D・ヒュ ームの経験論的人間学の研究︵五︶
ーヒュームの因果論下−
︵古賀 勝次郎
序 文
第︸章 ヒュームのキリスト教神学批判︵第四十一
第二章 ヒューム体系の哲学的基礎
第一節 ヒュームの知覚論︵第四十三号︶
第二節 ヒュームの因果論
ω 近代合理主義の因果論
㈹ ロック・パ!クリの因果論
㈹ ヒュームの経験主義的因果論
㈹ 事実の問題︵以上四十四号︶
ω 三つの因果関係
④ 接近・継起・必然的結合
@ 原因の必然性の需藻ざロ﹁言6言嵩
◎ 因果論のコペルニクス的転回 ・二号︶
早稲田社会科学研究 第45号 92(H4),10
1
第三章 ㈲ 信念︵ヒdO一一①h︶についてゆ 蓋然的知識︵℃hOげ層げ一一詳団︶について④偶然に由る蓋然的知識 @ 複数原因に由る蓋然的知識
◎ 非哲学的な蓋然的知識
㈲ 必然性あるいは必然的結合
④ 必然主義的因果論批判
@ 必然性11必然的結合の観念︵以上本号︶
ヒュームの社会科学方法論︵次号︶
2
㈲ 三つの因果関係
上述のように︑ヒュームによれば︑感官や記憶を越える明証性を与えるのは因果性のみである︒ではこの因果性な
る観念はどこに由来しているのか︒ヒュームは︑常にそうであるようにこの場合も︑先ずこの観念を産んでいる印象
を問う︒そしてその印象を見出すために当該事物を精査する︒この結果︑見出そうとする印象を事物の特殊性質のあ
るものの中に求めてはならないことが了解され︑因果性の観念は事物間のある﹁関係﹂に由来することが明らかとな
︵1︶る︒
④ 接近・継起・必然的結合
籾て︑ヒュームが因果性の中に発見したあるいは仮定する関係は次の三つである︒﹁接近﹂︵8昌菖αq窪蔓︶︑﹁継起﹂
︵ω信OO①ωω 05︶︑﹁必然的結合﹂︵口①o霧︒・餌嬉68羅ご口︶がそれである︒
因筐め関係の第一の接近関係についてヒュ﹂ムは次のように説明する︒ ﹁如何なゐ事物も︑自己の存在する時間
D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
又は場所と些かなりとも隔りのある時間又は場所に作用することはできないのである︒尤も時には︑相距たる事物が
互いに他を産むかのように見えるかもしれない︒けれどもその場合は︑検討すれぽ判るように︑普通には多数の原因
の連鎖が︑即ち互いに接し且つ︹両端に於て︺距たる事物のそれぞれにも接するような多数の原因の連鎖が︑この相
距たる事物を繋いでいるのである︒また︑何等かの特殊な事例に於いてこうした結合が発見できない時も︑我々は猶 ︵2︶且つ多数の原因の連鎖があると推定するL
この文章からも一やや漠然とはしているがi分かるように︑ヒュームの接近関係は︑因果性の一つの関係であ
るが︑同時に実体論批判にも適用されている︒この接近関係による実体論批判は︑既に本研究第二章第一節㈹﹁実体
と因果性﹂において述べているのでここでは繰り返さないが︑その要点をいえば︑実体論の中に暗に仮定されている
原因と結果の関係を一義的に規定しようとする因果論︑即ち形而上学的必然性を︑接近関係を持ち出すことによって
批判したのであった︒ヒュームの因果論一以下の㈹で詳しく述べるが一においては︑原因と結果の関係は一義的
に規定できないということが︑その重要な内容である︒
因果性の第二の関係は︑﹁結果に対する原因の時間的﹃先行﹄﹂︵㌧識ミ凡竜oh自ヨ︒ぎ誓Φ8易①げ①hoお900頃Φ9︶︑
即ち﹁継起﹂である︒ ヒュームはこの関係を次のような疑念に答えるという形をとりながら説明する︒その疑念と
は︑どのような事物や活動も︑ ﹁その存在し始める最初の瞬間そのものに於て産出的性質を発動させることができ︑ ︵3︶完全に同時的な今一つの事物や活動を起すことができる﹂のではないかという疑念である︒この疑念に対しヒューム
は先ず︑﹁自然学﹂︵昌卑霞巴喜ぎω8ξ︶にも﹁精神学﹂︵道徳哲学︒日︒冨一︾三一〇ωoOξ︶にも妥当する基本原理
を示す︒その原理とは︑一事物が僅かな時間であっても他の事物を産出せず︑しかも完全な形で存在するならぽ︑当
3
該事物は他の事物の唯一の原因ではなく︑他の原因が加わってその無活動状態から脱け出せる︑というものである︒
この基本原理に従えば︑もしどのような原理もその結果と完全に同時であり得るとすれぽ︑原因なるものはすべて
結果と同時でなくてはならない︒というのは︑一瞬間でも作用の止まった原因はどのようなものであれ︑それが作用
すれぽ作用できたかもしれないその瞬間に発動していないからである︒そこから導かれる帰結は︑ ヒュームによれ ︵4︶ぽ︑世界に見られる﹁複数原因の継起の破壊﹂︑従って︑﹁時間の完全な消滅﹂以外の何ものでもない︒かかることを
考えることは不可能であるから︑ヒュームは因果性に継起関係を仮定するのである︒
因果性の第三の関係は﹁必然的結合﹂である︒そしてヒュームは︑この関係が上の接近︑継起の二関係の何れより
もはるかに重要であるという︒しかし必然的結合の由来する印象を見出そうとしても見出し得ない︒また事物の関係 ︵5︶を考察しても接近と継起以外の関係を見出すことはできない︒しかもこれらの関係だけでは不完全である︒ではこの
必然的結合の観念に限って︑印象に由来しない観念と認めてよいか︒ヒュームは勿論これを拒否する︒あらゆる観念
は印象に由来するというヒュームの第一原理と抵触するからである︒ ︵6︶ ヒュームはこの困難から実に巧みに脱け出す︒ヒュームは次の二つの問を立てる︒一︑存在に始元あるものがその ヘ ヘ ヘ へ原因を持つことを必鮒師であると断言する理由は何か︑二︑特定の原因には特定の結果が必然的になくてはならない ヘ ヘ ヘ へと結論づけるのは何故か︑そして︑われわれが原因から結果を引き出す推論の本性は何であり︑その推論におく信念
︵富hミ︶の本性は何であるか︑という二つの問がそれである︒第二の問は後に述べるとして先ず第一の問に対する
ヒュームの議論を見ることにしよう︒
㊨ 原因の必然性の箪葺9や月§覧帥
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
始元あるものはまた存在の原因を持つという考えは︑哲学の一般的原則のように見倣されている︒しかしかく見倣
されているこの考え︑即ち原因の必然性の考え︑の中に絶対的確実性を示すものを見出すことは困難である︒既に述
べたように︑絶対的確実性はすべて﹁観念の比較﹂から起る︒換言すれば︑観念が同一である限り変り得ない関係の
発見から起る︒このような関係は︑類似・量あるいは数・程度・反対関係の四つであるが︑上の考えはこれらの関係
を一つも含んでいない︑従って︑絶対的確実な考えとはいえない︒しかし上にも指摘したようにこうした議論には曖
昧さが残る︒
そこでヒュームは︑原因の必然性の考えが︑直覚的にも論証的にも絶対的確実なものでないことを次のように証明
する︒先ずヒュームは︑上のような考えが論証され得るには︑同時に必ず︑﹁何物も或る産出原理︵03α¢o江く①寓貯︐ ︵7︶
o凶、①︶なくしては決して存在し得ない﹂ことを明示しなくてはならないという︒それ故︑後者の考え︑即ち︑産出原
理のない始元の不可能性が証明できなければ原因の必然性の考えの絶対的確実犯も言えなくなる︒ヒュームは次のよ
うな理由で後者の考えが証明できないという︒即ち︑ ﹁あらゆる別個な観念は相互に分離できる︒そして原因観念と
結果観念とは明白に別個である︒従って如何なる事物も︑原因即ち産出原理という別個な観念と連結されないで猶且
