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ド ラ ン グ 時 代 の 国 家 観

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(1)59. シュ. トウ〃ム・ウント・. ドラング時代の国家観 谷. 崎. 英. 男. ヨーロッバの文学は十七世紀の半ばから十九世紀の終りにかげて古典主義−浪漫主義−写実主義という三つの. ︸回リ・虫ユ一一︐. 犬きな流れを辿っているということができよう︒この三つの大きた流派の流れはヨーロヅパの文学がルネッサγスを. へてまず古典の模倣から出発したが︑その古典の模倣が余りにも形式化されずぎて︑︵例えぱ有名な.﹁三統一﹂の法. 則のようなものも︑アリストテレスが全然書いてもいない﹁場所の統一﹂をつけ加えて形式美を整えようとしたごと. きはそのよい例である︒︶その反動として感情や想像を尊ぶ浪漫主義を生みだし︑この浪漫主義も想像を重んずる余. りに現実離れのした荒唐無稽な遼戯に堕し︑︵例えばノヴァーリスの﹃断章﹄やホフマンの短篇などにそのような面. が見られる︒もっともホフマンには次のレアリズムの時代の齋芽もまじって見られる︒︶新しい写実主義を生んだも のと考えてよいであろう︒. >昌0H旦亮宗君尿5内o墨一窒彗8畔旨ω. ソルボンヌ大学の比較文学を担当していた故ポール・ヴァγニアィーゲム︵霊巳く竃−晶ざ冒︶もその著﹃近代 ヨーロヅパ・アメリカ文学史﹄︵聖goマ①=ま轟ぎ宗−︑向員o潟g宗−. ﹄昌易︶においてルネッサンス以後のヨiロヅパ文学を古輿主義時代︵十七世紀後半から十八世紀末まで︶1浪漫主. 義時代︵十九世紀前半︶1写実主義時代︵十九世紀後半︶の三つに分げている︒英文学の世界を眺めてみると︑. 1239.

(2) ﹁十八世紀の文学は平明で︑合理的で︑均斉と統一でまとまった書き方でなげればならないという法則の下にでき. た︒ドライデンやポープを中心として古典を手本として理性と感情との調和および形式と内容との一致を心掛げるこ. とがその理想であった︒人々はoqoooω9需が何よりも大切たものと思い込み︑当時急増した8箒?ぎ毒⑦に集ま. るクラブの会員となって時事を論じ文学を談ずることを好んだが︑一番幅を利かせるのは9晶§8であり︑σqoa. 旨彗畠易であった︒﹂︵斉藤勇﹃思潮を中心とした英文学史﹂による︒︶ところが十九世紀に至ってプソイド・クラシ. ズムを破って個性を重んじ想像を尊ぶようになり︑超自然力に対するあこがれ︑中世趣味︑エキ︑ソテイズム︑自然に. 対する熱愛などがその所をしめ︑ワーズワース︑コウルリヅジ︑スコヅト︑バイロン︑シェリーなどを生んだ︒そし. てさらに十九世紀も後半になると科学の進歩や産業革命の進行につれてディヅケソズ︑サヅカレー︑ギャスケル夫人 などの写実主義文学が生れるようになったのである︒. フランス文学においては英文学よりも時期的には早く︑十七世紀の半ぱルイ十四世時代に古典主義はその頂点に達. し︑コルネイユ︑ラシーヌ︑モリェールなどを輩出した︒その後フ一フンス革命︵一七八九年︶を契機としてスタール. 夫人︑シャトーブリアンなどのプレ・ロマンティスムが生れ︑一八二〇年代に至ってラマルティーヌ︑ブィニー︑ユゴ. ー︑ミヅセ︑サンド︑バルザヅク︑スタンダール︑メリメ︑︵最後の三人には既に次の写実主義の先触れが見られる︒︶. などにおいて浪漫主義は花を開き︑次のブローベル︑中コンクール兄弟︑︒ソ一フ︑モーパヅサンなどの写実主義小説への 橋渡しをしている︒. ところがドイッ文学においてはその趣きをいささか異にしている︒ドイツ文学史では普通十八世紀は啓蒙主義時代. とされ︑後半に至ってシ.一トゥルム・ウント・ド一フング時代−1古典主義時代と移行し︑十九世紀初頭から浪漫派の. 文学がそれと並行して起り︑十九世紀後半に至ってヘッベルやルードヴィッヒの写実主義文学を生み出したのであ. 1240.

(3) 61. る︒すなわち古典主義時代の前にシュトゥルム・ウント・ドラング時代という英・仏文学史上には見られない一つの. 特異な文学運動があるのである︑しからぼ何故にドイツ文学のみがこのような文学運動をもったのであろうか︑これ が本論文の究明したい眼目の一つなのである︒. シニトゥルム・ウント・ドラング運動に対するドイツの文芸史家の評価は必ずしも一致していない︒﹁ゲーテ時代. の精神﹂︵O①柔宗HΩ畠苧富o6の著者H・A・コルフ︵甲>・穴o串︶は同書の第一部﹁シュトゥルム・ウント・. ドラング﹂においてゲーテのワイマール以前の時代を﹁天才的﹂時期︑ゲーテがワイマールで行政にあずかっていた. 時︑シラーの歴史的哲学的研究の時代を﹁倫理的﹂時期︑そしてゲーテがイタリアヘ逃れ︑その後﹁ヴィルヘルム・. マイスター﹂と﹁ファウスト﹂を完成し︑シラiがカントの倫理と衝突し新しい美学を作り出した時期を﹁美的﹂時. 期として第一期第二期との綜合された時期と考えており︑以上の時代をドイツ観念論の第一の時代として﹁人本主義. 的観念論﹂の名称のもとに総括し︑第二の時代である﹁浪漫的観念論﹂と対立させている︒コルフは次のように書い ている︒. ﹁ゲーテ時代の第一期はある一定の意味で﹃人本主義﹄とよぼれるものによって啓蒙思潮と結合している︒ゲーテ. 時代の第一期は全然異なった︑否対立する意味においてではあるが啓蒙思潮のように非形而上学的であり︑かつ個人. 主義的世界観である︒・⁝−相対立する精神の方向があるにも拘らず啓蒙思潮とゲーテ蒔代の第一期との聞には広範囲. な外面的な一致がある︒この一致はこの二つを一緒にして人本主義としるしづける︒すなわちいずれの神学的な体系. あるいはさらに一般的にいえば形而上学的な理念体系に対立して人間の個人としての立脚地から現世世界を建立する. 世界観である︒この世界観においては人間がすべての価値の究極の保持者として出現する︒年老いたファウストの口. からなお極めて断呼としてこの訓戒が響き渡るときに︑われわれはそれ故ほとんど全人本主義の時代の基礎低音を聞. 1241.

