青年リストとロイトリンゲン
(二)
林
昇
̲ . ̲
,
、
、
ゲIリンク教授の当面の論説は︑さらにその末段で︑ロイトリンゲンの討議の任務を果たして一八二ハ年の四月末
日にジユツヅトガルトにもどってからのリストの行動を︑その後も断たれなかったリストと彼の郷里の都市との接触
にかんする範囲でやや細叙している︒それは﹁ロイトリンゲン請願書﹂にただちにつながる局面でもあるので︑わた
くしはもうすこし︑補説を加えつつ教授の伝記的解明の作業を追うこととしよう︒
前記
(第
二節
冒頭
)の
よう
に︑
リストは五月五日には自治体会計局所属の会計官(河
O O Z E
ロ
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R E σ
旦円
四角
︒︒
自由
ロロ
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円
O O
F E B m m w m g E O H )
に任命されたが︑同時に︑この日に新設された自治体債務事項総局(の
S O B ‑ σ o E
背 骨E
円にも地位を得た︒リストは十一年十月にウルムからテュi
ピシ
ゲ
γに出て郡試補
職
3 Z B E g l
﹀
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5 3
の地位を実質的に得て以来︑すでに地方書記の身分から絶対主義的領邦国家グュルヅテγ
円 四 仰 由
O
︒B E
ロ ロ
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己品
︒口
2
当0
ロ)ベルグの国家官僚の地位に上昇しかけており︑したがってブラウボイレンでの見習いQ
ロ乱
立︒
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る︑少←青年リストの一八
O
五年以来の﹁書記﹂生活は︑十一年には自覚的に終えらおい︑それからのリストは︑﹁自己形成﹂の機会を持つとみずからが述︑が郡試補職の自由な地位を大学での三年間の勉学のために十分に利用し︑十 を振り出しにす
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
ン
一 一 一 一 五
一一
二六
四年には書記制度に対する有力な批判者に成長して︑中央官庁にその名を認識されていたのである︒この経過につい
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
ソ
ては
ゲ
lリンク教授の﹃若きリスト﹄がすでにあきらかにしており︑この小論ものちにそれに関説することとなる︒
しかし︑とりあえずここでは右の一八一四年がヴュルッテγベルグ憲法闘争(一八一五
i
二O
年)
の開始のまさしく前
年であったということ︑これも前記のリストの﹁ズルツ請願書﹂
(一
八一
五年
三月
)が
︑国
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lドリッヒ一世の憲
法草案の特別委員会への手交(同年一月十一日﹀
‑そ
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部の
公表
(一
月二
十九
日)
に呼
応し
つつ
︑一
一一
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五日
に開
始さ
れるべき︑等族議会(宮普門
H 0 4 2 S S E ‑ z D m ‑
五年以来停止)によるこの草案の審議に先立っていいちはやく発一 八
O
表された市民層の要求というかたちでの︑憲法闘争の先陣であったということ︑を指摘しておきたい︒すなわち︑こ
れまでに対象とした︑一八三ハ年の四月下旬におけるロイトリンゲンでのリストの中央政府派遣弁務官としての活動
は︑まさに憲法闘争の渦中で︑その重要な一環としておこなわれたものであって︑そのかぎり︑その後のロイトリン
ゲγの事態もまた︑彼との接触を断つものではなかった︒十六年から二十一年はじめにかけて︑リストは生産者大衆の
背景を持ちつつ︑書記制度や等族議会独自の草案に対する批判論文の作成︑引で守容さ守町目︑
h R p g A 2
訟をの編集︑テ
ュlピンゲン大学での講義︑
5 3
えま なお
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の支持︑ドイツ商工業同盟の創立と指導︑ヴュルッテンベ
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ルクの新議会への登場︑﹁ロイトリンゲン請願書﹂の起草という︑多面的で精力的な活躍を展開し︑しだいに国王側
との提携の枠を越えることによって破滅の道をすすみ︑憲法闘争自体を絶対主義権力の樹立に終らせるのであるが︑
ハ5﹀こういうリストとロイトリンゲンの市民層とのあいだには︑たえず密接なかかわりがつづけられていたのであった︒
さて
︑
ロイトリンゲンでの討議からシュツットガルトにもどって中央官庁での役職を得たリストは︑同時にまた︑
ロイトリンゲン派遣弁務官の仕事を︑
シュ
ツッ
トガ
ルト
にい
てつ
︑︑
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るよ
うに
とい
う︑
王の認可をもあたえられ︑こ
のことを五月六日にロイトリンゲンの郡庁に通告している︒このおり︑本稿のはじめに﹃若きリスト﹄に拠って述べ
たように︑会計弁務官シュトライヒを現場に残してリストの指示を受けさせるべきことの通告と︑調書が郡庁に送付
されたという通知とが︑あわせて郡庁に伝えられ︑この調書はそれに郡庁の所見を具し︑さらに他の書類(市当局者
および市の書記職らにかんする報告書)を添えて︑
ハ6
V
ていたのであった︒このことの結果が六月七日の︑ヴユルッテンベルク史上では﹁周知﹂の訓令であって︑その内容 シュトライヒを経てシュツットガルトに回送するように命ぜられ
1:1:
﹁王の弁務官たる会計官リストによって本年四月十九日におこなわれた︑市の行政制度の改善にかんする市当局
の討議にロイトリンゲツの市民代表
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話再 ロの 宮島 ロ
8 5 H 0 2 0 3
を出席させるようにとの提案にもとづき︑
つぎ
のととが果たされるべきである︒すなわち︑
ロイ
トリ
γゲンの諸ツγフトの長は︑随時の改善案について市当局ない
しその代表者から︑意見を徴せられる︒ただし︑長たちはこの討議に参加することができない︒ロイトリンゲン郡と
よる訓令だったのである︒ 特別命令にもとづいて︑
W‑
プライトシ
ハ8
V
﹁王の名において﹂発せられた︑内閣(内務者)←自治局に
リストのロイトリンゲシでの活動のこの局面が達成しえたものは︑さしあたってはこの程 弁務官・会計官リストとは右に従い︑さらにいっそうの配慮をなすこと︒
︿7﹀ユヴェールト﹂というものであった︒すなわちそれは︑
