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ス タ ー リ ン と 江 精 衛 「幻 の 密 約 」

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◎ルポルタージュ

新 資 料 が 語 る 中 国 革 命 の 真 実

ス タ ー リ ン と 江 精 衛 ﹁幻 の 密 約 ﹂

諄 瑞 美

﹁三国志﹂としての中国革命

梅の花は︑枝からじかに咲きほこる︒桜となによりちが

うのはそこだ︒

名古屋大学医学部大幸センターにある樹齢六〇年の紅梅

は︑今年も鮮紅色の花をいっぱいにつけた︒以前は鶴舞駅

近くの名古屋大学付属病院の中庭に植わっていたものだが︑

病院の改築工事に伴って︑教職員の間から移植しようとい

う声が自然にあがり︑四年前にここへ移されたのである︒

﹁この梅の古木は︑名大の大切な歴史とでも言いましょう

か︒その由来について︑医局では代々語り継がれてきたの です﹂

同センターの職員のひとりは説明しながら︑いとおしそ

うに梅の木を見上げた︒

今もなお名大医学部で語り継がれるのは︑終戦直前に起

きた出来事だった︒

一九四四年の三月三日︒中華民国国民政府の主席だった

江精衛(名は兆銘)が︑病気治療のために名古屋帝国大学

付属医院(当時)に緊急入院した︒事態は極秘扱いとされ︑﹁梅号﹂の暗号名ですべての事が進められた︒当時の日本で

最高レベルの医師団が結成され︑厳重な警備体制が敷かれ

て︑病棟に出入りする者はだれであろうと︑直径ニセンチ

ほどの紺色の羅紗地に黄色の梅の花を刺繍した﹁梅号バッ

ス タ ー リ ン と江 精 衛 「幻 の 密 約 」 157

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ジ﹂を胸につけることを義務づけられた︒

江精衛といえぼ︑第二次大戦中︑日本と手を組んで和平

政権を打ち立てた中国の政治家として知られている︒戦後

の中国では︑祖国を裏切った売国奴として断罪され︑今も

なお﹁大漢好﹂に規定されている人物である︒

注精衛の病気は当初︑﹁圧迫性骨髄症﹂と診断されていた︒

病気は︑もとはといえば︑江が国民政府行政院長だった

一九三五年=月︑南京で開かれた第四期六中全会に出席

して記念撮影をした際︑刺客に狙撃されたことが原因だと

された︒カメラマンに変装した刺客はカメラに隠し持った

ピストルで︑江の背後から三発発射した︒一発目は左頬︑

二発目は左腕に当たり︑最後の一発が背中のサスペンダー

の交差した部分の皮に当たって角度を曲げ︑背骨の右脇に

食い込んだ︒直後に摘出できなかった背中の弾は︑その後

場所の特定が困難になり︑長く体内に留まったまま月日が

流れた︒

それが八年後の四三年一二月︑突然の激痛となって発症

した︒運び込まれた南京の日本陸軍病院で︑血気にはやる

若い軍医が二〇分で弾の摘出手術を行った︒結果はさらに

悪化し︑両下肢麻痺と発熱︑膀胱と直腸障害を引き起こし

た︒日本から東北帝国大学の内科医・黒川利雄教授と名古

屋帝国大学の外科の権威である齊籐真教授が呼ばれて診察

し︑急遽再手術のために日本へ移送することになった︒ 四四年三月三日︑名古屋帝大付属医院に入院すると︑翌

四日に早速再手術が実施された︒

だが︑医師団の努力ときめ細かな介護にもかかわらず︑

術後の経過は思わしくなかった︒後に名古屋帝大総長にな

る血液内科の権威・勝沼精蔵教授が血液検査を実施したと

ころ︑最終的に﹁多発性骨髄腫﹂と診断されたのは︑入院

から四カ月以上も過ぎた夏になってからのことである︒

﹁多発性骨髄腫﹂とは︑簡単にいえば︑血液のガンであ

る︒銃弾による外傷の陰で︑死に至る病が進行していたの

である︒

四四年=月一〇日︑午後四時二〇分︒江精衛は妻・陳

壁君と五人の子供たち︑医師団その他多くの人々に見守ら

れながら息をひきとった︒享年六一だった︒

二日後︑遺体は家族や随行員と共に中国へ戻った︒妻の

陳壁君は名古屋帝大付属医院で受けた手厚い治療と看護に

感謝をこめて︑三本の梅の木を送った︒梅は江精衛が入院

していた﹁ほ﹂病棟の東南部にある特別室の窓から見える

場所に植樹され︑その後︑広い中庭に移された︒梅の木は

一本が枯れ︑今残っているのは二本である︒

江精衛の遺体は南京の梅花山に埋葬されたが︑終戦直後︑

蒋介石によって爆破され︑遺体は墓もろとも木っ端みじん

に砕け散った︒

江精衛との政権争いに勝った蒋介石は︑米英の支援を受