つ今の瞬間は存在しないが次の瞬間は存在する︑と容易に想われるであろう︒それ故︑原因観念を存在の始元という
観念から分離することは︑誰れにも判かるように想像にとって可能である︒従って︑これら二つのものの現実的分離
は極めて可能であり︑如何なる矛盾乃至不合理も含んでいない︒故に︑単なる観念からの推理を以てしては如何にし ︵8︶ても反駁できない︒然るに︑反駁できない時は原因の必然性が論証できないのである﹂と︒この文章からも明らかな
ように︑ここでの証明の仕方も実体論批判の場合の時のそれと略々同じである︒
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続いてヒュームは︑上の議論を補強するため︑原因の必然性を論証したとされるT・ホップズ︑ S.クラーク︑
J・ロックなどの議論を取り挙げ一々反駁する︒先ずホッブズだが︑ホッブズは時間と場所の等質性を根拠として原 ︵9︶因の必然性を説いた︒これに対しヒュームは︑時間と場所が原因なくして確定されると仮定することと︑存在そのも
のが原因なくして限定されると仮定されることとは︑その困難性において同じであって︑従って︑一方の不合理の仮
定を根拠に︑他方の不合理な仮定を論証することはできないと論駁する︒また︑クラークなどは︑いかなる物も原因
がなけれぽそのものが自己自身を産出することになり︑これは不可能である︑と主張する︒しかしヒュームによれぽ
この議論は明らかに矛盾している︒何となれば︑原因を否定しつつ且つその否定したものを︑即ち原因がなけれぽな
らないことを容認しているからである︒そしてヒュームは次のようにいう︒ ﹁絶対に如何なる原因もなく存在する事
物は︑確かにそれ自身の原因でない︒そして︑一方が他方に随伴して起ると主張する時は︑問題の点そのものを仮定
するのである︒換言すれば︑如何なる物も原因なくしては処しくも存在し始め得ないことを︑従って一つの産出原理 ︵10︶を排除しつつも依然として他の原理に縄らなけれぽならないことを︑当然と見徹しているのである︒﹂
次にヒュームはロックの原因の必然性の議論を論駁する︒ヒュームが論駁しているのはロックの﹃人間知性論﹄第
四巻第十章に見られる議論である︒そこでロックは︑次のように議論している︒原因なくして産出されるものはどの
ようなものであれ無︵昌︒子ぎσq︶によって産出される︒換言すれぽ無を原因とする︒だが︽①×三7=〇三三一葺︾であ
︵11︶るから︑無は原因とはなり得ない︒それは無がある物であり得ないこと︑あるいは無が二直角と等しくあり得ないこ
とと同じである︒無が二直角と等しくないこと︑あるいはある物でないことを知覚する直覚と同じものによって︑無
が決して原因であり得ないことを知覚する︒それ故︑すべての事物はその真の原因を持っていみことを知覚しなけ東
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D。ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
ばならない︒
これに対するヒュームの反論は以下の通りである︒ ﹁あらゆる原因を排除するとき我々は真にあらゆる原因を排除
するのであって無も事物自身も存在の原因と仮定しないこと︑従ってこれらの仮定の不合理から原因排除の不合理に
至る如何なる証明も引き出し得な膨と・すべての物が原因を持たねばならないと仮定し︑他の原因を排除すれぽ︑
無かその物自体を原因として受け入れなくてはならない︒しかしすべての物は原因を持たねぽならぬか否かが問題そ
のものなのだ︒従って︑それを当然のことと見倣してはならないのである︒
最後にヒュームは︑原因は結果の観念そのものの中に含まれているので︑すべての結果は原因を持たねばならない
という議論を批判する︒すべての結果は必然的に原因を予め仮定する︒すべての結果は︑原因を相関語とする相対名
称︵﹃①一9け一く〇 一Φ﹃5P︶だからである︒しかしこのことは︑ある原因がすべての存在物に先行しなくてはならないことを ︵13︶証明するものではない︒
原因の必然性を論証したとされる各議論に対するヒュームの批判は以上の通りである︒要するに︑ヒュームはそれ ︵14︶らの議論すべてが︑カクラボルティのいうように︑谷︒葺ご寓冒9息︾を犯しているというのである︒
⑤ 因果論のコペルニクス的転回
以上のように︑原因の必然性は直覚的にも論証的にも証明し得ない︒因果性の必然性は経験に由来しなくてはなら
ない︒従って︑そのような考えは経験からいかにして生まれるのかという疑問が当然起る︒しかしヒュームはこの疑 ヘ ヘ ヘ へ問を直接扱わず︑上記の第二の問︑即ち︑特定の原因には特定の結果が必然的になくてはならないと結論づけるのは
何故か︑原因から結果を引き出す掛論の本性は何か︑という問の中に含め︑第二の問の解明に向かう︒
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因果的推論の起.源は︑事物の本質を洞察して因果の一方が他方に必然的に依存することを発見でぎるというところ
に存するのではない︒もし発見できるとすれぽ︑そのような因果的推論は論証的推論である︒しかしそれは﹁事実の
問題﹂に関わる推論ではない︒ヒュームが専ら扱っているのは﹁事実の問題﹂であって︑この問題に関わるのは蓋然
的推論である︒そしてこの蓋然的推論は︑ ﹁経験﹂によってなされる︒
この経験は次のような性質を有している︒先ずわれわれはある種の対象が過去において多数存在していた実例を憶
い出す︒また同時に︑他の種に含まれる対象がこれまで前の対象に常に随伴し︑且つこの対象に対して規則的に接し
ていたこと︑また時間的に先行していた︵継起︶ことを憶い出す︒例えば︑これまでに炎と呼ばれる種類の対象を見
たこと︑また︑熱と呼ばれる感覚を感じたことを憶い出す︒また同様に︑あらゆる過去の実例における両者の﹁恒常
的連接﹂ ︵OO昌ω一9Ω昌一 〇〇口﹂=昌Oけ一〇昌︶を心に呼び起す︒しかしその時われわれは︑これ以上意識することなく︑炎を原
因と呼び︑熱を結果と呼んで︑前者の存在から後書の存在を推論する︒即ち︑個々の原囚と結果の連接を教える過去
の実例においては︑原因︑結果の両者が先ず感官によって知覚され︑次いで両者が憶い出されるが︑因果的推論にお
いては︑因果の一方が知覚されあるいは憶い出されるだけで︑他方は過去の経験に符合するように与えられるのであ
る︒ このように︑ヒュームの議論では︑恒常的連接が何時の間にか︑接近と継起に加わって︑因果関係の一要素となっ
た︒しかしこれは︑恒常的連結が必然的結合の起源であるということではないし︑況して必然的結合と同じものとい
うのではない︒何故なら︑恒常的連接は︑相似した対象がこれまで常に相似した接近および継起の関係に置かれてい
嚢ζと.以上を意味するのでないからである︒必然的結合は新しい原生的観念︵昌雪﹃oユoqぎ︒一雨8︶である︒いかに無
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
限に反復しても︑過去の感官印象︑記憶印象の反復からは必然的結合は生しない︒ ︵15︶ ここでヒュームは︑神野慧一郎がいうように﹁コペルニクス的転回﹂を行なう︒即ち︑因果的推論における必然性
は推論者の心の中に求められる︒ ﹁因果的推論が必然的結合に依存するのでなく︑却って必然的結合こそこの推論に
︵16︶依存する﹂のだとヒュームはいう︒いま少しく詳しく見てみょう︒
