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中 世 イ ン グ ラ ン ド の 村 落 共 同 体 と 村 法

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(1)次. 力. 口. 藤. ー一二七〇年〜一三四九年の村法史料の検討. 中世イングランドの村落共同体と村法. 目. 一︑本稿の意図と対象の限定. 二︑村法 三︑村法を通してみた村落共同体の特質 四︑展望. 聞︑本稿の意図と対象の限定. ︵1︶. 哲. 実. 中世が︑はじめて独自の対象として︑学問研究のうちにあらわれるのは︑十九世紀前半における揖マソ主義運動に. おいてであるといわれている︒そこでは︑いわば個人主義的普遍性という近代的原理に対する反証としての中世的集. 団主義が前面に出され︑それは近代世界への批判の根拠とされる︒この運動の主体は︑中世を社会的にも文化的にも. 九七. 暗黒であると断定する近代啓蒙主義と挟を分かち︑中世世界を価値的に承認する方向へ進んだ︒同時にしかしこのロ 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(2) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. ︵2︶. 九八. マン主義は︑学問研究上の運動においては︑近代社会や近代思想をも相対化し︑中世世界にも一定の独自の特性と構. 造が見出されねばならないことを告知したのである︒私は︑近代批判を前提とした将来の我々の活路を中世世界の研. 究の中に見出せるか否かは留保しなければならないが︑しかし︑中世を単に前近代という否定態あるいは近代の欠如 ︵3︶. 態としてのみ考える立場に身を置くつもりはない︒むしろ︑中世を近代から構造的に区別した上で︑その社会の独自 性を考察してゆきたいと思う︒. 本稿は︑右のような立場に立って中世イングランドの村落共同体と村法を扱う︒中世の共同体を素材として扱う以 ︵4︶ 上︑大塚久雄﹃共同体の基礎理論﹄︵岩波書店︑一九五五年︶を中心とした大塚史学の共同体論を素通りするわけには ︵5︶. ゆかないが︑共同体研究に一歩を踏み出したばかりの私には︑それを全面的に論評することはできない︒それゆえ︑. 若干の点に言及するにとどめたい︒大塚久雄氏における共同体論の特質の一部は︑次の通りであろう︒氏は︑封建社. 会の﹁共同体﹂を封建的諸関係の基礎と見倣し︑封建的生産様式の崩壊と資本主義的生産様式の展開という局面︵い ︵6︶. ︵7︶. わゆる﹁資本の本源的蓄積臼o貫呂注轟ぽ訂>評¢謹包呂9号ω囚巷討一ω﹂︶は︑ ﹁共同体﹂の終局的崩壊という事. 実を重要な一環として含むとしつつ︑さらに︑共同体の解体は︑民主化達成の客観的可能性を与えるとされている︒ ︵8︶. そしてこの共同体は︑﹁村はちぶ﹂という言葉で言い表わされるような村全体の規制︵﹁共同態規制﹂︶が行なわれる. 農村共同体と指示され︑その共同態規制︵村はちぶ︶の呪縛力を事実において無効にすること︵共同態規制からの解. 放︶が共同体的諸関係の解体と等置されているのである︒しかし共同体を︑あるいはその内部的諸関係を︑共同態規. 制︵村はちぶ︶という特質で把握しきることが可能であろうか︒さらに︑封建的土地所有に伴う経済外強制なるもの.

(3) ︵9︶. が﹁共同態規制﹂の姿をとって現われた︑と言い切れるものかどうか︒近代化. 民主化のためには共同体の解体が前. 提とされる︑という大塚氏の発想の中には共同体に対する否定的観点が明確に現われるが︑その際︑共同体内部の諸. 諸の関係が捨象されていたのである︒ ︵10︶ ところで︑最近では従来とは異なるさまざまな視角から共同体が論じられている︒玉城哲氏は﹁贈与﹂の経済とい ︵11︶. う側面から共同体における扶養の構造を明らかにし︑共同体の中には成員相互問の牽制と扶助という︑異なった原理. が内在していることを明らかにされた︒また︑樺山紘一氏は︑新たに共同体を論ずるための前提として︑①共同体と. 個人とのかかわり︑②共同体の構成原理︑③共同体が社会総体のなかでしめている地位︑または位置という三つの問. 題を提示して検討を加えられている︒これらのうち︑本稿との関連から私は︑さしあたり①に注目する︒それによれ ︵12︶. ば︑共同体は個人に対して︑かならずしも抑圧体としてのみあらわれたわけでなく︑構成員全員に配慮をおこなう扶 助体でもあった︒これは︑前述の玉城氏の理解とほぼ等しいものであろう︒. 本稿では︑右のような最近の共同体論の傾向も念頭に入れつつ︑中世イングラソドの村落共同体について若干の考. 察を試みたいと思う︒その際の私の視角は次の通りである︒人間にとって共同体の問題は普遍的であるが︑共同体に. おける共同性確保をいかになしうるかの究明は︑重要な課題たりうる︒その究明の前提作業として私は︑法史研究の. 立場から︑まず共同体による法が存在したか否か︑次にもし存在したとすれば︑それがどのように制定され︑現実に. 機能したかを検討し︑その作業を通じて歴史的共同体における共同性確保の事実と限界を明らかにしたい︒それはい. 九九. わぽ︑共同体の内部的諸関係の究明を意味する︒ただし本稿での検討は︑村落共同体に限定される︒村落の主要産業 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(4) 早稲田法学会誌第一三巻︵一九八O︶. ︵13︶. 一〇〇. である農業をめぐって生じる問題の解決のために起草され︑制定され︑実施された村法ξ爵壽がその検討にとって. もっとも有用な史料である︒なお︑村落共同体を考える場合︑領主の存在を看過するわけにはゆかない︒中世の村落. 共同体は領主との緊張関係の中に存在することが多かったし︑村法の中には領主がしばしば登場するからである︒し. たがって本稿は︑村法史料の検討を通じて︑農村社会における土地保有者とその領主との関係︵いわば︑ヘルシャフ. トリヅヒな関係︶を念頭に置きつつ保有者相互間の関係︵いわば︑ゲノッセンシャフトリッヒな関係︶を明確にする ことをねらいとす る ︒. ︵3︶. 後に﹃大塚久雄著作集﹄第七巻︵岩波書店︑一九七六年︶に再録︒以下本書より引用︒. 樺山︑前掲書からはこれらの点につき多くの示唆を得た︒. ︵1︶・ ︵2︶樺山紘一﹃ゴシック世界の思想像﹄︵岩波書店︑一九七六年︶二〜三頁︒. ︵4︶. 大塚氏の共同体論への批判としては︑藤原浩﹁﹃ゲルマン的共同体﹄とは何か﹂︵同著﹃イギリス経済史研究﹄御茶の水書房︑一九五九. ︵6︶. 大塚﹁﹃共同体﹄をどう間題とするか﹂︵﹃著作集﹄第七巻︶二二頁︒. 大塚︑前掲書︑七頁︒. 飯沼二郎﹁大塚久雄の共同体論﹂︵﹃共同体論﹄伝統と現代社︑一九七七年︶参照︒. ︵5︶. ︵7︶. 同右︑二〇四頁︑. 同右︑二〇二頁︒. 年︶︑. ︵8︶. 例えば︑﹃経済評論・特集・共同体と現代﹄一九七九年八月号所収の諸論文︑玉城哲﹁共同体の経済学﹂︑樺山紘一﹁共同体論の現在をめぐ. ︵9︶ ︵⑳︶. 体﹂︑. 奥田道大﹁都市社会と共同体﹂をみよ︒なお︑大塚氏の提示した概念規定にまつわる問題局面を批判的に継承︑発展させようとする方向. るスケッチ﹂︑橘川俊忠﹁共同体論の思想史的文脈﹂︑平山和彦﹁民俗学と共同体﹂︑原口武彦﹁第三世界と共同体﹂︑三戸公﹁企業社会と共同. で問題の整理を試みられている住谷一彦﹁商品世界・共同体・家族i一つの素描ー﹂︵家族史研究編集委員会編﹃家族史研究1創刊号﹄大.

