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ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 138-158)

浄音上人全集刊行会編 浄 上 人 全

西 山 西 谷 流 祖

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浄音上人の著述を集大成した︑浄土教学研究のための必携必読の書︒

音 小

川 一 乗 著 賞

紅 針 容 如 来 蔵 仏 性 の 研 究

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焚文『無量寿経』におけるー,この問題

の理解が,これらの問題に対する重要なキー・ポイントであることを指摘して おくにとどめる。

註(敬称は省略する〉

(1)  buddh坊 と bhagavantal;tは,党文では,「buddhabhagavanta与…」と, 3回 とも重ねてあらわされているものであるが,ここでは分けた。

(2)藤堂明保『漢字語源辞典j97頁。

(3)  以上,称名については,拙論「党文『無量寿経』における諸仏と衆生の呼応(上〉

一特に称名と開名に関して一」(『同朋仏教J第5号所収〉参照。

(4)  以上,閲名については,上記の拙論の「(中〉」(『向胡仏教』第6・7合併号所収〉

参照o

(5)香川孝雄「称名思想、の形成」(『印度学仏教学研究J第11巻・第l号) 46頁下段。

(6)藤田宏達『原始浄土思想、の研究』 549頁,註同。

(7)  The Kyogyoshinsho, translated by Daisetz Teitaro Suzuki, Shinshii Otaniha

Kyoto,  1973, p. 276.  {8)  向上, p.60.  (9)  向上, p.125. 

{1Q  中村元『東西文化の交流』(『選集』第9巻) 161頁, 藤田宏達,前掲書, 546

547頁参照0

(11)  荻原雲来『荻原雲来文集.112790

{1争藤田宏達,前掲書, 545頁参照。

紳坪井俊映『改訂増補浄土三部経概説』 88頁に,十念の念の語義として, 「念と

は党語 Smrtiの訳で,憶とも訳されている。」というのは,正しくない。

凶津田左右吉『シナ仏教の研究』所収「念仏と称名」参照。

帥 「願成就文焚漢対弁」(『真宗全書』第665頁参照。再版,昭和496月)。

M 香月院深励『仏説無量寿経講義』(『仏教大系浄土三部経第二』 1167頁, 1223頁参

照。

(49.  6. 20

18 

党文『無量寿経Jにおけるー,二の問題 を,より適切に表現するにふさわしい語であると思われる。

なお,これも既に荻原博士が述べていられるのであるが,この一念の念(citta) 

は,念仏の念(「随念」((sam)幽 anusm:rC憶念する〉→(sam‑)anusmarati; 

anusm:rti)と「作意J(manasi−干/k:r乙思念する〕→manasikaroti; manasikara〕)

とは異なる語である。

『大経』第十八願の「十念J, その成就文の「一念」の念と,三輩段に見ら

れる念仏をあらわす「一向専念無量寿仏」の念は,サンスクりットでは異なる 語であるが,ツナ訳ではどちらも「念」という語によってあらわされているの

である。異なる語であるにもかかわらず,どちらも「念Jという語であるとこ

ろに,「諸仏の称名」の称と[一向専念」のi舎が, ツナにおいて結びつけられ

(14) 

ることになり,称名念仏が唱導せられる限日の一つになるのであるが,少なく

とも究文『無量寿経』によってあらわされるインド浄土思想においては, 「諸

仏が〔buddha恥称讃する(parikirta yante)アミターノミ〔無量光)如来の名号を

(namadheyam〕,衆生たちが:〔sattval).)聞き(訂1̲1vanti),lことし、一念(ekacittaと

いうきわめて短い時間,ーたびの心)の発起でも,信心を(prasadasahagata:th

cittam)発起するならば,誰れでも(sarve)パ現生において)無上なる正等覚よ

り退転しない状態に安住する(sati::ithante).。

J C

『大経』のいわゆる第十七・

十八願成就文に相応する党文の取意)としづ潮流と,[衆生たちが(sattval).)ア

ミターパ如来を繰り返し形相について(akarato)念じ(manasikari (:lyanti),多

数・無量の善根を植え,菩提に心(citta)を廻向し,極楽に生まれたいと願うで

あろうならば,かのアミターパ如来は,かれらの臨終の時が到来したときに,

多くの比丘集団(bhikugaa)によってとりまかれ,恭敬されて,(その前

に)立つであろう。それから, かれら衆生たちはかの世尊を見て,澄浄な心

( prasannaci tta)となり,(死して)極楽に生まれるであろう。」(『大経』三輩

段の上輩に相応する党文の取意)としづ潮流とは,真宗教学において,例えば 香月院深励師が前者を「念仏往生」の中に,後者を「諸行往生」の中に配当し ているように,説意の中心が異なる二潮流であるように思われるが,この事に ついては,他日,稿をあらためて発表することとする。ここでは,一念なる語 17 

