古代の荒河郷から中世の荒川荘・調月荘・細野荘
年表でみる桃山町2千年の歴史と桃栽培
平成 25 年 1 月 27 日(追加)
桃山町2千年の歴史年表
明治 5 年までの月日は太陰暦、和暦年号や干支には( )内に西暦を併記。出典は[ ]内に番号。 年代・年次 桃山町と桃を巡る記録[出典 No] 国・県、及び関連記録[出典 No] 崇神天皇時代す じん ・崇神天皇、紀伊國(木 國 造 )き いのくに きのくにのみやつこ荒河刀弁と べ(戸畔=郷長)の娘遠津年 ・崇神天皇 7(BC186)年、意富多々泥古(大直禰子:饒と べ とふつの あ を ふ た た ね こ (180-198年) 魚眼眼 妙 姫 命 (遠津年魚目々比売)を娶り豊城入日子 命 、豊ゆ め ま くはしひめのみこと と お ほ つ の あ ゆ め ま く は し ひ め とよ き いり ひ このみこと とよすき鉏 速日尊 7 世)に大物主神を御室山(三輪山)麓に社殿を造 大和政権初期 入比賣 命 を生む[1,2,4]。荒河の初出。 って祀らせ[大神神社縁起,3]、日本大國魂神(大和神社)を大 いり ひ めのみこと (弥生時代後期) ・麻生津 荘 、古くは荒川郷の内にして遠津・大津とも書き麻生津 倭直の祖/長尾市に祀らせる[崇神紀,2]。また宮中より石上 とほ ふ づ しよう と お つ おほ つ とほ ふ づ は遠津の転化なり[6]。 布留の高庭に移し鎮め祀る[石上神宮縁起,4]とし、布留御魂 と お つ ・遠津年魚眼眼 妙 姫 命 は荒河郷遠津生れ[10]。 大神を祀っている。いずれも饒速日(大歳)尊の別名。 とふつの あ ゆ め ま くはしひめのみこと と お つ ・紀国造家譜:天道根 命 →比古麻命→鬼刀禰命→久志多麻命は鬼 ・荒木田遺跡(石川県小松市)から大量のあまみちねのみこと ひ こ ま き と ね く し た ま あら ぎ た 桃核が出土、 刀禰命の男、又の名/目菅は荒河刀弁ならん[6]。 弥生時代の桃核の種は桃・野桃・新 疆 桃と判明[18]。 あらかわ と べ もも の もも しんきようもも ・荒河刀弁は往古妙 法壇に居を構え、古代は荒河壇と云う[12]。 ・纏向遺跡(桜井市)から 2,700 個を超える桃核が出土[桜 あらかわ と べ みようほうだん まきむく い せき 壇(段)村の地名起源。 井市埋蔵文化ンター発掘報告]。出土した桃は饒速日大神の祭祀 用か。 崇神-垂仁天皇 ・[魏の景初三(239)年 12 月、邪馬台国女王に魏の皇帝が「や ま たいこく ぎ 親魏倭しん ぎ わ ・[田道間守伝説]:垂仁天皇 90 年の春 2 月、三宅連等 邪馬台国女王卑 王卑弥呼」の称号と銅鏡百枚等を贈る[魏志,28]。 の祖、名は多遅摩毛理を以て常世国に遣わして非時香 や ま たい こく ひ おう ひ み こ 弥呼の時代み こ ・「景初三年銘入り画文帯神獣鏡」は、女王卑弥呼(豊 入日賣命)鉏 菓を求めしたまひき。・天皇崩りまして明年春 3 月 12 (2-3 世紀) の異母弟/伊邪能眞若命の古墳、墓誌「伊邪能眞若命墓 丙寅(246 日、多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実をい ざ の ま わか 年)四月十七日 年六十九[和泉黄金塚古墳,61]から大阪府和泉市上代町の 採り縵八縵・矛八矛を以て将ち来たりし間に、天皇す 黄金塚古墳から発掘される[昭和 25(1950-1951 年、大阪府教育委員会/日本考古学協 でに崩りましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵・矛四矛 会の合同発掘調査]。 を天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を捧げて ・また、景行天皇の王子/墓誌「神櫛王命 庚戌(290 年)十月九日 叫び哭びて曰さく、「常世の国の非時香菓を持ちて参上 年四十三」古墳[神原神社古墳=島根県加茂町神原,61,67]。から出土[島根県教育委員 りて侍ふ」とまおして、遂に叫び哭びて死にき。その 会,昭和 47(1972)年発掘]。神櫛王命は女王豊 入日賣命(卑弥呼)の甥鉏 [景行天 非時香菓は、これ今の橘なり。この天皇の御年、壱佰 皇紀,2]。これまで出土した景初三年銘入り画文帯神獣鏡二面は、い 伍拾参歳。御陵は菅原の御立野の中にあり[垂仁記,1]。垂 ずれも女王豊 入日賣命鉏 の同族近親者で、しかも女王卑弥呼が魏 仁天皇墓誌「伊久米入日子命 庚午(250 年)七月一日 の皇帝から銅鏡を贈られた以降の死亡で、魏志の云う女王卑弥呼 年七十一」[奈良市尼ケ辻町字西池 宝来山古墳陵前、柳本/伊佐知命宮,61]。は豊 入日賣命鉏 と断定できる。 ・田道間守が持ち帰った橘の苗木 8 本のうち 6 本を紀 ・卑弥呼は崇神天皇の王女/ひ み こ ひめみこ とよすきいり ひ めのみこと豊 入比賣 命鉏 で荒河刀弁の外孫あらかわ と べ 。三 伊国海草郡加茂村橘本に植えられ、六本木の地名あり。
国志魏志は王女を卑弥呼、紀国を鬼国と書いた[魏志,28,10]。 今ここに橘神社がある[同社伝,27]。
ひめみこ ひ み こ きのくに き こく
・邪馬台国の女王卑弥呼の時代 参照。 ・タチバナ C. tachibana TANAKA(C.Aurantium LOUR. var
・194 年 6 月 18 日、崇神天皇妃/荒河刀弁の娘/遠津年魚目々比売と お ほ つ の あ ゆ め ま く は し ひ め Tachibana MAKINO) は、我が国の原産、高知・和歌山・ 命、薨去。紀ノ川北岸の大谷古墳(和歌山市)に葬られる。墓誌: 鹿児島等の諸県に野生あり、台湾にも野生す。小喬木 遠津年魚目々微比売命墓 甲戌(194 年)六月十八日薨 年三十七歳 性で葉翼微小、果実は小にして扁円黄色、果皮薄く種 [61]。・大谷古墳は後の 6 世紀にも同じ場所に紀氏一族が古墳を造 子多くして食用価値なし。紫宸殿の右近の橘は此の種 営した[同古墳発掘調査報告]とみられる。 なり[33]。 AD248 年(戊辰) [曹魏の正始七(248)年、(魏の)使者/張政らが倭国に到着した時は卑 ・田道間守の持ち帰った橘は、我が国原生のタチバナ 鉏 女王豐 入日賣 弥呼はすでに死んでいた[魏志,68]。卑弥呼、以て死す。大きな冢(墓) ではないとする。貝原益軒の「大和本草」・小野蘭山の とよ すき いり ひ め つか 命 50 年(垂仁天 が作られた。冢の径は百余歩で百人以上の奴婢が殉葬された云々[魏 「本草綱目啓蒙」をみても分かる。橘の古名/トキジク ぬ ひ 皇 37 年) 志,28]。 ノカグノコノ木の實ととする名称から推測しても香り ・7 月 14 日、豐 入日賣命、鉏 64 歳薨去。墓誌:豐 入日賣命薨 の高い柑橘で、今の代々ではないか鉏 [田中長三郎,33]。 戊辰七月十四日 年六十四」[大和高田市築山古墳周辺,61]。 ・大和高田市築山の築山古墳は周辺に狐井塚古墳・コンピラ山古つきやま き つ い づ か 墳などの陪塚を持ち全長 210 メートルの巨大な前方後円墳である。ばいつか 成務天皇時代 ・神田古墳群(神田)、七塚古墳、尼ケ岡古墳(最上)、小林古墳、最 ・和歌山市に秋月古墳が造営され、岩橋千塚古墳群中 古墳時代 上円山古墳、西ノ辻古墳群(最上)が出土[7]。 の石室に三角縁神獣鏡が副葬されていた[同古墳発掘調査,7]。 (300 年前後) ・この頃から方形周溝墓(出雲式)が造営される[7]。 欽明天皇の頃 ・欽明天皇の皇子/吉仲麻呂(菅吉永とも)が調月・丸栖を含めて所 ・欽明天皇即位 11(550)年、百濟國より初めて佛法が伝 きんめい よしなか ま ろ すげよしなが くだらのくに (540-571 年) 領し吉 仲 荘 と云う。吉仲麻呂の住家を麻呂栖と云う[23]。後に丸 う[2]。 よしなかのしよう よしなか ま ろ すみ か ま ろ す (飛鳥時代) 栖となる。 ・欽明天皇 23(562)年 7 月、(後に調月を拓く)紀男麻呂きの お ま ろ ・吉永領(吉仲荘調月)の南限は日前寺南の 菅 谷の山道なり[野口家文 宿禰を大将軍とし二万の兵を率いて新羅討伐に派遣、 すげのたに すく ね し ら ぎ 書,64]。 菅 谷は今も在り、 菅 谷池も実在する[現状]。 紀男麻呂宿禰は土卒らに「勝ちても敗れる事を忘れず すげのたに すげのたにいけ 吉仲荘の起源。丸栖の地名起源。調月南部のすげのたに菅 谷の初出。 油断せず武具を手放さずは古の尊き教えなり云々」と
