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戦後香川の土地改良事業と用水問題-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

戦後香川の土地改良事業と用水問題

唯 之

ー ため池とむら 香川の用水事情 夏期,太平洋から四国に吹く湿潤な風は高知県に大量の雨 を降らして水分をうしない,四国山脈を越えて讃岐にいたるときは乾いた風と なる。冬期,大陸から日本列島に吹きつけて日本海側の山陰地方に大雪を降ら す風は中国山脈を越えればからっ風となる。中国山脈と四国山脈にはさまれた 瀬戸内海の沿岸は全国でもっとも雨の少ない寡雨地帯に属し,わけでも香川県 は雨が少ない。年間

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ミリ前後の香川県の降雨量uは全国平均の降雨量の

70%

弱でしかなしかん甑期に降る雨だけではとうてい稲作に必要な用水は確 保できない。 雨にめぐまれない讃岐は河川にもめぐまれていない。農地改革のさい,小作 権と農業用水について現地調査をおこなった法学者・中川善之助をして「地図 (香川県の一注)には河川がある。しかし水がないのでbある」と断じせしめた ほどに讃岐には川らしい川がない。土器川や香東川などの主要な河川の集水地 帯である阿讃山脈は山が浅く集水能力にとぼしいうえに河川自体が短かくかっ 急流である。だから降雨があってもたちまちに洪水となって海に流れ出てしま う。平時は白い河原のくぼみにわずかのたまり水をみるのみ,というのが今も 昔もかわらない讃岐の河川の一般的景観である。 溜池の築造 しかし香川の農業は昔から稲作がさかんで反収

(

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アールあた り収量)も高い。昭和

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年 時 点 で の 総 耕 地 面 積 に し め る 水 田 の 割 合 は 76%一一一讃岐平野にかぎるとじつに87.9%ーーーであり,これは全国平均の57% を大きく上回っている。戦前の香川県は大阪や奈良とともに米の反収が全国で 最高位の水準にあった。雨にも河川にもめくやまれない讃岐にこのような水田農

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← 2 香川大学経済論叢 2 業の発達をもたらしたのはため池の築造であった。讃岐の大地に稲作がはじ まったはるかな太古から山聞の谷聞をせきとめ,台地をうがち,平地にまで土 を盛って営々としてっくりつづけてきたこれらため池の数は昭和

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年現在お よそ

1

8

6

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個,個人が所有する小さな池までいれると

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万個にもおよぶ、と いわれている。「そしてその(1万

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個のため池の 注)面積は,

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7

3

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町 l反 l畝で田 l町歩につき溜池 l反

6

畝という割合で 1ヵ村平均百の割合で 村によっては農家戸数より溜池の数が多い所さえあるJ(W月刊香川I~昭和 29 年, 「水と闘う讃岐の農民J)という状況であった。数においては兵庫県におよばな いが,密度において香川県は全国一ため池が多い。かん概用水量のため池への 依存率が

70%

である反面,河川水への依存率はわずか

14%

にすぎない。河川水 への全国平均依存度

70%

という事実と対比するとき,香川県の農業は典型的な ため池依存型農業であるといえるであろう。 自らの集水地域をもっ山麓の小さなため池などは別にすれば,集水能力の低 い香川県のため池のほとんどは非かん甑期の冬場に河川から水を引きいれるこ とによって池水をたくわえている。満濃池は比較的集水地域の広いため池であ るが,それでも必要なかん減水量を確保するため土器川や財団}l1から取水しな ければならない。しかし河川に取水堰を築くといっても,築くことのできる堰 の数はかぎられる。そこで,数多くのため池が散在する讃岐の平野ではあらか じめため池相互を水路で連結しておき,直接河川から導水している上流のため 池が満水すれば以降の水はその連結水路を通して下流のため池に送る方法がと られた。このようなため池の関係を親池一小池という。 頻発する干ばつ 非かん減期の冬場にためこんだ河川の水とかん瓶期の夏場 に降る雨,これだけの水が池がかりの水田にとっての最大かん甑水量であるが, この水量ぎりぎりまで開田がすすんでいるのが讃岐のため池かん概の一般的水 利状況である。 このような水利状況のもとでは冬場に雨が少なかったりかん概期に日照りが つづいたりすると,讃岐の水田はたちまち水不足にみまわれる。用水基盤が脆 弱な讃岐は

4-5

年に

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回は水不足にみまわれる干ばつの常習地帯であり,明

(3)

治以降戦前までの 80年間の干ばつ記録は 18回を数える。とくに干天が 40日も つづいた昭和 14年の干ばつは米俵をつくるイネ藁にもことかくほどの惨たん たる状況を呈し,のちにみるように戦後に完成した満濃池のかさ上げ工事はこ の 14年の大干ばつが契機となって実施された。戦後では昭和 30年と 31年に 2 年つづきで干ばつにみまわれている。 水利組合とむら 日本農業における土地利用上の基本的特徴としてしばしば 分散錯圃制ということが指摘される。分散錯圃とは農民の耕作する土地が各所 に分散しており,それが他人の土地とたがいにいりまざっている状態をいう。 このような分散錯閏制のもとではl枚1枚の水田は水利用の面でたがいにつな がっていて個々の農民が自由に用水を利用することはできないから,どうして も水の共同の管理と統制が必要となる。そのための地域集団が農業集落として の部落=むらであった。したがって用水はむらの水であり,個々の農民はむら を離れて独立で水を号│き稲作をおこなうことはできなかったのである。 ところで 1集落だけで水源を所有するときは集落自体が水利組織として機 能することになるが,複数の部落が水源を共有する場合は共同して水利施設の 管理にあたる共同組織がつくられた。それが水利組合である。ため池密度が日 本一の香}II県の農村であるから,村ひとつをとりあげてもそこには数多くの用 水組合が存在した。一例をあげれば,昭和

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年当時の大川郡の神前村には,石 井水利組合,長谷上水利組合,奥谷北南谷掛り水利組合,玉田池水利組合,野 間池水利組合,東遊良池水利組合,駕龍池水利組合,鹿谷池水利組合,長谷下 池水利組合,中村頭水利組合,宮西頭水利組合,船井水利組合,新米頭水利組 合など 13の用水組合が存在したことが確認されている。県内に存在する水利組 合の数は正確にはわからないが,当時,香川県には171の市町村があってその ほとんどがコメ作りの村であったのだから,それは驚嘆すべき数であったろう。 讃岐における農業水利慣行の複雑さはその存在する用水組合の数の多さからも うかがわれる。 戦後の農村にはこうした伝統的な水利組合のほかに r土地改良区、」と呼ばれ る新しい農村団体が誕生した。土地改良事業の実施と農業水利施設の維持管理

