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香川県の地租改正-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第66巻 第 4号 1994年 3月 55-83

香川県の地租改正

唯 之

一 維 新 政 府 と 税 制 改 革 維新政府と地租改正 明治 4年 7月,維新政府は廃藩置県を断行,ここに名 実ともに中央集権的な統一国家が出現した。だが,廃藩置県によって念願の全 国的課税権が維新政府の掌中に握られることになったとはいえ,その財源はい まだ旧体制下の年貢制度のもとにあった。近代的統一国家としてスタートしな ければならない維新政府にとって,石高制のもとでの幕藩時代の旧税制は,ま ことに不統一で混乱をきわめたものであった。不統一とはつまり,藩ごと,地 域ごとに種々雑多な土地税制が存在したことを指すが,香川県にかぎってみて も,県内には高松藩と丸亀藩,多度津藩のほか,幕府領の天領地や朱印地も存 在し,高松藩と丸亀藩では税率である免位が異なり,また那珂郡の榎井村や塩 飽諸島の天領地ではその土地独自の年貢収取方法が採用されていた。当然のこ とであるが,年貢制度が違えば貢租負担に寛苛軽重が生じることになる。さら に,おなじ年貢制度のもとのおなじ地域においても,本来,収穫高をしめすは (1) 本稿は,近代香川の農業および漁業の変遷を考察するにあたっての第1章にあたる。今 後,以下の要領で発表の予定である。 第2主主 明治期の勧業政策と県農業 第3章明治漁業制度と県漁業 第4章地主制の展開と香川の農村 第5章 讃 岐 の 池 と 村 第 6主主 変わりゆく香川の漁業と漁村 一一大正期の香川県漁業一一 第 7章 昭 和 期 の 農 村 と 漁 村 一一昭和恐慌から戦時経済へ一一一

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-56 香川大学経済論叢 870 ずの「高」が,長い時間的経過の結果,現実の土地生産力と大きく講離し,租 税負担能力の高い土地の租税が安く,低い土地の租税が高いという不合理な事 態も発生していたのである。これも香川県の事例であるが府県地租改正紀要』 によると,高松藩領には r(少ない収穫の土地が一注)上田ノ石盛リナルア以テ 免位亦従ッテ高等ニ居ル,是ヲモッテ藩制ノ時ニアッテ人民其ノ定免ノ納租ニ 困ミ,遂ニ上地ヲ請願スルニ至レリ,故ニ歳次,概算ヲモッテ補米ト唱エ幾許 ヲ除去シテ維持」してきた,そのような「苛鍛ノ地」が高松藩の数十カ村に帯 在したことを指摘している。 いうまでもなく,全国的規模で存在する右のごとき不統一で混乱した土地税 制の制度は,近代ブルジョア国家として国民の租税負担の公平をはからなけれ ばならない維新政府にとって早急に解決しなければならない緊急の課題であっ た。そしてあたらしい国家形態に適合した統一的な租税ー土地制度を確立する ことは,新国家の財政的基礎を確立することでもあった。こうして明治のはじ め,ほぽ

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年近くの歳月をかけ,土地税制上の大変革がおこなわれた。地租改 正がそれである。地租改正によって新時代の租税は地価を課税基準として賦課 されることとなった。このあたらしい租税は土地にかかる租税であることから 地租とよばれ,その徴収は近代国家の租税にふさわしくこれまでの現物納をあ らためて金納となった。徴収する年貢米が年々の豊凶によって変動する幕藩時 代の租税制度と異なり,定額の租税を貨幣という形で確保することによって維 新政府は安定的な国家予算を組むことが可能となったのである。 ところで,土地所有者に対し租税を賦課徴収することを地租改正のひとつの 眼目とすれば,もうひとつの眼目は土地の私的所有権を公認することであった。 明治維新によって国際社会に身を投じた日本がヨーロッパ列強に伍して新国家 を建設していくためには,資本主義経済発展に向けてのレーノレをしかなければ ならない。殖産興業は,明治国家の大旗印であった。私有財産制の確立とこれ にもとづく商品経済の発展はその前提条件となる。当時,日本の産業といえば その大宗は農業であったから,まずもって法認すべき私的所有権の対象は農耕 地である。地租改正にさきだって,田畑勝手作の許可(明治 4年),土地永代売

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871 香川県の地租改正 -57ー 買解禁(明治

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年),農民職業選択の自由(明治

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年)など,一連の封建的諸制 限が撤廃されたのは,農業における商品経済発展のための土台づくりであった。 ただ,忘れてならないことは,生活と生産の両面においてきびしい諸規制で 縛りあげた農民からその余剰の収奪が徹底的におこなわれた石高制のもとで も,農業生産力の発展による商品経済化の進展とともに農民的土地所有が徐々 に進行し,幕藩時代の末期になると,地主制が事実上,広範囲に成立していた ことである。地租改正の前,日本の全耕地の3分のlが小作地であったとの推 定もおこなわれている。地主制の進展について高松藩を例にとれば,幕藩時代 の中期以降,藩財政を再建するために商品作物としてサトウキビの栽培が藩を あげておこなわれ,それが契機となって地主制の急速な展開があったといわれ ている。 先述の,地租改正における土地の私的所有権の公認という理念は,このよう な幕藩体制下における商品経済の発展と私的土地所有権の進展という歴史的趨 勢を踏まえて構想されたのであり,これを前提として地租改正は断行されたの である。 ところで,地租改正にさいし,土地の所有者に対しその所有のあかしとして 地券が交付される。他方,地券を保持する土地所有者には租税が賦課される。 かくして地券はまさに地租改正のシンボJレとでもいうべきものであり,改租事 業は地券発行を軸として展開した。 壬申地券の発行一一市街地券と郡村地券一一地券の発行は明治

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年にはじ まる。改租事業が本格的実施の段階に入るのは明治6年7月の地租改正法公布 以降であるが,この段階で発行された地券を改正地券とよぶのに対して,明治

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年から発行のはじまったこの地券を,この年の干支が壬申(みずのえさる) であったことから壬申地券という。 壬申地券には農村の耕宅地を対象に発行される郡村地券と旧幕時代の城下町 の市街地を対象に発行される市街地券の 2種の地券がある。なぜ,性格と機 能を異にする2種の地券が発行されたのかといえば,それは幕藩封建社会のも とで市街地と農地がまったく別様にとりあっかわれていたためで,農民たちの

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-58ー 香川大学経済論叢 872 占有する土地がもっぱら封建領主が収取する寅租の源泉であったのに対して, 主たる貢納者ではなかった商・工民たちの占有する土地は地税が免除か,もし くは低いものであった。四民平等の新時代のいま,ひとり農民にだけ重租を課 す不公平は是正されなければならない。そこで,これまで無税か軽税の地であっ た市街地に課税する目的で市街地券が発行されたのに対し,農地に対してはひ とまず、全国の土地について地券を発行してその総価額を算定しようというのが その発行の趣旨であり,ただちに地券発行をもって課税をおこなうというもの ではなかった。農地に対する新税法はおって検討のうえ決定し,それまでは幕 藩時代の旧税により収納することになる。その意味では郡村地券の発行は,新 制度にいたる準備行程であったといえよう。なお,壬申地券のうち市街地券は 泊券,その地租は泊券税とよばれるが,その呼称は,旧幕時代,城下町に売買・ 譲渡が慣行上自由であった一部町地が存在し,そこでの売買取引のさいに流通 していた土地所有の有価証券が泊券とよばれていたことに由来している。 以下,香川県における壬申地券の発行状況を概観するが,はじめは市街地券 である。 市街地券の発行 封建的身分秩序を反映して複雑に構成された旧幕時代の市 街地は,大別すれば武家地と町地からなっていた。新時代における身分上の根 本理念とは四民平等にほかならないが,維新直後,新政府がいちはやく着手し たところの,幕藩体制の象徴的存在であった東京における武家地・町地の差別 の廃止と,これにつづく武家地の整理は,土地所有面での四民平等を実現する 意図から実施されたもので、あった。そして当面問題の市街地券を発行する場合 も,その前提として武家地の整理がおこなわれていなければならない。こうし て武士の屋敷地である武家地が整理されたのち,明治5年 2月,東京府におい て「地券発行地租収納規則」が布達され,各府県もこれにのっとって同様の規 則を制定し管内の市街地券発行に着手した。香川県において r各府県管下,従 来,武家地町地の称有之候処,自今相廃止シ一般地券地租収納之義被仰出候ニ 付u