度にとどまった︒しかし︑この訓令に﹁市民代表﹂として諸ツンフトの長が登場することは︑やはり︑その後のリス
トの活動にかんして重要な意義を持つものである︒
(9
﹀読者がおそらく記憶されるように︑リストが主催した七日間にわたる会議の第二日にすでに︑ロイトリングンの市
当局者は︑市の未収入金および未収入物件の明確な把握にかんして︑市の書記による計理をしりぞけて新たに検査を
おこなうべきだというリストの主張に賛同しつつ︑その際の検査員の構成という問題から︑市政についての協議のた
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
ン
七
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
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八
めに市民層(図︒認め円宮町丘け)の代表者を出席させ・市政へのこの層の不信をやわらげるように望んだ︒しかもリス
トはこの会議の開始直前の四月十九日に︑現地からあらかじめ自治局に報告書を送り︑
て﹂︑というのはつまり市当局者の依頼によってではなく︑この市民代表の制度の実現を要請していたのであった︒ ﹁多くの市民の請願によっ
そうして︑五月二十二日(リストのシュツットガルトへの帰還・岡市よりロイトリンゲン郡庁にあてたリストの通告
と︑王の名による六月七日の訓令との中間期)に︑自治局は当面の問題について内閣に申告をおこない︑
ロイ
トリ
ン
ゲン市民の苦情についてはリストの努力に答えることが新たな処理能力を郡庁にあたえるはずであると述べたが︑と
くにその結末の部分では︑右の四月十九日のリストの報告書にふれて︑市民代表を市当局者たちの討議に派するとい
う講願を許すことがロイトリンゲンの静穏化に役立つだろうと判断しつつ︑ツンフトの代表者を会議に出席させるよ
うに勧めているのである︒その結果が六月七日の訓令であった︒リストはこの訓令にもとづいて︑六月十五日に︑そ
の実施の目的でやがてロイトリンゲンにふたたびおもむくべきことをその郡庁に通告し︑同月二十七日には︑さらに
自治局に﹁主要報告﹂(出
g Z S H E 5 5
と称するもの!│未発見!ーーを提出している︒自治局はこれに応えて︑
ロ イ
トリンゲン郡庁はリストが同地に到着しだい﹁継続的な接触﹂にはいるべきこと︑このばあい﹁遅滞と妨害とはもは
やけっして許されない﹂こと︑両者共同の報告書がただちに作成されるべきこと︑などを命令した︒それが六月二十
七日のことである︒この命令は決定的なものではあったが︑そこにおこなわれた郡庁側の抵抗が根づよかったためで
あろう︑じっさいにはことがらは進行していない︒七月十日に︑リストはもう一度︑郡庁に討議の開始を求めている
(叩 )
が︑これにかんする資料はもはや見当らない︒リストは王の訓令の実現のために︑さらに新たな努力を求められるこ
ととなるのである︒
とは
いえ
︑
ロイトリンゲンでの四月の討議は︑ともかくもその全体としては成果を収めたと判断された︒自治局は
七月八日に内閣に報告をおこなって︑リストがロイトリンゲンでの仕事を不携の精励をもって果たしたこと︑その仕
事が岡市の幸福をもたらしつつ終ろうとしていること︑を述べている︒こうし℃リストは︑ロイトリンゲンでの弁務
官としての活動に対して︑一日あたり三・四五グルデンという︑かなりの高額の給与を受げた(五月五日からは会計
官として定額の給与を支払われていたわけである)︒リストの去ったロイトリンゲンでは︑弁務官のシュトライヒと
代理員
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江E H )
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iフスとがよく後事を果たした︒シュトライヒが
﹁表現を絶する大きい滞遅の完全な回
復﹂を報告したのは一八一八年の四月に至つてのことである︒リストはロイトリンゲンの事項についてはなおしばら
く接触を保ちつづけていたが︑八月二十三日付けの書類では︑自治局はすでにリストを﹁ロイトリンゲン前弁務官﹂
かん
と呼んでいる︒この間︑リスリはすでに中央政府の吏僚としてシュツットガルトでの仕事に没頭する一方︑七月に
( 日﹀
は︑彼が男爵フォルストナ
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(切
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ロの‑Mym︐︒宮古めるおよびロイトリンゲンの有力者カl
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とともに編集してハイデルベルクで刊行した︑目︑守容さ
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訟をの初号(十六年七月﹀から三
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号(
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前記
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の掲載をはじめて︑
(沼 )
﹁ドイツ・ジャーナリズムの開拓者のひとり﹂としての精力的活動を憲法闘争の舞台に展開するようになったため︑
ロイトリンゲンでの討議の再開は︑おそらくは彼の関心の焦点からは遠ざかったことであろう︒だが右の﹃アルヒI
フ﹄の編集にその名を借したカlメラ!は︑保守派に傾きながらも︑ロイトリンゲン市当局の代表者←等族議会での
(日 )
リストの縁者でもあったと同時に︑政治的にりストとの接触点をも残していたから︑﹃アルヒ1岡市の代表であり︑
フ﹄に拠る活動自体が︑リストになおロイトリンゲンとの関係を保たせていたわけである︒
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
ン
九
青年
リス
トと
戸イ
トリ
ンゲ
ン
一 問 ︒
ここは﹃アルヒlブ﹄上のリストの諸論説の分析をおこなう場所ではない︒
しか
し︑
それらのなかの上掲の最初の
長論
説が
︑
ロイトリンゲン派遣弁務官リストの体験をにじまぜつつ︑ここにはじめて︑
(M )
代表(HNOU
円 以 印
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ロ廿﹀﹂の成立を要求していることを︑看過することはできない︒この市民代表(切骨
‑ m o H 1 ロ 告 白
l ﹁市当局に対抗する市民庸の
け 向 ︒
2 0
﹀は︑選挙により︑一定の期間︑市町村(の
O B O E
巳巴の行政を監視し︑市当局者の不法を妨げるという︑
権
限を持つべきものなのであった︒
ところが︑人も知るように︑ヴユルッテンベルクの等族議会は︑国王フリードリッヒ一世の示した憲法草案に対す