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4- 香川大学経済論叢 4 を役割とする土地改良区の詳しい説明は後述のとおりであるが,土地改良区も 既存の水利組合と同じように伝統的な農村地域社会と密接なかかわりあいをも つことによって現実の農村担会に深く根をおろすこととなった。けだし土地改 良区の日常的運営もむらの共同体的機能に依拠しつつおこなわれたからであ る。 こうして戦後の農村には農業用水にかかわる団体として伝統的な水利組合の ほかに,土地改良区が加わることとなった。これらの用水団体は必ずしもそれ ぞれが独立して存在しているのではない。ひとつの大きな水利組合を頂点に, その下にいくつもの小さな水利組合が層をなして存在し全体としてひとつの水 利組織体が形成されている場合も少なくなかった。その典型的な事例が満濃池 掛りである。 満濃池掛りにみる重層的な水利組織丸亀平野を上空から傭轍すると,満濃 池から遠い下流地域には大小のため池が数多く存在しているが上流地域には満 濃池のほかはため池がひとつもないという奇妙な事実に気がつくであろう。こ の上流地域がいわゆる証文水地域であって,満濃池の水の十分な供給が慣行上 保証されている地域である。これに対し下流地域においては田植え水以降のか ん減水は満濃池に期待できず,したがって満濃池の補助水源としてのため池が つぎつぎと築造されてきたという歴史的経緯がある。

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以上を数えるため池の なかには買田池や上池,弘階池などのようにそのかん概面積が

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ヘクタール 以上にもおよぶ大きなため池もあり,これらのため池にはその下流に自分の子 池一一満濃池からみれば孫池一ーを配した独自の水系が形成されている。この

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よ う に 一 肌 は 満 濃 一 子 池 一 池 … 数 多 く の 水路が樹枝状に広がり,これに出水や井堰の水路が交錯してじっに複雑な水路 網が形成されることとなった。 ところで土地改良区が一般にそうであるように満濃池土地改良区が管理すべ き水利施設は主水源である満濃池と幹線水路であり,局地的な利害しかないた め池や支線水路はその地域の水利組合において管理する建前であった。いわゆ る申し合わせ組合である。さきに紹介した神埼村の水利組合もそのような申し

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合わせ組合であれ満濃池掛りにも以下にみるように数多くの申し合わせ水利 組合が存在した。ただしこの非公式の水利団体である申し合わせ組合のなかに は『土地改良法』が制定されたことを契機にあらたに土地改良区に移行したも のもあった。満濃池掛りの買田池土地改良区もそのひとつである。 貿田池土地改良区の場合,その管轄区域は6つの地域からなっている。「両め んば」と呼ばれる地域は買田池の直接の掛かりとして買田池土地改良区に編入 されているが,あとの5つの地域には地域ごとにそれぞれ水利団体が組織され ている。前池土地改良区,木徳土地改良区,大池・宮池土地改良区,与北町土 地改良区,それに桝池水利組合であり,これらの水利団体は満濃池からみれば 第3次の水利団体である。さらに第4次の水利団体として与北町土地改良区は その下に

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つの水利組合が,また桝池水利組合もその下に

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つの水利組合が あった。 このように満濃池掛りでは満濃池土地改良区を頂点にして下は集落レベルの 申し合わせ組合まで重層的な水利組織体が形成されている。昭和39年の県の調 査によると,金倉川の左岸をのぞいた満濃池土地改良区の区域内には満濃池土 地改良区を第1次の水利団体とすれば,第2次の水利団体は53,第3次の水利 団体は

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,第

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次の水利団体は

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2

,全部で

1

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の水利団体の存在が報告されて いる。 二.ため池と水利慣行 水利慣行とはなにか 高松市の郊外に松縄,福岡,今里の3地区をかん概す るため池がある。堤の長さが約

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メートルというから平野部の池としては 比較的規模の大きなため池の部類に入る。池の名を野田池といい,ユルが

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つ 設けてある。ひとつを本ユノレ,もうひとつを返しユルという。返しユルはその 構造上松縄村の水田にしか掛からない。ここにいうユルとは池水を水路に落と す樋のことで,男柱とか筆木とか時ばれるユJレの栓を抜くと池水が堤外に放出 される仕組みになっており,池水は幹線水路を流下しさらに支線水路に導かれ て掛りの村むらに入っていく。

(6)

6 香川大学経済論叢 6 この野田池で明治

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年に水争いが起きた。現在の最高裁判所である大審院に まで上訴されたというから,野田池の水争いは当時の静かな讃岐の農村をおど ろかす大事件となった。 野田池には江戸時代から「池水七つ割り」と呼ばれる配水慣行があった。池 水を7つに割り,その4つ 2つ 1つを松縄,福岡,今里の村むらにそれぞ れ配分するというのである。裁判での争点はこの池水7つ割りの慣行が本ユノレ にかぎったことなのか,それとも本ユJレ,返しユルあわせてのことなのかとい う点であった。被告の松縄村は野田池が松縄村の独力の創設になるものである ことを強調しつつ '7つ割りの配水慣行は本ユノレにかぎったことで,返しユノレ からの引水は松縄村に制限なし」と主張,他方,原告の福岡村は「松縄村に返 しユノレからの勝手放題の引水を許すならば野田池には配水慣行があってなきに ひとししりと訴えた。野田池の配水慣行をめぐるこの訴訟事件は最終的には福 岡村の敗訴におわり,法廷において返しユルにおける松縄村の特権的地位 一一讃岐地方ではこれをサンザイというーーが認められたのである。 ところで,時代が下った農地改革のさなかの昭和22年に野田池水利組合が県 に報告した「水利慣行調査表」によると I本間掛(閑はユ/レと読む一注)一一配 水ハ七ツ割リノ原則ニヨリ各部落へ割当テ配水スJ,I返閑推卜一一配水ハ時間ナ ドニ制限ナシ」と記されている。あとの引用文が意味するところの,松縄村の 水田にしか掛からない返しユルからの引水に時間上の制限がないということ は,すなわち松縄村がサンザイであるということにほかならない。明治期に大 審院で法認された野田池の配水慣行はおよそ

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年後の昭和22年の時点でもそ の姿にかわりはなかった。 野田池にその一例をみるように水にめぐまれない香川県では古く幕藩時代か ら水の獲得をめぐって村むらの聞で激しい水争いがくりかえされ,この水争い を通して徐々に水利慣行という名の水配分の秩序がつくられてきた。野田池の ように水利慣行が明確に農業水利権として法廷において法認された場合もある が,おおかたの水利慣行はその長年月にわたる存続のうちに周囲の村むらの暗 黙の了解のもとに成立したものである。

(7)

