香 川 大 学 経 済 論 叢 第65巻 第 2号 1992年9月 5-24
漁業の改革と戦後の県漁業
辻
唯 之
- 漁業の改革 はじめに 戦前に日本の漁船が出漁していた海外のすべての漁場を失い,徴 用でかりだされた漁船を戦場で失い,内地の漁業施設は破壊され,燃料・漁網 綱などは極端に不足するという終戦直後のどん底の状況から、 GHQ(連合軍 最高司令部)の厳しい指導と監督のもとに日本水産業の復興がはじまる。復興 に向けての日本水産業の課題はなによりも飢餓線上にある日本国十民に最低限必 要な水産食糧を供給することであったが,もう一つの大きな課題は漁村の民主 化と漁業制度の改革であった。そこではじめに確認しておかなければならない のは,戦前の漁業制度と漁村の姿である。 戦前の漁業制度と漁村 そもそも明治3
5
年の漁業法制定によってその基本 的枠組みが確立した戦前の漁業制度は幕藩時代の旧慣を基礎に築かれたもので あり,この古い漁業制度のもとでは地先の漁場は地元漁民にだけ属すもので あった。このことを象徴するのが専用漁業権や特別漁業権などの慣行漁業権の 存在である。このような慣行漁業権が密度高く存在する海域では漁場紛争が絶!
えなかった。備讃瀬戸もそのような海域の一つで,塩飽漁場や香西漁場におけ る岡山漁民と香川漁民の間でくりかえされた近世以来の激しい漁場紛争の背景 には,独占的・排他的な性格のきわめて強い慣行漁業権の存在があった。この ように漁場占有が古い封建時代の姿にとどまっていれば,当然のことながら漁 業生産の発達ははばまれざるをえない。日本漁業近代化の象徴ともいうべき動 力船が沖合,遠洋へと進出していったのは,沿岸が漁業権漁業にまもられて動→ 力船の操業ができなかったからである。 漁村の内部に目をむけると,法の建前としては漁業権は組合員が平等に享受 する権利があるが,実際は村の富裕階級である網元や船主が経営しているケー スが多く,貧しい漁民は彼らに生殺与奪の権を握られていた。戦前の漁村は農 村に劣らぬ封建的な姿を呈していたのである。大関秀吉時代以来の人名とよば れる塩飽諸島の「羽織衆J,伊吹島の縛網や香西浦のタイ網,東讃の地びき網な どの網元たちもそのような漁民支配層であった。戦後の漁業制度の改革はこの ような一部の富裕な漁民の支配する封建的漁業秩序からの漁場と漁民の解放を 彊って実施されたのである。 新漁業法の制定と漁業調整 昭和 25年 3月,古い漁業制度を改革すべく「漁 業法」が制定された。明治35年の漁業法を旧漁業法とよぶのに対しこれを新漁 業法という。農地改革が戦後間もない 22年に実施されたのに対して漁業制度の 改革がこれに3年も遅れて実施されたのは,改革を妨害する古い封建的な勢力 の存在もさることながら,農業と違って漁業そのものの実体が複雑でどのよう に改革するかを明らかにすることが非常に困難であったからである。 当然のことながら,平面的・単一的に利用される土地は分割ができ,かっそ の利用方法は他の土地に影響しない。しかし海は土地とは違う。海は表層をト ビウオが泳ぎ,中層をサパやイワシが泳ぎ,海底近くにはタイが棲む。漁業は これら水族の棲息状況に応じて立体的におこなわれるのであるが,同じ水族を 漁獲する漁法が多種多様なうえ経営体も一様でない。ある漁場にタイの一本釣 り漁師が小舟に乗って出漁しているかと思えば,その同じ漁場に 10隻近い漁船 を必要とするタイの縛網がおこなわれているといった有様で,とくに海域の狭 い瀬戸内海では漁村が入り合い,ときには他県の漁師も入り合う複雑な入会状 況がみられた。そこでもし,漁業法第一条が謡うように「水面を総合的に利用 し,もって漁業生産力を発展させ,あわせて漁業の民主化を図」ろうとすれば, どうしても全体的な漁場運営の立場にたった適切な調整が必要である。これが 新漁業法でいう「漁業調整」であり,そこには封建的漁業慣行と先願主義によっ て漁業の利用を無秩序,無統制におとしいれ,ついには生産力をいちじるしく
101 漁業の改革と戦後の県漁業 7 -減退させていった旧漁業法とそのもとでの漁場利用の制度に対する強い反省が あった。 こうして沿岸漁業については漁業権を中心として編成し,これに行政官庁の 許可制度による許可漁業がくわわって漁業秩序がっくりあげられていた明治漁 業法に対し,新漁業法では漁業権の範囲を縮小する一方で r漁業調整」という 方式がとられた。そして新しい漁業秩序の中核となるこの漁業調整という重要 な仕事にあたったのが漁業調整委員会である。農地改革ではその実施機関とし て農地委員会が設けられたが,漁業調整委員会はちょうどそれにあたる。 漁業調整委員の選挙 漁業調整委員の選挙は海区単位でおこなわれる。日本 の海は
1
7
9
の海区にわけられ,香川県の海は東讃,中讃,西讃の3
つの海区が 指定された。各海区の区域は東讃海区が大川・木田・小豆の三郡,中讃海区が 高松市と仲多度郡,中讃海区が三豊郡の,それぞれの地先海面であった。委員 会のメンバーは1
0
名で,そのうち3
名は公益代表と学識経験者からなる知事選 任委員,残り 7名は漁民委員である。漁業法の規定によると,選挙権・被選挙 権の資格者は 1年に9
0
日以上漁船を使う漁業にたずさわる一経営するかある いは漁業者の家族として,または漁業者に雇われて漁業に従事する一者で,昭 和2
6
年の「香川県水産要覧」によると,2
5
年8
月現在で香川県の各海区の有権 者数は東讃海区7
3
2
1
,中讃海区5
6
0
9
,西讃海区4
5
1
3
,その総数は1
万6
9
0
3
名 であった。 昭和2
5
年9月,全国一斉に漁業調整委員の選挙がおこなわれた。働く漁民代 表を選出する漁業制度改革の中心的推進力とみられた漁業調整委員選挙であっ たが,選出された人々の顔ぶれをみると,総数1