訓示する[3]。 用明天皇二(587) ・用明天皇 2(585)年、当地(調月)に布陣していた太子軍の一人、 ・(大歳大明神は)皇子/吉仲麻呂と云う者の斎き祀る所 ようめい 年(飛鳥時代) 藤原朝臣菅吉永(吉仲麻呂)は椋に向かって「心あらば丸(麻呂)を助 なり。吉仲麻呂、未だ詳ならず。或いは欽明天皇の子ふじわらあそんすげよしなが よ し な か ま ろ むく (蘇我馬子大王) け給え」と祈り(中略)。その場に居合わせた 12 人の僧の一人、 とも云う。王子、ここに来たり絶景の勝地を相て一宇 師薬正人が太子に向かい「御運開ける兆しあり」と云い、僧らは の幽屋を築き棲居す。之を十景山と称す。土民恵みに しやくしょうにん 八万堂で一心に諸 経を 誦 じ守屋軍を調 伏。万事思し召すままに 懐き隣里家を移す。厨調を給す。皇子曰く、遊山川観、 や ま ん ど う しょきょう しょう ちょうぶく ば ん じ お ぼ 調 ったことから、お経の霊験を崇め塚を築いて奉納し、当地を塚築 嘯吟して日を送る。而して西沐之上林□( +字)栖と號氵 ととの れいげん あが つか つ つかつき と云う。しかし文字には御調物の調を頭に、下には三日月の月を す。其の下一舎を立て之を麻呂栖と称す。又宮尾帝林み つ ぎ も の み か づ き ま ろ す 書くなり。よって調 月と書き、「つかつき」と云う事、この代よ 御食地に就いて各々一舎を立て優遊之處となす。九月ととのうつき りのことなり。諸経を奉納したところを経 蔵 谷、諸経を 誦 じた 午時、皇子夢に帝林より金色の玉を出現し大いに光をきょうぞうだに しょう 処が八万堂、経蔵谷の下を神堂之谷と云う[野口家文書,23]。(現/山人平 放つ。赫々として林上に懸る。皇子に告げて曰く、我 や ま ん ど う し ん ど う の た に やまんどひら 「八万堂=山堂社=旧大歳神社」の南側の谷は今も神堂谷と呼ぶ)。 是大歳大神之魂也。我れ君と異に非ず。乃ち皇子の胸や ま ん ど う しんどうだに 調月、山人平の地名起源。 中に入り又出でて宮尾の舎に入り、然夢覚濛々然たり。 つかつき やまんどひら 注):用明天皇は架空で蘇我馬子大王の事蹟。また藤原朝臣菅吉永 此の威に因て調月に命じて其社地を築き、而して両祠ふじわらあそんすげよしなが ちよげつ とあるが、朝臣姓は天武天皇 14(685)年に初めて定められたもので、を立つ(中略)。華表正一位勲一等大歳大明神と題す[紀州 しかもその時、藤原氏は朝臣を下賜されなかった[天武紀 3]。この時 那賀郡調月邑大歳大明神縁起,12,19]。 代には藤原朝臣はなく、後世の偽作である。 ・調月の歴史・調月大歳神社▼ 吉仲麻呂=菅吉永、菅は[スゲ]・[スガ]と読み、蘇我/宗我の改変 http://www.syamashita.net/history/tsukatuki/index.html よしなか ま ろ すげよしなが すげ そ が そ が 文字か。皇子/吉仲麻呂は蘇我稻目の子であろうか。さすれば、書 ・日本語で「ツカツキ」と読めない調月はハングルで 紀の云う蘇我稻目大臣=欽明天皇(天國排開廣庭命)となる。 「츠카츠키」と書き「ツカツキ」と読める[編者]。 推古天皇時代 ・紀男麻呂宿禰は大和時代後期の武将[21]で聖徳太子(蘇我善徳大 ・紀男麻呂宿禰は 8 代孝元天皇の皇子/彦太 忍 信 命の すい こ きの お ま ろ すく ね きの お ま ろ すく ね こうげん ひこふとおしのまこと (593-628 年) 王)に仕え、推古天皇即位 11(603)年、紀伊国に来て紀氏の谷を拓 10 代裔孫、紀建内宿禰の 7 代[紀氏系図,23]。 きのたけうちすく ね (蘇我馬子大王) き、名を変えて 調 月と名乗る。耕作の道を教え八万堂(大歳神社 ・神戸(貴志川町神戸)に祀った紀氏の神は紛れもなくちようげつ や まんどう 旧宮)に大歳明神を祀り五穀豊穣を祈る。神戸に社殿を造り紀氏の 大歳大明神。今は大国主神(貴志川町国主の大国主神社 もとみや 神を祀る[調月野口家文書,23]。 大歳神社の起源。 :別名大物主神)としている[同社説明]。 推古天皇 6(598) ・戊午 2 月28日、皇子(吉仲麻呂)薨去し(57 歳?)、十景山に葬 ・推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)は記紀の架空。倭王(蘇
雞 年(戊午) る。調月(紀男麻呂宿禰)、次いで卒す。皇子の居に因りて其の名 我馬子大王)の妻は 弥[隋書,28]。蘇我馬子の妻/ 物 部鎌 け み もののべのかま (蘇我馬子大王) を以て吉仲御庄と云う。 調 月はその従者の名也。以て其の邑に名 姫大刀自 連 公)[4]。 ちようげつ ひめおほ と じ むらじきみ 付く[紀州那賀郡調月邑大歳大明神縁起,12,19]。 ・十景山とは御茶屋御殿山の北東麓/船戸山古墳か。 推古天皇 8(600) ・[隋の開皇二十(600)年]、倭王、姓は阿毎、字は多利あ ま た り 雞 年(飛鳥時代) 思比孤阿輩 弥(天 足 日子大王)と号し、使いを遣わしし ひ こ あ は け み あまたらし ひ こ おおきみ 雞 (蘇我馬子大王) て闕(王宮)に詣る。王の妻は 弥と号し(中略)、太子をけ み 名付けて利(和)歌弥多弗利とす[隋書倭国伝,28]。書記の編者 わ か み た ふ り は都合が悪いのでこの史実を隠し、この時の遣隋使は 書紀には書いていない。 ・注:天足日子大王は蘇我馬子大王そ がのうま こ おほきみ、蘇我馬子の妻は 物 部鎌姫大刀自 連 公[4]は 弥で、太子は蘇我馬子の雞 ものの べ かまひめおほ と じ むらじのきみ け み そ がのうま こ 嫡子/蘇我善徳[推古紀 3]。書紀は蘇我馬子が大王だったこ とを隠し、馬子大王の妻を推古天皇に擬し、また蘇我 善徳太子も隠し、太子/厩戸皇子(架空)を創作した。 推古天皇 34(626) ・5 月 20 日、大臣(蘇我馬子)薨せぬ(76 歳)。桃源墓(石 年 舞台古墳)に葬る[3]。墓誌:馬子墓 丙戌年五月廿日七 十六[61]。桃源墓は後に中大兄らが盛り土を破壊し、石 室から持ち出された石棺は、古墳の西方約 2 ㎞の明日せつかん 香村平田の山腹に放置され、「鬼の 厠 」とよばれて観おに かわや 光名物となっている。「馬子墓」と侮辱した墓誌も、元 の墓誌を削り取って書かれたとみられる。 皇極天皇 3(644) ・皇極天皇(天豐財重日足姫=百済武王の妃/宝姫)は翹 年(飛鳥時代) 岐(中大兄皇子)の母親で飛鳥に居ず架空[65]。 (蘇我善徳大王) ・[唐の貞観 18(644)年]12 月 4 日、インドに渡っていた 唐の玄奘三蔵が長安に帰る[44]。