当然のことながら,水利慣行による水の規制は水不足が深刻なところほどき びしい。木田郡の農村地帯はもともと水が不足がちな香川県の農村のなかでも とくに恒常的に用水が不足し,後述する「水ブニ」も存在して讃岐の典型的な 水利慣行がみられるところである。以下,この木田郡東部の一農村である井戸 村をとりあげてその水利慣行の一端を紹介しよう。南を阿讃山脈の山麓に接し 北は丘陵地帯につながる井戸村は,昭和30年の干ばつ時には「四国新聞」も干 ばつ記事のトップに報じるなど,県下でも有数の干ばつの常習地帯である。 井戸村の用水事情 井戸村は農家戸数632戸,南北に長くひろがる水田は面 積およそ333ヘクタールで,丘陵地帯には38ヘクターlレの畑がある(昭和28 年)。村の水田をかん概する主要な農業用水は阿讃山麓中に築かれたこ股池を中 心に鍛冶池と熊田池の

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つのため池である。ため池につぐ重要な農業用水は出 水で,井戸村には全部で10個の出水が掘られている。このほか個人用の堀や井 戸も 150以上存在している。村内を鴨部)11と新川の2本の河川が流れ,両河川 あわせて6つの井堰が築かれている。 井戸村には全部で21の農業集落があり,ため池や出水は集落単位で利用され ている。阿讃山麓に近い西土井集落の場合,平野部の水田は新川に設けられた 横井堰と二股池でかん概され,山間部の水田は堂奥下池など12の小池のほか, 隣村のかったに池が用水源である。集落に出水はないが

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つの井戸があって地 下水をくみあげて農業用水として利用している。井戸村の中央部に位置する西 中井戸集落は二股池と熊田池が主水源で,ほかに「サワリ田」と呼ばれる出水 や新川の上井堰が利用されている。村の北端にある白羽集落はその水田のほと んどが谷地田という山聞のむらで,ため池も小さな個人有のものが多く,丘陵 地帯には全部で48個ものため池が散在している。 右のように集落の水利状況は集落ごとにさまざまであり,全体として概観す れば井戸村はまことに複雑な水利の網に覆われていることになる。そして池は 池ごとに,井堰や出水もそれぞれ独自の水利慣行ができあがっているのである。 つぎに熊田池の水利慣行を紹介しよう。 熊田池の水利状況 河川│から導水するため池の,満水後のその余水を別のた

(8)

8 香川大学経済論叢 8 め池におくりこめるよう,ひとつのため池ともうひとつのため池が水路で結ば れているようなケースは,香川県のため池かん概地帯ではなにもめずらしいこ とではない。それはとぽしい河川水を少しでも有効に利用しようとする讃岐農 民たちの知恵であった。熊田池もそのようなケースのひとつで,熊田池は新川 の水をとりいれている鍛冶池と水路で連結されている。こうして熊田池は,満 水後の鍛冶池からその余水を貯溜する一方,鴨部川の水を上塚原堰とよばれる 井堰から取水している。ただし,上塚原堰はそもそも石神池掛りの専用かん甑 施設であり,したがって熊田池掛りが鴨部川の水を引水できるのは冬場の非か ん概期にかぎられている。このように石神池掛りから用水を譲りうけている立 場にある熊田池掛りは,古く明治時代は酒や肴,戦後の農地改革後は金銭をl謝 礼として石神池掛りに送りとどけるという慣例がつづいている。鍛冶池掛りに 対しても熊田池掛りはかつては従属的地位にあったが,戦後の昭和

2

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年に二 股池土地改良区が設立され熊田池掛りも鍛冶池掛りもこの同じ土地改良区に編 入されてからは,熊田池掛りの従属的立場は解消した。 熊田池の配水方法一番水制度 それでは熊田池の水は掛りの集落にどのよう に配分されているのであろうか。熊田池の水が掛かるのは遠路,熊田,中井戸 の3つの集落である。 二股池の水が神山村から井戸村に落ちてくるのはユノレが抜かれてから

3

日後 のことであるが,ニの日ーーイヲj年

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2

日前後一ーにあわせて熊田池のユルも 抜かれる。田植えのころは熊田池掛りはご股池の水もつかえて用水潤沢で、あり, 掛りの農家も必要なだけ水がつかえる時期である。しかし養い水の時期にはい ると,いわゆる「番水」とよばれる配水方法が実施される。番水とはどぽしく なった用水を掛りの村むらに公平に配分するための配水方法で,かん甑区域を いくつかのブロックにわけ順番をきめてブロック別に順次配水していくのであ る。上流から下流へとくりかえし配水をおこない,ときには公平を期すため順 番を組みかえまでしておこなわれるところのこの番水の制度は,村中総出でお こなわれる田植えなどとともに農村の「醇風美俗」がもっとも端的に発現され る局面でもあった。

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番水における配水順序の組み合わせを番組というが,熊田池の場合,番組は 4番で構成され,各番はさらにそれぞれ甲と乙の2つのブロックに分けられて いる。そして, (1) 1昼夜の配水を日出 正午の朝水,正午 日没の昼水,日没 真夜中の晩水,真夜中 日出の夜中の水と,以上 4つの時間帯の水に区分し たうえで, (2) 4つの時間帯あわせて 1昼夜の水が各ブロックに平等に配分され るよう番組表がつくられている。わざわざ相異なる 4つの時間帯をあわせて 1 昼夜分とするのは時間帯で流量が異なることに対する配慮, つまり 8つのブ ロックへの配水をできるだけ公平にするためである。番組表の一例を

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番の甲 、プロックにとると,

1

日目に朝水, 3日目に晩水, 5日目に昼水,

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日自に夜 中の水が配分されるように番が組まれており,また

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番の乙ブロックの場合は, 2日目が夜中の水, 4日目が昼水, 6日目が夜水, 8日目が朝水である。 この ようにして 8昼夜かけて番組1回目の水が掛りを一巡することになる。 そして ため池の水に余裕のあるかぎり, この同じやり方で

2

回目,

3

回目の番組がつ づくのである。 番水がはじまると,掛りの農家はにわかにいそがしくなる。農家の水田は各 所に分散しているのがふつうだから,水が一巡する 8昼夜のうちにいくども水 引きの仕事に出掛けなければならず,深夜といえども自分の回に水が入るとき は鍬を手に畦道を走らなければならなかった。熊田池掛りではないが同じ井戸 村の下井出水掛りの,

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枚の水田を耕作している某農家の場合,番組の数が

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つ, 1昼夜の配水が朝水・昼水・夜水の番水制度のもとで, 5枚の田について

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番の夜水, 2枚の田について 5番の昼水 1枚の田について 4番の朝水とい う配水であった。残りの

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枚は別の掛りである。 その水引きの仕事の大変さは 容易に想像できょう。 ところで番水慣行はなにも熊田池にかぎったことではなく,香川県の農村で はふつうにみられる用水慣行であった。香川県のような恒常的な用水不足地帯 では番水のようなきびしい配水統制を実施することなしに掛かり全体の安定的 な水利秩序を維持することは不可能であったからである。熊田池の配水慣行で 特徴的なことは, この番水に「水ブニ」がくみあわされていることである。