(5) 月書店︑一九八○年︶も参照︒ ︵11︶ 玉城︑前掲論文︒ ︵2 1 ︶樺山︑前掲論文︒. 中から可能なかぎり具体的に理解することの必要を痛感した﹂︑と述べられたのは一九五四年である︵﹁中世村落研究の問題点﹂︿﹃西洋封建社. ︵13︶増田四郎氏が︑﹁どの立場よりしても︑村落団体︵U9鐙窪8器霧︒訂εまたは村落共同体︵O震蒔︒旨︒ぎ号︶の実体を︑中世プロパーの. 会成立期の研究﹄岩波書店︑一九五九年V三八六頁︶︒その後︑イングランドに限ってみれば︑畑穣﹁イギリス中世におけるヨーマンリーの代. 二号︑一九五九年︶︑同﹁隷農土地保有の封建的性格﹂︵同誌︑三六巻︑三・四号︑一九六〇年︶︑同﹁慣習的土地保有権の発展過程﹂︵﹃社会科. 表機能﹂︵﹃早稲田法学﹄三〇巻︑一九五四年︶︑同﹁社会的紛争と村落の組織化tイギリス土地法史研究への序説ー﹂︵同誌︑三五巻︑一・. 経済史研究﹄︑︿御茶の水書房︑一九五九年Vに再録︶︑富岡次郎﹁イギリスにおける自治村落の成立と解体﹂︵清水盛光︑会田雄二編﹃封建社. 学討究﹄六巻一号︑一九六一年︶︑藤原浩﹁中世イングランドの領主的支配と村﹂︵﹃史学雑誌﹄六六編三号︑一九五七年︒後に藤原﹃イギリス. 会と共同体﹄創文社︑一九六〇年︶︑篠塚信義﹁イギリスの村落共同体﹂︵﹃歴史教育﹄ニニ巻七号︑一九六五年︶︑赤沢計真コニ〜=二世紀. イングランドの領主制と村落構造﹂︵﹃歴史学研究﹄別冊﹃歴史認識における人民闘争の視点﹄一九七二年度大会特集︒後に赤沢﹃イギリス中. 説18︑口﹂︵﹃青山法学論集﹄一三巻四号︑一四巻二号︑一九七二年︶︑同﹁領主制支配における村落共同体の法的構造﹂︵同誌︑一五巻二. 世社会構造論﹄︿青木書店︑一九七五年Vに再録︶︑平松紘コ三世紀末葉期・マナー社会の法的構造iイギリス土地法展開の歴吏過程・序. 諸問題﹄︿山川出版社︑一九七八年Vに再録︶などの業績が発表された︒これらの論稿からは私も多くの示唆を受けてきた︒しかし︑従来のわ. 号︑一九七三年︶︑田中正義﹁領主的支配と農民共同体﹂︵﹃立教経済学研究﹄三〇巻三号︑一九七六年︒後に田中﹃イングランド初期経済史の. れる︒そこで︑本稿では︑イングランド村法研究の第一人者たるオールト≦象器昌○貸昌壁>艮の村法研究を踏まえた上で︑彼の蒐集した. が国のイングランド村落共同体研究では︑村法は︑部分的に取り上げられることはあっても本格的に取り上げられることはなかったように思わ. 村法史料を主に検討することにょって︑中世のイングランド村落共同体の特質を明らかにしたい︒村法に関するオールトの論文︑著書で筆者が. ︵この論文は︑越. 下︑≧一F望円ζω冤ロい簿類のと略す︶︵この論文は︑鵜川馨民によって紹介されている︒﹃西洋史学﹄二八号︑一九五六年︑所収︶●<ヨ罐oωギ. 参照しえたものを年代順に挙げれば次の通りである︒ωo旨︒評﹃ζく≡お︒団宰霊壽︶肉醤魁賊客窺駐o篭ミN肉も忌恥鮮く卑×■くレ器O︵以. と略す︶. 一〇一. 琢−﹃語良9臼三薦餌&件ぎ準〇三〇ヨω亀=費奉雪り閏S・. 一鈴毛ωξOoヨ旨雪098葺︶恥辱ミミ黛§Ψくo一・美ダZ9ドづ費轟︾一3轟︵以下︑︾ニドOo曇舅900霧o暮. 智武臣氏によって紹介されている︒﹃酉洋史学﹄二九号︑一九五六年︑所収y 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(6) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶ ︾露F9臼巳罐と略すy. 一〇二. O特恥撃肉やミ鳶黛も象ミ叙︑黛象鳶駄暮恥. 図置担這雪︵以下︑︾βF℃震一警O﹃震象と略すy. 鷺Ooミミミ軸黛史︑卜防ミ駄▽o〜毎磯ミ︑蔚醤ヒo︾卜黛弩篭§ミ恥§ミミ肉§曳§鼻お額︵以下︑︾⊆F﹃ミ黛聴qoミ§黛獣燃黛と略すy. きoミご矯身ミ遷完恥忌q弩導N一こ留ンくo一・図一〜20﹄︾お窪︵以下︑ 勺ミ. ζき段O窪詳程α評野一一〇﹃瑛魯ぎ田津8三﹃O雲賞蔓国5αq一き黛砺辱ミミミ§<o一. くミ. 讐Ooミミ§帖ミ︶箸.騒−8に掲載されたが︑後にその英訳が︾包計O㌧§㌔計ミ︑ミミ計騨箸.o︒サ一魔に収録された︒そして︑. O㌧§㌔爵ミ肉ミミ黛晦きミ鴨§ミ琶寧N晦N§輿這認︵以下︑︾qFO特§も︑暗ミ笥ミミき晦と略す︶●なお︑村法のラテン語史料は︑︾仁ぎ. 両者の通し番号はほぼ同じになっている︒以下で掲げる村法の番号は︑村法の表を含めて後者にしたがっている︒. 二︑村法. 村法が見出されるのは︑マナ裁判所の訴訟記録お8箆ω9爵o鷲080蝕おω9B墜象8ξ誘の中である︒マナ文. 書としては︑この記録以外に︑マナ領主が土地保有者から地代や奉仕を受領する権利をどの程度もっていたかを示す. 土地評価簿 国曇o馨︑ならびに︑毎年収獲後に計算されるその年の地代と奉仕の受領高︑直領地とその家畜からの産 ︵1︶. 出高︑マナ裁判所の収入などが記されるリーヴの会計録お雲審碧︒9導が存在する︒しかし︑農村生活史の研究者. にとって最も価値のある文書は︑マナ裁判所の訴訟記録である︒ただし︑この訴訟記録はあくまでもマナ的な文書で ︵2︶. ︵3︶. ある︒つまり︑それは基本的に領主の利害が反映された文書であるから︑村落ないし農民の理解には制約の伴う史料. である︒さらに︑この史料にはもう一つ限界がある︒すなわち︑マナと村区く岸8毒昌が一致するか一つのマナが複. 数の村区を含む場合には︑マナ記録から村落を知りうるが︑分割された領主権から成る村区く琶99<こ&一〇&警ぎ ︵4︶. の村落の実態はこの史料からは明らかにされない︒周知のごとく︑イングランド全体についてマナと村区の一致を主. 張したマナに関する古典学説は︑すでに克服されている︒マナと村区の一致は必ずしも支配的でなく︑分割された領.

(7) ︵5︶. 主権から成る村区も多数存在したことが示されてきた︒したがって︑マナ裁判所の訴訟記録の中の村法の検討から知 ︵6︶ りうる村落は︑イングランド全体に共通なものでばないことを確認しておかなければならない︒このように限定を付 した上で村法の検討に入りたいと思う︒. なお︑本稿で主として扱う村法史料は︑オールトが蒐集した一二七〇年から一六〇八年までのマナ裁判所の訴訟記. 録のうち︑一二七〇年から二二四九年のものとし︑一三五〇年以降の史料については別稿で検討したい︒一四世紀半. ばで区切る理由は次の通りである︒イソグラソドの農業史において︑一三世紀および一四世紀初めの時代は好況の時 ︵7︶ 代であり︑土地への資本投下によって集約農業を行う領主の時代であった︒そして︑その領主経済を支えるものは慣 ︵8︶. ︵10︶. 習的保有農および零細農民の賦役労働であり︑当時︑労働奉仕一魯oξ器三8ωは頂点に達していた︑しかし一四世 ︵9︶ 紀半ばには︑ほとんど一般的に貨幣地代唐9亀話暮が労働地代一魯oξお算に取って代わっていた︒それゆえ︑. 領主制の崩壊︵農奴解放︶へと至る︒だがしかし︑このことは村落. 労働力不足から直領地経営は困難となり︑結果的に直領地の農民への賃貸一$器が進行した︒労働賦役による領主と ︵11︶. 農奴の紐帯はこうして次第に弱められ︑農奴制. 共同体の解体を意味するのではない︒なぜなら︑領主制は消滅しても開放耕地制︵後述参照︶が存続する限り︑村落 ︵12︶. 共同体はその存在意義を失わなかったからである︒いや︑それどころか︑村落共同体は従来よりも自治的性格を強め ︵13︶. ていったとさえいわれている︒したがって︑一四世紀半ばを境にして村落共同体の性質が変化し︑それに対応して村. 一〇三. 法の性質も変化したと考えうるのである︒ただし︑私は︑村法の性質変化に関するこの区別の有効性の有無をここで は留保する︒両時期の村法を具体的に検討した上で回答を出したいと思うからである︒ 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(8) 早稲田法学会 誌 第 三 一 巻 ︵ 一 九 八 ○ ︶. ︵14︶. 一〇四. 村法は︑基本的に開放耕地農業8窪出oざ︷醇巨轟をコントpールするための慣習的規則であり︑主として刈入. れと放牧地に関する問題を扱っている︒開放耕地制において耕地は二つないし三つの耕圃に分けられ︵二圃制・三圃. 制︶︑各耕圃は地条跨昼と呼ばれる細長い畑に分けられる︒各土地保有者の畑は地条単位に分散し︑他の土地保有. 者の畑と混在している︵混在耕地制︶︒耕圃の一つは毎年交替で休閑に付されるが︑その休閑圃や刈入れ後の刈株畑. は土地保有者全員の共同放牧場になる︒つまり︑作付けしていない耕地には土地保有者全員の共同放牧権がある︒ま. た︑刈取り後の採草地における共同放牧権があり︑荒蕪地への入会権が存在した︒結局︑開放耕地村落の本質的な特. ︵16︶. 徴は︑地条に分けられた耕圃が一定の時期に柵などの囲いを取り払われること︑作付けから収獲まで農作業は村落全 ︵15︶ 体によってコソト・ールされること︑そして刈株畑︑休閑地︑採草地︑荒蕪地に共同放牧権が存在することである︒. 以下では︑可能な限り中世イソグランドにおける農作業を具体的に把握しながら︑村法を考察してゆこうと思う︒ ︑. ︵17︶. それによって︑日々の農作業の中でいかなるルールがなぜ必要となるのか︑またそのルールが︑いつ︑どこで︑だれ によって︑どのようにして︑村法という法にまで高められたかが明らかになるであろう︒.

