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比較宗教学概論Ⅰ 幸せの探求

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Academic year: 2022

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(1)

比較宗教学概論Ⅰ 幸せの探求

宗教学方法論Ⅵ宗教人類学

( H. コックス 1929⁻ )

201707 @2時間目

九州大学箱崎キャンパス 301 教室 飯嶋秀治

shuujiiijima@gmail.com

(2)

授業計画と Q&R

進度・内容・行動目標等 1 0411自己・世界・講義の趣旨説明 2 0418言語・生態・経済の説明 3 0425国家・メディア・学校の説明

4 0509国際学会発表のためビデオ視聴 5 0516「幸せ」の釈義

6 0523/不幸・幸い/災い・祝い/呪い

7 0530宗教学方法論Ⅰ宗教心理学(W.ジェイムス 1842-1910

8 0606宗教学方法論Ⅱ宗教社会学(E.デュルケム 1854-1917

9 0613宗教学方法論Ⅲ宗教哲学(R.オットー1869- 1937

10 0620宗教学方法論Ⅳ宗教民族学(A.ファン・ヘネッ 1873-1957

11 0627宗教学方法論Ⅴ比較宗教学(M.エリアーデ 1907-1986

12 0704宗教学方法論Ⅵ宗教人類学(H.コックス 1929⁻

13 0711宗教学方法論Ⅶ宗教民俗学(関一敏1949⁻)

14 0718試験(小論文)

15 0725講評

めでたい時は、高いもの(山)を大事にするという話で、山笠が出てきまし たが、その「山笠」という名前もそういう思想に由来しているのでしょうか。

また、高いのもを求めると言うことは天地をつなぐということですか?世界 的な事例の中で家の配置の話があり、寝るときの枕の向きの話もありまし た。日本の席の配置で上座・下座というものがありますが、これも宗教学 と関係のあるものですか?

聖体示現を人間が知るのは、聖なるものが俗なるものとまったく違った何 かであると判るからというような記述がありましたが、何がどう違うから聖 なるものであると判断するかは明確な基準があるわけではなく、あくまで も個人的な考えによる判断になってしまう気がするのですが、それぞれに とっての聖なるものが異なっても良いのでしょうか?

神楽について、この場合の神々はイニシエーションの例で挙げられていた ように、人間としてではなく、神そのものとして扱われていると思うのです が、実際にその神に扮しているのは人間だと思います。その人間たちは

「その日に神様が帰ってくる」という思想を有していると思うのですが、そ の思想はその人たち自身が神に扮する(その場の上が実際は人間であ る)ということに矛盾するのではないでしょうか。彼ら自身が神に扮するこ とに抵抗はないのでしょうか。それとももはや、彼らが「その日に神が集ま るという思想を有している」という前提自体が誤りなのでしょうか。

始まりは神道で、終わりは仏教という説になるほどと思いました。始まりは 神道で終わりが仏教(寺)というのは何に由来しているものなのでしょうか。

(3)

言語と生態

自己中心主義から脱中心化へ

自文化中心主義から文化相対主義へ 狩猟採集漁労民・農耕/牧畜民から市

場経済・国民国家へ

(4)

幸いと災い、祝いと呪い

• Arrernda:(-θvb.)feel happy, be pleased, enjoy yourself, be cheerful, have a good time.,

n.

漢字:幸、福(

⁻100A.D.

• English

:(

adj.

Senses relating principally to good fortune.→ Of a person:favoured by good fortune;lucky, fortunate →

n.

With the and pl. concord:happy people as a

class.→A happy person or thing. Also: a happy state, event, etc.

⁻1550A.D.

日本語: 【幸】(「さきわい」の変化した形)🈩

〘名〙 ①<形動>神仏など他が与えてく れたと考えられる、自分にとって非常に望 ましく、またしあわせに考えられる状態。

⁻794⁻

しあわせ【仕合・幸】〘名〙(「しあ わす(為合)」の連用形の名詞化)①めぐり 合わせ。(

⁻1549⁻

こうふく【幸福】〘名〙

(形動)恵まれた状態にあって不平を感じな いこと。(

1808

• Arrernda:n.bad,morally wrong,evil.