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けて国民政府大総統に就任していたが︑やがて毛沢東率い

る中国共産党との内戦に敗れ︑台湾へ落ち延びた︒勝った

毛沢東は一九四九年︑中国にソ連式の社会主義国家を建設

しようと︑中華人民共和国を打ち立てた⁝⁝︒

歴史は常に勝者の立場から語られる︒その意味で︑現在

の中国近代史が毛沢東を中心とした中国共産党のサクセス

ストーリーとして語られるのは︑当然のことなのかもしれ

ない︒しかし予断を持たずに中国革命の歴史を辿るならば︑

やはり国民政府を率いた江精衛と蒋介石を抜きにしては語

れない︒特に江精衛は一九歳で日本へ留学して以来︑孫文

の一番弟子となり︑孫文亡き後は︑依嘱を受けて国民政府

主席についた政治家である︒そもそもは﹁大アジア主義﹂

を唱えて日本と手を結ぼうとした孫文の遺志を引き継いだ︑

正統な後継者だったといえよう︒

つまり︑孫文亡き後の中国革命とは︑実際には江精衛と

蒋介石︑毛沢東を中心とした各勢力の興亡史であり︑﹁三国

志﹂さながらの権力闘争の歴史として捉えるべきなのだ︒

そして従来︑この三人の政治家たちはそれぞれ﹁江精衛

と日本﹂︑﹁蒋介石とアメリカ﹂︑そして﹁毛沢東とソ連﹂と

いう三者三様の結びつきの︑単純な図式で考えられがちだっ

た︒

ところが最近︑こうした図式が大きく覆される歴史資料 がみつかった︒

ソ連崩壊後のロシアでは︑一九九四年以来︑長らく秘匿

されてきたソ連・コミンテルン関係の極秘文書が続々と公

開され始めている︒その中に中国革命史を検証する上での

貴重な手がかりが︑数多く含まれていたのだ︒はたして︑

二〇世紀の中国革命史︑あるいは中国現代史は︑今後︑大々

的に見直しがなされ︑大幅な書き換えを迫られることになっ

た︒

この極秘資料の公開は︑ドイツの資金協力により︑ロシ

ア科学アカデミー極東研究所とベルリン自由大学が共同で

行う﹁世紀のプロジェクト﹂で︑まずドイッ語版とロシア

語版が刊行され︑九七年︑ロシア語版をもとにした中国語

版が刊行された︒X1001年現在までに公開された極秘文

書は︑一九二〇年から三一年までの分だけだが︑今後︑続々

と刊行が予定されている︒

ドイツが積極的に資金協力しているわけは︑おそらくソ

連崩壊後のロシアから貴重な極秘資料がみだりに海外に流

れ出し︑散逸してしまうことを危惧したためと︑もうひと

つには︑ドイツナチス関係の極秘資料をまず自らの手で検

証したいという意図から出たことではないかと想像する︒

とまれ︑中国に関する豊富な資料が含まれていたことは︑

中国近代史の再考にとって僥倖であるばかりでなく︑コミ

ンテルンと中国との関係がいかに深かったかを再認識させ

ス ター リン と圧 精 衛 「幻 の 密 約 」 X59

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ることにもなった︒

コミンテルンというのは︑一九一九年にソ連の主導でペ

オグラード(現︑サンクト・ペテルブルク)に設立された

国際共産主義運動の最高統制機関だが︑三年後にソ連共産

党の書記に就任するスターリンが権力をふるい︑世界革命

を標榜して各国の民族独立運動を指導し︑絶大な影響力を

及ぼしたことで知られる︒なかでも最も力を注いだ相手が︑

中国だった︒

コミンテルンが中国革命に関与した数々の出来事のなか

で︑とりわけ重大なのが︑一九二七年︑第一次﹁国共合作﹂

が崩壊した時点のことである︒というのも︑崩壊を招いた

原因になったのが︑スターリンの発した一通の秘密電報だっ

たからである︒

この秘密電報はスターリンの﹁五月指示﹂とも呼ばれて︑

以前から存在していることが確実視されてきたが︑実はこ

れまで"実物"を見た者がだれもいなかったのである︒そ

れが近年公開されはじめた極秘文書の中から︑ついに全文

が発見された︒

そればかりではない︒秘密電報をめぐる状況を詳しく追っ

ていくうちに︑さらに興味深い新事実が浮かび上がってき

た︒

その新事実とは︑江精衛とスターリンが︑この時期︑密

かにある約束を取り交わしていたというのである︒いった い江精衛とスターリンが︑いつ︑どこで︑どんな経緯から

顔を合わせ︑なにを話し合ったのか︒どんな内容の密約を

取り交わし︑それはどのように実施されたのか︒そしてこ

の密約の結果︑歴史はどう動いたのだろうか︒

それを説明する前に︑まず︑当時の中国情勢について簡

単に見ておこう︒