(4) 砒. くO. 此の世の中はもう知り抜いた︒. あの世への展望はできることではない︒. 誰にもしろまぱゆそうに上を向いて 雲の上に自分のようなものがいると思う奴は馬鹿だ︒. それよりしっかり踏み止って︑ここで自分の周囲を見ろ︒ すぐれた人間には世界が隠し立てはせぬ︒ 何も永遠の境にさまように及ぼぬ︒. 自分の認識したことは手に握ることができる︒. ⁝−⁝・浪漫的観念論の劃期的た転機はこの浪漫的観念論とともにドィツ観念論の人本主義的原形がっいに破られ踏. み越される点にある︒その決定的な行為は観念論的な形而上学である︒そして天才的時期︑倫理的時期︑美的時期に 続いて今はドイツ観念論の形而上学的時期が続く︒L. すなわちコル7の考えに従えぽ人本主義的︵巨昌彗一ωま争︶という意味においてシュトゥルム・ウント.ドラング. も古奥主義も啓蒙主義の延長であり︑︵コルフは別著﹁人本主義と浪漫主義﹂︵曽目旨彗邑冒豪;山射o冒彗↑岸︶の中. ではg鶉置蔚ぎ岸︵此岸性︶という言葉を用いている︒︶︑浪漫派は形而上学的︵冒寒昏蚤窒げ︶という意味におい. てそれに対立するもののごとくとらえている︒︵前掲書ではこの特徴を﹄彗置蔚訂岸︵彼岸性︶という言葉で表現し ている︒︶. しかし﹁ハーマンと啓蒙主義﹂︵饒與昌實冒暮︷畠o>目穿犀昌目印q︶の著者ルードル7・ウンガー︵宛己O岸ζ轟費︶. 二242.

(5) 63. ばシ呂トゥルム・ウント・ドラングと浪漫派を広義の浪漫主義として結びつげて前者を感情的浪漫主義︵o①毒匡實o・. 昌竃寿︶︑後者は想像的浪漫主義︵雲竃冨浄冒昌彗寿︶と呼んでいる︒またベルリン大学の文芸学の教授であったユ. リウス・ぺークーゼン ︵旨茅ω手8易書︶はその著﹁ドイツ浪漫派の本質規定﹂︵巨⑦幸霧彗臣霧巨昌昌⁝oq色9. 宗鼻㎝争彗肉o昌彗寿︶の中でシ.一トゥルム・ウント・ドラングを前期浪漫派とも称している︒リカルダ・フーフ. ︵雲o實計=9︸︶やオスカル・ヴァルツェル︵O祭胃峯巴轟−︶が説いているようにシェトゥルム・ウント・ドラン. ︵q事①峯覧叶霧︶の意識化. グが本能的︑衝動的︑熱情的で︑頭脳︵穴o忌︶と心臓︵葭①冨︶との分裂を感じ︑思惟を感性の対立とみたのに対し︑. 浪漫派は絶大の知識慾および意識︑自覚︑教養の欲求をもつていて︑無意識的なもの. ︵霊峯奏尋o&竃︶に努めたという相異はあるにしても︑両者には形式解体︵︸o・昌竃由α害轟︶や非合理主義 ︵H昌き昌告§︶の面において共通する点があることも否定できない︒. 前述Lたヴァンニアィーゲムの﹁近代ヨーロヅパ・アメリカ文学史﹂は比較文学という立場上致し方ないことであ. るが︑ゲーテやシラーの古典主義をも含めてすべて﹁浪漫主義前派﹂という頂目に含めている︒フランス人から見る. とドイツ文学がすべて浪漫的に感ぜられるのかも知れたいが︑ドイツ文学研究者としてはこのようた分げ方はいささ か承服し難いものがある︒. 戦前からマルクス主義陣営の文芸評論家︑文学史家として有名で戦後は故国くンガリーのブダペスト大学の教援に. なったゲォルク.ルカーチ︵Ω8お5泰易︶の見解は非常にてきびしいもので︑彼によれぱ啓蒙思潮の悟性は封建. 的絶対主義を仮借なく批判することによってフランス革命を準備したのである︒従ってドイツの反動思想家にとって. は啓蒙の悟性に何とかげちをつげてのちのロマン主義の反動的傾向を利するために反悟性的なシュトゥルム・ウント. ・ドラングという伝説をでっち上げたのだというのである︒彼は次のように書いている︒. 1243.