(9) 年. 隠 匿. 番 人. 刈 株 柵. 穀物束. 荷 車. ○. O. 貧 者 落穂拾い. 0. 0 ○. ○. ○○. 0 0. 0. ○O. OOOO. 0 0. O. ○○. 0 0. O. ODOO 0. 瓦. O 凡. e s e s. 0. O. 0. 000 ○○. o 0. ○. 0. O O 0. O. OO. k. O. O. 00. O. O. Q. ナ. O. O. 0. O. 0. OCBM漸OHHBBOBHHOHBBBOHOBHBBBNHBHBOBHOB 可. ㎜欝繋藻黙盤蕪欝臨瓢蕪諜認総㎜盤濫. ウ. 姐. 豆. 放 牧. 13. 49. マ. 日. 月. 年. n. ㎝S蜘. 提︒n. ω c. ㎝. m ㎞. 徳n㎝d欲. 聡. 5 72771 012 311? 1 9975 21 1 10 19 21 13 20 38 22. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. α. d. 給 o. 0 23 1. 励㎝. 99 ? 230 2882. 祀n. 818 9 2972 26 1?. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 一〇五. 1. 1 1. 1. 123445678910H12B1415161718192021222324252627282930313233謎3536. 1一. 9787978177960171768? 2672711? 771686? 78 ● 7 0 6 6 1 73 75 76 76 76 8 82 80 90 90 91 91 91 93 93 93 93 93 92 9 9 0 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 3 てふ. 羅灘器羅難瞬蕪㎜灘辮. 〜. 年 70 12 法. 村 表. 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(10) 番. ○. ○. ○○ ○. ○. ○○ ○○○ ○○○. ○. ○○. ○. ○○ ○○. ○. ○○ ○○ ○○. ○○○. ○. ○ ○○. ○ ○. ○. ○○○○○○○○○○○○○○○○. 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶ 入. 刈 株. 隠 匿. 棚. ○○ ○○ ○ ○. ○. ○○ ○ ○ ○○○○ ○ ○ ○ ○○○. ○. ○○. ○. 穀物束. 荷 車 落穂拾い. 貧 者 放 牧 豆. 田螂n. n O. n O. 噸. n O. 螂. ○. 一〇六. OOoOO. ○ ○ ○ O O. ○. Oo. o. ○ ○ ○. ○. ○ ○ ○○○. ○○. ○. ○ O. ○. ㎜. m a h k 柳a. n. n. ○ ○. 62 72491 020 516 1341 19 2. 喀O 卿O. C Cd O C C C C O C C O C C C C C C C C C O C C r C C C C C O C O C C C U U e X U U U U X U U X U U U U U U U U U X U U e U U U U U X U X U U U. 2 0 1. 凶. 81. 惣面. 驚. 搬︒ 躍H 碗戯. 臨. 6=. のH. 砦. A㎏. 琉成. ㎎. θN. ωL. 窺=. ㎜N. 欝. P P n りむ. 茄恥. o臥.. 職 一㎎. BBBOBBBBOBBOBBBBBBBBBO. 慧s竃箆繋慧竃寵寵㎏蓋㎏焦慧㎞慧黛竃竃寵. U J. ナ. マ. 81 0? 42 215 189 908 526 3? 17 32 1319662 31 11 1612. 蕪難鷺難雛硫鋤熱雛㎞難肥 日. 年. 月. 1 1 1. 7ム. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. ー. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 1. 廷ら U≧ Aカ. 7作. 78? 977701887786767807277? 77469887774 4 6 6 7 9 9 0 0 0 1 1 1 2 2 3 5 5 5 7 8 23 23 2 2 2 2 2 2 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 73 83 94 04 14 24 344 54 64 74 84 95 05 15 25 35 455 65 75 8 3.

(11) 遷 変 の. の. 地 耕 下 制 圃 三 図. 皿. n 10. 9. 8. 珊. ︸. 一. 1. H肢. 一. 一. 耕. 一. ㈱. ﹃. 一 一. ︸. ︸ ︸. 耕 休. 汁 ︸. 一. 区 刷. 第. 耕. 区. 第. 陥. i. 一 ︸. 舗聯. 休. 一. 朋. 伽 一. 一 一. ㎝ 貼. 姻. 睡. 鮒﹄. 7 6 5 4. 3 2 祖 珈. 期 9 8 7 6. 5 4. 珍. 3 2 1 恥. 11. 9 8 7. 6 5 4 3. 2 ㎜. てエ. 耕. 区. m 5闘 9. 月. 第. 穫 収. 幡. 扁. 成. 育 一. ﹁. 重 ぷ. ξ. 展田. 乳. 過 昼 生 7 9 亀 診. 0. 7. 図から明らかなように︑三圃制のもとでは︑七月〜十月が農民にと. って最も多忙な時期である︒そして︑村法の表に現われているよう. に︑村法史料の数ならびにその内容の豊富さは︑七月〜八月が圧倒的. である︒これは︑農事村法の研究にとってこの時期が最も主要である. よう︒まず︑村法そのものがいかなるものかを示すために︑表から明. ことを示している︒したがって︑私の村法研究もこの時期を中心とし. 認. %. E. ︵A︶〜︵G︶の項目を挙げて具体的な検討を行なうことにす. らかなように内容の最も豊富な︹村法52︺を訳出する︒そしてその後. ピ. ㈹ 碗. げ. ︹村法5 2︺ ﹁Z①轟9の領主の領民によって承認され命じられたこ. る︒なお︑以下に挙げる村法の番号は︑表の中の番号を示す︒. に︑. M 御 如. Hお翼 露0 13. 初勉掲 と︒領主から土地を保有している者はだれも︑自分が播種した土地を ω前. E︵ 除いては耕地のいんげん豆︑えんどう豆︑そら豆を収穫するまじきこ ゆ コ 且史 ︐済 と︒そして︑この定めに反して行動したことが発見された者は︑各違. そして︑いんげん豆︑えんどう豆あるいはその類のものを収穫せん. 耕 摯 由経 師 ㎜洋 反に付き領主に六ペンスを支払うべきこと︒. αニ. 恥晒. 一〇七. エ野 健 凡河 と欲するものは︑それらを目の出から第一時課の時刻︹午前六時︺の 中世イング ラ ン ド の 村 落 共 同 体 と 村 法 ︵ 加 藤 哲 実 ︶.

(12) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. だれも自分の子牛を耕地の立ち毛の中で牧夫なしに放牧させるまじきこと︒. 間に収穫すべきこと︒. 一. 一〇八. 一 一目に食事付き一ペニを稼ぐことのできる者は︑もしこの条件で彼を雇わんと欲する者が見出されるならば︑落 穂拾いを許されぬこと︒. 一 いかなるよそ老も落穂拾いを許されぬこと︒. 一 いかなる貧者も豆の畝の中で豆を収穫してはならず︑畝の末端および畝の境界線に沿ってのみ収穫すべきこと︒. もし貧者が別の行動をとったならば︑彼らは自分が収穫したいかなるものも失い︑彼らはもはや耕地でこの方法で豆 を収穫することを許されるまじきこと︒. 耕地において穀物束で支払わぬこと︒. そして︑夜間に荷車を引かぬこと︒ 一. そして︑あらゆる人は︑隣接する耕地に最も近い自分の踏越し段と小道を︑領主や領主の保有者のだれもこれゆえ. 一. だれも︑穀物が土地から運ばれた後︑聖マーティン祭までは自分自身の土地を除ぎ刈株を集めることを許される. 彼らのうちだれも︑今から八月末までは他人の立ち毛の中で牧草を集めるまじきこと︒. に損害を被らないように保持するべきこと︒. 一 まじきこと︒. そして︑もしだれかが前述のことに違反したならば︑彼は領主に各違反に付き六ペンスを支払うべきこと︒ただ.