4
4
9
名の委員のうち出身階層が 漁業労働者とみなすことのできるものはわずかに4
9
名であり,大多数は漁業経 営者や漁業協同組合(以下,漁協と略)の有力な役員であった。香川県の場合 もそのほとんどが漁協長や漁協理事などであって,漁民の数は3海区を通じて わずか3名にしかすぎない。漁民にしてみれば,漁場の秩序を新しくするにあ たって地域利益を代表してもらおうという正直な気持ちからかれらを委員に選 んだのであろうが,しかしその結果は,漁業調整委員会という民主的制度は十分生かされず,漁業制度の改革は農地改革のように輝かしい成果を挙げること ができなかった。それに漁業調整委員の選挙にあたっては,農地委員会のよう に階層別選挙方式がとられなかったことも漁業制度民主化を不徹底なものにし た理由の一つである。 さて漁業調整委員会がとりくまなければならない最初の仕事は,漁場計画の 作成であった。新漁業法による漁業制度の改革はまず沿岸漁業の全面的整理か らはじまる。明治漁業法による古い漁業権は新法施行後
2
年以内にいっせいに 消滅させ,同時に新しい漁業権が計画的に免許されるのである。漁業調整委員 会はその海区全体の漁場の自然的・社会経済的な状況を考慮、しつつ,その海区 にふさわしい新しい漁業権の種類や,その規模,設定の位置などを定めるので ある。そこでまず、知っておかなければならないのは,新しい漁業権である。 新しい漁業権について 新漁業法のもとにもうけられた新しい漁業権は次の ようなものであった。 ト} 定置漁業権 身網が水深2
7
メートノレ以上の海底に設置される大規模な定置網。2
7
メート ル以下の小型の定置網ははずされて共同漁業権に入れられた。 仁) 区画漁業権 海面を区切っていとなむノリやカキ,エビや具類などの養殖漁業で,従来と 同じ。 ( 三 〉 共同漁業権 従来の専用漁業権および特別漁業権を廃して新しく創設したもので,一定の 水面を協同に利用していとなむものである。協同に利用していとなむというの?
は,地元の漁協が漁業権をもって漁場を管理しその漁協の組合員なら誰でも平 等にいとなむことのできる漁民共同利用の漁業,という意味であって,だから 従来の地先の海でおこなう入会漁業にほかならない。その内容とされる漁業は, 藻類や員類など定棲性の動植物を目的とする漁業と魚が地先にくるのをまちか まえてとる小型定置や地びき網,寄魚漁業などに限られており,旧来の専用漁 業権にふくまれていたところの,浮魚を漁場を移動しながら運用漁具でとる漁103 漁業の改革と戦後の県漁業 -9-業は共同漁業権からはずされている。旧漁業法のもとで浮魚漁業が専用漁業権 として組合の排他的・独占的な漁業権に組み入れられたために狭い海域に固定 的な障壁ができて部落が対立し,漁場争いが頻発した過去の苦い経験から,浮 魚漁業は専用漁業権という固定的な漁業権の枠からはずされた。かつて香西浦 と下津井の争いの火種であった瀬居島漁場でのタイ一本釣りも漁業権からはず された漁業の一つである。また,入会関係が複雑な漁業についてもこれを共同 漁業権からはずし,その漁場の運営は海区全体の漁業秩序の維持という立場か らこれも調整委員会の手によって調整されることとなった。 漁業権の免許申請 第1回の香川県漁業計画は昭和26年7月31日に告示さ れた。告示文には,共同・区画・定置の各漁業権について,それぞれ番号を付 した漁業権の名称とともに,漁場の位置・区域,漁業・漁獲物の種類,漁業時 期,関係地区などが詳細に記されている。告示に掲載の各漁業権の漁業図は, 県の水産課のほか,東讃海区および中讃海区共同の高松市北浜町の事務局,三 豊郡観音寺若宮町の西讃海区の事務局にも備えつけられて一般の縦覧に供せら れた。以下,第
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回の漁業計画の告示から事例をいくつか紹介すれば, (a) 高松市屋島の西岸地先の,詰田川沖合の桝網漁業は免許番号が「中共第 十八号」一中共は中讃海区の共同漁業権の意味ーで,屋島東町,屋島西町 および屋島中町がその「関係地区」である。漁獲物はチヌ,ボラ,タナゴ などで,漁期は通年。「関係地区J
ないし「地元地区J とは,漁業権の免許 申請のさいの,漁業権を受ける資格がある地域のこと。 (b) 東讃海区に属する小豆郡四海村の沖の島地先のカキ養殖業は免許番号 「東区第二号」の区画漁業権で,漁期は通年,関係地区は四海村。 (c) 大川郡引田町安戸池から沖合6..5キロメートJレの定置網漁業(免許番号 「東定第四号 J)は漁獲物がアジ,サパなどで,漁期は6
月1
日から1
1
月 31日までの5カ月間,引田町と白鳥本町が地元地区にあたる。 (d) 三豊郡の粟島周辺海域で操業される藻建網,磯建網の漁業は免許番号「西 共第二十四号」の共同漁業権で,漁期は通年,関係地区は粟島村のほか, 荘内村と詫間町。さて漁業計画が公表されると,関係地区の漁民から当該漁業権の免許申請書 が漁業調整委員会に提出された。審査にあたって,どの漁協,どの漁民に新し い漁業権を免許するかは,新漁業法の定める「適格性」と「優先順位」にした がって漁業権ごとに検討された。昭和
2
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年9
月4
日と2
7
年1
月5