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-10 香川大学経済論叢 10 熊田池と水ブニ ふつう用水権といえば,それは掛りの農民すべてにかかわ る総有的な権利を意味し,個々の農民に分割・帰属するような性質のものでは ない。つまり農業用水は村の水であって個々の農民はこれを村の一員としてた んに利用しているにすぎない, というのが用水権における一般的な歴史的事実 である。ところが,熊田池の場合,一筆の水田そのものに「水ブニ」とよばれ る個別的用水権が付着しており,番水実施のさいはこの水ブニに即して水田

1

筆1筆に水が配られるのである。このような水田1筆ごとの用水権の持分のこ とを「水ブヵニ」という。 水ブニの大きさは,たとえば「熊田下免の地籍が5番の田には八畝歩の水が ついている」というように,水反別で表示され,そして総水反別に対する当該 水田の水反別の割合がこの水田の用水の持分となる。このような水反別は「水 掛反別帳」とよばれる台帳に登録されている。資料として確認できる最初の台 帳は幕藩時代の安政年間のものであるが,そのとき以降昭和20年代にいたるま で水反別は改変されていない。その結果,創設当時すでに格差のあった状況に その後の土地条件の変動がくわわって水ブニの内容には大きな不平等が生じて いる。それはさておき,水ブニは番水とともに熊田池掛りにおけるもっとも重 要な水利慣行のひとつであったといわなければならない。 水ブニについて注記しておくべき点がある。それは,農家は持分の総水ブニ 量を越えないかぎりどの田にどれだけ水を使おうとも随意であるということで あり,したがって水ブニの多い固から少ない田に分水したり別の農家に水フ、ニ を譲渡したりすることもできるということである。台帳では固定的な水ブニに 対し実際の配水面でこのような自由裁量の余地を残すことは,田ごとに水ブニ に厚薄のある一一新田のように水ブニがない回すらある一一状況のもとではや むをえない処置であった。戦前,地主は水ブニを小作地に適宜配分し,水ブニ を多く配分した小作地からは高い小作料を徴収したという。ただ水ブニにこう した自由裁量が可能なため,その所有する耕地が複数のブロックに分散してい る農家がブロックをまたがって水ブニの増減を目論んだ場合はその調整という 厄介な問題が生じるのであるが。

(11)

水ブニと地主水 「香川県農業水利慣行調査(水ブニと地主水について)J (昭 和

2

4

年)によると,熊田池にみられるような水ブニが存在する地域は木田郡を 中心に香川郡の南部や綾歌郡の一部農村地帯で,総面積およそ4,000ヘクター Jレにおよぶこの地域はいずれも干ばつが頻発する用水不足地帯である。きびし い用水不足地帯であったからこそ水プニなどといった煩雑な水利慣行も発生し たのであろうが,しかし発生の具体的な理由については,幕藩時代における年 貢米確保という絶対的要請から生産力の高い古田や庄屋・地主など村の有力者 の土地に優先的に水利権をあたえたことが契機となったともいわれているが, はっきりしたことはわかっていない。 用水権の一般的な性格である総有的権利に対する例外が水ブニなら,用水権 のもう一つの一般的な性格である土地への付属'1生lこ対する例外として「地主水」 とよばれる用水慣行がある。地主水は移譲も売買も何ら制限がない。ここでは 用水は完全な独立財なのである。だから地主水地帯で田を買う者は別に水を買 うのでなければコメはつくれない。しかし用水を独立財としてとりあっかうと いっても,もともと水路を流下する用水であるから移動できる範囲はかぎられ ている。だから地主水が存在するのは県下でもわずか木田郡下高村の水田地帯 だけであった。 満濃池の証文水地域 河川かん淑の場合,用水は水路を流れる水であるから, 先に水のとれる上流側が下流側に対し常に絶対的に有利な立場にあり,した がって配水における上流{憂位は河川│かん概の基本的特徴といってよし〉。これに 対しため池かん概の場合は耕地に配分される用水は池にたまった一定量の水で ある。この誰の目にもみえる一定量の水をどう配分するかということが掛りの 農民に共通の,しかも対等な立場での関心事であり,そこには水の配分を不平 等にしてしまう根拠は存在しない。ため池の水はその耕地に関係する全耕地の 平等な用水なのである。その十端的な表現が番水制度であった。 しかしその受益水田が数百ヘクタールから数千ヘクタールにも達するような 巨大なため池になると,長大な水路システムをともなうことによって地域聞の 配水に不平等が生じ,用水配分上の優越地域が形成されることがある。満濃池

(12)

-12- 香川大学経済論叢 12 における証文水地域はその典型的なケースである。満濃池の水が池底から 23尺 の水位にまで減ると残りの水は上流の特定地域の専用水とする慣行が古く幕藩 時代からあり,この残水が証文水とよびならわされてきた。同じ満濃池掛りで ありながら証文地域と非証文水地域では水の使い方にあきらかな優劣があるの である。戦後では

3

0

年に証文水による配水が実施された。満濃池のほかでは 四ヶ池掛りにおける常水区域も用水慣行上の特権地域である。 農業生産力の発展をはばむ水利慣行 以上考察してきたように,典型的なた め池かん概農業県である香川県はまた典型的な用水慣行地域であった。その多 様で複雑な用水慣行は全国に例をみない。番水は制度として香川の農村に広く 定着し,水ブニや地主水などの香川県独自といってもよい特殊な慣行も存在す る。そのほとんどが幕藩時代に成立したといわれる県下の水利慣行は成立の当 初においては間違いなくそれなりに理にかなったものであったろうし,また用 水慣行の存在なしには平和的な水利秩序の維持,したがって稲作生産の安定的 継続は不可能で、あったろう。しかし他方,長い年月の経過のうちに慣行水利権 の存在が農業生産の障害となってきたこともあきらかな事実である。とくに食 糧増産が国家的要請であった戦後の昭和

2

0

年代には農業生産の停滞的要因と して慣行水利権の存在がおおきくクローズアップされた。とくに戦前は佐賀・ 奈良などとともに農業生産力の先進地帯であった香川県の,戦後における農業 生産力の停滞的傾向が目立ち,その根本的な原因として慣行水利権の存在が指 摘された。 ところで農林省の岡山農地事務所は国土総合開発法.A (昭和

2

5

年)にもと づく吉野川総合開発計画の基礎調査の一環として香川県の農業生産の分析にあ たっていたが,その分析結果が昭和

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1

4

1

0

日の「四国新聞」の紙面に公 表された。その内容は,香川県農業の根幹をなす稲作が停滞している根本原因 は用水量の絶対不足と不合理な水利慣行の存在であり,その具体的な局面とし てつぎの3点が指摘された。

(

1

)