(13) ピ望旨m旨ω89︑一<o量. の息子. し︑刈株の条項を除く︒それ︹刈株条項︺に対しては各違反者は各違反に付き領主に三ペンスを支払うべぎこと︒ そして︑これらの定めを守り︑それらに反して行動した者たちを告発するために. く邑富筥︑むぎミ箋段︑智ぎ o訂讐三︑ざゴGoぎ09︑甘冒O︒蚕巳︑ そして二人の監視人︑すなわち領主の監視 人と村区の共同体の監視人が選ばれた︒そして彼らは宣誓した︒﹂ ︵A︶柵. ︵18︶. 作付けされている開放耕地には︑隣接したク質フトRo津︵家敷続きの小農地︶から家畜が侵入しないように︑可能. な限り柵ないし垣根が設けられねばならなかった︒また︑その開放耕地は︑夜間にさまよい出た家畜からも守られね. ばならない︒そして︑﹁彼らの各々は耕地に近い︹垣根の︺危なっかしい裂け目や小道を修繕しておくべきこと︒﹂︵村. 2の当該規定では領主ないし彼の保有者たちが損害を 法姶︶という規定はこのことを意味している︒また︑前掲村法5 被らないようにと書かれている︵なお︑村法8・43・47・引・55を参照︶︒. 柵には︑泥棒などの犯罪者から耕地の穀物を守るという役割もあった︒例えば︑﹁悪事を行なう者たちがそこから. 侵入できるような︑耕地に隣接する自分のすべての︹垣根の︺裂け目や小道を修繕しておくべきこと︒彼らが王道に. よって侵入し︑その結果発見されうるように︑等々﹂︵村法42︶と規定されている︒なお︑ランカシャの評旨ぎαQ8昌 ︵19︶. の村法には︑﹁耕地に土地をもつすべての保有者は︑穀物の播種後一週間自分の土地に沿って自分の柵を作っておく. べきこと︒違反に対しては各々六ペンスの罰金﹂とある︒地条間の柵を意味するのか︑一つの開放耕地を他から境界. 一〇九. づける柵を意味するのかは不明であるが︑時期を指定してその作業が義務づけられたことは明らかである︒ 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(14) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九入○︶ ︵B︶干し草づくり. 二〇. 六月は︑冬期の家畜飼料として最も重要な干し草をつくる季節である︒その草は採草地ヨ8魯毒から刈り取られ ︵20︶ るが︑採草地は耕地の二ないし三倍の価値を有していた︒干し草がマナの領主にとっていかに貴重であったかは︑オ. ールトがハソドレッド・牌ールズから引用しているオックスフォードシャ︑ZΦ三髭8bの一三世紀の記録から明らか. である︒すなわち︑あらゆるヴァーゲイタ<一茜象9は︑﹁領主の採草地を一年に一度その刈り取りが終了するまで刈. り取るべきこと︒彼はその草を干し︑かき集め︑領主の干し草置場に運ぶべぎこと︒この奉仕に対し彼は︑二目分に. 足りる小麦製︒ハソと半ペニの価値のチーズを得るべきこと︒刈取人たちは干し草すべてが運ばれた後に︑領主の羊の ︵飢︶ 中から彼らが望む最良の羊一頭と一塊のチーズおよび鉢一杯の塩を得るべきこと﹂とあるが︑当時︑採草地での刈り. 取りは気候の関係で一日で行なう必要があったから︑この報酬は一日分であり︑それはかなり高額である︒それだけ 干し草づくりは重視されていたことが理解されよう︒. 土地保有者たちも採草地をもったが︑それは共同保有の形態をとった︒そして︑﹁採草地は︑耕地の配分に適用さ ︵22︶. れたのと同じ方式の下に︑共同体の︹構成員︺の間に割り当てられて︑各人に︑乾草のために刈る草地の︑小さな散. 在するストリップを与えた﹂︒つまり彼らは︑毎年干し草づくりの時期に採草地を一定の仕方で配分したのである︒ ︵23︶. ハンティソドンシャ︑霞oζ壌亀の一三二七年のマナ裁判所記録によれば︑﹁<邑夢旨ω8臼昌は︑村法を破り︑共. 有採草地に入り︑全体に損害を及ぼした﹂とあるが︑ωo巳一2は︑配分が行なわれる前に採草地に入った廉でとがめ られたと推測されよう︒.

(15) ︵C︶収穫. ︵24︶ 七月から八月は収穫の季節である︒そして︑村法のうち最も初期かつ多数のものは収穫に関するものである︒領主. および農民にとって︑収穫時の最大の関心は働き手の確保であった︒収穫に当って必要とされた働き手は︑刈り手. お巷o誘︑束ね手ぴβ留窃である︒刈り手は︑小がまのざ匹oで穂を適当な長さに刈り︑土の上に置く︒それを束ね手. が集め︑束ねて︑乾燥のため稲むらにする︒通常︑四名の刈り手に対して一名の束ね手が必要とされる︒中世の刈り入 ︵25︶. れ方法は荒かったため︑かなりの数の穂がこぼれ落ちた︒それゆえ︑落穂拾いの作業が行なわれたが︑それは他の作. 業に比べて楽であった︒したがって︑丈夫な筈一︒−ぎ9a男女は刈り手や束ね手として働き︑老人︑子ども︑虚弱な. 男女は落穂拾いを許された︒このことを明確に示すのは次の規定である︒すなわち︑﹁当法廷ですべての保有者が承. 認したこと︒住民はだれも彼が年端のゆかぬ者ないし年老いた者でない限り当地で落穂を拾うまじきこと﹂︵村法引︶︒. ここには︑共同体による重労働不能者の扶助という構図がみられよう︒. さて︑刈り入れ期の働き手獲得競争は激烈であったが︑領主が有利な地位を占めていた︒彼は自分の保有者からの. 奉仕︵賦役︶をあてにできたからである︒オールトによれぽ︑カソタベリの小修道院とラムジィ大修道院の=二世紀 ︵26︶ の土地保有者は︑収穫期に週に五日間︑一5二名の従者を伴っての半目労働を負わされた︒収穫期の賦役はマナ制度. で最もよく知られた特徴の一つである︒さらに︑領主は村落の臨時労働者の雇傭に際しても有利な地位を占めた︒例. えばファウソティソズ男o毒一巴霧大修道院の史料に次のように記されている︒すなわち︑﹁村区のすべての労働者に. コ一. 申し付けられたこと︒彼らは必要な時にはいつでも第一に領主のもとで︑そしてその後土地保有者のもとで報酬のた 中世イングラ ン ド の 村 落 共 同 体 と 村 法 ︵ 加 藤 哲 実 ︶.

(16) 早稲田法学会誌第一三巻︵一九八○︶. 一二一. ︵27︶ めに働かねばならない︒そして彼らは村を去るまじきこと︒違反に対してはニシリング四ペンスの罰金﹂︒. 次に問題となるのは︑村民たちはどのようにして働き手を確保したかである︒これに関する問題は︑落穂拾い規定. の中に現われる︒この規定の本質は最初に訳出した村法52にみえるように︑一日に食事付き一ペニ︵あるいは︑食事な. 1・ ・犯・22・2 8・5 4・36・8 3 ・3 9・4 1・43・6 4〜4. し二ペンス︶で刈り手や束ね手として働ける者︵丈夫な男女︶は︑その者をこの条件で雇わんと欲する者がいる時に は︑落穂拾いを許されないということである︵なお︑村法8・. 7・69・72参照︶︒刈り入れにおける臨時手伝いは当時の農業の常識であったが︑共同体のすべての土地保 ・9 5・6 55. 有者は︑あらゆる丈夫な男女が一定の報酬で刈り入れを強いられるよう主張したのである︒これについて領主も利害. 関心をもってはいたが︑それは共同体の成員以上ではなかったろう︒少なくとも領主は︑彼が土地保有者の賦役を十. ︵28︶. 分に確保できた限りは︑この件について無関心でありえたはずである︒つまり︑落穂拾いの規定は︑領主i農奴の. 関係から生じたのではなく︑農業共同体のすべての土地保有者の共通の利害関心から生じたといえそうである︒な. お︑前掲村法52の﹁一日に食事付きてヘニを稼ぐことのできる者﹂とは︑﹁丈夫なぎすぎ島8﹂者を指すが︑丈夫か. 否かを判断する基準は何か︑まただれがその判断を下すのか︒同じ問いは︑前掲村法6 1の﹁年端のゆかぬ者ないし年. 老いた者﹂についても生ずる︒しかし︑これについて我々の史料は何も語らない︒本稿の対象年代から外れるが︑一 ︵29︶. 三八九年︑ハンティンドンシャ︑ω鐘おω8ぎの史料﹁二名の保有者の合意を伴いベイリフとコンスタブルの判断に. よって認められた体力のない者は︑収穫の初めから落穂拾いを始めてよい︒﹂は︑だれが判断を下すかについて示唆. を与える︒すなわち︑共同体の成員も加わってはいるが︑マナ役人が指揮をしていたということになろう︒.

(17) ︵D︶. 穀物束の盗み. 村法の表に掲げた穀物束の項目の内容は︑前掲村法52の﹁耕地において穀物東で支払わぬこと﹂が示すように︑刈. ﹁彼らはだれにも耕地において穀物束で支払うまじきこと︒納屋の入口での. り入れ労働者に耕地において穀物束で報酬支払いをしてはならぬということである︒これは︑穀物束の盗みを防止す るための一つの方策であった︒例えば︑. み支払うべし︒違反に対しては︑二分の一マルクの罰金﹂︵村法4︶とある︒もし︑穀物所有者以外の者が耕地内で. 束をもち︑運び出そうとすれば︑その行為は盗みとみなされた︒そして次の規定は︑労働者が穀物を耕地から運ぶこ. とを明確に禁じている︒すなわち︑﹁だれも彼の労働者たちに穀物を耕地から彼らの報酬として運ぶことを許すまじ. 6︶︵類似規定は︑村法 きこと﹂︵村法36︶︑﹁労働者はだれも穀物を耕地から運ぶことを許されるまじきこと﹂︵村法4. 田・55参照︶︒次の規定もまた︑盗みの防止策を表現している︒すなわち︑﹁夜間にいかなる穀物も運ばぬこと﹂︵村. 3︶︵類似規定は︑村法8・3 7・引・52・67参照︶︑﹁だれも︑日没後︑日の出前に穀物を荷車運搬するま 法4 6・4 6・4. じきこと﹂︵村法41︶︵類似規定は︑村法59参照︶︑﹁だれも︑昼間に自分の荷車が耕地に在った場合でない限り︑夜間. に荷車運搬するまじぎこと﹂︵村法48︶︒さらに︑我々の史料には現われないが︑耕地への出入りのための道路につい. 豆. ても規定が存在したらしい︒オールトによれば︑﹁穀物の運搬は︑すべて白昼に行なわれねばならず︑荷車は︑普通 ︵30︶ 用いられているぎ8目彗8島o門を通って道路によって耕地に入り出てゆかねばならなかった﹂のである︒ ︵E︶. 一ニニ. 豆類は︑中世においても貴重な穀物であった︒それは︑栄養価が高く人間の食料として︑また家畜の飼料として最 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(18) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. 一一四. 良であった︒豆類に関する村法規定は︑盗みの問題と貧者の問題に関っている︒まず盗みに関する規定を一つ挙げ. る︒すなわち︑﹁Z︒茸8村区共同体によって合意され命じられたこと︒領主から土地を保有している者はだれも︑. 自分が播種した土地を除いては︑耕地のいんげん豆︑えんどう豆︑そら豆を収穫するまじきこと︒そして︑この定め. に反して行動した罪を発見された者は︑各違反に付き領主に二ペソスを支払うべぎこと﹂︵村法覗︶︵類似規定は︑村. の土地で豆を収穫してはならないというのである︒つまり︑他人の豆を盗むなという趣旨の規定であろう︒そして︑. 2にあるものとほぼ同じである︒豆類を播種した土地をもつ者は︑他人 法8・46・2 5 参照︶︒この規定は︑前掲村法5. ﹁えんどう豆︑いんげん豆を播種した土地を耕地の中にもつ者は︑他人の土地において豆を収穫するまじきこと﹂. ︵村法55︶という規定は︑後述する貧者の問題とも関連するが︑他人の土地での豆の収穫禁止を明確にしている︒. 次に貧者と豆の関係についてみよう︒右に挙げた村法55は︑豆を播種した土地をもたない者は︑他人の土地で豆を. 集めて良いと読むこともできる︒条件付きではあるが︑事実はそのようであった︒このことを示す規定は次の通りで. ある︒すなわち︑﹁いんげん豆︑えんどう豆ないしその類のものを収穫したいと欲する老はだれでも︹耕地の一つた. る︺一①韻①畠において︑目の出と第一時課︹午前六時︺の間に収穫すべきこと﹂︵村法8︶︵類似規定は︑村法17・33. ・2 5参照︶︑﹁いかなる貧者も豆の畝の中で︹豆を︺収穫してはならず︑畝の末端および畝間でのみ収穫すべきこと︒. そして︑もし彼らが別の行動をとったならば︑彼らは自分の収穫したものを失い︑その後は豆を収穫するために耕地. 2参照︶︒このように︑時間的・場所的にかな に入ることを許されるまじきこと﹂︵村法47︶︵類似規定は︑村法8・5. り厳しい制限はあったものの︑とにかく貧者には他人の土地での豆の収穫が許されていたのである︒.