大化元(645)年 ・6 月 12 日、蘇我入鹿臣(蘇我善徳大王=聖徳太子)が (飛鳥時代) 百済王子/翹岐(書紀名/中大兄皇子)、百済の大左平/智積 (蘇我善徳大王) (書紀名/中臣鎌子)らに夜明けに法興寺西門前に誘き出 され暗殺される[3,65,入鹿の首塚伝承](乙巳の変)。飛鳥板葺宮 の大極殿で殺したとする書紀の記述[3]は辻褄が合わな い。 ・6 月 14 日、軽王子が即位し大化元年とする[2]が、こ かる み こ の時、軽王子(孝徳)は即位していない[白雉元年条参照]。 注:孝徳元年紀には蘇我倉山田石川麻呂を右大臣[2]と 書いているが大王だった。蘇我石川麻呂も大化 5(649) 年 3 月 25 日に翹岐(書紀名/中大兄)に攻められ自害[2]。 ・9 月 12 日、中大兄が兵を率いて古人大兄を討つ[2]。 大化 2(646)年 ・正月甲子朔(1 日)、大化の改新の詔[2]は、蘇我馬子大 (飛鳥時代) 王時代から進めてきた改新事業を蘇我倉山田石川麻呂 (蘇我石川麻呂大 大王が条文化したもの。 王) ・この年、熊野国造が支配していた熊野国が廃止され 紀伊国牟婁郡に編入される[6]。 大化 6(650)年 ・2 月 15 日、「白雉はく ち」に改元。 白雉元(650)年 ・[唐の高宗の永徽の初め(650 年)]、倭国、献使「其のえい き 孝徳天皇元年 王/孝德即位し改元して白雉と曰う。虎魄大きさ斗桝のこ はく 如く、碼碯五升器の若きを獻ず[新唐書,104]。孝徳天皇即 め のう ごと 位。 天武天皇 ・天武天皇 13 年 11 月 29 日、白鳳南海地震起こる[3]。M 8.0 ~ 8.3、 ・672 年 7 月 26 日、壬申の乱を制した大海人皇子は 673 672-686 年 死者多数。土佐で津波により大きな被害。田園約 12km² が海面下 年 2 月 27 日、即位(天武天皇)[3]。 (飛鳥-白鳳時代) へ沈下、ほぼ同時期に東南海・東海地震も発生[地質調査結果,44]。 大宝元(701)年 ・8 月 21 日、三河・遠江・~・国防・紀伊・讃岐・伊
文武天皇 5 年 豫に大風あり、昼を発き稼(稲作)を損ふ[4]。 か 大宝 2(702)年 ・正月 10日、初めて紀伊国賀 駅家を置く陁 [5-1]。 か だのうま や 文武天皇 6 年 ・大宝 3(703)年、紀伊國奈我・名草二郡に布調を停め 糸を献上せしむ[5-1]。 慶雲 2(705 )年 ・5 月 7 日、天武天皇皇子/忍壁親王薨、墓誌:忍壁親 文武天皇 9 年(乙 王墓 乙巳年五月七日薨 御年四十六歳[61]。高松塚古墳。 巳) 忍壁親王(AD660-705 年)。 和銅元(708)年 ・6 月 25 日、但馬内親王/天武女 薨、47 歳(AD662-708) 元明天皇元年 墓誌:但馬内親王墓 戊申年六月二十五日 年四十七 [61]。キトラ古墳。 和銅 5(712)年 ・尾張より熱田神を勧請し、岩手大宮社を造営[社伝,60]。 神亀元(724)年 ・10 月 7 日、天皇(聖武)、紀伊国那賀郡玉垣(粉河)へ、8 じん き 聖 武天皇元年 日に海部郡玉津島(和歌浦)に行幸[5]。この時に同行した しよう む (奈良時代) 山部赤人の詩
わかのうらに しほみちくれば かたをなみ
あしへをさして たづなきわたる
[万葉集]。 神亀 2(725)年 ・(吉仲荘調月邑城ノ段)中家の始祖は筑紫国の菅原朝臣中将送須 ・菅原朝臣は野見宿禰の後裔なり[50]。素戔嗚尊(須佐之 の みのすく ね 聖 武天皇 2 年 で聖徳太子の母方の子孫。神亀 2(725)年、吉仲庄大明神(旧大歳神 男尊)の子/ 天 穂日命、これ出雲臣・土師連等の祖なり。 しよう む あまの ほ ひ (奈良時代) 社)に因縁あって来往、36 代俊良に至って平左衛門と云い、後に 天穂日命 14 世孫野見宿禰[2]。 の みのすく ね 調月入道と称した。39 代峻正(中勝助)は、高野山木食上人俗世時 ・注)菅原朝臣は天応元(781)年、土師宿禰古人らが本拠てんおう 代の娘を妻としたことから、所持していた山林、田畑、夫役、諸 の大和国添下郡菅原の地名により菅原宿禰の姓を賜り、 公事の免許を蒙るとあり、別に岡家(中家の分家)所蔵の明応 6(1497) 延 暦 9(790)年に朝臣姓を下賜された[5]もので神亀 2 えんりやく 年の文書に、峻正は高野山の最高権威者、応其上人と姻戚関係を (725)年には、まだ菅原朝臣はない。 結びてより俄に派振りを強め(中略)当時、中家の声望非常なもの あり、白亜の塁壁は南面を限り、大厦 丘 阜に屹立し、西南北一帯たい か きゆう ふ きつりつ の曠野を望み三里の遠きより其の白亜を臨むところ、いわゆる中こう や屋敷として道行く人も敬意を払えり云々と、当時の中家の隆盛を 物語っている[12,23]。中屋敷を城と呼び城ノ段の地名となる。 神亀 3(726)年 ・正月 12 日、奈良の帝(聖武天皇)、吉野より吉仲荘大歳明神(旧大 じん き (奈良時代) 歳神社)に御願あり[野口家文書,23]。 天 平 13(741)年 ・調月大歳神社、 行 基菩薩の発願により祭神社殿を現在地に遷し ・天 平 13(741)年 3 月、諸国に国分寺造営を宣下[5]。 てんぴよう ぎよう き ぼ さつ うつ てんぴよう 聖 武天皇 18 年 神宮寺を造営。神堂薬師像(井上薬師堂の本尊/七体薬師像)は行基 この頃の紀伊国衙(国庁)は田仲郷に在ったか[紀伊国分寺跡 しよう む (奈良時代) の作[野口家文書,23]。 が打田町東国分に在り]。 ・石手郷上岩出村塔ノ芝(現岩出市西国分)に金光明四いは て 天王護国寺(僧寺)、田仲郷池田村(現紀の川市東国分)に 法華滅罪寺(尼寺)を建てる。この逆説もある[60]。 天 平 17(745)年 ・9 月 21 日付け優婆塞献進文:紀伊国那名(賀)郡荒川郷戸主/日置 ・荒川郷は、今(1839 年)安楽川荘あり、その地[荒川郷] てんぴよう ひ おき 聖武天皇 22 年 造 白麻呂戸口[正倉院文書,16,25]とみえ、荒川郷の日置造白麻呂が朝 は即ち今の安楽川・麻生津・志賀野・真国・細野・鞆 みやつこしろ ま ろ 奈良時代 廷に優婆塞を献上した。・優婆塞とは三宝に帰依して五戒を受けた 淵の荘なるべし[6-1]。荒川郷は那賀郡の紀ノ川南岸の吉 男子[21]。日置 造 は高麗国人/伊利 使主の後裔なり湏 [50]。 荒川郷 仲荘を除く広大な領域を指す。 ひ おきみやつこ の初出。 天平 20(748)年 ・4 月 25 日付け書写所解:紀伊国那賀郷戸主大伴連佐 聖武天皇 25 年 伯麻呂[正倉院文書,16]とみえ、その地は国分・田中・池田 (奈良時代) ・長田の四荘なるべし[6-1]。 奈良平城宮時代 ・平城宮跡出土の木簡で「荒川郷酒米五斗」と解読[25]。・奈良時 ・天 平 神護元(765)年 10 月 13 日、天皇( 称 徳)紀伊国 もつかん あらかわごうさかまい ご と てんぴようじん ご しようとく 716-793 年 代の朝廷に荒川郷から貢ぎや人夫が送られたことを示す。 に行幸、進みて 17 日那賀郡鎌垣(粉河)の行宮に至る云 々[5-4]。 天 平 宝字 3(759) ・尼岡山尼寺旧記によれば天 平 神護の昔、 称 徳天皇が尼岡山に ・万葉集に桃の花を詠んだ詩が登場[万葉集]。 てんぴようほう じ てんぴようじん ご しようとく 年以後 尼寺(最上廃寺)を創建、南都西大寺派なり[12]。 ・天 平 神護 3(767)年 6 月 22 日、那賀郡司の日置毘登 てんぴようじん ご な か ぐん し ひ おき ひ と (称徳天皇) ・「最上廃寺跡」発掘調査の結果、飛鳥-白鳳(593-710 年)時代の寺 弟弓が紀伊国国分寺へ稲 1 万束を献上、外従 5 位下をお ゆみ 院跡と判明[県教育委員会発掘調査報告書]。 授く[5]。日置造は高句麗から渡来した一族[50]。 ひ おき 大同(806-810)年 ・大同 2(807)年 6 月 3 日、天台宗僧/最澄が熊野参詣の帰路、田仲 ・大同年中に天台宗開祖/最澄が荒川郷高野村に天台宗 だい どう だいどう たか の