二 社 会 主 義 に 理 解 を 示 し た 注 精 衛

一九=年︑孫文の指揮した辛亥革命が成功し︑清朝政

府は崩壊した︒翌年︑孫文は中華民国臨時政府を樹立して

衰世凱に大総統の地位を譲ったが︑衰世凱はすぐに独裁化

して退位を迫られ︑中国は軍閥が群雄割拠する時代に突入

した︒孫文は広東で軍政府大元帥になるが︑政権はまだ不

安定な状態だった︒

一九一九年︑衰世凱が受諾した日本の二十一力条要求が︑

パリ講和条約で承認されたことに腹を立てた北京大学の学

生たちが︑反対運動を起こした︒﹁五四運動﹂である︒学生

たちは同時に︑北京大学教授の陳独秀が旧来の封建思想を

打破するために主宰した雑誌﹃新青年﹄を熱烈に支持して︑

新文化運動に火がついた︒

コミンテルンの援助で中国共産党が発足したのは︑一九

二一年だった︒発起人の陳独秀が最高ポストである書記に

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就任する一方︑コミンテルンは国民党を創設した孫文にも

接近し︑﹁国民党こそ中国の国民革命を実現できる政党だ﹂

と賞賛して︑共産党との連携を持ちかけた︒

国民革命の成就のために北方を軍事制覇し︑全国統一を

図ろうとしていた孫文は︑コミンテルンから革命資金を得

ることを条件に︑共産党の受け入れを承諾した︒

こうして一九二四年︑第一次﹁国共合作﹂が実現︒コミ

ンテルンから︑国民党の政治顧問としてボロヂンが派遣さ

れてきた︒

だが翌年の一九二五年︑孫文が北方への軍事遠征である﹁北伐﹂の途中で病死すると︑孫文の遺志をついだ江精衛ら

国民党正統派(左派)と︑共産党の追い出しを主張する右

派︑それに軍事力をバックに拾頭した蒋介石が互いに反目

し始めた︒

一方︑共産党は活発な宣伝活動が功を奏して党員数を延

ばし︑二六年末には六万人まで急成長した︒これに脅威を

感じた国民党右派はさらに態度を硬化させ︑左派のリーダー

屡仲榿の暗殺事件︑蒋介石が反左派︑反共産党のために企

てたとされる中山艦事件などが続発して︑緊迫の度が一気

に高まった︒蒋介石は自ら﹁北伐﹂の再開を宣言すると︑

国民政府の軍事力を一手に掌握した︒

そして一九二七年ll中国の歴史は大きな分岐点に立っ

直接のきっかけを作ったのは蒋介石だった︒二七年四月

一二日︑突如︑上海で共産党撲滅作戦﹁四・一ニクーデ

ター﹂を起こして︑共産党員を大量虐殺したのである︒﹁誤って千人の非党員を殺しても︑ひとりの共産党員も逃

すな﹂という蒋介石の命令の下に実施されたクーデターは

残虐を極め︑一説には︑処刑された学生や共産党支持者は

全国で三二万人に達し︑六万人いた共産党員も一挙に二万

人以下にまで減って︑ほぼ壊滅状態に陥ったという︒

フランスで病気療養中だった注精衛が︑帰国したのは二

七年四月のことだった︒

四月一日から五日間︑江精衛は上海で出迎えた蒋介石ら

数人と会談した︒蒋介石はこう主張した︒﹁国民党の政治顧問ボロヂンを辞めさせよう︒共産党と手

を切ることに賛成してくれ﹂

だが江精衛は首を横に振った︒

﹁いや︑中央委員会の全体会議にはかって決議すべきだ﹂

蒋介石は聞き入れなかった︒共産党が密かに裏切り工作

を画策していると主張して譲らなかった︒

四月四日︑蒋介石らを説得するために︑江精衛は共産党

の書記であった陳独秀と話し合い︑﹁共産党は国民党内で破

壊行為を行う意志はない﹂という陳の意志表示をとりつけ︑﹁江陳連合宣言﹂を発表した︒

ス タ ー リ ン と圧 精 衛 「幻 の 密 約 」 i6i

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陳独秀との会見に先立ち︑四月一日に注精衛と話し合っ

た共産党幹部の羅亦農は︑江精衛について︑こう内部報告

している︒﹁江精衛の態度は大変すばらしく︑政治思想は安定してい

る︒中国共産党と協力していけるばかりか︑社会主義制度

建設に向かうことにおいても︑かれはコミンテルンが我々

にあたえた訓令に全面的に賛同している﹂

﹁訓令﹂というのは︑前年の二六年︑コミンテルン第七回

拡大執行委員会総会で行った決議を指すと見られるが︑中

国共産党の当時の幹部から見ても︑江精衛は絶賛されるほ

ど社会主義に理解を示していたのである︒

注精衛は四月一〇日︑国民政府のある武漢に到着し︑主

席に就任した︒その直後の一二日︑蒋介石が国民政府の意

向を無視して︑共産党撲滅のクーデターを引き起こした︒

武漢の国民政府は一七日︑蒋介石を罷免した︒

居直った蒋介石は南京に独自の政権を打ち立て︑武漢の