J なる前文をもっ市街地券発行の規則書(1

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条)が公布されたのは,明 治

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月である。

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873 香川県の地租改正 -59ー 右の規則書によると, ,[日泊券ニ不拘,持主ニ於テ其土地現今之代価ヲ書出ス」 (第一)ものとし,その申告する価格が不当に低いときは,まず所有者に対し てこれを増加訂正するよう説得をおこない,それでも所有者がどうしても承服 しない場合は県下に布告してその土地を希望者に入札させ,落札者に地所を譲 渡する。次に,地券の発行によりただちに地租を賦課徴収し,その租率は「地 券ニ記セシ金高ノ百分ノーJ (第五)とする。ただし,この泊券税は新税である が農地にくらべての市街土地の査定の低さ,その地租率の低さなどでのちの地 租のとりあっかい方と違い,旧税の範囲を出るものではなかった。規則書には このほか,地券所持致シ候上ノ¥,其地所ノ持主ニテ向後其地御用ニ候共,必持 主承諾ノ上,券面通リ之代金及ビ其建物ニ応ジ相当之手当差遣シ土地申シ付候 事」と,市街地券の持主にその所有権を強力に保護したこと(第十),土地の売 買,質流や譲渡のときは地券に裏書して新所有者を明確にすること(第八),な どの条文が設けられた。 香川県下の城下町における市街地券発行状況をみると,明治6年3月の時点 で高松は皆済,丸亀・多度津は目下発行中であった。ところで,市街地租収納 に対する政府の方針は,明治5年に収税の旨を管内に布達している場合は5年 から収税するが,市街地券の発行がおくれて

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年以降となった場合は

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年にさ かのぼらず地券発行のときから収税してよい,というものであった。この方針 を厳密に適用すれば,高松は5年からの収税,丸亀と多度津は6年からの収税 になる。この点につき,香川県一一一香川県の名東県合併は明治6年2月である から,正確には元香川県一ーは,高松,丸亀,多度津の市街地租収納をおなじ 6年からおこないたい旨,中央の改正局に再三にわたって伺を出している。そ の伺のひとつにいわし「……地券下ゲ渡方ニ当リ彼ヲ先ニシ是ヲ後トスノレハ庁 中調方都合ニ寄リ候訳ニテ,民間ニ於テ敢テ先後ノ割酌無之筈。然Jレヲ彼ヲ取 リ是ヲ捨テ却テ後手ト相成候分億倖ヲ得候有様相成候テハ実際苦情可相生ハ必 然ノ儀ニテ,愚昧ノ者ハ却テ因循ニ安ジ将来他事ヲ施シ候ニモ差響キ可申乎ト 苦慮仕候間,右ノ情実御洞察ヲ以テ何卒伺之通一般同様今年ヨリ地租上納仕候 様御許可相成度J (5月7日)と。伺の内容は至極当然のことであるが,この伺

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-60- 香川大学経済論叢 874 いに対する改正局の指令回答も r書面再三申立ノ趣,無余儀相聞候間,申出ノ 通間届候事」というものであった。ただこれは,中央の改正局が香川県当局の 執搬な主張に耳を傾けたというよりはむしろ,大局的にみれば市街地券の制度 による新規課税の国庫収入への寄与がわず、かでしかなししかも市街地券自体 がのちの本格的改租段階の準備的テストケースとして発行されたという,その 過渡的性格を改正局が十分認識したうえでの回答であったと推測される。 こうして幕藩時代,無税の地であった高松,丸亀,多度津の旧城下町の市街 地は,地価に対する税率1%の新税が明治6年から賦課徴収されることとなっ た。

*

明治 4年:11月15日にスタートした香川県は,壬申地券発行の明治 5年から改租事 業が完了する明治14年にいたる地租改正の間,明治6年2月20日に名東県に合併, 8年 9月5日に名東県から分離後,翌 9年 8月21日に愛媛県に合併されている。し たがって正確には香川県は,名東照時代は名東県讃岐国,愛媛県時代は愛媛県讃岐 園ということになる。本文ではそのように呼称したり,元香川県と呼称したりした。 郡村地券と地券取調掛 旧城下向の市街地に対して,農村部である郡村の田 畑や宅地こそ,明治国家の財源となるべき本来の貢租をになう土地である。こ の郡村における耕地や宅地に発行される地券を郡村地券という。地券としての その過渡的性格は市街地券より郡村地券の方がいっそう強く,市街地券のよう にそれが発行されたからといって租税が徴収されることはない。事実,地券面 にも,面積,地価,所有者名などが記されているだけで,地租額の表示はない。 そもそも郡村地券を発行することの意図は,地租改正によって明治国家の予算 規模がどの程度になるのか,そのためにまずもって全国的規模での地券総額を 点検することにあったからである。 郡村地券発行のため,明治5年2月に「地所売買譲渡地券渡方規則」が公布 された。これによれば,土地が売買・譲渡されて所有権が移転した場合,所有 権移転の証明書として地券か可受与される。この地券渡方規則公布の5ヵ月後の 同年7月,大蔵省から,売買譲渡の都度地券を発行していたのをあらため,売 買譲渡にかかわらず全国郡村の私有土地すべてに地券を発行せよという令達が 下された。しかも,一般地券の付与の期限は「可成大至急ニ取計,総テ当十月

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875 香川県の地租改正 -61-中渡済相成候様可取計」と,わずか3ヵ月の猶予しかない。 この一般地券発行の大事業を進捗させるため,明治

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月,大蔵省は租税 寮に改正局を設置してその態勢をととのえた。改租事業の計画立案,草案の作 成や調査など,改正局は地租改正の一切を掌理する。改租の実施機関である府 県庁は租税課の地券掛官員を増置し,さらに郡村では,実地適宜の者を人選し て地券取調掛を申す付ける。かれらは郡市の出張所に常駐し,地券発行の日常 的実務にあたる。明治

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年1

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月当時,香川県の地券取調掛は大内・寒川郡一国 方甚吉,三木・山田郡一香西新四郎,香川郡一滝米五郎,阿野・鵜足郡一小山 健太郎,那珂・多度郡一西岡豹太郎,三野・豊田郡一高城近太郎,高松市一井 上甚太郎,丸亀市一川田新十郎,小豆l島など内海の島々一紀雄治郎であった。 ところで,地券取調掛を現場で補佐したのは戸長と副戸長であった。もとも と戸長・副戸長は,明治

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年の戸籍法制定にともない,当時の地方行政区画で ある区ごとに一一→香川県には当時,

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区の区画編成一一

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名ずつ設けられた戸 籍事務取り扱いの官吏であったが,改租事業の開始とともに地券発行の業務に も携わることとなったのである。なお,さきにも述べたように香川県は明治6 年

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月に名東県に合併されたが,香川県庁が名東県高松支庁にかわっただけで, その実施体制に変更はない。 地券取調諭文公布 幕藩時代にすでに地主制が成長し,私的な土地所有権が あかし 事実上形成されつつあったとはいえ,すべての土地にその所有の証として地券 を発行するなどのことは破天荒のことである。全国に一般地券が発行されるこ とになって,各地にはいくたの「浮説」一一一地券はやがて政府が重税を課する 手段であるといったたぐいのーーが横行した。王制復古以来,数々の美辞が説 かれてきたが,農民にとって重い貢租負担のもとでの貧しい生活は昔もいまも 変わりはない。旧体制下ω,検地が年貢引上げの手段として領主に利用されたき たことを農民は経験的に知っている。地券のありがたさを政府は強調するけれ ど,にわかには信じがたいというのが,農民大衆のいつわらざる心情であった。 したがって,地券を発行するにあたって政府がもっとも腐心したのは,それ が増税の手段ではないかとの疑念を農民大衆に抱かせないようにすることで