中(平城天皇) 郷壇村の八幡社に八坂神社を祀る[伝教大師行状記,47,7]。桃山町段の八 高野寺を創建。山門(比叡山延 暦 寺)末寺高野寺[20]。 へいぜい だんむら たか の じ ひ えいざんえんりやく じ たか の じ 坂神社(祇園社)起源。 弘仁 7(816)年 ・稲葉家由緒書:(調月)稲葉家は孝霊天皇の末なり。大師高野山 ・弘仁 7 年 6 月 19 日、空海(後の弘法大師)は朝廷に高 こうにん こうれい こうにん 嵯峨天皇 8 年さ が 御開基の 砌 (弘仁 7 年)伊豫國司越智守繁、紀州那賀判官を任綬。 野山を修禅道場として下賜を請い、弘仁 9 年にかけてみぎり お ち もりしげ (平安時代) それより以来荒河・調月両荘に給領あり。美福門院の時、荒河東 金剛峯寺を開創[29]。 あらかわ つかつき 島百廿貫、調月南島百貫の所領券を給う(中略)。稲葉大善大夫道 輝より稲葉藤蔵通 諄 迄 6 代、高野山の荘園(吉仲荘調月)に居し云いな ば とうぞうつうじゆん 々[23]。 吉仲荘調月村稲葉の起源。 弘仁 10(819)年 ・弘法大師(空海)、當村(細野村)を巡歴、勝谷に井戸を掘りて庶民 嵯峨天皇 11 年 の爲を図る[伝承,49]。 弘仁 14(823)年 ・田仲郷段村は荒川団(壇)と云い大伴氏(名不詳)が兵士の武芸を講 ・大伴宿禰は高皇産霊尊 5 世孫/天押日命の後也[48]。 こうにん おおとも たか み む すひ 淳和天皇元年 じた処であったが藤原氏の勢力に圧され 淳 和天皇の諱/大伴親王 ・荒川団(壇)は紀ノ川の川原に在った嶋。じゆん な (平安時代) を避けて伴宿禰に改めた[12 上]。 ともすく ね 天長年間 ・空海が祇園社(段村)にて護摩を焚き、法華経の一字一石塔を築 (824-834 年) く[8]。妙法壇の起こり。 貞 観 3(861)年 ・7 月 2 日、朝廷が紀伊国正六位上御 船 神(神田三船神社の古宮) ・(三船神は)里人伝え云うに、当社は古くは黒川村に じようがん み ふねのかみ (清和天皇) に従五位下を授く[32]。 あり。後に秘文の瀧東十町(約 1.1 ㎞)余り高野村領の宮 せい わ たか の (平安時代) と云う処に移し、それより古宮に移す。天正(1573-1592) 年中に應其上人が再建のとき今の地に移すおう ご [6]。 元慶 3(879)年 ・2 月 22 日、池田村塔ノ芝(現西国分)の金光明寺(国分 (平安時代) 僧寺)、火災で堂塔・坊舎悉く灰燼となる[32,60]。 延 長 5( 927) 年 ・延喜典薬式に「紀伊國桃仁一斗」とある。桃仁は桃の種子[21]。 えん ちよう えん ぎ てんやくしき き いのくにとうにんいち と とうにん (平安時代) 紀伊国から毎年桃仁一斗の献上を義務づけられたとみえる。とうにん 延 長 7(929)年 ・野田原村の村名は延 長 七(929)年の高野山所蔵の文書にみえる ・紀伊続風土記の安楽川荘野田原村に「當村、古くは えんちよう えんちよう
(醍醐天皇) [6]。 野田原村の初出。荒川荘野田原村と薄木大明神 野田八郎と云う者の領せし地と云う[6]」とあるが、古 だい ご (平安時代) ・野田原の下司(代)平野八郎範景[13]あり、野田原八郎とも名乗り、 文書には野田八郎の名は見えず、「平野八郎」の誤記と ひら の はちろうのりかげ 「平野の田原」が訛って野田原となったか。野田原の地名由来 みられる。 承 平 年 間 ( 931- ・ 承 平年間に編纂の和漢辞書「和 名 類 聚 抄 」[21]の地名に荒川 じよう へい じようへい わ みようるいじゆうしよう 937 年 朱 雀 天 皇 郷とある。紀伊國第百十九の奈我郡は、神戸・石手・稿門・奈我 す ざ く な が かん べ いは て ふけ と な が 時代) ・荒川・山崎・埴崎の七郷がみえる[倭名類聚抄,延喜式,34]。吉仲荘は埴 はねさき (平安時代) 崎郷に属す[6,12,19]。 ・ 貞 元 2(977)年、細野荘垣内の丹生神社に大日堂を合せ神宮寺とじようげん なす[49,8]。 永観元(983)年 ・高野山金剛峯寺に初めて検校を置く[11-7,34]。 えいかん 正暦 5(994)年 ・秋 7 月 6 日、迅雷が高野山大塔を震わせ忽ち炎上す (平安時代) る。独り御影堂を残すだけとなった。後に金剛峯寺座 主/寛朝に達して伽藍再営の官助(国の援助)を乞い奉る。 まだ果たしていない。兼ねて東三条院に願い出て天野 の神宮院/山王堂曼荼羅院を修造し、さらに僧坊六宇を 創造する。検校坊、及び山籠僧の隠息の所とする。諸 堂社の法式を勤仕する。そのため、雅真師を天野検校 と号する。順延(順番に)別当(統括者)として有識の僧衆 が順役で高野山へ登り止住して法式を勤める。これを 参籠衆僧と号す。その依怙料(拠り所)として六箇七郷 を天野宮に寄付された。所謂天野・花坂・志賀・四村 ・教良寺・山崎村である。天野丹生明神社領志賀郷が 成立。 寛弘元(1004)年 ・9 月 25 日付け太政官符案:中納言/平惟仲領紀伊国 (平安時代) 在田郡石垣荘の庄司等が高野山領志賀郷を横領した[平 安遺文,17,63]。
寛弘 5(1008)年 ・10 月 27 日付け金剛峯寺帖案:白河寺の使者、及び (平安時代) 左大臣/藤原道長の使者が、寺領志賀郷などに乱入した ので、金剛峯寺が紀伊国伊都郡の郡司に寺領への妨げ を停止させるよう訴える[平安遺文,17,紀伊国阿 河荘史料 2,63]氐 。 嘉 承 2(1107)年か じよう ・1 月 25 日付け官宣旨:紀伊国在庁官人らが去年 (平安時代) (1106 年) 12 月の報告に云う、紀伊国 7 箇郡のうち名 草郡を除く牟婁・日高・在田・那賀・伊都 6 箇郡にい たっては、毎郡 10 分の 8 はすでに荘領となり、公地は 幾ばくもない[11-4,13,34]。 白河院政時代 ・荒河刀弁の後胤・荒川 兵 衛 尉 俊尊は白河院時代に荒川荘下司 しらかわ あらかわ と べ こういん あらかわひようえのじようとしたか げ す (寛治元(1087)年 職となる[平野家文書 23]。 か ん じ しき -嘉保元(1095)年)か ほう 寛治 4(1090)年 ・正月 22 日、「後白河法皇、熊野社詣の時、根来寺傳法院より調 ・寛治 4(1090)年 1 月 22 日、白河上皇が熊野参詣に出 (平安時代) 月大歳神社に臨幸あり、平清盛も熊野社参りの下向途上、当社に 発し寛治 5 年 2 月 17 日、高野山に参詣する[44]。・後白 参拝され所蔵の古文書を閲覧された由」[19,23]。 河天皇はまだ即位していない。白河法皇の誤り。また ・白河上皇、熊野参詣の折、根來寺、及び粉河寺に臨幸[60]。 根来寺傳法院は大治元(1126)年創建、まだない。 だい じ 治安(1021 年)以 ・吉仲荘(調月村、丸栖村)は中古まで唐橋法院の領地で治安 2(1022)ぢ あん からはしほういん ぢ あん 降(後一 条 天皇) 年以降は法 性 寺殿下(関白/藤原忠通)の領となる[19,24]。 ご いちじよう ほつしよう じ (平安時代) 法性寺領吉仲荘。 承 徳 3(1099)年 ・1 月 24 日、南海地震(康和南海地震)-M8.0 ~ 8.5、死 じようとく (平安時代) 者数万と推定。土佐で津波により大きな被害。 ・5 月 12 日、荘園の新設を禁止する(康和の荘園整理 令)[44]。 康和元(1099)年 ・(荒川荘公文奥氏の先祖は)源満仲(清和天皇の子孫)の弟/満季の ・承徳 3(1099)年 8 月 28 日、「康和」に改元[21]。 こう わ みつすえ (平安時代) 子孫/源義盛が陸奥國に住み陸奥三郎と称したが康和元(1099)年にこう わ 奥に改姓[奥氏系図 23,34,]。
