香 川 大 学 経 済 論 叢 第67巻 第 3
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4号 1995年2月 67-97明治期農政の展開と香川県農業
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明治前期香川の農業問題と農政 維新政府と殖産興業 周知のとおり,幕藩の封建体制が崩壊して明治の新政 権が成立したとき,欧米諸国はすでに産業革命を終え一一イギリスの産業革命 は明治維新を半世紀以上さかのぼる 19世紀初頭のこと一一一,その資本主義的発 展は自由主義の段階から帝国主義の段階へとうつりつつあった。阿片戦争に勝 利したイギリスが上海などの開港と香港の割譲を強要する南京条約を清国との 聞に取り結んだのは天保 13年 (1842)のことであり,ペリー率いる巨大な黒船 が浦賀沖に現れたのは嘉永 6年 (1853)のことであった。廃藩置県によって近 代的な中央集権国家としての道を歩みはじめたばかりの新政権にとって,外交 と国際貿易の相手としてこれから登場するのは,これら欧米の列強である。こ れら欧米の列強に対し日本が独立国家として自立を維持するためには,何より もまず急速に近代化をおしすすめ,かっ,そのなかで同時に十分な武力も確保 しておかなければならない。「殖産興業J,,.富国強兵」という維新政府のかかげ たスローガンは,まさしくこのことの端的な表現であった。 かの殖産興業は,西欧的な近代的産業と科学技術をすみやかに日本に導入・ 移植することを眼目とするものであった。機械工場や製糸工場の建設,鉱山開 発,鉄道・電信網の敷設など,鉱工業部門における殖産興業は,農業部門にお いても勧農施策の名のもとにすすめられた。西欧から輸入した種苗の栽培試験 や西洋式大農具の試作,また養蚕・製糸試験などをおこなうべしわが国最初 の農業研究機関として内藤新宿試験場が開設されたのは明治5
年のことであ り, のちに香川県の老農・奈良専二が寄宿した三田育種場の開場は明治1
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ことであった。 「愛媛県勧業年報」と愛媛県勧業試験場 中央の試験場で栽培・育成された種 苗は府県庁に頒布された。その受入機関として愛媛県一一香川県は讃岐国とし て当時,愛媛県の管轄下にあった でも伊予国温泉郡に勧業試験場が開設さ れたが,県庁の勧業課から発行の明治13年「愛媛県勧業年報」をみると,同試 験場において欧州・米国産のカブ,ナタネ,スイカなどの野菜類や小麦が栽培 されており,またホークやスクワシブ/レという名称の西洋式蓄力農具の実用試 験がおこなわれている。そして穀物や野菜類の種苗は讃岐の郡役所へも配付さ れた。殖産興業の潮流は,中央から遠くはなれた讃岐の農村にもその影響をあ たえていたのである。 維新政権成立後聞なく開始された殖産興業政策の一環としての勧農施策は, しかし日本の農村に浸透することはなかった。その基調が西洋式農業技術の直 接模倣であったために,日本の農村には適応しなかったからである。さきの愛 媛県勧業年報も,ホークなどの西洋式農具について「何レモ軽便,頗ル労力ヲ 省クト雄,価ノ不廉ナルヨリ細農ノ微力,得テ購求スルコト能ハズ」と I細農」 におけるその導入の困難さを指摘している。だがいうまでもなく,農業経営の 零細性は何も愛媛,讃岐の地にかぎったことではなかった。当時の日本の農家 は大半が総じて貧しく小さな農家であり,もともとこれらの零細農家に西欧の 大型農具など導入できるはずがなかったのである。西欧的な勧農技術は日本農 業の現実から大きく遊離したものであったといわなければならない。こうして 農業面における欧化政策は次第に色槌せていき,明治1
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年代の後半には結局, 実を結ばないまま放棄されてしまう。欧化政策の代表ともいうべき三田育種場 が閉鎖されたのは明治19年のことであった。 農談会と老農たち 農業における生産技術の体系を農法と呼ぶ、ならば,幕藩 時代の農法の継承をもって踏み出した維新当初の農法が明治1
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年代から2
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年 代にかけて次第にもりあがってくるその経過のなかには,右にみた勧農施策に よる上からの指導奨励の流れとはべつに,農村の内部からもりあがってくるも うひとつの流れがあった。それは,維新以後のあたらしい社会経済的諸条件731 明治期農政の展開と香川県農業 69 一一一制度面では,明治 2年の農工商身分の廃止,明治 4年の田畑勝手作りの公 認と米販売の許可,明治5年の田畑永代売買の解禁などの一連の変革一一ーを背 景に,-豪農」や「老農」と当時呼ばれたところの,それぞれの地域の農事熟練 者や篤農家たちが主導者となって展開する農事改良の動きである。彼らは寄り 集まって互いに農法上の情報を交換し,ときには作物の種子も交換しあった。 彼らの集会は農談会とか集談会などと呼ばれたが,中央政府はこのような農談 会を政府の勧農施策の浸透方策として活用しようとしたのである。政府は府県 に農談会の設置を勧奨するとともに,みずからも主催者となって各種農談会を 開催した。中央で聞かれた代表的な農談会には,明治12年「茶事集談会j,明 治13年「綿及砂糖集談会j,明治 14年「農談会j,明治15年「穀物・姻草・菜 種各集談会j,明治16年「製茶集談会j,明治23年「大日本農会主催集談会」 などがあった。ちなみに,全国3府 37県から老農 120人を浅草本願寺に集めて 開催された明治14年農談会には,福岡の林遠里や大阪の中村直三などの全国的 に著名な老農とともに,愛媛県讃岐国からは大内郡馬宿村の久米与平が出席し ている。 ところでそもそも,明治政府が農談会を開催しようとした意図は西欧の勧農 技術を日本の農村に浸透させようとしたところにあったのであるが,実際は各 地の農村事情と農法の具体的態様が老農の口から語られるというのが農談会の 実情であった。総じて農談会は政府の意図したようなものではなかったのであ るが,しかし明治10年代,農談会は一種の流行であるかのように府県レベルで もさかんに聞かれた。愛媛県の場合もそうである。 愛媛県の農談会 公の記録によると,愛媛県において県レベルの農談会が開 催された最初の年は明治13年であった。この明治 13年の農談会開設を機に制 定された「各郡聯合農談会規則j (明治14年 9月愛媛県達甲第 187号)による と,農談会は議決と談話の
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部からなる。決議の部では農政上重要な時事問題 が審議され,出席者の過半の賛同が得られれば県令に建議,これを県当局が了 とすれば県令や布達,告示が出された。談話の部では老農たちが経験談を語り あって情報の交換をおこなう。また,同規則によると,農談会は,第1農 区 =讃岐(伊予国のうち宇摩郡を含む),第2農区=東・中予,第 3農区=南予の 3 つの農区にわかたれた。おなじ伊予国でも,瀬戸内海に面した北部地域と太平 洋側の宇和海に面した南部地域では気候風土がちがい,また北部地域の伊予国 と讃岐国も,おなじ瀬戸内海に面しているが農業のありかたがことなっている という事情を考慮しての農区の設定であった。なお農談会には老農のほか,勧 業世話掛も出席した。いうところの勧業世話掛は郡役所に付属する半官半民の 役人であって,農事に熟達した信望ある土地の篤農家や老農がその役に任じら れた。任務は所轄の管内を巡回視察して農事の実地指導にあたる一方,地域の 農況を郡役所に報告することであった。勧業世話掛からの現況報告は郡役所か ら県庁の勧業課に提出され,勧業課はこれを年報や月報の冊子一一ーさきの明治 13年「愛媛県勧業報告」もそのひとつ一ーにとりまとめたうえ,これを広く県 下に配布するとともに,中央の内務省勧農局に差し出した。このように勧業世 話掛は,地方行政の末端にあって官民の橋渡し役として地方の勧業施策の一端 をになったのである。郡村レベルでの農談会の開催も,彼らの主催するところ であった。 さて I各郡聯合農談会規則」にもとづく第