(19) ︵F︶刈株. 穀物の収穫後︑耕地には刈株ωεぴぴ一︒が残った︒村法史料をみると︑刈株は耕地に放置されたのではなく︑集めら. れたようである︒例えぱ︑﹁今後︑だれも自分自身の土地からでない限り︑また購入したのでない限り︑刈株を集め. るまじきこと︒違反に対してはニシリングの罰金﹂︵村法66︶という規定は︑ここでも盗みの問題が生じたことを示 ︵31︶ しているが︑それは︑刈株が屋根葺材料︑寝わら︑燃料として利用価値があったからである︒もっとも︑一定時期以. 外は他人の土地からそれを集めてもよいという配慮もあったことは次の規定から推測できる︒すなわち︑﹁だれも他. 人の土地において聖マーティンの祭目︹コ月二目︺までは刈株を集めるまじきこと﹂︵村法46︶︵類似規定は︑村. 法5 1〜53・55参照︶︒これらの規定は︑村落内の土地をもたない者一き臼霧ω目op︑あるいはほとんどもたない者昌$ワ. 共同放牧. ξ一き臼o器ヨ曾に対する警戒と配慮を意味するのであろう・ ︵G︶. 前述したように︑開放耕地制の下では︑刈入後の刈株畑︑休閑地︑採草地︑荒蕪地に共同放牧権が存在したが︑中. 世農村において放牧は︑家畜を飼育するのに不可欠であった︒したがって︑放牧に関する規定は村法の中に多数存在. する︒草を刈り終えた後の採草地は最良の放牧場であったが︑﹁だれも︑草が運び去られる前に自分の家畜を採草地. に放牧するまじきこと﹂︵村法65︶とされていた︒なお︑領主の採草地も刈取後は保有者たちに放牧場として開放さ. れたことは︑﹁領主からの保有者たちは︑領主の採草地において︑その採草地の草が運び去られてしまわない限り︑. 一一五. 彼らの家畜を放牧するまじきこと﹂︵村法68︶という規定から読みとることができよう︒耕地においては︑﹁だれも︑ 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(20) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. 二六. 作付け中のいかなる土地においても︑それに隣接する土地の産物が完全に運び去られない限り︑彼の家畜を放牧する. 3︶となっている︒隣の地条の穀物が運び去られる前にこちらの地条に放牧すると︑家畜が隣接 まじきこと﹂︵村法4 地条の立ち毛・落穂までも食ってしまうからである︒. 史料には︑特定の家畜について︑その性質を考慮した規定があらわれる︒以下では︑子馬︑子牛︑羊︑豚について. みてゆこう︒家畜を穀物畑において収穫期に︑そして収穫前にすら︑つなぎ綱でつないでおくことは中世の村民にと. って普通のことであった︒大抵の耕地には︑半端な牧草地︑摯き余し地冨&一き留︑草地の涛8︑および共有の道 ︵32︶ 8ヨ営9≦避のが在り︑それらはかなりの牧草を供給したからである︒しかし︑つないであるとはいえ︑家畜は畑を. 荒らす危険があり︑さらにその家畜の回りに放し飼いにされた子が問題であった︒とりわけ子馬に注意が払われたこ. とは︑次の規定から分かる︒すなわち︑﹁領主の保有者の全員︑自由人ならびに隷農によって承認されたこと︒子馬. が隣人たちの穀物畑に入るように自分の雌馬をつなぎ綱でつないだ罪を発見された者は︑八月一目以前には︑その罪. を発見される毎に領主へ六ペンスを支払うべきこと﹂︵村法22︶︒子を生んだ雌馬は︑数日後には︑摯にであろうと荷. 馬車にであろうと利用しえたが︑数週間は子に乳を与えねばならなかったので︑できるだけ良い草を食う必要があっ. た︒それゆえに︑耕地内の草地につなぎ綱でつながれるのであるが︑子馬は二︑三週間後には近くの立ち毛を荒らし. はじめたのである︒また子牛は︑子馬と異なり二︑三週聞後には離乳させられ︑母牛から引き離されて飼われたため. 子馬のような問題は生じなかったが︑やはり︑﹁だれも自分の子牛を見張りなしの耕地の立ち毛の中に放牧させるま じぎこと﹂︵村法47︶と規定され︑注意が払われた︒.