漢字:災(

⁻100A.D.

• English:

adj.

→Of persons (or

animals):Causing misfortune or trouble(to oneself or others); objectionable or

miserable on this account.(a1400A.D.)

日本語

:

わざわい【禍・災・殃】〘名〙

(「わざ」は神のしわざの意、「わい」は「さ きわい(幸)」などの「わい」と同じ。悪い 結果をもたらす神のしわざの意から)① 悪い結果をもたらすような種々の事柄、

気配。また、その悪い結果。身にふりか かる傷害、病気、天災、難儀など。災難。

災厄。禍南。凶事。曲事。不幸。

(-720- )→

ふこう【不幸】?

(5)

宗教学方法論

宗教の心理学

「宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあっ て、いかなるものであれ神的な存在と考えら れるものと自分が関係していることを悟る場 合だけに生ずる感情、行為、経験である たちの解するような意味の宗教から、いろい ろな神学や哲学や教会組織が第二次的に 育ってくるであろうことは、明らかである」 [ジェ イムズ1982a(1901-1902)52]

宗教の社会学

「宗教とは、神聖すなわち分離され禁止された 事物と関連する信念と行事との連帯的な体系、

教会と呼ばれる同じ道徳的共同体に、これに 帰依するすべての者を結合させる信念と行事 である」[デュルケム1991a(1912):86-87] 「あら ゆる形態のもとで、宗教生活は、人を自己をこ えて高め、人が自らの個人的自発性にのみ服 していたら営んでいたであろう生活よりも、高 級な生活を営ませることを目的としている」

[デュルケム1991b(1912):317-1318]

宗教哲学

「私たちはここで、『聖なるもの』(das Heilige)という特異な範 疇について、以上のことを研究しよう。ある事柄を『聖なるも の』と認め承認することは、まずそのようには、ただ宗教の 領域だけに現われてくる特異な価値判断である」[オット

―19921917):14]

宗教民族学

「近年、呪術宗教的行為の詳細な記述お よび民族誌の十分な蓄積がなされてきて おり、こうした行為つまり儀礼に関する科 学の進歩に即した分類を試みるのは、時 宜に適ったことであると言えるだろう の種の儀礼は様々の儀式の中に存在す るが、 今までのところ誰もこれらの間の 緊密な関係にも、その存在理由にも、そ してまたなぜこれらの儀礼は互いに類似 しているのか、ということにも気づいてい ないようである」[ヘネップ20121909:7]

比較宗教学

「人間が聖なるものを知るのは、それがみずから顕れるからであ り、しかも俗なるものとは全く違った何かであると判るからである。

この聖なるものの顕現をここでは聖体示現(Hierophanieギリシャ hieros=神聖な、およびphainomai=現われる、から来る)という 語で呼ぶことにしよう」[エリアーデ1988(1957):3]

(6)

宗教人類学

(7)

時代背景

[

竹沢

2006]

• エミール・デュルケム (1858-1917 年 ) 1912 『宗教生活の源初形態』

• ルドルフ・オットー (1869-1937 年 ) 1917 『聖なるもの』

• ブラニスラウ・マリノフスキー( 1884-1942 年)

1922 『西太平洋の遠洋航海者』

• ミルチャ・エリアーデ (1907-1986 年 ) 1957 『聖と俗』

カウンター・カルチャー運動( 1955-75 ベト ナム戦争、 1955-63 公民権運動、 1962- エ コロジー運動、 1963- フェミニズム運動)

• ハーヴェイ・コックス( 1929- )

(8)

『東洋へ 現代アメリカ精神の旅 』

Turning East: Why Americans Look to the Orient for Spirituality and What That Search Can Mean to the West

• 目次

1.東西相まみえることなし◎旅の始まり 2.片手で拍手◎ある禅ドロップアウトの告白 3.神々の肉◎ドラッグと東洋志向

4.ナロパの魔女◎知識社会と知恵 5.瞑想と安息日◎西洋の中の東洋 6.ナルシスの池◎瞑想の心理学的効用

7.東洋志向◎心の交流と直接体験を求める人々 8.仏教とベネディクト修道士◎キリスト教と東洋志向 9.プレイガイドで悟りを予約する◎アメリカ社会と東洋志

10.東洋の神話◎<どこかほかのところ>へ

11.神なき時代の精神性を求めて◎原点からの出発

(9)