党文『無量寿経』におけるー,二の問題

引文個所から窺っても, ekacittaの方であることが判る。

さて,この ekacitta(一念〕 としづ語は,党文『無量寿経』の第十九願中

〔p.14, l.  6)の,

・・・・,  antaso dasabhis cittotpadaparivartai];i,‑‑

下輩段相応個所中(p.43, l. 5)の,

.... dasacittotpada ...... 

とある da匂citta(十念〕という語とともに,唐の時代から今日にし、たるまで,

さまさwまな問題を提起してきたのであるが,現存の寛文『無量寿経」そのもの

だけによるならば, やはりかつて荻原博士が「十念の研究JC特にその所論中

の「参,正しく十念を弁ず」(『文集』 pp.279‑281の所説のみに限る)におい

て「cittaの念は甚だ短時を詮す。……(中略)……是の如く党漢ともに念を以

かんがえ

て甚短時の意義を詮はさしむるは,蓋しーの念あれば必ず若干の時を伴ふ。

故に念より時間を分離すべからず。本来の字に短時の義あるに非ざれども,此 の不可分離の点より斯く念を以て利那を詮はすことあるなり。故に質多の念に は,往々にして甚短時の概念を伴なふものと知るべし。…・・(中略)…ーと十 とは計数の基と云ふべし。故に小数の極を其の単位にて示し,十若しくはーと 言ひしものなるべし。此の外に何等探き意味あるべからず。」と述べていられ

る見解が今でも支持せられるであろう。

この荻原博士の所説で特に注意せられるのは, 1念を以て利那を詮はすjと

述べられている点である。単なる時間であれば, ekak和平aC一利那)なる語で

足りるであろうが,あえてekacitta(一念または一心)なる語をもって,甚短

時をあらわしてある所にζそ,この語のもつ重要なる意義があるのである。

故に英訳『教行信証』グロッサリィ230の一念のサンスグリットはeka‑kal).a

ではなく, eka‑cittaとするほうが, 鈴木博士の解説及びその補足の解説の意

16 

党文『無量寿経Jにおけるー,この問題

この「一念」なる語は,英訳『教行信証J本文中においては,先づ「行巻」

の「行一念釈」に見られ,行の一念は onethought of practice",信の一念は

one thought of faith,,と訳され,この行の一念の onethought of practice

 

の onethoughtの右肩の所に230と付され〔すなわち one thought280  of 

practice,,とある〕,グロッサリィで取りあげられ,以下一念という語に対して

は,例えば,「信末巻」の最初の所に見える「信一念釈」にも,「 one thought" 

is  the  shortest possible moment・・・H・−」というように訳されている。

この一念が,行一念釈の場合には,『大経』流通分の, いわゆる弥勅附属の 文のはじめの一念に,信一念釈の場合には,第十八願成就文の一念に根拠をお も、ているものであることは,それぞれの経文引証によって明らかであろう。

そこで,『大経』弥勅附属の文と第十八願成就文に相応する究文を見てみる

と,マックス ミュラー・南条本も,大谷本も,足利本もすべて, ekacittaと

ある。

所で究文『無量寿経』には, ekacittaなる語は,

antasa 伽 仰ka宅 凶vena(p. 11, l.  16)‑ 於一念頃(関今I) antasa伽 ittotpadamapy (p. 42, l. 6)‑ 乃至一念(開会

s )

antasa ekaci 

antasa 伽 ittaprasadamapi〔p.62, l.  21)・・・乃至一念(間合

) I

ekacittotpadam api vipratisaro na kartavyal). (p. 63, l. 2) …  

....・H・−−(シナ訳相応個所なし〕

の5つの個所にあり, ekak和平aなる語も,

ek仰 仰vyatihare (p.肌 l.21, p.瓜 l.15

}一発意頃(;吉芦 2 )