(21) ・⁝. ︵34︶. ︵33︶. 羊は︑羊毛用として貴重な存在であったことは周知の事柄に属する︒牛・馬を飼えない零細農たる小屋住農8蕾N. も羊を飼うことはできたのであり︑したがって羊の放牧は村民全員の関心の的であった︒これについては︑例えば︑. ﹁だれも︑他の家畜の放牧が終る前に刈入後の刈株畑に彼の羊とともに入るまじきこと﹂︵村法41︶︑﹁羊をヨリ大型. の家畜の前に牧草を食いに行かせるまじきこと﹂︵村法4 8︶と規定された︒羊は大型の家畜︵馬・牛︶の後に放牧さ. れたのである︒これは︑馬・牛が黎用の家畜として大切にされたからだけでなく︑羊は﹁騰状の口で︑草地はもちろ ︵35︶ ん穀作地の刈跡放牧において地中に埋まっている刈株までも掘りとって食べ﹂てしまうからである︒. 豚は︑もっぱら食用として飼育されたが︑それは当時の食料において稀少であった脂肉を供給した︒しかしそれ. は︑絶えずうろつきまわる習性があるために︑監視の必要があった︒それについては次の規定がある︒すなわち︑. ﹁領主によって定められたこと︒彼の保有者のだれも︑自分の豚ないし子豚を良き管理の下に置くのでなければ︑家. の外に放すまじきこと︒そして︑もし彼らのうちだれかがこの定めを遵守しなかったならば︑その豚を失い︑重い憐. 潤罰金を科されるべきこと﹂︵村法64︶︒この規定は︑﹁領主によって定められた﹂となっているが︑内容から判断し. て︑共同体の成員の共通の利害を反映したものと考えてよかろう︒. 以上で我々は︑一三世紀後半から一四世紀半ばまでの中世イソグランドの農村社会における農業上の諸問題︑すな. わち︑収穫期の働ぎ手確保︑落穂拾い︑穀物束の盗み︑さまざまの家畜の放牧等をめぐる多くの問題がどのように村. 法に投影されていたかをみてきた︒さらに︑若千ではあるが︑それらの問題に農民たちがどのように対処したかも知. 一一七. ることができた︒次節では︑これまでの村法の実態認識を踏まえて︑村法の起草︑制定︑実施をあぐる村落共同体の 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(22) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. ︾巳. 一八. マナ裁判所に関する最も古典的で信頼でぎる解説としては︑留や&㌔や禽誉ミ黛ミ註& 鶏§匙. ヤ. ︵原. <o一︒一︸&・ご鴫7≦6ζ巴二弩山︵勺=σー鉱ω巴留⇒o つ09①蔓︶<oい僧一〇〇〇〇〇︶の蜀霞o自目詠o算℃マ惹・一図図く臨. O㌧§も︑蒜ミ肉黛ミミ§騨ワ旨. 内部的諸関係を︑共同体に対する領主の位置を念頭に置きつつ考察する︒. ︵1︶ ○導恥︑恥隻晦ミo試&Oo黛︑身. 著︑一八九六年︑邦訳︑日本評論社︑一九八○年︶の第一章〜第三章︑補遺C・Dも参考︒ ヤ. ヤ. ︵以下︑鷺鎖三弩斜吻無ミ妹︑Nミ防と略す︶参照︒なお︑フレデリック・ポロック︑平松紘H監訳﹃イギリス土地法ーその法理と歴史﹄. ヤ. ︵2︶ 増田︑前掲書︑三八一頁︒. Hり﹂︶○一一〇鼻餌鼠搾≦ ζ鎖巳§︵剛︾幅.鳶霞ごミミも〜肉§魁㌦きト黛軽守§ミ恥罫o﹃帖ミ恥o㍉肉. o ︵お一ω誓①鉱 弩畠︑駄卜曽こ①︵r︼o︒O︒. ︵3︶<岸δ≦昌は︑村の地域を示す語なので村区と訳し︑<ヨ黄ρε類漢岳ロは村の住民集団を示す語なので村落と訳す︒この点につぎ︑ω一門. 藤原︑前掲書︑三九頁︒古典的な見解としては︑竃婁蛋真紹やミ黛ミ晦いP凶参照︒. なお︑マ. &9芦霧項ぎ霞O費&O一一¢注絶︒9豆望罐量℃ξξω・質ρζ涜9F一8︒︒︶くO一﹂︵以下︑型俸竃こくO一﹄と略す︶箸◎爵ふ9参照︒ ︵4︶. ナと村区の不一致に関する簡潔な説明は︑︾嵩ドO辱ミ㌔蔚ミ肉ミミき騨箸・蕊も8︾¢F勺ミ匙讐Oもミミ黛鳶愚・P竃・︾⊆ドOo導導9. ︵5︶ 鐸︾内8ヨ一篇パざ硫§無禽萄暮Q﹄鴫ミ︑暴§幾跨ミミo︑肉醤晦畠ミ駄言ミ鮎臼ミミ亀ミ評O鳴ミ黛︑ざ一39唱Pお為9. ㎝参照︒邦語文献では︑河野健二﹃酉洋経済史﹄︵岩波全書︑一九八○年︶一一六〜一一七頁参照︒ 00農︒暮︺薯るo︒やo︒︒ o. るが︑これは︑藤原氏の前掲論文﹁中世イングランドの領主的支配と村﹂の中心テーマであった︒その結論は︑次の通りである︒﹁数人の領主. ︵6︶分割された領主権からなる村区の村落は︑村法を有したか否か︑そして有したとすれば︑村法実施の権威はどこに求められたかが問題とな. に分属する村には︑開放耕地制あるいは共同地用益が存在する限り︑かつ村民一般が普通法法廷から排除されていた限り︑数人の領主が合同で. い︒しかも︑村落集会ないし村民の代表の集会は︑たとえ一三︑四世紀についてはその存在を立証し得ないとしても.その後の時代については. 設ける法廷とその司法権︑または︑村落集会︑村民の代表の集会︑そしてそれらの有するきわめてわずかな司法権の存在を仮定せざるを得な. 実例をあげることが可能である﹂︵五三頁︶︒ユ村が数人の領主に分属する場合には︑数人の領主が合同で法廷を設けるか︑あるいは︑領主の. 結論は︑史料的な制約もあり︑無条件で承認することはできないが︑ほぼ当っていると思われる︒オールトも同様の見解を採っている︒︾βF. 権威とは無関係に自治的な村落集会が置かれるかであった︒そして後者の場合が多かったのではないかと私は考える⁝⁝⁝﹂︵五五頁︶︒この.

(23) アイリーン・パゥァ︑山村延明訳﹃イギリス中世史における羊毛貿易﹄︵原著︑一九四一年︑邦訳︑未来社︑一九六六年︶四三i四四頁︒. ︒b凝︐︾巳汁く畿罫晦恥Ooミミ馬ミ魯撃P鰹. 感恥養㌔融蕊︑亀︑ミき単 O ︵7︶. ︵8︶. 国ミ鼻︾P器︒コニ四八年の黒死病匹匿パU窪筥は︑地代の金納化8B膏暮象す一の重要な契機の一つである︒. 男●国・国一一8p﹃神鳴bミN帆蕊儀o﹃偽恥箋ミ鳶きミq亀壽建ミ肉§頓騨醤鼻一〇8︶マ認︒. 国 竃崖︒ぴ↓鼠国夷一一鴇守oβoヨ図ぎ魯①↓ま旨①Φ葺70①簿震ざ㌧暴牒§駄︑鳶防恥ミリ20﹄o︒り一8倉b.謡◎. ︵9︶. oo︸鳶●. 国ミ亀こP鐸・. ︾巳. 一九八0年︶一〇七i二七三頁︒. チャールズ・S・オーウィン︑クリスタベル・S・オーウィン︑三沢巌郎訳﹃オープン・フィールド﹄︵原著︑. 一九五四年︑邦訳︑御茶の. 富岡︑前掲論文︑五八三︑五九七︑六一四ー六一五頁︒一つの例として︑オーウィン夫妻が研究したラックストン村を挙げることができよ. く蔑騨鴫恥Ooミミ帖ミ魯8弓サ. へ11︶. ︵10︶. ︵皿︶. うo. §駄︑遷憩ミ. Z98レ霧合. ㌧ミ鉢・選﹂甲§︾qF絹ミ貸鷺Oo§ミ黛義身・薯ふ山一・開放耕地農業について詳細は︑オーウィン︑前掲邦訳書参照︒なお︑サー. ︾¢FO特鳴導肉帖魁駄︑匙︑ミ黛艶p一〇●. それに対応して村法を︑初期的形態と組織的形態とに段階的に区別される︒前掲論文︑七六頁︒. 赤沢氏も︑ 一四世紀後半以降の領主直領地経営の崩壊が︑村落共同体の自治的組織を産み出したとして︑村落共同体の性質変化を示唆さ. 水書房︑ ︵13︶. れ︑ ︵猛︶ ︵15︶. ㌣顕彼女は︑﹁開放耕地﹂でなく﹁共同耕地8旨置9譲箆﹂の語を用いて︑一二︑三世紀の人口増加←ヨリ集約的な農業の必要←共同. スクは︑ 従来の開放耕地制研究に対していくつかの批判を行なった︒とき↓岳邑♂↓ぼOo誉巨9罰①箆伊︑§馬. 耕地制の発展という論理から︑ 一二︑三世紀を共同耕地制発展における決定的時代とみる︵一9α・箸嶺器−器︶︒サースク論文については︑鵜. も唱.. 中世村落の農業生活の実態を簡単に知るには︑ζ︒国●寒雪β臼謹ミ恥蕊ミ急N噌ミ匙鷺レ霧餌矯箸﹂あρが便利である︒なお︑当時. 二二巻七号︑一九六五年︶がある︒ 川馨氏の紹介︵﹁英国における村落と荘園﹂﹃歴史教育﹄. 農民の労働の二︸ヶ月を解説している三好洋子﹁労働の暦﹂︵﹃創文﹄一 の時薦書閃o畠鉱=8屋に描かれた毎月の労働の絵を紹介しつつ︑. ︵16︶. 九〇号〜二〇〇号︑ 一九七九年一〇月〜一九八○年九月︶は興味深い︒さらに︑中世の農業生活を正しく認識するには︑中世世界をくまなく. 一一九. 関係の歴史として﹂描くことを意図された阿部謹也﹁中世の窓から①〜︵㎜︶﹂︵﹃朝日新聞﹄夕刊︑一九八○年二月一八日〜七月一二目︶は示唆. 知る必要があるが︑ その意味で︑﹁ヨーロッパ中世における人と人との関係の変化をモノを媒介とする関係と目にみえない絆によって結ばれた. 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(24) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. 一二〇. に富む︒加えて︑同氏の﹃ハーメルンの笛吹き男﹄︵平凡社︑一九七四年︶︑﹃中世を旅する人びと﹄︵平凡社︑ 一九七八年︶︑﹃刑吏の社会史﹄ ︵中公新書︑一九七八年︶も参照︒. ヤ やイングランドの村法・慣習が法として扱われねばならぬことを強調している︒国=αQ窪国ぼ浮ダOミ醤襲轟貸醤隣駄ミ象巴包轟措駄翁知ミー. ︵17︶ エールリッヒも︑隷農相互の関係および対領主との関係についての一定の規則である大陸の諸々の荘園法・賦役法=o︷出&9窪弩9露. ﹁この頃︹ドゥームズデイ調査の時代︺︑およびその後長い問︑すべてのひとびとは︑まとまった村落に︑一緒に密接して生活していて︑. 鳶偽一讐Go・¢憲9邦訳︑エールリッヒ︑岡本坦訳﹃法社会学の基礎理論﹄︵﹃専修法学論集﹄一三号︑一九八○年︶二八九ー二九〇頁︒. 穿・蜜葛・︾匙・Oダ8︾O一〇︸﹃竃︒一ω8山お㎝︵鼻&げ賓諺巳. ︒︒. 薯︐. >乱♪. 〜蔑隷鴨馬. oNo 6 G o ・ ︾巳 G. 趙ド. ω﹃o o るo. O︒. O一①角. 彼らが必要としたような農揚建物は家とそれぞれの屋敷とに隣接し︑その後ろにクロフト︵窪oεまたは小牧場があって︑そこに︑入会地や. ︵8 1︶. ︵19︶. >巳 O︾§㌔壽ミ肉喬︑§誉壁ワ謡︐︾信FミN騨鷺OO§ミ黛獣ミ鳩P器.. ︾三ぴ Ooヨ目oづOo昌ω①葺︶マω O. コ四頁参照︒. 荒れ地で払うことができるよりいっそうの人の注意を要するような家畜が出された︒﹂ ︵オーウィン︑前掲邦訳書︑=四頁︶︒. ︵20︶. 勺ミ&鷺Ooミミ貸註量Ψpo︒O︶.. ︵21︶. 02旨幻o=即G︒・O 僧一趨\8︾ヲ一︵葺&げ気︾ρFO辱§−窯偽罰悔喬︑ミ黛騨質鱒Oy. オーウィン︑前掲邦訳書︑九一頁︒ドゥームズデイ・ブックが採草地に言及していることについては︑同書︑. 肉ミミ画霜§駄還ミ蓉目も・§︵︒一民ξぎドくミ轟鳴o§§§§も﹄ω︶●. ︵%︶ ︵23︶. 型因・○. マ鎗ド 曽ド. 卜鶴FO︾§ーミ魁駄悔ミミき騨サ一〇.︾=F刈ミ貸鷺Ooミミ黛鳶童℃肖ド>gFOoe葺900畠窪. ︾巳ご噌畿奪頓鳴Ooミ§黛§魯8PboO●. ○憾恥醤−勺暗ミ︑黛︑§き堕マoo一ソ. 男冒竪督艮讐山い国︐峯一毎貸窺慕ミ黛毫bo翰賊轟§劃一︒ ︒︒ ︒ Ouo﹄ミ︵身&ξ>旨︺9︒四巳薦ψ. ︾gF国貰ξ団宰い鋤毛卸℃︒Nbo9. ωさζ拐一︾α穿Oダ合︾O一〇鳩h一︵oぽ&ξ︾=F﹃畿N黛晩鴨Oo§ミ黛ミ愚︶マ誌︶●. ︾二FO憾§−ミ馬ミ肉ミ§き騨冨品︒︒歯9︾⊆ドミN誉鷺9ミミ§ミ︾巳Q. ︾q宣麟蔑誉隣恥Ooミミミ鳶w黛 ℃P邉山qo9>巳 90き一bαq︶℃. 鉱昌箏. ︵餌︶. ︵25︶. ︵餌︶. ︵26︶. ︵28︶. ︵29︶. ︵30︶. Ooミ§ミ醤魯8 P匹︒>巳. ︵31︶.