主題と方法

• 主題

「本書では、『ネオ・オリエンタル』という言葉を使う が、これはヒンドゥー教や仏教など、偉大な東洋 の伝統宗教そのものについて語っているのでは ないことを明らかにするためだ。

私が語ろうとし ているのは、文字通り、われわれアメリカ人の玄 関をノックし始めたアメリカ版の東洋宗教につい てであり、そこに目を向けるアメリカ人たちにとっ ての意味についてだ」

[

コックス

1979(1977)

29]

「アメリカ宗教史におけるこのめざましい新たな推 移に注目し、その意味するところを自問した私は、

すぐにあることに気づいた。それは、自分が住ん でいるこの町が、ネオ・オリエンタル宗教運動の 調査研究にはもってこいの、肥沃な大地な研究 対象になってくれるということだ。

というのも、

(マサチューセッツ州)ケンブリッジこそは、まさに こうした運動に対して敏感なタイプの人間で満ち 溢れているからだ。すなわち、概して若く、たいが いは白人で、ほとんど決まってミドル・クラス出身 の人々だ」

[

コックス

1979(1977)

11-12]

方法

「調査を始めて数週間は、とんとん拍子で進んだ。チー ムを組み、また個別に、あらゆる瞑想セッション、お祭 り、聖餐、入門講座、参観者集会、礼拝、研究会など に参加した。質問をし、山積したチラシやパンフレットを 読み、観察し、無数のカセットテープを聞いた。学生た ちはこの仕事に大乗だったし、私も心が弾んだ。ひと つには、教科書ではなく、研究対象から直接何かを得 るという喜びがあった」

[

コックス

1979(1977)

16]

「こうして迎えた第二段階で、私は、できるかぎり多くの団 体に入りこんでみようとした。依然として調査のためで はあったが、もう周辺をうろつくだけでは満足できな かったのだ。手をこまねいてスーフィーの踊り手たちを 観察するかわりに、私も踊りの輪の中に入った。禅の 本を読むだけではなく、禅センターの門を叩き、座禅し た。ハレ・クリシュナの信者といっしょに歌った。ヨーガ の修行者とともに逆立ちして腰を伸ばし、呼吸法を学 んだ。ヒンドゥー教の信者が好んで行う姿勢で、長時 間にわたる無調のマントラを唱え続けた」

[

コックス

1979(1977)

18]

「第三段階をはっきりと定義するのはむずかしい。そのとき、

予期しないことが起こった。東洋志向者の気持ちはどんな ものかと探っているうちに、私のすべての予想と偏見を裏 切って、いつか自分が『東洋を志向』していることに気づいた のだ。いつの間にか私は、『彼ら』と『われら』の境界線を越 えていた

[

コックス

1979(1977)

18-19]

(10)

考察

ウィチョール族

「サイケデリック薬物について書く人は、たいてい『セット』

と『セッティング』ということをいう。『セット』は精神状態、

もしくは、恐れ、好奇心、期待、懐疑といった、ドラッグ 体験に対するその人の傾向のことだ。『セッティング』は、

実際にそのドラッグを服用するときの物理的、心理的な 環境のことだ。ウィチョール族と砂漠で過ごしたとき、私 のセットは好奇心と期待、セッティングは文句なしだっ た」 [コックス1979(1977)49-50]

「激烈な感情がある具体的なものに集約されるということ がよくある。その明け方、明けの明星は私にとって、

愛で脈動する人間世界の象徴となった。圧倒的な幸 福感に包まれていた。家族、教え子、隣人、友人を思 い浮かべた。それぞれの愛によって、この宇宙の生命 力を私に運んでくれている人たちばかりだ。やがて、そ の激しい感情にも疲れ、火のそばにいる仲間のところ へ這い戻ると、静かに横になった」[コックス

1979(1977)68-69]