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~62~ 香川大学経済論叢 876 あった。そして各府県の地方官は,農民の誤解をといて地券の趣旨を徹底しそ の円滑な実施をはかる立場にある。明治5年10月,香川県も「地券取調諭文」 と題する次のような告諭を管下に公布した。諭文にいわし 普天下率土之浜,王土ニ非ノレハ無,然テ田畑山林,総テ人民是ヲ所有ス ト雄モ,従来確乎タル証跡無キガ故ニ間曲之徒其間ニ乗ジ,良モスレパ私 計ヲ設ク,民間是ガ為ニ惑サレ其憂亦既ニ多シ。依之今般於朝廷,地券之 方法ヲ被為立,土地ノ広狭ヲ不論,其ノ田畑山林,現今適当ノ代償(代価 のこと一注)ニ顕シ一筆毎トニ地券相渡候条,兼而御布達ニ相成候(地券 の一注)雛型ニ照準シ書載シテ以テ其所持スルノ証ヲ受クベシ。然ノて則, 自所持スノレノ確証明ラカニシテ珊暖昧無ラシメン事ヲ要トス。是即名分条 理更生セシムノレノ御趣意ナリ。即夫レ疑惑ヲ其間ニ容ルコトナク本月中悉 皆差出方可有之。万一無根之浮説,流言ヲ唱エ良民ヲ惑スノ輩於有之,吃 度御沙汰ニ及ビ候也 官頭に「普天下率土之浜,王土ニ非ルハ無」と,土地はもともと天皇の所有 であるとする王土思想、が披露されているが,地券によって土地所有が法認され たことの意義の強調が告諭をつらぬくトーンであることは明らかである。なお 諭文によれば,諭文が公布されたその月中が地券願書提出の期限とされている。 香川県の場合,告諭は地券発行にあたって公布されたのではなく,発行業務の 開始後,事業が停滞するなどの事態に直面した当局が,遅ればせながら告諭を 公布することで事業を進捗させようとしたのであろうと思われる。 それでは郡村地券を発行するにあたって,反別・地価などの調査はどのよう におこなわれたか。旧体制下,検地という名の土地調査が権力自身の手によっ ておこなわれたことと対照的に,それはもっぱら持主自身の申告によることが 建前であった。 香川県の場合,大内・寒川郡の取調掛園方甚吉がその在職中に書き記した「香 川県地券係御用日誌」によれば r地券取調方心得之事」としてその

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カ条に「官 及取調係ノ目的トシテ毎村実地適当の者一,二名を選し,村々免場毎に適当の 代価を書出させ可申事」と記されている。これによると,持主の申告に先立つ

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877 香川県の地租改正 63-て,まず,事前の下調べをおこなわれた。そして次に,この下調べの内容と持 主の申告内容を照合し,相違あれば実地調査をおこない,相違なければ地券願 書を一村とりまとめて県庁へ提出し,地券掛の審査にパスすれば地券が授与さ れた。 ところで,地券の付与にさきだって持主の申告内容をチェックするといって も,チェックのもとになる下調べに携わる者がわずか「実地適当の者一,二名」 なのだから,壬申地券段階での土地調査は相当に簡略なものであった。このこ とはなにも香川県にかぎったことではなく,全国的にも共通したことであり, だから壬申地券に掲載の反別は現実の反別とは必ずしも一致せず,また各耕地 片の境界も明確にされたわけではなかった。壬申地券段階での土地調査が簡略 にすまされたのは,さきにも指摘したように,その目的がもっぱらのちの地租 改正に備えて全国の地価総額を把握することにあったからである。土地の正確 な調査はのちの改正地券段階までまたなければならない。 壬申地検がこのような過渡的な性格のうえに,発行上の障害もいくつかあっ た。その最大の障害は地価決定上の困難であった。さきの県の「地券取調諭文」 に記された「現今適当ノ代償」という表現は一般地券発行のときの明治5年7 月の法令が指示するところにしたがったものであるが,しかし,現実問題とし てどのように「現今適当ノ代償」をつけたらよいのか,政府自身その決定方法 の基準が暖昧であったため地方官管轄下の現場において混乱が生じたのであ る。園方甚吉の「香川県地券係御用日誌」に,ときの参事林茂平までもが地元 の激励に出向いたにもかかわらずあちこちの村で地券申請の手続きが遅滞して いることが記されているが,遅滞の理由はこの土地価格決定の困難にあったも のと思われる。 こうして壬申地券の発行は行き詰まり,あらためて改正地券が発行されるこ ととなった。 一 地租改正の実施 「地租改正法」公布さる 地租改正法令は,明治6年 7月28日に公布された。

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-64- 香川大学経済論叢 878 地租改正の本格的出発となったこの地租改正法令は,上諭(勅諭)・地租改正法 (太政官布告)・地租改正条例・地租改正施行細則・地方官心得の,以上の

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つ の諸法令からなる(以下,これら一連の法令を地租改正法と総称する)。その概 略は次のとおりである。 まず i上諭」は i租税ハ……,従前其ノ法ーナラズ,寛苛軽重率ネ其平ヲ 得ズ。川崎…之ヲ公平画一ニ帰セシメ地租改正法ヲ頒布ス。庶幾クパ賦ニ厚薄ノ 弊ナク,民、ニ労逸ノ偏ナカラシメン」と述べ,封建割拠の旧制の不平均を除去 すべく新租は公平画一でなければならないと,新時代の理念を明らかにする。 この詔勅を受けて次に「地租改正法」は,旧来の錯雑した貢納制度を廃止し, 地価を課税基準に設定してその

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0

0

分の

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を地租として徴収することを規定し た。「地租改正条例」によれば,(1)改租成功まで旧地租はすえおき,

(

2

)

新地租は 年の豊凶により増減しない, (3)田畑は耕地,家屋ある地は宅地とよび,(4)将来, 茶・タバコ・材木などの物品税が

2

0

0

万円以上になれば,地租額は

1

0

0

分の

3

に まで減ずる。「地租改正施行細則」と「地方官心得」は改租上の具体的手続きを 規定した。 ところで,なぜ,新地租は地価の

3%

なのか。さきにも述べたように i列強」 の先進資本主義諸国と対時しつつ統一的近代国家としての体裁をととのえるた これを政府はおよそ旧寅 その水準に見合う新地租額を確保す るために

3%

に決定したのである。もし

3%

で予定する地租額が確保できない それ相応の財源を確保しなければならない。 めには, 租額を下回ってはならない水準に設定し, 場合は,地価そのものが高く設定されることになる。 以上のように,

1

0

0

分の

3

定率による地価賦課の金納地租の徴収,これが地租 改正の眼目であるが, それでは地価そのものはどのように算定するのか。壬申 地券の段階からさまざまな議論がおこなわれてきた地価の算定方法は,改正地 券の段階において土地収益を資本還元するいわゆる法定地価主義に最終的にお ちついた。つまり,米価を乗じて貨幣額に換算した田l反歩の収穫米の金額か ら必要経費である種肥代と,地租・村入費を控除して土地収益を算出し,これ を一定の利子率で資本還元するのである。「地方・官心得」によれば,種肥代は収

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879 香川県の地租改正 -65-穫米金の15%,村入費は地租の 1%,そして利子率は自作地が6 %,小作地が