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回の愛媛県農談会は明治1
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年 2月に開催された。第 l農区の讃岐の場合,その開催地は香川郡の高松で,以 降,第2回は阿野郡の坂出村,第3回は寒川郡の長尾西村での開催であった。 明治1
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年の第4
回以降は,3
農区連合して松山の県庁議事堂で開催された。と ころで,農談会に関する議事録は当時の農業技術と農村事情がわかる貴重な文 献であるが,さいわいなことに愛媛県の場合,第 3 固から第 5 回(明治 16~18 年)までの3
年間の議事録がいまに残されている。議事録のことを,当時 I録 事」といったが,以下 I愛媛聯各郡連合農談会録事J(明治1
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年)および「愛 媛豚農談会録事J (明治1
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年)から,明治1
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年代における香川県の農業の 実情を紹介しよう。 農談会録事にみる明治1
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年代香川の農業事情 明治1
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農区農談会 に来賓として出席した愛媛県勧業課員・速水漕が,開会の挨拶で「パパ (香川 県の土地は一注)開墾スベキ草奔,夙ニ田圃ニ変ジテ余地ナク,栽培ノ法密、ニ733 明治期農政の展開と香川県農業 -71 又密ヲ加エ,改良ノ便法ナキガゴトシト雄ドモ,当農区内ノ愈進テ最急最要ナ ノレ点ハ則チ撰別ノ法方ヲ一層拡張シテ庶民ノ脳奨ニ感染セシムルコト ,EI., 耕 転ニ牛馬耕ヲ専用シテ益々農具ノ運用ヲナサシムノレコト,之ナリ」と述べてい るように,当時,農事改良に対する最大の関心は,牛馬耕とならんで稲の選種 法であった。成熟した穂波のなかから特徴ある穂を引き抜いてこれを原種とす るところのこの選種法は,長年の勘と熟練が必要な篤農的技術である。この選 種法によって全国の各地で稲の新品種が登場したが,香川県でも奈良専二の選 抜になる「奈良早稲」が人々の関心を呼んで、いた。明治
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年愛媛県農談会の談 話の部でも最初にとりあげられたのが,この奈良早稲であった。奈良専ご自身 がその栽培方法を詳しく解説するとともに,出席者に種籾を無料配布して各地 での試作を要望している。また,奈良早稲のほかでは I金時」や「大稲J,I坊 主小七造」などの改良品種が話題となった。坊主小七造は伊予国和気郡吉藤村 の老農・玉井贋二が選抜した稲である。こうした稲の改良品種とともに,種籾 の精選法も話題となった。明治18年の農談会で伊予国越智郡の老農・原島聴訓 が紹介した「塩水選」もそのひとつである。塩水に浸しその比重の大小によっ て種籾を選抜するこの塩水選という方法は,明治15年に時の福岡県農学校教諭 横井時敬が発案したもの、で,その増収効果の大なることから,明治2
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年代以降 全国の農村に急速に広まっていった。 奈良早稲などの稲の籾種は会期中,そのほかの多種多様な農作物や果樹の種 苗とともに開場内の物産陳列所で展示出品された。一般の入場者に購入の便宜 を供することによって,優良種苗を広く県下の農村に普及させようという県当 局の意図からであった。また,物産陳列所には愛媛県勧業試験場からの出品も あった。その出品目録をみると,各府県の農作物とともに欧米の輸入種苗も載っ ている。農業における中央の開明政策の影響を愛媛県農談会にもうかがうこと ができるのであるが,ただ,アメリカ産のジャガイモの種芋やリンゴの苗木, フランス産のナタネの種や松の苗を購入した一般農家がどれだけあったかとな ると,それはおおいに疑問だといわなければならない。 米の新品種とともに農談会で老農たちの関心を呼んだもうひとつのおおきな話題は,讃岐の糖業であった。讃岐糖業が話題となったその背景には,幕藩時 代に隆盛をみた讃岐の砂糖生産が近年, 良質で安価なイギリスなどからの輸入 あきらかな衰退基調にあったという事実があった。糖業振興 砂糖に圧倒され, に関し農談会で審議され談話された題目を摘記すれば,-製糖業者取締ノ義ニ 付,建議j,,-糖業伝習生ヲ海外へ派遣スJレ義ニ付,建議j,,-広東甘薦ノ諮問j, (以上,明治16年農談会), 「砂糖改良釜ノ話j ,-砂糖植付ノ質疑j (明治17年 曲三1rS~吋 民 口 九 五J
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「砂糖ニ就テノ話j (明治1
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年農談会)等々。なお,幕藩時代から明 治中期にいたる讃岐糖業の変遷については,次稿でやや詳しく述べるであろう。 こうした稲作改良や糖業振興に関しその対策として提案されたのが,農談会 や共進会の開催,陳列場の開設,農学校の設立,勧業世話掛の県外視察,農事 功労者の褒賞などであった。ただ,明治1
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年代後半は愛媛県も松方デフレの深 刻な影響下にあって財政は逼迫していたから, これら勧農施策上の提案も審議 するだけに終って, ほとんどが建議されるまでにはいたらなかったというのが 実情であった。 たとえば,明治17年農談会における「米麦外八品共進会開設ノ 件」は「目下民費多端,H
ツ物価ノ激変ニ付,県下人民困難」のため, 「農学校 それぞれ建議に必要な過半の 設立ノ件」は「目下民力ノ耐エ難キ趣」のため, 賛同が得られなかったと議事録は記している。 愛媛県農談会における審議の内容は概略以上のようなものであったが, おわ りに次の1点を指摘しておきたい。それは,明治16年農談会において来賓の愛 媛県勧業課員・速水清が近時における農事改良の重点項目のひとつとして指摘 した牛馬耕のことである。当時,福岡の老農・林遠里が推奨するところの, かかえもったてずさ 抱持立君主による馬耕が水田の乾田化一一ー水田を馬で耕すためには,湿田を乾田 に変えなければならない一一ーとともに全国的におおいに注目されつつあるとい う状況にあり, そのことを踏まえての速水漕の挨拶であった。 しかし愛媛県農 談会では,獣医のこととか,皐丸裁除のこととかの病理・生理上のことは審議 されたが,牛馬耕そのものはとりあげられていない。 というのは, とくに香川 県の場合,水田はほとんどが乾固化され, かつ, その乾田では牛耕が一般化し ているという状況にあったからである。その状況は,明治 14年全国農談会にお735 明治期農政の展開と香川県農業 -73 いて政府からの諮問事項である「牛耕馬耕ト人耕ノ得失」に対して,讃[I皮固か ら出席の久米与平が I我愛媛県讃岐国大内,豊田ノ両郡ハ土質粘力強ケレパ, 牡牛ヲ使ヒ,他ノ十郡ハ軟沙細沙ナレパ牝牛ヲ用ヒテ馬耕ナシ。袋二之ヲ試ミ タノレモノアリシガ適セズシテ止ミ,馬ハ只運搬ニ供スノレノミ。人耕モ深田ニシ テ牛ヲ役スノレ能ノ¥ザノレ場所ニ限ノレ。蓋シ斯ノ如キノ¥実ニ全国(讃岐国一注) 田畑水面ノ万分ノー出デズ」と述べていることからもうかがえよう。のちの統 計(明治37年)であるが,香川県における水田の牛馬耕の普及率は 99,,3%(全 国平均53,,9%) というきわめて高い水準にあった。 香川の老農たち 農談会に集まった老農たちの多くは,各地の村々に住む在 村の地主であった。地主といっても,大正期の小作争議のときに農民たちから 敵視された「寄生地主」とちがい,小作人に土地を貸し付けることもするが自 分でも作男や作女を雇ってみずから農業を営む手作りの地主であった。その農 事経験のなかからあたらしい農作物の開発と農業技術の改良をおこない,村の 指導者として活躍し,地域の発展につくしたのである。ときに「豪農」と彼ら が呼ばれたゆえんである。明治の10年代から20年代にかけて地域農業の発展 を根底でささえていたのは,彼ら老農たちであった。国家建設の途上にあった 明治という若々しい時代を背景に,こうした健康で活動的な社会層が農村に誕 生したのであった。 香川県の場合,そうした老農の典型なすがたを,これまでの叙述のなかでも たびたび登場したところの奈良専二にみることができるであろう。専ご:は三木 郡池戸村の豪農の出身で,群馬県の船津伝次平,奈良県の中村直三とともに, 一時,明治
