ヒル フ ァデ ィ ン グ と研 究
倉 田 稔
も く じ
は じめ に 1
1.ゴ ッ トシ ャ ル ビ
2.『 金 融 資 本 論 の 成 立 』 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ』
3.日 本 の 研 究 書
4.最 近 の 海 外 の 代 表 的研 究 5.そ の 他
6.ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 著 作 の 日本 語 訳 2
7.ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 少 年 時 代 8.ド イ ツ で
9.再 び ベ ル リ ン で 10.ナ チ ズ ム と の 関 連 で
ドイ ツ の 年 誌 ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 見 解 彼 の 死 後 の 事 態 11.結 論 的 評 注
は じ め に
前 半 を ル ー ド ル フ.・ ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の 諸 研 究 に つ い て,後 半 を 彼 に つ い て, 少 し 語 る 。
〔1〕
1
1、 ゴ ッ トシ ャ ル ヒ
戦 後 あ る い は 現 在 の ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 研 究 を,世 界 で,従 っ て 日 本 で も,高 い 水 準 に 上 げ た 初 め は,ゴ ッ ト シ ャ ル ビ の 研 究 で あ る 。WilfriedGottschalch, StrukturverdnderungenderGesellschaftundPolitischesHandelninder
LehrevonRadolfHilferding,Berlinl962.(邦 訳 『ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』 ミ ネ ル ヴ ァ書 房)。 私 の 古 い 書 評 を 掲 げ る1)。
ゴ ッ トシ ャ ル ヒ 『ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ』(ミ ネ ル ヴ ァ書 房1973年) 全 生 涯 に わ た る学 説 の 検 討
理 論 的創 作 活 動 が 三 段 階 に 区 分 さ れ
本 書 は,1962年 に 西 ベ ル リ ンで 出 版 さ れ た ゴ ッ トシ ャ ル ビ の ドク トル 論 文
『ル ー ドル フ ・ヒル フ ァデ ィ ン グ の 学 説 にお け る社 会 と政 治 行 動 の構 造 変 化 』 の 邦 訳 で あ る。 原 書 刊 行 後,日 本 で は 今 野 登 氏 の 書 評 が 出 た 。 本 書 の 意 義 ・内 容 につ い て は,「 訳 者 あ とが き」 に 詳 し く,適 切 で あ る。
著 者 は,マ ル ク ス,エ ンゲ ル ス の 基 本 的 見 解 を よ くふ ま え,か つ ヒル フ ァデ ィ ン グ を教 条 的 な立 場 か らで は な く と り上 げ て い る 。 こ の 点 で 氏 は成 功 した と言
え る 。 、
著 者 は,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の全 生 涯 に わ た っ て 彼 の学 説 を検 討 して い る 。シ ュ タ イ ンの ご く短 い伝 記2)を 除 け ば,ヒ ル フ ァデ ィ ング の 全 生 涯 に わ た り検 討 し た もの は な い の で,こ の 点 で,ゴ ッ トシ ャ ル ビの 『ヒ ル フ ァデ ィ ン グ』 は世 界 初 め て の包 括 的 ・本 格 的 研 究 とい っ て よい 。 事 実,ヨ ー ロ ッパ で は,ヒ ル フ ァ
(1)初 め 私 は,『 日本 読 書 新 聞』1973(昭 和48)年11月12日(月),1732号 で 書 評 し, そ の 後,加 筆 し,『 社 会 経 済 思 想 史 文 献(2)』(杉 山書 店)に 入 れ た が,売 り切 れ た の で,再 録 す る 。
(2)シ ュ タ イ ン 『ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 伝 』 成 文 社 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ング と研 究 3 デ ィ ン グ の 研 究 と い え ば,「 ゴ ッ トシ ャ ル ビが 書 き ま した ね」 と言 っ て い る の で あ る。
氏 は,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ を三 つ の 時 期 に 区 分 し,第 一 次 世 界 戦 争 ま で(二 ・ 三 章),ワ イ マ ー ル 共 和 国(四 ・五 章),亡 命(六 ・七 章)と して い る。 この 第 一 期 か ら第 二 期 へ,第 二 期 か ら第 三 期 へ 移 行 す る と,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 思 想
と行 動 が構 造 変 化 す る。 本 書 の テ ー マ は そ れ を示 して い る。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グの 理 論 的 創 作 活 動 は,三 段 階 に分 け られ る。第 一段 階 は 「金 融 資 本 」 の 分 析 で あ っ て,そ れ を 資 本 主 義 の最 終 局 面 と見 た 。 第 二段 階 は 「組 織 資 本 主 義 」 の研 究 で あ っ て,資 本 主 義 の 構 造 改 革 が 主 張 され,社 会 主 義 は 民 主 的 議 会 主 義 に 基 づ い て 達 成 で き る と期 待 した3)。 第 三 段 階 で は,ナ チ ズ ム の 支 配 の下 で つ きつ け られ た 「国 家 の 執 行 権 の も とへ の経 済 の 服 従 」 の 問 題 を 取 り扱 っ た 。 す な わ ち,政 治 が 経 済 を 規 定 す る こ とで あ り,著 者 は そ れ を,マ ル ク ス 主 義 歴 史 観 の修 正 と呼 ん で い る 。こ の 時 期 の 叙 述 は 興 味 深 い もの で あ って, 著 者 も力 を入 れ て い る よ うで あ る。
日本 で の ヒ ル フ ァデ ィ ング研 究 は,ほ と ん ど第 一 期 に 限 られ,と くに 『金 融 資 本 論 』 を め ぐっ て,そ して 少 い 例 外 を 除 け ば,『 金 融 資 本 論 』 の 余 り重 要 で な い 側 面 の研 究 に集 中 して い る。 こ の 意 味 で 本 書 は,未 開拓 の 分 野 に研 究 の 光 を投 げ 掛 け た の で あ る 。
さて,本 書 の 弱 点 を い くつ か 示 せ ば,ま ず,資 料 上 の 制 約 で あ る。 第 一 に, 当 時 の 非 合 法 資 料,す な わ ち亡 命 ドイ ツ社 会 民 主 党 機 関 紙 が 全 く利 用 され て い な い 。 第 二 に,国 際 的 未 発 表 資 料 が 利 用 され て い な い 。 筆 者 の ベ ル リ ンで の調 べ か ら得 る 印象 に よ る と,本 書 は ほ とん ど西 ベ ル リ ンの 資 料 を 中 心 に して い る と思 わ れ る。 伝 記 的事 実 に は,少 な くな い 誤 りが 散 見 さ れ る。 『金 融 資 本 論 』 な どの ヒ ル フ ァデ ィ ング の 諸 学 説 が 運 動 史 上 に 占 め る 位 置 ・意 義 につ い て,結 論 が 明 白で な い こ とが あ る。
本 書 の す ぐれ た 点 は,前 述 の 点 に加 え て,ド イ ツ労 働 運 動 史,す な わ ち 社 会
(3)こ の 期 待 は,第 二 期 に もあ っ た 。
民 主 党 史 にた い す る 把 握 が 正 確 で あ る こ と,社 会 史 的 ・思 想 史 的 背 景 の 叙 述 が, と くに 第 二 期 で す ぐれ,浩 翰 な既 発 表 研 究 文 献 を よ く利 用 して い る こ と,独 創 的 な 理 論 家 と し て の ヒ ル フ ァデ ィ ン グ像 を 実 証 的 に提 出 し よ う と して い る こ と,で あ ろ う。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は,1941年 に死 亡 した の で,歴 史 的 に 位 置 を確 定 す る の は, 初 期 ・中期 を除 け ば,そ う容 易 で は なか っ た 。 そ れ ゆ え に,初 め て の 本 格 的 全 体 像 が,死 後20年 を 経 て よ うや く今 提 出 さ れ た と い っ て よい 。
そ の 意 味 で,本 書 は,今 後 の研 究 の 一 里 塚 と な る。 ヒル フ ァデ ィ ン グ の研 究 者 は,第 二 期 ・第 三 期 の研 究 が 非 常 に 手 薄 で 遅 れ て い た こ と を痛 感 す る で あ ろ う。
ま た 第 三 期 に つ い て 言 え ば,本 書 も ほ と ん ど研 究 し て い な い ナ チ ズ ム とス ター リニ ズ ムの 諸 問 題 と,ヒ ル フ ァデ ィ ング の 思 想 ・学 説 の 関 係 な ど は,今 後 の研 究 と して は ほ とん ど未 開 拓 の分 野 で あ る し,現 代 史 の 問 題 点 か ら言 え ば 当 然 解 明 さ れ るべ き もの で あ ろ う。