嘉 承 2(1107)年か じよう ・1 月 25 日付け、紀伊国在庁官人らが去年(嘉 承 元か じよう (鳥羽天皇 5 歳・ (1106)年 12 月の報告に云う、紀伊国 7 郡のうち名草郡 白河院政時代) を除く牟婁・日高・海部・在田・那賀・伊都 6 郡に至 (平安時代) っては 10 分の 8、9 はすでに荘園となり公地は幾ばく も無い[11,13,20]。 ・12 月 21 日、紀伊守/紀宿禰龍興と紀宿禰高継が対立 し紀伊国内が大いに騒乱する。紀伊国守(国司)の館は 伊都郡名古曽の丘(高野口町名古曽)に在った[13]。 永久 2(1114)年 ・12 月、僧/覚鑁(20 歳)、京都仁和寺から高野山へ來住 (平安時代) する[11-8,13]。 大治 4(1129)年 ・5 月、平等院大僧正( 行 尊)が荒川郷を荘園として立券、鳥羽上 ・大治元(1126)年、覚鑁が石手村根来に伝法院を創建 だい じ ぎようそん だい じ (鳥羽院政) 皇に寄進[11-3,34]。鳥羽院領荒川荘が成立。 し鎮守として大宮に三部権現を祀る[根来要書上・37-7・平安遺 と ば (平安時代) ・10 月 5 日、鳥羽院庁下文:紀伊国司宛、使者と共に本券に任せ 文 2081 号・13,34,8]。 て那賀郡荒川荘の四至(四方の境界)榜示を早く打ち定めよ[高野山御影 ・ 透 谷は調月の丸山と奥殿山の谷、また牛景渕及び多 とうしたに 堂文書 20]。荒川荘の四至、東は檜峯及び黒川を限り、南は高原及び 陀渕は調月城ノ段の田地の字名に残る[6]。牛景渕・多 多須木峯(襷峠)を限り、西は尼岡中心及び 透 谷を限り、北は牛景 陀渕は当時紀ノ川・貴志川・石榴川の合流点で今の添とうしたに 渕及び多陀渕南の古溝を限る[11]。 田集落の辺りとみられる。 大治 5(1130)年 ・12 月、鳥羽上皇と中宮/藤原得子が熊野へ参詣する。 だい じ (平安時代) 藤原得子が源師時に山伏の装束を指示する[源師時の日記/長 秋記・史料大成]。 長 承 3(1134)年 ・鳥羽院の御宇、御使としての左官掌/奥盛弘が在庁官人(紀伊国 ・5 月 8 日、覚鑁上人の訴えにより金剛峯寺座主に高 ちようしよう (平安時代) 衙の地方役人)らを率いて現場に臨み、往古公験(公の験証)の旨に 野山住山の人を付けられる。よって鳥羽上皇の院宣が 従 い 荒川 荘 の 四 至 ( 四方 の 境 界 ) を堺 し 榜 示 (領 域 杭) を 打っ た 下され、東寺長者の高野山管領(管理支配)を止め、高 [11-1,37,20]。 野山止住の真誉(持明房)が金剛峯寺座主職に補される。 覚鑁の弟/信恵が金剛峯寺執行となる。・12 月 22 日、 覚鑁上人が鳥羽上皇の院宣を賜り金剛峯寺と大伝法院
の両座主となる。・12 月 23 日、検校(坂上)良禅を追放 し、覚鑁の弟/信恵(曜光房)が高野山検校に就任。金剛 峯寺大衆が 周 章 (慌てふためく)する[11,13,20]。 しゆうしよう 保延元(1135)年 ・12 月 29 日、鳥羽院使佐 伯 国忠が荒川荘の検注結果を報告、田 ・黒川村・脇谷村・高野村・五百谷の初出。 ほうえん さ えきのくにただ (鳥羽院政) 地三十六町九反三百十歩、うち現作(耕作田)三十二町七反百歩、荒 ・黒川の名、山間 狭 隘にして暗谷川と云う意味なり[6]。 こう きようあい くらたにがわ (平安時代) (休耕田)四町二反二百十歩、桑二千九百三十六本。在家三十一宇(軒)ざい け 黒川村の地名由来。 [11]。これには黒川・伊於谷(五百谷)・野太原(野田原)・脇谷・高野 ・脇谷村は野田原の脇の谷から名付く[6]。脇谷村の地 い を たに い を だに の た はら わきだに たか の 寺三昧供 料 を含むが、下司の平野氏や公文/奥氏の所領分は免許じ さんまい ぐ りよう 名由来。 地として除外されている。広い荒川荘に在家ざい け(民家)は僅か 31 軒。 ・鳥羽院庁牒(通達):荒川荘を高野山領に立券させる[平安遺文 2236 号 ,34]。 保延 6(1139)年 ・12 月 8 日未明、金剛峯寺派が大伝法院・密権院を襲 ほうえん (平安時代) 撃、高野山僧覚鑁、根來に下山[11,13,60]。 かくばん 康治元(1142)年 12 月 12 日、藤原摂関家(京都法成寺)領吉仲荘の下司/ 平 實綱が ・覚鑁上人、岩出大宮に三部権現を勧請[60]。 こう じ たいらのさねつな (平安時代) 藤原氏の熊野参詣にあたり菓子等を送り届ける[兵範記・平安遺文 2490 号 ,34]。 康治 2(1143)年 ・吉仲荘は仁平 3(1153)年以前 10 年間、平信範の知行であったが、 ・ 平 信範:平安時代末期の公卿。桓武平氏高棟王流、たいらののぶのり (平安時代) 藤原頼長(平安後期の公卿。左大臣)によって知行を停止され藤原 兵 部 大 輔/平知信の三男[21]。 ひよう ぶ おほいすけ 爲親の知行となった[兵範記・平安遺文,63]。 12 月 12 日、覚鑁上人が那賀郡石手莊(岩出)根来寺円明 平信範領吉仲荘。藤原爲親領吉仲荘。 院で死去。行年四十九[11-7]。 久 安 3(1147)年 ・荒川藤蔵俊春は鳥羽院時代に北面(武士)仰せ付られ河内国平野 ・ 久 安 6(1150)年、仁 平 元(1151)年、同 2 年、鳥羽上 きゆうあん あらかわとうぞうとしはる きゆうあん にんぴよう (鳥羽院政) 荘を給り平野周防守と改め、 久 安三(1147)年、平野右衞門尉従五 皇と美福門院、熊野に御幸[8]。 きゆうあん (平安時代) 位となり美福門院の朝臣となる[37-7,23]。 久 安 5(1149)年 ・4 月 5 日、御室御所(仁和寺宮)が和泉国新家莊から宿をでて尾山 ・8 月 3 日、鳥羽上皇の后(藤原得子)に院号の宣下あり、 きゆうあん (平安時代) 峠を越え那賀郡小倉荘埴崎にて船に乗る。仁和寺領那賀郡貴志荘 美福門院の号を賜る[11-7,31,34]。 莊司/友兼(藤原魚名の後裔)がこの所で昼膳を用意する。紀ノ川南 ・藤原得子は鳥羽天皇の女御となり、保延 5(1139)年、
の荒川荘のほとりで荒川荘莊司の僧が仮屋を建て、破子(折弁当) 体仁親王を生む。永治元(1141)年、近衛天皇(3 歳)にしわり ご なりひと などを用意する。しばらく船を留めやがて貴志荘莊司/友兼が用意 て即位、久安 5(1149)年、得子が美福門院の号を賜る[奥 する粉河寺領の宿に至る[御室御所高野山参籠日記・11-4,34]。 家文書・37]。 ・5 月 12 日、高野山大塔に落雷があり金堂や潅頂堂などが焼失す ・この年、藤原得子(鳥羽天皇女御・父/藤原長実(左大 る。高野山大塔に再び落雷、金堂・灌頂堂に炎上、悉く灰爐とな 臣)、母/源俊房(左大臣)娘)が美福門院の号を賜る[奥家文 るも御影堂は炎上を免れる[6]。 書,12,34]。 ・7 月 9 日、播磨守/平忠盛(清盛の父)が成功(資材献上)し高野山根 ・11 月、美福門院と暲子内親王が熊野に参詣する[本朝 本大塔を補修・造営し始める[11,13]。 世紀・兵範記,37」。 仁 平 元(1151)年 仁 平 元年 4 月 8 日付け吉仲荘の下司/平実綱書状:久安六(1150)年 ・久安 7(1151)年 1 月 26 日、「仁平」に改元[21]。 にんぴよう にんぴよう (平安時代) 秋の風水害により百姓は窮状にあるが吉仲荘の負担軽減がなかっ ・この頃、吉仲荘荘官に 平 實綱が美福門院によってたいらのさねつな た[兵範記・平安遺文,34]。 配されたと云う[8]。 ・調月では 平 實綱[11]を土居 長 者と呼び、山人平に たいらのさねつな ど いのちようじや 豪邸を構え息子が京都から嫁を迎えたと伝承[8]され土 ど 居藪が今も残る。い やぶ 仁 平 3(1153)年 ・10 月 28 日条:法 成 寺御 領 紀伊国吉 仲 荘 は 40 年間にわたっ ・法成寺は摂政関白/藤原道長が出家後、寛仁 4(1020) にんぴよう ほうじよう じ ご りよう よしなかのしよう かんにん (鳥羽院政) て藤原爲親が知行したが、仁平三年、藤原頼長によって停止され、 年から建てた寺院[21]。 (平安時代) 再び藤原爲親の知行となった[兵範記,平安遺文,20]。 この当時の吉仲荘は法成寺領(藤原道長)。 保元元(1156)年 ・荒川荘の平野右衞門尉は保元元(1156)年、荒川へ罷り帰る。以 ・6 月 12 日、美福門院は法皇の 病 臥する鳥羽安楽寿 ほうげん ほうげん まか びよう が (鳥羽院政) 来代々荒川荘の下司職。14 代平野弾正左衛門俊光の弟/刑部俊明 院にて落飾[31]。 (平安時代) は津田に改姓[23,34]。 ・7 月 2 日、鳥羽法皇、崩御(54 歳)[31]。 ほうぎよ ・下司平野氏本家は代々、加和村に住む[20], [加和村に屋敷跡]。 ・7 月 5 日、皇位継承を巡って保元の乱が勃発[31]。 ・荒川荘の奥盛弘、保元元年より代々荒川(小林村)に住す。代々 ・保元元(1156)年、美福門院、剃髪して真性尼と号しほうげん ほうげん 公文職[20,23,最上小林に奥家屋敷]。 奥盛弘唯一人を召して荒川荘に隠棲、小林に尼岡御所 を建てる[奥家文書,37-7,34]と、美福門院が荒川に来たとする
