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猷 2

ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 47-61)

田 一

号麿 1

親驚聖人の聖徳太子に対する尊崇の深さは︑その生涯の事績からも︑また幾多の御著述からも︑明瞭に窺い知るこ とができるのであるが︑それを最も端的に示しているのは︑三一種にわたる太子和讃の述作である︒直接の師法然上人 に関する和讃さえ﹃浄土高僧和讃﹄の一章として二十首を数えるにすぎないのに︑文明本に見える十一首和讃に加え るに︑七十五首の﹃皇太子聖徳奉讃﹄︑百十四首の﹃大日本国粟散王聖徳太子奉讃﹄と︑実に総計二百首に及ぶ太子 和讃が作られてあることは︑まさに異例のことと言わねばならない︒

しかしながら︑文明本の十一首和讃はさて措き︑他の二種の太子和讃を検尋するに︑多くは史書に見える太子伝説 の讃一散であって︑その教法に対する讃歎は少なく︑その調子はまことに申しにくいことながら低調であり︑とてもあ の﹃三帖和讃﹄の格調の高さに比すべくもない︒これはいかなる理由によるのであろうか︒

従来︑その理由としてあげられて来たのは︑史書に基づいているから︑

ということであった︒しかし︑聖人の述作

に典拠のないものはないのであって︑

﹃三 帖和 讃﹄ の一 々も なみ 典拠 に基 づい て讃 一散 され てい る︒

例えば曇驚讃第六

太子 和讃 存疑

太子 和讃 存疑

首から第十首までを見ょう︒

貌の主勅して持州の

大巌寺にこそおはしけれ

ゃうやくおわりにのぞみては

没州にうつりたまひにき

説の天子はたふとみて

神轡とこそまふしけれ

おはせしところのその名おぱ

驚公巌とぞ名づけたる

浄業さかりにすすめつつ

玄忠寺にこそおはしけれ

貌の興和四年に

進山寺にこそうつりしか

六十有七ときいたり

浄土の往生とげたまふ

そのとき霊瑞不思議にて

一切道俗帰敬しき

君子ひとへにたふとみて

勅宣くだしてたちまちに

扮州沿西秦陵の

勝地に霊廟た亡たまふ

この五首の典拠は﹃続高僧伝﹄であって史書と見てよいものであり︑太子和讃と同じ条件にあるものである︒今試

みに原文の一部を写せば︑

春秋六十有七︑終日に至るに臨みて︑献花憧蓋高く院宇に映ず︒香気蓬勃として音声鮫時なり

o寺に預登する者

並びに同じく之を嘱る︒

であって︑これが第九首の見事な讃歌となっているのである︒史書に基づいたこの五首は︑

りとはまっていささかの遜色もない︒御本典の中に﹃論語﹄をさえ引用して︑独自の読み換えによってその宗教的世

一連三十四首の中にぴた

界を確然と現わされる聖人である︒その聖人が︑どうして史書をただだらだらと七五調におきかえるだけの作業をな

さる必要があるのであろうか︒

大体聖人は切り捨てるお方である︒自己に必要なものだけをつかみ取って︑他はズパリと捨てられるお方である︒

選択摂取されるお方である︒従ってその叙述は簡明である︒然るに太子和讃はどこが切り捨てられているであろうか︒

どこに聖人独特の輝きが見出せるであろうか︒二種の太子和讃の殆どは︑残念ながら冗長冗漫であり︑聖人の輝きに

乏しいと言わねばならぬのである︒

著述時の聖人の高齢を考えに入れるとしても︑

﹃三

帖和

讃﹄ の中でも殊に格調が高いとされる﹃正像末法和讃﹄が

太子和讃存疑

太子 和讃 存疑

四四

﹃大日本国粟散王聖徳太子奉讃﹄と同じ八十五才の述作であり︑老来いよいよ著述さかんの折であって︑信境はすで に自然法隔の域に達せんとし︑その筆跡も﹃西万指南抄﹄に見られるごとく︑更に雄勤の度を加えていささかのたる みも見えず澄み切っているのであるから︑お年のせいということは全く理由にならない︒

しかも︑七十五首本の﹃皇太子聖徳奉讃﹄には直弟の真仏上人と顕智上人による書写本がそれぞれ現存する︒とい うことは︑これが聖人の御述作であることの何よりの証拠でなければならない︒この矛盾をどう解明すべきであろう