(25) ︵2 3︶. 奪ミこづ・器︒. φ. ︵33︶ 小屋住農が保有した小さな耕地は︑牛・馬︑それどころか家族さえも養うには不十分であった︒ o㍉腎ン馬臼>噺こミミ勘O恥ミミ︑8一濾ρb●臆. Pρ匡o旨き蟄 肉醤領N詠神勺籍誉恥免遮. ︵4 3 ︶︾三蛭くミ9鷺Qoミ§§蔦謄︶り﹄伊なお︑羊の糞尿は肥料として︑皮は毛皮︑羊皮紙として有用であった︒. ︵35︶加用信文﹃日本農法論﹄︵御茶の水書房︑一九七二年︶一一i一二頁︒. 三 村法を通してみた村落共同体の特質. ︵1︶. 村法の性格は︑領主的ないしヘルシャフトリッヒなもの︵領主法︶と︑共同体的ないしゲノヅセソシャフトリヅヒ. なもの︵共同体法︶とに分けることができる︒領主法は基本的に︑隷農収奪の法である︒それは次の史料から明らか. である︒すなわち︑﹁すべての隷農は︑秋に呼び出された時に賦役を怠らぬよう命じられた︒違反に対しては︑第一. 日目については五ペソス︑第二日目については二一ペンスの罰金﹂︵村法68︶︒さらに︑本稿︑一〇九︑二〇︑一一. 一ー二頁の史料にはそれぞれ︑柵︑干し草づくり︑収穫をめぐる領主の利害が反映されている︒なお︑だれが実際に. 領主法を実施したかが間題となるが︑それは︑前掲村法52の最後に出てくる領主の監視人ヨ・ωω自3旨旨であった. ︵監視人は︑村法49・53・60・63・70にも現われる︶︒監視人はマナ役人であり︑領主の耕地と放牧地を侵害者から守 ︵2︶. ︵3︶. る責任を負い︑必要な時には告発も行なった︒そして彼は︑刈入期の特別賦役び09桑o﹃竃の強制に際しても︑隷農. 二二. たちがそれを怠った時には告発せねばならない︒この監視人は︑通常︑村区の共同体によって選ばれ︑村民たちが彼 ︵4︶ の行為について責任を負ったことは︑オールトによって史料上裏付けられている︒ 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(26) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. ご一二. 次に村法の共同体的性格をみる︒共同体の成員の諸関係を律するものとして︑柵づくりとその修繕︑収穫期の働き ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 手の確保︑家畜の放牧等に関する規定が存在したが︑これらは︑共同体の成員間の相互牽制を示すと同時に︑自治性. と共同性確保の可能性を示している︒以下では︑これらの点を村法の制定と実施に即してみてゆこう︒. 村法を制定する際に共同体的な手続が踏まれたことは︑次の史料から知りうる︒すなわち︑﹁村区全体の共同体に. よって規定され命じられた即o≦ω段旨90益賞εヨ︒馨℃段8息霧琶88目唐§詩8目﹂︵村法4︶︑﹁領民全体によ. ってそして自由人たちによって承認されたOo蓉霧霊ヨ霧一℃R8εBぎ琶餌αQビ目魯需二ざR8ぎヨぎoε︵村法9︶︑. ﹁領主のすべての保有者︑自由保有者ならびに慣習的保有者は合意した OBまω富ま算霧3巨艮蜜筥まaρ墨彗. ︒易菖旨帥注8霧窪窪震巨ご︵村法侶︶︒これらの表現は︑我々の史料の半数以上に表われる︒このことから︑共同体 ︵5︶. の合意による制定が多かったことは明らかである︒それゆえ︑我々が対象としている共同体は︑村法の制定において. 自治性を有したといえよう︒ただし︑制定に際しては常にマナ領主の権威︑とりわけマナ裁判所の権威が頼りにされ ︵6︶ たのであり︑自治性にはこの点で一定の限界があった︒. 続いて︑実施についてみる︒領主法の実施は︑監視人によってなされたが︑共同体法を実施したのは番人箸象留冨. である︒彼らは史料の中に頻繁に現われる︒例えぽ次の通りである︒すなわち︑﹁耕地を監視するために選ばれた番. 人︑⁝⁝⁝﹂︵村法2︶︒﹁そして︑右の秋の法令を遵守し︑それらを破った者どもを必要な限り頻繁に告発するため. に︑⁝⁝⁝が村区の共同体によって選ばれた︒そして︑彼らは宣誓した﹂︵村法3 8︶︒このように番人の役目は︑耕地. の監視︑法令︑定めの遵守︑違反者の告発等であり︑番人を選出したのは共同体の成員である︒したがって︑ここで.

(27) もまた我々は自治性を見出すことができる︒しかし︑実際に裁判を行ない︑その判決を実行するに際しては︑やはリ. マナ領主の権威に依存せざるを得なかったのであり︑この点に付き︑制定の場合と同様に一定の限界がある︒そし ︵7︶. て︑番人に選ばれた者をみると︑大抵が一ヴァーゲイタないし二分の一ヴァーゲイタたる隷農であり︑小土地保有者. たる小屋住農ではなかった︒このことは︑共同体の中核が︑相対的に裕福な隷農によって構成されたことを意味して いる︒. みてきた通り村法は︑たしかに基本的には共同体的な利害を反映している︒しかし︑その﹁共同体的な利害﹂の内. 容は︑ある種の特徴を有したように思われる︒第一に︑収穫期の働ぎ手確保についての規定であるが︑それは主とし ︵8︶. てコ雇傭労働者﹂たる小屋住農に向けられた︒コ一丁四世紀の農村に小屋住農と呼ばれる階層が多数存在したことは ︵9︶. 周知の通りであるが︑彼らは五工ーカないしそれ以下の土地しか保有せず︑その土地も開放耕地に保有することはほ ︵10︶. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︑. ︵11︶. とんどなく︑領主から要求される賦役の量も少なかった︒したがって︑彼らは疑いもなく︑雇傭労働力の主要な源と. して存在したし︑労働者として生活を支えねばならなかった︑そして︑相対的に裕福な農民︵隷農︑そして少数では. あるが自由民︶は︑収穫期における労働力不足を小屋住農の雇傭によって解消しようとしたのである︒オールトは︑ ︵12︶. 小屋住農を村落共同体の成員とみなしたが︑右に述べた通り小屋住農は︑共同体の中で特殊な位置を占めたのであ. る︒かくして︑共同体において優勢であったのは︑主要な土地保有者であり︑彼らは前述のごとく村法実施のための. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 番人としても活動した︒そして︑収穫期における働ぎ手確保のための規定は︑土地をほとんどもたない小屋住農に向. コ⁝. けられたのであり︑いわば貧農抑圧の法として機能した︒例えば︑一三二六年の臣窪90旨の次の史料はそうした法 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(28) 早稲田法学会誌簑三巻︵一九八○︶. ︵M︶. ︸二四. が実際に機能したことを示す︒すなわち︑﹁ζ3色穿暮8営は︑村法の定めに反して︑収穫に出ず︑彼女の領主や隣 ︵13︶ 人の穀物を報酬のために刈り入れようとせず︑村区を立ち去った廉でニペソスの罰金﹂︒したがって小屋住農は︑村. 法の起草︑制定において重要な発言権も議決権ももたなかったけれども︑その実施に際しては全面的に拘束されたの. である︒第二に︑共同体における︵老人︑子どもを含む︶虚弱者と貧老の扶助の事実は︑落穂拾い︑豆の収穫︑刈株 ︵15︶. の規定の検討から明らかであるが︑それが﹁共同体的な利害﹂とどう結びつくかが問題である︒中世において貧者と. いえば︑土地をもたない者をも意味したので︑小屋住農に対する扶助が考えられるが︑彼らは刈り入れ労働力として ︵弼︶. 貴重な存在であり︑その扶助は当然に﹁共同体的な利害﹂に一致した︒また︑子どもは将来の労働力であり︑老人は. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 経験を蓄積した者であるから︑その扶助も先の利害に一致する︒このように︑共同体の内部には︑相対的に裕福な隷 農と小屋住農の間に抑圧と扶助という性質の異なる二つの緊張関係が存在した︒. なお︑共同体内部の関係については︑自由人ぎ︒ヨ曾ないし自由保有者中8ぎ鉦Rのの位置をどうみるかが問題 ︵17︶ となる︒メイトランドによれば︑﹁﹃村区の共同体﹄は︑一般に︑法律家が農奴ωR罐と呼ぶ人々の団体である﹂︒こ. れに対してオールトは︑先に挙げた村法Bのような史料の自由人の合意に注目してメイトラソドを批判する︒彼によ. れば︑自由人は開放耕地内に土地をもつ限り︑農業経済上隷農と利害を共にするのであり︑それゆえに農事村法の制. 定に当っても自由人の合意が必要とされた︒したがって彼は︑自由人も共同体の成員として存在したとみるのであ. る︒オールトの見解は︑一応説得力を有している︒しかし︑村法が実施される際の自由人の位置はどうであろうか︒. 村法の実施において︑その権威はマナ裁判所に求められた︒しかし︑マナ裁判所は自由保有者に対してほとんど権能.