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老農の1人に数えられたほどに全国に著名な老農であった。彼は, 第3回愛媛県農談会が開催された明治16年の暮, 61歳の高齢にもかかわらず 単身上京,三田育種所での研究生活ののち千葉県をはじめとして全国各地で農 事の指導にあたったが,秋田県仙北郡の寒冷の地が専二最後の活躍の場となっ た。齢75歳,実地指導中の突然の死であったという。著書には『農家得役弁』 (明治1
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年), w新撰米作改良法J(明治2
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年), ~商務栽培調理法 D (明治2
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年) などがあり,なかんずく E農家得役弁1は専こが地元香川で習得した農業技術の集大成ともいうべき書であった。野良仕事での運搬に便利な一輪車のあの「猫 車」は専二の発明になるもので農家得役弁』には,この猫車のことが「我讃 さんすうこうへき 州ニ在テ,山師荒僻ノ地ノ¥戸ゴトニ此器ヲ蓄へザ、1レナシ。真ニ使用トス」と記 されている。 ここに,愛媛県農談会のメンバーであった勧業世話掛および老農を老農たち ということで一括し,その氏名と在住の村の名を表
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に掲げておこう。もちろ ん彼らをもって香川の老農すべてとするわけではないが,明治10年代香川の代 表的老農ということになれば,やはり愛媛県農談会に結集したこれら老農たち 表1 香川の老農たち 郡 l氏 名(出身村) 君日 氏 名(出身村) 三 野 郡 大久保謡之主主(財田村) 三 木 郡 植村武一郎(池戸村) 小 野 隣 吉 ( 上 高 瀬 村 ) 奈 良 専 二 ( 池 戸 村 ) 回尾定之森(松崎村) 小 豆 郡 水 野 金 七 ( 西 村 ) 阿 野 郡 鴨 部 底 二 ( 西 分 村 ) 明回一善四郎(池田村) 駿 田 官 三 ( 萱 原 村 ) 山 崎 茂 市 ( 下 村 ) 井上 善七(氏昔日村) 高橋喜太郎(長浜村) 安 井 勇 平 ( 福 江 村 ) 西川亀三郎(上分村) 山 本 文 長 ( 西 庄 村 ) 丸富久一郎(小江村) 片 山 蛍 貞 ( 瀧 宮 村 ) 多 度 郡 乾 金 次 郎 ( 中 村 ) 豊 田 郡 宮 武 闘 彦 ( 古 川 村 ) 石原伊三郎(生野村) 石井文太郎(新田村) 大 内 郡 久 米 与 平 ( 馬 宿 村 ) 高 橋 康 平 ( 大 野 原 村 ) 六 車 三 郎 ( 丹 生 村 ) 原 嘉吉(辻村) 高島 遥(川東村) 那 珂 郡 和泉理太郎(金蔵寺村) 鵜 足 郡 原 友三(宇多津村) 七 条 元 治 ( 板 井 村 ) 宮 井 知 良 ( 川 原 村 ) 横井朋太郎(今津村) 熊 田 秀 平 ( 栗 熊 東 村 ) 山 内 太 平 ( 中 府 村 ) 香川│郡 松 崎 林(上ノ村) 山 田 郡 太 田 元 造 ( 南 亀 田 村 ) 三木 始(百相村) 大 場 長 平 ( 六 条 村 ) 片 山 速 太 ( 勅 使 村 ) 寒 川 郡 多国 乙八(図面村) 尾形多五郎(安原村) 国方 消平(長尾東村) 宮武清三郎(万蔵村) 小西甚之助(長尾名村) 松本武次郎(横井村) 注) ,愛媛県高各郡連合農談会録事J(明治16),,愛媛県系農談会録事J(明治17,18)よ り作成.737 明治期農政の展開と香川県農業 -75ー ということになるであろう。 明治10年代,全国各地でさかんであった農談会は,しかし明治20年代にな ると衰退する。情報交換の場として効果的であっても,農業技術をひろく農村 に普及させるという点になると,組織として有効に機能しなかっただけではな い。そもそも農談会をささえていた老農や豪農たちが農事をはなれてしだ、いに 寄生地主化し,農村の指導者的側面を失っていったからである。松方デフレに よって自作農の没落がいちじるしかった明治10年代後半から明治20年代の前 半は,日本の地主制にとってまさにその確立期であった。そして農村の支配階 級に成長した地主たちが政治の舞台に進出したとき,地主階級の利害を政治的 に実現させる農政が展開することになるのである。 II 地主的農政の展開 地主制の確立一一回地主,政治の舞台へ 明治
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月に愛媛県に合併されて から 12年後の明治21年12月,数次にわたる分県独立運動を経て香川県は愛媛 県から分離独立した。その翌月の明治22年1月,帝国議会開設にむけて第1回 の県会議員選挙がおこなわれた。県会議員の被選挙資格は地租10円以上納入者 に限定されたから,地主層の政治進出は当然予想されたことであったが,事実, 香川県の当選議員の職業別内訳をみると,議員総数36人のうち,そのほぼ3分 の2にあたる 23人が地主議員であった。当選議員名簿に乾金次郎や大久保謀之 恭,小西甚之助,尾形多五郎の名があるが,彼らはいずれも 10年代の農談会で 活躍したメンバーであった。明治 10年代の農談会に老農として出席した彼ら は,こんどは地主の資格において県会にのぞんだのである。 明治23年 11月25日の第1回帝国議会召集にむけて日本最初の衆議院議員 選挙がその4カ月前の明治23年7月におこなわれた。直接国税15円以上納入 者を選挙・被選挙権者とする限定選挙をとおして,地主層の大幅な国会進出が 実現した。衆議院についてその選挙結果をみると,議員総数300人のうち地主 階級を直接代表する議員の数は129人であった。これは他の階層をひきはなし て断然1
位である。香川県からは5
人の衆議院議員が誕生したが,その1
人は,自由民権運動が全国を席巻していたさなかの明治