追 記)ゴ ッ トシ ャ ル ビ教 授 は,1986年 に来 日 し た。 当 時 ア ム ス テ ル ダ ム 大 学 教 授 で あ る。ゴ教 授 と私 は,私 の研 究 室 で,こ の書 評 を見 な が ら話 し合 っ た。例 え ば,文 中 で,国 際 的 未 発 表 資 料 が 利 用 さ れ て い な い,の 所 で,「 こ れ は 何 を 意 味 す る か 」 と教 授 は 質 問 した 。 「例 え ば,ア ム ス テ ル ダ ム 社 会 史 国 際研 究 所 の 資 料 な ど」 と私 が 答 え る と,教 授 い わ く,「 あ の 時, お 金 が な か っ た 」。
ゴ ッ トシ ャ ル ビ教 授 に,「 な ぜ ヒル フ ァ デ ィ ン グ を研 究 テ ー マ に選 ん だ の で す か 」 と 聞 く と,「 ヒル フ ァデ ィ ン グ が 主 著 『金 融 資 本 論 』 一 冊 だ と思 っ た か らで す,と こ ろ が や っ て み た ら,と ん で もな い,大 変 だ っ た 。」
ヒル フ ァデ ィ ング と研 究5 2.『 金 融 資 本 論 の 成 立 』 『若 き ヒル フ ァデ ィ ン グ』
1975年 に私 も,『 金 融 資 本 論 の 成 立 』(青 木 書 店)を 出 した 。 こ れ につ い て, 保 住 敏 彦 氏 の 書 評 が,『 商 学 討 究 』26巻3号,1975年12月 に 出 た 。 私 も 「『金 融 資 本 論 の 成 立 』 補 遺 」(『人 文研 究 』51輯1976年3月)を 書 い た。 戸 原 四郎 氏
も書 評 して い る。
拙 書 『金 融 資 本 論 の 成 立 』 で の,ヒ ル フ ァデ ィ ン グの 手 紙 引 用 で の 誤 記 ・誤 植 。
ペ ー ジ,
42, 43, 43, 43, 45, 45, 46, 46, 46, 46, 47, 47, 47, 47, 47, 47,
47,
一丁8794119白クー1⊥
22‑23
3457223348891⊥‑⊥11⊥11⊥
誤 dieses
Herumbasseln Aufschlusse starendes 6konomische
Entwicklungzusammenhangt
Ausbeute englisch somit fest liebst.
halbweg blos
desDarstellung gr.widmet der warum polemische
正 .
diese Herumbasteln AufschlUsse st6rendes 6konomischen
Entwicklungzusammenhangt Ausbeuten
englische sowelt feste liebsten halbwegs klar derDarstellung gewidmet den worum polemischen
48, 48, 48, 49, 49, 106,
2ihres 3festgengelt 5Nachweichses 18bekommt 19ereinem 20Endebin
ihrer festgenagelt Nachwuchses bekannt anelnem Endebin
『金 融 資 本 論 の 成 立 』 の 執 筆 と前 後 し て ,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の前 半 生 の伝 記 を 私 は 書 い た 。 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』(丘 書 房1984年)で あ る 。 書 物 と し て の 出 版 は 遅 く な っ た 。
そ の 後 私 は,「 中 央 ヨ ー ロ ッパ 論 」(『 国 民 国 家 の 統 合 と 分 裂 』 北 樹 出 版)を 書 い た 。 こ れ を 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』 の 中 に 入 れ る 必 要 が あ る 。
そ の 後,黒 滝 正 昭 氏 の 書 評 が 出 た 。 「倉 田 稔 『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』」(『商 学 討 究 』36(1),1985年7月,p.103‑117)で あ る 。 な お そ れ に 続 い て,私 も 「『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』 補 遺 」(『商 学 討 究 』42巻4号,1992年)を 書 い た 。 拙 書 は,こ の 書 評 と補 遺 を 参 考 に し な い と 駄 目 で あ る 。
拙 書 の 欠 陥 は,1.「 カ フ ェ ・ッ ェ ン ト ラ ー ル 」 が な く な っ た と し た 私 の 誤 り(安 井),2.生 ま れ が シ ュ タ イ ン の 商 人 説 に 対 し て,私 が 否 定 し た が,部 分 的 に 正 し か っ た 。3。2つ の 学 生 社 会 主 義 同 盟 を 混 じ っ て 説 明 し(黒 滝 前 掲) た こ と,で あ る 。
3.日 本 の 研 究 書
中 田 常 男 『金 融 資 本 論 』 研 究
『金 融 資 本 論 』 そ の もの につ い て は ,中 田常男 の2冊 の大 著が 出 た。 『擬 制 資 本 論 の 理 論 的 展 開 一 ヒ ル フ ァデ ィ ング 『金 融 資 本 論 』 研 究 ① 』,『金 融 資 本 と独 占 の 理 論 ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 『金 融 資 本 論 』 研 究 ② 』(未 来 社)が
で た。 『金 融 資 本 論 』 の 本 文 以 上 に,分 量 が あ る ほ どの 研 究 で あ り,第3編 ま で の 研 究 は,本 書 を参 考 に し ない と,も う話 に な ら な い で あ ろ う。 だ が,本 書
ヒル フ ァデ ィン グ と研 究7
は,ヒ ル フ ァデ ィ ング 『金 融 資本 論 』 が絶 対 に正 しい とい う立 場 で 書 か れ て い る。 だ が 事 は そ う簡 単 な こ とで も な く
い わ け で もな い 。
ヒル フ ァ デ ィ ン グ理 論 が す べ て た だ し
上 条 勇 『ヒル フ ァデ ィン グ と現 代 資 本 主 義 』
上 条 勇 『ヒル フ ァデ ィ ン グ と現 代 資 本 主 義 』(梓 出版)は,立 派 な もの で あ る 。 中期 ヒル フ ァデ ィ ン グ の 思 想 と行 動 の 研 究 が,ほ ぼ こ れ で で きあ が っ た。
黒 滝 正 昭 『ル ー ドル フ ・ヒル フ ァー デ ィ ン グ の 理 論 的 遺 産 』
黒 滝 正 昭 『ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァー デ ィ ン グ の 理 論 的 遺 産 』(近 代 文 芸 社 1995年)が 出 た。 第2刷(1998年)が 新 しい 。 これ は ヒル フ ァデ ィ ン グ研 究 の 重 要 な 点 の い くつ か が しっ か り研 究 され て い る 。 私 も書 評 して い る の で,く り 返 さ な い 。 そ の批 評 の類 は 下 記 の通 り。
書 評 倉 田 稔 「黒 滝 正 昭 教 授 の 新 しい ヒル フ ァデ ィ ン グ研 究 」(東 北 大 学
『研 究 年 報 経 済 学 』 第57巻 第2号 。 通 巻 第200号)。
黒 滝 正 昭 「ヒ ル フ ァー デ ィ ン グの 遺 書 『歴 史 的 問 題 』 及 び ノ ー トの 意 義 につ い て 」(東 北 大 『研 究 年 報 経 済 学 』 第57巻 第3号) 書 評 金 田 ・柴 田 ・田 中 「黒 滝 正 昭 著 『ル ー ドル フ ・ヒル フ ァー デ ィ ング の
理 論 的 遺 産 』」(東北 大 『研 究 年 報 経 済 学 』第57巻 第3号) 書 評 倉 田 稔 「黒 滝 正 昭 『ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァー デ ィ ン グ の 理 論 的 遺
産』」(『社 会 思 想 史 研 究』20号 社 会 思 想 史 学 会1996年 9月)。
河 野 裕 康 『ヒル フ ァデ ィン グ 経 済 政 策 思 想 』
河 野 裕 康 『ヒ ル フ ァ デ ィ ング 経 済 政 策 思 想 』(法 政 大 学 出 版)が 出 て,新 発 見 の ヒ ル フ ァデ ィ ン グの 初 期 連 続 論 文 が 紹 介 さ れ た 。 した が っ て,そ れ を見 る 必 要 が あ る 。 これ に は,私 は書 評 を書 い た の で,繰 り返 さ な い 。 書 評 「河 野 裕
康 『ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 経 済 政 策 思 想 』」(『歴 史 学 研 究 』657号 。1994・4月)。
4.最 近 の 海 外 の 代 表 的 研 究
ス マ ル ダ ンWilliamSmaldoneは,RudolfHilferding.TheTragedyofXa
GermanSocialDemocrat.(NorthernlllinoisUniversityPressl998)を 出 版 し た 。 氏 の 名 の 発 音 は わ か ら な い が,ス マ ル ダ ン と 表 現 す る 。 こ れ は 翻 訳 に 値 す る 。
他 にF.PeterWagner,」?〃60ゲ 」田 旋7漉 〃9.HumanityPressNewJersey 1996.