(29) ︵扮︶. ︵18︶. をもたなかったし︑自由保有者はまっすぐ国王裁判所へ正義を求めて行くことができた︒この点についてはオールト ︵20︶. も認めている︒とすれば︑自由人に対する村法の実施はかなり困難だったのではなかろうか︒このことは︑自由人の. 村法違反者が史料上ほとんどなく︑隷農が圧倒的に多いことからも推測されよう︒したがって自由人は︑たとえ農業 ︵21︶. 経済上共同体の成員であったとしても︑法的には個人としての位置を保持しえたはずである︒彼は︑自分の個人的な 恣意を通すこともできたし︑隷農集団の組織化に一役買うこともできたのである︒. 以上の考察から次の事柄が明らかになった︒①村法には領主的なものと共同体的なものがあり︑前者は基本的に隷. 農収奪の法である︒②共同体的な村法は︑成員問の諸関係を律するものとしてあるが︑それは相互牽制と同時に自治. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 性︑共同性確保の可能性も示す︒ただし︑自治性には一定の限界があった︒③共同体内部の問題に関しては︑相対的. に裕福な隷農集団の小屋住農に対する抑圧と扶助という構図がみられた︒また︑自由人は農業経済上隷農の共同体に 属するが︑法的には領主から拘束されないため特殊な個人的位置を占めた︒. ︵22︶. 要するに︑本稿の対象とした共同体は領主の支配を被ると同時に限定付きの自治性︑共同性を有したが︑共同体内. 部の諸関係は一般に考えられるよりも複雑であり︑決して民主的社会状態8営8蚕身とは呼べないものであった︒. 日本の村法分析にもこの区別が有効であることについては︑前田正治編著﹃日本近世村法の研究﹄︵有斐閣︑一九五〇年︶参照︒さらに︑. ︒︒. 一二五. 貝本近世村法の共同体的性格と領主的性格についての緻密な研究である同﹁法と村落共同体﹂︵清水盛光︑会田雄次編﹃封建社会と共同体﹄創. ︵1︶. 文社︑一九六一年 ︶ は 示 唆 に 富 む ︒ ︵2︶︾巳 O醤醤−観恥ミ幅黛︑ミ導騨窓●餌①o. 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

(30) 早稲田法学会誌第三一巻︵一九八○︶. 麟ミ蟄鷺9§ミ黛獣§ワ翫. ︵4︶㌧ミ卸マ鼻︾巳戸Q︾§愚︑蹄ミ肉ミミ静塾b・①も. ︵3︶︾巳 ︒・. 二六. ︵5︶村法の起草に関しては︑我々の史料は何も語らない︒オールトによれば︑いくつかの村区においては︑四名ないし六名の村法起草委員が指. ズ蔑隷験鳴Ooミミミ?◎賊曼 唱P蕊v島︒. 噌ミ黛鷺qoミミ貸註愚u竈.&直鉾. ︵前掲︶は示竣に富む︒なお︑ こうした現実的な利害関係に結びつく扶助に加えて︑人間の本性. 一〇. 〇〇一yサ一&・. マナ領主の権威が頼りにされたのは︑本稿が検討の対象としているマナと村区が一致する所とマナが複数の村区を含む所である︒分割され. ︾巳計. 名され︑村民集会の前に村法を起草するべく命じられた︒そして︑その集会における保有者全員の決議によって制定がなされたという︒串義 唱●鐙. ︵6︶. P倉●︾巳ρO憾恥鳶−肉蝋乳鉱肉魯︑ミ騨騨PO9. ︵℃qげ●o︷ω①崔oロωoo一〇蔓一<o一●斜. た領主権からなる村区では別の形をとることになるが︑それについてはさしあたり前節の註6参照︒. 肖 ︸○目ゆ昌o︒矯o︾馬魯こ民霧目ぼ葵ざo︾竃W:. 噛黛昏. ︵8︶. 還韓﹂㍗漣㎝︒函oのヨぎ匹︽ざo㌧■無妹. 寓o琶磐90︾叙y℃︾蕊uN 一9. ︵7︶. ︵9︶. 小松芳喬﹃中世英国農村﹄︵弘文堂︑一九四二年︶七一t七六頁︒. マト08●. ︵10︶. ︵11︶. 試肉隣︑◎ド&6ぴ曳団︒≦. 竃蝕亀き餌睾勉名︒℃︒ω践一伍9. ︾巳. 勺蔑騨随鳴Oo§§貸獣婁︾づ●8︒. ︵2 1︶. Go黛. >巳. ︵B︶. 国ミ匙. 環畿騨晦恥Oo§ミ︒・ミ帖ミ マ合︐︾巳 O一窪巳ロαqΨPb⊃嵩︒︾巳ρ O臨恥撃︑時ミ肉黛鳩§導艶マ8・. ︵皿︶. この点に付ぎ︑玉城哲﹁共同体の経済学﹂. ↓訴馬. ︵15︶. ︾包. ︒6. に由来する相互扶助の観念も存在したであろう︒. マω一9. ︵6 1︶. ︵7 1 ︶・︵8 1︶℃︒俸ζこ<o一●督も冒●爲oo⁝爵ド. ︵20︶. ︵19︶ ︾亀 O辱§−凄鳴ミ笥亀︑ミ嘗騨や㎝o. ︵班︶自由保有者が国王裁判所で自己の利益を主張しつつ同時にそれが共同体共通の利益を代弁したこと︑そして逆にこの代表的機能が村落に利. 益擁護団体としての組織性を付与したことについては︑畑穣﹁イギリス中世におけるヨーマンリーの代表機能﹂︵前掲︶︑同﹁慣習的土地保有権.

(31) の発展過程﹂︵前掲︶︑平松紘﹁領主制支配における村落共同体の法的構造﹂︵前掲︶参照︒. 匹ものに分け︑後者を強調しつつ一三︑四世紀の村落共同体の成員の平等︑自治を評価したW・ウルマン︑鈴木利章訳﹃中世における個人. ︵22︶中世の政府・法律観を﹁上から秩序づけられる︑ないしは︑神政君主制的な瓢霧8注ぎαq黛浮8箕鐘£ものと︑﹁主権在民的な匿8巳・ 冒. ︵一〇四頁︶という評価を私は︑留保なしに認めること. と社会﹄︵原著︑一九六六年︑邦訳︑ミネルヴァ書房︑一九七〇年︶一〇三ー一〇四頁は興味深い︒しかし︑﹁自由農民︑農奴︑小屋住農の・⁝. 三階層の問にみられる亀裂は︑それほど深いものではなく︑大したことはありません﹂ はでぎない︒. 四︑展望. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 以上︑一二七〇年から二二四九年の村法史料の検討を通して︑村落共同体の内部的諸関係の特質を考察した︒その. 結果︑共同体は限定付きの自治性と共同性を有し︑その限定が付される所以は︑共同体内部の諸関係の特殊性にあっ. たことを明らかにした︒ところで︑一四世紀半ばは︑労働地代の金納化︑領主直領地の農民への賃貸が進行し︑農奴. 制H領主制の崩壊が始まる時代である︒しかし︑前述のごとく︑このことは村落共同体の解体を意味するのではな. く︑むしろそれが自治的性格を強めていったともいわれている︒事実︑一四世紀半ば以降の村法は︑それ以前に比べ. て量的にも内容的にも豊富になるQまた︑イギリス最初の国家的労働立法である二二四九年︑二二五一年の﹁労働者 ︵1︶. ︵2︶. 法令ω富ε富ω9い魯o貫R£に象徴されるように︑それ以降のイングランド社会は︑コ雇傭労働者﹂の問題が国家的. レベルで現象化する時代である︒一部の村法がこの﹁労働者法令﹂の原型になったことを我々は確認しているが︑こ. 一二七. の意味で村法は国家法との強い緊張を示したのである︒さらに︑一五世紀に村法は一層豊富になるが︑特に指摘して 中世イングランドの村落共同体と村法︵加藤哲実︶.

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