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ドキュメント内 真宗研究19号全 (ページ 110-134)

閉 ま

︵ 竜 谷 大 学

︶ 維新以降の日本の近代化が守旧的封建思想を濃厚に残存せしめながら展開したことはすでに知られているとうりで

あり︑明治前半期の近代化過程を代表する民権運動が土族民権・豪農民権・労農民権運動等多岐にわたる立場のちが いをみせるのも右のことにもとづくo

とこ ろで 真宗 教団

とりわけ西本願寺教団においては議会制の採用が早期に行

なわれ︑帝国議会の開設に先立つことおよそ十年の明治十五年に第一回﹁集会﹂が聞かれた︒しかしながら時期の早 遅のみをもってその開明性を論じることは至当ではなく︑少なくとも議会設立を最大スローガンとして展開された日 本の民権運動の組上に位置づけた検討を必要とするであろう︒もともと本稿ではこのことについて論じてみたいと思 ったが︑紙数の制限があるので︑

﹁集会﹂設立の前譜を考察することにした︒すなわち西本願寺教団においては︑ど

のような状況歴史的条件をふまえて議会設置の要求が生じるのか︑ということを明らかにしてみたいと思うので

ある

oこのような観点から考察するに当たり︑いま少し論点をしぼっておくならば︑一集会﹂設立に先立つ明治十年

前後の教団において生じた主要事件として﹁島地黙雷の異安心問題一と﹁西本願寺寺務所の東移事件﹂がみられる︒も っとも両者は相関連したものであるが︑その性格は一集会﹂設立の前提条件として看過できない意味をもっていたよ うに思うのである︒したがって右の両事件の性格を分析検討することに中心をおいて考察をすすめて行きたいと思う︒

すでに知られているように西本願寺の宗政は︑明治維新以降︑維新政権を背景とした防長藩出身の僧侶によって運 営されていた︒島地の異安心問題が表面化した明治十一年ころの宗政も︑総長たる執綱には宗主の実弟日野沢依が就 任していたとはいうものの︑中植機関である執事クラスの地位は防長派僧侶によって占められ実権は彼らにあった︒

すなわち長州の島地黙雷・大洲鉄然・香川葎晃︑防州の赤松連城︑それに早くから本願寺寺務の改正を唱えて防長勢

① 

に参画した摂州の利井明朗らであり︑なかでも彼らのうちで巨頭と目されていたのが島地と大洲であった︒そうして

② 

彼らの宗務体制は︑後述する東移事件をひき起した者たちの批判書にみえるように﹁事務の長を薦晶子する是れ亦公平 ならざる事︒其の故は執事の長は香川原晃︑議事の長は大洲鉄然︑教務の長は赤松連城︑拝命の長は島地黙雷なれば︑

黙雷其の位是れ諸務の総長なるべし︒若し我が本山防州一国の本山ならば右にても可なり︒然るに本山は然らず︑宜 しく各県各国より精選して登庸せざるべからざるに之を為さんとせず﹂という有様であり︑防長僧侶による藩閥政権 を確立させていたのである︒島地異安心問題はこの政権に攻撃を開始する発火点としての意味をもっと考えられるが︑

次下その考察を行おう︒

島地黙雷が説いている教説が異安心であるという批判は︑内々には明治九年に生じていたが︑伎が一主議﹂という

@ 教団行政の章一職に在うたため︑公然たる批判はさし控えられていたといわれるoしかし十一年には明如宗主によって 真宗 教団 近代 化の 一考 察

0 五

真宗 教団 近代 化の 一考 察

O六 公的に採り上げられるところとなった︒島地の呉安心とは︑授が念仏往生義を説くに当たって﹁能称立信﹂を根本義 としているというにある︒

すなわち﹁能称立信一ということは︑

称名に主体を置いた義であり︑

真宗本来の

﹁唯

信 正因−の義に反し︑ひいては一信心正因︑称名報恩﹂の伝統的宗義を混乱に陥しいれるものであるという批判であっ た噌とくに島地は明治八年以来東京に白蓮社を起こし貴紳の人々に対して活発な伝道を行なっていたので︑その弊害

⑤ 

はすこぶる多大であるという批難も受けた︒そうしてついに八月宗主より﹁改心実行ノ相ヒ見ラレ侯マテ︑主議之レ

⑤ 

ヲ免ッ︑東京布教ソノ義及ハス一という行政・伝道両面にわたる活動停止処分を宣告された︒

本来宗教教団においては異義異安心は重罪であって僧籍剥奪処分を受けてもいたし方ないものであるけれども︑こ のたびの島地に対する異安心批判・処分には不合理な点が多々あった︒それは︑島地の説いた﹁能称立信﹂というこ とは︑すでに幕末の宗学者南渓も説いたところであったが︑その時はごく一部の宗学者の間で異論があった程度で行

⑦ 

政処分をうけるような批判は生じなかったこと︑そうして島地がいち早く﹃信因称報義﹄を著わして﹁能称立信﹂の 義解を行ない︑決して伝統的﹁信心正困﹂に違反する意味で用いていないことを弁明したにかかわらず︑全く聞き容 れられなかったこ何︑また呉義としての判定が暖昧で︑専門の宗学者の意見が聞かれなかったのみならず︑処分理由