日に免許を 認められたものの告示があったが,この告示によると,前出の(a)免許番号「中 共第十八号」の桝網漁業は高松市の屋島漁協に, (b)免許番号「東区第t二号」の カキ養殖業は四海村漁協に, (c)免許番号「東定第四号」の定置網漁業は引田漁 協に, (d)r西共第二十四号」の建網漁業は代表者の粟島漁協一代表者とは漁業 権が複数の漁協の共有の場合の,その代表者という意味ーにそれぞれ免許され ている。なお,新漁業法のもとでは,定置漁業権と区画漁業権の存続期間は5 年,共同漁業権のそれは1
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年で,旧漁業法時代に比べて存続期間の大幅短縮と ともに,区画漁業権以外は更新制度が認められていない。漁業権を固定化させ ず漁業生産の動向に適切に対処できるように漁業秩序を改めていくことも委員 会がとりくむべき課題のひとつであった。 香川県の場合,漁業計画でどれだけの古い漁業権が整理の対象となり,どれ だけの新しい漁業権が免許されたか。『香川の水産~(
2
8
年)によると,新漁業 権の免許件数は定置漁業権9
件,区画漁業権5
1
3
件,共同漁業権2
1
4
件で総計7
3
6
件,整理の対象となった旧漁業権は,定置漁業権1
1
2
7
件,区画漁業権5
1
3
件,特別漁業権3
2
4
件,専用漁業権1
4
5
件であった。伊吹島を例にとると,改 革以前の旧漁業権には専用漁業権として(l)イワシ船びき網や一本釣り,はえ縄 などの地先専用漁業権, (2)タイ縛網・イワシ巾着網・打瀬網の慣行専用漁業権, ならび、に(3)桝網の定置漁業権があったが,改革によって(l)のイワシ船びき網と (3)の桝網は共同漁業権として認められたものの,これ以外の,一本釣りやはえ 縄,打瀬網などの浮魚を対象とする漁業および島の主要漁業であるタイ縛網・ イワシ巾着網はいずれも漁業権の枠からはずされている。 漁業権の枠からはずされた旧漁業権は新漁業法では許可漁業としてとりあっ かわれることとなった。サパやアジ,イワシなど,沖合を回避するいわゆる浮 魚を求めて漁場を自由に移動しながら操業する漁業が許可漁業の対象となり,105 漁業の改革と戦後の県漁業 -11ー 許可は主務大臣もしくは知事がおこなう。許可漁業にかかわる「香川県漁業調 整規則」は昭和
2
6
年9
月に公布された。同規則によれば,小型まき網漁業,機 船船びき網漁業,袋まち網漁業,ごち網漁業,底びき網漁業(無動力),はえ縄 漁業など24種類の漁業が県が指定した許可漁業であった。ちなみに, 28年 8月1
日現在の県の許可漁業は総数8
3
6
9
件であった。 ところで漁業権漁業の場合,免許を受けるのは大半が漁協である。戦前,漁 業権をもつが漁業をいとなまず,法外な賃貸料のうえにあぐらをかく漁業組合 が数多く存在したことへの反省から,今回の漁業制度の改革では漁協による漁 業の自営が据われ,漁業権は漁業を自営する漁協に優先的にあたえられること となった。漁協の設立は漁業制度改革の2年前にさかのぽる。 漁協の設立 昭和 23年 12月に「水産業協同組合法」が制定され,戦後の新 しい漁業団体として漁業会にかわって漁協が設立されることとなった。漁業会 は,戦時中の食料増産の国策に即応すべしそれまであった数多くの漁業組合 を強制的に統合してつくられたもので,国から漁業権をあたえられ,資材の配 給・水産物の集荷を一手におこなう経済統制団体であり 1市町村に 1漁業会 の設立であった。この漁業会を改組して民主的で自由な漁協がつくられること となったのである。庵治村漁業会は昭和1
9
年4
月の設立であるが,これにかわ る庵治漁協は24年 8月に組織されている。 しかし漁協が設立されたからといって,漁業会はただちに解散しない。古い 漁業権が消滅するのは新漁業法施行2
年後の新旧漁業権のいっせい切りかえの ときであるから,それまでは漁業会は存続し旧漁業権は漁業会の手元に残るこ とになる。ただし漁業権の管理は旧勢力である漁業会の理事にはまかせず,漁 業会のメンバーからあらたに選出された漁民代表からなる漁業権管理委員会が 新旧漁業権切りかえまでの間,漁業権の権限を行使することとなった。 農地改革で農地の国家買収がおこなわれたように,漁業改革では消滅する漁 業権に対し政府から補償がおこなわれた。漁業改革はすべての旧漁業権を消滅 させる建前だから,保証金の交付は全漁業権におよぶ。この保証額は圏全体で 180億円もの巨額に達し,複雑で繁多な補償が予想、されることから,漁業権補償委員会が設けられてその交渉にあたった。香川県では2億6,400万円の保証金 が支払われている。ちなみに,庵治油業会への漁業補償料は入漁権の補償もふ くめ全額でおよそ 1,200万円であった。漁業補償料はひとまず漁業会に対し交 付されたのち,漁業会から漁協にひきつがれる。漁業補償金の支払い方法は農 地改革の場合と同じく漁業権証券の形でおこなわれるが,庵治村漁業会の場合, その解散にともなう資産処理のさい庵治漁業会から新設の庵治漁協に委譲され た資産の中心となったのは,上の
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,200万円の漁業権証券であった。 このようにして漁協が資金として確保した漁業補償金は,新設漁協の再建整 備と荒廃した漁村の復興におおいに役立つこととなった。この点庵治漁業組 合史』の著者が rこの証券による漁業権消滅補償金は,漁協の特別補償金とし て組合内に留保し,漁協の出資金の過少を補い,漁協の基礎強化がはかられた ほか,信漁連(香川県信用漁業組合連合会,昭和2