「ヒッピーは自分の文化から逃避するために薬物を用い たが、ウィチョールは自分の文化の奥深くに入るために 用いるのだわれわれに欠如し、ウィチョールにあるも の、それはペヨーテではない。それなら、似たような合 成品がある彼らにあるのは、自分の過去を敬う社会、

黄金を求める無慈悲な競争に人を駆りたてることのな い社会、分ちあい、育みあい、必要以上に蓄えない社 会なのだ」[コックス1979(1977)71-73]

• 禅

「アメリカには何十という禅センターがあり、それらはみな少 なくとも外観は清浄無垢だ。

無言の食事のときに少し休 む以外は、とにかく坐り続ける。退屈でイライラしてくる。ア メリカ社会での価値観からいえば、これは疑いようもなく時 間の浪費以外の何ものでもない。」

[

コックス

1979(1977)

31]

「禅とは、日本を経由して中国から渡来した精神的、心理的 修練の伝統のひとつ、とだけいっておこう。千五百年にわ たり、人々はこの修練によって労働、衝突、いらだちの連 続である日常生活から身を退くことなく、平安な暮らしがで きるような意識の状態を保っていられたのだ」

[

コックス

1979(1977)

36]

「何週間かかをかけて怒りと不安の山を登りつめてから、つ

いに私はおりた。この先はもう、禅の世界に『ちょっといっ

てくる』どころか、禅に『とらえられる』しかないところまでき

てしまった」

[

コックス

1979(1977)

39-40]

(11)

考察

ユダヤ教の安息日

「ナロパ学院を去る日の数日前、ボールダーにほど近い 小さな町に住むあるユダヤ教の司祭が、安息日を祝う 小さな集会に私を招いてくれた。その気持ちのよい集 会で、静かに語り、眠り、食べ、古代ヘブライ語の祈り をくりかえし、なすのではなく、ただあるだけの喜びを噛 みしめているうちに、私はふと、瞑想とは本質的に一種 の安息日なのだと思った」 [コックス1979(1977)95]

心理学的効用

「心理学は、そもそもがそこから生まれ育った豊かな宇宙 論、形而上学、神学から身を退き、矮小化された浅薄 な役割を甘んじて受け容れたのだ神、悪魔、天使を 呼び戻そうとするCG・ユングとその解釈者でさえ、そ れらを拡大した自己の中に封じ込めようとするのが通 例だ」 [コックス1979(1977)110]「真の無執着は、自己 が消え去った時に初めて可能だ。 しかし、これこそ、ほ とんどの西洋人が譲れず、また譲ることを望まないもの なのだ」 [コックス1979(1977)122]「聖なる存在は、人 間を助けはするが、破壊や変形も辞さないほどの荒々 しさで人間世界のまっただなかに入りこむことによって 助けるのだ」[コックス1979(1977)129]

• ナロパ学院(チベット仏教)

「ナロパ学院は、瞑想の達人であり、西洋美術学者であるチョ ギャム・トゥルンパ・リンポチェが、一、二年前に創設した」

[コックス1979(1977)79]「生徒は約千人、そして四十人の教 師が百近くの講座で教えていた」 [コックス1979(1977)80]

「いつの間にか、一、二時間の静坐が面倒ではなくなり、むしろ 待ち遠しいものになった。東洋を志向した人たちの話でよく分 からなかったことが、分かるようになってきた」 [コックス

1979(1977)83]「講義そのものに対しては、少なくとも最初の うちは当惑した。小柄で平凡な、ちょっとびっこをひいて褐色 の肌をしたトゥルンパは、抑揚のないしわがれ声で同じことを 何度もしゃべる。坐ってコップ酒を飲みながら、突然長いあい だ黙りこんだりもする。ノートの類は一切使わない。私は最初、

八百人もの人が、このだらだらした話を聞くために二時間も待 つ理由が分からなかった。しかし、『坐る』たびに自分でだんだ ん分かってきたことと、彼との話が自然に結びつくようになると、

その謎が解けた。トゥルンパは、瞑想中に自分自身のことが よく分かるように、われわれの手助けをしてくれていたのだ」

[コックス1979(1977)85-86]