奥家文書は贋作。しかも創作は江戸時代と判明。 平治元(1159)年 ・5 月 28 日付け後白河院庁下文:院庁が荒川荘官らに下す。早く 9 月、金剛峯寺政所下文:荒川荘官に下す。非理の古 へい じ ( 二 条 天 皇 ・後 鳥羽院使/(奥)盛弘による長承 3(1134)年の註文(報告)に従って田仲 券を捧げ訴訟を権門に寄せ、或いは臨時の沙汰に触れに じよう けんもん 白河院政) 荘・吉仲荘との相論を停止せねばならない当(荒川)荘四至内の領 強縁(権力者との縁故)を京都に取る輩は美福門院の令ごうえん (平安時代) 地のこと[岡家文書・11]。藤原摂関家領田中荘の領所/舎人/藤原仲清と 旨に背き高野山(検校)を蔑如(軽蔑)する者である[11-1,34]。 べつじよ ともに吉仲荘の荘官が荒川荘と境界争いを起こした[51]。 ・荒川荘大衆(定め)置文:強縁を京都(東寺長者)に取る ・5 月 28 日付け後白河院庁下文:紀伊国荒川荘を美福門院領とす ことを停止する[11-1,34]。 る(中略)。荒川荘の四至は東は桧峯並に黒川を限り、南は高原並 ・12 月 9 日、後白河院の近臣らの対立から三条殿およひのみね たこ ら に多須木峯を限り、西は尼岡中心並に 透 谷を限り、北は牛景渕並 び信西邸を焼き討ち、平治の乱が勃発[31]。 た す き みね あむ か とうしたに うしかげぶち しんぜい に 純 陀渕南の古溝を限る。太宰大弐/平朝臣(清盛)等 30 人連署 ・「じゆん だ ぶち 幻の美福門院荒川荘隠棲説話」 [11-1,13,20]。多須木峯は現在の 襷 峠 、牛景渕/ 純 陀渕は当時紀ノ川 ・日付不明、中納言御教書(命令書):荒川荘の検注は た す き みね たすきとうげ うしかげぶち じゆん だ ぶち と石榴川・貴志川合流点の南岸の渕とみられる。牛景渕・ 純 陀渕 まだ終わらないか。石清水八幡宮寺領鞆淵荘が荒川荘うしかげぶち じゆん だ ぶち は調月城ノ壇の田地の字に残る[6]。高島東の石榴川北岸に 鯰 ノ閨 に押入ったと特に訴え申しているが事情を詳しく報告 なまず ねや の字名あり[現状]。 せよ[11-1,34]。 ・7 月 17 日付け美福門院令旨:故鳥羽上皇の冥福を祈るため荒川 荘を金剛峯寺に寄進する。その年貢を以て故鳥羽法皇の菩提に資 す[11-1,11-7,20]。金剛峯寺領荒川荘。 ・8 月 3 日付け美福門院令旨:荒川荘を検注せよ[11-1,34]。 ・8 月 27 日付け美福門院令旨:荒川荘の検注はまだ終わらない か。石清水八幡宮寺領鞆淵荘が荒川荘に押入るとの訴えがある [11-1,34]。 ・11 月 3 日付け美福門院令旨:荒川荘へ条々(12 カ条)を下す。荒 川荘内高野寺三昧田のこと、本免であり改易(没収)してはならぬ。 給田 5 町・畠 10 町を副え給すること。年貢の献納を間す桝の事は 増減せずそのまま高野山の例に従うこと[11-1,6-3,34]。 永 暦 元(1160)年 ・2 月 19 日付け美福門院令旨:日吉大社大行事彼岸所(延暦寺)末 ・11 月 23 日、(もと荒川荘の領主)美福門院、京都白河 えいりやく
(二条天皇) 寺の荒川荘内高野寺は本免 6 反ある[11-1,6,13,34]。 の金剛勝院御所(白河押小路殿)にて薨去、御年 44 歳。 こうきよ (平安時代) ・10 月 7 日付け藤原親隆奉書:荒川荘への両度の熊野詣で課役は 遺骸は鳥羽東殿(安楽寿院)にて荼毘にふされ、遺言にい がい だ び しばらく中止とする[11]。 より弟の藤原時通らによって高野山に運ばれ納骨[31]。 ・10 月 20 日付け前太政大臣(藤原忠通)家政所下文:田仲荘藤原仲 ・11 月 23 日、美福門院が死去する。遺骸を荒川荘大 清らの荒川荘への押妨を停止させよ[11,岡家文書,34]。 明山/福王寺境内に葬送する[奥家文書・12]。 ・10 月 22 日付け関白(藤原基家)家御教書:田仲荘に妨げを致され ・永 暦 元(1160 年)庚辰の十一月廿三日、門院が薨御、えいりやく こうぎよ ると荒川荘が訴え申す。関白殿下政所の下文はこの通り。御気色(命 御壽四十四歳、即御尊骸は庄内寺田に 葬 奉 る。奥け しき ご そんがい ほうむりたてまつ 令)により言上この通り。藤原親隆宛、右少弁/平時忠奉書[11]。 盛弘、御墓の印に椳( 槐 )の木一株を植え置き之、薨 ゑんじゆ ・10 月 23 日、美福門院庁令旨:田仲荘から荒川荘への押妨を停 御の時、御仕えの官女、哀れみて詠む哥(歌)三首(後略)[奥 止させよ[11-1,34]。田仲荘の舎人藤 原 仲清らが荒川荘の領土を横領 家 文 書 ・ 37] 。 荒 川 荘 公 文 /奥 盛 弘 の 要 請 で ふじわらのなかきよ しようとする。 荒川の御墓に分骨を納めたか[御墓は現存]。 永 暦 2(1161)年 ・4 月 29 日付け東寺長者下文:荒川荘の堺相論のこと、早く具に ・11 月、荒川荘の尼岡御所を寺とし修禅尼寺と称する えいりやく (二条天皇) 連署を書き進めると上奏した。高野山寺領名手本荘の所司が庁番 [奥家文書・37,12,34]。 (平安時代) を催促して田仲荘と合戦に及ぼうとするは、あってはならぬ。田 仲荘を焼き討ちしようと支度のこと、国司/源爲長を奉じれば高野 山の一大事となる。田仲荘を焼き討ちしようとはけしからぬ次第。 このような狼藉を停止すること[11-1,34]。 ・永 暦 2(1161)年 9 月 4 日、「応保」に改元[21]。 えいりやく 応 保 元 ( 1161) 年 ・11 月、東寺挙状(上申書)案:紀伊国司/源爲長らが荒川荘へ軍兵 おう ほう (二条天皇) にて乱入する。田仲荘舎人/藤原仲清が国司/源爲長・目代/爲貞・ (平安時代) 在庁官人/成実らと語らい荒川荘へ乱入し群侶が地方へ去る[11-8,34]。 応保 2(1162)年 ・10 月 24 日付け東寺長者別当/隆憲書状:何事であるか、荒川荘 ・11 月付け東寺挙状(上申書)案:金剛峯寺の解状(上申) おうほう (二条天皇) 公文/奥光盛が京都に常住し代官に公務を沙汰させていると云う。 に任せ荒川荘の訴える 2 箇条の裁断を請う。一つは憲 (平安時代) 芳心(心入替え)させよ。荒川荘下司/平野光時は高野山の寺命に従 法に任せ、紀伊国司/源爲長、及び目代/爲貞、在庁官 わない[11-7,34]。 人/成実らの罪科を裁断されたいこと。二つは田仲荘・ ・11 月、禅定殿下(藤原忠實)領田仲荘の舎人藤 原 仲清が鞆淵荘・ 吉仲荘・鞆淵荘の非理の妨げを停止し元の通り荒川荘ふじわらのなかきよ 吉仲荘の荘官らと共謀、荒川荘の荘田を割取る[11-8,34]。 四至の榜示を打ち定められたいこと[11-8,34]。 さき と