用水不足にもとづく水田必要水量の過小性

(

2

)

不合理な水利慣行にもとづく農業経営の固定性

(13)

(3) おなじく不合理な水利慣行にもとづく干ばつの地域性 まず,(1)について説明すれば,その土質上,香川県にはガラク地とよばれる 水もちのわるい水田が多い。ガラク地では代掻時に翠床をおしつけて君主床盤を ぬりかためる作業一一一これを「ムクチ」という一一ーが励行されており, さらに は床練作業さえ実行しているところもある。もちろんこれらの作業は水田の水 もちをよくするためのものであるが,しかしそうすると地下に水が浸透しなく なって土壌中に酸素が補給されず有機質の異常還元状態が発生してしまう。こ のような水田では有機質肥料の施肥効果は減殺されて増収はのぞめない。香川 の農民たちはこのようなことは百も承知しつつ用水不足ゆえに漏水防止のムク チ作業をつづけざるをえないのである。 (2)について。当然のことであるが作付率を高めて水田土地利用の集約化をす すめることができれば,単位当り収量は増加して農家所得はふえる。戦後,土 地利用集約化につながるあたらしい稲作技術として水稲早期栽培が登場した。 成育期間のみじかい新品種の稲を導入することで稲作と麦作の聞に馬鈴薯や疏 菜などの栽培が可能となり,米麦二毛作から三毛作への経営的転換へ.の途がひ らける。もともとこの栽培技術はほかならぬ香川県農業試験場で開発されたの であるが,しかし地元の香川では普及しなかった。というのは,慣行栽培にく らべて植え付けが一ヵ月近くもはやまる早期栽培を実施するとなると,ため池 のユノレ抜きもそれだけはやめなければならない。水利慣行のかなめであるユル 抜きの開始時期の変更には掛り全体の合意が必要不可欠であるが,しかし用水 慣行上の利害が複雑に錯綜するため池かん概地帯においてそのような合意をう

ることはきわめて困難なことであったからである。『農業水利秩序変革の要因に ; 関する研究n(昭和

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年)によると,香川県で早期栽培が導入されたのは島腕 部や山間部などの

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ヘクタール強の水田にすぎなかった。その総水田面積に 占める割合はわずか2.5%である。香川県の水稲早期栽培は水利慣行の厚い壁 にはばまれたといわなければならない。

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については戦前の昭和

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年の例を紹介しよう。平年ならユル抜き直前には 満水状態のはずのため池の貯水量がこの年は8分にも達せず,さらにかん瓶期

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-]4 香川大学経済論叢 14 の夏も寡雨であったために近年まれな大干ばつの年となった。干ばつは必要水 量の絶対的不足が原因なのだから多少の凸凹はあっても掛り全域に干ばつの被 害がでるはずで、あるが,満

i

農池掛では同じ掛りでありながら証文水地域の榎井 村などは平年の 130%もの収穫があったのに対し,非証文水地域の郡家村や丸 亀市は収穫高が平年の 20%前後,南村などは平年作のわずか65%の収穫とい う,干ばつの被害に極端な地域的かたよりがみられた。 このような干ばつの地域性に対し当時の一般的な観察は[""もし地域聞の用水 配分が適切におこなわれていたならば,このような事態はまぬがれることがで きたのではないか」というものであった。それにしても豊作に沸く上流の村む らを眼前にしつつ干ばつに苦悩しなければならない下流の村むらにとって,証 文水という名の用水上の特権はまことにいまいましく納得のいかぬ不合理な存 在と映じたにちがいない。 農業生産力の発展もしくは農業経営の合理化にかかわって水利慣行の不合理 性が問題となる局面はもちろん以上でつきるのではない。他府県に比して異常 に高い水利費や苛酷なかん概労働なども水利慣行に由来していた。慣行があま りに複雑なために,たとえば熊田池の番水制度のごとく[""……新規に熊田池掛 りで農地を取得しても番組による用水利用が困難なため農業経営を続けること は不可能とさえ言われているJ (昭和

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年『香川県讃岐平野における農業水利 慣行~ 57ページ)といった事態すらありえたのである。 このように香川県農業にとってその生産力的発展をはばむものは強固な水利 慣行の存在であった。その是正もしくは解消に必要なことはなによりも水資源

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の獲得である。香川県農業の宿命とまでいわれた水利慣行が基本的に解消した のは昭和49年に完成したあの香川用水によってであったが,しかしそれまでに もあらたな水資源をもとめて香川の農民たちは水利慣行の厚い壁と戦いながら 懸命に土地改良事業にとりくんだのであった。 三.土地改良事業の進展 「土地改良法」の制定と土地改良区 昭和24年,土地改良事業を推進するた

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めの実施体制を整備すべく土地改良法』が制定された。ここにこれまで法的 裏付けのないまま実施されていた国営事業,県営事業がはじめて法的に明示さ れるとともに,これによって政府が多額の財政資金を投入できる制度的枠組み ができあがった。

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年には団体営事業も追加され実施体制の充実がはかられ た。 『土地改良法』が制定されたことによってそれまでの「耕地整理組合」と「普 通水利組合」が廃止され,かつて耕地整理組合がおこなった土地改良事業なら びに普通水利組合がおこなった農業水利施設の管理と運営の業務を一本化して あたらしく「土地改良区」が設立された。農地改革による自作農の全面的創出 という戦後のあたらしい状況に対応して土地改良区のメンバーも耕作農民を中 心に編成されることとなった。 ところで『土地改良法』によれば,土地改良区は耕作農民の3分の 2以上の 同意があれば設立することができ,設立された場合は地区内の資格者は当然こ れに加入するものとされた。いわば強制加入である。事業申請にさいしてもこ の3分の 2以上の同意による強制参加原則が適用され,さらに改良区に必要な 経費についても強制徴収が原則となった。これは,零細分散錯圃制度のもとで は個々の農家の圃場が独立には存在していないという,さきにのべた日本農業 における土地利用上の特色にもとづくものである。だから土地改良区の構成メ ンバーは法形式上は耕作農民であるが,実質は地域の基礎単位である農業集落 であった。土地改良区が現実の農村社会に深く根をおろしたということはさき にのべたが,それはこのような土地改良区の基本的性格に由来している。たと えば満濃池土地改良区の場合,土地改良区の最高決議機関である総代会には 15 の選挙区から 100人の総代が選出される建前であるが,これらの総代は集落の 代表であり,総代会では集落にかかわる地域利益の代表者であった。このよう ないわば集落連合としての満濃池土地改良区の性格は戦前の満濃池普通水利組 合時代と少しもかわるところがない。 香川県の土地改良区 香川県では昭和 25年 3月の三郎池土地改良区設立以 降,同年に豊稔池土地改良区や四箇池土地改良区など

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つの土地改良区が,

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16~ 香川大学経済論叢 16 年には満濃池土地改良区をはじめとする