国民政府と真っ向から対立する姿勢を示した︒軍事力を掌

握する蒋介石になびいたのは︑各地の軍閥だった︒

こうして国民党は江精衛の左派(正統)と蒋介石の右派

に真っ二つに分裂した︒﹁寧漢分裂﹂と呼ばれるものであ

る︒武漢の国民政府は一七日︑蒋介石に対抗して独自の軍

隊を組織して︑孫文以来の悲願である国民革命を成就する

ため︑﹁北伐﹂の継続を宣言した︒ 三モスクワ会談の﹁中身﹂

一方︑蒋介石の共産党に対する﹁裏切り行為﹂を青天の

震震だと受け取ったのは︑コミンテルン主流派のスターリ

ンだった︒直前の四月五日︑スターリンはこう演説したば

かりだったからだ︒﹁蒋介石は右翼かもしれぬが︑規律に服しており︑クーデ

ターなど起こり得ない︒かれは革命のために最後まで利用

され︑それからレモンのようにしぼられて投げ捨てられる

ことになるだろう﹂

これは俗に﹁レモン演説﹂と言われているが︑スターリ

ンは蒋介石を見くびっていたわけだ︒いまだコミンテルン

内部で権力を確立し切っていなかったスターリンは︑失脚

することを恐れて演説の公表を差し控えたが︑権力闘争の

最大の敵であるトロツキーと最後の決戦の時を迎えていた︒

コミンテルン第八回執行委員会総会がモスクワで開かれ

たのは︑五月一八日から三〇日だった︒スターリンは会議

を非公開の極秘会議とし︑息のかかった側近で固めて強弁

をふるい︑会議を有利に押し切った︒重要課題として採択

されたのは中国革命に対する急進的な政策だった︒政策決

定された内容に基づき正式通達するのに先立って︑スター

リンは中国共産党に秘密指示を電報にして発信した︒

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前述のとおり︑近年刊行された極秘文書の中から完全な

形で発見されたのは︑この電報文である︒スターリンが五

月に出した指示であることから︑﹁五月指示﹂とも呼ばれる

秘密電報は︑六月一日に武漢にいた中国共産党幹部のもと

へ届けられたとされる︒

六項目からなる内容を要約すると︑﹁武漢政府と国民党を

改組して中国共産党が指導権を握ること︒中国共産党と労

働者︑農民の積極分子を武装して国民政府軍の実権を握る

こと︒反革命を打倒して︑土地革命を貫徹すること﹂など

だが︑あまりに中国の実状からかけ離れた無理難題ばかり

だったことから︑共産党内部では受け入れをめぐって激し

い議論が巻き起こった︒さらに︑コミンテルンから派遣さ

れていた二人の使者‑国民政府の政治顧問・ボロヂンと︑

中国共産党へ派遣されていた特使のロイーとの間でも意

見が対立して︑ふたりの溝が深まった︒

インド人のロイは︑インド民族解放運動の闘士で︑コミ

ンテルンから中国へ派遣されてきたぼかりだったが︑﹁五月

指示﹂の正しさを信じるあまり︑秘密電報を武漢国民政府

の主席である江精衛に見せてしまった︒

コミンテルンはロイが電報内容を漏洩したことを知って

驚愕し︑﹁重大な規律違反﹂を犯したとしてロイを更迭し︑

即刻ソ連へ召還する決定を下した︒

この電報漏洩事件は重大な失策として︑後々まで語り伝 えられるものだが︑なぜロイがそんな暴挙に出たのかにつ

いて︑後年︑ロイ自身は回想録のなかでこう釈明している︒

﹁それ(五月指示)は︑すでにモスクワで彼(江精衛)に

個人的にあたえられていた約束の繰り返しであった﹂

だから︑秘密漏洩などという事態ではなく︑まして﹁重

大な規律違反﹂などではないと弁明するのだ︒

それでは︑ここでロイが主張している︑﹁モスクワで江精

衛に個人的に与えられた約束﹂とは︑いったいなにを指す

のだろうか︒

ロイによれぼ︑江精衛は療養中のフランスから中国へも

どる途中︑モスクワへ立ち寄り︑その際ソ連共産党やコミ

ンテルンと話し合い︑資金援助がすぐに来ることを条件に︑﹁五月指示﹂の内容に同意していたというのである︒

確かに︑モスクワ滞在の時期については︑注精衛自身も

こう語っている︒﹁昨年(一九二六年)広東を離れて後︑(フランスで)一

一月初めに(武漢国民政府)中央連席会議の電報を受け取

り︑私に早く帰国するようにと言ってきたが︑そのときは

一一月末になれば出発できると返電を打った︒一一月二〇

日にフランスを発ち︑ベルリンに着いた時に発病し︑ずっ

と今年の正月過ぎまで臥せていた後︑ようやくドイッを発っ

た︒モスクワを通過するとき︑また二月八日付けのここ(中

央連席会議)からの電報を受け取り︑私に早く帰国するよ

ス ター リン と江 精 衛 「幻 の 密約 」 i63

(8)