応保 3(1163)年 ・3 月 29 日、「長寛」に改元。 長 寛元(1163)年 ・4 月 8 日付け東寺長者御教書(命令状):荒川荘下司/平野光時が ・6 月 3 日、紀伊国司 源 爲長が麻生津保(公領)を高 ちようかん みなもとのためなが お う つの ほ (二条天皇) 検校の所務に従わない。前々に光時が下司職を高野山検校に願い 野山へ寄進した。これは去々月、荒川荘を焼払った過 料か りよう (平安時代) 出たが許容されないため上京して東寺長者から直接下司職に補任 (罰金)である[13,34]。 された。しかし荒川荘は東寺長者の支配地でなく一向に高野山検 ・田仲荘に高野村あり、古くは安楽川(荒川)に属す[6]。 たか の 校が支配する地である。東寺長者/大宮法眼任祐が下司/平野光時 ・7 月 3 日付け前太政大臣/藤原忠通家政所下文:荒川 に下文を遣わし、東寺長者が補任した下司職を召し返し(高野山) 荘と吉仲荘が境界相論あるが高野山の意向に従い検注 検校の憤りを止める。高野山検校宛[11-1,34]。 に制止を加えてはならぬ[岡秀行家文書・県史中世 1,34]。 ・4 月 8 日、田仲荘の舎人藤 原 仲清親子や住民らが美福門院の薨 ・7 月 4 日付け左京権大夫/平信範書状:荒川荘と松殿ふじわらのなかきよ こう ご ん の か み 去を知り荒川荘に押し入り紀伊国司 源 爲長と共謀、人家を焼き 関白/藤原良基領吉仲荘とが境界を相論すること、事情 きよ みなもとのためなが 領土を横領[13,20]。藤 原 仲清は西行法師(佐藤義清)の兄[34]。 を言上し政所から下文が出された。吉仲荘の下司/平實 ふじわらのなかきよ のりきよ ・最初が峰百合山の竹房・高野・五百谷が田仲荘の飛び地となる。綱も承知すること[11-1,34]。 ・最初ケ峰は一望景色良く、本来は最 勝 の峰なり[6]。最初が峰の ・7 月 25 日付け関白(藤原良基)家政所下文:吉仲荘の さいしよう 由来。 住人が荒川荘の田畠作物を刈り取る濫行を止めること ・4 月 8 日、田仲荘民らが美福門院の崩去を知り、荒川荘制止の [11-1,34]。 村士を打ち破ろうとする。荒川荘の兵火は田仲・吉仲両荘民が紀 7 月 25 日付け左京権大夫/平信範書状:京都東寺長者ご ん の か み 伊国司/源爲長と語らい、山論の仇に報いる爲と云う。よって、高 宛:荒川荘と吉仲荘との境界のこと、高野山のことは 野山の兵士/下司平野光時ら大勢にて田仲荘の民家を焼き払い合戦 深く帰伏しているから決して疎略には考えていない を挑む。大宮法眼任祐が羽書(速達書状)を届けて制止する。依っ [11-1,34]。 う しよ て高野山方の軍催を止む。しかし田仲荘民が荒川荘に乱入、民家 を焼く[13,34]。 ・4 月 27 日付け東寺長者下文(継祐奉書):荒川荘の境界相論のこ と。この事は朝廷へ上申している。田仲荘を焼き払う支度をして いるのは高野山にとって一大事となる。持明院少将らで狼藉を止す け めるよう指示せよとの仰せである[11-1,34]。 長 寛 2(1164)年 ・7 月付け荒川荘在家、田畠支配状:金剛峯寺が検校ら 144 人の ちよう かん
(二条天皇) 寺僧に荒川荘の在家・田畠を配分する。検校が支配する在家は 20 (平安時代) 宇、田地 5 反、綿 20 両とする[11-8,34]。 長寛 3(1165)年 ・6 月 5 日、「永万」に改元[21]。 長寛 4(1166)年 ・8 月 25 日、「仁安」改元。 仁安 4(1169)年 ・4 月 8 日、「嘉応」に改元[21]。 嘉応元(1169)年か おう ・4 月 3 日付け美福門院庁下文:田仲荘に下す。荒川荘四至内山し し ない (注):荒川荘の北限はもとは紀ノ川であったが高野路こう や みち (高倉天皇)たかくら のこと。東は檜橋峯、南は雨山、西は尼岡、北は高野路。この界 (神田から黒川、高野山に至る路)以北、竹房・高野・ひ ばしみね こう や みち (平安時代) 内に他領の者は用入を停止させよとの院宣である[11-1・13,34]。 五百谷は田仲荘になったことを示す。 ・10 月 18 日付け阿保行宗田地/荒野譲状:荒川荘野田原村の田地、・武家社会では[元服加冠の式]と称し、今で云う成人 及び荒野 1 所を阿保守貞へ烏帽子子(元服子)となるにより永代に 式で、満 15 歳になると烏帽子を被せられる男子を烏帽 わたり譲与する[11-5,34]。阿保姓をもつ人物がこの時代に野田原村 子児と云い、その親を烏帽子親と称した。元服式のと に住む武士化した有力名主(地主)とみられる[20]。・阿保朝臣は 11 き幼名を改め、烏帽子親が自分の名前の一部を与えて 代垂仁天皇の皇子/息速別命の後裔。天平宝字 8(764)年、朝臣姓を 付けるのが烏帽子名である[60]。 賜う[50]とみえ、阿保行宗はその一族とみられる。 嘉応 2(1170)年か おう ・9 月 11 日付け後白河上皇院宣:荒川荘 20 町、加納(付属地)28 (高倉天皇)たかくら 町余に対して造日前国懸宮役を課すことを八条院(後白河上皇の妹 (平安時代) /暲子内親王)に申したところ荒川荘を美福門院が高野山に寄進以 後は一切承知していないと申している[11-1・13,34]。 嘉応 3(1171)年 ・4 月 21 日、「承安」に改元[21]。 承安 5(1175)年) ・7 月 28 日、「安元」に改元[21]。 安元 3(1177)年 ・8 月 4 日、「治承」に改元[21]。 治承元(1177)年 ・治承元年、俊寛(平安末期の真言宗の僧。後白河院の (平安時代) 近臣)が、藤原成親らと鹿ケ谷の山荘で後白河院を擁し、 平氏討伐の謀議を企て発覚し鬼界ケ島に流される。翌
年の大赦にも俊寛だけは許されず、島に残された[21]。 ・謡曲「俊寛(?-1180 年頃)」。藤原成親(39 歳)は備前に 配流の途、殺された[21]。 治承 2(1178)年 ・9 月 11 日、八条院が後白河上皇の院宣を東寺長者に伝える。荒 ・12 月 26 日、日置助盛が荒川荘内の田地 1 反を米 5ひ おきすけもり (平安時代) 川荘の田畠 20 町、及び加納 28 町余に対する日前國懸宮の修造役 石にて智観房へ売る[11-3,34]。 は免除される[13,34]。 ・12 月 5 日付け藤原中納言(顕頼)家御教書:造日前國懸使/野 庁や ちよう 頭 宛:荒川荘は八条院領である。ところが日前國懸宮修造の林木 のかみ を負担させるため官使が荒川荘に乱入すると云う、停止させるこ と[11-5,11-7]。 治承 3(1179)年 ・4 月 15 日付け僧/浄昭田地去渡状:渡す。紀伊国伊都郡志賀郷内くるみ谷の名分内田のこと。字は火口古川、合わせて (平安時代) 半(180 歩)。四至は東の溝を限り、南の溝を限り、西の明白を限り、北の大河を限る。一区画の田六十歩、四至は明白であ る。合わせて三百四十歩は寺の免田(租税免除の田)である。西垣内の溝の北百歩、並びの小(120 歩)、牛鋤の定め。有井田 一反、及び屋敷、四至は東の縄手(正作地主の直営田)を限り、西の谷を限り、北の大河を限る。合わせて四箇所。右の所 は僧/浄昭が相伝してきた所であるが、僧/能陣に渡す。その事情は三郎の許文(証文)を阿 河北の庄司殿から僧/能陣に給わ氐 って浄昭に給う所の替わりである。後日の沙汰の爲、本券に類地あることから新券文を放つ状、この通り。下司/大法師(花 押)、三郎女の嫡女の嫡男/国 万歳(筆軸印)覔 [美里町長谷宮中家文書,37-県史中世史料 2,,63]。 ・閏 7 月 29 日(1179 年 9 月 2 日) 、平清盛の長男/平重 盛が病死。享年 42。 ・11 月、平清盛の武力的奇襲(クーデター)で後白河法 皇の院政を停止(鳥羽離宮に幽閉)、摂政/基房は解任さ れる。代わりに清盛の娘婿の近衛基通が摂政に就任。 後白河院近臣の多くが解官される。治承三年の政変[44]。 治 承 4(1180)年 ・4 月 16 日付け奉行職事/藤原行隆書状:藤原摂関家領田中荘の ・12 月、高倉院庁下文:鳥羽院および一院庁の御下文じ しよう