因果的推論は︑記憶や感官に現れた印象から原因あるいは結果と呼ばれる対象の観念へ推移することであるが︑そ
れは既に述べたように︑過去の経験︑換言すれば両者の恒常的連接の想起に基づく︒ところでここに次のような問
題︑即ち︑経験が原因︑結果の観念を生むのは知性によるのか︑それとも想像によるのか︑別言すれば︑このような
推移をなすように心を限定するものは理性であるか︑あるいは知覚のある連合︑つまり自然的関係であるのか︑とい
う問題が生じる︒
先ずヒュームは理性あるいは知性が心を限定するのかどうかを検討する︒もし理性︑知性が限定するのであれぽ︑
それは︑自然の斉一性︵蝿巳8﹃巨qoh昌讐霞︒︶︑つまり︑自然の経過はどのような時も斉一的で同じである︑とい
う原理に基づいてなされているということになる︒しかし︑自然の経過が変化し得ることを思念できるのであるか
ら︑この原理が絶対的知識でないことは明らかである︒また︑蓋然的知識も︑確かにそこには印象や観念が混ざって
はいるが︑かつて経験した対象と未だ経験しない対象との間に類似を推定することによって成っている︒従ってこの
推定︵娼﹁①ω口巴P℃一一〇昌︶が反対に蓋然的知識に由来すると言うことはできない︒何故なら︑同一原理が他の原理の原因
であると同時に結果であることは不可能だからである︒
また︑産出論的因果論者は︑次のように論ずるかもしれない︒もしある対象に何物かを産出する力能︵OO≦O﹃︶が
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付与されてないならぽ︑他の対象を産出するような結果を持つことはできない︑力立は必然的に結果を含意する︑そ
れ故︑二つの対象の存在からそれに常に随伴する存在への結論を引き出す正当な根拠は︑当該対象が力説を付与され
ている点にある︑と︒勿論ここにいう産出は因果性と同じ意味である︒しかしヒュームは︑力能の存在を認めるとし
ても一勿論後述のようにヒュームは認めないのだが一︑過去の経験に訴えて証明できるのは︑せいぜいある対象
が他の対象を産出したその瞬間に限りそのような力餅を付与されていたという点に止まって︑同じ自爆が同じ対象の
うちに存在し続けねぽならないとは決して証明できない︑と力能観念に基づく因果論的推論を批判する︒
以上のごとくヒュームは︑印象から観念への推移をなすよう心を限定するのは︑即ち因果論的推理の本性は︑理性
でも知性でも力能でもないとした︒
ω信念︵bd①=①h︶について
因果論的推論が︑理性︑知性︑二上によってなされないとすれば︑ヒ記のヒュームの問から明らかなように︑それ
は想像︑知覚のある連合即ち自然的関係によってなされることになる︒
既に述べたように︑ヒュームは観念を連合する原理として類似︑接近︑因果性の三つを挙げた︒またヒュームは︑
三つの因果関係の中で最も重要な要素とした必然的結合を考察する過程で恒常的連接という原理を見出した︒ヒュー
ムによれぽ︑この恒常的連接は︑上の三つの連合原理と一見異なるように見えながら︑実は起源を同じくする︒否︑
ヒュームは︑恒常的連接を︑ ﹁原因結果をなす二つの観念間の連合原理と正に同一であり︑.因果関係に基づくあらゆ ︵17︶る推論の本質的部分﹂とまでいう︒
う う し ヤ も ぬ 因果零墨に・つい菰わ鯵わ・れが知り繋るのば︑二言まで常に遮換してい窪二つの対象︑即ち︑あらゆる過去の実例に
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D,ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
おいて分離できないと見出されてきた二つの対象が存在していたということ以外にない︒しかもわれわれは︑そのよ
うな連接が何故存しているのかその理由を明らかにすることはできない︒ただ事実を観察して︑対象が﹁恒常的連
接﹂に基づいて﹁想像﹂で接合されるようになることを常に見出すのみである︒それ故︑因果的推論は︑観念の想像
における接合に︑従って︑知覚のある連合即ち自然関係によってなされる︑のだとヒュームは結論づける︒
以上で因果的推論の本性が明らかになったので︑次に︑われわれがその因果的推論に置く信念の本性についての考
察に向かおう︒先ず︑信念とその反対である非信念︵象ωぴ窪Φいぎ︒﹁o傷三一一網︶との違いを述べ︑その後︑信念と単な
る想念︵鋤 ヨゆ﹃O OO昌O①一︶一一〇昌︶あるいは虚言︵h8江︒口︶との相違について見よう︒
信念と非信念との違いは︑論証によって証明できる問題については答は簡単である︒この場合には因果的推論が︑
論証という特殊な様式によって直接的あるいは間接的に︑ ﹁必然的に限定されて﹂いるからである︒だが︑事実の問
題に関する推論にあっては︑このような﹁絶対的必然性﹂は起り得ない︒蓋し︑想像は問題の諾否何れをも自由に想
うことができる︒だが信念はただ一方に対してのみ置かれる︒
ヒュームによれぽ︑信念と非信念との違いを説明する仮説に二つある︒一つは︑信念は同意されずに想われ得る観
念にある新しい観念を付加することだ︑という仮説である︒しかしこれは誤った仮説である︒というのは︑われわれ
が最初ある物を想い︑その後同じ物の存在を想う時︑観念には何も新しいものは付加されていない︒それと同様︵あ
る物の存在を想うこととその物の存在を信じることとの間には︑何も変更はなく︑新しい観念は何も付加されてい
ないからである︒第二の仮説は次のようなものである︒そしてこれが正しい仮説である︒因果的推論がなされ得る
ためには︑ある対象が感官あるいは記憶の何れかに常に現れていなくてはならない︒しかし信念が根拠を持つには︑
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因果的推論を無限に進める訳にいかず︑感官あるいは記憶に現れる何らかの事実で止めなければならない︒しかし
人間は︑経験によって︑感官あるいは記憶に現れる対象から恒常的連接を見出す︒ この恒常的連接を見出すことが
﹁習慣﹂︵o⊆ω↑oヨ︶となった時︑印象から観念への推移は習慣的推移となり︑恒常的連接は習慣的連接︵oロω8∋騨︒q
oo菖二口9ご昌︶となる︒実はこれが︑ヒュームによれば︑信念の起源である︒従って信念は単なる想念あるいは虚想
以上の何物かである︒
では信念の本性は平なのか︑また信念と単なる想念あるいは虚名との違いはどこにあるのか︒しかしこれらの点に
ついては︑ ﹃人性論﹄の本文は︑その﹁付録﹂で直ちに・訂正される︒
﹃人性論﹄の本文︵第一篇第三部第七節︶では信念は次のように定義されていた︒即ち︑信念とは︑ ﹁現在印象と ︵18︶関係した即ち連合した生気ある観念﹂である︑と︒つまり︑信念は︑観念に付加的な勢いと活気を付与したものに過
ぎない︑と︒だがこのような定義は︑﹁付録﹂では間違いとされ︑次のように定義し直される︒即ち信念とは︑﹁起る
︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑ ︑︵19︶感じないし心持に存する﹂ものであって︑それ故︑ ﹁単なる想念と異なる特異な感じに他ならない﹂ものであると︒
﹁付録﹂に展開されている信念の本性についての議論は︑ O人間知性研究﹄におけるそれと国々同じであるので︑こ ︵20︶こでは後者によっていま少し詳しくヒュームの信念の本性に関する議論を見ておこう︒
ヒュームの信念論は牌︑人間知性研究﹄では第五章で展開されており︑そこでは信念は次のように定義されている︒
