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~朗?

ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 84-102)

第十 八願 にお ける 唯除 の意 味

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第十八願における唯除の意味

ー 親 鷺 に お け る 人 間 の 研 究

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山 2

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願充?

た工

五逆と誹誘正法とを除く︒

とた

Xし書きが付記されているのである︒すなわち弥陀が第十八願で無条件の普遍的な救済を誓ったとすれば︑そこ

に︑このような条件を付記したことは全く矛盾と言わなければならない︒この矛盾をどう考えたら良いか︑これがこ

の小論の問題点である︒

親驚は第十八願に条件が付記されている理由を次のように考えていたと思うのであるが︑どうであろうか︒

第一に善導が﹁この義︑抑いで仰止門の中に解す︒・::::如来︑それかく二つの過を造らんを恐れて︑方便して止

めて︑往生を得ずと言えり︒また︑摂せざるにあらざるなり︒:・:もし︑造らば還りて摂して︑生を得しむ切と答え

ているところの伝統的な考え方がある︒五逆︑誹誘正法が第十八願から唯除されたのは彼等を救いから除外するため

ではなく︑その罪の重きことを知らせて︑

唯除はた

HA

除くということばなり︑ 五逆︑誹誘正法に近づけさせないためであると言うのである︒

五逆の罪人を嫌い︑誘法の重き科を知らせんとなり︒

① ことを示して︑十方一切の衆生みなもれず往生すべしと知らせんとなり 親驚も

この二つの罪の重き

と言 って いる

第二に︑十念も正法であることを示さんがために︑唯除を付記したと考えることである︒親鷺が深く帰依した曇驚

乙とわりいずくんぞ仏土に生れんと願ずるの理あらは﹁正法はすなわちこれ仏法なり︒これ︑愚痴の人すでに誹誘を生ず︒

ん や

︒ た と い

︑ た

X彼︑安楽に生を貧らんとして生を願ぜば︑また水にあらざるの氷︑煙なきの火を求めんがごと

⑤ あに理を得ることあらんや︒﹂と言っているが︑十念が正法であるならば︑正法を誹誘して︑正法によって救

し 第十 八願 にお ける 唯除 の意 味

七九

第十八願における唯除の意味

八 われようとは全く問題にならないといわなければならない︒十念と言う極めて簡単な易行であるために︑それが正法

と無関係であるように思われがちであり︑そのために特に第十八願に唯除の付記が必要であったと考えられる︒

親驚 の主 著︑

﹁教行信証﹂は正しくは﹁顕浄土真実教行証文類﹂と言われるが︑この真実について︑親驚は﹁真実 というは浬繋経にのたまわく︒

実の一諦は一道清浄にして︑二あることなきなり︒

真実と言うはすなわちこれ如来 真実すなわち虚空なり︑虚空すなわちこれ真実なり

o叫と言っている︒

なり

︒ 如来すなわちこれ真実なり︒

実とは仏が証悟した唯一無二の空︑すなわち正法である︒そうすると︑親驚は念仏が正法であることをあらわさんが ために教行信証を書いたと言えると思われる︒

親驚も旦畳一驚に同じく正法にきびしく当面していたのであれば︑

そこ では唯除が不可欠に付記されて来なければならないはずである︒法然が選択集で唯除の付記を削除して引用している のに対し︑親驚は教行信証で決っして削除しなかった理由である︒

では具体的に救いはどう実現するのであろうか︒親驚が和讃に﹁浄土真宗に

⑦ 

帰すれども︑真実の心はありがたし︑虚仮不実の我が身にて清浄の心も更になし﹂とうたっているように︑我々は正 以上の意味で唯除を考えるとすれば︑

法に立っていないのであり︑唯除に該当してしまうとしか考えられないのである︒善導は曇驚が示した唯除の意味

﹁十悪五逆等の貧眠︑と四重の倫僧と誘正法といまだかつて断慨して前仇岱

T

悔い ず︒ に対

して

終時に苦相雲のご とくに集り︑地獄の猛火罪人の前にあり︒

たちまち︑往生の善知識の急に勧めて︑専ら彼の仏の名を称せしむるに︑

一念心を傾くれば宝蓮に入る日と答えている︒

臨終という決定的な場面では︑

仏化︑菩薩声を尋ねて到りたまう

c

さすがの諒誹正法も自執を完全に否定し得て︑仏の来迎にあづかることができるというのである︒善導は臨終の場に 凡夫を立たしめることによって︑弥陀の無条件の救済を貫いたといえよう︒