4%

と定められた。資本還元の利子率について前者の自作地方式を第一則,後 者の小作地方式を第二則という。 地租改正法が公布され,ここに改租事業は緒についた。しかし,全国規模で みた場合,その進捗状況はきわめて緩慢で,事業は停滞した。停滞したのは, じつは地租改正法にしめされた地価算定方式そのものに現状の認識不足からく る大きな矛盾があったからである。つまり,地租改正法では地価算定のための 方式に第一則と第二則の二つが挙げられたが,第一則および第二則それぞれに よって算定した地価が一致するのは第二則での小作料率がたまたま68%のとき でしかなく,そうなるのはまったくの偶然でしかない。第一則でも第二則でも 計算上,おなじ土地なら同じ地価になるように設定された68%という仮定上の 小作料を現実の小作料とみなしたのは,地租改正法の大きな矛盾であった。こ れでは改租事業の実施担当者である府県に混乱が生じ,事業の推進が撰賭され るのも当然であろう。地租改正法にはさらに,法定地価と売買地価の混同もあっ た。こうした法令上の矛盾に加え,明治 6~7 年当時,征韓論問題による閣内 分裂,自由民権運動の台頭,佐賀の乱の勃発など,維新政府をとりまく政治状 況はきわめて不安定であり,そのために改租事業を推進する体制がととのわな かったことも,事業停滞の理由として指摘しておかなければならない。事実, 現実に改租事業に着手した府県は数少なし 7年度までに改租が完了したのは 全国66改租単位(ふつう旧県)のうちわずか6単位であった。香川県はこの時 点ではまだ改租にとりかかってもいない。 地租改正,本格的実施段階へ 政局が安定に向かった明治8年の3月,総裁 に内務卿大久保利通をあおぐ地租改正事務局が設置され,ここに事業を推進す る中央の体制がととのった。法制面では同年7月に「地租改正条例細目」が制 定され,改租手続きに関する一般的な準則が統一的・体系的にしめされた。前 項でみたような第一則と第二則の適用問題など,当初制定の改租諸法令にふく まれていた矛盾が過去

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年聞にわたる改租法令の実施過程のなかで解決されて いったが,その成果を整理総括して立法化したのがこの細則であった。

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-66 香川大学経済論叢 880 改租体制を整備しおえた維新政府は明治 8年 8月30日,改租事業を直接に担 当する府知事や県令らの地方官に対し太政官達をもって,地租改正は明治9年 末までに完了すべき旨布達した。以後,改租事業は中央政府の強力な支援にさ さえられつつ,地租改正事務局と府県との密接な提携のもと,全国 9年一斉竣 功を目指して推進されることとなった。このとき,全国は 7つのブ、ロックに分 けられ,各ブロックの責任者に政府の高官たる奏任官が配された。香川県が属 する第

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区の九州、│・四国ブロックの奏任官は六等出仕の市Jl

I

正寧であった。 改租の整備体制がととのい,全国 9年一斉竣功の方針が打ち出される一方, 今後台頭することが予想される人民大衆の抵抗を未然に防止すべく権力主義的 な弾圧立法も準備された。その最初が「地租改正条例」第 7章への但書追加で, これは,人民申告するところの地価が適当でないと官が「見据」えたとき,こ の新反別の土地には定免地であっても五公五民の旧法を適用するというもので あった。幕藩時代の末になると収税率も大幅に低下していたから,苛政時代の 五公五民が適用されたのでは農民はたまったものではないが,しかしこのやり 方は収穫時でないと適用できないなど現実的にはその適切さに欠けるものが あった。そこで次に準備されたのが明治9年5月12日太政官布告第六八号であ る。布告によれば,地価調査について人民の大半が承服した段階にいたっても なお,-私見ヲ張リ承服セザノレ者」に対しては「近傍類地等ノ比準ヲ取リ相当ノ 地価ヲ定メJ,つまり官の認定によって一方的に地価を決定し地租を収納するも のとされた。この強権的な太政官布告が香川県でも三木郡田中村に適用され, また市街地改租における高松の番町に適用されたことについては後述のとおり である。 香川県告諭大意公布 明治

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日,香川県において「告諭大意」が公 布された。改租事業の実施にあたり,管轄下の人民に対して地租改正の趣旨を 周知徹底させるための人民告諭書である。「我邦田租ノ法タルヤ中古以来封建割 拠ノ世トナリ,賦課ノ法各地ソノ制ヲ異ニシ因習ノ久シキ寛苛軽重,遂ニソノ 平ヲ失シ……」云々ではじまるこの人民告諭書の発布以降明治14年までのおよ そ 6年間におよぶ香川県地租改正の大事業が,ここに開始された。この間,明

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881 香川県の地租改正 67-治9年8月に香川県は愛媛県に合併されているが,香川県の地租改正事業は愛 媛県讃岐国改租事業として継続された。 香川県における改租実施の体制はどうであったか。壬申地券発行のとき地券 取調べの新任務をになった区長と戸長は地租改正の段階に入っていっそう重い 役割をになうこととなった。村方での土地調査を取りまとめて改租掛官に提出 し,また改租掛官からの指示命令を村方に伝えるなど,事業末端の諸業務のす べては区戸長の肩にかかり,改租期間中,彼らは多忙をきわめた。なお壬申地 券の土地地券発行業務にたずさわった本庁租税課の地券掛は地租改正係にあら たまった。 壬申地券発行のとき郡村附属の地券取調掛が配置されたが,地租改正の段階 ではこれを廃して総代人の制度が設けられた。地券取調掛が官選であったのに 対し,総代人は民選である。官民の聞に立って地租改正の趣旨を農民に説得し, ふだんは事務所に詰めて改租下調の事務にたずさわり,改租の官員が巡回視察 のため村にやってきたときは随行してその顧問をつとめることが総代人の任務 であった。「総代人心得書J (明治

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日香川県達)によると,総代人に は大区総代人と小区総代人があり,小区総代人は小区ごとに

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名,大区総代人 は大区

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つに 1名が選出された。したがってその総勢は小区総代人が55名,大 区総代人が6名となる。俸給の月給は小区総代人が5円,大区総代人が10円で, 巡回に出たときはおなじ

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銭の日当が支払われた。こうした総代人のほか,顧 問人という役職もあった。土地の事情に詳しい古老などがその役職に就いたが, ただ,小区総代人がこれを兼ねるケースが多かったようである。 ところで,地租改正のさなか,地方統治の体制を整備すべく地方行政制度の 改革がおこなわれた。つまり,明治11年 7月に公布されたいわゆる三新法によっ て大区小区制が廃止され,府県のもと,郡・町村という階層的地方組織がうち たてられた。ここに戸長は区の戸長ではなくなって町村の戸長となるとともに, これら町村戸長を統轄する官僚機関として郡役所が設置されたのである。以降, なお続行中の改租事業は,県庁一郡役所一町村戸長の系統によってなされるこ とになる。このあたらしい地方行政制度が香川県で実施となったのは,明治11

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68- 香川大学経済論叢 882 年12月であった。 改租事業,実施へ一一土地量と地価調査一一告諭が公布され,実施体制も ととのい,改租事業はいよいよ実施段階に入る。改租事業は地押丈量と地価調 査からなる。地押丈量によって土地所有者が決まり,地価調査によって地租額 が決まる。はじめに香川県における改租の基本方針を,地押丈量と地価調査に ついてそれぞれみておこう。 [地押丈量] 改租の実施は土地整理事業からはじまる。その中心となる作業は各土地の検 査と測量で,これを当時,地押丈量といった。地押丈量は落地や重複の土地が ないかどうかを点検する地押と,土地を詳しく測量する丈量の2段階からなる。 そしてふつう,地押丈量は村ごとに字を基礎単位としておこなわれた。県当局 は,告諭大意と前後して「土i地丈量検査ノ順序」および「実地検査ニ付,区戸 長ニ於テ取調ベキ条目J (明治 9年4月 8日の香川県布達甲第 5号)というひと つづきの達を公布した。これがこれからはじまる地押丈量の指針となる。 まず,地押の作業である。その要領については,まず農民側は区戸長の指導 により村総代の手で各筆の土地の面積を調査し,標識に畝杭(せぐい)をたて, これに番号・反別・地目・所有者名などを明記し,地番号の順番にしたがって