VolkerWellhoener,GrossbankenundGrossindustrieimKaiserreich.Van‑
denhoeck&Ruprecht.Goettingen1989.本 書 は 前 半 が ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の 理 論 と 現 実 の 関 係 の 研 究 で,後 半 が 実 態 研 究 で あ る 。
Vademecum2ueinemKlassiker.1)erBe2iehungenzwischenlndustrieund Finangkapital.hrsg.BertramSchefold.KommentarbandzumFakusimile‑
Nachdruckder1910erschienenenErstausgabevonRudolfHilferdingDas
Finanzkapital.VerlagWirtschaftundFinanzenDuesserdorf2000.つ ま り 新 版 復 刻 初 版 『金 融 資 本 論 』 に 付 随 さ れ た 書 物 。Schefold,Streissler,Schmidt,
Neil,の4氏 の 論 文 の 入 っ た 書,で あ る 。
以 上4点 が あ る。
5.そ の 他
ヒル フ ァデ ィ ング の 後 期 の研 究 が,現 在 で は不 十 分 で あ る 。 そ の た め に,小 生 も以 下 の もの を書 き,ま た 資 料 の た め に,『 ヒル フ ァデ ィ ン グ ナ チ ス 経 済 構 造 分 析 』(新 評 論)を 出 した 。 また 論 文 と して,
「ル ー ドル フ ・ヒル フ ァデ ィ ン グ の経 済 理 論 と思 想 の 転 換 『金 融 資 本 論 』'
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と研 究 9 か ら 「ド イ ッ 経 済 批 判 」 ・ 「歴 史 的 問 題 」 へ 一 一 」in:『 東 京 経 大 学 会 誌 一 一 経 済 学 』207号 ,1998年 。
私 の 研 究 で は,論 文 「USPDと ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 外 伝,主 に1918年 ま で 」(『商 学 討 究 』48の1,1998年8月)
ノ ー ト 「ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ に つ い て の2点 」(『 商 学 討 究 』44の3,1994年1 月)が あ る 。
な お,個 別 研 究 で は な い が,ハ ワ ー ド と キ ン グ 『マ ル ク ス 経 済 学 の 歴 史 』 上, (ナ カ ニ シ ヤ 出 版1997年)の 第1部 第5章 で,『 金 融 資 本 論 』が 扱 わ れ て い る 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の ビ ブ リ オ グ ラ フ ィ ー に つ い て は,私 のHilferding.
SchriftenundBriefe(Bibliographie).in:InternationaleWissenschaftlicheKor‑
resPondenz.1974Sep.た だ し,追 加 と 過 ち を い つ か 書 く つ も りで あ る 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の ド イ ツ 語 著 作 集 は,
ColaStephan(Hg.),ZwischendenSttihlenodertiberdieUnvereinbarheitvon TheorieandPraxis.SchriftenRudolfHilferdings1904bis1940.Berlin Bonn1982
研 究 書
そ の他,猪 俣,野 田,保 住,安 井 編 書,ピ エ トラ ネ ラ訳 書,飯 田 編 書,シ ュ タ イ ン訳 書,な どが あ る。 新 し く,河 野 祐 康 「賠 償 問題 と ヒ ル フ ァデ ィ ング の 経 済 政 策 論 」(『一橋 大 学 社 会 科 学 古 典 資 料 セ ン ター 』2004年3月)が 出 た 。
6.ヒ ル フ ァデ ィ ン グの 著 作 の 日本 語 訳
『金 融 資 本 論 』 岩 波 文 庫,大 月 書 店 。
『ヒル フ ァデ ィ ン グ マ ル ク ス経 済 学 研 究 』 法 政 大 学 出 版 。
主 に 中 期(ば か りで は な く,後 期 も少 し入 っ て い る が,)ヒ ル フ ァ デ ィ ング の 代 表 作 は,上 条 さ ん と私 の 編 集 し た 『ヒ ル フ ァデ ィ ング 現 代 資 本 主 義 論 』(新 評 論)で 出 て い る の で,研 究 しや す くな っ た と思 う。 そ の 他,文 献 は 本 稿 で示
し て あ る 。
2
7.ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の 少 年 時 代
社 会 科 学 の 巨 人 で あ る(黒 滝)ル ー ドル フ ・ヒ ル フ ァデ ィ ング は,ウ ィー ン 生 ま れ だ が,祖 父 と父 の 出 身 は,今 の ロ シ ア,プ ロ デ ィで あ る。 当 時,ガ リチ ア,ハ プス ブ ル ク帝 国 で あ っ た1)。
父 が 商 人 で あ っ た とい う シ ュ タイ ンの 説 は,部 分 的 に は 正 しか っ た。 一 時, 父 は 商 人 だ っ た 。 た だ しサ ラ リー マ ンで あ っ た とす る 方 が,よ り正 しい。
こ の 家 族 は,ユ ダヤ 人 で あ っ た 。 ユ ダ ヤ 人 は,イ ス ラエ ル に3000‑2500年 前 の500年 の み 住 ん で い た。 は じめ エ ジ プ ト,そ の後,主 に ロ シ ア ・東 欧 に 定 住 した。 か れ らの 一 部 分 は,後 に西 に 移 住 した。 さて,東 と西 の ユ ダヤ 人 の 違 い が あ る 。 東 のユ ダ ヤ 人 は,ゲ ッ トー に 住 ん だ 。 農 民 が 多 か っ た。 東 の ほ ん の1 部 が,西 ヨー ロ ッパ へ 出 た 。 そ こ で ユ ダヤ 人 差 別 が あ っ た か,な か っ た か は, 微 妙 で あ る。 概 して あ っ た と見 るべ きで あ る。 フ ロ イ トの 例,ツ ヴ ァ イ ク の 反
対 例 が あ る。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は ウ ィ ー ン2区2)に 生 まれ た 。 だ か ら廻 りに は ユ ダ ヤ 人 が 多 か っ た 。 彼 は生 まれ なが ら,ユ ダ ヤ 教 徒 で あ っ た 。 彼 の 家 は コ ン ク リ ー トの アパ ー トで,3部 屋 く らい あ り,当 時 の ウ ィー ンの 普 通 な み の 家 で あ る。 現 代 日本 で云 う中 流 で あ る。 もち ろ ん廻 りに は貧 民 窟 の よ うな 所 もあ っ た 。 多 くの 人 々 は,ヒ ル フ ァデ ィ ング の 家 よ り も貧 しか っ た 。 彼 の生 活 圏 は ほ と ん ど第2 区 に 限 られ て い た 。 こ の 当 時 ウ ィ ー ン に は リ ン グ ・シ ュ トラ ー セ が あ っ て,都 市 中心 の 造 りは現 在 と ほ ぼ 同 じで あ っ た 。
ヒ ル フ ァデ ィ ング は小 学 校 で は勉 強 の で きな い 方 で は な か っ た。 む しろ優 秀
(1)彼 の 先 祖 ・血 縁 に つ い て,拙 稿 「『若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』 補 遺 」。
(2)ウ ィ ー ン 第2区Heimatmuseumが あ る 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と研 究 1ヱ