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年に設立一注入漁業信用 基金協会への出資や増資にあてられ,本県漁村金融の基礎強化に役立つたこと は特筆に値するものであった。」とのべているとおりである。 二 戦後香川の漁業と漁村 貧しい内海の漁家 昭和24年の第一次漁業センサスによると,全国漁業経営 者の 16%が存在する瀬戸内海においてその漁獲高は全国の総漁獲高の4パー セントにすぎず 1戸あたり漁獲高では全国平均に対してその3割という低い 水準であった。このような低い漁業生産に照応して指摘される内海漁業の特徴 は,数多くの小さな漁家の存在であり,漁業経営の零細性であった。香川県の 場合,自家労働力を主体とする小漁家の総経営体数に占める割合は9
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パーセン トと圧倒的である。とぼしい漁業資源を求めて狭い漁場に小漁家がひきめき あっているのだから,漁獲高は少なく,したがって漁業所得は低い。漁業だけ では食っていけぬところを,土地のあるものは耕して自家の食糧の確保につと め,土地のないものは自営業をいとなんだり賃労働者となってかろうじて生計 を維持している貧しい漁家,これが内海漁家の一般的な姿であった。その貧し さの根底には内海漁村における部厚い過剰人口の存在があった。とくに戦後は107 漁業の改革と戦後の県漁業 -13-敗戦によって多くの失業者,復員者が漁村に流れこんだため,漁家の貧しさは いっそう強まった。塩飽の漁村もそのような貧しい漁家の住む漁村の一つで あった。 塩飽の漁村備讃の海のほぼ中央に位置するところの塩飽の島々は,昭和
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5
年当時の行政区画としては与島,本島,広島,高見島,佐柳島の5ヵ村からなっ ていた。農業と漁業のほかに産業といえば石切り場と製塩工場があるだけの貧 しい村々であった。周知のことであるが塩飽の海は歴史上,戦国時代の信長・ 秀吉を経て徳川幕府から人名たちがその領有を公認された朱印の海であり,そ れが塩飽漁業共同会の管理する「慣行専用漁業権第四三七一号」として受け継 がれている。 『塩飽諸島水面使用状況調査] (昭和2
5
年)によると,本島および広島で当時 おこなわれていた漁業は圧倒的に一本釣りが多く(19
1
経営体のうち1
1
4
経営 体),ついで打瀬網 (35経営体),はえ縄 (15経営体)であった。一本釣りは乗 組員1人だけの単独操業がふつうであり,打瀬網やはえ縄漁業は乗組員が前者 が2
人,後者が1
人から2
人という,いずれも夫婦だけでも十分やっていける 小漁家の漁業である。前者の打瀬網は,船を潮に乗せて横に流しながらへサキ に網の引き綱の一方を, トモにもう一方をゆわえて海底を引きまわす漁法で, 砂地に棲むエピやコチ,アナゴなどが獲れた。戦後,内海漁業の中心的存在と なる底びき網漁船はこの打瀬網漁船を動力化したものである。 これら零細漁業のほかに,塩飽には数はわずか6経営体であるがこませ網漁 業もおこなわれていた。乗組員が 7~8 人必要なこのこませ網は備讃瀬戸では もっとも規模の大きな漁業であった。こませ網漁業は,潮流に向けて海底に敷 いた袋状の網に潮流に流されて自然に乗網するイカナゴやイカなどを捕獲する 漁業である。だから潮のはやい備讃瀬戸はこませ網には格好の漁場であり,岡 山のこませ網漁船も高い入漁料を塩飽漁業共同会に払って塩飽の海にやってき た。昭和2
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年にとりかわされた塩飽側と下津井側の協定によると,下津井のこ ませ網漁船は入漁統数を 34統に制限されたうえ,漁船 1隻につき 1,500円も の高い入漁料を塩飽漁業共同会に支払わな砂ればならなかった。塩飽の漁船は小さい。昭和
2
5
年当時,塩飽全島で7
6
1
隻の漁船があったが, 大半の漁船は3トン未満で,手漕ぎの無動力船になるとその半数近くが1トン 未満の漁船であった。また塩飽の漁船は無動力船の方が動力船より数が多い。 漁船の動力化を漁業近代化の指標のーっとみるならば,塩飽漁業は明ーらかにた ちおくれていた。純漁村でありながら「漁場なき漁民」とよばれ,したがって 経営を集約化して漁業生産の向上につとめなければならなかった塩飽の対岸の 下津井では漁船の7
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パーセントが動力船であった。塩飽で近代化がおくれた最 大の要因は前出の慣行専用漁業権第四三七一号の存在とこれにもとづく高額の 入漁料収入であったということができるであろう。 漁家と兼業 当然のことながら,低い漁獲しかあげられぬ瀬戸内海の漁家に とって兼業のウエイトは高い。香川県の場合,総漁家の 70パーセントは兼業漁 家であるが,その兼業の主なるものはやはり農業であった。兼業機会の少ない 内海の島腕部はとくにその傾向が強ふさきに紹介した塩飽の村々も典型的な 半農半漁の漁村で,総漁家のうちの8
6
パーセントが農業を兼業とする漁家で あった。しかし農業といっても平場の少ない島の農業であるから,その経営規 模は一反前後がほとんどで,これでは農業といっても自家菜園に毛がはえた程 度のものであるが,それでもそれは貴重な自家用の食糧供給の場であった。塩 飽の零細な漁家はとぽしい漁獲とサツマイモや大根,麦などのわずかな食糧に よってかろうじて生計を維持してきたのである。 ところで島腕部に比べて県本土となると,兼業の内容は複雑となる。「香川県 漁 業 の 経 済 的 性 格 第I部 構 造 分 析J (小沼勇著,昭和29年)によると,小 型底びき網をいとなむ庵治村の7人家族の某漁家の場合,船に乗るのは戸主と 次男,妻は3畝の畑を耕し,長男は大工で三男はその見習い,次女と三女はそ れぞれ大阪と高松で女中奉公という複雑な就業状況であった。そしてこの漁家 は,総収入のうち漁業からの収入は4割を割っている。また同じ庵治村の7人 家族の漁夫世帯の場合,2