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筆ごとの形状を見取図にあらわし,これらをーまとめにして村の総絵図なら びに

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字限図の地引絵図を作成し,地引帳とともに管轄の役所に提出する。そ の後は県の改租掛官が村に出張し,随行する村の総代人らに立会わせて各土地 の畝杭と地引絵図・地引帳とを照合しつつ実地に巡検し,土地の重複や脱落が ないかを確認した。 次は丈量である。地租改正の事業は幕藩時代の検地と違い,人民が直接これ にあたる建前であるから,土地測量の丈量も人民の手ですすめなければならな

い。だが,その経験が人民にはない。そこで県当局は明治

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月,測量の請 負制度を発足させた。この請負制度のもとで改租をおこなう村むらは,県が認 可した測量技術の請負集団に手数料を支払って測量を代行してもらうことに なった。県下には当時,広明社,平域社,藤田社,報国社,正測社,精選社な

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883 香川県の地租改正 -69-どと名乗る多数の請負集団があった。集団のメンバーは地租改正先進県から報 酬を求めて地租改正後進県に出向いてきた人々で,彼らの大半は岡山県の出身 であった。岡山県が改租事業に着手したのは香川県より 2年はやい明治 7年の ことである。 [地価調査] 地押丈量が終われば,次は地価調査である。その中核となるのはもちろん収 穫調査であるが,しかし日本の農地は小さな耕地片に分かれ,その筆数は非常 に多い。ひとつひとつの土地に個別にあたって収穫を調査することは,事実上, 不可能である。そこで登場したのが地位等級の制度であった。地位等級とは田 畑をその品位によって位づけることをいい,等級格付けによって各筆土地の収 穫量をさだめる。これならば一々の土地の収穫を実際に調査する必要はなし かっ各土地の収穫量のバランスも保たれる。地位等級による収穫量決定の方式 は法令上は地租改正条例細目においてその範例がしめされ,各府県はこれを参 照にして地位等級にかかわる地方法令を制定した。 香川県の場合,地位等級制度にかかわる最初の法令は,明治

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日に 下達された「地位等級調方心得書」であった。これによれば,地位等級は「毎 一筆,地味,肥痩,養水ノ便否,耕鋤ノ難易等ヲ量リ,価ノ最モ多キ地一一ー旧 来石盛ノ不同,貢租ノ甘苦等ニハ少シモ不拘シテ比較スベシーーヲ以テ第一等」 とし,以下, 9等におよぶとされた。この心得書は同年 10月23日に改正され, あたらしく模範組合村方式が導入された。模範組合村方式とは

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村だけで地 位等級をさだめた場合,地租負担において

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村内の権衡は保たれるが各村聞に 権衡が保たれる保証はない。そこで村むらを小区ごとに組み合わせ,そのなか から模範村を選定し,組合の村むらはこの模範村において設定された等級に比 準して自分の村の土地の等級を設定するという方式である。この方式のもとで は組合の村むらの土地すべてが一体となって格付けされるから,小区全体をと おして各土地の地価相互に平衡を期すことができるというわけである。 地位等級調方心得書は再度改正され I更正地位等級調査法」が明治9年12月 12日に布達された。改正のポイントは等級数を 9段階から 35段階へと大幅に増

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-70ー 香川大学経済論叢 884 やしたことで

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等田の収穫を

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反当たり

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斗とさだめ,以下,収穫が

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斗減ずるにしたがって等級が1段階さがるものとされた。 ところでさきの模範組合村方式であるが,これで小区内では地価評価に権衡 がえられたとしても,範囲を小区から郡に広げた場合,村相互間の権衡はどう なるのか,問題は残ったままである。そこで布達されたのが,明治

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日の「郡村等級調査心得書」であった。全区全郡の権衡比較が達成できないか ぎり改租の理念である公平均一な地租負担は実現できないとして,先の小区単 位の模範組合方式はこれを放棄し,あらたに郡をひとつとみなして各村の等級 をさだめよ,というのがその要旨であった。そして村の等級つまり村位は r村 等会議ヲ開キ,組合各村ノ公議ニ附シテ之ヲ決スベキ事」とされた。文中に「公 議」とあるが,これはもちろん香川県にかぎったことではなく広く各府県で採 用されたやり方である。しかし等級制度における公議形式の採用はなにも農民 自治を尊重しようとかいう新時代の開明的な政治理念にもとづくものではな く,合議討論によって農民を互いに牽制させて官民間の摩擦を減じ,結局は改 租事業に農民を協力させようという,官側の策略的意図に出たものであったと いうべきであろう。 以上のような変遷ののち,香川県の地位等級制度は確定した。土地調査がお こなわれ収穫量が決定したあとは,米価および利子を適用して地価を算出する。 地価の算定に適用される米価は明治3年---7年の5カ年平均相場で,香川県の 改租使用米価は

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銭であった。 改租事業の進行一一「地租改正事業諸雑記」と笠岡村一一香川県で改租事業 がおこなわれた明治 9年から 14年の間,その職務にあった改租総代人のひとり が克明な勤務日誌を記している。三野郡笠岡村在のその改租総代人の名を池田 源太郎といい,日誌は題して「地租改正諸雑記」という。以下,この日誌にも とづきながら,笠岡村では改租事業はどのようにすすめられたか,その具体的 な進行状況を表1を参照にしながらみよう。笠岡村は下勝間村,上勝間村,上 高瀬村とともに第7大区(三野・豊田郡)の3小区に属し,下勝間村の威徳院 が小区の区役所であった。

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885 香川県の地租改正 -71-表1 香川県地租改正史略年表 年 月 香川県(太字は中央) 笠 岡 村 明治6 7 地租改正法 明治8 5 地租改正事務局活動開始 7 地租改正条例細目制定 明治9 4 告論大意 土地丈量検査ノ順序(県布達第5号) 5 土地丈量請負傷j度の発足 6 地位等級調方心得書 士地丈翠開始 8 (香川県を廃止し,愛媛県に合併) 明治10 1 地租軽減 3 土地丈量完了 4 等級調査開始 5 改正事務局員,現地視察 7 郡村等級調査J心得書 9 三野郡村当会議開催 10 村等差数調査J心得筈 明治11 1 三木郡田中村改租騒擾 8 笠岡村等級表,県へ提出 10 平均反収見直しの遼 11 読書提出 12 愛媛県讃岐国耕地改租許可 明治12. 4 郡村耕宅地,新税施行許可 日誌によると,明治

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年の

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月から笠岡村は地押丈量の作業に入った。おお かたの村むらの着手は7,8月であるから,笠岡村は下法軍寺,陶,畑固など とともに県下ではもっともはやく着手した村のひとつであった。笠岡村も地押 丈量は請負に出した村であり,請け負ったのは真誘舎という名の丈量師の集団 で,野取帳や絵図の作成などを

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円で請け負う契約がなされている。 村はふつういくつかの字で小さく区分される。旧時検見などのときに取扱上

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一万一 香川大学経済論議ー 886 便宜のため林や池,道路などを境界として設けられた字であるが,地押丈量は この字を単位としておこなわれた。笠岡村でも村内23を数える字に番号を附し 番号の順に実地地押をすすめた。作業は正月と旧正月の数日聞を休んだ、だけで 間断なくすすめられ,完了したのは翌明治10年の3月2日であった。完了する 半月ほど前の2月16日,県の改租掛官が村に出張し,重立者を招集して「何様 至急に整理致し候用,御督促」があったと日誌は記している。 4月になると,笠岡村の改租事業は等級取調の段階に入る。地位等級取調係 が選ばれ,調査の便宜上,模範の字が選定された。これはさきの模範組合村方 式にならったもので,模範字で等級を設定したのち,これに準拠してほかの字 の等級設定におよぽうというわけである。実地調査のさいは地位等級取調係に