(6) I244. ﹁啓蒙主義とシユトウルム・ウント・ドラングなかんずく﹃ヴニールテル﹄とはたがいに相容れぬ対立関係に立つ. ものだというのが︑ブルジヨア文学史ならびに俗流杜会学の常套的見解である︒このような文学伝説はすでにロマン. 派の才媛マダム.ド.スクール︵巨乱頸目o宗ω$巴︶のかの有名な著書﹃ドイツ論﹂︵U〇一︑>=o昌品屋︶をもつては. じまっている︒それはまた進歩的広市民的文学史家によっても継承され︑ゲォルク・ブランデス︵o8お軍彗宗ω︶. の著名な諸著︵註:﹃十九世紀文芸思潮﹄とか﹃ゲーテ論﹂を指すものと思われる︶が媒介になって似而非マルクス. 主義の浴流社会学のなかに入り込んでいる︒当然のことながらグンドルフ︵Ω冒庄oδ・ コルフ・シュトリヅヒ. ︵望︑一︒一︑︶といった帝国主義の段階におけるブルジヨア文学史家たちがこの伝説に随喜の涙を流しながらさらにそれ. を育て上げる︒思うに啓蒙主義とドイツ古典主義との間に万里の長城のごとき障壁をもうげ︑ロマン派後期の反動的. な傾向に好都合なように啓蒙主義を軽視する最善のイデオロギー的手段はこの伝説をおいてないからである︒﹂と︒ ︵﹁ゲーテとその時代﹂︵○O①手①⁝︷邑罵N9︶︶. グンドル7やコルブやシユトリヅヒが帝国主義の段階におけるブルジヨア文学史家であるかどうか︑また彼らが啓. 革命︵一七八九年︶︑ナポレオンの皇帝宣言︵一八〇四年︶とその後の動乱︑ナポレオンのモスコーからの敗退︵一. ︵一七五六−一七六三︶あり︑アメリカの独立戦争︵一七七五−一七八三︑一七八六年庁﹂独立宣言︶あり一フ一7ンス. げていることは否定できないであろう︒ゲーテ個人をみてみても彼の一生︵一七四九−一八三二︶の間には七年戦役. の中で試みた様式史の方向の中にはルカーチの指摘するように余りにも時代の背景を忘れて壮大な観念の塔を築きあ. やコル7の理念史の方向や︑シユトリヅヒがその主著﹁ドイツ古典派と浪漫派﹂︵U窒募−き室竃閉寿⁝庄射O冒竃寿︶. ︵巨一︒︑︒一︒︑ぎ︑眈︒目︑︒チ印δが目指している様々な方向︑たとえぽルカーチのあげているグンドルフのゲオルゲ的方向. 蒙主義とドイツ古典主義との間に万里の長城のごとき障壁をもうげたかどうかはともかくとして︑ドイツの文芸学. 弘.

(7) 八二一年︶︑ウィーン会議︵一八一四−一八一五︶︑神聖同盟の成立︵一八一五年︶︑パリの七月革命︵一八三〇年︶︑. リオンにおげる労働者の蜂起︵一八=二年︶等々があり︑歴史的に見てヨーロヅパにおいてブルジヨアジーが支配階. 級となり︑一八三〇年における七月革命以降にはプロレタリアートさえ登場した時代なのである︒自ら宰相として政. 務を取り︑カール・アウグスト公に従ってナポレオン軍とも戦いワイマールが占領される浮目にもあったゲーテがこ. の時代の動きに無関心であったとは考えられない︒後に浪漫派の指導者として反動的な傾向を示すよう︸﹂なったフリ. ードリヅヒ・シュレーゲルさえ﹁フランス革命とフィヒテの知識学とゲーテのヴィルヘルム・マイスクーは時代のも. っとも大きた傾向である﹂といっている︒Lて見れぽ時代の背景︑歴史の動きを無視して文学史を考えることはでき ないであろう︒. ︹現在は東独に入ってい. マルクスとエンゲルスは当時協同著作をしていたので︑どちらが主導権を取って書いたものか分らないが︑この二. 人が﹁共産主義宣言﹂を発表した頃書かれた文章に次のように書かれている︒︵フイマール. る︺の国民書房からでている﹁Ω8穿①−Φぎ︐器げ昌︸富H目冨胃①N〇三の中のヴァルター・ヴィクトル ︵ミ巴冨H. ﹁われわれはもち論ここではゲーテ自身について詳しく論ずることはできたいが︑ただ一つの点に注目したい︒そ. れはゲーテがその作品の中で当時のドイツの杜会に対して二重の態度をとっているということである︒ある時は当時. の杜会に対して敵意をもっていて︑﹃イフィゲーニエ﹂やイタリアヘの旅行中におげるようにわずらわしいものから. 逃れようと試みたり︑﹃ゲヅツ﹄や﹃プロメトイス﹄や﹃ファウスト﹂になって反抗したり︑メフィストテレスにな. って醐笑を浴びせたりしている︒しかしまたある時は当時の杜会に対して友好的な態度を取っており︑おとなしく恭. 頼の態度を表わしている︒例えば﹃クセー二︑一ン﹄や多くの散文においてそうである︒ψ︑︷たフランス革命について語. 1245. ≦oδ﹃︶の序文による︒︶. 術.