(鎌倉時代) 佐藤能清(西行の甥)が荒川荘を狼藉する[11-1,11-5,34]。 に任せ田仲吉仲両庄による荒川荘北堺への妨げを早く ・4 月 19 日付け左少弁/藤原行隆奉書:源平合戦に際して寺門が 停止させよ[11-3,34]。 以仁王(後白河天皇の皇子)の令旨に応じ源氏に加担した爲、平氏 ・治 承 4(1180)年、源頼政・頼朝の挙兵によって戦乱じ しよう により荒川荘が没収地とされ平宗盛(清盛 3 男)から沙汰される が拡大、富士川合戦・倶利伽羅峠の合戦・一ノ谷合戦 [11-1]。 などを経て、寿永 4(1185)年、壇ノ浦の合戦で平氏は滅 ・5 月 13 日付け僧/ 良 琳 請文案:田仲荘と荒川荘との争いの時、 亡、鎌倉幕府が樹立される。りようりん うけぶみ 源平合戦。源頼朝が鎌倉 氐 良 琳が在田郡阿 河荘(現清水町)の沙汰のため住京していたとこ に政権を樹立、鎌倉幕府の時代となる。 りようりん ろ田仲・荒川両荘から相論があった。荒川荘解(上申)、平宗盛申 ・注)寿永二(1183)年の頼朝に東国行政権が公認された 文案、佐藤能清方の申し出による関白下文案の 3 通を進覧する 時期、また文治元(1185)年、守護/地頭設置の時期とす [11-3,34]。 るなどの諸説がある[21]。 治 承 5(1181)年 ・1 月 20 日付け左少弁(藤原行隆)奉書:荒川荘のことは道理に任 ・治 承 5(1181)年 7 月 14 日、「養和」に改元[21]。源平 じ しよう じ しよう (鎌倉時代) せて沙汰せよとの平能宗(宗盛次男)の沙汰である[11-1,34]。 争乱の時代で、源頼朝の源氏方ではこの年号を用いず よしむね 引き続き治承を使用した[21]。 養和元(1181)年 ・2 月 8 日付け平能宗(宗盛次男)奉書:荒川荘のこと、実に神妙の ・養和元(1181)年 9 月付け荒川荘田畠坪付(調査)註文: よう わ よしむね けな げ よう わ つぼつけ 由である。左少弁(藤原行隆)の許に申し遣わすこと[11-1,34]。 1 所 1 反 180 歩は上野村にあり(高野山)持明坊が開発し ・4 月 25 日付け高野山衆徒言上状案:平宗盛宛:田仲荘の佐藤能 た[高野山宝寿院文書・34]。 清及び郎従(家来)長明による荒川荘への乱妨がある[11-5,34]。 寿永 4(1185)年 ・秋、源平戦に敗れし平維盛が小松弥助と変名し、僅かな従者と ・寿永 3(1184)年 4 月 16 日、「元暦」に改元[21]。 (元暦 2 年?) 共に落人として有田郡保田に落ち行く途中、(細野荘の) 窟 にて暫いわや く憩いしたと伝える。今も四郷の小字に小松と云う岩窟広大にし て頗る峻険なり[49]。 元暦 2(1185)年 ・8 月 14 日、「文治」に改元[21]。 文治元(1185)年 ・12 月 15 日付け北条時政請文:高野山領には兵粮米を免除する ・1 月 28 日、源頼朝が後鳥羽天皇から守護・地頭の設 ぶん ち (後鳥羽天皇) [11-1,34]。 置、及び 兵 粮米(兵乱の際、武士に与えるために諸国 ひようろうまい
(鎌倉時代) に割り当て徴発する米[21])徴収の勅許を得る [吾妻鏡,6-1,12-上,34]。 ・文治元(1185)年 1 月 28 日、 源 頼朝がぶん ち みなもとのよりとも 紀伊国守護 に佐原義連を補任する[6,12]。 よしつら ・文治元(1185)年 12 月 15 日付け北条時政請文:高野 山領には 兵 粮米の拠出を免除する[37]。 ひようろうまい 文治 2(1186)年 ・4 月、荒川荘の百姓が田仲荘の佐藤能清[西行の甥]らの乱妨を訴 ・文治 2(1186)年 4 月 28 日、田仲荘預所(荘官)佐藤能清 ぶん ち よしきよ ぶん ち さ とうよしきよ (後鳥羽天皇) える[11-7・13,34]。 の使者/吉沢丸が荒川荘に狼藉、作麦を支配する[37]。 ろうぜき (鎌倉時代) ・4 月 15 日付け高野山住僧等訴状:田仲荘の佐藤能清の使者/成 ・5 月付け高野山住僧 273 人解(上申)状:田仲荘佐藤能よしきよ 貞丸が所従数十人にて荒川荘へ乱入する[11-1,13,34]。 清による荒川荘北堺への濫妨を停止されたい。源頼朝 ・4 月 24 日付け荒川荘百姓言上状:田仲荘の佐藤能清の弟や長明 が外題安堵する[11-1,34]。 げ だいあん ど らが多数の軍兵にて荒川荘に討ち入り放火、殺害するため荒川荘 ・5 月付け荒川荘北堺、寺解(金剛峯寺から官庁に提出じ げ 住人らの居る所がない[11-1,13,34]。 した文書):荒川荘平野蔵人光時により田仲荘佐藤能清 ・4 月 28 日、田仲荘領所(荘官=代官)佐藤能清の使者/吉沢丸が狼 らの乱妨を平定する[11-7,34]。 藉、荒川荘の作麦を制す[11-1,34]。 ・5 月 20 日付け高野山金剛峯寺解(上申)註文:荒川荘 ・5 月 10 日付け掃 部 頭/中原親能書状:荒川荘のことにつき高野 北堺の 定 使が鎌倉政所へ出立する[11-7,34]。 か もんのかみ ちかよし じよう し 山のこと、更々疎かに致していない[11-1,34]。 ・文治 5(1189)年 10 月 22 日、僧/印盛が荒川荘の畠 300 歩を米 3 石 3 斗にて菅原国友に売る[11-3,34]。 文治 6(1190)年 ・4 月 11 日、「建久」に改元。 建 久 3(1192)年 ・3 月付け後白河院庁下文:吉仲荘は法成寺領(藤原摂関家領)であ ・3 月 13 日、後白河法皇、崩 66 歳。 けんきゆう (鎌倉時代) る[京都臨済宗大徳寺文書,鎌倉遺文 584 号,24,34]。 建 久 4(1193)年 ・2 月付け荒川荘、奥盛景没官田支配帳: 名 田畠 19 町 8 反余を けんきゆう みようでんばた (後鳥羽天皇)ご と ば 所有する荒川荘小林村の前公文奥盛景一族が、年来対立しているおくもりかげ (鎌倉時代) 今季の検注使/下司平野重家、及び郎従二人を軍兵にて殺害した。ひら の しげいえ
奥盛景と一族を荒川荘から追放し、その没収田 19 町 8 反余を高野 山検校・領所(荘官)ら寺僧 280 人に分配す[11-3,20]。 建 久 8(1197)年 ・1 月 17 日付け守護代/少刑部真清免状:荒川荘への御家人役、 ・8 月 19 日付け源頼朝御教書:高野山領は大番役の催 けんきゆう さねきよ 新事粮料を免除する[11-1,13,34]。 促を停止とする[11-8,34]。 建仁 2(1202)年 ・5 月 13 日、高橋末貞が荒川荘 上 村にある田地を負物(借金)代と ・今から 800 年程前(1,201 年頃=平成 13(2001)年現在)、こうのむら ふ ぶつ して(高野山)北室阿闍梨へ渡す[11-3,34]。 上 村は後の加和村・賀和 野田原村神縄掛の高台に野田原八郎(平野八郎)が館を こうのむら かんじよかけ 村をさす。・賀和村は山の傍にあり、古絵図に川村とありて古の紀 構えたことから城ノ段(通称ジョンダ)と呼ぶ[中西晃氏:野 ノ川この辺を流れし故か[6] 加和村の地名起源。 田原の伝承]。 建仁 4(1204)年 2 月 3 日付け僧/得仁常地賣券:荒川御荘小角垣内にあ けんにん を づねかい と (土御門天皇) る田地 180 歩を玄米 2 石 2 斗にて鐘王房に売る[11-5,34]。 つち み かど (鎌倉時代) ・2 月 20 日、「元久」に改元[21]。 元 久 元(1204)年 ・6 月付け紀伊国符(通達)案:荒川荘の田畠 48 町・分米(年貢米)14 ・7 月付け金剛峯寺所司(寺務を司る僧)申分(申立て): げんきゆう (鎌倉時代) 石 4 斗[11-7,34]。 日前宮の課役を要求し紀伊国司が荒川荘に乱入する ・7 月付け金剛峯寺所司等解状(上申):荒川荘など高野山領に対す [11-1,34]。 る造内裏役を免除されたい[11-1,34]。 建永 2(1207)年 紀伊国符(通達)案:造伊勢神宮役夫工米(人夫に給与する糧米)は荒 けんえい く まい (鎌倉時代) 川荘 48 町への分米(年貢米)を 11 石 4 升とする[11-3,34]。 建 暦 3(1213)年 ・12 月 6 日付け荒川荘没官領支配状:殺害人/行俊の所領 1 町 1 けんりやく (鎌倉時代) 反を金剛峯寺が没収する[11-7,34]。 建保 4(1216)年 ・3 月 2 日付け右衛門 権 佐/藤原頼資書状:荒川荘に対する修明 ・11 月 28 日、僧/仁 澄 が荒川荘西境に在る畠地 1 反 けんぽう ごんのすけ よりすけ にんちよう (鎌倉時代) 門院(後鳥羽上皇の後宮)の熊野参詣雑事は免除されている[11-1,13,34]。半を高野山 教 蓮房へ去り渡す[11-3,34]。 ぎようれんぼう 建保 5(1217)年 ・12 月 10 日、紀末国が荒川荘小中島の荒野 1 反 60 歩 を負物代のため浄円房へ去り渡す[11-3,34]。・荒川荘小中 (鎌倉時代) 島とは石榴川か紀ノ川の川原に出来た島か。 ・建保 7(1219)年 4 月 12 日、「承久」に改元[21]。