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町歩以上の大土地所有者も加わった。各筆土地の等級の決定は彼らの投票 一一当時,これを入札といったーーによった。 改租の早期竣功は維新政府の基本方針であり,明治9年末までに改租を竣功 すべしとの太政官達はその決意の表明であった。だが,香川県の改租はすでに 期限を過ぎている。県当局は区戸長を通じて村むらに業務に精進遁進するよう 督励を重ねた。日誌によると 4月27日改租係官ならびに大区総代人の区役所 出張

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日改租係官の巡回出張のあと,同月27日は大蔵省の中央官吏が県 官をしたがえて巡視と,追いたてるがごとき性急な督励がつづいた。が,困難 な作業は思うようにすすまず,笠岡村は6月10日に延期願を出し 5日後の15 日にも「本月十五日迄延期御願申上置候処,実地調査不適当の簾多分有之,計 算上差支申候上,恐縮之至に御座候得共,何卒本月三十日迄御延期被下.度コと の文面の再延期願を提出した。しかし,県当局はこれを受理しようとはせず、突 き返している。なんとしてでも早急に完成せよとのあらわな当局の態度であっ た。笠岡村が関係の帳簿を区役所に提出して地価調査を終えたのは7月6日で ある。帳簿によると,笠岡村の田方は27"'-'35等の地位等級,畑方は31"'-'35等の 地位等級,宅地は29"'-'35等の地位等級にそれぞれ編成されている。田方,畑方 および宅地の平均反収はそれぞれ5斗6升9合 1斗8升2合, 3斗5升4合 であった。

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887 香川県の地租改正 -73 右のとおり笠岡村で地価調査が完了したのは7月のはじめであるが,この月 の末に郡村等級調査心得書が布達されたことは前に述べた。そこで,笠岡村の 地位等級表は三野郡のほかの村むらの地位等級表とともにあらためて郡を大観 する立場から検討しなおさなければならない。その検討の場である村等会議に のぞむのは,今回あらたに選出された各村2名の村等調査委員である。第 7大 区の1小区lから6小区までの三野郡の村の数は37カ村であるから,三野郡の村 等会議は総勢74名の村等調査委員で構成される。村等会議には県から上級官僚 が臨席し,議長は大区長が勤めた。農民を代表して区戸長や総代人も傍聴人と して会議に出席している。ところで,村等会議において村の等級が上位に決ま ればその村が負担すべき地租は高額となるから,当該村の村等調査委員は立場 上当然自村の村位がなるべく低位に決まるよう主張するであろう。村等会議開 催に先立って定められた「村等会議仮規則綱領」のーヵ条に r(村等)議員タル モノハ即其郡村人民ノ名代ナレパ1・1…決シテ一己ノ私心ヲモッテ偏頗ノ説ヲ主 張スルナキヲ要ス」とあるのも,そうした村位決定をめぐる村むら聞の紛糾が 予想されたからである。 第

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回の三野郡村等会議は明治

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日に開催,議題は三野郡の田方村 位等級表案で,田方につき 1等何村何村 2等何村何村と記した各村の村位等 級の,それぞれの村の等級につき順次可否を問う。村むらの思惑が働いてか可 否数の接近したケースが多かったが,とにかく原案は可決された。田方につづ き,畑方の村位等級(1等~1l等)および宅地・塩田の村位等級(宅地 =1 等 ~13等,塩田 =1 等~3 等)も 9 月 26 日と 10 月 8 日に開催の村等会議でそれぞ れ決定されている。笠岡村の場合,決まった村位は田方

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等,畑方

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等,宅地 9等であった。 こうして村位は決まったが,しかし,村位は村の平均反収もって具体的にし めされなければならない。それでは村の平均反収はどのように決めるか。明治

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日布達の「村等差数調査心得書」によれば,まず,村等会議で決定 された村位にもとづいて大区長および大区総代人から各村へ仮の平均反収がし めされる。次に各村は,村の総収穫量一一これは平均反収に村の総反別を乗じ

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-74ー 香川大学経済論叢 888 れば得られる一一ーをさきに決定した地位等級にしたがって村内の各筆の土地に 分賦する。こののち,はじめに示した仮の各村平均反収が妥当かどうかを,こ のためにあらたに村むらから選ばれた郡中調査委員が郡内を巡回調査して実地 に点検し,もしそれが妥当でないならばこれを修正し,あるいは地位等級の組 み替えがおこなわれた。笠岡村の場合,郡中委員がしめした最終の平均反収は 田方1石1斗8升,畑方4斗5升であった。笠岡村で地価調査がはじめておこ なわれた地位等級査定の段階のそれと比較して,平均反収は田方,畑方いず、れ も

2

倍以上も増えている。 笠岡村における地価調査は以上で完了した。あとはこうして到達した最終結 果に対する県当局の承諾をまつだけである。 押付反米と改租不服 明治11年10月18日,地位等級収穫に関し県当局から大 区長に宛てて次のような下達があった。すなわち下達にいわし と。 讃岐国各郡・・地租改正事業略整理ニ属シ,各村地位等級収穫ノ見込差 出候ニ付,夫々傑例ニ照シ成規ニ擦リ,尚実地ニ就キ肥痩便否等ヲ審按ス ルニ,収穫額二至テハ未夕、全其当ヲ得タ/レモノトモ難視認候条,別紙記載 之額ヲ以テ各村へ配付ノ上,請書可為差出,此段相達候事 文面によれば,県当局は県下すべての村むらに対し収穫額一平均反収の見直 しをもとめており,その姿勢は強圧的である。さきの笹岡村の地位等級は明治 11年8月に提出されたが,査定にあたって県当局はその「開申額」を認めず, その増額修正をもとめた。笠岡村がこの増額修正にそった内容の請書を提出し たのは明治11年11月のことである。改租事業は請書の提出をもって完了する。 土地丈量が開始された明治 9年 6月から通算すれば,笹岡村の改租事業は 2年 半の歳月を要したことになる。 いまあらためて,笠岡村における田方の地位等級の変遷過程をしめせば,表 2のとおりである。表にみるとおり,等級表の作成が回を重ねるごとに等級の 上位にランクされる土地が増えている。表にはしめしていないが,畑方,宅地 の場合も等級表は上向きに修正されている。そしてこれは農民が査定した等級

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889 香川県の地租改正 -75-表2 笠岡村地位等級の変遷過程〔田〕 単位:町 等 級 明治10年7月7日作成 明治11年8月3日作成 明治11年10月18日作成 1 ~15 16 3..5313 17 4..7812 18 1L22 19 35313 11..9316 20 4..7812 22..269 21 11 22 26..0405 22 11 9316 21..8917 23 22 269 13..8927 24 262402 10..4009 25 21 8917 6..9214 26 13..8927 5..2010 27 1 9929 10..5025 28 11.3329 6..9214 6.6126 29 32 2417 5..2010

o

0825 30 45..0327 L3011 31 28..3621 6..6126 32 13..4905

o

0825 33 6.2408 1 3011 34 4..3125 35 2..6811 等 外 0.6723 総 計 146..4015 146..3788 146..0775 反 収 5斗6升9合 1石1斗8升 1石5斗4升3合 注ー「地租改正諸雑記」より作成 体系を県庁が了とせず,そのつど修正を指示したその結果であった。このよう な中央当局ー府県による平均反収の強制的修正は,全国府県に共通のことで