7
歳の若い当主はこませの漁船に雇われ,女房は祖母 とともに5畝の水田を耕し,そして当主の兄弟たちは末の弟が母と一緒にレン ガ加工の日雇いに2
人の妹たちはいずれも県外に女中奉公にでている。この109 漁業の改革と戦後の県漁業 -15 漁夫の世帯も漁業からの賃労働収入は家計の半ばに達していない。 この
2
つの事例からもうかがわれるように,香川県の零細漁家は戸主をふく めて世帯員は,収入のある仕事ならその種類を問わずなんでもやって少しでも 家計の足しにしなければならないという困窮した状況にあった。外見はかれら は就業しているから失業状態にはないが,その報酬は低く生活はミゼ、ラブルで ある。外に安定的な働き口があればすぐにでも離村の希望はあるのだがやむを えず漁村にとどまっているこれらの人々のことを,経済学的範鴎では潜在的過 剰人口といった。昭和2
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年代の日本の農村が深刻な過剰人口をかかえていたよ うに,漁村もまた同じ問題に苦しんでいたのである。 漁村の階層構造一伊吹島の場合一 塩飽漁業に典型的にみられるように内海 漁業の特徴は経営の零細性にあるが,しかし内海にも従業員が数十人という大 きな経営体も一方にあり,そのような経営体と小漁家が併存する階層分化のす すんだ漁村も存、在した。:隆灘の東部に位置する伊吹島もそんな漁村の一つで あった。 伊吹島は古く江戸時代から大網漁業のおこなわれてきた漁業専業の島であ り,この大網は縛網とよばれる。カズラナワという特殊な漁具を使ってタイを 捕獲する縛網は 2隻の網船と同じく 2隻のカズラ船のほか全部で 8隻からな る船団を組み,総勢5
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人前後の漁師が乗り込む。操業時期はタイの大群が産卵 のため憶灘から塩飽の海に入りこんでくる春季のおよそ2
カ月間である。伊吹 島の大網には健灘のイワシを追う巾着網もあり,戦後はこのイワシ巾着網が島 の主要漁業になりつつあった。 ところで伊吹の大網は周年操業されるわけではない。縛網が5月から6月, 巾着網が7月から 11月までで, 12月から翌年の4月までの5カ月聞は漁がで きない。しかも戦後は燈灘のタイは乱獲で数を減じ縛網は不振で、あった。この ような不安定な大網経営をささえつつ伊吹島の網主制を成立させたものは,な によ.りも離れ島ゆえに成立した伊吹独特の大家族制-1
戸当り家族員数は昭和 25年当時で平均15人ーであった。このきわだった大家族構成は大網の漁労組 織を反映したものであり,また逆に網主でない人々は網主と姻戚関係をむすぶことによって漁業でしか暮らしていけない島での生活基盤を確保しようとした のである。 「離れ島漁村の社会システム一瀬戸内海伊吹島の場合一J (昭和
4
4
年)によれ ば,ある大網の漁労組織は血縁者2
0
名,雇用者2
1
名という構成で r沖合」と よばれる現場のリーダーや船長,機関長などの重要な役職は信頼のおける血縁 者で固めての操業であった。網主は親族や姻族の同族的つながりをできるかぎ り活用しつつ大網に必要な労働力の半ばを調達しているのである。しかし雇用 者2
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名とあるように一族の労働力でもってしてなお漁夫が不足するときは,小 型底びき網層および小漁師層から補給された。島の中堅層である小型底び、き網 の漁家は家族の誰かが大網に乗り込んで家計を補助すればよいという程度であ るが,しかし小漁師の場合は大網経営へ雇われる方が自家漁業より重要であっ た。伊吹の小漁師は大網なしには暮らしていけず,その意味では伊吹の小漁師 は専業漁家というよりは大網が操業されないその漁閑期に家計補助的に一本釣 りや建網などの漁にでているといった方が適切でトある。なお戦後の伊吹島にお いて小型底びき網層および、小漁師層からの労働力補給を一層容易にしたのは島 に累積する過剰人口の存在であった。戦前すでに飽和状態にあったといわれる 島の人口であるが,昭和1
9
年に3
,4
5
1
人を数えた島の人口は2
5
年には4
,1
3
8
人に急増している。 このように伊吹島は大網元層が社会の根幹をなす漁村であった。事実,かれ らは島の「大旦那衆」であり,村長や漁業組合長,氏子総代などの島の重要な 役職はもっぱらこの大網元層の独占するところであった。このような伊吹島の 漁村構造を前出の「香川県漁業の経済的性格第I
部構造分析」の著者は「大 網型」の漁村として位置づけている。 三 戦 後 香 川 の 漁 業 問 題 漁業制度改革が実施に入る昭和2
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年代後半になると漁業生産もほぽ戦前水 準に回復してくるが,このころはまた漁業紛争が頻発し漁業調整が水産行政の 大きな業務となった時期であった。瀬戸内海における小型底び、き網漁船の減船111 漁業の改革と戦後の県漁業 -17-整理もこの時期の漁業調整問題の一つであり,時期は少しおくれて