る拒否の態度をつづけたあげく︑十六年の九月十七日には彼ら自身の手による草案をつくりあげて︑これを印刷させ
た︒この草案は︑みずからが有力な長論説﹁一八一五年および一八一六年におけるヴュルッテンベルク王国議会の討
論﹂をもって当面の論争に参加したへiゲルが指摘しているように︑問題の個別的な論議正処理とを普遍的なかたち
︿臼 )
に高めた点で︑前進する歴史の力を体現しており︑内容的にも旧憲法との本質的な相違がそこに見られはするが︑そ
れにもかかわらず︑それはやはり根本的には古い諸権利の墨守を目的としていた︒したがってこれに対する批判はた
だちにさかんとなり︑すでに前年来フォルストナーによってくりかえしておこなわれていた︑旧制度と表裏一体をな
す書記制度の改善の要求が︑議会のなかに高まったのであった︒しかし右の草案は︑それ自体としては市民代表とい
う提言を無視し去っているところにその本質を示していたから︑リストは一七年に︑
﹃ア
ルヒ
lフ﹄の第二巻三号に
批判
論文
コ同
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丘σ O
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円
H M E
(叫山)て︑この点をとくにするどく攻撃した︒彼はここで旧帝国直属都市からの議会での代表者たちに呼びかけ︑彼らが市
を発表し
民の前にこの間題を開陳したうえで︑議会内部では﹁自由な市民﹂として発言すべきことをつよく﹁忠告﹂
してい
リストによれば︑郡長官や都市書記やその代理員が支配する商業都市(図︒ロ色︒
‑ g g
丘)
とも
︑
(口 )
また人口の極小な農民の町(回
E O E
印件以内日付
O F 0 5
とも︑ことなる自由を持つべきものなのであった︒ る︒これらの諸都市は︑
右の
場合
に︑
リストがとくにロイトリンゲンを念頭においていたことはたしかであろう︒だが︑
﹃ア
ルヒ
l
フ﹄
の
共同編集者の一人である︑当のロイトリンゲンからの代議員カ1メラl
は ︑
一八一七年六月早々││それまでにフ
リードリッヒ一世の死去︑新王ヴィルヘルム一世による議会の停会︹十二月︺と再開︹十七年三月︺とがあった
1
1・
に︑議会が王側の憲法草案をついに否決したとき︑多数の旧勢力に側に投じてしまった︒けれども︑新王ヴィルヘル
ムは等族議会を解散さぜて(四日)
これ
に報
いた
︒ 1
1後
述の
よう
に︑
ヴュルッテンベルク憲法闘争の渦中に投じて
旧勢力を批判した︑上掲のへlゲルの政治論説は︑右のプロセスでの議会(十六年十二月)の停会の時点までを対象と
した
もの
であ
る︒
そうしてこの解散にあたって︑ヴィルヘルムは王側が停会中に改訂した新しい憲法草案││これを議会は否決した
ーーの有効性を一方的に宣言し︑ここに一種の無政府状態が生まれるわけであるが︑この新しい草案には︑税制の改
革や書記制度の解消とともに︑地方自治体H市町村の市民代表(の
O B O
古 円 四
o a a E U 2 0 )
の制度の樹立が盛りこまれ
ており︑しかもこの最後者にかんしては︑六月七日に詳細な実施規定が追加されたのであった︒それによれば︑市町
村の市民代表は二年ごとに市民層宙骨肉
2 2 E P )
の自由な選挙で選出され︑みずからの議長の下に集会を聞き︑
市町村の諸事項について審議し︑行政当局に提議と異議申立てとをおこなう︑などの権限を持つものとなっている︒
市町村の行政当局は重要な事項の決定のまえにはこの市民代表の意見を徴さなければならなかった︒また市民代表
青年
リス
トと
ロイ
ト F
Yゲ
ソ
四
青年リストとロイトリンゲγ
四 は︑計理の発表と裁決とには陪席すべきものとされている︑これを見れば︑この問題についてのリストの従来の主張 が本質的にみたされていることがわかるだけでなく︑この実施規定の急速な発布が彼自身の予備工作にもとづくとこ ろの多いことが知られるであろう︒それは同時に︑ヴュルッテンベルク憲法闘争にあたってのロイトリンゲンの役割
をも示すものであった︒
一九一九年にいたるまでつづいた︑ヴユルッテンベルク独自の自治制度のひとつである︑い
わゆる市民委員会(即位認め
E C
訟の甘口出血﹀はこうして創出されたのである︒
ロイトリンゲン派遣弁務官として郡庁と市 当局とを両面の対立者とする市民層の立場をリストがはっきり認識したことは︑こうして︑永続的成果として結実し
たのである︒
1
1閣僚ヴ7
ンゲンハイムをつうじての︑主ヴィルヘルムとリストとの結合の緊密さも︑この時点を頂
点としたのであった︒
(1)リストはウルムでは同市の書記代理の筆頭(肘片田
Z H ω g
含 田 口
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忠
2
明ロ ぴ忠 広三 )で あっ たが
︑テ ュ
1ビンゲンでは郡長官に属しながらも時にはこれを代理しうる︑比較的重要な職についたわけである(︿
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尋 問
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しかしリストはこの職を呆たしつつも︑その形式的資格は︑十四年の九月におこなわれた試験によってはじめてこれを獲得した︒彼はこのときはじめて年令上の資格(二十五才﹀をもみたしたのである︒この資格の問題は十三年
の春にリストに通知されたので︑彼はその実務を中止して︑試験までの一年半をテュ1ピンゲソ大学での﹁法学﹂の勉学に専
念したのであった︒しかしそれは︑テュl
ピン ゲ
γに移住して以来まもなくはじめられていた︑大学での彼の白出な聴講にひきつづくものであった︒この合計三一年間の勉学と︑当時大祭事務総長(関口
gg
るだ った ヴア ツゲ ンハ イム (同
・﹀
・司 岳吋
・
4・
4司
自問
g H E B )
やその他の友人たちとの出合いが︑ジストにその志を自覚させる︒こうして︑郡試補職の試験にらくらくと
合格したときのリストは︑すでに︑古い書記制度のなかから完全に離脱し︑その全面的な批判者となっていたのである︒な
お︑わたくしの叩注解するところでは︑郡長官や郡試補は中央の命令系統に属し︑書記のボスとは別のものであるが︑書記制度と深くからみあっていた︒第二節注
(3
)で示したように︑たとえばロイトリンゲンの市民にとってはその郡長官ないし郡更は
﹁ヴユルッテンベルグの書記﹂へ司ロ
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に付された簡単な年譜には︑( B
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﹀リストは受験の前の十四年六月に︑テュl
ビン ゲン で書 記制 度の 改革 にか んす る意 見書 (の 各ユ ロ悶
・旬
︑・
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r ロ目 白 問 ︒
N)
を書き︑これに﹁前郡試補リスト﹂と署名した書簡(意九ユ﹀ロ