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年,単身上京して政府の要 人たちに国会開設を請願したあの小西甚之助であった。明治18年愛媛県農談会 の会長をつとめたのも小西甚之助でトあったことを,ここに指摘しておこう。 こうして帝国議会という国家の最高権力の場で政治的発言力を付与された地 主たちは,みずからの要求にそって明治政権を動かす権利を獲得した。だが, 日清戦争が勃発するまでの初期帝国議会での地主たちの関心事はもっぱら地租 軽減問題に集中し,農業そのものにかかわる地主的な要求が農政の上に反映す るようになるのは明治30年前後のことであった。 地主的農政と明治農法 ところで,そのうえで地主的農政が展開する日本の 農業経営は,明治維新以降も徳川幕藩在会からそのまま継続する伝来的な零細 農民のそれであった。地租改正によって近代的土地所有権は成立したが,農村 の貧しさは旧来のままで,とりわけ,地主制のもと,高額現物小作料の収奪に 苦しむ多数の小作農民に経営規模拡大のための資金蓄積の余地などまったくな く,裸の労働力だけが唯一の財産という状況であった。 こうした貧しい小作農の零細経営を前提として農業生産力(=単位面積当た り収量)を高め小作料を増やそうとすれば,そのとりうる道はただひとつ,土 地と水の条件を改善・整備しつつ農民経営に滞留する農家労働力と効能的な肥 料を一段と集約的に投下すること,そしてさらには,このような多労多肥のも とで最大限の増産と品質改善が可能となるような品種を育てることであった。 明治期,農業生産力上昇の時期に西日本ではやく東北・北陸でおそいといった 地域差はあるが,総じて日本の各地域で稲作の反当収量は急速にのびていった。 それを可能にしたのが,いわゆる「明治農法」の展開であった。日清戦争から 日露戦争の時期にかけてのころがその確立の時期といわれている。 それでは,いうところの明治農法とは何か。明治農法一一それは,全国各地 の老農たちの手によって開発されたさまざまな農事改良技術が相互に関連しつ つひとつのあたらしい体系へとっくりあげられていった,そのような稲作生産 上の技術体系をいう。ここであらためて明治農法の内容を確認すれば,(I)r雄 町J,r神力J,r愛国」などの多肥多収品種の普及, (2)購買肥料の増投一一日清739 明治期農政の展開と香川県農業 77 戦争以前は魚、粕や油粕,以後は大豆粕一一,
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塩水選,短冊苗代,正条植など の集約栽培法, (4)畜力耕による深耕と水田除草機による中耕除草の効率化, (5) 耕地整理と乾田化, ということになるであろう。このような「多労」と「多肥」 を基調とする明治農法はその原形を明治期に形成して以降,戦後の高度経済成 長期前夜までその姿を変えることなく存続した。そしてじっは香川県こそは, このような多肥多労の農業が全国でもっとも典型的に展開した地域であった。 明治農法の展開にとって研究施設面でわすれてならないのは,農事試験場の 設置である。すなわち,明治26年に国立農事試験場が発足したのち,明治 32年 に「府県農事試験場国庫補助法」が制定されたことを機に,各府県で府県農事 試験場が次々と設置された。そしてその結果,従来,豪農層の手にゆだねられ ていた新品種の育成が,公的機関である政府や府県の農事試験場でおこなわれ ることになったのである。香川県の場合,香川郡の栗林村に県の農事試験場が 設立されたのは明治 32 年 4 月のことである。『香川県農業試験場七‘十年史~ (昭 和44年刊)によると,創立当時の試験場は職員といっても場長と数名の技師だ けで,一町歩の圃場と民家を借りての事業の開始であった。場長には東京帝国 大学農学部出身の福家梅太郎が就任した。水田試験場では「神力Jr雄町Jr器 量能」などの品種が実験栽培されたが,これらはいず、れも「老農品種」と称さ れた多肥多収性品種であった。なお,県農事試験場の設立に前後して,大川, 綾歌,仲多度,三豊の4
郡に郡農事試験場が設立されたが,予算経費の確保が むつかししこれという成果もあげ得ないまま次々と廃止されていった。 さてそれでは,明治の後半,香川県において地主的農政はどのように展開し たか,その変遷の過程を,以下,表2の年表を参照にしながら概観しよう。地 主的農政の展開を問題にするとき,まずもって言及しなければならないのは, 農会一系統農会の設立である。この農会一系統農会の組織をとおして,明治農 法は日本の農村にひろく普及浸透していくことになる。 農会一系統農会の設立 地主がその老農的一農業技術指導者的側面をしだい に喪失していく現実を前にして,農事改良組織としての農会を設立しようとす る動きはすでに明治20年代の前半,全国各地で自然発生的に生まれつつあっ表2 明治後期農政史略年表 年 次 中 央 香 川 県 明治28 4 1日清戦争おわる(下関条約締結) 31 5 町村良会規則制定 32 4 6 I民会法制定 香川県農事試験場開設 33..101 短冊苗代督励の訓令 34 1 1 香川郡段会設立 (以降 9月までに各郡市良会設立) 9 I 香川県農会設立 36 101農会へ14項目農事改良の諭逮 37 2 I日露戦争はじまる 38 9 I日露講和条約 時局注意事項の告諭 40 3 I 米穀検査規則制定 41 10 I戊申詔害発布 43 3 I 香川県勧業七年計画はじまる た。わが国最初の系統農会と称せられる京都府農会が成立したのは,明治
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年 のことである。香川県でも,明治28年10月11日の香川新報は,阿野鵜足郡の 地主某が郡内の有志、に農会設立を呼びかけたことを報じている。こうした民間 レベノレでの農会設立の全国的動向を踏まえつつ,また,中央政界での強力な系 統農会組織運動を背景に,農会の基本法たる「農会法」が明治32年6月に制定 され,そして農会組織にかかわる「農会令」が翌明治33年2月に公布され,こ こに農会にかかわる国家レベルでの法制度が整備された。なお,農会を系統農 会と称するのは,農会の構成が下級の町村農会,中級の郡農会,上級の県農会 という組織系統をとるからである。農会 系統農会が設立されたことによって, 農政当局は県下の農村をあますところなく掌握することが可能となった。最上 級の帝国農会が設立されたのは,日露戦後の明治 43年のことである。 農会は,農会法の第1条に「農事の改良発達を計る為に設立するものとす」 とあるように,農事改良のための農民団体であった。下級の町村農会の場合, その内部構成は,地主も自作も小作も管轄区域の農民はすべて含まれる建前に なっている。したがってよくそのようにいわれるように,地主を将校,自作を741 明治期農政の展開と香川県農業 -79-下士官,小作を兵卒とするところの農村の階層的身分秩序が農会のなかへその ままもちこまれることになったのであり,したがって農会はその内部構成上, 地主勢力が主導する農民団体であったということができるであろう。こうして 農会は,地主的農政の展開にふさわしい農民団体として出発することとなった。 のちに述べる香川県勧業七年計画においては計商事業の実施団体として,昭和 恐慌期には農山漁村経済更生運動の推進母体として,また昭和
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年代の戦時経 済下には経済統制と食糧増産の管理機関としてわが国農政の重要な一翼をにな いつづけることになるのである。なお,明治38年に会員の強制加入制が導入さ れ,大正11年に会費の強制徴収権が認められて農会組織の強化がはかられたこ とを指摘しておこう。 補助金政策と地租増徴 農会法の制定に関し,わが国勧農施設・農業保護の 政策体系の整備との関連において言及しておかなければならないことは,農会 法制定を機に農業補助金政策がその端緒的成立をみたということである。農会 法の第5
条がうたう年額1
5
万円以下の補助金の交付は,まさにこの点にかかわ る。農業補助金政策をこの時期に登場せしめた直接の要因は,日清戦後の「戦 後経営」にともなう財政規模の拡大によってひきおこされた地租の増徴一一ー地 租率2ゎ5%から 3..3%への増加一ーで、あった。日清戦争を契機として飛躍的に膨 張した国家財政と政府需要を経常的に維持・拡大しようとした明治政府の戦後 経営において,軍備拡張を中心として鉄道の建設,電話の敷設,治山治水,植 民地経営など,さまざまな新事業が立案実施された。そしてこのような新事業 実施のための行政費の財源が,酒税の増徴,営業費の新設などとともに,地租 の増徴にもとめられたのである。しかし他方,貧しい農家にとって地租の増徴 が重い負担となったことはいうまでもない。いま,香川県の場合について,そ のことを記す記事を香川新報の紙面からひろえば,明治32年 1月 19日付けの 「撤して志士,仁人に訴ふ」と題した鵜足郡の1農家の投稿文は,当今の自作 あした 農家の苦しい生活ぶりをあきらかにしつつ r世の志士,仁人たる者,長に星を ふん 戴きて出て,夕方に月を履で帰り,日も猶ほ足らざる彼の可憐なる農民に一滴 の血涙なくて可ならんや。今や地租増率は己に法律をもって命ぜられたり。三S -g a l b l ぷ F O ﹄ 2 2 u 千万農民の利益を保護する者はそれ誰の責ぞ,起よ,志士,晶めよや」と,地 租増徴の不当を世論に訴え,また 2月4日付けの「増租後の影響」と題する 記事は, r (県内郡村の地価が 注)二割及至二割五分方下落して地租増徴の為 めに農家の財産二割方を奪ひ去られ……」と,地価下落のことが報じられてい る。もちろん,こうした地租増徴に対する農家の不平不満は全国的のものであっ たO 農会に対する農業補助金の交付は,さしずめ地租増徴に対する緩和策とし ておこなわれたのであった。が,農業補助金政策はこれを機にその対象が耕地 整理事業の分野などにも拡大されるとともに,金額自体もしだ、いに増額されて 日本農政をささえる一翼として定着していく。 香川県の農会とその事業 香川県の場合,町村農会について県当局は,農会 法が制定される以前すでに r町村農会規則」を制定(明治