(8) 66. っている文章におげるように押しよせる歴史の動きにさからって当時の社会を擁護さえしている︒⁝−⁝ゲーテの心. の中では環境のみじめさに嘔吐を催している天才的な詩人と︑それと休戦条約を結び︑このみじめさに慣れざるをえ. ないと感じている用心深いフランクフルトの市参事会員の息子︑あるいはワイマールの枢密顧聞官の二人が絶えず戦. っていた︒⁝⁝⁝かくしてゲーテは時には巨人のごとくなり︑時には小人のごとくなった︒時には反抗的︑潮笑的で. 世の中を軽蔑する天才になり︑また別の時にはおどおどして穏当で狭量た俗人にたるのである︒ゲーテもまたドイヅ. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. のみじめさに打ち勝つことはできなかった︒それどころか彼はこのみじめさに打ち負かされたのである︒そしてこの. ようにドイツの最大の詩人さえこのみじめさに征服されたということはこのみじめさが﹃内部からぱ﹄︵くg甘冒g. ぎ墨畠︶全く克服できたかったということに対する最良の証拠である︒ゲーテは非常に普遍的で活動的な性質で︑肉. 体的な在であったので︑このみじめさからの救いをシラーのようにカント哲学への逃避の中に見出すことはできなか. った︒−⁝⁝彼の素質︑彼のエネルギー︑彼のすべての精神的方向は彼を実践生活に向わしめたのであるが︑彼が見. 出した実践生活は全く悲惨なものであった︒このようにゲーテは自分が軽蔑せずにはいられない生活領域の中に生存. しながら︑しかも自分が活動できる唯一の領域としてこの領域にしぱりつげられているというこのジレンマに絶えず. さらされていたのである︒そして年を取るに従って巨大な詩人は戦いにつかれて取るに足らないワーマールの大臣の. 背後に退いてしまったのである︒﹂と︒このマルクス︵あるいはエンゲルス︶の見解が全面的に正しいかどうかは詳. 綱な検討を待たなげれぼならないであろう申が︑時代の背景を考えなけれぽならな︑いという点では極めて示唆深いもの である︒. マルクスは前述の文章においてしぼしばドイヅのみじめさ︵亀oく宥冨︶について語っているが︑ここでいうドイ. ツのみじめさとは一体何を意味しているのであろうか︒それは先進した英・仏両国に対する立ち遅れ︵肉ま訂轟己常. 工246.

(9) 67. 駈6とドイヅの市民階級の弱さ︵ω臣ミぎざ︶をいい表わしている︒そしてその淵源は遠く一五二五年のドイツの大. 農民戦争にあった︒ルカーチによると︑ドイツ杜会がその発展の遣をあやまった転回点はこの年にあるト﹂とをすでに. アレキサンダー.フォン.フンボルトも認識していたという︒フランスやイギリスにおいては大規模な農民の反乱が. 敗北に帰したが︑それがために・﹂の両国の進歩的な発展の遣は次して途切れはしなかった︒と−﹂ろがドイツでぼ農民. 階級の敗北から一つの国民的な破局が生じており︑しかもこの破局の結果は数百年にわたってその跡をとどめたので あるo. 英仏両国では解体しつつあった封建制杜会の階級斗争から生まれたのは絶対君主制であり︑しかもこの絶対君主制. の成立によって国民的統一を作りだす第一歩が印されて・いる︒と・﹂ろがドイヅでは農民戦争の敗北が生み出したもの. は反動的反国民的な特殊な政体︑すなわちドイヅの小侯国の割拠状態であった︒これらの小侯国が勝利をおさめ︑そ. の地歩を固めたという事実はドイツ国民の封建的な分裂状態を永遠化し︑動きのとれぬものにしたことを意味してい. た︒たくさんの小侯国が独立していたことこそ数百年にわたってドイツの国民的統一をさまたげるもっとも重大な障. 害となったのである︒このようにしてドイツが経済︑政治︑文化の各方面で非常に遅れて近代的市民化の道をふみは. じめたことがマルクスのいうドイヅのみじめさと関係があることはいうまでもない︒. さてこのようにイギリス︵ここでは早くも一六四〇年から一六六〇年の問にプルジ亘ア革命が行われていた︒︶や. フランスが国民的発展において歴史的に準傭されていたプルジョア革命を完成しようとしている時に︑ドイッではや.. っとプルジヨア的な啓蒙が準傭されなげればならなかったということは︑その弱点ともなりまた長所ともなった︒そ. の弱点というのはその市民的思想が何らの政治的な現実に支えられず︑従ってまた革命的た実践により確認されたり. 訂正されることがなく︑観念的な抽象の世界に逃げ込む危険をもっていたということである︒しかしたがらこの弱点. 124フ.

(10) は裏を返せば長所ともなりうる屯ので︑ドイツの状態の不自由さに烈しく矛盾を感ずれぼ感ずるほど市民的思想は一. ウント・ドランドの社会批判において強い反響を見出したのである︒ルヅソーが﹁自然へ帰れ﹂と叫んだ時︑ドイツ. していたが︑逆に杜会状態の批判においてはヴォルテールや百科全書家をはるかに超えていたので︑シュトゥルム.. ヅソーの民主主義的たイデオロギーに結びついたのである︒ルヅソーは宗教問題においてはヴォルテールよりは後退. いたので︑シュトゥルム・ウント・ドラングの政治的な急進主義はヴォルテールの反宗教的な啓蒙主義ではなく︑ル. のも英仏の文学や哲学であった︒しかも当時のドイツにおいてはまだ宗教的感情がまだ国民の各層に深く根を下して. かを書いているが︑この例が示すようにシュトウルム・ウント・ドラング運動がイデオロギー的支柱として求めたも. ーテは﹁詩と真実﹂の中でシュトラースブルク大学時代に友人達といかに熱心にフランス百科全書家たちを研究した. フン・リク回ベデイス︸. 運動もその作品の中では困乱した未熟さを示しはしているが︑当時の社会的政治的な問題の解決に努力している︒ゲ. が外国の手本を越えて国民的な自主性の上に立ちうる地盤が用意されたのである︒シュトゥルム.ウント・ド一フング. 国民的た諸関係へ応用したことである︒レヅスィングの文学的ならびに美学的理論によって初めてドイツの前衛市民. ギリスやフランスの啓蒙運動に範を取った活綴な市民的イデオロギーの発展であり︑もう一つはこのイデオ回ギーを. グの著作の中にはドイツにおげる市民的戦いにとって決定的な二つの歴史的契機がはっきり表われている︒一つはイ. でなげれぼならなかった︒そしてこの戦いを初めて歴史的意識にまで高めたのはレヅスイングであった︒レヅスィン. 真の啓蒙とはドイツにおいては国民的な統一への戦いが市民階級の解放の戦いとして行われる地盤を用意すること. はまさにこのためである︒. ツの封建的な立ち遅れに対する怒りや抗議とともに市民階級の政治的未熟や政治的理想の不明瞭さが表われているの. 層の烈しさをもって自由への遣をとらざるをえなかったのである︒シュトゥルム.ウント.ドラング運動の中にドイ. 腿. 1248.