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-76← 香川大学経済論議ー 890 あった。 それでは一体,等級制度のもとで,小区の村むらにおいて衆議を遂げ,さら に大区規模において公議を尽くして決定したところの各村の平均反収には何の 意味があったのか。じつは,中央改租当局は右のようにして決まった平均反収 は全く問題にせず,当局自らが立案した収穫見込額一平均反収を府県に指示し たのである。そして府県は中央改租当局が指示するこの収穫見込額一平均反収 を基礎として大区一小区一村への地位等級による収穫高一平均反収の配分をお こなった。したがってここでは当初の意図とは反対に,上から収穫量を押しつ ける手段として等級方式が機能したことになった。結果として等級制度は逆用 されたことになる。 次にそれでは,なぜ中央当局はあらかじめ国の収穫量を予定したのか。その 予定した収穫量は幕藩時代の貢租額に相応する高いものであった。このように 高い収穫量を設定したのは,これによって高地租を実現することで日本が近代 国家として活動をしていくのに必要な財源一一これがいわゆる「達観上の予算」 とよばれているものにあたる一一ーを確保することにあった。しかし,この高地 租実現の政府方針にしたがって県当局が割り当てた反収は農民の側からすれば 不当に高率であり,農民はこれを「押付反米」と呼んで強く反発した。全国各 地で農民たちがむしろ旗を掲げ竹槍を手にして改租不服に立ち上がったのも当 然のことであった。明治9年という年は改租不服運動がもっとも激化した年で,

5

月の和歌山県下の農民騒擾を皮ぎりに,秋から冬のはじめにかけて茨城県下 に激しい農民騒擾が生じ,さらに同月中旬,三重県に端を発し,愛知,岐阜, 堺三県を巻き込んだ伊勢暴動が勃発した。三重県下でその被処罰者が

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万人以 上に上った伊勢暴動は,明治を通じて最大規模の暴動のlつに数えられている。 香川県でも暴動には至らなかったが三木郡田中村のほか,同郡上高岡村,山田 郡三谷村,香川郡円座村,阿野郡千足村で,県改租係官との聞で紛糾のあった ことが記録されている。 改租不服運動は政府の一方的弾圧の前に終息したが,しかし農民騒擾の下か らの圧力のもとに明治政権は地租率を

3%

から

2

.

.

5

%

へと引き下げて農民の地

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891 香川県の地租改正 -77ー 租負担を軽減するという大きな譲歩を余儀なくされることとなった。明治1

0

年 1月 4日の減租布告がそれである。 市街地などの地租改正 すべての私有地に地券を発行することを企図した改 租事業においては,旧幕藩制体下の都市も当然,実施の対象となる。この市街 地改租が郡村に先立って壬申地券発行の段階ですすめられ,かつ新地租の収税 も実施に移されたことについては先に指摘したとおりである。 しかし,壬申地券段階での泊券税法における市街地の

1%

の地租率に対し地 租改正法における郡村の一般耕宅地の地租率は

3%

であるから,市街地の地租 負担はいちじるしく軽い。この市街地と郡村における租税負担の不公平を是正 すべく,市街地税を郡村耕宅地なみに地価の

3%

に引き上げる旨の太政官布告 が出されたのは明治8年8月のことであった。そしてこの太政官布告の公布を 契機に,市街地の再調査が改租事業の一環とじて実施されることになった。 香川県の改組の対象となったのは,旧城下町の高松・丸亀・多度津,それに 金毘羅参詣で賑わう琴平の各市街地であった。市街地の土地調査は,商業地・ 居住地としての便不便や盛衰,従来の売買代価などを考慮し,一宅地ごとに地 価を査定するのであるが,まず町ごとに地主総代を選出して土地調査をおこな い,次にこれを小区単位でまとめ,さらに大区総代人および、小区i総代人の衆議 のもとに地位等級表を作成して県当局に提出した。 明治12年に集中的にすすめられ翌日年のはじめに完了した香川県の市街地改 組事業で特記しておくべきは,高松の四・五・六番丁の旧武家地で発生した騒 擾事件である。この事件は官側の説得が功を奏せず,明治9年第68号布告を適 用して自体の収拾がはかられた。明治9年第68号布告が実際に適用された数少 ない事例のひとつである。 三 山林原野の地租改正 村持林野と公有地地租改正が国土のすべての私有地を対象とする税制改革 である以上,山林原野も当然,改租の対象となる。しかし一概に山林原野といっ ても人跡未踏の深山幽谷もあれば,維新政府が封建領主からひきついだ幕藩有

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--78ー 香川大学経済論叢 892 林もあり,また百姓持の私有林野,村持の入会林野があった。当然のことなが ら,こうした林野のうちで農民にとってもっとも重要であったのは村持林野で ある。幕藩時代,水田肥料に必要な刈敷や牛馬の飼料となる株,日々の生活に 必要な下草や薪炭,用材などの供給源となる村持の林野を農民たちは互いに入 会ながら利用して農業生産と日々の暮らしを維持しつつ重い年買を負担してき たのである。村持の林野はこのように農民にとって不可欠であったが,しかし その権利関係は複雑で錯綜し,耕地のように明白なものではなかった。一体, 村持林野はどのような所有としてとりあっかうべきか。壬申地券発行のとき, 維新政府はこれを官有地でも私有地でもない公有地としてとりあっかい,公有 地地券を発行した。香川県における公有?地地券発行の一般的状況はあきらかで ないが,豊田郡鶴津池の土砂揚場のとりあっかいに関する元香川県の伺(明治 6年3月15日)に対しと大蔵省租税寮が水掛かり村むらの公有地として処理す るよう指令していることに,その一端がうかがわれよう。 公有地の官民有区分 壬申地券発行にさいして創設された公有地制度は,し かし暫定的,過渡的な正確なものであった。というのは,公有地制度によって 村持林野に対する農民の権利は一応保証されたかのようであったが,しかし, 当時の殖産興業という国家の基本方針にもとづく官有地の積極的な民間払下政 策のもとで,この公有地も払下げの対象とされたからである。民間個人にいつ 払下げられるかわからない村持林野に対して農民の不安は増大し,政府部内に おいても公有地制度の矛盾に対する批判が高まった。改組事業が本格的段階に 入ったいま,内容のはっきりしない公有地は民有地か官有地のいずれかにはっ きりと区別されなければならない。この官民有区分に関する国の基本方針をし めしたのが,地租改正事務局から達せられた明治9年1月の「山林原野等官民 有区別処分派出官員心得書」であった。心得書によれば,ある村ないし村むら が民有を願い出た山野がたとえ検地帳や名寄帳などの公簿に高請地として記載 されていなくても,入会慣行の存在について隣村の保証が得られるならば当該 山野はその村ないし村むらに所有権が帰属する民有地とさだめられた。もちろ ん,入会慣行の存在があきらかでないなら官有地に編入される。また,山永,

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893 香川県の地租改正 -79 冥加永などと呼ばれた山税を納めていても,栽培の労費をかけずたんに草木を 採集しただけの山なら,民有地とは認めない。 右の派出官員心得書にもとづき県当局は明治1

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1

月 r山野公有地官民有区 別取調心得書」を発布し,村山をもっ村むらに伺出ることを命じた。山田郡の 三谷村も明治11年9月11日に農民78人の連署で「野山之義ニ付,願J,また明治

1

2

4

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日に総代

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人が「公有地処分伺」を県令宛に提出した。前の伺は「通 谷」と称する谷地の草生地,後の伺は「梶ヵ原」と称する林地につきそれぞれ 民有地編入を願出たものであるが,村山や早生地をもっ県下の村むらも三谷村 のようにこうした伺を出して幕藩時代以来の入会山利用を確保しようとしたの である。 五郷山問題一一入会山の官有地編入ーー ただ,公有地地券を発行された, 農民の生産・生活に必要不可欠な村持の林野がすべて農民の願いどおりに民有 地に編成されたわけではかならずしもない。それどころか全国的規模でみれば, 公有地の林野は明治絶対主義権力の手によって続々と官有地に編入されていっ た。林野行政に対する維新政府の基本的立場は,これからはじまる殖産興業の 経済的基盤として宮林の維持強化をはかるべし,というものであった。東北地 方で「軒先官林」の称が生まれたのはこのことを象徴している。 香川県の場合,農民の意向に反し官民有区分事業によって公有地の山野が官 有地に編入されたケースに豊田郡の五郷山がある。幕藩時代,その山麓一帯が 井関村など山方の