即ち︑信念とは︑ ﹁想像のみで獲得することができるもの以上に一層活気があり︵く旧く置︶︑−生気があり︵一ぞ︒ぞ︶︑力 ︵21︶強く︵hO﹃O一げ一①︶︑堅固で︵h一﹁ヨ︶︑安定している︵ω89身︶対象の想念に他ならない﹂と︒こう信念を定義した上で︑
次にヒュームは信念と虚想の違いを明らかにする︒想像はその観念のすべてを支配し︑あらゆる可能な仕方で観念を
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
結合︑混合そして変化させることができる︒想像は︑虚想の対象をどのような場所的・時間的事情の下でも思念する
ことができる︒想像は虚夢の対象を︑あたかも実際に存在していたかのように︑本当の色彩をしてわれわれの目の前
に浮び上がらせることができる︒だが︑想像のこの能力は︑それ自体で信念に達することは不可能である︒従って︑
ヘ ヘ ヘ へ信念は観念の特殊な性質に存するのでなく︑それを想う様式︵39昌昌①同︶およびその心に対する感じ︵ho①ぎoq︶に存
する︒しかしこの想念の様式︑また感じを完全に解明することは不可能に近い︒恐らく信念という用語が最も適切な
名称であろう︑とヒュームはいう︒しかも信念は︑日常生活の中で誰しもが理解している用語である︒そして哲学に
おいては︑信念とは心によって感じられる何かであって︑判断のもたらす観念を想像のもたらす虚想から区別するも
のである︑と主張する以上には言えない︒実に信念こそ︑判断のもたらす観念に一層の重みと影響力を与える人間活
動の支配原理なのである︒
信念の本性に関しては以上で斯々明らかになったと思うので︑次に先程は簡単にしか触れ得なかった信念の原因に
ついていま一度取り挙げてみよう︒
ヒュームは︑信念の原因を求めて観念の連合をなす三つの原理︑即ち類似︑接近︑因果性のそれぞれについて検討
する︒そして結論を先に言えば︑これら三つのうち信念の原因となるのは因果性のみであって︑類似と接近は因果性
を補助するあるいは促進させる役割を担うに過ぎないということになる︒
ヒュームによれぽ観念には二つの体系がある︒一つは﹁知覚の体系﹂︵塁ω880hoo88ぎ昌ω︶であって︑感官お
よび記憶の対象である︒いま一つは︑習慣あるいは原因・結果の関係によって結合された︑判断の対象である体系で
ある︒ところでヒュームは︑この後者の体系こそが︑ ﹁世界を充たして︑時間的及び場所的隔絶の故を以て感官及び
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︵22︶記憶の到達範囲外にあるような数々の存在を識らしめる原理﹂なのだという︒従って類似と接近は﹁因果関係を扶
け︑関係のある観念を更に勢よく想像に銘記させる﹂役割を果たすに止まる︒上述のようにヒュームは︑信念を︑活
気︑生気︑力強さ︑堅固︑安定といった言葉で定義したが︑これらの言葉を使って言えば︑類似と接近は活気︑生気
に一層勢いを加えることはしても︑力強さ︑堅固︑安定を一層加えるのは因果性であるということになろう︒
このように︑信念は原因・結果の関係︑即ち﹁習慣﹂に由来する︒従って信念にとって不可欠なのは︑われわれが
二つの互いに連接する対象を見慣れること︑つまり︑恒常的連接が無意識裡に心に浮ぶこと︑要するに︑われわれの
心の中で﹁習慣的推移﹂が起ることである︒
㈲ 蓋然的知識︵勺同Oび凶び一一一け楼︶
ヒュームは︑以上のように因果的推論および信念について独創的な議論を展開した後︑それらの議論を更に確実に
するため︑蓋然的知識の起源を検討している︒ ︵23︶ ヒュームは︑﹃人間知性研究﹄の第六章のタイトルに注を付しているが︑その注にいうように︑ロックは知識を﹁絶
対的知識﹂︵閃口︒乱Φ畠Φ︶と﹁蓋然的知識﹂︵嘗○げ鋤げ崔ξ︶の二つに分けた︒そして前者に基づく推論を﹁論証的推
論﹂︑後者に基づく推論を﹁蓋然的推論﹂とした︒だがこの分割に従うならば︑﹁すべての人間は死ななくてはならな
い﹂とか︑ ﹁太陽は明日昇るだろう﹂といったことは蓋然的知識に基づく推論ということになる︒しかしそれでは以
下の議論が曖昧になるというので︑ヒュームは︑蓋然的知識を更に二つに分け︑﹁立証的知識﹂︵質09︶と﹁蓋然的
︵24︶知識﹂とする︒そしてヒェ!ムがここで扱っているのは︑この最後の︑つまり狭義の意味の蓋然的知識である︒
﹁⑳.︐ヒ偽黙誕由も蓋然的知識
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D,ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
ヒュームは︑蓋然的知識を﹁いまだ不確実性を伴っている確証﹂と定義し︑﹁偶然﹂ ︵O冨ロ8︶と﹁複数原因﹂
︵09ロω①ω︶にその起源を求めている︒
ヒュームによれば︑偶然は﹁それ自身では何ら現実的なものではない︑従って︑より適切にいえば︑単に原因の否
定に過ぎない︒﹂にも拘らず︑偶然も因果性と同様︑われわれの知性の対象となり得る︒何故ならいかなる事実につ
いても︑われわれはその﹁真の原因﹂について無知だからである︒実にこの無知が︑人間知性に対し同じ影響力を持
ち︑同じような信念を生じさせるのである︒
では︑原因の否定である偶然はどのような本性を有しているか︒因果的推論については︑原因はわれわれの思惟に
対し︑方向性を示し︑対象を何等かの関係で見るようある点まで強要する︒これに対し︑原因の欠如した偶然は︑そ
のようにわれわれの思惟に方向性を示したり︑対象を何らかの関係で見るよう強要したりすることはない︒偶然は︑
われわれの心をさながら生まれた時のままのあの不偏の状態に止めおぐ︒つまり︑偶然の本性は︑完全な不偏性︑即
ち平等性にある︒それ故︑どんな偶然も一つが他に優越することができるのは︑前者の偶然が︑その要素において後
者の偶然に平等でありながら数において優越する時に限られる︒そしてこの時︑われわれは推理が可能となる︒つま
り︑偶然の間に原因が混り込んだからである︒
次にヒュームは︑優越性を持つ偶然の組み合わせが心にどのような影響を与えるかを考察する︒ ヒュームはそれ
を︑先ず心を限定するものは何かを考察した時と同じように進める︒即ちヒュームは︑絶対的知識によってもまた蓋
然的知識によってもそのことは証明できないという︒偶然の問題に絶対的確実性を仮定すること自体︑偶然の本性で
ある不偏性︑平等性をすべて否定することになる︒だが︑偶然の数において優越している側が劣っている側に比して
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見込み︵一凶閃①一凶700α︶の蓋然性は高いと絶対確実に言うことはできないか︒これに対してヒュームは︑そうした言明
は︑平等な偶然が数において優るということを言っているだけで同一命題だとする︒問題なのは︑数において優る平
等な偶然がどのような方法で心に作用を及ぼし信念を生むかということである︒この信念は︑絶対的知識に由来する
証明によっても蓋然的知識に由来する証明によっても生み出されない︒
ヒュームはこの問題を解明するため︑次のようなサイコロを投げる例を示す︒即ち︑一個のサイコロの四面には同
じ数字あるいは同数の点が印され︑他の二面には別の数字または点が印されている︒このようなサイコロを投げれ
ば︑前者の数字あるいは点の出現が後者のそれより蓋然性が高いと推測されるが︑サイコロを投げる前は︑心はそれ