と売文第四十一,四十四願の2つの個所, γナ訳『大経』第四十二願の「住定

供仏の願」に見られるが,『教行信証』にあらわされている一念は,『大経』の 15 

焚文『無量寿経』におけるー,二の問題 れている状態である。

従ってイソド学・仏教学の分野において称名の問題を再考するためには,死 文『無量寿経』では,し、かなる場合でも,称名の主語は諸仏または釈尊である ことを確認したいのである。

2.  一念について

〈最近,東本願寺より出版された英訳『教行信証』のグロッサりィには,一

念の琵語を, eka北宇al).aをもってあてであるが, eka‑cittaの方がより適当す

るのではなかろうか。〉

真宗大谷派から,昨年(昭和48年〕 6月,親驚聖人御誕生八百年,立教開宗

七百五十年の記念事業のーっとして,故鈴木大拙博士を中心に翻訳がすすめら れてきた英訳『教行信証』が出版せられた。

本書をざっと一見しただけでも,この出版がもっ意義の大きいことが充分感 ぜられるのであるが,今後の真宗学・仏教学へもいろいろ示唆を与えているよ うに思われ,それだけにそれぞれの分野からの本書への意見もこれから出され ることであろう。

所で本書には, 203頁から329頁にわたって,これは本書全体の約4分のlと

しづ量であるが,『教行信証』の中の重要な語句442が取り出され,詳しい解説

が付せられたグロッサりィが,一段と光彩を放っている。

その230番目には, onethought ; one moment of thoughtとして,[一念J

が取りあげられていて,鈴木博士の解説と補足の解説が見られるのであるが,

楚語には eka−同al).aがあてられ,鈴木博士の解説の冒頭の所にも,

One Thought" is  a momentous term in the philosophy of Shin and  Jodo.  Its  Sanskrit original is eka‑k$a meaning one instant" or 

one moment .

とある。

14 

党文『無量寿経』におけるー,二の問題

aivarttikatayarnmtihante'nuttarayaJ::i  samyaksarhbodheJ::i

※ 藤田宏達『党交無量寿経試訳』所収補正表による。

・京※同上。

(Sukhavativyuhaく足利本>・ 4P 1, l. 25‑p. 42, l.  8〕

〔また,実に,アーナンダよ,十方の各々の方角にあるガンジス河の砂(の 数)に等しい(ほどの多くの数の)仏国土において,ガンジス河の砂(の数)

に等しい(ほどの多くの数の)諸仏(buddhal:i)諸世尊は,かの世尊アミタ

三三よ型車 z t l ̲

EE̲?t(:竺予号室〔tasyabhagavato mitabhasya tathagatasya 

namadhcyam)亦讃し(parikirta yante),讃歎を説き,名声を説き明かし功 徳を称揚する。

それは何故であるか。

およそし、かなる衆生たち(sattval̲l)であっても,かの世尊アミターパ如来

の名号を(tasya bhaga vato mitabhasya t2̲thagatasya namadheyam)聞き

(訂平Vnti),聞きおわって, たとい一念(ekacitねというきわめて短い時

間, ーたびの心)の発起でも,深い志向によって,浄信にともなわれた心を

発起するならば,かれらすべては,無上なる正等覚より退転しない状態に安

住するからである。7

ここでは,「それは何故であるか。Jという言葉を中間にはさんで,諸仏の称

名と衆生の聞名が対応していることになっている。称名は聞名との対応におい て,はじめて明瞭なる姿をあらわしてくるのである。

所で,従来,イソド学・仏教学における称名についての諸学者の考え方の根 底には,すべて称名の称は,口称の称,すなわち人間の行為として阿弥陀仏の 名号を称えることという了解があって研究がすすめられてきたので,この「諸 仏の称名」ということが少しも注意されず,極端な意見によれば,「無量寿経 をはじめとして党語原典の存在する経典では決定的な「称名」の原語は見当

らず, …・・…Jとする説や, 『金光明経』の党文を引用して, 名号を口称する

(namadheyam uccarayitavyam)例もあるから, i称名の原語がサンスグリ

ット経典に見当らないとするのは, なお検討を要するであろうりなどといわ

13 

ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 138-158)

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