そこで︑順序として︑

二種の太子和讃がいかに﹃一二帖和讃﹄と違っているかを見ょう︒

先ず︑語法の面から見ると︑第一に気付くのは﹁係り結び﹂の乱れである

oこれは甚だ多いがその一例を示せば︑

この地のうちに麗水あり

荒陵池とぞなづけたる

青竜つねにすみてこそ

仏法守護せしめける︵七十五首本の幻︶ 物 寺 ふ 部 塔 か の を く 弓

亡 心 の焼す邪削

せ を 守 し お 屋 め こ の っ し 逆 っ て 臣 ぞ|は

仏経を滅亡輿ぜしか︵同印︶

守 有 和 の定

屋 情 IJ原弓

の 利 し と 逆 益 て 慧 臣 の こ | の 討号たそ|矢 伐 め た と せ [ に ち を

( て ちし|とま

同 に 68 

'.../ 

百済国より弥勅の

石の像をぞわたされき

蘇我の馬子の宿祢は

この像をうけとりたてまつる︵百十四首本の日﹀

いりてあしたにいでたまひ

閤浮提のことをかたります

この内にいりてこそ

諸経の疏をばつくれりし︵同

67 

J

むろのうちにいりてこそ

さしはさめる一巻の

御経をとりてくもをしのぎ

さりにしと引引かたれり

M

︵ 同

80 

J

十人一度にまふすこと

太子和讃存疑

四五

太子和讃存疑

六四

ひとりももらさずきこしめす ことわりいますによりてこそ とよききみみとは申しけり︵同

Ill 

\】ノ

鎌倉期は国語の混乱期ではあるが︑﹃一二帖和讃﹄に見られる係り結びは実に整然たるものである︒

釈迦弥陀の慈悲より引

願作仏心はえしめたる

信心 の知 日慧 に入 りて こそ 仏恩 報︑ ずる 身と はな れ︵ 像正 末法

33 

、}ノ

仏智不思議を信ずれば

正定緊にこそ住しけれ

化生の人は智慧すぐれ

無ト

﹂覚 おぞ さと りけ る︵ 同 46 

'../ 

混乱期にあってもかく古格を守り得たのは︑聖人の学問の筋がいかに正しかったかを証するものであって︑余人の 容易にまねびがたいものであったに相違ない︒

次に用語の面から考えてみるのに︑太子和讃には聖人の他の御著述には見られないことばが頻出している︒例えば

h u

ひやろじ

﹁数 大一

﹁数 多一

﹁霊 験三

繁昌

二墓 所一

﹁仏 像一 一尊 像一 一逆 臣一

﹁儲 君一 一

i兵士一﹁因果のことわり﹂等々であるが︑他

に﹁ならくのみ︹七十五首本

日︺﹂︵れりき︵し︶﹂﹁せしめましましき﹂等は語法の上からも注意されるものである︒

また︑敬意を表わす接頭語一御︵おん︶一が﹃三帖和讃﹄に一例も見えないこと︑﹁真宗研究﹂第六輯の拙稿に報告 した 通り であ るが

︸﹂ れが 百十 四首 本に 頻出 する

︸﹂ とも 注意 して

おか

ねば なら ない

その語を挙げるに︑﹁御はら

﹁御

夢一

﹁御 くち 一﹁ 御厩 一﹁ 御身 一﹁ 御音

一御

かた

わら

一御かえりごと﹂等︑一おん﹂と読むことが確実なものだけ

で実に訂例を数えるのである︒︵七十五首本には5

例 ︒ ︶

一首 全体 とし てみ ても

帰命尊重聖徳皇

用明天皇の親王のとき

穴太部の皇女の

御はらよりぞ誕生せる︵3︶

われこれ救世菩薩なり

家西方にありと示してぞ

おどりて御くちに入り給ふ

はらまれいます菩薩なり︵5︶ 蜂 岡 寺 池 後 寺 葛城寺日向寺なり

このほかみ寺きこゆれど

太子和讃存疑

四 七

太子和讃存疑

四 八 伝記 縁起 をひ らく べし

︵川

このような俗調の︑稚拙な表現を聖人がなさるものであろうか︒

次に戸調の面から見てみよう︒﹁真宗研究﹂第十一輯の拙稿﹁和讃の声調﹂において︑私は聖人の和讃を余人のそ

れと比較し︑その特長の第一に名詞止めのないことを挙げておいた︒然るに太子和讃にはそれが見える︒

桓武天皇の聖代の

延暦六年にこのみやこ

造輿のとき救世観音

奇瑞霊験あらたなり︵七十五首本

日本国にはこのみ寺

仏法最初のところなり

太子の利益そののちに

所々に寺塔を建立せり︵同

\』ノ

太子の御とし三十三

夏四月にはじめてぞ

憲法製して十七条

み手にて書して奏せしむ︵同

新羅国より仏像を

たてまつれりきその時に

太子奏したまひけり

西国のひじり釈迦牟尼仏︵百十四首本比︶

最後の例の如きは第四句の名詞止めであって︑聖人には決して見られないものである︒

また︑聖人には安っぽい主観表出が見られないことも注意しておいたが︑

飢ゑ人かしらを持ち上げて

御かへりごとをぞたてまつる

あわれかなしきみζとかな 奉讃 まこ とに つき

︑が

たし

︵同

93 

、}ノ

妹子が持ちて渡れりし

経ばかりこそいますなれ

まことに不思議の多きこと

奉讃きわなくあわれなり︵同

105 

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などは聖人の品格に合わない︒

聖人の和讃は四句一章形式が特色であり︑四句で意味が完結するのであるが︵これには一一三の例外もある︒例えば

大勢至讃の1・7

・竜 樹讃 の 91

太子和讃では四句一章で完結せず︑次の一首にことばが続いて行くものが多く見

られることも相違点に数えられよう︒

最後に︑聖人の思想の面からこれを見てみよう︒七十五首本第二十四首に次の一首がある︒

慈悲心にてのむ人は

かならず法薬となるときく

太子 和讃 存疑

四 九

ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 47-61)

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