う言ってきた︒ロシアでは数人の同志に会見したが︑彼ら

も早く帰国するよう主張した︒それで長居も出来ず︑たっ

た五日間滞在しただけでモスクワを発ってウラジオストッ

クへ向かった︒四月一日︑船は(上海の)呉瀬口の沖合に

到着した﹂

つまり︑江精衛はフランスから帰国する際︑モスクワを

経由し︑そこで五日間滞在した間に︑スターリンらソ連共

産党やコミンテルンの指導者たちと会談したことになる︒

会談内容については︑﹁協力関係を結ぶことを話し合い︑

国共合作を継続して︑蒋介石に対抗できるだけの軍隊を擁

する資金援助を供与する約束をした﹂のだと︑ロイは主張

している︒すなわちスターリンと注精衛の間には﹁密約﹂

があったのである︒

もっとも︑コミンテルン文書に着目し︑﹁五月指示﹂をめ

ぐるモスクワと武漢の関係について︑日本で初めて世に問

うた神戸大学の石川禎浩助教授は︑﹁江精衛がモスクワで交

わした約束の内容と六月にロイが漏洩した電報文の内容が

まったく同じであったとは︑考えにくい﹂と分析している︒

蒋介石の反共クーデターという︑モスクワを震憾させる

重大事件が四月に発生したために︑その前と後では︑中国

革命に関するモスクワの意向にまったく変化がなかったと

は信じられないからだ︒

しかしながら︑たとえロイが見せた﹁五月指示﹂の内容 が︑モスクワで約束したものより急進的だったとしても︑

注精衛はおそらく﹁五月指示﹂の内容を承認して︑国民党

の徹底的改組にも同意したのは確かであろうと︑石川助教

授は断定している︒

つまり︑少なくとも︑江精衛がコミンテルン主導の社会

主義革命に理解を示し︑孫文時代と同様にコミンテルンか

ら資金援助を得ながら︑国民革命を成し遂げるために中国

共産党と共同歩調をとり続けようと考えていたことは︑間

違いない事実である︒

四 さ れ ど 資 金 は 届 か ず

現在︑この﹁スターリンと注精衛の密約﹂の会談内容を

記した資料はまだ発見されていない︒ロシア科学アカデミー

極東研究所の新資料編纂グループは︑﹁スターリンが自分に

不利な材料だと判断して︑事後に破棄してしまったか︑あ

るいは別の特別機密ファイルに移管されたのではないか﹂

と推測している︒

だが︑新資料の中にいくつか手がかりが見つかった︒資

金援助の金額に関する記録である︒

モスクワが約束した資金援助の金額とは︑いったいどの

程度のものだったのか︒

四月七日付の﹁コミンテルン中央政治局会議第九四号

t64

(9)