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年代のは じめになるが備讃瀬戸の漁場境界をめぐる岡山と香川のオゾノ瀬裁判事件もそ の一つであった。 ト 減 船 整 理 問 題 ] 混乱する戦後の沿岸漁場 官頭にも触れたように,終戦後の日本漁業は外国 領海や植民地の漁場を失って狭い沿岸漁場に押し込められることとなった。戦 争で損害を受けた漁船も少なくはなかったが,なお数多い動力船の稼ぎ場はこ の窮屈な漁場に限られたのである。さらに,戦争中,食糧増産の必要から乱獲 がつづいて海が荒廃していたところへ,戦後の混乱に乗じて違反操業や無許可 漁業が公然とおこなわれて漁場紛争が頻発し,全国津々浦々の漁場は無秩序状 態におちいった。瀬戸内海ではえ縄・タコ縄などを海底に切り流してしまう、戦 車漕志、と呼ばれる乱暴な底びき漁が横行したのもこの時期であるし,また2
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年7月 9日の『四国新聞』は圧内半島沖合でのダイナマイト密漁を報じている。 治岸漁業における漁業秩序の乱れによる乱獲と漁獲逓減,この深刻な事態を 解決するためには漁船そのものを減らすしかない。こうして昭和2
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年代後半, 水産史上いまだかつてなかった船を海に沈めて整理するといういわゆる減船整 理が断行されることとなった。瀬戸内海に限っていえばその対象となったのは 小型底びき網漁船である。「漁業法」の規定によると小型底びき網漁業とは「総 トン数十五トン未満のスクリューを備える船舶により,底引網を使用して行う 漁業J (六十六条のこ)であって,着業資金が少ないうえに当時もっとも漁獲効 率の高い漁業であった。右に紹介した瀬戸内海の、戦車漕ぎ、も小型底びき網 漁業の一種である。 滅船整理問題の歴史的経過 瀬戸内海で小型の底びき網漁業が発達するのは 昭和に入ってからで,そのてことなったのは漁船の動力化であった。しかし, 瀬戸内海は刺網やはえ縄,タコ査などの漁業が古くからさかんであったから, もしこれらの漁業がおこなわれている漁場で底びき網が使われると魚具は破損 されてしまう。だから海の狭い瀬戸内海ではすでに無動力船時代の明治の末か ら打瀬網などの底びき網漁業は禁止されていた。したがって急増する小型底びき網漁船はじつは無許可の漁船であり,沿岸を横行するこの無許可の小型底び、 き網漁船は沿岸漁民の怨嵯非難の的となった。小型底びき網漁業増大の傾向は 国の規制が強まって昭和5年をピークにその後は一応抑圧されるが,無許可操 業はあとを断たず,昭和12年当時で香川県では500隻近くの,瀬戸内海全体で は5,500隻を上回る無許可小型底び、き網漁船が操業していたという。当時の瀬 戸内海の動力船の総数は1万5千隻であるから,内海では3隻に1隻以上の動 力船が無許可の底びき網漁業をいとなんでいたことになる。 しかし,小型底びき網漁業に対する規制は戦争の悪化とともに食糧確保の必 要から大幅に緩和され,また戦後の食糧難の時代には引揚者の漁場参加なども あって小型底び、き網漁船は爆発的に増えた。このような小型底び、き網漁船操業 の超過密状態も食糧難の解決に明るい見通しが立つようになる昭和
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年代中 ごろになるとようやく資源枯渇問題として,あるいは漁業紛争問題として社会 問題化した。それに,ときまさに漁業制度の改革が日程にのぼ、っていた時期で あり,この無秩序状態にある底びき網漁船問題を解決せずして将来に向けての 漁業計画を樹立することは到底不可能だというのが,水産界の一般的な認識で あった。 減船整理の制度化 昭和25年10月,水産庁は「小型機船底びき網漁業処理 要綱」を提示し,小型底びき整備の基本的施策を公表した。「要綱」によれば, 小型底びきの許司は従来どおり知事の権限に属すが,その許可しうる隻数や総 トン数,総馬力数の最高限度については国が漁業調整の全体的立場にたって農 林大臣がこれを定めるほか,瀬戸内海では10馬力以上の大型高馬力船の操業は 認めず魚具の使用も一部制限・禁止するというのがその方針であった。全国の 半数近くの小型底び、き漁船が集まっている瀬戸内海では小型底びき調整問題に 対する関心は強く,各地の漁業調整委員会や漁協でも「要綱」は熱心に討議さ れた。 しかるに 26年2月,日本政府に対しG H Qが沿岸漁業の経済危機を救済すべ くその解決策のーっとして減船の勧告一いわゆる f5ポイント計画」ーをおこ なうにいたって,小型底びき問題は具体的施策として展開されることとなった。-19 すなわち, 26年の国会において「要綱」の線にそった漁業法の改正がおこなわ れ,翌27年4月には減船整理の根拠となる「小型機船底び、き網漁業整理特別措 ここに小型底びき漁船を年次計画的に整備調整するいわゆ 漁業の改革と戦後の県漁業 113 置法」が公布され, る減船整理が実施されることとなった。 もともと小型底び、き網漁船は大半が無許可漁船であるから,法律 問題に限れば取り締まりを強化しさえすれば当然に整理ということになり,何 も政府が進んで減船整理のための予算処置を講じる理由はない。減船整理が問 題となった当初,大蔵省はそのような立場であった。しかし,小型底びきの増 ところで, 加については戦時中と戦後の食糧難時代に政府自ら黙認ないし奨励したという それにここまで増加した小型底びき漁船を取り締まりだけ で整理することなどはとうてい不可能であった。全国各地に減船に必要な予算 処置を求める小型底びき業者の声が高まった。西讃海区漁業調整委員会からと きの大蔵大臣池田隼人宛にだされた26年1月16日付けの「小型機船底曳網漁 業整備に伴う転業資金交付方につき陳情」と題した陳情書も I…"この際,疲 弊困懲その極に達している内海零細漁民をして,極力外界出漁の途を拓き,更 に又資源保持培養上適切なlる増殖施設を国費をもって施行せられるは勿論,如 上の実情にある小型類似底曳業者に対してはその整備に当たり他種漁業に転換 しうるに足る資金の支出方についても格別の予算的措置を講ぜられたいのであ このような世論を背景に減船のための財 その額は減船期間中の5年間で 9億円とい ります。」とのべているとおりである。