ぞれの面が出る蓋然性は等しいと見倣すであろう︒これが偶然の本性である︒しかしサイコロを何度か投げた結果︑
四つの面に印されている数字︑点が︑他の二つの面に印されているそれらより頻繁に出ることを認めれば︑心はその
ような結果の方をより多く思い浮べるようになる︒心はこのように何れの側かに優越性を承認するようになる︒蓋然
性が高くなるということはこの優越性が増大するということである︒心が増大する優越性にますます向けられていく
時︑信念の感情が生じてくるのである︒ヒュームは︑何故そうなるのかについては︑ ﹃人間知性研究﹄では﹁説明し
難い自然の工養によ・てと述べているに過ぎないが・ヒ・ームにと・ては︑信念の形成の心理的説明だけで+分だ
ったのであろうか︒
@複数原因に由る蓋然的知識
以上のようにヒュームは︑偶然に由る蓋然的知識について論述したが︑それは複数原因に由る蓋然的知識の解明に
役立ち得るに過ζないと自ら述べているように︑彼たとってより大きな重点は後者︑却ち複教原因に由る藍鼠的知識
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
の解明にあった︒
嘗て︑ヒュームによれば︑複数原因に由る蓋然的知識にはおよそ三つある︒一つは︑ ﹁不完全な経験﹂に由る蓋然
的知識︑二つ目は︑ ﹁反対な原因﹂に由る蓋然的知識︑そして最後は﹁比論﹂に由る蓋然的知識である︒しかし︑そ
れらの由ってくるところは︑すべて同じ起源︑即ち︑観念と現在印象の連合からである︒
第一の﹁不完全な経験﹂ ︵ぎ罵蒐Φ9①巻①臨魯︒①︶に由る蓋然性についてヒュームは次のように説明する︒既に述
べたように︑連合を生む習慣は対象の頻繁な連接から起る︒従って︑習慣は観察される事例ごとに新しい勢いを獲得
し︑次第に完全な域に達するに違いない︒だが︑いかに進んだ知識を持つ人々でも︑多くの特定の事象については不
完全な経験を得ているに過ぎない︒これは極めて普通のことだが︑しかし︑この不完全な経験が導くのは︑習慣の不
完全ということである︒だがにも拘らず︑心は既に因果的結合について他の観察を行っており︑この観察から心はそ
の行う推理に新しい勢いを与えるから︑十分な準備と検証があれぽ︑ただの一回の経験によって︑推断することがで
きる︒ 勿論以上のような推論は絶対的確実なものではない︒しかしそれは現実における経験が不完全という理由からだけ
ではなく︑反対の事例に屡々出会うからである︒ここに第二の蓋然的知識︑即ち︑﹁反対の原因﹂︵oo口耳妻田8ロωoω︶
に由来する蓋然的知識が現れる︒そして︑三つの蓋然的知識の中で︑ヒュームが専ら検討するのはこれである︒
ヒュームによれぽ︑この第二の蓋然的知識は︑未来に対する半信半疑的な信念を二つの方途で与える︒その第一
は︑現在印象から関係観念への移行が不完全な習慣を生じさせることによってである︒というのは︑二つの事象の連
接が頻繁であって︑心を一つの事象から他の事象に推移するよう限定するとはいえ︑二つの事象が完全な恒常性まで
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至らず二つの事象の接合が中断されているため︑心は完壁な習慣によって限定されていないからである︒ いま一つ
は︑過去における相反する事象から未来への半信半疑的な信念を生じせしめる方途である︒ここでヒュームは︑過
去を未来の基準とする理由と過去の事象間の反対から未来に関してのただ一つの判断を抽出する様式とを考察してい
る︒われわれが過去を未来の基準とするのは︑何も何らかの証明に基づいているのではない︒従来慣れ親しんできた
事象系列と同じものを未来に期待する習慣に基づいているに過ぎない︒しかしこの習慣は完全である︒しかしこの習
慣が完全なものであっても過去の事象間に反対を見出す時︑心は不動の事象の限定を顕わさず︑ある数の互いに一致
しない観念を一定の順序および割合で限定される︒ヒュームによれぽ︑これら互いに反対の観念は︑勢いおよび活気
の分け前を平等に享ける︒従ってわれわれは︑過去の相反する事象が未来において実際に起る時︑過去と同じ割合で
混合しているだろうと判断する︒
以上の説明を更に補強するためヒュームは以下のような議論をしている︒H 反対の可能性を許容しないほど大き
な蓋然性はない︒もしそうした蓋然性があれぽ︑それは最早や蓋然性ではない︑絶対確実性になるからである︒口
そのような可能性および蓋然性を構成している諸部分の性質は同じであり︑種類でなく数において異なるに過ぎな
い︒従って︑偶然の場合と同じように︑経験における数の優越だけが︑過去を未来に推移する場合︑一方の側を優越
ならしめ得る︒日 ある原因がいくつかの部分から形成され︑またこの部分の変動につれて結果が増減する場合︑結
果は複合されたもので︑原因の各部分から生ずる数個の結果の合成である︒複合的原因を持つ事象に対してわれわれ
が持つ信念は︑過去の経験の数に対応して増減する︒それ故︑信念は複合的結果であって︑それぞれの部分はそれに
比例した数だけの経験から起ると考えられる︒しかし︑可能性の各部分も蓋然性の各部分と同じ性質であるから蓋然
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
性と反対の側に同様の影響を及ぼすに違いない︒また︑蓋然的知識が一定の対象に対しある見込みを生起するよう
に︑可能性に伴う反対の信念もそれと対立する見込みを生起する︒この点で︑両者の信念の程度は似ている︒従っ
て︑一方の性質では相い似た︑ただ数において多い構成部分がその影響力を発動させ他のものに優越するのは︑自己
の対象の方が強い生気をもって見られるという理由からのみである︒
次にヒュームが挙げる第三の蓋然的知識は﹁比論﹂︵き巴︒αq︽︶である︒この比論が前二者と異なるのは次の点にあ
る︒いかなる因果的推論も︑過去の経験における二つの対象の恒常的連接と︑これら二つの対象の何れかと現在対象
との類似に基づいている︒ところで︑上に論じてきた偶然に由る蓋然的知識および複数原因に由る蓋然的知識︵不完
全な経験に由る蓋然的知識と反対の原因に由る蓋然的知識︶では︑接合の恒常性が減じているので︑信念も弱められ
る︒これに対して比論に由る蓋然的知識にあっては︑類似のみが障害を受ける︒接合と並んである程度の類似がなけ
れぽいかなる推理も成立しない︒しかし類似は種々の程度の相違を許す︒従って︑推理も類似の程度に比例して堅固
さ︑確信さの程度を増減する︒経験はそれと正確には類似しない事例に転移される時︑その勢いを失う︒しかし何ら
かの類似が残る限り︑蓋然的知識は成り立つのである︒
㊦ 非哲学的な蓋然的知識
ヒュームは︑蓋然的知識として偶然に由る蓋然的知識と複数原因に由る蓋然的知識の他に︑非哲学的な蓋然的知識
を挙げる︒ ﹁非哲学的﹂とは些か奇異な感じもするが︑これまで哲学者達によって前二者ほど認可を受けてこなかっ
た︑という意味で使われているようである︒さて︑ヒュームがいう非哲学的な蓋然的知識には四つある︒
H 接合の恒常性や類似の程度が減少すれば︑推移の容易さも減じ︑従って確証度も弱まる︒それと同じように︑
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印象の程度︑つまり記憶や感官に現れる際の印象の色彩が薄くなるにしたがい︑確証度も弱くなる︒それ故︑何らか
の記憶にある事実に基づく議論は︑この事実からの時間的な照りに応じて説得力を異にする.
