

前扉の絵には“The Shōgun Iyeyasu”(徳川家康)と 記載されている。

参照

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