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歴史的経過もあり, 政処置が講じられることとなった。 う膨大な財政負担となった。 国の計画によると, 26年度より 5年計 画で8,869隻を整理し,昭和31年4月において2万九 830隻を残存させる予 定であった。香川県では,各年度の整理隻数は27年73隻, 28年53隻, 29年 152隻, 30年444隻で,最終の残存枠は1,512隻とする計画であった。実施初 年度の27年の減船計画は,減船数73隻のうち沈船して築磯に使われた漁船59 隻を筆頭に,他種漁業転換4隻,運搬船改造 6隻,他産業転換 4隻で,国から 総額約1,700万円の補助金が交付された。 香川県における滅船整理の実施状況減船整理というこの未曽有の出来事はやはり世間の注目を強くひいたらし く,
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年2
月1
日の『四国新聞』も「底曳網漁船に救いの手一有望なカツオ釣 り」と題して,小型底びき網漁船の転換漁業として土佐沖のソウダカツオのひ き釣漁が有望であるとの情報が東讃の漁師から香川県水産課にもたらされたこ とを報じている。ちなみに東讃の一漁村である小田村での減船整理の状況は,2
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年の4名の整理対象者のうち3
名はサケ・マスの刺網漁業に転換,残り l名 は廃業して巣樹園経営者となり,2
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年の1
名はサワラ流網漁業に転換してい る。しかし一度は転換したものの食べていけず,また復活した伊吹の底びき漁 船のようなケースも少なくなかった。 瀬戸内海における減船整理の概要はほぼ以上のとおりであるが,なお付記す れば,香川県は県独自の立場から縛網・イワシ巾着網・こませ網の減船整理を おこなっている。こませ網は戦中戦後にかけて急速に伸び、た内海の新規漁業で あった。 占領下においてマッカーサー・ラインに象徴されるようにきびしく漁場を制 限されていた日本漁業は,昭和2
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年に締結された講和条約を機に,沿岸から沖 合・遠洋へとその発展の道が聞かれることとなった。広く水産界で「沿岸から 沖合,沖合から遠洋へ」のスローガンが叫ばれたのは,昭和20年代後半から 30 年代はじめのことである。沿岸漁業の減船整理は,このような水産政策上の変 化を背景に昭和30年に打ち切られた。こうして戦後の沿岸漁業問題に対する政 策的対応は小型底び、き減船整理でひとまず終えることとなったが,もちろん問 題が解決したわけではなく, 30年以降の高度成長期は沿岸漁業振興,構造改善 事業として展開されていく。 [ニオゾノ瀬裁判事件] 事件の発端 漁業制度の改革は新しい戦後漁業秩序の形成を目指したもので あったが,白紙に還元された海に新しく線をひきなおすわけであるから,これ を機に全国各地の海で漁業区域問題が発生した。昭和32年に備讃瀬戸のオゾノ 瀬で発生した事件もその一つである。 瀬戸内海の島々はその南と北の海底は潮流によって深くえぐられた海溝をな→ 115 漁業の改革と戦後の県漁業 -21-すが,潮流の停滞する島の東側や西側の海底は砂泥が堆積して海は浅い。この 浅瀬は藻が繁り小魚が繁殖しその小魚を求めて大きな魚が集まってくる絶好の 漁場であった。大槌島から直島にかけて細長く帯状に広がるオゾノ瀬もそのよ うな漁場の一つで,岡山と香川の海の境界をなすことから昔からここは両県の 間で争いの絶えないところであった。 昭和
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年5
月,オゾノ瀬の海上は香川県から女木,男木,香西の漁船が連日 出漁しタイ網でにぎわっていた。香川の漁船に交じって岡山の漁船がイカこま せ網を操業していたが,タイの漁場でイカこませ網が操業されるとタイ網が使 えなくなる。というのは,オゾノ瀬でおこなわれるタイ網漁業は瀬ぴき網であ り2
隻の船で横に長い網を海中を引き回しつつ網をしぽめてタイをとるのだ が,他方,一時的な定置網とでもいうべき大きなこませ網が海底に敷かれると, その付近の海域では瀬びきのタイ船は動きがとれなくなるからである。イカこ ませ網があると,瀬びき網だけでなくサワラの流網も使えず,タコ壷縄も損傷 を受ける。だから香川県漁業調整規則はオゾノ瀬のようなタイやサワラの漁場 でのこませ網の使用を禁止していた。 オゾノ瀬での岡山の漁師と香川の漁師のいさかいは日毎に激しくなり,つい に5月 26日,イカこませ網を操業中の岡山県下津井の漁師 3名が高松海上保安 部の巡視船に密漁の疑いで捕えられ,同年1
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月2
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日に高松簡易裁判所から香 川県漁業調整規則違反で5