(11) 69. の市民階級は叫びを正しく︑﹁自然な﹂つまりあらゆる宮廷的因襲を離れた﹁理性的な﹂杜会秩序への訴えと理解し. たのである︒従ってレヅスィングまでのドイツの啓蒙主義の第一段階においてはアクセントが理性におかれ︑ヴォル. テールを先頭とするフランスの啓蒙家が重んぜられたとするならぼ︑シュトゥルム・ウント・ドラングにおいてはル. ッソーのスローガンが取り上げられ︑すべての感情が開かれる自然に重点がおかれたといってよいであろう︒. 以上シュトゥルム.ウント.ドラング時代の歴史的背景を種々考察してきたのであるが︑このような歴史的観点に. 立って見れぱシュトゥルム.ウント・ドラング運動が啓蒙時代の継続であってその反動でないことはおのずから明ら. かであろう︒むしろその深化であるといってよいであろう︒シュトゥルム・ウント・ドラングの中には啓蒙主義の本. 質的な煩向がより一層古同められた形で表われている︒啓蒙主義の平俗な自然観察に代って深い自然との結合性や熱狂. 的な自然生活が登場し︑善意にみちた改革や控え目な論争に対して公然たる反抗︑強烈た杜会批判の攻撃が︑理性的. な自由の概念に対Lて烈しい自由への欲求がとって代ったのである︒確かに啓蒙時代には理性︵<o冒彗εと悟性. ︵<①冨冨ま︶が前面に立ち伝統的な権威による後見を拒否Lはしたが︑感覚もまた重要な要素であって︑これはレッ. スィングによって認識され論難された理性思考の浅薄化と機械化を防ぐ助げとなった︒シュトゥルム・ウント・ドラ. ングにおいては感覚︵■冒忌己⁝σq︶は感情︵o①雷巨︶にまで高められたのである︒. シュトゥルム.ウント.ドラングが啓蒙主義の新なる一章︵曽b篶焉H>チoげ邑こ①H>仁麸腎實①q︶であって︑反. 対運動︵○晶彗τミ品昌印膏︶ではたかったということは年代的にも確められる︒通例シュトゥルム・ウγト・ドラン. グ時代と称されているのはゲーテの説に従うと一七七一年から一七八三年までの十三年間である︒一七七一年はゲー. テの処女作﹁ゲヅツ・フォン・ベルリヅヒンゲン﹂︵Ω9Nく8雰H5巨轟O目︶の原本である﹁ゴヅトフリート・フォ. ン.ベルリッヒンゲン伝﹂の書かれた年で︑一七八三年はシラーの﹁たくみと恋﹂︵穴ぎ巴Φ§︹一巨①ざ︶の現われた. I2{9.

(12) 70. 年である︒この年代の分げ方には異論があり︑クラウス・ギューズィ︵匿彗ωΩ壱一︶の指導のもとに編集されている. ﹁ドイヅ文学註解﹂︵胃−晋奪昌Oq9豊H創雲一碧︸竃箏華算胃︶叢書の中の﹁シュトゥルム・ウント・ドラング﹂は一. 七七〇年から一七八九年までをその時期としており︑またバー︑ミンガム大学教援であるロイ・パスカル︵勾oく霊竃生︶. の﹁ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラγグ﹂︵↓ぎΩω・昌讐ω9H冒昌︷UH甘轟︶では一七七〇年から一七七八年. までとしており︑一七八一年に初めて処女作﹁群盗﹂︵冒o内誉げ實︶の出たシ一フーを別扱いにしている︒そのいずれ. をとるにしても尊ら啓蒙主義の指導着とされているレヅスィングの戯曲﹁工︑ミリア・ガロヅティ﹂︵向邑茅○巴o婁︶. が出版されたのは一七七二年であり︑また﹁賢考ナータン﹂︵Z饒臣彗宗Hオ多①︶が出たのが一七七九年で︑﹁人類. 教育論﹂︵睾ま︸昌oq宗ω旨彗竃ざ目oqgo巨8まω︶の出たのが一七八O年でともに時代的にはシュトゥルム・ウント・. ドラング運動の時代に入るのである︒してみれば啓蒙時代の反動としてシュトゥルウ・ウント・ドラング運動が現わ. れたのだと簡単に割り切ることはできないであろう︒やはり全ヨーロヅパ的な運動のドイツ的な表われとみるべきで. あって︑その観点に立てぼシュトゥルム・ウント・ド一7ング運動は啓蒙主義の深化した形とみるのが妥当であろう︒. このような考え方は必ずしもマルキシズム的た偏ったものということはできない︒コルフも啓蒙思潮とシュトウル. ム・ウント・ドラングの徴妙な関係について言及しており︑次のように書いているからである︒. ﹁シュトゥルム・ウント・ドラング運動の文学はただ単にシェトゥルム・ウント・ドラングの諸理念を表現するだ. げでなく︑また全く顕著な程度に啓蒙思潮の理念をも続行する︒その結果われわれは系統を異にする二つのイデオロ. ギー問において︑何が啓蒙思潮のある種の理念の徹底的た継続として︑また何か啓蒙思潮の精神に対する反抗として. 把握さるべきであるかを決定し区別しなげればならないという事態によってこの比較は特殊な困難さを提出する︒つ. まりシュトゥルム・ウント・ドラング運動は啓蒙思潮の消極的理念と協同しているが︑啓蒙思潮の積極的理念とは対. 1250.