3
1
年5
月)してそ の設立を勧奨したが,農会法の制定はいっそう町村農会の結成をうながし,日 露戦争後の明治44年の時点で農会をもたない町村は,県下175町村のうちわず か 4町村という発達ぶ、りであった。大川郡農会など 7つの郡農会ならびに高松, 丸亀の2つの市農会は明治34年1月の香川郡農会を皮ぎりに順次設立され,県 農会はこれら郡市農会がすべて出揃ったところで同年9
月に創立された。 さて,農会の活動状況はどうであったか。明治36年3月の香川新報の記事に よると,三豊郡農会の場合,予算額約1700円のうち事業費は511円で,その主 な事業は稲作立毛品評会・麦稗真田品評会・農談会などの開催,蚕業巡回教師 の派遣,産米改良・害虫駆除などへの補助であった。また翌37年4月の香川新 報によると,高松市農会の主催で市役所に参集した西浜町や東浜村の農家が各 自持参の米・麦の籾種の塩水選の実験をおこなっている。高松市農会における 塩水選の奨励はその小さな事例にすぎないが,総じて農会組織は明治農法が農 村に浸透普及するパイプの役割をはたすことになった。 ところで,明治農法の農村への浸透普:及ということになれば,農会の活動と ともにわすれてならないのは,当時,官府自らの手によっておこなわれた農事 の強制的指導一一いわゆるサーベル農政のことに言及しておかねばならない。 その対象となったのは主として短冊苗代や共同苗代であった。香川県出身の政743 明治期農政の展開と香川県農業 81-友会代議士井上甚太郎が,貿易上農産物の増産,国防上米の自給自足体制の確 立が必要との根拠から,農家に対し塩水選,短冊苗代,共同苗代などの農事改 良を強制する必要のあることを説いたのは,日露開戦前年の明治36年 5月第 18議会においてであった。井上のいう国防上とはいうまでもなく日露の逼迫し た対外関係のことであるが,貿易上とは,明治30年を転機としてそれ以降日本 が米の輸出国から輸入国に転じ,その輸入量の漸増による貿易赤字の拡大が圏 内産業の発展に支障となることが懸念されるようになった,そのような状況を さしている。 サーベル農政と短冊苗代 香川県の場合,明治33年 10月に出された短冊型 苗代督励の訓令が,官府による稲作指導の典型的な事例であろう。「短冊苗代ハ 播種ニ厚薄無ク,肥料及給水モ亦周到普及シ,特ニ害虫ノ採卵,殺蛾,雑草抜 去等ニ際シテ最モ便利ナノレノ¥,従来各地方ノ実験ニ徴シテ明白ナリJ,とはじま るこの訓令の末尾に r警察官吏,郡市吏員監視ノ際,短珊形ニ設置セザルモノ ハソノ作人ヲシテ幅三尺ヲ超エザソレ短朋形ニ改設セシムノレ事」との注意事項が 附されたように,短冊苗代の設営は強制的であった。翌明治
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年には,県の指 示にしたがわぬ耕作人は科料の罪に問う旨の県令が出され,県当局の稲作指導 は法的制裁をともなうものとなった。いうところの短冊苗代とは,従来の不整 形な苗代とちがって,蒔幅を狭くして蒔床を畦畔で区切った矩形状の苗代で, ※ 上に引用の訓令文中にもあるとおり害虫の駆除にとくに便利であった。 ※ 官府が強権をもって農民の生産過程に直接干渉するようになった直接 の契機は,ほかならぬ稲の虫害であった。当時の防除技術は松明や油で 害虫を焼き殺す程度のものでしかなく,ひとたび害虫が発生すれば稲の 枯死していくのをただみまもるしか術がないというまことに幼稚な水準 にあった。とりわけ気候の温暖な香川の農村は害虫の多発地帯で,害虫 が広域に発生した場合の被害は甚大であった。たとえば,ウンカが大量 に発生した明治 30年は前年の 30パーセント以上もの大減収であった と,香川新報は報じている。ちなみに,明治29年 8月公布の県令「害虫 駆除予防規則」には,駆除予防の対象となるべき害虫に,右のウンカのほか, ドウムシ,ツトムシ,ヲガ,ダイミョウノfッタ,ヨトウムシ,コ ガネムシ,シャクトリムシ,ケムシの,以上8種が掲げられている。 こうして明治30年代の中ごろ,讃岐の農村はいたるところで,県や郡の役人 がサーベルを下げた警官をともなって農民の苗代づくりを監視するという異様 な光景がみられたのである。それは世に「サーベル農政」一一一この呼称は 18世 紀プロシャのフリードリッヒ大王によって「頑愚なる農民」に対しサーベルに よる啓蒙的農事指導がくわえられたことにちなむーーと呼ばれて農民たちの反 発と怨嵯の的となった。しかし反面,それは短冊苗代や共同苗代というあたら しい稲作栽培技術が従来の慣行的農法の壁をうちこわして農村に普及していく 過程でもあった。こうした圧政的な農事指導は,香川県の場合も全国的にも日 露戦後から40年代にかけていっそう強化されていく。次にみるところの香川県 における勧業七年計画(明治 43~大正 5 年)は,まさにそうした農事強制の集 大成といってよい事業であった。 記述を農会のことにもどそう。設立聞ない農会であったが,日露戦争の勃発 によって早速に農会は,一般農家に対する農事改良の実施督励という重い責務 を負わされることとなった。 日露戦争と時局注意事項 目露開戦が間近にせまった明治36年10月,農商 務省は圏内の食糧自給体制を強化すべく全国の農会に対し,農事改良上の注意 事項を諭達した。 14項目にわたる注意事項において,米作一産米改良を基幹と し,これに耕地整理と牛馬耕を結合して農事改良をおこない,あわせて養蚕・ 畜牛・養鶏を副業とすることが奨励された。他方,香川県当局においては明治 37年 4月,県において督励すべき時局注意事項をさだめた告諭を発して県下に 広くその実行をもとめた。すなわち,告諭にいわく,..…"過般,農商務省農事 試験場ニ於テ時局ニ対スル農事上ノ注意事項ヲ頒チ,一般農業者ニ向ッテ警告 スル所アリ。"“"即チ米作ニ就テハ種籾塩水選,共同苗代実行ノ勧誘,稲田正 条植,苗代田ニ於ケノレ病虫害ノ防除,雑草削取及焼却,乾燥法ノ完全ヲ期スル ガ如キ,麦作ニ就テハ麦種塩水選,補肥ノ施周期,収穫時期ヲ誤ラザル事,乾 燥法ノ完全ヲ期スノレ事,麦奴抜除ノ如キ,肥料ニ関スル注意ニ就テハ緑肥用大
745 明治期農政の展開と香川県農業 ~8:ヲ 豆ノ間作,堆肥改良ノ如キ,是皆学説ニ基キ各所ノ実験ニ徴シ執モ収穫ヲ増加 シ良品ヲ得ルノ方法手段ニシテ,市シテ県下農業ノ短戸斤欠点ニ非ザ、ルハナシ。 其他蚕業,麦稗真田製造ノ拡張,勤倹貯蓄普及ノ件ノ如キ,是等皆時局ニ対シ 農家ノ当ニ務ムベキ急務タリ…」と。右の告諭文中,肥料用に大豆の栽培が 奨励されているが,これは,日露開戦にともなって大陸からの大豆粕輸入の途 絶と北海道産のニシン粕輸送の困難が予想されたからである。県当局は同年
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月と翌年1月,いっそう注意事項の励行につとめるよう,さらに告諭を発して いる。 こうした告諭に対し,その意を体して農会がその実施励行の責務をになった ことはさきに述べた。各郡農会は郡内各所に農会役員による相談会を開設し, また,あらたに実行委員や巡回教師を設けて注意事項の周知徹底をはかった。 香川郡農会の実行委員のひとりは,明治1
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年愛媛県農談会において第1