千円の罰金刑に処せられた。この高松簡易裁判所の 判決に対し岡山側の漁業者は,香川県の巡視船が自分たちを捕えた地点は「香 川県の海とは考えない」と主張して正式裁判を請求,この裁判事件は県の水産 行政にも深く関わる問題だけに香川,岡山両県の争いへと発展した。そして, 漁業区域問題が全国各地で頻発している時期に法廷でまで争われることとなっ たオゾノ瀬裁判事件の帰趨は,全国の漁業関係者の註目するところとなった。 なお,問題のイカこませ網は岡山県漁業調整規則では禁止漁法には入っていな い。ただ,岡山県がそのイカこませ網を許可するにあたって操業区域を明記し なかったために事態の一層の紛糾をまねいたのである。 裁判の経過と瀬戸内海漁業調整事務局 法廷において香川側は,オゾノ瀬は旧漁業法において香川県の漁業者が国から免許を受けた慣行漁業権の漁業区域 であり,香川県が取締・監督をおこない,したがって香川県知事の行政管轄下 にあった,戦後の漁業制度改革でオソノ瀬もいったんは白紙の海にもどったが, 「地方自治法」に「普通地方公共団体の区域は従来の区域によるJ (第5条)と あるようにオゾノ瀬の帰属に関しては従来の慣行にしたがって定められるべき である,そしてまた香川県当局がオゾノ瀬での岡山県のサワラ流網やタイ瀬び き網の操業を許可している事実は実際にオゾノ瀬が香川県の海である明白な証 拠である,と主張した。これに対し岡山側は,旧漁業法ではオゾノ瀬の海域は 香川の漁民の専用漁業権の漁場であったが,新漁業法でその専用漁業権は消滅 したのだからオゾノ瀬はもはや香川の海と認めるわけにはいかない,また「地 方自治法」にいう「従来の区域」とは陸の問題であって海には適用できない, と反論した。 岡山,香川両県の申立てはいずれも間違いのない事実であった。香川県は新 漁業法以後も従来通りオゾノ瀬に巡視船をだして違反漁業を取り締まってきた い岡山県は岡山県の立場でイカこませ網操業を許可し,かつ漁業制度改革以 後のオゾノ瀬の漁場は香川県漁業調整規則が適用されない,したがって香川県 知事の行政権のおよばない海と理解していたのである。漁業制度の改革は,特 定の漁業者のための排他的な専用漁業権はなるべく排除し漁場を一般漁民に解 放する方向でおこなわれたのであるが,県境付近の海ではこの解放された漁場 が漁業法上の空白地帯となって改革後の新たな漁場紛争の火種となったケース が少なくなかった。オゾノ瀬裁判事件もそのようなケースの一つであったとい えよう。 ところで,漁業制度改革を機に昭和
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年に瀬戸内海漁業調整事務局が神戸の 地に設立された。当事務局は内海全体の立場から漁業指導や取締りのほかに海 区間の漁業調整にあたる。オソノ瀬における漁業調整についても事務局は事件 がおこる数年前から両県と何度も折衝を重ねてきていたが,瀬戸内海のような 狭い海に県境としての明快な一線を画することは行政的にも技術的にも困難で あるとの認識から,オゾノ瀬事件を香川県漁業調整規則の適用範囲の問題とし117 漁業の改革と戦後の県漁業 -23-てではなしつまり海上の県境の問題としてではなしあくまでもオゾノ瀬漁 場におけるイカこませ網の調整問題として対処すべきであるという立場であっ た。岡山の児島簡易裁判所の公判法廷に証人として登場した当事務局の局長が, 問題の海域はいずれの県に属するのかとの裁判官の質問に対して「新法(昭和
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年制定の漁業法 注)の施行されるに及んで、専用漁業権を取り除いたので, 現在では,両県において何等の話し合い,調停ができない限りはいずれの県に 属するとも言えません。」と答えた後,今後の岡山,香川両県聞の一層の話し合 いを希望するとのべているのも,瀬戸内海調整事務局のこのような立場からの 発言であった。この場合,話し合いとは香川のタイ網などと競合しないように 岡山のイカこませ網の操業区域を限定したり漁期をずらしたりすることであ る。 オゾノ瀬裁判がすすむ一方で,瀬戸内海漁業調整事務局による仲介交渉が熱 心に進められた結果,判決を目前に控えた昭和33年 8月 20日に和解が成立し, 岡山県は告訴をとりさげることとなった。その和解の内容については新聞に「大 槌島以西の岡山県よりの漁場は香川県知事に願い出ればすべて許可,大槌島以 東の香川県寄りの海域ーオゾノ瀬もこの海域に含まれる についても岡山県知 事の許可証があるかぎり検挙は極力控える」と報じられているだけで,この漠 然としたこと以上のことはわからない。 参 考 文 献 (1) ,香川県水産要覧j (香川県,昭和25,26, 27年) (2) ,香川県報j (香川県) (3) ,香川の水産j (香川県,昭和28年) (4) 1 庵治漁業組合史~ (庵治漁業協同組合,昭和57年) (5) I香川県系統計年鑑』昭和25年 (6),塩飽諸島水面使用状況調査(其のー構造)j社団法人水産事情調査所,昭和29年) (7) 武田良三・林三郎・佐口卓著「離れ島漁村の社会システム一瀬戸内海伊吹島の場合一j(r社 会科撃討究 VI 43巻第1号』昭和44年) (8)小沼勇著「香川県漁業の経済的性格第一部構造分析j (昭和29年) (9) 1瀬 戸 内 の 海 人 文 化 海 と 列 島 文 化 9 小学館,昭和29年)『小型機船底び、き網漁業~ (水産庁,昭和58年) 『四国新聞』 『沿岸漁業の現状~ (水産庁, 29年) 「西讃・中讃海区漁業調整委員会議事録J (香川県) 爪 w d H M 仙 川 叫 的 O W I l l -( ( ( (