(13) 71. 敵関係にある︒ツェトゥルム・ウント・ドラγグ運動は啓蒙思潮と同じく︑その主観性の一切の制約に対する個性の. 自由のための戦いを戦うが︑それ故に啓蒙思潮ならびに理性法則による主観性の制約に対して戦う︒それ故にある点. においてツユトゥルム・ウント・ドラングの運動は啓蒙思潮の最高潮としてあらわれるのと同様に他の意味において は逆に啓蒙思潮の危機として出現する︒. 啓蒙思潮のきわめて普遍的な理念は︑教会︑専制君主制︑社会上の封建制度︑経済上の重商主義による個体の束縛. に対する個体の自由の理念である︒啓蒙思潮の心魂は良心の自由︑政治的自由︑経済的自由としての種々多様なる形. 式をとる自由の理念である︒⁝⁝⁝自由の理念はシュトゥルム・ウント・ドラγグにとってもまたその人生観の中心. 点に位している︒またここでは啓蒙思潮よりもより極端に人間の自然の権利の名において教会の信仰︑階級政治︑生. に敵意をいだく道徳の束縛からの個体の解放が叫ぼれる︒この点においてシュトゥルム・ウγト・ドラγグは啓蒙思. 潮と相並んで︑否啓蒙思潮に先駆し︑革命的に前進する︒これはフラγス革命のドイツ的な形式である︒Lかしまさ. にその故にシュトゥルム・ウント・ドライングは他の点において十分に革命的であるとは考えられない啓蒙思潮の理. 念を回顧するのである︒なぜなら啓蒙思潮にとって自由の総体として通用するもの︑すなわち理性法則下への個体の. 自発的な服従はまさにシュトゥルム・ウント・ドラγグにとってはただ隷属の高級な形式としてLか考えられぬか. ら︒二つの運動は自由をえんと努力するが︑各自は自由の理想に異なる意味を結びつける︒啓蒙思想が理性法則の名. における歴史上の権威に対する反逆であれぱ︑シュトゥルム・ウソト・ドラングもまた生の名におげる理性法則に対 する反逆であるLと︒. さて前置きが余りにも長くかかりすぎたような感じがするが︑前述したように先進したイギリスやフランスに対す. る立ち遅れのためにシュトゥルム・ウγト・ドラγグ運動の中にはその怒りや政治的未熟さが様々に矛盾した形で表. ]251.

(14) 72. われている︒そのことをもっともはっきりした形で示←ているのはその国家観である︒以下その考察に入りたいと思 うo. まず当時の第一の特徴というべきものは政治思想および世論の欠如である︒シニトウルム.ウント.ドラング時代. より少し前に専制君主に対して抗議を行い︑ドイツ人に自由の理念をかかがげてプロシヤ王の貧欲な権力政治を攻撃. してフランス革命の理想を初めて支持したのはクロヅプシ一︑トヅクであった︒しかしながらドイツの内部に自分の目. 指す理想の実質的な意義を見出すことはできず︑クキツスによって描かれた古代ゲルマン人の中にその理想の形態を 見出さざるをえなかったのである︒︵戯曲﹁ヘルマンの戦い﹂︑碩歌﹁わが祖国﹂︶. い・わゆるゲヅティンゲγ森林同盟︵OOま轟竃雷巴口ぎ邑︶と称されているフォス︑シュトルベルク兄弟︑ツユ!. バルトなどはクロヅプシュトックの影響をうげて暴君の打倒と自由の勝利を夢みた︑この中で特げ﹂シ一︑−バルトは專. 制主義を攻撃してイギリスや北アメリカの民主的自由を賞揚したため︑ブニ.一ルテンベルク公︵=︒︑ド︒oqく︒旨峯饒︑.. 誌冒τお︶力−ル・オイゲン︵穴彗一向轟彗︶︵シラーは後にこの暴君の手をのがれてマンハイムヘ脱出したのであ. るC︶によってホーエンアスペルクに十年の長きにわたって監禁されたのである︐︑しかしこのような傾向が一般的な. 世論として形成されるようなことはなく︑メルクも皮肉まじりにある友人にあててこのような詩人達は﹁空の蝶を追. いかけるように︑自由と幸福の青空を追いかければすぐ手に入る﹂と思っていると書いている︒ゲーテはシ︑一トルベ. ルク兄弟と一フイン河を上ったことがあったが︑その時に彼らがフランス国民の態度に熱狂するのや︑スイス共和国の. 自由な国土に有頂天になるのに加担することはできなかったのである︒. シ圭トゥルム・ウント・ドラングの人達に影響を与えたと思われる唯一の実際的な国家理論はユストウス.メーザ. ー︵旨誓姜竃g雲︶のものである︑彼は一七二〇年オスナブリ一︑ツク︵○貿註き穿︶で生れ︑一七六八年以降はオス. I2三2.

(15) 73. ナブリックという小国家の有能で経験豊富な行政官であった人で文筆家とLても活躍した人である︒彼の省察は直接. に実際的な関心から出たために当時のドイツではみられたいようた具体性をもっている点で独特なものである︒一七. 六八年以来オスナブリュツクの地方紙に発表された﹁愛国的幻篠﹂︵霊己9ぎざ勺臣巨麸一〇目︶において︑メiザーは. 自己の小国のほとんどすべての経済︑杜会︑文化の諸間題を論じているが︑彼はこの中で大国家やその官僚制度に対. して︑行政の能率が地方的自治的な連帯性を無撹してまでも高められているという理由で烈しい嫌悪感を表明してい. る︒彼はどの国家も︑どの町も村もその特殊な歴史と性格に応じた独自の憲法をもった方がよいと主張し︑伝統的な. 自治的なきずなを尊重し︑昔からの自治団体や分限やギルドを維持しようと試みた︒工場生産の利点を知ってはいた. が︑杜会組織の中でできるだげ困乱を少なくしながら新しい生産の形式を作り出そうとしたのである︒また彼は繁栄. する農民が健康な社会の基礎であると考え︑専制国家に対する反感や資本主義によって引き起される変動に対する敵. 意は種々な封建的な特権︑時に農奴制度まで擁護させるに至っている︒しかしこのような見解も別の所では﹁専制君. 主国家においては君主がすべてであって︑ほかの老は群衆にすぎない︒最喜の体制は王座より徐々に段階を追うて下. るものであって︑どの段階もそれ自身の名誉の等級をもち︑第七の段階の権利も第二の段階の権利と同じように維持. きれなければならない︒﹂といっている所を見ると︑政治権力の集中に対する反感の余り出たものであろう︒. このように専制君主に対する攻撃という面や庶民の権利を認めるという点で進歩的な面をもちながら︑資本主義の. 発展に目をそむけ封建的な特権を擁護するというようた反動的な面をも同時に具えているメーザーの見解はとりもな. おさず当時のドイヅがおかれていた政治的ジレンマの反映であって︑シュトゥルム・ウント・ドラングの人達もこの. ジレンマを免れることはできなかったのである︒前述のシ.一ーバルトも貴族階級を専制主義に対する唯一の対抗考で. あり︑君主独りの独裁政治に対する防壁であると考えていたほどであった︒ゲーテも﹁ゲッツ・フォン・ベルリヅヒ. 1253.