ハヨ記録﹂には︑決定事項として次のような記載がある︒

﹁即刻︑遠東銀行上海支店を通じて漢口の中央銀行へ二〇

〇万ルーブルを供与すること﹂

四月七日の時点で︑コミンテルンは注精衛の武漢国民政

府の銀行口座へ︑二〇〇万ルーブル入金することを決定し

ていたのだ︒

はたして二〇〇万ルーブルという金額は︑どの程度の価

値があったのか︒当時︑ソ連で五〇〇人規模の中国人用軍

事教育施設を作るのにかかった費用が一〇〇万ルーブルで

あったという記載が同資料の別記録に見られることから︑

それとは桁違いの国民政府軍を組織するための金額として

は︑少なすぎたことは明らかだろう︒

二〇〇万ルーブルを資金提供の初回分だと受け取った江

精衛は︑さらに資金が送られてくることを期待していた︒

五月=二日︑湖北の宜昌に駐屯していた夏斗寅軍が武漢

国民政府に反旗を翻して︑蒋介石についた︒ついで五月二

一日︑湖南の長沙にいた許克祥軍が反乱を起こして︑労働

者や農民たちの大衆運動を残虐に弾圧したため︑農民一揆

が起こった︒武漢国民政府は事態の収拾に躍起になったが

治まらず︑大規模なストライキが発生して都市機能が麻痺

した︒経済活動がストップし︑政府は財政危機に見舞われ

た︒中国共産党は農民運動をあおり立て︑さらに激しい労

働争議と農民一揆が頻発した︒ コミンテルンからの資金はなかなか届かなかった︒

六月半ばになると︑しびれを切らした江精衛は再度スター

リンへ宛てて︑一五〇〇万ルーブルの借款を申し出た︒

六月二一二日付の﹁コミンテルン中央政治局会議第=二

号記録﹂には︑次のように書かれている︒﹁ωさらに武漢に二〇〇万ルーブルを供与する︒②一五〇

〇万ルーブルの新融資の請求については︑現在われわれは

なお満たすことはできない︒ただし今後この問題を再検討

することを拒まない︒われわれは追加資金の供与をしっか

りした軍隊の創設と関連づけ︑そのためにどんな工作を行っ

たか報告するよう要求する﹂

つまり︑江精衛が申し出た新たな追加資金については断

るが︑以前約束した融資分としてなら︑もう二〇〇万ルー

ブル追加してもよいというのだ︒ただし︑軍隊設立資金と

して使ったかどうかを報告させよともいう︒

スターリンが側近モロトフに宛てた極秘文書の中には︑

この記載を裏付ける記述がある︒一九二七年六月二四日付

のものだ︒﹁中国にかんしては︑一〇〇〇万のうち︑いま三︑四〇〇

万を送り︑一五〇〇万の問題は延期したらよいとおもう︒

われわれにさらに一五〇〇万要求してくるのは明らかに︑

われわれがこの一五〇〇万をおくらない場合は︑蒋介石に

たいす即時攻撃を放棄するためである﹂

ス タ ー リン と江 精 衛 「幻 の 密 約 」 165

(10)

無論︑こうした指示はコミンテルン内部のものであって︑

直接江精衛の目に触れることはなかった︒

スターリンの本心を知らぬ江精衛は︑届かぬ資金を待ち

わびながら︑手をこまぬいているほかなかった︒破綻寸前

の財政危機に苦慮し︑軍隊の創設もかなわなかった︒無為

に時を過ごす間にも︑武漢国民政府の部隊や各地の軍閥が

次々に蒋介石へ寝返った︒

注精衛は落胆し︑次第にスターリンへの信頼を失っていっ

た︒﹁五月指示﹂に全面的に服従しようとするロイと︑反対

を唱えるボロヂンの確執が表面化したことと︑期待してい

たスターリンからの資金援助が当初約束していた金額より

圧倒的に少なかったからである︒

﹁いったい誰がモスクワの見方を代表しているのか︑わか

らない﹂

注精衛は困惑気味にロイにそう漏らしている︒

六月二七日︑最後に寄るべき軍隊であった凋玉詳軍が蒋

介石と徐州会議で話し合い︑ついに寝返った︒

この日︑事態の深刻さにようやく気づいたスターリンは

慌て︑再度︑モロトフに宛てて極秘文書を書き送った︒

﹁⁝⁝心配なのは武漢がおじけついて︑南京に従うのでは

ないかということだ︒ボロヂンのために(武漢が彼の解任

を望んだ場合)︑武漢と争うことはない︒しかし︑まだ主張

することが可能なあいだは︑武漢が南京に服従しないよう できるかぎり主張しなければならない⁝⁝武漢に余分の三

〇〇万ないし五〇〇万を渡しても大丈夫だ︑ただし武漢が

南京に無条件降伏せず︑金がいたずらに消失しないという

あてがあるならば﹂

だが︑この金が送金されたという証拠はない︒

五﹁私はどうすればよいのか﹂

同日の六月二七日︑四面楚歌の状況に追い込まれた江精

衛は︑更迭されてソ連へ引き揚げる間際のロイと︑最後の

話し合いを持った︒要約すると次のような内容になる︒

江精衛﹁局面は逼迫している︒蒋介石と凋玉詳はすでに

全面協議に達した︒ちょうど凋玉詳から電報を受け取っ

たばかりだ⁝⁝こう言っている︒﹃共産党は国民党を消

滅しようと企てている︒共産党と合作することは国民

革命の利益に反する︒武漢国民政府は共産党の影響か

ら脱却するべきだ︒国民革命の一切の敵を国民党から

追い出して︑必要とあらば処罰すべきだ︒即刻連合し

て北京へ進攻することこそ国民革命の最重要任務であ

る﹄﹂

ロイ﹁五月指示の電報について話し合いましたか?