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)
を付して︑やがて再度の内務大臣となるライシヤハに
提出し︑ライシヤハはこれに着目して王フリードリ?ヒに一読させている
(4
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ム由
)︒
(5 )
このバラグラフはわたくしの補った部分である︒
(6
)
リストのこの通告は︑FUZ
司ミ を・
︿戸
ω・ミに収められている︒郡庁が命ぜられた通りに書類の回送を果たしたこと
は確認できない︒後注(日)の個所を参照︒
(7
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(8
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訓令の冒頭に︑H52但
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問︒ 丘四 却と ある
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( 9 )
第三節前段︒
(日)︿mfFU24で
R e ‑
︿ 園 ・
ω・∞∞・ここで︑書類の提出(回送│注6﹀についての最後の催告もおこなわれている︒
(日)フォルストナ
l
(一
七六
五l一八三二年﹀は︑当時ゲラ1lプロン市から等族議会に派遣されていたが︑のちにテュ
ピン
ゲシ大学の教授(農業学)としてもリストの同僚となった︒﹃アルヒlフ﹄紙上のリストの重要な経済論説﹁農民保有地の無
線の分割を排する﹂(巧広
R 2 0 E σ a s s g
寸自 己ロ ロ問 宕吋
2
回0 5 m
宮op
H∞忌)(本文に後掲)も︑そのいわば後日露(
一八一八年)として︑農地問題におけるリストとフォルストナーとの協力という事実を残している︒この点については︑筆者
稿﹁日九トグ農地制度Hの前史と周辺﹂︿本誌ニ
O
ノ二︑四︑二一ノ一)の︑ハ円︑六三頁以下を参照︒(ロ
)の
冊目
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aω怠の追認である︒9 ω
(日)カl
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lは︑﹃若きリスト﹄の人名索引によれば︑弁護士であり︑一八
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五l一九年のあいだロイトリンゲンの即位話相円l自 由 目 白
g H
の地位にあった︒これに対して︑前出のヴンダ1リッヒは同所ではロイリンゲンの
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G2
0向︒円とされている︒
当面の論説では︑前記のようにグンダlリγヒは切ロ話25
白 山 田
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円(ママ)であって︑これらの職名の異同と関係とはいまのわたくしには分明でない︒ただし︑当面の論説を載せた
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六年から十一年までを︑リストの中級吏僚青年リストとロイトリンゲン
四
青年リストとロイトリンゲソ
四 四
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回号
m o H H H E m g H
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回目 叶印 とい う記 録が あっ て︑ それ には ヴン タ
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ッヒ の名 はな く︑ カ1 メラ ーが
︒宮 号骨 向︒ 円吉 田山 田芯 司と して 記載 され てい る︒ 後者 の地 位の ほう が上 だっ たの であ ろう
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・但し︑この論説でへlゲルははっきり王の側に立ち︑ヴアンゲンハイムやリストと共同の戦線をつくっている︒上掲の岩波文庫版の﹃へlゲル政治
論文集﹄は︑︹下︺にこの論説の有意義な邦訳を収めている︒もっとも︑そこで改められるべき一例を示せば︑ェッティンゲ
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Iシュタイン︑フォルトナ!とあるのはフォルストナ1
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(お)リストはこれに先立って︑﹃アルヒIフ﹄の第二巻第二号(一八一七年)に︑
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表している︒それは十六年の十一月に執筆をされた︒
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︑ ロイトリンゲンでは︑市当局者たちはリストに接近する立場をとり︑郡庁と書記たちとの勢力に対抗し
たわけであったが︑市当局と郡庁との双方を対立者とする市民層にとっては︑前節で知ったように︑一八一六年六月
七日の﹁王の名による﹂自治局の訓令︑すなわち市当局側が諸ツンフトの長から意見を徴取すべしという︑中央政府
の決断があたえられただけで︑それが実行された痕跡はみとめらず︑七月十日以降︑
リストは派遣弁務官としての仕 事から離れてしまったのであった︒しかし︑この都市の市民層はその後にみずからの運動を進めて︑おなじ十六年の 九月二十日と十月二十二日とに︑二回︑王への請願書を提出するに至った︒これらの請願書のうちの第二のものはこ
んにちに残されていて︑﹁ロイトリンゲン市民層のツンフトの長および親方の委員会﹂(﹀ロ留の何回口
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が署名し︑郡と市との計理に検査をおこなうように求めつつ︑
市民層は困窮していて市と郡とに莫大な額の租税を支払うことができないと訴えている︒ここでヴユルヅテンベルク
国家への租税について訴えられていないということ︑市民層が市当局をも対立者として明示していること︑が注目さ
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右の委員会のメンバーの署名のうち︑第四番目にヨI ︒
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フエヅツアーは弁護士であり︑
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一七九七年から翌年にかけてロイトリンゲンの市長をつ