「ナロパ学院での体験のおかげで、静坐瞑想はキリスト教徒とし ての生活と何ら矛盾するところがないと断言できるよういなっ た」 [コックス1979(1977)88]

(12)

考察と結論

• 6つの入信動機

①単なる人との交流

②人生を直接探求する道

③権威を求めている(②とは違う)

④(少数)その方が「自然」

⑤(女性)男性専横主義からの逃避

⑥健康、エコロジー、惑星資源の現象 への関心

①ここには相手になってくれる人がいる。家出して、何 が何だか分からなくなり、ただほっつき歩いてたんだ。

初めてここにきたときは、ここの人たちのいっているこ とがさっぱり分からなかった。みんなおかしいんじゃな いかと思って、そういってやったんだ。でも別に怒りもせ ずに迎え入れてくれたよ。おかげで気持ちが楽になっ た。いまでは、ぼくはここの一員で、しかも重要な一員 になったような気がしている。ぼくはここの人間だ。ここ にくるように運命づけられていたんだ。

②教会で教わったことといえば、神とか「理解を超えた平 和」とかに関する説教や訓戒ばかりだった。言葉、言葉、言 葉。それだけさ。みんな、ここだけの話なんだ(と、頭を指さ す)。何も感じなかったんだ。何もかもが抽象的、間接的で、

いつも、だれかほかの人のことなんだ。馬鹿らしくて、退屈 で、まるで冷めたコーヒーみたい。坐ったり、ひざまずいたり、

立ったり。お祈りを聞いたり、読んだり。何か生きてる気がし ないんだなぁ。中味を食べるんじゃなくて、レッテルを読んで るだけみたいだった。だけど、ここでは自分で感じることがで きる。体で分かるんだ。自分に起こっていることだから、他 人の言葉で説明する必要なんかないしね。いまだってそうさ。

じかにくるんだよ、どうしようもない力でね。

③あらゆることをやってみました。あらゆる本を読み、講演を 聞き、いろんな先生たちの教えも受けました。しかし、その結 果はますます混乱を深めるだけでした。もう普通の人のよう に考えることもできなくなって、茫然自失という感じでさまよっ ていたのです。そのとき、あの人に出会った(聞いた、見た、

読んだ)のです(その師の名前はさまざまだが、告白の口調 はほとんど同じだ)。結局、あの人のいっていることは、つじ つまが合うのです。一瞬のうちにすべてが分かりました。本 ものなんです。だれかが答えをしっているとしたら、あの人こ そがそうなのです。真実を見ているということが、そのしゃべ り方(私を見る目、その他)で分るのです。これで私の告白は 終わりです。

④西洋文明は麻薬注射みたいなもんだ。テクノロジーと合 理化以外には何もない。戦争と大量虐殺と十字軍の血なま ぐさい記録、権力と財力で中心から腐っている怪物だ。自然 とか感性、自発性とは無縁なんだ。その中心にあるのがキ リスト教の伝統で、こいつがおそらく事態を悪化させてきた んだ。いま、われわれに必要なのは、東洋の人たちから学 ぶことだ。彼らは機械や科学で汚染されていないし、その祖 先の単純さや、自然や宇宙から与えられた内的感情やリズ ムをちゃんと保っている。西洋の宗教は、もう役には立たな い。いま可能性があるのは東洋だけだ。

⑤男の神が男の人間をつくって、その男が女に迷って堕 落することになっているじゃない?男の教父、男の預言者、

男のキリスト、十二人の男の使徒、男のローマ法王、男の 司教がいるわ。女はたいがい処女か、さもなければ魔女 か娼婦か、ありがたい母性だわ。この宗教には女のいる 場所なんかないのよ。ヒンドゥー教を見てごらんなさい。そ こには女神カーリーをはじめとして

……

⑥西洋の宗教は、大地・水・樹木などの神聖な性質に、本 気で敬意を払うことはないんだ。神は自然を超越してるし、

聖書は人に自然を支配せよと教えているんだから、自然 が誤用され、浪費され、汚されるのはあたりまえさ。西洋の 信仰というのは、外面的で陰険だ。その点、東洋の精神性 は、自然の中に聖なるものを見て、その静けさを好み、不 介入主義の態度をとる。この東洋の考え方を取り入れ、人 間にはこれ以上自然に手を加える権利がないことを悟らな いかぎり、人間はこの地球を破壊してしまうことになる。