な 生 徒 だ っ た と思 え る 。 なぜ な ら父 が彼 をギ ム ナ ジ ウ ム に入 れ よ う と思 う ほ ど で あ り,ま た 入 っ た か らで あ る。 い く らユ ダ ヤ 人 が 教 育 好 きだ と して もギ ム ナ ジ ウム に入 れ る とは 限 らな い 。 親 の社 会 的 上 昇 心 が ヒル フ ァデ ィ ング の コー ス に作 用 した 。 そ の上,父 が サ ラ リ ー マ ンで あ っ た こ と も作 用 した 。 両 親 は 彼 に 期 待 をか け,十 年 間 の 「投 資」 を した の で あ る。 家 庭 は経 済 的 に 困 っ て は い な か っ た 。
ヒル フ ァデ ィ ン グ が 医 学 部 を選 ん だ の は,親 の助 言 ・薦 め で あ っ た ろ う。 大 学 に 入 る時 の ヒ ル フ ァデ ィ ング は,本 気 か ど う か は 分 か らな い が,ま だ ユ ダ ヤ 教 徒 で あ る。
ユ ダヤ 人 は優 秀 か,金 持 ち か の 問 題 が あ る。 彼 らは 特 に優 秀 で は な い 。 金 持 ち で は な い 。 西 ヨ ー ロ ッパ へ 出 た 者 の うち 一 部 が,少 し優 秀 で,少 し金 持 ち,
とな っ た 。 ロ ス チ ャ イ ル ド家 は 例 外 で あ る 。 か つ て彼 ら に は,土 地 所 有 を認 め られ ず,や む な く質 屋 を した 人 々 も い た 。優 秀 に な っ た 理 由 は,そ の立 場 と, 教 育 と に あ る 。後 者 とは,母 が 異 郷 に あ っ て,ア イ デ ンテ ィテ ィ を感 じ られ ず, 子 供 の 教 育 に 熱 心 に な っ た か らで あ る(ジ ョンス トン 『ウ ィー ン精 神 』)。
ユ ダ ヤ 人 は ウ ィ ー ンで は,多 くが レ オ ポ ル トシ ュ タ ト(=第2区)に 住 ん だ。
大 学 に 行 っ た 者 が 多 く,そ の職 業 選 択 は,多 くが,法 律=弁 護 士 と,医 学=医 者 で あ っ た。
ユ ダ ヤ 人 自身 の 定 義 か らす れ ば,ユ ダ ヤ 人 はユ ダ ヤ教 徒 で あ る 。 従 っ て,マ ル ク ス も ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ もユ ダヤ 人 と され るが,彼 ら は定 義 で い うユ ダ ヤ 人 で は な い 。 い わ ば ユ ダ ヤ 民 族 を裏 切 っ た 。 ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は 大 学 に 入 っ て confessionlos(無 宗 教)だ っ た 。
彼 の ギ ム ナ ジ ウ ム の 成 績 が,な ぜ 悪 い か 。 当 時 の学 校 と教 育 制 度 に あ っ た 。 そ して ヒ ル フ ァデ ィ ング は 学 生 社 会 主 義 同 盟 に熱 を入 れ た 。 ヒル フ ァ デ ィ ン グ
らの読 ん だ 『ノ イエ ・ツ ァ イ ト』 が,当 時 は 崇 拝 さ れ て い た 。
1895年 に,カ フ ェ 「ツ ム ・ハ イ リ ゲ ン ・レオ ポ ル ト」 に集 ま る学 生 は,若 い 大 学 教 師 か ら な る 他 の グ ル ー プ と,マ ッ ク ス ・ア ド ラー が 議 長 を す るFreie VereinigungSozialistischerStudentenundAkademikerと して 知 られ る,よ
り大 き な 組 織 を 作 る た め に,力 を 合 わ せ た 。(Smaldone,p.10.)
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,ゼ ッサ ー3)の 最 もpromisingな 学 生 た ち の 中 に あ っ た 。 (Smaldone,P.11.)
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ が な ぜ マ ル ク ス 主 義 に 傾 い た か を,Smaldoneは,1.ツ
ヴ ァ イ ク が 叙 述 す る よ う な,当 時 の ウ ィ ー ン の ギ ム ナ ジ ウ ム 制 度,2.当 時 の ウ ィ ー ン,3.ユ ダ ヤ 社 会4),の3つ に 求 め る 。(p.11‑12.)
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,C・ グ リ ュ ン ベ ル グ とE・ マ ッ ハ の 影 響 を 受 け た 。 そ し て マ ッ ハ の 授 業 に 出 た 。(p.14.)
ドイ ツ と オ ー ス ト リ ア の2つ の 社 民 党 を 比 較 し よ う。 後 者 は ヴ ィ ク トル ・ア ド ラ ー,前 者 は べ ー ベ ル に よ っ て 作 ら れ た 。 オ ー ス ト リ ア の 党 員 はArbeiter ニZeitungの 定 期 購 読 者 で あ っ た 。 ドイ ツ で は,少 な く て も1900年 代 に ベ ル リ ン 地 方 で は,党 員 証 が 発 行 さ れ て い た 。 ドイ ッ に 比 べ,オ ー ス ト リ ア 党 は 急 進 的 で あ っ た 。
「カ フ ェ ・ツ ェ ン トラ ー ル 」 で ,オ ー ス トロ ・マ ル ク シス トた ち は 討 論 して い た 。 例 え ば,バ ウ ア ー の 理 論5)は,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と と も に 討 論 さ れ て い た だ ろ う 。K・ レ ン ナrM・ ア ド ラ ー が 加 わ っ た 。 こ こ で カ ン トが 論 じ ら れ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,ベ ー ム=バ ヴ ェ ル ク ・ゼ ミ ナ ー ル に も フ リ ー で 参 加 し た 。
オ ー ス ト リ ア 党 に は,レ ン ナ ー 以 外 は ユ ダ ヤ 人 が 多 い 。 概 し て 社 会 民 主 党 に は ユ ダ ヤ 人 が 多 い 。 ボ ル シ ェ ヴ ィ キ も そ う だ っ た 。 彼 ら の コ ス モ ポ リ タ ン性 に よ る 。
(3)『 若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ』 見 よ。
(4)こ の 点 で い え ば,野 村 真 理 『ウ ィー ンの ユ ダ ヤ 人 』(御 茶 の 水 書 房1999年)が, 役 立 つ だ ろ う。
(5)バ ウ ア ー の 『民 族 問 題 と社 会 民 主 主 義 』 御 茶 の 水 書 房,の 経 済 論 部 分 。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ と研 究 13 8.ド イ ツ で
健 康 保 険 医 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,1906年 に ド イ ッ に 行 っ た 。 彼 は ウ ィ ー ン で は,G・ マ ー ラ ー が 活 躍 し た 同 じ時 代 だ っ た 。 マ ル ク ス 経 済 学 で は 食 べ ら れ な い の だ 。 彼 はSPD党 学 校 教 師 を 半 年 勤 め た 。 彼 の 後 任 は,ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ で あ っ た 。 そ の 後,『 フ ォ ル ヴ ェ ル ツ 』 編 集 局 で 生 活 し た 。 同 時 に カ ウ ツ キ ー の 『ノ イ エ ・ツ ァ イ ト』 編 集 を 手 伝 っ た 。 前 者 で は 月 給 が 出 る が,後 者 で は 出 な い 。 こ の 時,友 人 に な っ た の が,レ オ ン ・ ト ロ ツ キ ー で あ る 。
1907年 に,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ の 急 進 性 と 思 想 的 に 別 れ,カ ウ ッ キ ー ら は,1910年 に 中 央 派 と 言 わ れ る よ う に な っ た 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,カ ウ ツ キ ー1)・ フ ァ ミ リ エ(あ だ 名)に 属 し た 。 同 時 に ロ ー ザ ら の ゼ ネ ス ト論 と対 決 し た 。