とめた人物であるが︑この市長職への就任は彼が父祖を継いで︑桶職人ツンフトに属しつついわゆる十二人委員会
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ろをひきいて自由主義的・革新的な市政運動をおこなった結果であった︒右の十二人委員会に
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ついては︑その運動が南ドイツにおけるフランス革命の影響を示すものであってロイトリンゲンはそのばあい孤立し
(2
﹀てはいなかったこと︑リストの父ヨハンネスは委員会には所属しなかったがフエツツア!の側に立ち︑そのため一八
O
一年
と
O
などの事実もまた知られて二年との︿帝国直属都市とし℃最後の﹀市当局者の選挙戦に敗れていること Vいる︒弁務官リストのロイトリソゲンでの活動があってのち︑古い闘士フェッツアーは︑いまや新しく市政への限定
的参加・官許されることとなったツンプトの親方たちが︑独立の委員会を組織できると判断したのであった︒そうして
この委員会は郡長官ファイエルに対しては︑彼を﹁蔓延した弊害の第一の原因﹂だと非難したのである︒
これらの請願書は︑むろん︑政府ill王ブロードリヅヒの死の直前の
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の認めるところとはならなかった︒すで
に十月十七日に︑自治局は独自に訓令を発布して︑郡の計理が市民側の専門家に明示され検討されるべきこと︑都市
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五
青年
リス
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六
の計理が市民みずからの選んだ代表にはっきりと告示されるべきこと︑この代表は郡の計理についても自由に知りう
べきこと︑を指示した︒この内容は自治体の一般的な代表制度の樹立とはほど遠かったけれども︑市民層からの歓迎
を予期するものであり︑それに頼ってフエヅツアーらのラディカルな要求を防ごうとしたものであった︒
ζの︑狭い権限だけをあたえられた市民代表の選挙がじっさいにはおこなわれなかったためであるのか︑それとも
選挙がおこなわれて代表たちがフエツツアーの味方になったからであるのか︑その点は分明ではないが︑
フェ
ッツ
ァ
ーは十七日の訓令ののちにも運動をつづけ︑おなじ委員会の名でファイエルに対し︑計理が委員会に引渡されること
を要求するまでになった︒ファイエルはこれを反逆として︑全委員会に罰金を課し︑一八一七年ニ月に歪つてなお︑
それに抗する異議が中央官庁で取扱われている︒ともあれ︑この罰金の申渡しにもかかわらず︑フエヅツアーは新た
に包括的な内容の請願書を起草し︑新王ヴィルヘルムはちょうど議会を再開しようとして市民居に最もヰを傾けよう
としていたときだったので︑ロイトリンゲンからの派遣者一人を引見して︑二月十五日付けのこの請願書を受けとっ
たのであった︒これには二十二人の署名があり︑前年の十月二十二日の請願書の署名者が十三人だったのに比較すれ
ば︑市民の委員会は拡大されたわけである︒新しい請願書では︑郡長官フアイエルの非直と暴行とが数え上げられ︑
こと
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一 八
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三年以来(前年の訓令にもかかわらず!﹀市の計理の公開されていないことが訴えられている︒ーーしか
し︑
ロイトリンゲンからの派遣者は王によって鄭重に遇され︑しっかりした法律の制定を約束されて︑それを待
ちつづけたけれども︑ついに何ものをもあたえられなかったのであった︒
そう
して
︑
フェツツアーらにとって思いがけなかったことに︑この年の末の十二月十七日になって︑ウ1ラハの政
庁(
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から内務省の決定だとして︑
ロイ
トリ
γゲンの委員会の提訴の大きい部分は採り上げられないこ
と
フエツツアーは委員会の指導者としての﹁陰謀﹂の﹁きわめて激越な﹂遂行のゆえに︑今後のあらゆる運動を処
罰をもって禁ぜられるべきこと︑同人への加担もおなじく禁ぜられるべきこと︑を通告してきたのであった︒この年
の二月から十二月までのあいだにシュツヅトガルトでの政治情勢は変化し︑主は旧勢力(旧法派│﹀
H H 5 0 E Z C
と
のある程度の妥協の下に︑政治上の空白を避けてみずからの憲法草案の承認をかちえようとするようになったのであ
( 4)
って︑その結果︑リストの庇護者であり共闘者であったヴァンゲンハイムは十一月はじめには内閣を去り︑リストは
そのころテュlピンゲン大学の教授の職についたばかりでその政治的立場はようやく孤立しつつあった︒局面のこの
ような推移のなかで︑ロイトリンゲンの諸ツンフトの委員会は領邦国家の政策の犠牲となったのである︒
ロイトリンゲンの市民は︑こうしてふたたび無援におちいったときに︑もういちどリストに頼った︒その結果︑老
フェッツアーのいちずな激しい行動のあとを︑リストがテュlビンゲンで引きとって︑問題となっている請願書とこ
れに対する中央政庁の裁決(ないし判決)とを公表するために︑それへの添加文をロイトリンゲンの市民に書いて渡
すということになったのであった︒この文章では︑訴願者である市民層の闘争の跡が要約されるとともに︑中央政庁
の決定が市民層の参加を許さぬ上級官庁の取扱いに移されてしまったことが非難され︑さらに新たにファイエルの専
横が申し立てられている︒この添加文とさきのこつの文書とは︑一八一八年の四月から五月にかけてのさ
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悼に発表きれた︒右の﹃フオルクスフロイント﹄はさきの﹃アルヒ1
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ナリズム活動の本舞台となってレた週刊紙であって︑この年の一月以来︑前年一月に立法化された出版の自由をぎり
ぎりに利用して刊行され︑やがて王と対立する立場をも示すようになる新聞であるが︑リスト自身は編集者として表
に立つことをせず︑彼の学生時代からの友人ジュl
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のげ己記︒ごと︑おなじく彼の思想上の共闘者ケスラ記円
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円)とが編集者であった︒
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リストのこの文書活動は︑公人としての危険を冒しておこなわれたものであった︒すなわち二年のちの一八二
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年の末に︑当時すでにテュlピンゲン大学を罷められてドイツ商工業同盟の顧問として活躍していたリストは︑