国民政府はどう見ているのですか?﹂

注精衛﹁まだ中央委員会で正式に話し合ってはいない︒

X66

(11)

ただ︑すでに多くの同志は目を通した︒われわれの前

にはふたつの道がある︒

ω右派及びすべての反革命分子と戦うために︑共産党

と国民党が密接に合作すること︒これはおそらく即

座に反動派の武装反乱を招くだろう︒

②共産党員は国民党を退去する︒国民党左派は出版の

自由︑言論の自由と共産党が合法的に存在する自由

を擁護する︒こうすれば︑反動派は武装反乱を組織

する口実がなくなる﹂

ロイ﹁南京攻略についての見通しはどうですか?も

し南京を攻撃したら︑凋玉詳が武漢を攻めてくること

を配慮しなくてよいのですか?﹂

注精衛﹁もしわれわれがすべての武装部隊を南京攻撃に

集中できれば︑二番目の道は理想的だろう︒当然この

ような状況下ではある種の譲歩も生み出すことを意味

するが⁝⁝﹂

ロイ﹁状況は明らかです︒道はふたつしかありません︒

共産党と国民党左派が闘争を開始するか︑あるいは反

革命の蒋介石に投降するか︒しかし第二の道(投降す

ること"著者注)には賛成しかねます︒共産党と国民

党左派は今こそ団結し︑十分に信頼しあい︑反動勢力

を消滅するために戦わねぼなりません︒私がモスクワ

の電報をあなたに見せたのは︑われわれが真摯に革命 闘争のなかで国民党左派と合作したいと希望している

ことを表明するためでした︒しかし電報に対して正し

い理解が得られていないとおもいます﹂

江精衛﹁もしも私があなたを困った境遇に追い込んでし

まったのなら︑どうか許して下さい︒私はみだりに電

報のことは話していない︒だがコミンテルンが目下の

中国情勢についてどういう見方をしているのかを︑同

志の一部に教える必要があった︒郵演達同志は完全に

賛成した︒孫科も﹁五月指示﹂はまったく正しいと認

めた︒そのほかに二人の同志は︑電報は共産党が国民

党をひっくり返すための指示だと言った︒しかしその

ように電報を解釈すべきではない︒共産党が国民党を

助けて強固になるよう︑そのためにどうしたらよいか

を明確に指示してきたのだから⁝⁝﹂

そして︑江精衛とロイはさらに︑革命の逼迫した状況に

ついて話し合い︑ロイはコミンテルンの指示通りに︑国共

合作が崩壊することをなんとしても防ぎたいと力説した︒

ロイ﹁もし共産党員が国民党を退去したら︑共産党と国

民党左派はどちらも反動派に消滅させられるでしょう︒

右派は反動の軍閥と謀って革命連盟を分裂させ︑まず

共産党を消滅させ︑それから左派を消滅させるにちが

いない﹂

江精衛﹁おそらくは︑蒋介石と戦うことは不可能だろう

ス タ ー リン と注 精 衛 「幻 の 密 約 」 167

(12)

:::わたしはどうすればよいのだろう?モスクワへ

行くか?﹂

ロイ﹁いいえ⁝⁝あなたは出国の問題を考慮すべきでは

ありません︒今は一切の革命勢力を動員して反動派と

決然と戦うべきです︒それはあなたの指導のもとでし

か達成できません︒やり遂げるためには︑コミンテル

ンの全面的支持が得られると確信してよいでしょう﹂

気弱になった江精衛に︑ロイは別れ際に精一杯の励まし

を送り︑モスクワへ去った︒だが︑ロイの言葉はあまりに

も空疎であった︒

七月八日︑スターリンはモロトフへ宛て極秘文書を書き

送った︒

﹁⁝⁝われわれは武漢の上層部を利用できるかぎり利用し

てきた︒いまやそれを切り捨てなければならない﹂

スターリンはついに約束を反故にしたのだ︒

コミンテルンから送られた資金は合計で四〇〇万ルーブ

ルにしかならず︑注精衛が必要としていた金額と比べてあ

まりにも少なく︑遅きに失した︒

六中国支配のためのカードの一つ

スターリンに裏切られた在精衛の武漢国民政府は︑

に弱体化していった︒ 急速 中国共産党は七月=二日︑武漢国民政府からの退去を表

明した︒一方︑蒋介石は執拗に反共を求めつづけた︒抗し

きれなくなった江精衛は七月一五日︑ついに﹁分共﹂を決

意した︒共産党員の身の安全確保と自由を保証した上で︑

国民党から退去させる﹁分共政策﹂を決議したのである︒

スターリンに失望しきった江精衛は︑しばらく後の=

月五日︑広東中山大学で行った時局演説﹁武漢分共的経過﹂

で︑こう述べている︒

﹁もう船の舵を奪うときがきた︒国民革命を三民主義の道

へ導くには︑共産党を国民党に変えなければならない︒そ

れができなければ共産党を消滅させるしかない︒ちょうど

一艘の船ように︑ふたりの船頭がいて︑別個の方向をめざ

していたら︑一人を追い出す以外には方法がないのだ﹂﹁分共政策﹂を実施する理由として挙げられたのは︑ソ連

と中国共産党が陰謀を企てた証拠の品︑つまり︑﹁五月指

示﹂の秘密電報であった︒

こうして第一次﹁国共合作﹂は崩壊した︒

スターリンの発した一通の秘密電報は当初︑中国共産党

とコミンテルンの使者︑国民政府の指導者まで︑見る者す

べてを驚愕させ︑議論を巻き起こした︒そしてこじれ切っ

た政情の中で︑最終的に﹁国共合作﹂を崩壊に追い込んだ

最大の原因となった︒まるで煮え立つ油の釜に︑火のつい

たマッチをポイと投げ込んだような︑決定的な役割を演じ

i68

(13)