「宗教が社会の病を癒すには、大まかにいってふたつ の方法がある。ひとつは、何がその病気を引き起こし ているのか突き止めようとする方法だ。もうひとつは病 気そのものには手を触れずに、人々に別の生き方を 示そうとする方法だ」[コックス

1979(1977)

154

「西洋の精神的危機は、宗教の輸入や個人の救済で は解決されないだろう。それは文明総体の危機であり、

その主な特徴のひとつは『答えは<どこかほかのとこ ろ>からくるはずだ』という信仰なのだ。この危機に対 抗できるのは、西洋が東洋の神話を捨て、自らの原点 に立ち戻るときだけなのだ」 [コックス

1979(1977)

235

(13)

宗教人類学の現在

神格から人格(自己)へ/崇拝儀礼の変容

エミール・デュルケム

「人間が共同で愛し、尊敬できるものは、人間自 身を除いては何も残っていない。

……

人間は人 間に対して神になったのであり、おのれを欺くこ となしに別の神をつくることはもはやできないの である。われわれ各人が、何ほどか人類を具現 している限りで、個人の意識はその中に神聖な 何ものかを蔵している。個人の意識は聖化され、

他者に対して不可侵とする特性もまた付与され るのである」

[

デュルケム

1983

1970

)、大村

1985

8

より

]

アーウィン・ゴッフマン

「デュルケムは、個人のパーソナリティが集合 的なマナ

[

超自然的力

]

をもっていると述べ、

(あとの章では)集合的な表象に向けて行わ れる儀礼がときには、個人にむけて行われる と述べたわけだが、その問題をかれら

[

社会 学の研究者

]

は見逃したのだ。

[

ゴッフマン

2002

1967

):

54]

「この章でわたしが論じてきたのは、未開の原 始宗教にかかわるデュルケムやその他の人 の考え方を、敬意表現と品行という概念に翻 案することができること、であった。ということ は、世俗生活はわたしたちが思う以上に宗 教に関係があることになる。ほとんどの神々 は用済みになっているけれど、人間自身が おろそかにできぬ神として現に存在している」

[

ゴッフマン

2002

1967

):

96]

(14)

観察分析の方法:記号論

[

浅田

1983

;吉見

1992b

;能登路

1996]

(15)

19 世紀パサージュ(遊歩街)から百貨店へ

[

ベンヤミン

2003

1928-40

);ド・セルトー

1987

1980

]

人格(自己)崇拝の神殿としての百貨店へ

[鹿島1991]

(16)

人格(自己)崇拝の「経典」としての雑誌とモデル(理想)

[

ヴァン・ジュネップ

1977

1909

]

妊娠・

出産

誕生・

幼年期

婚約・

結婚

葬式

• 雑誌

(生)『たまごクラブ』『ひよこクラ ブ』

(小前)『小学1年生』、『2年生』、

『3年生』、『4年生』

(小後)『りぼん』 『マーガレット』

『なかよし』/『ジャンプ』『マガ

ジン』『サンデー』『チャンピオ ン』

(中)『花とゆめ』『

Nonno

(高)『

17

』『ぶ

~

け』/『

Men’s Nonno』『Junon

(大)『

JJ

』『

Cancan

』『

With

』『

More

/『ヤングジャンプ』『ヤングマ

ガジン』『スピリッツ』

(前)『ゼクシィ』『メロン』

(後)『女性自身』『ヴァンサンカ

ン』『婦人公論』『和楽』/『モー

ニング』『プレイボーイ』『ポス ト』『SAPIO

(17)

岩田屋の秩序

岩田屋全階 岩田屋1階

生理の極

理想の極

投資の序列

(18)

店舗:視覚の三角形

• 店構え

密/開放性

疎/閉鎖性

黒 ⇔ 白

• 店員の服装

斑/中間色

↕ 単色

黒 ⇔ 白

(19)