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ろな曲折ののちに︑新憲法成立直後のヴュルッテンベルク国会にロイトリンゲンから登場したとき︑議員としての質
格をこの添書のゆえに問題とされることとなるからである︒この二
O
年の十二月の議会の選挙記録には︑リストがフアイエル対フエツツアーの係争に関係して上級法廷で審問されるはずの人物だという文言が付加されている︒これは
当時のリストにとってはきわめて危険な事態であった︒しかしリストはこれに対処して︑ただちに議会に書隔を送
り︑彼は市民団(回奇想可
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の多くの成員から当の文書の公開にあたって序言を書くことを求められた
際︑係争自体には責任を負わぬことをはっきりことわっておいた︑その結果市民団は静観の態度をとることにきめた
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hカ︿フエツツアーは勝手に問題の﹁論説﹂
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を手に入れ︑これをフエツツア1自身の責任で﹃フォル
クスフロイント﹄に発表した︑だから添加文の発表についてはリストは関知せず︑法廷での係争は無縁のことである
と︑主張した︒すなわちリストは︑一方では︑上述のように彼自身の努力によって一八一七年六月に合法化されてい
た︑市民代表の機関である市民団からの委嘱という事実を認めて︑他方では︑フェッツア!の市民委員会との関係を
否定しているのである︒だがむろん︑﹁市民団の多くの成員﹂のなかには市民委員会に属した人々も少くなかったか
ら︑リストの立場が困難であることは免れなかった︒けれども議会の資格認定委員会はリストを擁護して︑彼をめぐ
る問題を司法大臣の所管に委ねることを拒否し︑この間題の提起をいかがわしいこととした︒総会もまた一致してこ
︿7
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リストはあやうく議員の資格を守りえたのである︒
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﹁ロイトリンゲン請願書﹂の直前にこのできご
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前記の合法化された市民団のことであるが︑ロイトリンゲンでは一八一七年の七月五日に市民代表の選挙が現実に
おこなわれ︑その長
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には帝国直属都市時代の最後の市長クナップ
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二月十五日の王ヴィルヘルムの約束︑が実行されたいという不満感のなかで︑ただちに郡庁および市当局とのあいだの
対立を激しくしていった︒すでに七月のうちに︑代表者の一人に対する政敵による暴行傷害の事件がおこり︑そのこ
とに関してフアイエルから召喚を受けたこの代表者が︑出頭の期限におくれたがためにみずからが被害者であるにも
かかわらず罰金を謀せられるという事件がつづいておこった︒こうして翌一八年の二月になると︑市民代表ーたちは
﹃フオルクスフロイント﹄紙上で市当局者たちの公金横領を告発し︑市当局者たちは︑これに対して︑二一月に印刷物
をこしらえて反駁する
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ともに︑代表たちの越権を威迫した︒しかし三月下旬の﹃フオルクスフロイント﹄には︑後者の再批判﹁不偏不党の公衆への回答﹂
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が掲載されて︑市当局
者全員の新選挙という要求︑が提出されるまでになった(ただしずンダ1リッヒだけは除外されている!﹀︒そうしてさ
らに九月の﹃フオルクスフロイント﹄は︑市民団がファイエルに対するみずからの告訴について決着をつけないのは
理解できないという短文を載せ︑一方で七月の傷害事件での被害者シュミットQ・
F ‑ ω ( V F E E )
の署名入りの体験
記をも載せたうえ︑加害者がなお自由に俳個していることを人々に知らせた︒
翌一八一九年三月一日に︑すでに一七年十二月以来政治的活動をも職業︿弁護士)主の活動をも禁ぜられていたフ
青年
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青年リストと戸イトリンゲン
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一 五エヅツアーが︑
ついにブアイエルの訴えによって︑弁護士の資格を奪われるとともに︑六週間の禁固刑に処せられる
こととなった︒そうして︑﹁おどろいて途方にくれはしたもののけっして戦いに疲れなかったロイトリγゲンの自由
な市民たちは︑いまやフアイエルに対する彼らの戦いにあたって︑現在はテュ
lピンゲンの教授であるリストにまた
(8 )
ふたたび頼るという方策以外のものを見いださなかったのであった﹂︒三月十一一一日に︑彼らはブエ7ツアーに代えて
リストを弁護士
3R F4 0H dg Hg 3
に依頼し︑当のフェッツアーをふくむ一一
O
名 の 市 民 が こ の 依 頼 状 に 署 名 し て
ロイトリンゲンの市民運動の最大の結集を示す文書のなかで︑
(9 )
もヮて力を賀された︑きっすいの市民仲間﹂と呼ばれたのであった︒ いる︒この︑
リス トは
︑
﹁以前にすでに本市に助言を
しかしこの瞬間に事態は急転した︒市民たちの圧力によって︑この月の十八日にフアイエルは急にマ
lルバッハに
転任させられ︑後任には温和で公平なギュンツラ
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(出 色ロ ユの 討︒
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) がすわることとなって︑部長官に対する
長い闘争は終拍施したのである︒こうしてリストへの依託も自然に消滅し︑ロイトリンゲソの市民たちは七月に︑
王ヴ
ィルヘルムの憲法草案を成立させるために︑
いまはドイツの商工業同盟の指導に多忙をきわめるリストを︑領邦議会
に送りこむのである(だがリストは年令の不是のゆえに議員の資格を失い︑つぎの二
O
年の選挙にはヴンダiリヅヒに敗れ︑同年末︑ヴンダ1リッヒの死による補欠選挙によって︑
はじめて議会に登場する
) 0 1 1
一八一六年の四月 に郡試補の有資格者として自治局からロイトリンゲンの﹁全行政と計理の運営と﹂の秩序の立て直しのために派遣さ れ℃以来︑新憲法上の領邦議会に登場するまでのリストが︑いかにロイトリンゲン
l !