農区の 会長をつとめ,のち県会議員として活躍したあの尾形多五郎であった。綾歌郡 では農村の主婦らを対象に松山村の農会が主催して農事改良にかかわる婦人農 談会を開催している。このような農会の指導奨励によって,塩水選や正条植な どは香川の農村に普及していった。日露戦争という国事上の大事件は,香川県 農業にとっても日本農業全体にとっても明治農法がいっそう大きく進展する契 機となったのである。そして香川県の場合,そのさらなる進展をもたらしたの は,戦後聞なく実施された香川県勧業七年計画であった。この七年計画によっ て,さきの時局詮意事項を基軸に産業全般にわたる指導と督励が,いまや県下 全域を網羅した農会組織をとおしておこなわれたのであった。 香川県における日露戦後の農政に関して,勧業七年計画のほかにもうひとつ, 特筆すべきあらたな展開があった。米穀検査事業がそれである。以下,日露戦 後の香川県農政においていずれも画期的な農業施策となった香川県勧業七年計 画および米穀検査事業について,それぞれI
I
I
とI
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でその内容と経緯を概観しょ フ。旧 日露戦後の県農政 一ーその
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香川県勧業七年計画一一 日露戦後経営と日本経済 当時の日本にとって,日露戦争はまことに荷の重 い国力にあまる戦争であった。費やしたその戦費17億円は明治 36年の国家予 算の約 7倍にあたる。この巨額の戦費を調達するために政府のおこなった財政 措置は,外債を中心とした国債の発行であった。だが戦後,この国債をどう整 理するかが国家財政上の緊急課題となった。というのは日清戦争のときとち がって,日露講和条約(明治38年 9月)が締結されて関東州の租借権などは獲 得はしたが肝心の賠償金はついに得ることができず,国債の支払いにあてるべ き政府財源が確保できなかったからである。日露戦後は日清戦後のときよりも, そのおかれた経済状況ははるかにきびしかったといわなければならない。 日露戦争後,はからずも欧米の帝国主義列強と伍することになった日本は, これからの争覇戦にそなえるべくいっそうの軍備拡張をすすめなければならな かった。ょうやく発展の軌道にのりだした重工業部門を育成するために鉄道を 敷設し通信網を整備し電力事業を振興することなども,軍備の拡張とならんで 戦後の大きな課題であった。さらに,あらたに獲得した植民地の経営問題もあ る。こうした一連の事業からなる日露「戦後経営」をおしすすめていくには, それ相応の財政支出が当然必要である。政府が戦時中に設定した非常特別税を 戦後に永久税に移行させたのも,そのための法的措置であった。非常特別税中 もっとも大きな比重をしめた租税は地租であったが,戦時中に33%から 4れ3% へ,さらに5ゅ5%へと二度にわたって増徴され,そして戦後,永久税化した。 「戦後経営」上の財政問題は,戦後恐慌と不況の慢性化のもとで米価低落に苦 しむ農民に対し,さらに地租の大幅増徴という大きな負担を強いることになっ たのである。 財政問題のほかにもうひとつ,日露「戦後経営」が直面した問題は,恒常化 傾向にある貿易赤字をどう解消するか,という国際収支上の問題であった。日 露戦争以降,貿易収支が赤字に転じた最大の原因は,外米の輸入であった。さ747 明治期農政の展開と香川県農業 -85 きに指摘したように明治 30年を境に日本は米の輸入国に転じたが,明治 40年 代には国際収支に危機的状況が生じるま?に米の輸入量は増えたのである。そ の原因たる米消費量の急増が都市人口の膨張によってもたらされたことはいう までもない。 地租の大幅増徴だけでなく安価な外米の大量輸入という事態に対応して,農 業保護の立場から米穀関税が成立をみたのは明治39年の第 22回帝国議会で あった。しかし他方,困難な戦後経営をのりきるためにいっそう重要なことは, 国力そのものを充実させることであり,したがって農業を含めた産業全般を生 産力的に発展させることである。そしたまた時代の空気も,官民あげての精進 と努力なしには戦後のこの難局をのりきることができないという国家的高揚の なかにあった。あの有名な戊申詔書が発せられたのは,ときあたかも明治 41年 10月のことである。詔書にいわし「ー…顧ミノレニ月日進行ノ大勢ニ伴ヒ,文明 ノ恩沢ヲ共ニセントスル,固ヨリ内,国運ノ発展ニ須ツ。戦後日尚浅ク,庶政 益々更張ヲ要ス。宜ク上下心ヲーニシ,忠実業ニ服シ,勤倹産ヲ治メ,惟レ信, 惟レ義,醇厚俗ヲ成シ,華ヲ去リ実ニ就キ,荒怠相誠メ,自彊息マザ1レベシ」 と。香川県勧業七年計画樹立の直接の契機となったのも,じつはこの戊申詔書 であった。 香川県勧業七年計画の計画概要と実施体制 明治20年代以降における明治 農法の展開を背景に,明治37年の時局注意事項告諭を継承しつつ,香川県勧業 七年計画が明治 43年から開始された。農会ならびに県農事試験場との密接な連 携のもとに推進されたこの七年計画は,その範囲が農業・商工業・水産業・林 業の産業全般にわたる。ただし明治 43~44 年当時,図 1-1 ・ 2 にみるとおり香川 県は戸数においても生産価額においても圧倒的に農業県であった。生産価額に おいて工業の比率がやや高いが当時は工業といってもその実態は伝来的な手工 業一一酒,醤油,木綿などのーーであり,したがって,勧業七年計画もその中 心は当然,農業ということになる。さらにもう 1点,統計的事実を指摘するな ら農産物生産価額において米麦だけで全体のおよそ8割が占められていた。 さて,七年計画において農業分野で設定された計画事項は,(1)米, (2)麦, (3)
図1-1 産業別戸数割合(明治43年) 図1-2 産業別生産価額割合(明治 44年) 漁業 (26%) 商業 (144%) 工業 (52%) その他 農 業 (678%) 注)I香川県統計書』より作成. 肥料, (4)耕地整理, (5)畜牛, (6)養鶏,(7)養蚕, (8)柑橘,の以上 8項目で,それ ぞれの計画事項の計画内容は,次のようであった(農家副業の麦稗真田は商工 業部門に含まれている)。 第lの米については近年の収穫高平均82万石(およそ 12..3万トン)を 100万 石の水準にまで高め,そのために「香川神力」や「雄町」など県農業試験場の 栽培実験になる優良品種の普及をはかるほか,耕地整理事業の実施,品評会の 開催,模範作人の設置などがその対策としてあげられた。一般農家に対する指 導は郡農会や市農会がこれにあたる。栽培技術に関して塩水選や共同苗代,正 条植などが推奨されたのは,これまでの勧農施策展開の経緯からして当然のこ とであった。 第2の麦については54万2000石の平均収穫高を 67万5000石にふやす計画 で,そのため米の場合とおなじ施設や方策が講じられることとなった。 第3の,近年漸増傾向にある金肥の使用を抑制するための肥料改善計画では, 大豆やレンゲなど緑肥作物の栽培を中心に堆肥舎の建設や肥料の共同購入が提 案された。 第 4の耕地整理事業は土地改良事業を実施する一方,ため池を統廃合して用 水慣行の是正をおしすすめる計画であった。 第5の畜牛については牛耕促進と厩肥確保のために畜牛の増産をはかり,第
749 明治期農政の展開と香川県農業 87-6の養鶏については農家の副業として養鶏業の発達をうながす計画であった。 第