(16) 帖. ンゲン﹂や﹁エグ毛γト﹂においてメーザーのほめたたえるようなタイプの指導者や杜会を称揚している︒ゲーテ︑. ヘルダー︑クリンガー︑シラーなどが後に貴族に列せられているのもこのような観点から眺めると興味深いものがあ るo. さてこのような国家観と並んでシュトゥルム・ウント・ドラング運動の底を流れているもう一つの特徴は︑彼らが. 環境のみじめさに烈しく抗議する余り政治組織という考えそのものを非難することである︒彼らはルソーの﹁人間不. 平等起源論﹂の中に自分たちの不満の代弁されているのを見出し︑ルソーに従って近代文明をしりぞけて理想化され. た過去や個人や家庭の幸福の中にその代償を求めた︒このような政治組織への反感がもっとも鮮明に表われているの. はライゼブィツツの戯曲﹁クレントのユーリゥス﹂︵旨巨血くg↓彗g芹︶である︒この戯曲の中で小国タレントの君. 主は息子のユーリゥスに国家の利益のために︑つまり啓蒙され君主︑﹁人民の第一の従僕﹂として行動するために愛. する女ブラγカをあきらめるように要求するのであるが︑ユーリゥスはその愛のためにあらゆる杜会的責任を投げ捨 て牧歌的な寂蓼の中へ逃れようとするのである︒彼は次のように絶叫する︒. ﹁人問はみんな幸福になるためには国家の中に閉じ込められなげれぱならたいのか︒国家の中ではどの人間も他人. の奴隷であって︑誰も自由であることがないのだ︒そこでは誰もが自分の奴隷をしぱりつげている鎖のもう一方の端. にしぱりつけられているのだ二⁝⁝−国家は自由を殺すものだ︒﹂︵第二慕第五場︶﹁国家は自由を殺す﹂︵U宵ω3算. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ま童雲o軍o字①ε1この言葉ほどシュトゥルム・ウント・ドラング運動の反抗の嬢叫びの烈しさを表わした言葉. はないであろう︒ユーリゥスの求める自由は法律の中の自由ではなく︑法律からの自由たのである︒クリーガーの. ﹁双生児﹂︵目oN色旨轟①︶の主人公は杜会悪や圧制的権威へ反抗するのではたく︑自分を次男として生んだために. 父親の権威の相続考となりえないことを運命でけた自然の秩序そのものに反抗するのである︒杜会の束縛を逃れて人. I254.

(17) 75. 里離れた田園へ逃避するというテーマは︑ゲーテの﹁ヴェールテル﹂︑前述したライゼヴィヅツの﹁ユーリゥス・フ. ォン・タレソト﹂︑クリγガーの﹁悩める女﹂︵U塞一①竃窒宗峯O学︶︑シラーの﹁群盗﹂﹁たくみと恋﹂など︑シ一一ト. ゥルム・ウント︒ドラングの作品に頻繁に表われるものである︒. このような杜会的行動から逃避するタイプと並んでシュトゥルム・ウント・ドラングの作晶に流れているもう一つ. のタイプは行動する巨人である︒若きゲーテの作品の中にはこの二つのクイプiゲヅヅとヴニールテル︑プロメト. イスとガニメートが両凄している︸﹂とは周知の事実である︒クリンガーの戯曲にあいても﹁ズィスそーネ・グリザル. ドー﹂︵黎ω嘗o篶9一窒匡o︶のような偉大た武人と﹁双生児﹂におげるグェルフォーのようたいくじのない感情的な人. 間の対立として表われている︒またゲーテはマホメートやジュリャス・シiザーについて書く腹案をたてたことがあ. ったが︑ここで注意すべき点は−﹂れらの英雄たちがほとんど例外なくその行動の政治的内容に関係なくほめたたえら. れていることである︒例えばレγツはシェイクスピアの描いたブルータスに深い感動を覚えたが︑彼が一番感激した. のはシーザー暗殺の運命の前夜の緊張した不安を描いたシェイクスピアの筆致のすぱらしさであった︒ヘルデルもプ. ルークスに関する小戯曲を書いたが︑そのテーマは自已の運命を統御できない人聞の無力さであった︒このような政. 治的関心の欠如には︑コットシェットとの論争で有名たスイスの文芸批評家ボードマーも首をかLげている︒ボードマ. ーから見ると︑ブルータスは反逆者であり︑ゲーテがシーザーを﹁人類の栄光の真髄﹂であるとほめたたえる余り︑. ブルータスが背後からシーザーを殺しただけでとるに足らない悪漢であると考えているのを奇妙に感じたのである︒. ボードマーはある友人にあてて﹁政治的た従属を身にひしひしと受げているドイヅ人がこんな大胆不敵な理想をもっ. ているたんて不思議なことだ﹂と書いている︒このように考えてくるたらぱ︑シュトゥルム・ウγト・ドラング運動. の人たちが政治的な内容を無視してただ行動やヒロイズムだげを理想化しているのはドイツにおいて君主の権力に対. 1255.