『金 融 資 本 論 』 に は,2つ の 課 題 と 限 界 が あ る 。 課 題1は,20世 紀 経 済 学 を 作 る こ と,課 題2は,ベ ル ン シ ュ タ イ ン 経 済 学 批 判 を し た こ と で あ り,後 者 は 拙 書 で 証 明 し た 。
『金 融 資 本 論 』 の 成 立 に つ い て,河 野 の 発 見 し た 「評 注 」 は,意 義 が あ る 。 ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 金 融 資 本 成 立 論 と 言 う べ き も の が,E・ メ ル ツ の,主 に ク レ デ ィ ッ ト ・ア ン シ ュ タ ル トの 分 析(Marz,Eduard:Osterreichischelndus‑
trie‑undBankPolitikinderZeitFranzJosePhsLWien1968.)で あ る 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は オ ー ス ト リ ア 金 融 資 本 も 見 て い た 。ち な み に 。『金 融 資 本 論 』は, 流 通 主 義 で は な い 。 私 の 稿,岩 波 書 店 の 『経 済 学 辞 典 』 で,な ぜ か そ う 書 か れ て し ま っ た 。
『金 融 資 本 論 』 の 限 界 は,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の 後 期 諸 論 文 か ら 与 え ら れ る 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,1936年11月 に 書 く。 「[世界]戦 争 は,帝 国 主 義 の 古 典 的 政 策 す な わ ち 金 融 資 本 論 の 政 策 に さ し あ た り終 止 符 を 打 っ た 。」(黒 滝 書,211
1)カ ウ ツ キ ー に つ い て 日本 の 研 究 は,山 本 『カ ウ ツ キ ー と ドイ ツ社 会 民 主 党 』。 相 田 慎 一 『カ ウ ツ キ ー 研 究 』 昭 和 堂,相 田 『言 語 と し て の 民 族 』 御 茶 の 水 書 房 。
ペ ー ジ。)そ の 後 期 主 要 作 品 『ドイ ツ 経 済 の 批 判 に よせ て 』[1938年]で 言 う。「ド イ ッ は以 前 に,内 的 に銀 行 と産 業 が お お い に絡 み 合 っ て い た の だ が,そ れ は 本 質 的 に 後 退 した 。 産 業 は 負 債 者 か ら債 権 者 に な っ て い る … … 。」(『ナ チ ス 経 済 の構 造 分 析 』129ペ ー ジ)大 蔵 省 発 行 ・保 証 の 手 形 で,産 業 の 銀 行 依 存 は な くな っ た 。(同)
『金 融 資 本 論 』 の 資 本 主 義 観 は 変 わ らな か っ た か?黒 滝 は,ヒ ル フ ァ デ ィ ング の1937年 手 紙 か ら,彼 が1914年 以 降 の 資 本 主 義 の 分 析 が 必 要 だ と言 う こ と を紹 介 す る 。 黒 滝 は,ヒ ル フ ァデ ィ ング の 見 解 の 変 化,あ る い は再 検 討 の 起 点 を1916年 の連 続 論 文 『貿 易 政 策 の 諸 問題 』 に見 る 。 つ い で1931年 と1937年 が 転 機iとな っ た とす る。1930年 で は,ほ ぼ 『金 融 資 本 論 』 の 原 理 で 説 明 して い た。
こ う して,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は 『金 融 資 本 論 』 で の 資 本 主 義 観 を修 正 す る こ と に な る 。 しか し どの 点 が か が 重 要 で あ る。
創 業 利 得 を銀 行 が 奪 う理 論 は(河 西 勝 『農 業 資 本 主 義 』 は,否 定 す る),も しあ っ た と して も ドイ ツ ・オ ー ス トリ ア の古 典 金 融 資 本 時 代 で あ る。 銀 行 の 産 業 支 配(河 西 氏 は,否 定 す る)は,ヒ ル フ ァデ ィ ング 自身 の発 言 で 限 定 づ け ら れ た と思 わ れ る 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ理 論 は,た だ し,国 際 金 融 資 本(ロ ッ ク フ ェ ラ ー,モ ル ガ ン,ロ ス チ ャ イ ル ド)に 資 本 主 義 が 支 配 され て い る か ぎ りで,現 在 で も正 しい 。 そ の 点 で は ヒ ル フ ァデ ィ ン グ だ け で な く レー ニ ン説 もそ う な る。
『金 融 資 本 論 』 は,レ ー ニ ン の 『帝 国 主 義 』 だ け で な く,ブ ハ ー リ ンの 『帝 国 主 義 と世 界 経 済 』 に直 接 影 響 した 。
第1次 世 界 戦 争 が 起 きた1914年8月 に,SPDは 戦 争 公 債 予 算 に賛 成 した 。 ベ ー ベ ル は,1913年 に 死 ん で い た。DieterFrickela)の 論 に よ る と,こ の 大 問 題 は,す べ て ベ ー ベ ル の 路 線 に問 題 が あ っ た とい う。 さ て,ベ ーベ ル が も し生 きて い た ら ど う した か 。私 は,棄 権 し た と推 測 す る。彼 の死 後,SPDで は,フ ー
1a)D.Fricke「 ド イ ツ 労 働 運 動 に お け る ア ウ グ ス ト ・ベ ー ベ ル の 役 割 」1981.4.7, 於:北 海 道 大 学 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と研 究 15 ゴ ー ・ハ ー ゼ(左 派)とF・ エ ー ベ ル ト(右 派)の 共 同 党 首 制 と な っ た 。
戦 争 原 因 論 は,私 は,『 ハ プ ス ブ ル ク歴 史 物 語』 でErzherzogKronprinz FranzFerdinandの 暗 殺 情 景 を叙 述 した。J.A.シ ュ ンペ ー ター は,『 帝 国 主 義
と社 会 階 級 』 で,封 建 勢 力 を 原 因 と した。 ヒル フ ァデ ィ ン グ&レ ー ニ ンは, 資 本 主 義 的 帝 国 主 義 を 原 因 と した 。A.J.P.テ イ ラー は,『 第1次 大 戦 』 で, 軍 隊 自 体 の 重 み を 原 因 と し た。J.A.ホ ブ ス ンは,『 帝 国 主 義 』 で,投 資 金 融 業 者 と した 。 広 瀬 隆 は,『 赤 い 楯 』 で,死 の 商 人=兵 器 業 者,ザ ハ ロ フ,概
して ロス チ ャ イ ル ド家 を 原 因 と した 。F・ フ ィ ッ シ ャ ー(ボ ン大 学)は ドイ ツ 原 因論 を主 張 し,ド イ ツ の 保 守 派 歴 史 家 は そ れ に反 対2)し た。
戦 争 反 対 問 題 の 状 況 は ど うか 。 ドイ ツで 戒 厳 令 が 出 され た 。 戦 争 に反 対 す れ ば 犯 罪 と な っ た 。 軍 隊 ・警 察 が まずSPD指 導 者 を威 嚇 して い た 。SPDは 大 衆 に追 従 した 。 戦 争 に反 対 す れ ば,党 と組 合 の 成 果 をす べ て 失 い,指 導 者 は 監 獄 へ 行 く こ と に な る 。 そ の ジ レ ンマ が あ っ た。K.リ ー プ ク ネ ヒ トで さ え,党 の 統 一 の た め,初 め は黙 る の だ っ た 。SPDが 合 法 政 党 だ っ た か ら,戦 争 に 反 対 で きな か っ た。 一 方,ボ ル シ ェ ヴ ィキ は,事 実 上 の非 合 法 政 党 だ っ た か ら,戦 争 反 対 は 容 易 だ っ た 。SPDは 数 日の 間 で,反 対 か ら賛 成 へ 変 わ っ た 。SPDの 平 和 主 義 は,心 だ けで あ っ て,行 動 はで きな か っ た。