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の土地改良区が設立された。

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年 末の時点で

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の土地改良区が管轄する区域の水田面積はおよそ

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万ヘクター ルであり,香川県の全水田面積の過半をカバーする。

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日の「四国新 聞」によると,このような改良区設立の順調な進捗ぶりについて農林省から問 い合わせがあったほどで,県の耕地課は「やはり農家にとって土地改良区の存 在なしには用水の確保も配分もできないという香川県の逼迫した用水事情がそ の理由であろうと思われる」と回答している。香川県における土地改良区の設 立は昭和

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年代に入ってからもつづき

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年のピーク時にはその数は

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に達 した。 ところで,昭和

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年に『農業基本法』が制定され農業経営の大規模化と機械 化をめざす農業構造改善事業がすすめられることとなったが,この農業構造改 善事業の実施を契機に戦後の土地改良事業も農業機械化の推進,農業構造の改 善といった局面に焦点があてられ,これまでの食糧増産を目的とした用水改良 事業から圃場整備事業へとその内容が大きくかわることとなった。香川県の場 合も事情にかわりはない。基本法農政下での土地改良事業の紹介は別の機会に おこなうこととして,以下,ここでは昭和

20-30

年代の用水改良事業を中心に 戦後香川の土地改良事業を概観しよう。 戦後香川の土地改良事業概観 昭和

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年代は食糧増産が国家の最大緊急課 題として登場した時代であった。しかし食糧増産といっても,人手はありあま るほどあるが農業機械や農業用資材の不足はおおいがたしh。その点,土地改良 事業は資本財の不足を労働力で代替できるうえに,イネの増産効果も直接的で、 ある。当時の状況では,土木工事に依存した地域的な土地資本形成が食糧増産 にもっともてっとりばやしかっ適切な農業政策と考えられていたのである。 しかし

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年代の前半,農地改革で創出されたばかりの零細な自作農は低米価 強権供出と重税にくるしみ,土地改良をおこなうべき資金蓄積の余裕などまっ たくないといってよい状況にあった。それに

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年には戦後の急激なインフレ に象徴される日本経済の危機的状況を打開するためのドッジ・ラインがはじま り,国の財政は圧縮されて土地改良事業をはじめとする財政投資や補助金も大

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幅に削減された。 こうして戦後の土地改良事業が本格的に展開するのは20年代後半に入って からである。 24年には40億円にすぎなかった国の土地改良予算は, 26年には 3倍, 27年には5倍と急増し,また28年には政府の金融機関である農林漁業金 融公庫が創設され土地改良事業に対する長期低利資金の供給がはかられること となった。 土地改良に対する国の積極政策にささえられて県の土地改良事業もその進展 はいちじるしく香川の土地改良~ (33年,第 l号)によると, 33年現在で満 濃池,神内神池,石神池,鍛冶池,楠見池,大池など6つのため池のかさ上げ 工事,内場ダムや川股ダムの新設,香東川右岸地区の用水改良,金倉川幹線用 水路改修などの県営の土地改良事業が実施完了もしくは実施中であった。

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年 までの事業費は総額15億円で,今後さらに 10億円以上の支出が予定されてい た。県当局の試算によると,これらの土地改良事業における増産効果は年4

9千石 (735トン)である。 右に紹介した戦後を代表する土地改良事業がいずれもそうであったように, 戦後香川の土地改良事業もその中心はやはり用水改良事業であった。しかし水 資源の開発がすでに極限にまですすんでいる香川県の場合,あらたな用水改良 事業は既存の慣行水利権と抵触することなしにこれを実施することは不可能で あった。たとえば香川県で用水改良事業としてもっとも典型的なため池かさ上 げ工事の場合,増堤分にみあう新規の用水増加分の水源となるべき河川はどの 河川もすでにび、っしりと慣行水利権がはりついているというのが香川県の河川 の一般的状況であった。あらたな土地改良事業をすすめるためにはこの厚い慣 行水利権の壁を打破しなければならぬ。以下,そのような事例のーっとして「土 器川沿岸用水改良事業」を紹介しよう。土器川の右岸・左岸を対象とするこの 土器川沿岸用水改良事業はすでに戦前,満濃池かさ上げ工事としてはじまった。 戦前の土器川沿岸用水改良事業と戦後の再開 さきに指摘したように満濃池 かさ上げ工事の直接の契機となったのは昭和14年の大干ばつであった。この年 9月のある暑い日,満濃池の神野神社において満濃池普通水利組合の幹部らと

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18~ 香川大学経済論叢 18 県の耕地課の課長らの間で会談がもたれた。 ときあたかも仲多度郡の農村は大 干ばつにみまわれ,満濃池も水をほとんど使いはたして,あとは池底2,3尺だ けの残水という切迫した状況にあった。組合の幹部らは干あがった池底を指差 しつつ県の役人につぎのように訴えた。「昭和

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年に満濃池の堤防を

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尺かさ上 げしたが,今年のような干ばつの年には用水はなお不足するので,再度かさ上 げしてさらに池水をふやしたい,ついてはあらたに土器)I[から取水するつもり である」 と。満濃池をかさ上げすることになると, これは近代にはいってから は

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回目の工事となる。 昭和16年の「懸営土器川沿岸用水改良事業計画書」によると,土器川に築か れる貯水池は堤高24メートル,堤長153メートノレで,この貯水池が築かれれば 満濃池の貯水量は一挙に2倍ちかくもふえることとなる。そのため満濃池の堤 防は6メートノレかさ上げされることとなった。なお, コンクリート堰堤の築造 で湖底に農地を失う農家は移民として、満州に送り出すつもりであったといわれ ている。下流の多数の利益のためには上流の小数の犠牲は止むなしとする戦前 の公共事業最優先主義にもとづく強引な計画であった。16年にはじまった満濃 池のかさ上げ工事はしだ、いに深刻化する戦時経済下での資材不足,労働力不足 のために19年に中断を余儀なくされたが,戦後間もない 22年に工事は早くも 再開された。 ところで,戦後の満濃池かさ上げ工事は最初の計画どおりに土器川左右両岸 の一元的な利水計画である土器川沿岸改良事業の一環として再開されたのであ るが,左岸の満濃側が着々と工事を再開する中で,右岸側は用地取得交渉が難 航するなどして計画がなかなかまとまらなかった。そこで,昭和

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年の時点で 土器川沿岸改良事業は計画を変更し,満濃池のかさ上げ工事は右岸事業から切 り離し満濃池用水改良事業としてすすめられることとなった。そして翌26年に は満濃池用水改良事業のあたらしい事業主体として満濃池土地改良区が設立さ れている。 天川頭首エの建設 満濃池への土器川取水に関する戦前の構想はコンクリー ト堰堤の築造であったが,戦後の計画変更後は頭首工の建設にかわった。頭首