しか

し︑

臨終には後がない︒

そこで︑唯除されるものでなくなったとしても︑その時には終っているのである

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果して︑本当に唯除されないものであったかどうかは︑この現実のだれにもわからないのである︒此岸に︑生きて いる凡夫にとっては︑唯除されているかも知れないという不安は尽きない︒これでは本質的な問題の解決とはなら

ないであろう︒

唯除の持つ矛盾は日々の現実に生きている凡夫の問題において解決されなければならないはずである︒

念仏が正法であるならば︑念仏によって救われるといった考え方は念仏を絶対化し︑実体化してしまっていて︑ま

ちがいといわなければならない︒

⑨ ごとし﹂と世界のどこにも実体としてあるものはないことを説くのである︒ 曇驚は﹁諸法は因縁生の故にすなわちこれ不生なり︑あるところなきこと虚空の

親驚もそこから

一事として阿弥陀如来の清浄の願心の回向成就したまうところにあら苫ることなし︒

⑬ なくして︑他の困のあるにはあらざるなり︒ もしは行︑もしは信︑

と言っている︒名号は不生︑虚空を説く仏の正法が具体化されたものであって︑もちろん不生︑虚空でなければ

なら ない

因なくして実体であるというのではなく︑他の困︑仏という実体によって与えられたものというのでも

ないのである︒正法は世界から実体を否定することであり︑そのことは名号においても例外であってはならないは

ずで あろ う︒ しか るに

﹁悲しきかな愚禿の ⑫ 愛欲の広海に沈没し︑名利の太山に迷惑して﹂名号で救われようとする妄執を

﹁本願の嘉号をもっておのれが善根とするが故に︑信を生ずること

⑫ あたわず︑仏智をさとらず︑彼の因を建立せることを了知することあたわず︑故に報土に入ることなきなり﹂ どうしても断ち切ることができないのである︒

分自

を救いとってくれる確実なものが欲しい︒しかし︑その人間のはからいの中に名号を置いている限り︑全く救いは

第十 八願 にお ける 唯除 の意 味

第十 八願 にお るけ 唯除 の意 味

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得られないのである︒

このことを親鷺は

⑬ 

真実の信心は必ず名号を具す︑名号は必ずしも願力の信心を具せぎるなり といったのではないかと思う︒

実体であることを否定することが念仏であるにもかかわらず︑我等凡夫はどうして も念仏を実体と考えてしまうのである︒

願力の信心とは世界から実体を徹定的に否定し得た仏の智恵と言えよう︒

名号はその智恵のあらわれであるが︑我等凡夫はその仏の思いに立つことができないのである︒

この恥輸すべき︑傷むべき親驚において︑念仏を正法として持つことはどうしたらできるのであろうか︒

親驚はど

うしても実体への妄執を断ち切ることができないのであるから︑親驚の念仏は全く唯除に該当し︑唯除されてた立ま つ暗閣の中をとぼとぼと歩いていくと一言う他はない︒

しかし︑唯除されているにもかLわらず︑念仏し続けるとい

うこのことは一体なになのだろうか︒

このことは人間の思いを越えて︑現に存在している事実という他はないであ

ろ ︐ フ ︒

人聞にとって︑この念仏が正しいかどうかは全く実体への妄執でしかない︒

妄執の故に︑その念仏はやが

て崩 壊す る︒

そこからは念仏し続けるということは決っして出て来はしない︒

し続けたことは︑親驚の念仏が救

われるものであるかどうかということと無関係にある事実でなければならないのである︒

そこで︑親驚は実体への

妄執と断ち切れていると考えられる︒親驚は正法の念仏を持ったのである︒

凡夫というは︑無明煩悩の我等が身に満ち満ちて︑欲も多く︑怒り︑腹立ち︑嫉み︑妬む心多く︑

臨終の一念に至るまでとX

まらず︑消えず︑絶えずと水火二河の警にあらわれたり︒

ひま なく てし

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るあ さま しき 我等

︑ 願力の白道を一分︑二分ょうようづっ歩み行けば︑無与光仏の光の御心に摂め取り給うが故に︑必ず安楽浄土へ

⑬ 

至れば︑弥陀如来と同じく彼の正覚の花に化生して大般担架の悟を聞かしむるを旨とせしむべしとなり︒

と親驚は言っているが︑親捕時は親驚の念仏がどんなにあさましくても︑

一分二分ょうようづっ歩いていけば︑そのし

ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 84-102)

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