(18) 76. する政治的反抗がなかったことやひいては政治生活そのもの不振のせいであるということがでぎるであろう︒. このことをもっと確実に裏づけてくれるものは彼らのアメリカ独立戦争や戦争に対する態度である︒前にも述べた. ようにシュトゥルム・ウント・ドラング運動の最中に︑一七七五年にアメリカの独立戦争が起ったのであるが︑ヘヅ. セン方伯が一万二千八百人のヘヅセン人を英国人に売渡すなど三万人のドイヅ人が傭兵として英国へ送られたために. そのシ日.ツクは直接ドイツ全体に広がった︒クロヅプシュトックやその傾倒者の中のF.L.シェトルベルクなどは. 植民地開拓者の主張を擁護したし︑シューバルトも植民考を弁護して﹁植民者の自由の歌﹂︵軍Φ掌①一邑一&乱墓閉. 内〇一〇邑9彗︶のような碩歌を作ったり︑その﹁ドイツ年代記﹂︵U窒誌o訂O写實寿︶の中で彼らを賞讃した︒しかし. 大部分の同時代の人たちはドイツにとっては余り実際的な関係のないこのような感情的興奮には無関心であった︒そ. して当時のフランス人とは反対にアメリカ独立戦争のもつ重大た意味を理解することができなかったのである︒軍事. 知識のあることが自慢であったレンツは独立しようとするアメリカ人を攻撃する軍に志願したハンノーヴァー出身の. リンダウという友人に向って﹁植民地の連中にお前たちは英国憲法の本性にもとった自由のために戦っている馬鹿考. だと告げてやれ﹂と書いている︒︵一七七六年三月の書簡︶そしてレンツ自身もリンダウの例にならおうと思ったの. である︒たまたま彼の書いた戯曲﹁シュトゥルム・ウント・ドラング﹂︵ω言H目⁝庄Uh彗的︶がこの文学運動の名称. となったためにこの運動の代表的詩人のように誤解されているクリンガーはドイツでは物質的な基礎を見出すことが. できず︑オーストリアの軍人︸﹂なったり︑一七八○年にはゲーテの義兄弟であるシ一一ロヅサーの世話でロシアの軍. 人となり後には隆軍中将になって貴族にも列せられた人問であるが︑彼もアメリカ独立戦争のもつ意義には全く無関. 心で檀民地軍と戦う軍の中で将校の地位をえようとしてきゆうきゆうとしていた︑︑総じてシ.一トゥルム.ワント.ド. ラングの文学作品においては戦争というものはただ青年たちがその余ったエネルギーを発散し︑個人的な生活の圧迫. 1256.

(19) 77. から逃れだすための手段としてみなされている︒. シラーが一七九七年に﹁ヴェールテルの悩みへの対偶﹂︵重目勺昌麸巨薯考雲亭艘餉−①己聲︶とい副題をつげて発. 表させたレンツの未完の小説﹁森の隠老﹂︵U雪オ巴夢H己9︶の中ではレンツ自身の自画像であるロシアの青年ヘル. ツは植民地軍と戦って富と名誉をえるためにヘヅセン軍隊に参加する︒ゲーテの若きヴェールテルも軍隊に志願しよ. うとするし︑クリンガーの﹁シュトゥルム・ウント・ドラング﹂の中の青年たちは実際にアメリカの戦場へ向うので. ある︒これらの青年たちは戦争というものを純粋に主観的に行動やヒロイズムヘの手段とみているのである︒クリン. ガiは﹁戦争のあるところにおれはいる﹂と書いているし︑︵一七七九年四月二士二日カイザーあての書簡︶︑﹁ツ.一. トゥルム・ウント・ドラング﹂の主人公の口を通して﹁戦争はおれの知っているたった一つの幸福だ﹂といわしめて いる︒︵一幕一場 ︶. 以上の考察によりドイツの市民階級が無力であったために実際的な革命の前提を欠いていた結果がシュトゥルム・. ウント・ドラング運動の国家観の上に様々な矛盾した形で反映していることが明らかになったであろう︒ドイツの市. 民階級は一七九二年までは7ラγス革命に同情的であったが︑ルイ十六世が処刑され政治権力がジャコバン党に移る. とともに︑フランス革命を最後まで支持したビュルガー︵ρ>.雲お雲︶やフォルスター︵○■ま曇g︶など少数の. 人たちを除き︑革命の実際の結果に恐怖をおぽえて﹁精神革命﹂への道を辿った︒カント哲学によって代表されるド. イツ観念論が次につづく古典文学および哲学の指導的な方向になった︒ト﹂ういう見地から考えればドイツ哲学におげ. る観念論の勝利はドイツの市民階級の進歩的た発展の生み出したものではなく︑7ランス革命の結果に対する恐怖か. ら生れたものといえよう︒ドイツの観念論哲学老たちが抽象的思弁的な形態においてのみその思想を展開することが. できたのは実際の革命に尻込みして﹁精神革命﹂への逃避の道を選んだドイツの市民階級の内面的無力の結果であっ. 125フ.

(20) 鴉. た︒そしてこのようなドイヅのイγテリゲγチャの古い世代はフランス革命のテロリズムを非難しながら︑少くとも. 市民革命の理念にしがみつくのであるが︑もつと若い世代はヘルダーリーンやジャγ・パウルなどの例外は別として. 封建的反動に身をゆだね︑浪漫派を形成するに至るのである︒その間題にはまた他日触れる機会があるであろう︒. 1258.

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参照

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