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工が建設される天川はコンクリート堰堤築造の予定地であったところよりさら に5キロ上流の地点で,ここから約 4,500メートルの導水路を新設して土器川 の水を満濃池へ引き入れるのである(図

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参照)。 左岸の満濃池にとって天川頭首工建設上の最大の難関は土器川に新しく水利 権を設定することであった。そのようになった歴史的経緯はあきらかでない が,土器川上流の水利権のほとんどが右岸側に属する状況のもとで,あらたに 土器川から取水するには右岸の最上流から最下流にいたる地域のすべての市町 村・土地改良区の承諾をえなければならない。最下流に位置する丸亀市にとっ ても土器川は重要な上水道源であった。天川導水路の工事に満濃側が着手した のは

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年のことで,この時点ではまだ右岸側からはっきりした承諾はなく I正 式な交渉は後日」ということではじまった工事であった。天川導水路からの取 水をめぐり右岸側と満濃側で正式の協定が結ぼれる昭和33年までの 9年間,両 者聞に好余曲折があったが,その1つの事例を紹介すると, 31年の夏に右岸側 が天川導水路を閉鎖して満濃池への通水を遮断するというショッキングな事件 が発生した。 31年段階では天川頭首工は完成していなかったが導水路は完成し ており,その導水路を利用して本来なら土器川本流に流れこむ枠野尾流域の谷 水を満濃池土地改良区が右岸の了承なしに満濃池に導いたというのが右岸側の 通水遮断の理由であった。しかし,満濃側があえて杵野尾の水を満濃池に引き 入れたのにはつぎのような事情があった。つまり,満濃池において 30年の 10月 から年末にかけて2ヵ月間満濃池の新配水塔の建設工事が実施されたが,工事 期間中のこの2ヵ月間は当然のことながら満濃池に水を貯めることができな い。31年6月のユlレ抜きまでに貯水量は旧貯水量の780万立方メートルをおお きく下回る 600万立方メートル程度であろうというのが満濃側の大方の予想、で あった。そして昭和30年は昭和 14年以来の大干ばつの年で,満濃池の工事関 係者らは干ばつの被害はどうしても避けたいという強い気持ちがあった。満濃 側が枠野尾の水を満濃池に引き入れた背景にはこのような切迫した事情があっ たのである。 昭和34年3月,天川頭首工は完成しここに満濃池用水改良事業はすべての

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-20- 香川大学経済論叢 20 工事を完了した。戦前の土器川沿岸用水改良事業の開始から計算すれば足かけ 18年もの歳月を要した大事業であった。 天川頭首工による取水は昭和 33年 3月の土器川土地改良区連合と満濃池土 地改良区の聞で結ぼれた協定にもとづく。この協定において満濃側は土器川の 余剰水だけにかぎって土器川からの取水を認められ,天川頭首工も洪水時の水 だけが導水路に落ちるような構造になっている。余剰水とはいえ土器

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からの 取水が可能となったため満濃池はあらたに 780万立方メートルの水を蓄えるこ とができるようになった。これは満濃池の旧貯水量にほぼ匹敵する水量である。 土器川右岸用水改良事業の実施 土器川右岸地区にとって土器川はほとんど 唯一の農業用水である。その土器川は流路延長

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キロの香川県第一級の河

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で あるが,しかし県内の諸河川の例にもれず河川勾配が急なため降雨は洪水と なって瞬時に海に流れ出てしまう。右岸側最大の取水堰である「札ノ辻井堰」 より下流ではふだん表流水をみることはほとんどなく,暗渠を設けたり出水を 掘って伏流水を利用しているという状況である。土地改良課の調査によると, 昭和 28年当時,札ノ辻井堰より下流の堤防沿いには右岸だけでも 33の出水の 存在が確認されている。 「香川県営土器川右岸用水改良事業計画書J (昭和 28年)によると,右岸地 区の用水計画は i札ノ辻井堰」を廃止してそのすぐ上流に「大川頭首工」を新 築し,あわせて旧札ノ辻井堰から打越池や小津森池,仁池につながっている幹 線水路,さらには右岸最下流に位置する飯野地区をかん概するための飯野幹線 水路を整備しようというものであった(以下,図

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参照)。しかし,大川頭首工 の新設ならびに幹線水路の改修だけでは右岸地区

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ヘクタールのかん慨に 必要な用水量の確保にはなお不十分であり,不足分は亀越池をかさ上げするほ か,あらたにふたつのため池一一備中地池ならびに仁池新池と命名一一ーを築造 することで補う計算であった。この右岸地区の用水計画の事業主体は,亀越池 土地改良区や飯野土地改良区,羽間土地改良区など

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つの土地改良区で構成さ れた昭和 28年設立の香川県右岸土地改良区連合である。 琴南町の山中に敷地をもとめて昭和 28年から工事を開始した備中地池の築

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図1 土器川水系

小津森池

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22 香川大学経済論設。 22 造工事は 35年に完成し,大川頭首工は 33年から 34年にかけて建設された。大 川頭首工を起点とする打越池導水路,その下流の小津森池幹線水路や仁池幹線 水路および飯野幹線水路の4つの改修工事は28年から 38年の聞に実施され た。しかし,亀越池かさ上げならびに仁池新池の新設は用地買収が難航して工 事着手のめどがたたなかった。 大川頭首エの構造と水利慣行 土器川右岸用水改良事業のうち大川頭首工の 建設について用水慣行に関連して言及しておくべき点がある。さきにものべた ように大川頭首工の旧堰は札ノ辻井堰で,その札ノ辻井堰はもともと土器川右 岸専用の井堰であった。ところが,奇妙なことに大川頭首工から取水した水は その全量が右岸側の農業用水とならず 4分のlの水量は土器川の川底に埋設 したヒューム管を通して左岸に送りだす分水装置が大川頭首エにはセットされ ている。これは,大川頭首工からとりいれられた土器川流水は右岸 75%,左岸 25%の比率で分水すべしとするところの,土器川右岸土地改良区連合と満濃池 土地改良区の間で昭和 33年に締結された協定にもとづいている。 じつは右の協定がむすばれる 3年前の 30年の夏,札ノ辻井堰をめぐって左 岸側の長炭地区と右岸側の吉野地区との間で激しい水争いが展開された。札ノ 辻井堰を川巾一杯に堰切った長炭地区の農民の行為に対し,その下流で取水し ている吉野地区の農民は吉野地区にも土器川の水を使う権利があるとして札ノ 辻井堰を切り落としたことが水争いの発端であった。いっこうに水争いはおさ まる気配がなく