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の養蚕振興事業は養蚕伝習所や模範農園を設置するほか,県農会が栽培 した桑の苗を農家に安く配付したり同業組合を組織することなどがその方策と して強調された。 第8の柑橘栽培については,栽培面積の拡大とともに共同販売・共同購入の ための同業組合の設立がうたわれた。 次に計画の実施体制であるが,県全域を17の農区にわけで 1農区を事業遂行 上の基礎単位とする一方,さらにこれら 17の農区の大小を勘案しつつ 13の地 区が設定され,各地区には県の技師が駐在することとなった。これら県の技師 たちは県農業試験場で開発された改良品種や栽培技術の普及のため町村農会技 術員の指導と奨励にあたる一方,そのあたらしい栽培方法を率先してこころみ る農民が選ばれた。これを模範作人と呼んだが,大川郡の場合,実施初年度の 明治43年の模範作人は総勢184人で,相生村10人,引田村8人,小海村3人 などと,各町村の農家戸数を案分しての割当てがおこなわれた。模範作人の耕 作する土地は模範田と呼ばれ,栽培方法を記した立札を立てて一般の参観に供 した。しかし模範作人のなかにはあたらしい技術にどうしでもなじめず,模範 田の経営を放棄する者もいたようである。 さて,勧業七年計画の町村段階での実施状況はどのようであったか。いまこ こで,仲多度郡の竜川村をとりあげてその模様を紹介しよう。当時の竜川村は, 耕地面積355町歩のうちその 98%が水田で,水田の 96%が排水操作が可能な 2 毛作であり,総戸数の70%が農家という,仲多度平野における平坦水団地帯の 代表的農村であった。七年計画の実行組織である農区でいえば,竜川村は仲多 度郡北部を区域とする 13良区に属する。 竜川村における七年計画の実施状況 まず種籾の選種方法については,従来 と う み は唐箕と呼ばれる大きな木製の器具による,風力を利用した種子の選別がおこ なわれていたが,明治30年代以降は塩水選が県当局の強い奨励もあってしだい に普及し,七年計画が実施中の大正期に入ると竜川村のほとんどの農家が塩水 選による種籾の選別をおこなうようになった。そしてこの時期,稲の品種は「香川神力」が主流となった。 つぎに苗代の改良については,七年計画の実施を契機に竜川村でも従来の不 整形な苗代にかわって幅4尺の短朋形の苗代の設置が普通となった。農家 5戸 以上もしくは
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反以上の共同苗代の設営も七年計画の奨励事項であったが, あ まり普及せず,実施された場合も計画期間の完了とともにもとの個人苗代にも どった。共同苗代が定着しなかったのは,農家ごとに作業のすすみ具合がこと なるため苗代の管理がむつかしいことにくわえて,苗代田の適当な提供者がみ っかりにくかったからである。 田植えを左右に真直にする正条植についてはその普及に大きく寄与したの が,新式の田植え器と除草機の登場であった。七年計画で正条植が推奨された のは,正条植によって除草が容易になり,除草することで虫害の発生を未然に 防ごうというねらいからであった。 とはいっても,除草作業は稲作労働のなか でももっとも骨の折れる作業のひとつであることにかわりはなし たいちぐるま その骨の折 れる作業が「太一車」と呼ばれる除草機の登場によって解消されることとなっ た。新式の田植え器の方は,従来の「ハシコ守定規」にかわる「反転四角定規」 である。操作が簡単な反転四角定規と効率的な太一車が組みあわさることに よって,従来の乱雑植えは竜川村からも急速に姿を消していった。なお,竜川 村内にある仲多度郡農事試験場から発刊の明治 37年『農事試験場成績』の巻頭 に太一車のことが数え歌風に r急ぎて悪癖打ち捨てて,便利極まる除草器の, 太一車を使用せよ」とか, 「安々婦女子も用いらる,太一車を買ひ求め,煙草の と歌われている。農事試験場も改良農具の普及に一役買って みのみ押し回せ」 いたのであるが,それはともかく,立ったままで除草のできる太一車は,従来, 炎天のもと, はいつくばっておこなった除草作業とはくらべものにならないほ ど便利な農具であった。 また,肥料については,七年計画では稲藁などの堆肥の増産も計画事項のひ とつであったが,竜川村では堆肥の増産計画は期待どおりにすすまなかった。 それは当時,西讃地方において製塩袋用の臥の製造が盛行したためで,大正の 中ごろ, 竜川村では稲葉のほぼ半分が臥製造に使われたという。751 明治期農政の展開と香川県農業 89 勧業七年計画の成果 七年計画の進捗状況はどうであったか。計画の最終年 次である大正
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年5
月の『香川新報』に計画の進捗状況を記した記事「香川県 勧業七年計画成績」が掲載されているが,その記事から米麦作の状況をみると, 共同苗代のように香川の農村に定着しなかったものもあるが,塩水選はおおい に普及し,また,試験場が推奨する米麦の改良作も広範囲に普及するところと なった。勧業七年計画は,計画事項により地域によって達成の水準に高低はあ るが,ほぽ予期した成績をあげて終了したといえるて守あろう。この点は,大川 郡役所が大正5
年に各町村に宛てた訓示に「其成績概ネ可良ナリ」と述べてい ることからもうかがえるであろう。 石 3 2 O 明 治 図2 水稲反収の趨向曲線(香川県)(明治 22~ 昭和 12) 22 25 30 35 大 正 40 5 昭 和 10 5 1012 注)w香川県統計書』より作成. コメは綬米。綬米/総収穫高 =92%(明治40年). いま,明治22年から昭和10年代はじめまでの香川県の水田反収の変選をた どれば,それは図2にみるように大正の中ごろまで着実に上昇しつづけていた ことが確認できるであろう。それはまた,香川県農業における明治農法展開の 軌跡でもあった。そして大正5-13
年の年平均反収2
リ3
3
石は戦前の最高位を 示すのである。この反当たり収量2
.
.
3
3
石は奈良や大阪とともに全国で最高位のここに勧業七年計画における稲作改良事業がもたらした増産の クラスに入る。 成果がはっきりとうかがわれる。ただ,大正
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年頃の金肥の使用量が明治3
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年 ころの5
倍以上に達していることを思えば,香川県の集約的農業はこのころほ これも図2にあきらか ぽ限界に達したといっていい。事実,昭和期になると, なように稲作の生産力は停滞もしくは後退の傾向となる。その意味でも勧業七 年計画は香川県農業発達史における画期となったといえるであろう。 日露戦後の県農政I
V
米穀検査 一一ーその2 日清戦争を機に日本の資本主義が紡績工業を基軸に 全国的米穀市場の形成 とり その姿をととのえていくにつれて,鉄道網もしだいに整備されていった。 わけ,軍事的・経済的要請から明治国家権力が主要鉄道路線の直接的掌握にの りだした日露戦争以後,国鉄を基軸とする鉄道網の発展が顕著となる。門司一鹿 児島聞が全通して青森一長崎・鹿児島の内地縦断幹線が完成したのが明治42 年,東京・名古屋間の中央線開通は明治44年のことであった。 日本の背骨をな すこの基幹線路からは数多くの支線がのび,ここに日本列島は鉄道網でほぼお ここ香川の地と本州が国鉄の宇高連絡船によって連絡 おわれることとなった。 岡山一宇野聞の宇野線が開通した明治43年のことであった。 したのは, こうした運輸機関の急速な発達のもとで,東京や大阪など大都市への人口集 その結果,東京・大阪の2大消費地を核とする米穀の全国的な市 中がすすみ, 場が形成されていく。そして各地の産米はこの全国的米穀市場のなかにくみこ そのなかで各地産米は商品としての米の評価と格付けがきびしく おこなわれるようになった。米産県の立場からいえば,自県の産米の市場声価 を高めるために銘柄を統一し品質を改良するという重い課題にとりくまなけれ まれていき, さ ばならなくなった。それが各府県の事業として実施された米穀検査である。 きに述べたように,香川県で米穀検査がはじまったのは明治40年のことであ それ しかし米穀検査は地租改正以後の長い前史がある。 幕藩時代,讃岐米は上方で高い評価を得ていたが, る。 粗悪米問題の発生753 明治期農政の展開と香川県農業 91ー は讃岐国の各藩が藩の重要財源である米をきびしく検査して良質の年貢米確保 につとめた結果であった。しかし明治維新で封建的諸拘束が撤廃されるととも に産米に対する領主的統制も消滅,これを機に讃岐米の品質低下がはじまり, なかでも小作米の組悪化が大きな社会問題となった。 小作米の販売者である地主にとっては小作米の品質低下はみすごすことがで きない。しかし小作人にとってはまずなによりも地主に納めるべき年貢米 一一当時,小作米は幕藩時代そのまま「年寅米」と呼ばれていた一一一の俵数の 確保が最大の関心事であり,産米の品質管理の面はどうしでもなおざりになり がちであった。「明治十年全国農産表」によると,明治