徴 兵 問 題 が 起 きた 。 戦 争 が 起 きて,徴 兵 に と られ る か,反 対 す るか の 問 題 に つ い て は こ う で あ る。SPDの 人 々 は徴 兵 に と られ た 。 レー ニ ン も,人 が 徴 兵 に と られ る こ とは 反 対 して い な い 。戦 場 で 銃 を敵 で な く反 対 に 味 方 に 向 け よ と, 無 理 な こ とで は あ るが,そ う言 う 。 当 時,イ ギ リス の ク エ ー カ ー教 徒 の 良 心 的 兵 役 拒 否 を除 け ば,徴 兵 に 反 対 す る とい う思 想 は な か っ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,初 め1年 ベ ル リ ンに い た が,Landsturmarztと な り, ウ ィ ー ンで1年,そ して チ ロ ル で2年 勤 め る の で あ っ た 。
2)ナ チ ズ ム 論 で も 同 じで あ る 。 例 。 フ ェ ス ト 『ヒ トラ ー 』 上 下,河 出 書 房 新 社 。 第 2次 大 戦 は,ド イ ツ が 起 こ した 。 ヒ トラ ー は ドイ ッ 人 的 だ っ た 。
戦 争 を革 命 に転 化 す べ く,レ ー ニ ンが 戦 術(=帝 国 主 義 戦 争 の 内乱 へ の 転 化, 自 国 の 軍 事 的 敗 北 理 論)を 出 した。 これ に は 限 界 が あ っ た 。 西 欧 民 主 主 義 的市 民 社 会,ブ ル ジ ョ ア ジ ー,の 問 題 で あ る。 西 と東 は 違 っ て い た 。 オ ラ ン ダ,イ ギ リ ス,フ ラ ンス の ブ ル ジ ョア 革 命 が す で に あ っ た 。 ドイ ッで も三 階 級 だ が 選 挙 制 度 が あ った 。1907年 に オ ー ス トリア は 普 通 選 挙 が あ っ た 。 こ れ ら ヨー ロ ッ パ に は,あ る種 の 法 治 主 義 が あ っ た。 ブ ル ジ ョア ジー が 法 律 を守 ろ う と した。
人 々 に遵 法 精 神 が あ っ た。 一 方,ロ シア に は そ れ が 少 な く,暴 力 主 義 で や っ て ゆ け た。 そ れ に加 え,政 治 家 レー ニ ンに は,ナ ロ ー ドニ キ性 が あ っ た 。
他 方,1917年2月 の ロ シ ア革 命 で,ロ シ ア が 離 脱 した の で,「 世 界 の民 主 主 義 の た め に戦 う」 協 商 諸 国 の 喉 の 骨 が とれ た 。
半 絶 対 主 義 体 制 の経 済 が 相 対 的 に強 い ドイ ツ と,弱 い ロ シ ァ の 差 が あ っ た 。 ロ シア は倒 れ た 。1917年 の,ド イ ッで のUSPDの 成 立 と ロ シ ァ の2月 革 命 と10 月 の 赤 い革 命 は,同 じ流 れ で あ っ た 。
レー ニ ン は,『 帝 国 主 義 論 』(1917年),つ ま り"マ ル クス 主 義 の新 約 聖 書"
を 出 版 した。 これ は,第2次 大 戦 後 に は あ て は ま らな い 。 だが,1.短 期 的 に は正 しい 。一 方 で,そ れ が 批 判 した カ ウ ツ キ ー の 帝 国主 義 論 は長 期 的 に正 しい 。
レー ニ ンの 説 は,2.経 済 学 で は正 しい と して も,政 治 論 で は 間 違 い で あ る 。 3.そ の 内 容 の7割 は,ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 受 け う りで あ っ た。 レー ニ ンは, ヒ ル フ ァデ ィ ン グの 政 治 的 立 場 次 第 で,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ評 価 を変 え て い る。
レー ニ ン は,執 筆 時,ロ シ ア語 版 『金 融 資 本 論』 を持 っ て い た。 バ ウ ア ー の ロ シ ァ語 版 も持 っ て い た と思 え る。4.レ ー ニ ンの 書 の課 題 は,カ ウ ツ キ ー批 判 で あ っ た 。 も っ と も カ ウ ツ キ ー ・レー ニ ン論 争 な る もの は 無 か っ た 。5.レ ー ニ ンの ホ ブ ス ン利 用 は,一 面 的 で あ る 。
ロ シ ア の 赤 い革 命 は,当 初 は ブ ル ジ ョア的 で あ っ た。 革 命 時 の2つ の 布 告 も そ う だ っ た 。ロ シ ア 革 命 へ の 参 加 者 は,フ ラ ンス 革 命 を考 え て い た。 トロ ツ キ ー の 役 割 は 大 きか っ た 。 レー ニ ン で は な く,ト ロ ツキ ーが 具 体 的 指 導 を した。 こ れ は ボ ル シ ェ ヴ ィキ 革 命 で な く,ソ ヴ ィエ ト革 命 だ っ た。 ま して ス ター リ ンで は ない 。 ジ ョン ・リー ドの ル ポ ル タ ー ジ ュで は ス ター リ ンは 出 て こ な い 。 革 命
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と研 究 17 を,2つ の政 党,ボ ル シ ェ ヴ ィキ と左 派 エ ス ・エ ル が 起 こ した 。 西 側 参 戦 諸 国 の この 赤 い 革 命 へ の恐 怖 が,第 一 次 大 戦 の 休 戦 へ の 原 因 とな っ た 。
レー ニ ンの 失 敗 は,憲 政 議 会 解 散 で あ っ た 。 統 一 戦 線 戦 術 で も失 敗 した 。 と い う よ り,そ の 思 想 を真 に持 っ て い な か っ た 。 ロ シ ア の 対 ドイ ツ戦 問題 で,左 派 エ ス ・エ ル が 閣 外 脱 退 し,一 党 制 に な っ た 。
ヒル フ ァデ ィ ン グ とカ ウ ツ キ ー は,ロ シ ア 暴 力 革 命 を批 判 した 。 こ れ は ヨ ー ロ ッパ 人 と して は 当然 で あ っ た。
そ れ に,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,社 会 主 義 実 現 に,内 乱 ほ ど重 大 な障 害 は な い, とす る3)。 ヒル フ ァデ ィ ング は 経 済 破 滅 な しの革 命 を望 ん だ 。
ドイ ッ側=同 盟 諸 国 の 敗 戦 は,半 絶 対 主 義 ・君 主 制 の 経 済 的 弱 さ,世 界 市 場 を絞 め られ た こ とか ら起 きた 。 ドイ ッ は そ の 点 で 弱 か っ た。 そ の う ち で もオ ー ス トリア ・ハ プ ス ブ ル ク の 方 が,ド イ ツ よ り弱 か っ た 。 後 者 に は 民 族 問題 も加 わ っ た 。
ドイ ツ 革 命(1918年)は,USPDが 起 こ し た。 ロ シ ア と と もに ブ ル ジ ョァ 革 命 的 で あ っ た 。 革 命 の 前 と後 の 問 題 と して,ド イ ツの 過 去 との 連 続 と非 連 続 の 問 題 が あ る。 ドイ ツ で は 官 僚 ・軍 隊 ・ユ ン カー は革 命 の 前 と後 とで 連 続 して い た。 過 去 との 非 連 続 な もの は,議 会,憲 法,労 働 者 の 権 利,で あ っ た 。 これ が 後 に 反 動 儂 民 ・地 主 ・中 小 そ して 大 資本 の)を 呼 ぶ の で あ っ た 。 そ れ をナ チ ズ ム に す くわ れ た 。
こ れ に 関 係 して,ド イ ツ 革 命 に は エ ー ベ ル ト問 題 が あ る 。SPD党 首 工 一 ベ ル トは秩 序 を重 ん じた。 またSPDは 革 命 に 弱 腰 だ っ た 。
ドイ ッ や オ ー ス トリア で は,プ ロ レ タ リア ー トが 帝 制 を倒 した 。 だ が こ れ は 社 会 主 義 まで 行 か ない の で あ っ た 。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は後 に,ド イ ッ革 命 を,ド イ ツ労 働 階 級 が権 力 を引 き受 け る準 備 が 物 質 的 に も思 想 的 に もな か っ た時 に 崩 壊 に会 っ た,と す る4)。
3)『 現 代 資 本 主 義 論 』(新 評 論)p.96。
4)同p。34.