たのである︒轟音をたてて炸裂する炎とともに︑モスクワ

で交わされた﹁スターリンと江精衛の密約﹂も一瞬にして

吹き飛び︑跡形もなく燃え尽きた︒

これが﹁スターリンと淫精衛の密約﹂の一部始終である︒

現段階では︑いくつかの状況証拠によって事実関係を再

構築するよりほかに方法はない︒だが︑新資料の中から﹁五

月指示﹂の全文電報が発見されたのと同様に︑今後新たな

資料が発掘されることによって︑﹁密約﹂に関してもさらに

詳細な内容が明らかになるのは確実であろう︒

江精衛にとって︑この密約にかけた望みとはなんだった

のか︒国父と仰がれた孫文の一番弟子として︑その遺志を

継いで国民革命を成し遂げようとする決意の現れだったの

か︒孫文が目指した国家統一のための布石であった﹁国共

合作﹂の試みを︑是が非でも貫き通したかったのか︒そし

てそのためにスターリンとコミンテルンを信用し︑親密な

関係を維持しつづけたかったのか︒

だが︑もう一方の当事者であるスターリンにとって︑﹁密

約﹂は単なる中国支配のカードに過ぎなかっただろう︒彼

は中国共産党を援助する一方では孫文を賞賛し︑蒋介石を

﹁レモンのようにしぼれ﹂と言う一方で江精衛にも資金を与

え︑手持ちのカードを次々に切りながら︑ゲームの手を自

在に変えていったのである︒

第一次﹁国共合作﹂が崩壊して後︑蒋介石は居並ぶ軍閥 を次々に軍門に下して軍事独裁を強め︑曲がりなりにも全

国統一を成し遂げた︒中国共産党は八月に南昌︑九月に湖

南でそれぞれ武装蜂起した後︑広東で広州コミューンを打

ち立てたが︑ことごとく蒋介石にうち破られて︑大陸奥地

へ逃げ込んだ︒

三〇年代に入ると︑国民党と共産党は激しい死闘を繰り

広げた︒その一方で︑中国大陸深くに進攻した日本軍によっ

て国土はさらに荒廃し︑国民は疲弊し切った︒

共産党討伐に血道を上げるばかりで︑一向に日本軍と戦

おうとしない蒋介石に対して︑軍事力を持たない文人政治

家の江精衛は︑取るべき政策をひとつずつ失っていった︒

彼に残された最後の手段は︑﹁一面抵抗︑一面和平﹂のス

ローガンを掲げることだった︒

﹁蒋介石︑君は﹃抵抗運動﹄にいさぎよく着手せよ!

私は外交面から﹃和平交渉﹄を展開する︒どちらか一方が

成功すれば︑国家存亡の危機を免れるのだ﹂というのが︑

江精衛の主張である︒

無論︑歴史の結論から言えば︑この矛盾した政策が行き

詰まるのは明らかだろう︒だが︑渦中に生きる政治家にとっ

て︑未来の方向性は計りがたい︒﹁和平交渉﹂に淡い望みを

託した江精衛は︑敵陣日本の懐へ飛び込み︑裏切られ︑自

滅していくのである︒

スターリンは︑その後も残虐な横顔をかいま見せながら︑

t69‑一 ス タ ー リ ン と江 精 衛 「幻 の 密 約 」

(14)

一九五三年に死去するまで︑ずっと中国革命に関与しつづ

けた︒中国共産党の指導者たちはスターリンが仕掛けた粛

清の渦に飲み込まれて︑次々に失脚していった︒その隙を

ついて"漁夫の利"を掴んだのは︑中国共産党の中央から

はるか離れた辺境の地をさすらい続けた︑毛沢東だったの

かも知れない︒

一九二七年のわずか数カ月間の史実ひとつとっても︑こ

れほど複雑で錯綜した事態を内包しているのである︒近年︑

ロシアから刊行されはじめた極秘文書の解読が進めば︑今

後︑さらに多くの新事実が発見されるにちがいない︒

二〇世紀の中国革命の歴史が︑今︑ようやく封印を解か

れようとしている︒ ︿5>

︿6>

︿7>

︹付稿﹃新45(X1001)

に掲載し

170  

注︿1>中国現代史史料選輯﹃北伐時期的政治史料一九二

七年的中国﹄︑台湾"正中書局︒

︿2>﹁国

周年記念論集﹄神戸大学文学部︑二〇〇〇年三月︒

︿3>中共中央党史研究室第一研究部訳﹃共産国際︑聯共(布)与中国革命橦案資料叢書﹄四︑北京図書館出版社︑一

九九八年︒

︿4>同右︒

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