⇔ 記憶に新しく鮮かな経験は︑幾分掻き消された記憶よりわれわれを感動させ︑判断や感情よりも大きな影響を
与える︒例えば︑酒友が酒に一命を奪われたことを見た酒豪は︑暫くの間はこの例に心打たれ︑同様のことが自分の
身にも起るかもと恐れ自重するが︑記憶が漸次薄くなるにつれ元に戻る︒
日 いかに立証的な推論も︑その推論の過程に数多くの推論が介在するならぽ︑確証の程度は弱まる︒ヒューム曰
く︑ ﹁推論が中間の原因又は結果を少しも持たずに一対象から直接に引出される時は︑長い連鎖を成して結合された
議論を想像が通過させられる時に比して︑たとえ後者に於ける連鎖の一つ一つの環が如何ほど誤りない結合を成すと ︵26︶考えられるにせよ︑確信は遥かに強く︑堅信は一段と生気に富む﹂︒あらゆる観念は想⁝像の習慣的推移によって︑根
源の印象から活気を獲得するが︑しかしこの活気は︑距離に比例して漸次弱まる︒ この距離の影響は反対の経験の
それより大きいことがある︒従って︑ ﹁長い連鎖をなす論理的思惟﹂ ︵㊤一〇昌σqo冨ぎoh8コω①ρ¢①旨︒①ω︶が︑それぞ
れの部分においていかに正しく断定的であっても︑ ﹁緊密且つ直接な蓋然的推理﹂より活気ある確信を生むことはな
い︒ 四 一般的規則︵ぴq①器﹁巴邑①ω︶に由来しながらも︑一般的規則に符合しない蓋然的知識︒これは性急に一般化さ
れたことから成ったもので︑﹁偏見﹂と呼ばれているものの起源である︒例えば︑アイルランド人は機智を持ち得ず︑
フランス人は堅実さに欠ける︑といった言い種である︒では何故︑人は一般的規則を作り︑現在の経験に反対してま
で自分の判断に影響を及ぼすご乏を認めるの距︒ヒュームは以下のように説明する︒
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D.ヒェームの経験論的人間学の研究(五)
原因結果に関するすべての判断は︑経験とその積み重なったものである習慣に基づいてなされる︒われわれが一つ
の対象と他の対象との接合に見慣れてしまうと︑省察︵戦Φh一〇〇け一〇昌︶が加えられる前に自然的推移︵昌葺ξ巴胃9︒三三〇昌︶
によって︑想像が第一の対象から第二の対象に移る︒そして︑習慣はその本性よりして︑慣れてしまった対象と正確
に同じ対象が現れれば勿論完壁な作用をするが︑相似する対象を見出した時も︑程度こそ劣れ作用する︒このように
習慣はあらゆる推論の土台でありながら︑時として判断と対立する結果を想像に及ぼし︑同じ対象に関しわれわれの
問に反対感情を生む︒あらゆる原因の中には︑さまざまな事情が複雑に錯綜している︒その中には本質的なものもあ
るが︑余計なものもある︒即ちあるものは︑結果がもたらされるのに絶対に必要であり︑他のものは偶然によって結
合されているに過ぎない︒だがこのような余計な事情が︑多数ありしかも著しく︑更に本質的な事情と屡々結合して
いる時は︑いかに余計なものといえども︑想像に及ぼす影響は極めて大きい︒こうして判断と想像の間に対立が生じ
てくる︒ ホ 実はこの判断と想像の対立を解消させるものこそ因果的推論に関する︼般的規則なのだ︑とヒュームは言う︒ヒュ
ームによれぽ︑一般的規則は︑﹁知性の本性﹂︵誓Φ昌舞霞ooho霞§色︒﹁吻欝巳貯αq︶と︑対象についてなされる判断
において︑知性が及ぼす作用に関する経験︑の二つに基づいて形成される︒さてそのようにして形成された一般的規
則によって︑偶然的事情︵櫛OO一自⑦耳門面一 〇凶叫O信5Pω一魯昌O①ω︶と有効原因︵o窪︒碧ざ易︒きω$︶とが区別される︒そして︑
ある特定の事情が同時に起ることなくある結果がもたらされ得ることが見出された時︑その特定の事情が︑いかに有
効原因と連接しているにせよ︑当該事情は有効原因の一部たり得ない︒しかし︑偶然的事情と有効原因との頻繁な連
接は︑一般的規則よりすれば反対の結論であるにも拘らず︑想像に多少影響を及ぼす︒ここにこの二つの推論は対立
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し︑その対立は思惟の対立を生み︑心をして一方の推論を判断に︑他方の推論を想像に︑それぞれ帰せしめる︒一般
的規則は︑その適用範囲が広汎でその及ぼす作用が恒常的であるため判断に︑そして例外はその気紛れ且つ不確実な
るが故に想豫に︑それぞれ帰せられるのである︒
この後の展開はいかにもヒュームらしい︒ヒュームは︑一般的規則が及ぼす影響に二つ認める︒ある原因と類似す
るある対象が現れた時︑想縁はその対象が当該原因と重大な点で異っていても︑心を自然に当該原因に常に伴う結果
の生気ある想念に向かわしめる︒これが一般的規則の第一の影響である︒だが︑このような心の働きを吟味して︑よ
り一般的︑より正しい知性の作用と比較する時︑前の心の働きは不規則で最もよく確立された推論の原則をことごと
く破壊することに気づぎ︑前の心の働きを斥けようとする︒これが一般的規則の第二の影響である︒ところでヒュ︐︐
ムによれぽ︑こうした二つの心の働きは︑人間の性格に対応している︒即ち︑凡俗は前者によって導かれ︑賢者は後
者によって導かれる︒では﹁懐疑家﹂︵島①ωo①冥圃︒ω︶はどうか︒﹁その間にあって懐疑家は︑ここに理性上の新しい
大矛盾を観察する快感を持つことができる︒即ち彼は︑あらゆる哲学が人性の一原理によって覆えされようとしては ︵27︶再び同じ原理そのものの新しい方向によって救われるのを見る快感を持つことができるのである︒﹂
要するに︑一般的規則に従うということは非哲学的な蓋然的知識だが︑また一般的規則に従ってのみそうした非哲
学的な蓋然的知識は訂正され得る︑というのである︒
* ヒュームは﹃人性論﹄第一篇第三当月十五節で因果的推論の一般的規則として以下のようなものを挙げている︒①原因結果
は︑空間と時間において近接していなければならない︒②原因は結果に先行していなければならない︒③原因と結果の間には
恒常的接合がなければならない︒④同じ原因は常に同じ結果を生む︒また︑同じ結果は同じ原因からもたらされる以外に決し
9てもたらされない︒⑤因果関係は賞に掴似が見出される事情に帰さねばならない︒⑥陰陰する二つの対象の結果に見られる相
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違は︑対象の相違点から生じなくてはならない︒⑦ある対象が原因の増減によって増減する場合は︑この対象をもって︑原因
をなすいくつかの異なる部分から起るいくつかの異なる結果の合一に由る複合的結果と見倣さねばならない︒⑧ある対象が僅
かの時間にせよあるいかなる結果をもたらすことなく完全に存在すれば︑その対象は当該結果の唯一の原因ではなく︑その作
用を進める他の原理によって助けられる必要がある︒僅かでも原因と結果が分離することは︑原因が完壁な原因でないことを