9.再 び ベ ル リ ンで
ヒ ル フ ァデ ィ ング の 私 生 活 で は,マ ル ガ レー テ と離 婚 し,ロ ー ゼ と再 婚 した。
マ ル ガ レー テ との 子 息 は2人 で あ り,カ ー ル とペ ー ター で あ り,2人 は マ ル ガ レー テ と共 に ウ ィー ンで 生 活 した 。 ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は ロ ー ゼ とベ ル リ ンで 生 活 した 。 ロー ゼ の 娘 の 名 はElisabethで あ る。 ロ ー ゼ の 連 れ 子 で あ る。 彼 女 に つ い て よ く呼 ば れ るMausは,娘 の 意 味 で あ る。
ヒル フ ァデ ィ ン グ のUSPD時 代 の 初 め の 任 務 は,中 央 機 関 紙 『フ ラ イハ イ ト』
の編 集 長 で あ る 。 彼 は フー ゴ ー ・ハ ー ゼ 暗 殺 後 に指 導 者 とな り,ま た 最 後 の指 導 者 と な っ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ はハ レ大 会 で ジ ノ ヴ ィエ フ と論 戦 した 。USPDの 分 裂 後, 一 部 はSPDと 再 統 一 した。 コ ミ ン テ ル ンは あ わ た だ し く成 立 した 。 規 約 作 成 の 遅 さ か ら もわ か る。 い ま か ら見 て 失 敗 だ っ た。USPDを 分 裂 させ る 方 針 も ヒ ドイ こ と だ っ た 。ヒル フ ァデ ィ ン グ は これ を労 働 者 階 級 の 内 部 闘争 とみ る5)。
SPDで の ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は,蔵 相 と して(1923年8月 か ら9月,1928年 6月 か ら1929年12月),国 会 議 員 と して(USPD時 代 を 除 く,1924年 か ら1933年) 勤 め た。 政 治 理 論 的 学 術 的 活 躍 と して は,理 論 雑 誌 『ゲ ゼ ル シ ャ フ ト』 の 編 集 長 とな った 。 ま た レ ンテ ンマ ル ク の 解 決 を準 備 した 。 党 内 で は,1922年 に,書 記 局 員,綱 領 委 員 と な っ た 。1924年 に,ベ ル リ ン党 大 会 で 主 報 告 を した 。1924 年 に,書 記 局 員 で あ る。1925年 に,カ ウ ツ キ ー と と もに 綱 領 の 執 筆 を した 。 同 年,ハ イデ ル ベ ル グ党 大 会 で 綱 領 の 報 告 を した 。 ま た 書 記 局 員 だ っ た 。1927年 に,キ ー ル 党 大 会 で 綱 領 報 告 を した 。 「組 織 さ れ た 資 本 主 義 論 」 と して 高 名 な そ れ で あ る。 こ の 理 論 は 第2大 戦 後,有 力 に な っ た。1929年,マ グ デ ブ ル グ党 大 会 で 主 報 告 を した 。1931年,ラ イ プチ ヒ党 大 会 で 主 報 告 を した 。 こ の 年,書 記 局 員 だ っ た。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ は,SPDで は,大 政 治 家 と して で な く,大 理 論 家 と し て 見 られ て い た 。
5)同p.36.
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ と研 究 19 ヒル フ ァデ ィ ン グ は,戦 中戦 後,資 本 の と ほ う もな い 強 化 が され,そ れ が 組 織 資 本 主 義 で あ る こ と,ド イ ッ資 本 主 義 の 内 部 強 化 ・集 中 は,戦 争 と革 命 の 結 果 で あ る,と す る6)。
ヒル フ ァデ ィ ン グ は,賃 金 を 政 治 賃 金 とみ た 。 つ ま り賃 金 は 政 治 に よっ て 作 用 され る,と 。
ヒル フ ァデ ィ ン グ は,戦 後 の社 会 化 に か ん して活 躍 す る。 彼 の 社 会 化 論 の 本 筋 は こ うで あ る 。 社 会 化 に は,i生 産 上 昇 が 必 要 で あ る7)。 労 働 意 欲 が 高 ま る。li社 会 化 に は テ ク ノ ク ラ ー トを入 れ る必 要8)が あ る。iii社 会 化 は, 国有 化 ・官 僚 化 で は な い9)。ivそ の 管 理 部 は複 数10)あ るべ き で,競 合,生 産 管 理 が さ れ る 必 要 が あ る 。 社 会 化 は,v基 幹 産 業,集 中 度 の 高 い 産 業,エ ネ ル ギ ー 産 業 か ら始 ま るべ きで あ る。vi社 会 化 は,三 者 構 成,つ ま り生 産 者 ・ 消 費 者 ・公 共 代 表 に よ っ て 行 い,労 働 者 の 管 理 能 力 を高 め る,と い う もの で あ っ た。
彼 の1929年 大 恐 慌 論 は,大 恐 慌 が,戦 争 清 算 恐 慌 で あ り,過 剰 生 産 恐 慌 で あ り,農 業 恐 慌 と工 業 恐 慌 が 一 致 した の だ,と い う もの で あ る 。
1935年 は,恐 慌 最 低 期 で,国 家 権 力 が とほ う もな く強 化 した とみ る。 これ を くわ し く見 る と,戦 争 の 結 果,1.農 業 ・原 料 変 革 が お きた,2.技 術 ・経 営 の 合 理 化,失 業 が お きた,3.世 界 的 工 業 化 が 進 ん だ,そ して ア メ リカ の 欧 州 投 資,こ れ らが 過 剰 生 産 → 大 恐 慌 → 国 家 介 入 と進 ん だ,と す る11)。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 議 論 と近 年 の 国家 独 占資 本 主 義 論 との 対 比 を見 る と,な る ほ ど,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は そ れ に類 似 して い る。 だ か ら国家 独 占資 本 主 義 論 の 先 駆 と も言 え る。 しか しそ れ よ りも 国家 ・政 治 の役 割 の 強調 が 強 い。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ の 経 済 思 想 は,も ち ろ ん ケ イ ンズ 的 で は な い 。 イ ン フ レ ー
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シ ョ ン を望 まな か っ た か ら,も ち ろ ん で あ る。 ニ ュ ー デ ィー ル評 価 も,イ ンフ レー シ ョ ンに な る か ら と い う理 由 で,ヒ ル フ ァデ ィ ング は 高 く評 価 して い な い 。 これ は従 来,ヒ ル フ ァデ ィ ング の 欠 点 と され て きた 。 しか し,社 会 民 主 主 義 者 と して,資 本 主 義 の延 命 策 を好 ん で と りあ げ る わ け に は ゆ か ない と考 えれ ば, そ の 意 味 で は 当 然 で あ っ た。 また,真 に 恐 慌 を 克 服 した の は 再 軍 備 で あ り戦 争 で あ る と い う観 点 か ら見 れ ば,ケ イ ンズ,ニ ュ ー デ ィー ル政 策 が,全 く有 効 だ っ た わ け で は な い こ と,も 注 目 して お くべ きで あ ろ う。
R.ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 『現 代 資 本 主 義 論 』(新 評 論)で は,前 出 の 諸 点 以 外 で は,彼 の 次 の 指 摘 が 興 味 深 い 。
金 融 資 本 は,組 織 され た 資 本 主 義 が 始 ま る時 代 だ 。 国 家 と経 済 が 結 び 付 きの 変 化 は,戦 争 が き っか け で あ る 。 古 典 的 帝 国 主 義 は 戦 争(=第1次 大 戦)で お わ っ た。 大 恐 慌 は 戦 争 の 根 本 的 清 算 で あ る。(p.124)野 党 ・与 党 の と きの 政 策 は違 うべ きだ 。