とくにその市民層との深い関 係を持ちつづけたかということは︑以上によって読者にはじめてあきらかとなったであろう︒リストの生涯のこれま
で不明だったたいせつな一節は︑ゲlリンク教授の努力によってこのようにあぶり出されたのである︒
ところで︑郡長官に対するロイトリンゲンの市民層の闘争はこのようにして終ったけれども︑後者︑乙とに前述の
市民団の市当局に対する戦いはまだ残った︒一九一九年の春には︑市当局者の部分的補選がおこなわれることになっ
たが︑その機会をとらえて︑市民団は五月十九日に枢密院に請願書を提出し︑すでに前年の﹃フオルクスフロイン
ト﹄に掲げた主張︑すなわち市当局者全員の改選をつよく要求し︑旧帝国直属都市がヴュルヅテンベルクに服属した
直 後 三
八O
四年)から変らない市当局者の人員構成を根本から改めようと欲した︒さらにロイトリンゲンの市民団 は︑新しい憲法による議会の基礎をかためるためにヴユルッテンベルク全土の市当局者たちの更新を望んだ︒そうし て彼らの主張するところによれば︑郡長官に対しておこなわれた彼らの闘争もまた︑それが私的な陰謀でなく﹁全ロ
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の理由ある訴え﹂であったことが︑披ら自身の立証によってやがてあきらかとなるはずのものだったの
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︒・ では
︑フ エツ ツア ーは 一七 九八 年に 市長 職に あっ た︒ 本文 はの 各ユ ロ岡
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主に拠る︒
( 2 )
エスリンゲン(一七九三年)︑ウルム(一七九四年)︑アウグスプルタ(一七九四年)等にも︑ロイトリンゲγ
の十 二人 委員 会( 一七 九七 年) と相 似の
︑革 新的 市政 運動 日市 当局 者へ の反 抗が 見ら れた 令聞
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ごとしてロイトロンゲンの市政に参加していたが︑田川市の帝国直属都市としての最末年の政争にあたって︑十二人委員会には加わらなかったがフェッツアーの側に組し
た︒彼は市のさまざまな要職を経たのち︑一八OO年には︑政治活動によって資格問題をおこしていたフェッツアーの暫定的
代行 とし て︑ 副市 長(
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岱招 待告 白山 位︒ 円) にも 選ば れて いる
︒し かし フエ ツツ アー の党 の後 退と とも に︑ ヨハ ンネ スは 一八
O一年と二年との選挙には放れた︒この事実は︑リストの伝記にかんして記憶に値することと思われる︒なおヨハンネスの政治的生命は︑ヴユルヅテンベルクへのロイトリンゲンの帰属ののちに復活し︑ふたたび裁判団員になったり︑農地や森林の監
青年リストとロイトリンゲン
一 五
青年リストと官イトリソゲソ
五 督職 につ いた りし てい る︒ 以上
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王ヴィルヘルムは︑この政治的空白期間に︑合計十六の勅令(一八一七年十一月︑一八年十二月)によってヴユルγ
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ベルクの直接支配をおこなおうと努力した︒これがいわゆる組織勅令(︒芯
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1
ーないし行政勅令1
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る︒この時期における事態の推移については︑筆者署︑前拐︑一五
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lブラーはのちに(一八四五i四八年)シユウェ1ビッシュ・ハルから議会に出る︒ヶスラーはェlpンゲンから議
会に出(一八一九
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二四年)︑リストらとともに新議会当初の左派を代表した︒﹃フオルグスフロイント﹄(一八一八l
一 一 一 一
年)におけるリストの文筆活動は︑一八一九年四月まで︑きわめてさかんにおこなわれた︒
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( 7 )
フエツツアーは問題の添加文の筆者を﹁テュIピンゲンの学者でロイトリンゲンの市民﹂だということを公けに認めてい
たから︑引ストが難を免れたのはむしろ幸運であった︒
( 8 )
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以上で知られるように︑一ニ月革命前期のドイツの一領邦内の都市ロイトリンゲンにあっては︑
リストたちのブルジ ョア的急進主義運動は︑新しい憲法の成立とそれにともなう若干の成果とにもかかわらず︑
フランス革命に触発され て以来の久しい目的を遂げることができなかった︒憲法上も行政制度上も︑根本的な改革と自由化とはついに実現し なかったのである︒しかし郡長官フアイエルが去ってのちは︑
(1
﹀
に︑この町には政治的弛緩が現われた︒だがリストは︑広汎なジャーナリズム活動をつづけながら︑公然とまた隠然
﹃フデルグスフロイント﹄の紙面からも知られるよう
け刊︑急進主義運動を支えつづけており︑ことにみずからがその法制化に力をつくした︑地方自治体の市民代表制度の
確立に熱意を失わなかった︒
1
!こうして︑われわれがこれまでに知ったとこるのすべてが︑
一八
二
O
年の末からはじまるロイトリンゲン市民の新しい要請を受けて翌年の一月にリストの作成した︑著名な﹁ロイトリンゲン請願書﹂
につながるのである︒この請願書のなかで︑いまでは領邦議会でのロイトリンゲン市代表のリストは︑彼の従来のあ
らゆる経験とあらゆる挫折の回顧とをこめて︑その痛奮を表現しつつ︑みずからの立場をもあきらかにしたのであっ
た︒そうして︑ヴュルッテンベルク王国とその市民層との一時的平和状態のなかで︑リストだけが傷つき︑
告 発 さ
れ︑逮捕され︑追放されるこ左となるのである︒
青年リストとロイトリンゲンとの関係を新文献によってあきらかにした︑当面のゲlリング教授の論説は︑
つぎ
﹂の
言葉で結ぼれている︒﹁ロイトリンゲンおよび他の市町村での比較的な静穏は︑これから以後の年になって︑市町村
と郡との制度の徹底的改革の結果として︑ようやくしだいに訪れて来たのだというべきであろう︒しかし︑すでに一
八一七年の八月と九月とに︑いくつも法令
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ロ ロm )
が計理および書記の事務の効果的な筒素化をもたらして
いたということは︑これらの訓令
(O OW EC
を見れば︑明白に111しかも一八一七六月における市町村代表の創設
におとらず!il結局のところリストの提案と自治局ことに守フライトシ旦ヴェールトのそれに対する理解とに負うもの
である︒したがってそれは︑ロイトリンゲンにおけるりストの弁務官としての活動のひとつの成果でもあった︒都市
ついで一八二六年に︑それらの諸機能を法廷および郡の公証人(の
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ロ ロ 仏︿2﹀﹀
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向︒)と行政試補(ぐ2 4 5 ‑
ロ