示している︒
㈲ 必然性あるいは必然的結合
以上のようにヒュームは︑その因果論の内容を豊かにした後︑再びその中心にある必然性の問題に戻る︒既に述べ
たように︑必然的結合︑即ち必然性は︑ヒュームにとって因果関係の中で最も重要なものであった︒そして︑いまま
たヒュームは・必然性の問題が﹁哲学における最も至高な問題の一露であ・・とを確認・︑その因果論の核心部分
D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
に向かう︒
⑦ 必然主義的因果論批判
先ずヒュームは︑必然性︑あるいは必然的結合という観念が︑これまで実に多くの言葉によって表現されてぎたこ
とを指摘する︒例えば︑効力︵①窪$o団︶︑作善︵帥σqo昌蔓︶︑力能︵尉δ≦臼︶︑力︵880︶︑勢力︵①昌︒薦嘱︶︑産出質
︵嘆︒住口〇二く①ρ二β︒年団︶などがそれであって︑何れも必然性︑必然的結合と同義である︒従って︑必然性︑必然的結
合をこれらの言葉で定義するのは不合理である︒しかしこれらの言葉の意味を厳密に確定しない限り︑議論は前に進
まない︒ヒュームはここでも︑彼の根本原理︑つまり観念は印象の模写であるという原理に訴える︒即ち︑ヒューム
は︑力能とか必然的結合といった観念の由来する印象を示せ︑というのである︒そこでヒュームはその印象を検討す
る︒そしてその印象をそれが由来する可能性のあるすべての源泉の中に探し求める︒しかもヒュームは︑これまでの
23
哲学者達の議論を取り挙げそれに一一反駁しつつ行なうのである︒
先ず︑一般的︑通俗的議論としてロックの議論が取り挙げられる︒ロックは﹃人間知性論﹄の﹁力泳について﹂の
章で次のようなことを述べている︒即ち︑物質には物体の運動や変動のような新しい産出のあることが経験的に見出
されるので︑そうした運動や変動を産み出すことのできる夏毛がどこかになくてはならず︑ここからわれわれは推理 ︵29︶によって二兎の観念に達する︑と︒しかしヒュームによれぽ︑どのような物質も︑感覚的な諸性質によって力能を示
したり︑それが何物かを産出し︑またはその結果と呼び得る他の対象がその後に続くと想像する根拠をわれわれに与
︵30︶えない︒延長や運動といった諸性質は︑すべて自己完結的であって︑それらから生ずるかもしれないいかなる他の事
象をも示すことはない︒それらの間の結合が何であるか︑推理︑想像する余地すらない︒従って︑力者の観念が物体
の作用の単一の実例における物体の省察に由来するとは考えられない︒何故というに︑どのような物体も︑力能なる ︵31︶観念の生得的なものとなり得る何らかの力能を見出すことはできぬからである︒これはロック自身も認めていること
なのである︒
このように外的対象は︑それが感官に現れる場合︑特定の実例における作用によっては︑力能や必然的結合の観念
を与えない︒そこでヒュームは次に︑これらの観念がわれわれ自身の心の作用に対する内省に由来し︑何らかの内的
印象の模写であるのかどうか吟味する︒
先ずヒュームは︑身体の諸器官に対する意志作用の影響について検討している︒確かにわれわれの身体の運動は意
志の命令に続いて起る︒これは事実である︒しかしこれは経験によってのみ知られ得るのであり︑原因の中にあっ
て︑原因と詰果を括合させ︑一方を他方の不可避的帰結とするごとき力能から予見され得るのではないつヒュームは
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
その理由を次のように説明する︒
e自然の中で霊魂と身体との統合以上に不可思議なものはない︒この統合によって︑精神的実体と想定されてい ︵32︶るものが物質的実体に対し影響力を持つ︒籾て︑われわれが意識によって意志の中に何らかの鬼能を知覚したとすれ
ば︑われわれはこの力能を知っているに違いない︑その力能と結果との結合を知っているに違いない︒ということ
は︑われわれは不可思議この上ない霊魂と身体との結合を︑そして精神的実体と物質的実体の本性を知っているに違
いないということであって︑そうしたことは考えられない︒
口 われわれは身体のすべての器官を同じ権威で動かすことはできない︒意志は舌や指を動かすことはできるが︑
心臓や肝臓は動かすことはできない︒だからといって︑前者の場合にのみ力感を意識し後者の場合意識しないという
のはおかしい︒両方の場合とも力能は意識されていないのである︒
日 随意運動における力の直接の対象は動かされる身体の器官自体ではなく︑筋肉︑神経︑動物精気︑その他未知
の多くのものを通じて運動は順次伝達され︑やがて意志作用の直接の対象である身体の器官自体に達するが︑そのプ
ロセスは極めて長く複雑である︒もし力能が感じられるならば︑静掻は知られるに違いなく︑知られればその結果も
知られるに違いないが︑そうしたことば先ずあり得ない︒
以上からヒュームは︑次のように結論する︒野島の観念は︑われわれが肉体的運動を起す場合︑われわれの内部に
おける力能の意識から模写されるのではない︒肉体運動が意志の命令に従うということは︑他の自然の事象を生起せ
しめる力能は他の自然の事象と同じく未知であり知覚できない︒
次にヒュームは︑以上のような議論によって意志の命令さえ︑力能の真の観念をわれわれに与えないことを証明し
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ているといい︑詳しい説明を加える︒
日 われわれが﹁力能﹂を知っているという場合︑原因の中にあって︑力丸が結果を産出することを可能にさせる
事情を知っているということである︒両者は同義と考えられるからである︒それ故にわれわれは︑原因と結果および
原因と結果の関係の両者を知っていなくてはならない.だがわれわれは︑人間の霊魂や観念の本性を︑あるいは後者
を産出する前者の性向を熟知しているだろうか︒これこそ真の創造︵ρ 門O口一 〇﹁①①け凶Oコ︶であり︑無からの何物かの産
出︵①蜜099δ昌ohωoヨ2三謁︒葺ohコ09ぢoq︶である︒それは余りにも偉大である故︑有限なるものの及び得な
い力能が含んでいるように思われる︒だがわれわれは︑意志の命令に続く観念の存在を感ずるだけで︑その作用がな
される様式︑それを産出する力能はわれわれの理解力を全く越えている︒
昌 心の心自身に対する命令は︑身体に対する命令と同様制約される︒そしてこの制約は︑理性あるいは因果の本
性を熟知していることによって知られるものでない︒われわれの観念に対する権威は極めて狭陰な境界内に制限され
ている︒このような境界の窮極的根拠を指示し︑あるいは力能が一方の事例においては欠けているが他の事例では欠
けていない理由を示すことは誰にもできない︒