① が宗義を疑惑せしめたためとされたこと︑などであるo右のような事情であるから島地の処分問題は︑はじめから異

義にかこつけた政争の色彩が濃厚であった︒

島地の処分が宣言されるとともに西本願寺宗政内部において大波澗が生じた︒維新以来︑

西本願寺宗政を独占して

きた防長藩出身の僧侶役人が結束して反対の行動にでたのである︒すなわち島地とともに宗政を牛耳っている利井・

香川・赤松・大洲の四名は︑島地を詮義した結果として︑彼の教説が宗義に違反しないこと︑それゆえに島地の保証人

⑮ 

になることを申しのべた連署状を七月二十八日に明如宗主へ提出したのである︒また翌々九月には︑利井・赤松・大

ヘ 切

洲の連名にて﹁島地黙雷処分之儀エ付伺﹂の一書を宗主宛に差出した︒

この伺書はきわめて強圧的な姿勢の五項目にわたる質問であるが︑その要点はおよそつぎの如くである︒

一︑島地の異義問也は宗主の独断によらず︑勧学職の僧侶が反復討議し亡正邪を明確にしなければならないこと︑

若しそのうえで異義との判定があるならば︑彼の義解を保証したわれわれも同時に処分されること︒

二︑島地の説はキリスト教が蔓延しつつある東京において︑真宗伝道の効果をあげんとして唱えたものであり︑そ

の結果多数の著名人を帰依せしめているが︑今これを邪義と判定して布教を中止させるならば教団としても好ましく

ない状態にたち至るであろうこと︒

一三島地のこれまでに果した功績は広く人の知るところであるから︑﹁主議﹂を追放せしめるならば必ず世上に紛

義が生ずるであろうこと︒若しどうしても追放しなければならないのであれば︑島地の方から辞表を呈出したかたち

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0

﹁主議﹂は重要なる役職であるにかかわらず議事局へ向の諮間もなく決定したことは︑立憲政体が叫ばれてい

る今日︑全く不合理であること︒

五︑島地の義解の正邪判定に関し︑勧学職などを差おいて︑近日僧籍に復帰した北畠道竜の意見を聞いたことは失

駄で

ある

ヨ﹂

と︒

以上の五項目に関して宗主の見解を求めるものであったが︑それは西本願寺宗政における防長僧侶の実力と自信の

⑫ 程を示すものであったo宗主はこれに対して︑回答の書面を下附したが︑その大意は︑正意の宗義を根本にしてこそ

教団の真の発展があること︑島地の義解が宗義に違反するかどうかは別として現に宗義を街惑しているのであるから︑

この事実にもとづいて独断で処分したこと︑今後もこのような場合は独断で処分するであろうこと︑北畠道竜の意見

真宗 教団 迂代 化の 一考 察

真宗 教団 近代 化の 一考 察

0 八

を求めたのは彼がもと島地の主宰する白蓮社と関係をもっていたので彼を通じて詳細なる事実を知ろうとしたためで

あること︑などをいい︑

いささかの後退の気配をもみせなかった︒このように表向きは宗義問題として紛争がつづい たが︑その根底が政争であることはすでに明白であるoとくにこの件を契機に明如宗主が北畠道竜を採用したことは

防長僧侶に強い刺戟を与えた︒

北畠は紀州和歌山藩の本願寺派末寺の出身であったが︑若年より軍事に秀で︑ドイツ式兵法を学び︑幕末の長州征

伐に際しては紀州藩兵を指揮して戦った業績をもっており︑防長僧侶とは仇敵の間柄でもあった︒また西南戦争に当 たっては元老院幹事陸奥宗光のものに属して西郷軍と戦ったが︑宗光の西郷軍内通事件に連座して軍事関係から退い

⑬ た︒北畠は本願寺役人石原僧宣や政府要人柳原前光らの紹介によって明治九年ころから明如宗主と交際をもつように なったが︑防長僧侶と明如宗主の対立が表面化した十一年八月には行事局用係なる本願寺役人として採用され旬︒こ の頃より北畠は明如宗主の後楯となって防長僧侶の宗義異安心を論じていたが︑その批判は更に拡大されて﹁無須弥 説﹂を唱えている大洲・赤松・利井らも異義者であるという主張を展開して行つ旬︒

他方︑防長僧侶側では北畠が明如宗主に働きかけて宗政を混乱せしめていると考え︑ついに八月二十八日︑京都府

知事槙村を動かい山︑北畠の本山役人採用を不可とする旨の知事命令を出させるにいたった︒北畠の採用を認めない理

⑮ 一先般国事−一関渉之嫌疑ヲ以抱留セラレ候者−一テ︑放免後幾日ヲ経サル﹂ということ︑すなわち北畠が西南戦

由は

︑ 争のとき生じた内通事件に連座したことを楯にとったものであった︒当時︑府県知事は管内の宗教団体を取締る権限 を有していたので︑この強権を発動せしめて明如宗主の孤立化をはかったものといえる

cこのようにして防長僧侶と

明如宗主の対立抗争は次第に泥沼化して行くこととなった︒

島地の異安心問題をめぐる対立抗争は︑

およそ以上のとうりであるが︑ここで注意しなければならないのは︑明治

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