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日の「四国新聞」もその模様を「香川県仲多度郡満濃 町吉野と綾歌郡長炭村長尾との土器川をはさんでの水争いは十九日正午に至り 長炭村農民百五十名が吉野川の水取り入口をせき止めたので,吉野川│は直ちに 五十余名をかり集め,同三時半ごろこれを切断,険悪な空気をかもし出した。 報告により事態を重視した琴平署では県本部,綾南所の応援を求め武装警官一 個小隊三十余名を現地に派遣,警戒に当たっているが,さらに同五時ごろ長炭 側農民約百名が吉野川の水をせき止めたためますます険悪となった」と報導し た。 札ノ辻井堰をめぐる左岸側・長炭地区と右岸側・吉野地区との 30年夏の水争

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いは訴訟事件にまで発展したが,翌

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年に高松地方裁判所で調停が成立して 事件は終結した。さきの土器川右岸土地改良区連合と満濃池土地改良区の問、で 締結された大川頭首工における分水協定は,この調停にもとづき締結されたの である。 大川頭首工の構造についてもう 1点注記すれば,亀越池は札ノ辻井堰より上 流にあるがそのかん瓶区域は岡井堰より下流にあるため,亀越池の池水は一度 土器川に落とし札ノ辻井堰にまで流下させてから右岸に取り入れるのが旧来か らの慣行であった。つまり土器川自体が亀越池の用水路として利用されてきた のである。大川頭首工建設後もこの慣行は守らなければならない。このため大 川頭首工の分水装置には亀越池の水が放流されたときはこれを左岸に分水しな いようにさきの分水比率をかえる特殊な仕組みが組み込まれている。なお,昭 和35年に完成した備中地池一--1i首中地池は亀越池のさらに上流に位置する 一一ーについてもその放流水は同じ装置によって右岸にだけとりいれられてい る。 このように土器川でもっとも近代的な取水施設として建設された大川頭首エ であるが,その構造には古い用水慣行がはっきりと刻印されているのである。 むすびにかえて ところで土器川右岸用水改良事業は昭和39年にいたって 工事を中止せざるをえなくなった。それは右岸土地改良区連合へ納入すべき飯 野土地改良区ならびに羽問土地改良区の賦課金がとどこおって連合の事業資金 がつづかなくなったからである。羽間土地改良区の場合は改良区自体の財政難 が賦課金滞納の理由であったが,飯野土地改良区の場合は,.当初の計画どおり 亀越池のかさ上げがおこなわれないなら飯野幹線水路ができても飯野地区の用 水不足は解消しない,そのような用水事業には飯野土地改良区は参加できない」 というのが,賦課金未納のおおきな理由であった。こうして右岸土地改良事業 は資金難から事業半ばにして

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年に打ち切りとなった。 資金難といえば,さきに紹介した満濃池用水改良事業完成後の満濃池土地改 良区も事業の借入金の利子すら返済できないほどの財政難におちいった。とい うのは土地改t良区があらたに大規模な事業を実施するさいには,通常,新規加

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24 香川大学経済論叢 24 入の受益農家を増やすなり賦課金を増額するなりして資金調達の措置を講じる のであるが,このたびの満濃池用水改良事業の場合は,当初予定していた

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町歩の新規加入地区が最終的にはわずか

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町歩にとどまっただけでなく,満 濃池土地改良区の上流地域と下流地域の対立から賦課金を増額することもでき なかったからである。満濃池掛かりは証文水地域と呼ばれる上流地域と下流地 域とでは利水に厚薄のあることはすでに説明した。しかし賦課金の徴収は戦前 から一貫して上流・下流を間わず均一賦課の方法が踏襲されてきた。だから下 流側にしてみれば上流の用水潤沢は下流側の犠牲のうえに確保されたもので あって,今回のかさ上げ工事の費用はその犠牲を償う意味でも上流側が負担す べきであるという思いが強く,他方,上流側では工事の費用は用水を必要とす る下流側が負担すべきであるという態度であった。このような土地改良区内部 の地域的対立を解消することなく今回の大事業がすすめられたために満濃池土 地改良区は極度の財政不振におちいったのであった。 ところで、土地改良区の財政問題は土器川右岸士地改良区連合や満濃池土地改 良区にかぎったことではなく,香川県全体の,さらには全国的といってよい現 象であった。たしかに土器川右岸土地改良区連合も満濃池土地改良区も財政問 題の発端はそれぞれの特殊事情に基因するものであるが,しかしその背景には 高度経済成長期以降における農民層の分化の進展という日本農業そのものにか かわる歴史的変化があった。すなわち高度経済成長下における農村人口の大量 流出のもとで,兼業農家とくにII兼農家が専業農家を圧倒する形でふえつづけ たことはよく知られているところである。生産意欲が高く土地改良に積極的な 専業農家層に対し, II兼農家層は「土地持ち労働者」とよばれているように農

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地に対する資産保有的意識が強く,総じて土地改良投資には消極的な農家層で ある。土地改良にともなう農家負担金はII兼農家層には大きな重圧であった。 土地改良区の財政的基盤の弱体化の根底にはこのようなII兼農家の著増という 日本農業の構造的変動があったのである。

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参 考 文 献 (1) 中川善之助著「水利権と耕作権j (1私法』第三号) (2 ) 農 地 一 一 農 地 調 整 」 昭 和22年,香JI[県 (3)用水慣行と水利費に関する調査」昭和33年,香川県 ( 4 ) 判 決 原 本j,高松地方裁判所蔵 (5)香川県讃岐平野に於ける農業水利慣行」昭和29年,香川県 (6 )香川県農業水利慣行調査(水ブニと地主水について)j昭和27年,香川県 (7)土地改良事業合理化基礎調査報告書・第五冊分一一香川県満濃池土地改良区一一」昭 和39年,全国土地改良事業団体連合会 (8)農業水利秩序変革の要因に関する研究」昭和32年,農業水利問題研究会 (9 ) 藤井倣箸「香川県農業の特異性とその対策一一吉野川総合開発の意義一一j c'セメント 89号1) (10) 香川の土地改良』 (11)四国新聞』 (12) 県営土器川沿岸用水改良事業」昭和16年,香川県 (13) 香川県営土器川右岸用水改良事業計画書」昭和28年,香川県 (14) 土器川水系一一農業水利実態調査一一」昭和35年,農林省 (15) 満濃池竣功記念発行 まんのう」昭和34年,県営満濃池用水改良事務所 (16) 月刊香川」 (17) 金沢夏樹著『稲作の経済構造』昭和29年,東京大学出版会 (本稿の内容にかかわる一般専門警は,香川県について重要な記述のもののみを掲げた。)

参照

関連したドキュメント

  中川翔太 (経済学科 4 年生) ・昼間雅貴 (経済学科 4 年生) ・鈴木友香 (経済 学科 4 年生) ・野口佳純 (経済学科 4 年生)

○東京理科大学橘川座長

17‑4‑672  (香法 ' 9 8 ).. 例えば︑塾は教育︑ という性格のものではなく︑ )ット ~,..

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