日 このような自己命令は︑時点が異なれば甚しく異なる︒例えば︑健康な人間は病で衰弱している人間よりも自
己命令できる︒われわれはこうした変化に対し経験以外にどのような理由も与え得ない︒その場合︑力量はどこに存
在するだろうか︒
ヒュームの論証は続く︒
朋かに意忠作用はわれわれが十分精通している心の働きである︒だがこの意志作用の中に︑無から観念を生み出
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
し︑造物主︵H≦魯瞬①﹁︶の全能を一種の命令によって模倣させる力漕に似たものを見出すことは難しい︒
しかしヒュームは一歩譲って︑原因を結果に結合し︑永久に誤ることなく︑その作用を働かせる原因の力能を人々
が知覚すると仮定せよという︒そうすると︑因果関係で人々を当惑させるのは︑地震︑悪疫といった異常現象に出く
わした場合のみである︒こうした場合︑人々が頼るのは︑﹁見えざる知的原理﹂︵暑く芭巨①貯け︒≡σqoロけ冒ぎ9覧①︶あ
るいは﹁機械仕掛けの神﹂︵①aり織aミ審尋り︶である︒しかし多くの哲学者達とりわけ合理主義に立つ哲学者達は︑
そういう場合にも他のすべての場合と同様︑理性に強要されて同じ原理に頼る︒即ち︑彼等は︑﹁知力﹂︵一言①まαqo昌︒①︶
が︑ただにあらゆる事物の究極の原因であるばかりか︑自然の中に現れるすべての事象の唯一の原因であるとする︒
しかしそこから実に奇妙な議論が展開されることになる︒
合理主義の哲学者達は︑理性に経験以上の価値を置くことから︑物質の本質も理性によって解明できると考える︒
そして彼等は︑極めて自然に︑物質には羅宇は少しも付与されていないと推理し︑物質自体は運動を伝達すること
も︑また運動に帰せられるような結果を産出することもできないとした︒彼等に従うと︑既に述べたように︑物質の
本質は延長にある︒そして延長は現実の運動を含まずただ可動性を含むに過ぎない︒この二点から彼等は︑運動を産
出する力能は延長のうちに存することはできないと結論したのである︒つまり︑彼等によれば︑物質は運動を産出す ︵33︶るあるいは伝達する力能が奪われているのである︒にも拘らず運動は産み出され伝達される︒となると運動を産み出
し伝達するものは何かが問題となる︒しかし彼等がこの問題に与えたのは︑極めて奇妙な︑だが彼等の議論よりすれ
ば不可避な回答であった︒
彼等︑1例えばマールブランシューは︑一般に原因と言われている対象は実際には﹁機会原因﹂︵oo8ωご霧︶
27
に外ならず︑すべての結果の真の原理が自然の中に存在する何らかの力能ではなく︑個々の対象が互いに永久に結合
されることを意志する﹁最高存在﹂︵号①ωξ﹁Φ∋oじ①ぎ騎︶の意志作用である︑という回答を与えた︒彼等は︑ある
玉突の球が自然の作者︵9①①殺げ︒﹁oh旨卑⊆﹁①︶から手にした力能によって他の球を動かすという代りに︑特殊の意
志作用によって第二の球を動かすのは﹁神性﹂︵二5uo団ξ︶であって︑神性は宇宙を支配するに当って︑自ら自身に
規定した一般的法則の結果として︑最初の球の衝撃によってそう作用するよう定められていると主張するのである︒
更に彼等は次のように断言する︒即ち︑霊魂と身体との統合の直接の原因は神性であり︑外的対象に誘発されて心の
中に感覚を産出するのは︑全能の﹁造物主﹂の特殊な意志作用である︑と︒また彼等は︑同じように︑人間の四肢の
局部運動を産出するのは︑意志の中の袴能ではない︑われわれの無力な意志を援け︑われわれが誤って人間の無能に
帰させている﹁神﹂︵Oo畠︶である︑と︒いや彼等は更に進んで次のようにいう︒人間の観念の思念は﹁造物主﹂に
よって人間に対してなされた啓示︵﹁⑦<O一帥曽一〇コ︶に他ならぬ︑また︑われわれの観念を創造するのは意志ではなく︑
観念をわれわれの心に明かしわれわれに対して現出させるのは宇宙の﹁創造者﹂︵9$8H︶である︑と︒
以上が合理主義者達の因果論についてのヒュームの分析であるが︑一目にして明らかなように非常に鋭い︒即ち︑
ヒュームの分析から明らかになったことは︑合理主義の因果論がキリスト教神学の思考様式︑またそれから導かれる
因果論の影響を強く受けているということ︑両者の因果論は︑前者が合理主義的︑後老が神学的という違いはあるに
せよ︑必然主義的因果論という点では同じである︑ということである︒ヒュームは︑キリスト教が不寛容なのは︑キ ︵糾︶リスト教神学の必然主義的因果論から導かれているとしたが︵本研究第一章参照︶︑同じように︑デカルト以後の合理
主義に蝿られる必然主義酌因果諭罫古套に恐るべき害悪をもたらすであろうと予見した︒だからヒュームは合理主義
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D.ヒュームの経験論的人間学の研究(五)
を徹底的に批判した訳だが︑これについては後に詳しく述べるとして︑ここではその因果論批判に関してのみ見てお
こう︒ヒュームは︑ ﹃人間知性研究﹄では︑次の二点を指摘している︒
①この因果論は﹁最高存在﹂の力能と作用の理論といってよいものだが︑それは余りにも大胆なため︑人間理性
の脆弱さと︑その作用が平壌な境域に局限されていることを知っている人間には説得力を持たない︒この理論がいか
に論理的に説かれていようとも︑人間の結論から遠く測った結論が導かれていて︑人間の能力の範囲を全く逸脱して
いるのではないかという疑問が生じる︒同理論は因果論が進まねばならない最後の段階に到る遥か以前に御伽の国.︵h巴受難昌α︶に踏み入っているのである︒その御伽の国では︑通常われわれが用いるような﹁類比﹂や﹁蓋然性﹂
といったものは何の権威もない︒ ﹁われわれの綱は余りにも短いので︑このような無限の深淵を測ることはできない
のだ﹂とヒュームはいう︒
②われわれは︑物体が互いに作用し合う様式について無知であり︑物体の力能についても全く了解できない︒同
じように︑心も︑いや最高の心さえ︑それ自身あるいは身体の何れかに作用する場合の様式や豊能についても無知で
はないだろうか︒われわれは自らの内にこの力能に関する感情も意識も持っていない︒自己自身の諸能力に対する反
省から学ぶこと以外には﹁最高存在﹂に関していかなる観念も有していない︒それ故︑われわれの無知が何らかの事
柄を拒否する道理になるとすれば︑物質におけると同様︑最高存在においてもあらゆる力能を否定する原理に導かれ
︵35︶る︒
このようにヒュームの合理主義的因果論批判の仕方は︑キリスト教神学の因果論に対する批判のそれに極めてよく
似ているのである︒そしてそこに︑ヒュームの因果論の持つ重要な意義の︸つがあるといわねばならない︒
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