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m g E E H )
とのあいだに分割することによって仕上げられたよ故郷のロ および郡の書記制度の完全な解消は︑
イトリンゲンを有力な拠点のひとつとし℃おこなわれた︑青年リストの急進的な政治活動は︑彼自身の挫折のなか
青年
リス
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一 五 一 一 一
青年
リス
トと
ロイ
トリ
ンゲ
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一五
四
で︑このように小さからぬ成果をもあげていたのであった︒その事情はいくらか︑後年の彼の鉄道事業との関部をも
思いおこさせる︒だが︑わたくしがここで右の引用をしたのは︑一八一七年の八月と九月とにおける︑﹁計理および
書記の事務の効果的な簡素化﹂のための訓令について︑ゲlリンク教授の当面の論説はこの最後のパラグラフではじ
めてはっきりと述べているからである︒
わたくしはこの小文のはじめの節で︑ゲlリング教授がその﹃若きリスト﹄の補遣として書いた論説
2
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口出
向(
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∞思)について︑それを最初にやぞ詳しく
紹介
し︑
つづいて若干の説明か}附加するつもりだと述べた︒しかし小文の第六節以下では︑紹介と説明とが混在した
かたちになっている︒それは弁務官としての会議をす空ぜてシュツヅトガルトに帰ってからの︑リストとロイトリン
ゲンとの継続的な関係が︑ひろくヴュルヅテンベルク憲法闘争の進行の過程のなかで︑またいっそうひろくドイツ国
民の経済的統一運動の初期的展開(ドイツ商工業同盟)のなかで︑それらの推進的エネルギーをもっともつよく体現
したリストのきわめて多方面にわたる活動と接触との有機的な一部分として︑理解されなければならなかったからで
ある︒ゲ1リンク教授の当面の論説はすでに同教授の犬著﹃若きリスト﹄を前提としているし︑われわれには十分に
達しがたいヴュルッテγベルグ史の一般的知識をも前提している︒わたくしが︑みずからかろうじて確かめえたとこ
ろを説明的部分として紹介の部分に混入さぜなければならなかったのは︑同時にまたこの理由にももとづくものであ
そうして︑ともかくも以上にあぶり出されたリストの生涯のひとこまは︑西南ドイツ諸邦の憲法闘争の時期におけ る ︒
る︑広汎な反封建的・小︐ブルジョア的急進主義運動のなかでの︑さらにいえばその未分化の左派のなかでの︑きわめ
︿3
)
て精力的な闘士だったリストの姿をあきらかにしたであろう︒リストは彼のあらゆる文言が示しているように︑革命
家(←フランス革命の支持者)ではなかったけれども︑封建諸勢力への彼の反抗は︑ヴユルヅテンベルク憲法闘争を
つうじて鮮明に一貫し︑やがてはこの闘争の妥協的帰結をつよく批判しつづけることによって政治的没落の逼命を負
うこととなるのである︒青年リストは︑
﹁シ
ユワ
lベンのデモグラlト﹂として一貫したのであった︒
﹁ロイトリンゲン請願書﹂は︑すでに新憲法の成立後の新議会にあてて︑
テンベルクの全土を覆っているとき(一八二一年一月)に︑ 一時的な妥協と満足と平和とがヴュルッ
つぎのように宣言している︒﹁偏見のない観察者は︑ヴユ
ルッテンベルクの圏内状態を一瞥しただけですでに︑われわれの祖国の立法と行政とが根本的欠陥に悩んでおり︑こ
の欠陥が国土をむしぼみ市民の自由を破壊していることを確信するにちがいない︒人民
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から遊離し︑全土に
ひろがり︑内閣に集中している官僚仲間が︑人民の要求と市民生活の事情とを知らずに︑際限のない形式制庄のなか
をうろつきまわり︑国家行政の独占を主張して︑市民のあらゆる影響力に対してはそれがあたかも国家を危うくする
もののように抗争し︑みずからの形式学と世襲階闘胞の偏見とを最高の国家的判断にまで持ち上げつつ︑血縁や利害や
ゲヴ エル ベ
向一の教育や同一の偏見の紐によって互いにかたく結合している︒:・・:他方では作物の価値の減失︑工業の逼迫︑土
地価格の下落︑貨幣の不足と貢租とに対する︑租税強募者と破産による競売とに対する訴え︑不公正な市当局者︑無
法な官吏︑非公開の諸報告︑上級官庁の長官の超党派性の欠如︑いたるところでの困窮と欠乏とがある︒:::行政諸
官庁
は商
業︑
工業︑農業の知識を持たず︑もっとわるいことには生産諸層
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持たずに︑死んだ形式と古くなって適合しない官房の法律との上にあぐらをかいて︑たいていのばあい国民産業
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を促進するよりもむしろ阻止するのである︒:::﹂そうして︑この請願書のふくむ四
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の要求項自のなかの第一が市当局者に対する要求(﹁市民層によって選挙されていないすべての市当局者は解任され︑新しい
選挙が指令されるべきである︒﹂)であり︑第一五項に至って簡単に書記制度の廃止の要求(﹁これまで市と郡との
書記制度によって取扱われていた事務は公証人に委譲されるべきであり︑後者は政府による試験ののちに郡の代表者
︿7﹀会議によって選出されることが望ましい︒﹂以下︑第二ハ︑第一七項が公証人にかんする要求︒第一八項からは郡代
表者会議にかんする要求となる﹀が示されるにとどまっていることは︑リストの戦いの対象が︑その戦いの成果自体
によ
って
︑
ロイトリンゲン派遣弁務官時代からみれば推移したことを示すであろう︒
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﹁ロイトリンゲン請願書﹂の重要性は︑上述の引用から知られるように︑制度的革新の要求と経済上の困
窮の訴えとがそこで一致し︑生産的市民階級に対する旧来の支配層の尊敬と﹁国民産業﹂の意義の認識とがそこで公
然と求められている点に存する︒
﹁シ
ュワ
lベンのデモグラlト﹂としてのリストは︑ドイツ商工業同盟の指導者と
してのリストと一致し︑ヴュル了アンベルグ領邦議会の左派議員としてのリストとなって︑その要求の背景に西南ド
イツの領邦諸都市の市民層を持ちつ守つけていたのであった︒
われわれがすでに知るように︑リストは一八一四年九月に国家試験を受け︑書記の身分から中央官僚の一員に上昇
したのであったが︑試験の直前の六月に前内務大臣のライシヤハ(問︒ユ
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同ぐ・何色
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に書簡を添えた意見
品事提出し︑書記制度の全面的改革を論じたのこれはリストの最も早い論説であり︑ウィーン会議(一四年九月!一五
年六
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がドイツ連邦規定(巴
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﹀第十三条にドイツ諸領邦における議会の創立を定めることに
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よって一五年から開始された︑ヴュルッテンベルグ憲法闘争のさきがけを成すものでもあった︒というのは︑ヴユル