聴覚の三角形

• 店内音楽

大音/小店舗

小音/大店舗

異国系 ⇔ 癒し系

• 掛け声

頭 ⇔ 尾

大声/長引

小声/短

(20)

嗅覚・触覚の三角形

• 香りの構造

生のもの

加工したもの

濾過 ⇔ 火にかけた

• 触覚の構造

薄い・可動

厚い・不動

大理石・絨毯⇔植物・木材

(21)

接客:人格(自己)崇拝儀礼の最大化

お客さま

嗅覚 視覚

触覚

聴覚

(22)

消費社会の神話と構造

欲望とモノの幸福

「今日必要とされており、また実際かけがえの ない個人とは、消費者としての個人にほかな らない」

[

ボードリヤール

1995

1970

):

105]

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

ということが理解 できるだろう」

[

ボードリヤール

1995

1970

):

95]

「消費的人間は自分自身を享受を義務づけら れた存在として、享受と満足の企てとして見 なすのである。すなわち、何としてでも幸福で あろうとし、熱中しやすく、おもねたりおもねら れたり、誘惑したり誘惑されたり、分け前にあ ずかろうとしたり、幸福に満ちて力動的な、そ うした存在としてみなしているのだ」

[

ボードリ ヤール

1995

1970

):

99]

• 市民宗教

ベラーは、一九六六年の論文「アメリカの市民 宗教」(河合秀和訳『社会変革と宗教倫理』未 来社、一九七三年に所収)において、アメリカ の大統領選職には、本質的に宗教的な次元が 内在していることを解明した。ベラーがアメリカ の市民宗教と名づけたアメリカ政治の宗教的 次元は、ベラーによると、アメリカの建国におけ る出エジプトおよび南北戦争による死と復活の パラダイムの神話化を果たし、大統領の就任 演説などの形式による儀礼的表現をそなえて いるという。そして、ベラーは、アメリカの市民 宗教を国民的自己礼賛の形式としてではなく、

国民を超越的な倫理基準に従属させるもの、

そしてその観点から国民を裁定する基準を与

えるものとして識別した[阿部

1989

:5]

etc.etc

(23)

参照文献

浅田彰19841983)「東京ディズニーランドに行ったこと」、『別冊国文学文化記号論AZ』:116⁻123 阿部美哉1989『政教分離―日本とアメリカにみる宗教の政治性』サイマル出版会

アンダーソン、ウォルターW.19981983)『エスリンとアメリカの覚醒 人間の可能性への挑戦』伊藤博訳 誠信書房 ヴァン・ジュネップ、アーノルド19771909)『通過儀礼』秋山さと子・彌永信美訳 思索社

エリアーデ、ミルチャ1988(1957)『聖と俗 宗教的なるものの本質について』風間敏夫訳 法政大学出版局 鹿島茂1991『デパートを発明した夫婦』講談社現代新書

コックス、ハーヴェイ19671966)『世俗都市 神学的展望における世俗化と都市化』塩月賢太郎訳 新教出版社 ゴッフマン、アーウィン20021967)『儀礼としての相互行為』浅野敏夫訳 法政大学出版局

塩沢実信2002『定本 ベストセラーの昭和史』

関本照夫・船曳建夫編1994『国民文化が生まれる時:アジア・太平洋の現代とその伝統』リブロポート

竹沢尚一郎2006「『聖なるもの』の系譜学デュルケーム学派からエリアーデへ」、竹沢尚一郎編『宗教とモダニティ』世 界思想社:49-104

デュルケム、エミール19831970)『デュルケーム宗教社会学論集』小関藤一郎訳 行路社 ド・セルトー、ミッシェル19871980)『日常的実践のポイエティーク』山田登世子訳 国文社 ベンヤミン、ワルター20031928-40)『パサージュ論』今村仁司・三島憲一訳 岩波現代文庫

ボードリヤール、ジャン19951970)『消費社会の神話と構造』今村仁司&塚原史訳 紀伊国屋書店 能登路雅子1996「ディズニーランドの巡礼観光」、山下晋司編『観光人類学』新曜社:93⁻102

吉見俊哉1992b「シュミラークルの楽園」、多木浩二・内田隆三編『零の修辞学』リブロポート:79⁻136

参照

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