古 典 的 帝 国主 義 と フ ァ シズ ム との 違 い は,経 済 で な く政 治 で,戦 争 で,あ る 。
10.ナ チ ズ ム と の 関 連 で
ドイ ッで は独 占 的 資 本 主 義 に な っ た の で,自 由 は 無 意 味 な もの と な っ た 。 ワ イ マ ー ル共 和 国 時 代 に,フ ラ ンス が ル ー ル 地 方 を 占領 した 。 そ の後1930年 に,ラ イ ン ラ ン トを撤 退 した 。
ナ チ 党 員 は,1927年 に4万 人,1928年 に6万 人 だ っ た 。1929年 に ナ チ 議 員 は 106名 と な っ た 。 ワ イ マ ー ル 時代 に社 会 民 主 党(以 下,社 と略 す)と 共 産 党(以 下,共 と略 す)が 対 立 した 。 社 共 が 統 一 して い れ ば よか っ た,と ス ウ イ ー ジ ー の 紹 介 す る手 紙 は 言 うが,あ りえ な か っ た 。 も ち ろ ん そ の 指 摘 は 正 しい が 。 共 産 党 の増 大 で,社 会 党 が し り ごみ を した 。軍 部 は ヒ トラ ー を 過 小 評 価 し,一 方, 重 工 業 が 彼 を支 持 した 。
ワ イ マ ー ル共 和 国 崩 壊 の 原 因 は こ う だ っ た 。ヴ ェル サ イユ 条 約 が 荷 重 だ っ た 。 世 界 恐 慌 が 原 因 だ っ た 。 ドイ ツ 国 制 上 の 欠 陥(大 統 領 制)で あ っ て,政 党 が 民
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ と研 究 21 主 主 義 を担 当 で き な い,政 府 選 出 が で きな い,状 況 だ っ た。 共 ・社 両 党 が,ナ チ ズ ム 問 題 を 認 識 せ ず,戦 略 ・戦術 を誤 っ た 。 右 派,反 民 主 主 義,反 共 和,帝 制 復 活 が 成 長 した 。 官 僚 と軍 隊 が,民 主 主 義 に 理 解 を もた な か っ た 。 結 局,民 主 主 義 に慣 れ な い ドイ ツ国 民 だ っ た か ら,官 僚 支 配 に な れ て し ま っ た。 上 か ら の 支 配 が,ド イ ツ人 の 心 情 に合 致 した 。 軍 隊 と官 僚 が ナ チ を援 助 した 。 国 家 は 右 派 に甘 か っ た 。 国 民 は ナ チ の悪 魔 的 性 質 を見 抜 け な か っ た。 ナ チ ズ ム は ドイ
ツの 伝 統 と無 縁 で は なか っ た 。
ナ チ ほ ど声 高 に,市 民 の 自 由 や 民 主 的 平 等 の 保 護 を主 張 した 野 党 は な か っ た 。 議 会 主 義 の 実 際 は,理 論 と一 致 しな く な っ た。 議 会 制 度 は 非 能 率 的 で,腐 敗 し て い る,だ か ら強 力 な政 府 を も て,そ して 全 権 力 を大 統 領 へ 与 え よ,ま た熟 慮
よ り も決 断 を,と ナ チ は望 ん だ 。 ナ チ ズ ム に よっ て 官 僚 イデ オ ロ ギ ー が 利 益 を 受 けた 。 ナ チ ス は 軍 を批 判 し なか っ た 。
ド イ ツ の 年 誌
1933・1・30ヒ ト ラ ー 内 閣(連 立)が 成 立 し,首 相 は ヒ トラ ー,副 首 相 が パ ー ペ ン と な っ た 。 パ ー ペ ン は,愚 か に も,内 閣 の 指 導 権 を 握 れ る と 思 っ た 。 経 済&食 料 相 が フ ー ゲ ンベ ル グ,労 相 は ゼ ル テ,国 防 相 は ブ ロ ン ベ ル グ で,彼 は ヒ トラ ー の 心 酔 者 で あ っ た 。 内 相 は ブ リ ッ ク(ナ チ)で あ る 。 プ ロ イ セ ン 内 相 は ゲ ー リ ン グ に な っ た 。
2・27に 国 会 炎 上 事 件 が あ り,3・5に 総 選 挙 が な さ た 。3・17ラ イ ヒ ス バ ン ク 総 裁 に シ ャ ハ トが,新 政 府 で は ダ レ が 農 相 に,な っ た 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,3・21に 亡 命 し た 。 ま ず デ ン マ ー ク へ,そ し て ル ツ ェ ル ン(4月)へ,そ し て チ ュ ー リ ヒ に 逃 れ た 。
3・24全 権 委 任 法 が 通 っ た 。共 産 党36万 人 が 弾 圧 さ れ,社 会 民 主 党 の 集 会 ・ 出 版 が 禁 止 さ れ た 。社 会 民 主 党 は,4月 に,党 首 脳 が ザ ー ル ブ リ ュ ッ ケ ン へ 移 っ た 。5月 に プ ラ ハ へ 逃 れ,ゾ パ ー デ(Sopade)・ ビ ュ ー ロ ー を 作 っ た 。
5・2労 働 組 合 が 禁 止 さ れ,ド イ ツ 労 働 戦 線(ナ チ の 労 働 組 合)が5月 に 作 ら れ た 。 弾 圧 が,共,社,ブ ル ジ ョ ア 政 党 に 与 え ら れ た 。6・2フ ァ シ ズ ム ・
ド イ ッ で は 均 一 化(Gleichschaltung)が な さ れ,国 家 と ナ チ 党 の 画 一 化 が さ れ た 。1933・10・17ド イ ツ は 国 連 を 脱 退 し,1933・11・12国 連 脱 退 人 民 投 票 が 行 な わ れ た 。
6・22,SPDが 禁 止 さ れ,他 の ブ ル ジ ョ ア 政 党 は 圧 迫 さ れ,ナ チ に 吸 収 さ れ も し た 。7・14,ナ チ ー 党 制 が 確 立 し た 。
翌1934年 に,SPD声 明(プ ラ ハ)が 出 た が,反 対 派 と 協 調 派 に 分 か れ た 。 亡 命 中 のSPDは,や や 後 悔 し て,同 党 が 悲 劇 的 な 過 ち を お か し た こ と を 認 め た 。
「ド イ ッ の 労 働 階 級 運 動 が 戦 時(第1次 大 戦)中 に 方 向 を 誤 っ て ,古 い 国 家 機 構 を ほ と ん ど不 変 の ま ま 接 収 し た の は 重 大 な 歴 史 的 誤 りで あ っ た 」 と。
1934・6・30‑7・2血 の 粛 清 に よ り,レ ー ム 以 下 が 虐 殺 さ れ,SAと レ ー ム の 考 え る 第2革 命=独 自 の 社 会 主 義 革 命 は,な ら な か っ た 。
1934・8・19ヒ ト ラ ー は,統 領 兼 首 相 に な り,人 民 投 票 が な さ れ た 。 王 朝 的 権 威 国 家 が 作 ら れ た 。
ナ チ ズ ム 経 済 の 下,1933年2月 〜1937年 春,失 業 者 の 数 は600万 か ら100万 た らず に 減 少 し た 。1937年 に,失 業 者 が ほ ぼ な く な っ た 。 ナ チ は 軍 需 工 業 を 発 展 さ せ た の で あ る 。 経 済 を 安 定 さ せ る こ と で,国 民 に ナ チ 支 持 に さ せ,そ の か わ り政 治 権 利 を す べ て 奪 っ た 。 労 働 法 で は,資 本 家 は 経 営 内 の 指 導 者 と な り,独 裁 権 を も っ た 。
戦 争 経 済(Kriegswirtschaft)な る 言 葉 が 経 済 史 学 で 使 わ れ た 。 防 衛 経 済 (RUstungwirtschaft)は,当 時,事 態 を ヴ ェ ー ル に 包 む 言 葉 だ っ た
戦 争 中 に フ ォ ル ク ス ワ ー ゲ ン(Volkswagen)は1000台 作 ら れ た 。1933‑38 年 に,離 村 が 統 計 上 新 記 録 と な っ た 。 そ の 後 の 話 だ が,ド イ ツ 占 領 地 か ら ド イ
ッ へ,労 働 力 が1944年 末 に479万 人 や っ て き た 。
ナ チ は ユ ダ ヤ 人 と 反 政 府 派 へ の 襲 撃 を 行 な っ た 。 警 察 予 備 隊 にSSとSA4 万 人 を 入 れ,テ ロ が 合 理 的 に な っ た 。
1935・9月,ナ チ は ニ ュ ル ン ベ ル グ 法 を 通 し,ユ ダ ヤ 人 抑 圧 を 合 法 化 し た 。 1936・3・7ド イ ツ は ラ イ ン ラ ン トに 進 駐 し た 。 こ れ は ヒ ト ラ ー に 自 信 を つ け た 。1936‑39年 は,ヒ トラ ー の4か 年 計 画 の 年 で あ り,1937年 に 経 済 力 が 頂 点