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ヵ村と萩原村など里方の11ヵ村,あわせて16か村の入会山 であった五郷山は,山方の村むらと里方の村むらのいざこざから公有地処分伺 の提出がおくれ,結局は官有地に編入されることとなった。隣の箕浦村や粟井 村が,そしてまた五郷山に隣接する愛媛県や徳島県の山々がすべて民有地に編 入されたのに,ひとり五郷山だけが官有地編入となったのは,もし民有地とし た場合は内部にまとまりのない16ヵ村では管理がいきとどかないと県当局が判 断したからだと思われる。こうして16ヵ村は幕藩時代以来の入会山をうしなっ たのであるが,しかし村人は禁を犯し罪を覚悟で入山するしかない。官山編入 後の五郷山は盗伐がつづいて荒廃し,洪水が頻発して地元の井関池は土砂がう

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-80 香川大学経済論叢 894 ずたかく堆積したという。その後,明治

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年になって部分林設定の願出一一樹

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分林とは植林経営の収益の一部官納を条件に政府が民間に貸し渡した官有林の ことーーが認められ,

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ヵ村の共同管理のもとに五郷山の山林経営がおこなわ れることとなった。こうして1

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ヵ村の人たちはふたたび山に入ることができる ようになった,しかし部分林設定という大きな代償を支払うことによって。 山林原野改租事業の実施 山林原野の改租事業は,郡村の耕地,市街宅地の それが竣功してのちの,もっともおくれての実施となった。もともと地租改正 が貢租の主要な賦課対象である田畑など耕地を主眼としたものであったから, この点でト第二義的な林野改租一一全国改租の成果によると,郡村耕宅地の地租 額に対する山林原野の地租の比率はわずか1.5%ーーがおくれたのは当然であ るが,ただ,上にのべたような官民有整理の業務に時日を要したことも林野改 租がおそくなった理由のひとつである。官民有整理の業務つまり公有地の処分 は,林野改租実施中も継続してつづけられた。 中央の改租当局から明治9年3月10日,民有林野の改租につき「山林原野調 査細目」が達せられ,山林丈量の方法および地価の調査法などがさだめられた。 これによれば,用材林,薪炭山,柴山,草山,竹林,萱草地など用途別に分類 したそれぞれにつき,土地丈量を終えたのち地位等級をさだめて地価を算定す るものとされた。地価の算定は収益によるが,芝草や竹林のように年々収益を 得るものは前

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ヵ年の平均,樹木を成育する山林などは成木年期間中の総収入 から総支出を差し引いたもので1年の収利を見積もるものとし,地価還元の利 子率は林野の利潤のいちじるしいことを考慮して

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分であった。 右の細目が達せられた3年後の明治12年9月,愛媛県は「山林原野地価調査 心得書」を発布,翌日年9月には「山林村等調査手続書」を下達した。同手続 書は,山林調査の場合も耕地改租のときと同様,郡を単位とする組合方式を採 用することを指令したもので,各村から選出の議員をメンバーとする村等会議 を開催,その衆議のもとに各村の村位等級を決定,しかるのち各村それぞれの 山林地位等級表を確定すべしとされた。 三野郡笠岡村の改租事業を記したさきの「地租改正事業諸雑記」によると,

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895 香川県の地租改正 81-明治13年10月の中旬から下旬にかけて,三野郡32ヵ村の村等議員をしたがえで の県官による山林野山の巡視がおこなわれ,翌11月の上旬に村等会議を開催し て各村の山林・野山の村等を決議している。ちなみに,山林の等級はl等から 11等,野山の等級はl等から 5等まで‘で,笠岡村は山林が7等,野山が4等で あった。山林・野山の村等が決まれば,村むらはその村等にもとづいて自村の 山林等級表を作成する。これが県当局に提出され,認可されれば該村は請書を 差し出し,ここに改租は完了する。笠岡村から「御請」と題する請書が差し出 されたのは明治

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年11月23日のことであった。 むすび一一地租改正の成果一一愛媛県の改租業務を統括していた地租改正 事務局官員,十五等出仕岡田正定ならびに十等出仕鳥海弘毅の連署をもって, 讃岐国郡村耕宅地の改租竣功を報告する出張復命書が同局総裁大熊重信に宛て 提出されたのは明治11年12月のことである。地租改正事務局が復命書を了とす れば改租は終結し,旧税は廃止されて新税施行のはこびとなる。ところで明治 9年末が全国一律竣功の時期とさだめられたことに関連して,郡村耕宅地の新 租施行年度は香川県の場合も明治9年であった。しかしこの年,香川県の改租 事業は進行の最中であり,新租額はまだ確定していない。そこで新租はひとま ず旧租額で仮に徴収しておき,過不足分は改租整頓ののちに清算する措置がと られた(明治

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月30日愛媛県布達)。さきの三野郡笠岡村から「明治九年地 租仮納額割賦帳」が愛媛県令岩村高俊に宛てて提出されたのも,この地租金仮 納の措置にしたがったものであった。 さて,改租の結果,香川県における新旧の租額の増減はどうなったか。これ が詳しくわかる資料が復命書に添付された「讃岐国郡村耕宅地新旧租額比較表」 である。これによると,香川県の新地租は田畑,宅地あわせて7

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円,こ のうち改租の最重要対象である田地の租額は66万5,393円であった。いま,耕宅 地のうち田地についてその新旧租額を比較するが,ここで注意すべきは比較表 の田地新租額66万5,393円は地価 3 %で計算された数値であるという点である。 しかしさきに述べたとおり地価3 %による徴収がおこなわれたのは明治 9年度

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82- 香川大学経済論叢 896 までであって,減租後の10年以降は恒常的に地価2叶5%に固定された。だから地 租負担の新旧を比較するときの新地租は後者の2.5%を使うのが妥当であろう。 地価2“5%の新地租は55万4,494円である。この新租と比較されるべき旧租は, 比較表によれば,現石形態を改租使用米価(4円76銭)で換算した明治6"-'8 年の旧租額の年平均である52万5,192円。改租使用米価で旧租額を算出すること を当時の言葉で新旧同価といったが,この新旧同価で新旧租額を比較すると, 香川県における田の新租は旧租に比較して

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の増加となる。改租の結果,讃 岐の農民にとって田地の新租は旧租より重い負担となった。 ところ、で,田地の大幅減租が実現した全国的趨勢のなかで,香川県が増加と なったのはひとえに改正反別が増えたためであった。比較表によると,改租事 業によって改出された切開,隠固などの反別は1万2.911町歩で,これは改正反 別 3万7,892町歩のほぼ 3分の lにあたる。この改出反別が新租の大幅増をもた らしたのであった。香川県で改租事業が遅滞した理由について右の復命書が, 香川県が愛媛県に合併されたさい改租機構の変更調整に手間どったこと,明治 10年西南戦争の勃発で人心が動揺したこととともに,新租の大幅増で「民心, 太甚タ之(新租の増一注)ニ帰向」しなかったことをあげているが,事実その とおりであったろう。なお,復命書は改出反別が大幅に増えた理由に触れてい ないが,幕藩時代に井関池の築造を機に大野原村の大開墾事業が進展したこと がそのもっとも大きな理由であろうと思われる。 復命書の内容についてさらにもう一点言及すれば,それは改租不服の三木郡 田中村のことである。田中村の改租紛糾中に復命書が出されたことは,復命書 がその末尾で r(田中村が一注)既ニ民義ニ附シテ決定セシ村等ニ不服ヲ唱エ, 従テ其収穫額ノ如キモ到底堪エ難キ旨ヲ主張シ,目下県令ノ説諭中ナリト雄ド モ,僅ニー小部分ノ為メ新租施行ノ機ヲ失スlレトキハ万般支障ノ由」云々と述 べているとおりであって,したがって新!日比較表の新租額中には田中村の分は 含まれていない。太政官布告第68号が適用されて田中村の新租が決まったのは 復命書が提出された1カ月後のことであり,その額は田地1,379円であった。し たがって香川県における田地の新租額は,厳密には,新旧租税比較表における

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