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年の讃岐米の総収穫 高は34万石であるから,小作地率をかりに 50%とすると小作地全体からの収 穫は1
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万石となる。このうちの地主のとり分を当時の慣行的な小作料率6
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パーセントで計算すると,1
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万2
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石。あくまで推定上の数値であるが少なく ともこれだけの大量の産米が粗悪米問題の対象となる米であった。 ネ士会問題化しつつある粗悪米問題に対し県当局も明治13年,.…"抑,米穀 ニオケル,人民常食中最貴重ナルモノニシテ特ニ県内物産中又之レガ多額ヲ占 ム,然ルニ近時ノ景況ヲ視察スルニ,往々農家ニオイテ修理精密ヲ加エズ,俵 製又疎漏ニ流レ,間々米粒ニ砂土ヲ混合セシモノ少ナシトゼズ,梢昔日ノ産米 ト其ノ品位ヲ異ニス/レガ故ニ従ッテ声価ニ関係シ,終ニ一般ノ汚名トナリ各自 ニ損害ヲ招キ……」と述べてその改善方を求める布達を出した。また明治1
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年 の県農談会も「小作米麦ノ俵ニ水類ヲ注泊スJレ者ヲ違警罪(旧刑法上,もっと も軽い罪一注)ノ罪目中ニ加フルノ件J,,.俵製改良ノ件」と題して組悪米問題 の審議をおこなっている。その内容ははじめがホ最近小作人の聞に俵に水を含 ませて年貢米の増量をはかる悪風がひろがり地主に多大の損害をあたえてい る,ついては当事者に違警罪を適用するよう県に要望するヘもうひとつが、輸 送の途中で米粒が脱漏するなど俵のっくりが粗雑で、,このために市場での讃岐 米・伊予米の声価の失墜がいちじるしい,ついては俵製を改善する方法いかんグ というものであった。 明治2
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年代にはいると組悪米問題はいっそうの広がりをみせ,その対策として各地でさかんに小作米品評会が開催されるようになった。品評会開催のねら いは入賞者に小作米の軽減や農具の授与をおこなって小作人を互いにきそわ せ,もって小作米の改善をはかろうとするところにあった。『香川将史』による と,明治20年代後半には明治27年の大内・寒川・三木郡産米品評会(出品人 員582人)など数郡あるいは郡や村単位の品評会がいくつも開催されている。 こうした小作米品評会の開催は全国的風潮であった。しかし,その頻繁な開 催にもかかわらず粗悪化問題は各府県とも一向に解消する気配がなかった。褒 賞を授けて小作人の産米改善の意欲をうながすといっても,その褒賞自体がじ つは小作人から地主が収取した小作料の一部なのであって,これでは小作米品 評会を開催したからといって粗悪米問題が根本的に解決されるはずがない。問 題の根本は地主制そのものにあった。地主制を動かせない大前提として,何と してでも産米の粗悪化をふせがんとするならば,組悪な米は売れないようにす るしかなしそして地主は売れないような小作米はこれをうけとることを拒否 すればよい。こうした産米の強制的検査が米穀検査であり,それは小作米の販 売者である地主階級の強い要望にそったものであった。府県営による米穀検査 事業の実施は,人間の自由権が完全に保障されていなかった明治憲法のもとで すら憲法違反ではないかと論議されるほどに,それは権力による露骨な農事強 制であった。その意味で,米穀検査はサーベル農政の延長であり,その最終的 到達点であったといえよう。 検査事業の開始 香川県は明治 40年 3月 I米ノ¥本県生産物中ノ第一位ヲ占 ムノレモノニシテ,明治三十九年ノ統計ニ依レパ,其産額八十万三百六十二石, たちま 其価額一千百七十六万一千五百二円ノ多キニ上レリ。故ニ其ノ盛衰ノ¥忽チ県下 経済ノ消長ニ関スレパ,産米ノ改善宣之ヲ忽ニスベケンヤ」とはじまるところ の,米穀検査の開始をつげる告諭を発布した。告諭にあわせて制定された「米 穀検査規則」によると,乾燥・調整・品質だけでなく,俵装についてもこと細 かな規則がもうけられ,また,検査開始以前地方ごとにまちまちであった俵の 容量は開始後は4斗に統ーされた。検査は生産検査と移出検査をおこない,生 産検査では県内販売米が,移出検査では県外移出米が検査の対象となる。そし
755 明治期農政の展開と香川県農業 93-て農家は自家用米と端米をのぞくすべての産米について生産検査をうけねばな らず,不合格米は販売できない。産米を県外へ移出・販売する場合は,生産検 査とはべつに移出検査が必要であった。米穀検査実施のそもそもの目的は大阪 や神戸の米市場における讃岐米の価格上騰にあったから,移出検査においては 生産検査とはべつの基準をもうけてきびしく合否を判定し,合格米にはさらに 3等級の区分がもうけられた。 米穀検査の実施体制はといえば,県庁内の米穀検査所を中央の統括機関とし, 郡村には長尾出張所をはじめとする 7つの米穀検査出張所がそれぞれの郡役所 内に設けられた。郡役所の管轄区域はいくつかの区にわかち,収穫の時期にな ると区ごとに生産検査員が村むらを出張巡回して検査にあたった。移出検査を おこなう輸出検査所は,大川郡の引田,仲多度郡の多度津,三豊郡の観音寺な ど米の積出港のある市町村を中心に,県下
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カ所に設置された。検査にはきび しい眼識力と豊かな経験が必要な輸出検査員がこれにあたる。 このような実施体制のもとですすめられることとなった穀物検査事業に関連 ぺいけん して言及しておかなければならないのは,米券倉庫の設立である。讃岐米の仕 向地は主に大阪や神戸であったが,これら大都市での米穀の需要に応えるため の産米集散の施設として米券倉庫は設立された。明治42年の丸亀米券倉庫,翌 明治 43年の高松米券倉庫につづき,大正 6年までに県下で 16の米券倉庫が建 設されている。米券倉庫は農家が委託した米の保管を中心に,金融・輸送・販 売の業務をおこない,委託農家に対しては米券と称する預証券が手渡された。 そして入庫のときは検査事業との連携のもと,検査員が倉庫に出張して入庫米 の検査をおこなった。倉庫には検査済みの讃岐米が等級別に保管されたのであ る。地主によっては預証券を小作米とし徴収するものもいた。地主の庭先で小 作人と相対峠しつつおこなわれた従来の小作米徴収にくらべれば,これは地主 にとってはるかに便利な徴収方法であったといえよう。 ところで『香川勝史』によると,検査開始の初年度である明治40年,米穀検 査に動員された生産検査員ならびに輸出検査員は前者が214人,後者が27人で あった。大正期以降もほぼこれと同数の人数でもって生産検査は 150万俵以上,移出検査は80万俵ちかくの産米の検査にあたることになる。財政に制約のある 県当局としてはこの少ない検査員でもってこの大量の産米の検査にとりくむし かなかったのであるが,しかしそのために県当局は検査開始t以降ず、っと検査上 の不統ーという深刻な問題一一たとえば地域によって合否の検査基準がこと なったり,大阪・兵庫の正米市場においておなじ讃岐米でありながら取引価格 が郡ごとにちがうといった一一ーに苦慮、しつづけなければならなかったのであ る。県会においてもこの検査上の不統一問題は,生産検査一移出検査の二重検 査問題とともにほとんど毎年のように論議の的となった。 地主会の設立と小作争議 米穀検査の実施を機に,小作農を小作米の品質向 上にかりたて地域の産米の声価を一斉に高めることをねらって設立された地主 層独自の組織に地主会がある。県当局の強力な指導もあってか,検査事業がは じまったその年の明治